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2009年12月29日火曜日

個性で考える

2009年の11月中旬から始まった「即戦力ITコース」。12月25日に年内の講義が無事に終わった。考えてみれば、今年の初めから精神障碍の世界に猛烈にアプローチして、ほぼ自分の思い通りに運営できる「ITスキル」の講座を持てるようになった。

いや、別に「自分、よくがんばった」ということを書きたいワケじゃない。まぁ、もちろんがんばった点もあるんだけれど、それ以上に出会えた方々のご協力に感謝する一年だったと思う。運や縁にも恵まれていたと思う。で、今年は「走り始め」というところもあったけれど、来年は圧倒的な「発展」の年にしたい。

そんなワケで、とにもかくにも今年の講義の全6回が終了。そのうち2回はパソコンが間に合わなくて座学だったから、パソコンが使えるようになった状況から数えればたった4回。それでWord→Excel→Eメール→画像加工→ビジネスメール→ホームページ作成まで到達したのだからすごい・・・というか、だいぶ過酷だったかなと思う。

ただ、「一般的なパソコン教室」を期待していた受講生については、期待を裏切ってしまったかもしれない。でも、申し訳ないんだけど「テキストがあって第一章から最終章まで丁寧に教えてくれる講座」なんて最初からやるつもりはなかった。だったら、そのあたりのパソコン教室に通っていただきたい。そういう目的なら、ちょっとネットで調べればいくらでもある。

「即戦力ITコース」という講座名に注目してほしい。「パソコンを使えるようにする」ことが目的ではなく、「ITエンジニアとしてやっていける」ことが最終目的の講座だ。もちろん、その課程として「パソコンが使える」ようになるというだけの話だ。

そういう意味で最終的な目標は高いのだ。もっとも、そこに到達するまでの実践では「低いハードルを何度も飛ぶ」ということを繰り返すわけだが。

だから「一般的なパソコン教室」と思われたくはない。ITエンジニアを目指した人が、どうやってその業界に入っていったのか・・・という入り口を教えるのが本コースのミッションだ。

だから、最初は世の中にある幅広い技術を「知る」ことが大事だ。「学ぶ」ではなく「知る」こと。その中で自分にフィットした分野があったとすれば、「知る」→「もっと知りたい」→「学ぶ」に進化するわけだ。

私にできることとできないことは明確だ。「知る」→「もっと知りたい」→「学ぶ」という部分において、どのようにすれば効率的に結論に近づけるのか・・・という方法なら教えることができる。

でも「もっと知りたい」という気持ちだけは私にはどうすることもできない。湧き上がってくる好奇心がなくては「もっと知りたい」には到達できないのだ。

だから「座っていれば最初から最後まで教えてもらえる」なんて、なまっちょろいコトを言っちゃいけない。「教えてもらう」という受け身の姿勢なら、最初からやめておいた方がいいと思う。

私は正直なところ「ITの講師」なんかではない。どちらかというとITエンジニアの世界の入り口まで導くコーディネーターだと思っている。

だから「些末な技術」なんてほとんど教えない。その代わり徹底的に「自己解決力」を高めることに力を入れている。そして「好奇心」の広がりを体験してもらうことにも主眼をおいている。

猛スピードで講義をすすめた理由もそこにあるのだ。WordやExcelを短期間に徹底的に学ぶ必要なんてまったくない。私だったら眠くなって寝ると思う。だって決まり切った教科書というレールの上を走らされていたら、自分自身の動機が希薄になっちゃうから。

そうじゃないんだ。最終的には「好奇心」というエネルギーが一番大事なのだ。重複になってしまうが、こればっかりは私にどうすることもできない。受講生自身がどうにかしなくちゃいけないことなのだ。

だから私は「好奇心」を探すためにいろんなフィールドに受講生を連れ出す。そこで気に入ったフィールドを見つけて「好奇心」を高めてほしい。その「好奇心」の後に「好奇心の欲求を満たすいろんな方法」を教えるという方針だ。

全6回の講義を急ぎ足で駆け抜けたが、実はおもしろいことに気がついている。ExcelやWordでつまずいてへこんでいた人が、画像の加工編集となると妙に熱中したりしている。これこそが私の狙いだ。

みんな一律同じスキルを身につける必要なんて全くない。まずは自分の好きなフィールドを見つけること。そして「自らの好奇心」でさらに「できること」を増やしていくこと。そしてそれを仲間で共有すること。

仲間を引っ張ってあげたり、仲間に引っ張ってもらったりしながら、お互いの苦手分野を埋め合っていく。これが社会の仕組みなんだと思う。この本質に気づくことができれば、自然と社会で働くことができるようになるんだと思う。

どうせ働くなら楽しく働いた方がいい。楽しくなくては何事も長続きなんてしないから。そういう意味で、私の講義に「つらいけど楽しい」とついてきてくれる受講生には本当に感謝している。彼らを絶対に幸せにしたい。

2009年12月25日金曜日

戦っちゃいけない

「戦っちゃいけない」という言葉を最近よく聞く。正直なところ私にとって耳の痛い言葉だ。誰か優れた人がいるとその才能がまぶしく見えてしまう。そしてその足下に追いつけるくらいまでには努力しようと思ってしまう。20代だったころは実際にそういう悔しい気持ちをバネにして多くのことを学んだ。しかし問題は最近になって多方面で優れた人を多く見かけることだ。

経済のプロ、交渉のプロ、メンタルケアのプロ、英語のプロ・・・それぞれにまばゆい光を感じてしまう。しかし、その人たちが必死になって積み上げてきたものに追いつくことは不可能だ。たとえばプロが20年かけて蓄積した経験知を1年で習得することは無理だ。精神論的には「この世に不可能はない」と言いたいところだが、この願いについてはファンタジーでしかない。

ただ、逆に私が積み上げてきた経験知についても、もっと誇りとプライドを持ってもいいんだろうと思う。もちろん私の職域において私より優れた人間は星の数ほどいるわけだが、それをいうなら私がうらやましく感じている「隣の芝」だって同じだ。スキルの高さも大事だが、そのスキルを使って何を成し遂げるのか・・・という点が大事だと思う。

最先端の医療技術で難病を治す医師も大事で、離島をかけずりまわって島の健康を守る医師も大事だ。医療というスキルを活かして紛争地帯まで赴いて負傷者の救護にあたる医師もいる。同じ「医療」というスキルには違いがないが、そのスキルにプラスして「何を成し遂げたいのか?」という想いが人生を形成するんだと思う。

適材適所というとどうしても組織論というか、「会社」の中だけの狭い話のように思えてしまうかもしれないが、本当は「社会」に対して適材適所という考え方が必要なんだと思う。ハケンという立場を辞め、これからまた一人で社会の中を泳いでいくわけだが、常に自分自身に問うことになるだろう。自分はどこで誰のために役に立てるのだろうか?・・・と。

自分が活躍して喜んでいただけること、そして自分にないスキルを持つ人と経験知を融合して新しい価値を作ること。これが大事なわけで、自分にないスキルをうらやんで勉強を始めるというのは微妙に筋違いなのかもしれない。もちろん基礎的なラインを学ぶことの価値までは否定しないが、自分のメインスキルでない限りは「隣の芝」を追求していちゃいけないのだろう。人生、そんなに長くない。

せっかく自分と違う領域の人に会えたのに、そこと同じ領域を目指したところでその人を超えることはおそらくない。それに、できたところで領域がぶつかるだけだ。無駄に戦わずに共存できる道を探ることが大事なのだと思う。残念ながら今の私はそれを実現できていない。しかし、いつか異業種とのコラボレーションを楽しめる自分でいたいと切望している。きっとできるはずだ。

2009年12月21日月曜日

優しい&悔しい

「優しい」というのは決してほめ言葉ではない。すごく残念なことなのだが、私は投資会社の人やら、すでに会社を創っている社長によく「それでもまだ優しいような気がするんですよ」とか言われる。さすがに自分なりにも、この言葉はマイナス方向の言葉だということは気づいている。要するに「甘い」ということだ。「情に流されている」という意味も含んでいるんだろう。

局面に応じてクールに判断できない人間は経営者をやるべきではないというメッセージだ。資会社など金融系の人たちは「非情と言われようが冷徹に判断できる人」を好む。実際のところそういう経営者こそが実績をあげてきたからこそ、それが常識になっているのだろう。別にそのこと自体には不満はない。冷徹な判断を下すことも必要な資質だ。

私がNPOの講師をやっていることについても批判がある。ボランティアやら慈善事業に手を出してはロクなことにならないという話だ。どれだけ言っても言葉が相手に届かないのが残念なのだが、決してそういうつもりではない。悔しいのは目的がありながら、知らない領域が多すぎるという点だ。率直に書こう。私の力不足でもあるし、知識不足でもあるし、経験不足でもある。

「本音ベースで夢を語ってください」と言われ、本音ベースで私の夢を語ると「当然、それに対する答えを持っているんでしょう?」と聞かれる。「どこが問題点でどのように解決すべきか・・・という部分までもちろん考えているんですよね?」・・・と聞かれる。これに対しても本音で答えれば、そんなのあるわけないじゃないかということになる。

私に考えが足りないことは率直に認めている。想定範囲もきわめて狭いのだろう。それも薄々ながらイヤというほど気づいている。しかし、その先まで見えていることを求められるのはなぜなのだろう。もちろん戦略というのは必要だろう。しかし、その戦略というのは戦術レベルでの経験知によって構築できるものがあると思うのだ。仮想の上に仮想を重ねて戦略を重ねるとウソになることもあると思う。

ちらっと話をすると「じゃあ、話してごらん。私が聞いてあげるから。」というシチュエーションになる。ああ、やっぱりそうですよね。上から目線になっちゃいますか。単純に批判することほど簡単なものはない。一から考えるよりもアラを探して崩す方が簡単だ。むろん、そこで貴重なご意見を真摯に受け止めて改善に努める・・・という気持ちは大切だ。しかし、本音で言えば実にやっかいだ。

意見に対して「その通りですね」と答えれば、「他人に言われて簡単に意見を変えるようなら価値がない」なんて話になる。意見に対して「それはこう思うんです」なんて反論すれば、「もっと率直に意見を聞くべきだ」なんてことになる。「なるほど、それは参考にさせていただきます」なんてお茶を濁しても「それって、本当に考えてます?」なんて言われてしまう。なんなんだよ、それって。

自らの未熟を意識しているからこそ、未熟なうちに本音を書いておきたい。正直ずるいね。特に「その分野、よくわかんないけど、たぶんそれは無理だと思う」っていう発言とかね。ただ単に感想を言ってるだけじゃないか。なんでよく分かんないのに正解の提出を求めるんだろう。そもそも話す相手のすべてが納得するような正解なんてあるんだろうか。なんで、みんな本音を言わないんだ。「やってみなけりゃ分からない」って。王様の耳はロバの耳だ。

テクニックらしきものはいろいろとあるらしい。必ず断定形でで言い切ること。ハッタリでも自信満々に主張すること。なるべく専門用語で煙に巻くこと。数字を持ってくると説得力が増すこと。なるべく派手な働きかけを入れておくこと。たとえば政治家に対する交渉だとか、学術研究機関が絡んでいることを匂わすとか。夢を買ってもらうのだからそれくらいはするのが当たり前・・・なのか?

でも、なんだか、私からみると「なんでそれで納得するんだろう?」と思う。夢を語ってみても「そんなこと、できるわけないじゃないか」の大合唱だ。でも、これだけは言いたいのだ。上から目線で他人の批判ばかりをしているヤツよりも、無責任に飛んでくる矢を受けまくっても前進しているヤツの方が、必ず何かをつかめるってことを。そうじゃなきゃいけないと思う。さすがにさ。

2009年12月16日水曜日

夢を叶える

「即戦力ITコース」の講義を始めて4回目。1週間に1度なので、4回目といっても1ヶ月たっている。これが毎日だったらもっと先に進むんだろうけど、「自分で考える」ということを主体に置いているので、たぶん毎日やったらキツイかもしれない。

さすがに受講生から「きついきつい」という意見も出はじめた。それはそうだ。私の講義は「ゴールを自分で考える」という場面が多い。自分で考えるということは大変なコトなのだ。今はキツイかもしれないが、自分で考える力を全面に押し出せていけない限り「だから精神障碍者は・・・」という企業側の雇用ハードルはなくならないような気がしている。

それはなぜか。「精神障碍者」=「指示待ち族」という図式ができているとすれば、それは企業にとって重荷になりやすいからだ。実際に働いてみれば分かるはずだが、「指示を出す」とか「仕事を与える」ことそのものが「仕事」になるわけで、指示だけを頼られてしまっては「重荷」でしかない。特に頭脳労働においては。

本質的に「精神障碍」というのは「考えられない病」ではない。特定の環境や状況下において、精神的な部分を源とした耐性が低めであるということだ。もちろん精神障碍には知的障碍を伴う場合もあるので、そのあたりまで言及すると一概には言えない部分もあるのだが。

そのような点を踏まえ、すべてがすべてではないにせよ、精神障碍の当事者の中には「自分で考え」「意見を提案し」「自分で実行」を実行できる人はいる。確実にいる。それは断言してよい。いわゆる健常者でも「指示待ちなヤツ」もいれば「アイデアマン」もいる。精神障碍でもたぶん同じだ。

私の講義はすべて「○○をしてみたい」から始まっている。だから、教室に来て座っていれば勝手に教えてもらえるというスタンスではない。自分から新しいことに挑戦して「○○がしたい!」という強烈な欲求に対して、どうすれば自分のその欲求を満たせるかどうかを教える。

だから、私の講義は「まるで遊びみたいだ」と言われることもある。そう思ってもらえるのであれば、私の試みは「大成功」だ。仕事でもなんでもそうで「楽しい」と思えれば勝ちだ。時間をもてあまして無駄に眠くなることもなければ、どうしたらもっとよくなるか・・・という思考によって、仕事の質もよくなる。

仕事も「遊び」みたいなものなのだ。楽しんでできれば必ずいい効果が上がる。もちろんその枠組みの中で「きついきつい」と言われがちな「ざっくりとした指示」も出す。それは、わざとやっているんだから「きついきつい」と言われても、それはやめるわけにはいかない。

だって就労したいから、貴重な時間を削って講義を受けているんでしょ?・・・と。私だって収入大幅ダウンを覚悟して講師をやってるんだから、ちゃんと就労してもらわくてはやっている意味がない。もちろんその先に描いている夢もあるんだけど、ともかく今は就労を成功させること。そしてその就労を楽しめる精神的土壌を作ること。これが今の私のミッションだ。

ただその代わりどんな成果物ができても怒らないし、物理的な疲れについては頻繁かつ少し長めに休憩時間も確保している。また、どんな愚痴にでも徹底的につきあうつもりだ。だから「講義でキツイと思ったら、いくらでも愚痴を聞きますよ。いつでもご遠慮なくどうぞ!」と、よく言っている。

基本的に講義の大枠の方針は変えないんだけど、「なぜ、つらいことをするのか」を伝えて、納得してもらえると一様に表情が明るくなる。それが大事なんだと思う。たとえば、最初の講義で作ってもらった「夢」の紙に、「今まで自分が知らなかったことができるようになっている」と描いていた人の愚痴を聞いたことがある。

「講義のテンポが早すぎてついていけていないような気がするんです。今までと違って分からないことだらけになってきて不安です。」という愚痴。だけど、実際にMS Officeで作ってもらった成果物を見ていると、いろんなところにイラストも入っているし、レイアウトや文章もしっかりしている。

「これ、講義を受け始めた頃からできましたか?」と聞いてみたら、首を横に振って「いいえ」と一言。

その通り!

確実に「できること」の領域は広がっているし、イマジネーションを現実化させるための選択肢も増えているはずなのだ。ただ、新しいことをたくさん始めれば「知らないこと」でいっぱいになる。だから「不安」にもなる。それは未知の領域でがんばっている証拠なのであって、不安な気持ちになることは至って健全な反応だ。描いた夢のとおりになっているということに気づいてほしい。

私は受講生のみんなが描いてくれた「夢」の紙(のコピー)をいつも持ち歩いている。そして、叶えられそうな夢があったら、どんなに些細なことでも少しずつ叶えていこうと考えている。「夢は叶ったら終わり」ではない。夢が叶うと必ずそれまでの夢を上回る夢が生まれるからだ。新しい夢が生まれたらそれをまた追いかければいい。

「夢」ありきで始める「IT講義」があってもいいと私は信じている。どんなに便利で優れた開発ツールがあってもアイデア(=夢)がなくては何も作れない。テクニックだけがあっても、感情を伴うイメージがなくては何も生み出すことはできないのだ。ここを大切に考える人材を全力で育てたいと思う。

2009年12月9日水曜日

潜在能力を信じる

驚くほどに時間の経過が早い。先週、講義をしたかと思ったら、また明後日に講義だ。

先週は即戦力ITコースの3回目にして、いきなりWordとExcelを使ってもらった。あまりの急展開に受講生の半分くらいが軽く混乱。しかもその教え方が荒いのだから、まぁ、正直、受講する立場からすれば、たまんないだろうな・・・と思う。でも実は意図的にやっている。

たぶんね、WordとかExcelとかをやるんだったら、大上段から難しめの講釈から入って、そしてひとつひとつの機能解説から入って・・・というのを期待されていると思うんだ。でも、そういうのを期待するのなら、そこらへんのパソコン教室に行けばいくらでもある。それと同じコトをするために、私はわざわざ「即戦力ITコース」なんて開講しない。

まず、「WordとかExcelに過剰な期待を持つな」ってこと。だって道具だよ。ただの道具。これに数ヶ月・・・なんて、目指す山を高くしすぎなんだと思うよ。もちろん高い山は登り甲斐があるかも知れないけどさ、やたら時間と体力を使えばいいってもんじゃない。そうじゃなくて小さい山をいくつも登った方がいいんだと思う。

だから「この高い山の先はまだまだ先だ。さぁ、みんな、へこたれるな!」なんてことは最初からやる気がない。ハードルの低いモノを高そうに見せるのは、商業的にはアリなんだと思うけど、こっちは金儲けでやってるワケじゃないんだ。少なくとも「就労移行支援」単体ではお金儲けを考えていない。

とりあえず希望に近いところに就労してもらうことが目的だし、就労した後に苦労しないようにしておきたいだけだ。だから、就労した後の困難を乗り越えるための「自己解決力」を徹底して教えている。「自己解決力」というのは「状況分析能力」と「情報収集能力」と「行動発想能力」の足し算だ。

「自分は何をすることが必要なのか?」を知り、「どうやって情報を集めていくか?」を考え、「どのように対処していくのか?」とまとめる能力を必要とする。その能力を磨くために必要と思われることを、現時点においてすべて行っている。「教え方が荒い」というのも、それが大きな理由なのだ。

「[スタートメニュー]から[プログラム]を選んで[Microsoft Office]を選んだ後に[Microsoft Word 2003]を開いてください。」なんて指示はしない。「Wordを開いてください。」といきなり言い放ってしまう。「知っている人は教えてあげてください。分からない人は仲間に教えてもらってください。」と言うだけだ。それでちゃんとどうにかなるのだ。なってもらわないと困る。

精神疾患の当事者には「できるだけ具体的な指示を与えてください」なんて指導されやすいこの業界(?)からの常識(??)なんてどうでもいい。そんな常識に縛られているから「精神障碍者は使い物にならん」なんて、企業側から言われてしまうのではないかと密かに思っている。

私は精神疾患(鬱)を16歳から罹患しながらも、IT業界で人並み以上の能力を発揮している人を知っている。いろんな難題が降りかかってくる部署でいろんな応用力や機転を利かせ、圧倒的に大きな存在感をもって仕事をしている。彼が突然いなくなったらたぶんその職場は大混乱を起こすと思う。

こういう優れた人材は私の職業人生でもけっこう出会ってきた。実際に精神疾患を抱えながら、企業でバリバリ仕事をしている人はかなり多い。技術屋の領域で自ら起業している人すらいる。彼らに共通するのは自己解決力が非常に高いことだ。かなり抽象的な指示や課題に対しても適切に対応している。

「精神障碍にもっと理解を」と言っている就労支援組織には、企業の実務を知らない人が案外多いような気がする。そして、バリバリ働いている当事者のこともあまり知らない。それは就労支援組織が悪いのではない。普通に考えて、バリバリに就労している当事者と就労支援組織との接点は少ないだろうからだ。仕方がない。

そのこともあって、「精神障碍者の人にはわかりやすく具体的に」という「指導の指導」が入ってしまうのだろう。確かにそうしなければならない病状や職業環境もあるだろう。だからその指導方針のすべてを否定するつもりはない。

しかし実社会に出て働いてみると、けっこうアバウトな指示が飛んできたりもする。就労移行支援の講義で「わかりやすく具体的に」を徹底しすぎると、そこのギャップで突然苦しむことになる。企業特有のスピード感にしてもそうだ。ゆったりした講義に慣れすぎると企業のスピード感についていけない。

ぬるま湯から熱湯に放り込むのはある意味で残酷だ。熱湯と言わないまでも実社会と近い程度の温度を事前に体験しておくことは重要だ。私の講義はシンプルさの割に、実はハードルが高い。なぜなら就労した後に体験するであろう出来事をできるだけ講義の中に織り込んで、それをシミュレートしているからだ。

いろんな不満も出てくると思う。でも、私はそのひとつひとつの不満に向き合っていくつもりだ。「不満」というのは一見ネガティブなパワーだが、パワーには違いない。そのパワーの向きを変えることができればポジティブなパワーにもなる。

私は講義自体に「容赦」をするつもりはない。でも「情け」は力一杯かけていきたい。私は受講生の潜在能力を信じている。今は企業から相手にされていなくても、必ず光があたる日が来るのだ。ひとりひとりと向き合ってみんなで勝利をつかみたいと思う。

2009年12月1日火曜日

NHKの障碍者番組

最近はテレビ番組をめっきり観なくなってしまったのだが、その代わり、おもしろい番組についてはビデオ録画している。その中で最近、毎週ビデオに録画してみている番組が「きらっといきる」(NHK教育 毎週金曜20:00~20:30 http://www.nhk.or.jp/kira/)。

NHKに受信料を払っていてよかったと本気で思える良質な番組だ。むしろNHKはこれしか観ないから、この番組の視聴料を払っているようなものだ。

この番組のすごいところ。
それは「障碍者に対する変な憐れみがない」ということ。

最近の番組に多いのが「障碍を持っているのにこんなにがんばりました・・・出演陣の全員が涙で感動」というパターン。「たしかにスゲーよなー」と思う人たちが紹介されたりするんだけど、「感動物語」となるといくらか微妙だ。

上から目線で「はい、よくがんばりました」的な気持ち悪さを感じるのだ。だからゲストのコメントでも「障碍を持っているのにすごいですよねー」という結論になっちゃう。

たとえば私はITエンジニアとして生きるために、記憶力やらなんやらという自分の弱点を補う方法をいくらか研究した。そこで仮に「記憶力がたいして良くないのに、そんなに努力するなんて感動しました」なんて言われたとしてもちっともピンと来ない。生きるために必要だったからそうしただけだ。

でも、この番組ではそういうヌルイ意見があまり出ないところがイケている。

たとえば脳性麻痺のお笑いコンビが「僕たちは芸人ですから笑ってほしいんです。障碍者の努力の姿に感動した・・・なんて泣いてほしくない。」などと言っていた。しかし、その翌週の番組で健常者から寄せられたお便りがステキだ。

「泣かれるのがイヤなら芸を磨いてほしい。あなた方は芸人の世界をナメすぎている。人様に笑えない程度の芸を見せて笑ってほしいと頼む姿勢そのものが甘い。芸が陳腐だから笑えなくて泣くしかないのだ。そこに障碍者という言葉を持ってくるのは、あなた方ご自身が障碍にもたれかかっている証拠ではないのですか?」

手厳しいがその通り。そういうお便りが届くのもすごいが、それを番組で正直に紹介してしまう制作姿勢もすごい。率直に感心した。

そのお便りに対して司会者自身も「私は正直な気持ちとして、今、反省しています。私自身も『障碍者』という視点で評価にゲタを履かせていたと思います。正直、お笑いとして純粋に内容を評価すると、まだまだだったと思います。もっとがんばってほしいですね。」と発言してしまう始末。

しっかりとその後のフォローもしている。その二人組のお笑いコンビにちゃんとそのお便りを届けていた。そのコンビは、その意見を踏まえてもう一度「お笑い」に対して最初から取り組み直すんだそうだ。

ちなみに、しばらくは「障碍者ネタ」も封印するんだそうだ。個人的な意見だけど、そこまでやっちゃうともったいないと思う。障碍者という現象がネタ(武器)になるのなら、それはそれで有効に使った方がいいと思うんだけどね。健常者の芸人だって、自分の借金とか離婚までネタにしちゃう人がいるくらいなんだから。

似たような芸風で「ホーキング青山」という芸人もいるけれど、彼くらいにまで突き抜けてしまえば笑える芸人になれると思う。ただ、彼のステージは最高におもしろいんだけど、たぶん放送電波には乗せられないところが弱点なんだけど。トークの8割が「ピー」で消されるだろうから。

この番組の画期的なところは他にもある。脳性麻痺の人をコメンテーターとして常に出演させている点だ。脳性麻痺の程度によっては言葉が話しづらくなる。だから慣れていないと聞き取りづらいこともあって、残念なことに後ろ向きなイメージが定着しがちだ。

実際にはそういうことはなくて論理的な意見に長けている人が多い。でも、脳性麻痺の人に会える機会というのは、普通に生きているとなかなかない。しかし、このように番組でそういう人をコメンテーターに抜擢するというのは画期的だと思う。この人が出演しているおかげで「上から」感が薄れるのだ。

個人的にも助かっていて、昔、聞き取りづらかった脳性麻痺の発音特有のヒアリングがだいぶ楽になった。よく聞き取れなくて「すんません、もう一度お願いします。」と言わなくて済むのはやっぱりラクだ。何度も聞き返すのはやっぱり失礼なような気がするし。

他にも、生活費やら助成金の細かい金額についても公開する懐の深さもいい。そういう現実のデータを知りたいと思っても、当事者にはなかなか聞きづらい話だったりするから。また、多彩な障碍について取り扱うので障碍者の種類を適切に把握するための教科書的な番組といえそうだ。

全体的に明るくて前向きな番組作りにも成功していて、観ていて心理的に辛くなるようなことも少ない。今後もこの番組には注目したい。

2009年11月29日日曜日

燃える!即戦力ITコース

11/27の金曜日は、精神障碍の当事者が、ITのスキルをきちんと自分で習得できるようになるようにするための「即戦力ITコース」の二回目。なんとか事前に自分で決めておいた指導項目も全部達成。

ただし、このコースは「ITを教えるコース」ではない。正直に言ってしまうとそれよりも、もっと本質的なことを身につけるコースだ。もちろんITに絡む知識も教えるのだが、それよりももっと大切なことは「自分で解決する能力」だ。そして想像力。これなしではITエンジニアにはなれない。

第一回目は納品が間に合わずにパソコンなしでの講義になったワケで、いくらなんでもパソコンのない講義は「しまりがないなあ」なんて思ったのだが、さすがに第二回目にはパソコンが間に合った。

パソコンがあると実は前準備が面倒になるのだけど、そこは優秀なスタッフがサポートしてくれるので非常に助かる。前準備が必要なことは分かっているのだが、講義の開始前は正直それどころではない。

実は講義を始めるギリギリの直前まで、頭の中でベストな講義内容のイメージトレーニングしていることもあって、私の頭の中のほとんどの注意力とか集中力、それから想像力はちょっと先の未来を向いている。

昨晩まで考えた講義の進め方以上に、パフォーマンスを引き出す方法はないのだろうか・・・なんて考えて続けていたりする。すると、ふっと天から新しいアイデアが降りてきて、急遽、そのアイデアに切り替えることもある。

当初、ビデオ教材でも作って見てもらおうか・・・という構想もあったにはあったのだが、やっぱりそれじゃだめだ。「ライブ」の楽しさや緊張感があった方がいい。

だから、先日までに練りに練り込んだ講義方針があっても、受講生のみんなの興味が向かう方向や得意分野を見つけたら、すぐによりよい方向に軌道修正をする。それがライブだ。楽しさとか興味、好奇心が人を伸ばすのだと思う。少なくとも私はそうだ。

さて、二回目の講義は私が考えている講義の中ではもっとも重要なことを行った。それは「夢」をA4の紙にフリーレイアウトで描いてもらうというもの。そしてそれを、みんなの前でプレゼンテーションしてもらうのだ。

「何のためにこのコースを受講しているのか」という目的がはっきりしていることが必要で、自分自身の目標を忘れないように書くこと。そして他の人はどんな目的で受講しているんだろう?・・・ということを知って刺激を受けることは重要だと思う。

これを書いておくと、何かでくじけそうになったときに、自分自身の支えになる。初心ってそれくらいに大事だ。

フリーレイアウトというのも私が意識したことだ。決してフォーマットを作るのが面倒だからとかそういう理由はない。いや、面倒だからというのは多少あるか。まあ、面倒でも効果があるなら苦労してでもフォーマットを作ろうと思うけど、フリーレイアウトの方が効果が高いと思う。結果的には「ラクして最大の効果」という選択肢に落ち着いただけともいえる。

誰かが決めたフォーマットというのは見る側にとってはラクだし、場合によっては書く側にとってもラクかもしれない。しかし、フリーレイアウトでなくては分からない情報があふれていると思う。主張したい気持ちの表現方法、レイアウトのうまさ、イラストのうまさ・・・などなど、想像力やセンスのような要素がたくさん垣間見える。これが彼らにとっての現在の資産なのだ。

ちなみに、この「ラクをする」という発想は私の講義の中では大きな軸になる。受講者には「ラクをする」という「戦術」を身につけてほしいと思っている。「ラクをする」というのは「怠ける」という意味ではない。いや、多少は恩恵として「怠ける」があってもいいと思うくらいだが。「ラクをする」ためには頭を使わなくてはいけないのだ。

安易にラクをしようとすると、後で余計に大変なことになってしまって「ラク」じゃなくなる。だから、先を見据えて考えることが要求される、それなりに高度なテクニックだとも思う。

もうちょっとキレイな言い方をすれば「行動分析」と「効率化」ということになる。工夫しないと数十時間かかることを数分でできるようにする。面倒だったことを簡単にする。これがもっともシンプルな意味での「IT」だと私は思う。

さて、みんなに作ってもらった思い入れのたっぷり詰まったたくさんの紙。これが最初の青写真。これから、WordやらPowerPointやらを使って、もっともっとキレイな文書に変わっていく予定だ。

そしてキレイな文書に変わっていく過程の中で「夢」とか「目標」そのものが変化してもいいと思う。むしろ新しい目標の選択肢を見せていくことは、このコースの講師としての私の使命でもある。

ちなみに、私は、一日でWordの基礎を終わらせようと考えている。Wordに時間をかけてはいられないのだ。別にWordの講義をやりたくないという理由ではない。いや、多少はあるけれど。だって、この先、もっともっと楽しい世界が待っているのだから。

そういう楽しい世界を見ておいた方がいいと思う。ただ単に機会に恵まれなくて知らないだけだったらもったいない。よく、WordやExcelを最終目標に設定しちゃうことがあるけど、私はしない。WordのためのWordの講義なんてつまらないでしょ?

基本をさらっとやったら、後続の講義の中で必要に応じて実用で使ってもらうつもりだ。ExcelやPowerPointもそうだ。学ぶために学ぶのではなく、使うために学ぶのだ。本当に使うか使わないか分からないような機能も含めて、テキストの最初から最後まで覚え込まされるなんて、私だったらNo Thank youだ。つまらなくって講義中に寝てしまう。

たとえば、「文字を大きくしたい」、「色を変えたい」、「図形を描いてみたい」。こんなものは誰かから「1から学ぶ」ものじゃないと思っている。ただ「やりたい」とか「こうしたい」という気持ちがあってはじめて必要になるのだ。

だから、必要なら必要なその時に覚えてしまえばいいと思う。受け身ではなく「気持ち」とか「欲求」という形で自分の中からでてきた好奇心を満たすことが大事だ。さあ、お楽しみはこれからだ。

そういえば他の週も担当しているスタッフから、「こういう講義というのは、翌週から少しずつ人数が減ったりするんですよね。」と聞かされていたので、「今回はちょっとはラクができるのかな?」と思っていたら、なんと今回は前回を上回る人数になってしまった。

想定して準備していたパソコンの台数が足りなくなってしまうほどの大盛況。私に期待してくれているんだな。ありがたい。そして私も彼らに期待しているんだけどね。

お互いが幸せになれる講義をやっていきたい。


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◆ご参考までお問い合わせ先◆

NPO法人NECST 就労移行事業
障碍者就職サポートセンター「ビルド」

〒272-0034
市川市市川3-28-5-201
047-320-0345

「即戦力ITコース」は金曜日のみとなります。

もし、ご興味があったらどうぞ。
ちなみに精神障碍の当事者の人が対象「だと思ってます」。
・・・って、講師の私が書いてよかったんだっけな?

ま、あくまでも私が「思ってる」だけということで・・・。
厚労省データで、身体9%、知的7%で、精神0.001%の就労率だもの。
困ってる層からなんとかしましょうよってことで、ここはひとつご勘弁を。

それから、夢を描いただけで講義が終わったワケじゃないので、念のため。
ちゃんとパソコンを使った講義もやりましたとも。


いろんな思いがつまった「夢」の紙たち。※あ、拡大しても内容は読めないようにしてあります。
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2009年11月27日金曜日

OSが生み出す景気

米国Googleが2009年11月19日、開発中のOS「Google Chrome OS」のソースコードを、オープンソース・コミュニティ向けに公開した。必要なドキュメントなどもきっちり含まれているらしい。ブラウザでほとんどの仕事ができるようになる計画だ。

私もその流れが正しいと思っている。実際のところ、今でも私は効率化の恩恵をインターネットから受けている。たとえば名刺管理やドキュメント管理、スケジュール管理などはインターネットの向こう側でデータを一元管理できる「EverNote」を使っている。

日本語変換はATOKを使っているが、辞書学習内容を複数のPCで同期できる仕組みを活用している。これもインターネットを活用しており、自宅用のPCでも現場のPCでもモバイル用のPCでも同じ変換効率を実現できる。

そもそもATOK自体にしても、インターネットを活用して月額300円で(同時利用しない限り)10台までインストール可能なサービスを展開している。

ATOKの課金状況はインターネットを介して確認され、契約状態が正常であればATOKが稼働する仕組みだ。途中でATOKの新しいバージョンが発売されると自動的に最新のものがインストールされる。

ちなみに私は月額版のATOKを利用している。毎年3,600円の支払いにはなるが、毎年新しいバージョンが発表されるたびに迷わなくてよいところが最大のメリットだ。変換効率が毎年進化するのであればそれを享受した方がいいと思う。

もちろん、久しぶりのバージョンアップによる大幅進化の喜びは体験できなくなるが、別にメリットの享受を後ろ倒しする強力な理由はどこにもない。

話が少しそれてしまったが、このようにインターネットがなくては成立しないサービスが、最近ではかなり増えている。逆に言えばインターネットがあれば困らない時代になってきている。

さまざまなことがWebブラウザ上で実現できるようになってきている。だから最近販売されるPCでは、必ずしもWindowsが搭載されているわけではない。標準的機能を搭載するブラウザだけがあればいいのだから。

その一方で、Microsoftが「今後のWindowsの新規バージョンリリースは3年ごととする」との未確認情報もある。未確認であるものの、この情報にはいささか複雑な思いがある。

・新しいOSをリリースすると機能が増えて重くなる。
・OSを買い換えるたびに環境移行に手間がかかる。
・Microsoftのソフトウェアは比較的高価である。

というデメリットがありながら、常にハードウェアの買い換え需要を伸ばしてきた側面がある。つまりOSが重くなればなるほどハードウェアが売れたわけだ。

WindowsXPは発売開始から販売終了まで8年間動き続けた。つまり8年間はハードウェア買い換え需要はほとんどなかったといえる。数年後のWindowsXPサポート終了を見据えてしばらくは、OSの乗り換えでハードウェアの買い換え需要も伸びると思われる。

ただし、3年後に我々が新しいOSを必要としているかどうかは分からない。今でこそ高度な画像編集をはじめとする専門的な作業はローカル環境で行うことが最適だが、もしかするとそのような作業ですらネットワーク上でできるようになるのかもしれない。

数年後、すべてのサービスがネットワーク上で利用できるようになっているかもしれない、そして、安価な月額料金で利用する時代になっているかもしれない。

そうなってくると、OSの選択肢としてWindows以外とする方向性も現実的になってくるだろう。すると、またハードウェアの買い換え需要は今よりも少なくなるのだろうか?

おそらくその鍵は次世代ネットワークインフラの拡張(速度と網羅性の強化)にかかっていると思う。パソコンのあるところから仕事をするのではなく、ネットワークのあるところから仕事をするスタイルになる。

OSに依存しないテクノロジーの進歩は新しい選択肢を与えてくれている。あとはその選択肢を上手に活用した、新しい働き方を模索する時期に来ているのだろうと思う。

2009年11月23日月曜日

本物を目指す

だいぶ思い切ったコトをしたもので、12月末以降はとりあえず無収入だ。こんな不況な時期によくやるよな・・・とつくづく思う今日この頃。無収入というか、まあ、金曜日の講師料があるので「無収入」というと、それはそれで失礼か。

さて、そんな危険な旅立ちを応援してくれる人たちがいる。とてもありがたいコトだと思っている。ただ「自分にリスクが及ばない限りは応援するんでしょ?」とか「君は人がいいから都合よく使われてるだけなんじゃないの?」と心配してくれる人たちも一方でいる。

正直なところ私自身はそんな心配をしていない。私は実のところかなり人間を見る。本当に信用できる人間かどうかは、それなりの時間をかけて考えるタイプだ。そして、一度「信頼できる」と確信できたら、人生をかけてでもその人を最後まで信用することにしている。

第三者を深く信用するということは、自分自身を信用するということに等しい。つまり、そこで何かがあったとしても、それは誰かを信用すると覚悟を決めた自分に全責任があるのだ。

それから、私は本気で「本物を目指せば結果がついてくる」と信じている。おそらく「社会が本当に必要としていること」をまっすぐに目指していけば、それで利益を得る人たちが私の姿を見てくれるのだろうと思うからだ。

私がやろうとしていることが見捨てられたとしたら、それは社会に対して貢献できないものだったということが証明されたにすぎない。誰も利益を得られると感じなかったから、誰もついてこなかっただけの話だ。そういうことに時間をかけても日本はよくならない。

だから、いろんな人が心配してくれるのは嬉しいのだけれど、「裏切られるんじゃないか?」「ただ便利に使われているんじゃないか?」と心配する暇があったら、すこしでも本物に近づくための施策を考えた方がよっぽど自分のためになる。

自分のやろうとしていることを、最近、いろんな人にオープンにして話している。別にパクられても構わないと思っている。なぜなら自分にしかできないことをやろうとしているのだから、他の人がやったところで私の構想どおりにはならない。

別に「上から目線」というわけではない。それを聞いて「自分もやりたい」という人が増えてもいいと思っているからだ。厚生労働省が把握している精神障碍者は300万人以上で、就労できている人数は4000人。単純計算で0.001%。勤労適齢者が総数の3分の1とざっくり考えても0.004%だ。

別にそこに競争原理が不要だとは一切言うつもりはないが、現状では横の広がりで連携できそうなら、そして連携したいと思う相手であれば積極的に連携した方がいいと思う。それくらいがんばってみても、まだまだ就労を望みながら叶わない人々がいる。競合だとかなんとかと言っている場合ではない。

ただ、一方で精神障碍についていえば急激な改善が進んでいることも事実だ。2006年の法改正で法定雇用率に精神障碍者もカウントされるようになったからか、かなり本腰を入れて精神障碍者を雇用する企業も増えてきている。ここ数年でかなりの変化が現れたようだ。

その現象をさらに加速させるべく、私も本物を目指していきたいと思う。

2009年11月21日土曜日

講師活動いよいよ開始

昨日、千葉の就労支援組織「ビルド」での即戦力ITコースを開講した。精神障碍を持った人に本気で必要な「テクニック」を教えていく講座だ。11月から「ビルド」の運営準備局は機能していたものの、まあ、準備なのでさまざまな施設見学に終始していた。

実際の受講者を前にして・・・という意味では昨日が初講義だ。最初から第一回目はオリエンテーションを行うつもりだったのだが、さすがに完全にパソコンなしで始めるとは思わなかったな。パソコンの納品が予定よりも遅れてしまったらしい。

集まってくれた受講者は12名。予想が8名だったからずいぶんと大勢の方が集まってくれた。本当にありがたいことだ。

まずは彼らが「なんのためにITコースに来たのか」を全員に聞いてみた。これが大事。

「即戦力ITコース」自体が目指すべきゴールはもちろんある。

しかし、受講者の「気持ち」を置き去りにして突っ走っても集団としてのゴールには近づかない。

それぞれの受講者の頭の中にはゴールのイメージがあるはずだ。それぞれの人生に、それぞれの価値観に基づいたゴールがある。そのゴールのイメージを集合させて、受講者全員でたどり着くゴールに導くことができれば面白いと思う。

彼らが渇望してやまない就労にしてもそうなのだ。会社にはさまざまな人間がいる。人生の価値観もそれぞれ違うし、それぞれが目指すべきゴールも違う。そういう個人個人が会社の「理念」という旗印のもとで集団としての能力を発揮している。

私の講座ではそれを大事にしたい。みんな違う。得意分野も違う。それをひとつひとつ丁寧に繋ぎ合わせることで、一人ではできなかったようなことができるようになる。「就労成功」というのはひとつの通過点にすぎない。

本当は「就労した後のこと」を考えながら走った方がいいと思うのだ。就労してから自分はどのようなポジションで働きたいのか。自分には何ができるのか。そして人間同士が力を合わせた時にどのようなパフォーマンスが実現するのか。それを実感してほしい。

「即戦力ITコース」自体が目指しているのは、将来、「IT系エンジニアに成長できる人」の種を撒くことだ。「IT系エンジニア」そのものを育成することではないところが、実は私にとって斬新な試みだ。だから初回のオリエンテーションで言い放った。

「私はITに関するすべての知識を教えるつもりはありません。」

たとえば新しい技術を習得しようとした時には、最初の入り口を自力で見つける能力が極めて重要になる。それはもっともシンプルで、かつ、自分にとって100%理解できる入り口を探すことだ。

その基本的な入り口を何度も反復練習し、そこからすこしずつ知識を拡張していくテクニックを重ねることで、自分にとって未知の領域をすこしずつ自分のスキルとして蓄積していくものなのだ。

私はITエンジニアとして、とりあえず十数年ご飯を食べてくることができた。それなりに厄介なことも経験したし、新しいこともさまざま経験してきた。でも、私はITエンジニアとして特別な適性があるわけでもないし、特別な才能があるわけでもない。

ただ、あえて適性と呼べるものがあるとすれば、「好奇心」とか「楽をしたい」という気持ちくらいのものだろうと思う。「好奇心」+「楽をしたい」というスタイルで、結果的にはその時に求められている多くの仕事を達成できた。

十数年、私がやってこられたのは、新しい入り口を探す方法論を自分なりに研究してきたこと。それからそこから得た知識を体系化して、自分なりのマニュアルを作る技術を考えてきたことだ。他人が書いたマニュアルを読むよりも自作することを常に考えてきた。

マニュアルを読むときでも、自分ならどのようにそれを再構成するかを考えながら読む。たいして特別な才能に恵まれたわけでもない私が、それなりに苦労して編み出した多くの「テクニック」に助けられている。それらを彼らに伝授することを考えている。

基本的にそれさえ体得できれば、何か新しいことを学ばなくてはならない時、そこに先生などいなくても自分の力で切り開くことができるはずだ。私はそこをこそ目指したいと考えている。

生きていて一番しあわせなことは、自分の能力が誰か(これを「社会」と読み替えてもよい)のために役に立っていると実感できることだろう。それのひとつの形が「就労」なのだと思う。

ははは。私にだってそういうしあわせを追いかける権利はある。私はここまで私が生きてこられた「すべ」を魂を込めて彼らに受け取ってもらいたいのだ。それで彼らがしあわせな日々に向かって船出をしていく。それが私にとっての純粋なしあわせだ。

もちろんね、この講座で得られた自分なりの貴重な気づきを元にして、別の事業も立ち上げるつもりだ。正直なところ、この講師料だけでは生活していけないからね。自分が干上がってしまっては彼らをゴールまで導けない。

社会変革を本気で起こそうと思ったら、やはり継続性を十分に考える必要があると思う。まだ経営者として未知数な私は「ドンキホーテ」に見えるかもしれない。でも、笑われたって構わない。私は本気で社会の方向性を変えようと思っている。相手がたとえドデカイ風車だったとしても戦ってみせる。

私にとってこの講座をすることは戦いだと思っている。だって悔しいじゃないか。たまたま精神障碍と診断されて、そこからの人生が大きく変わってしまうなんて。人生なんて紙一重なんだと思う。診断書一枚で変わってしまうんだから。

そういうのやっぱりおかしいと思うよ。


そういえば、お昼は近所の作業所に通っている当事者が作ってくれたランチをいただいた。むちゃくちゃ旨かった。これで300円って、一体どうなってるんだ。野菜は近所の農園で取れたものだそうで。ホントいい環境だな。

2009年11月20日金曜日

トップセールスと成功

以前、起業家たちが集まる会に参加したときに、とある有名なセミナー会社のセールスマンが来ていた。若々しくて好感を持ったので話を聞いた。まだ会社に入って数か月足らずだそうで、「セミナー紹介CDを送ります」とのことで、断る理由もないので住所を教えてその日は別れた。

後日、CDが届いた。「拝聴したら感想をメールでお送りします」と返事したところ、「直接CDの感想を聞きたい」とセールスマン氏。正直、会おうかどうか迷った。CDの内容は抽象論ばかりでイマイチ具体的なネタに踏み込まない。

内容のほぼ半分は、自分が過去にどれくらい貧乏だったか。そして成功を意識してからどれくらいトップセールスマンになったか。語られるすべてのページが金ぴかの刺繍で飾られている感じ。申し訳ないけど・・・うさんくさいよ。これじゃ無理だ。

そして、ちょいちょい上から目線で「私の言ってる意味、分かりますか?」と聴いてくる。そのたびにイラッとして仕方なかった。もちろん実績も資産も間違いなくはるか上の方なので、上から目線は正しいのかも知れないけれど、好き好んで上から目線ビームは受けるものじゃない。

向上心がないとか、嫉妬で機会を逃すのはもったいない・・・という人もいるんだろうが、正直、CDを聴いている限りでは、私の嫌いなタイプの人間だ。こういう押しの強い社長は、激しく嫌われてしまうか、メンターとして崇められるかのどちらかだ。私は残念ながら前者だった。

そこを抽象論と自慢話だけでセミナー紹介を押し進めてしまうので、「そんなに中身の分からないモノだったら要らない」になってしまうわけだ。・・・という話を、若きセールスマン氏にした。「正直、そんなに内容不明な紹介で購買意欲が湧くとは思えない。」と。

そもそも会うことに決めた理由は、CDを送っていただいたことに対して「アウトプット」という形で礼儀を果たすべきだと考えたからだ。たとえそれがマイナス評価だったとしても、それを伝えることでよりよくなればいいと思ったからだ。

「商品自体はきっと悪くないんだと思うんだけれど、自分自身の力も試してみたいし、たぶん買うことになったとしても後々の話になると思いますよ。」と、購入意思がないことをやんわりと謝絶させてもらった。

「でも、もったいないと思いませんか?・・・成功までの道筋がはっきりと見えているんですよ。それを逃すのは人生にとって損失になりませんか?」・・・彼にとっての「成功」とは一体なんなんだろうか。というか「彼にとっての成功」が「私の成功」と等しいわけでは絶対にない。

時間が進むうちに、私に「買う」と言わせることは、私にとってではなく彼にとっての成功にしか見えない構造になっていた。正直大変だよなあと思う。社会経験も日が浅く、若き日にありがちな「社長万歳!」の状態では見えるものも見えないし、売れるものも売れない。

「CDの感想を聞きたい」とアプローチしておきながら、CDに対する苦言を呈すると「誰にでも満足できるものは作れませんから」と切り返してくる。おかしいだろう。CDについての感想を聞きに来たのではないか?・・・私は反論を受け付ける立場でもない。善意で言っているだけなのだ。

聴きたくないならこっちだってわざわざ言わないよ・・・という姿勢なのだから。「CDの内容でセミナーの具体的な内容も全く見えないし、お得感も全く感じない」とメッセージを送っているのだ。

「だったら内緒で(本当は社内で了承済み)、セミナーの一部を僕でよかったらやってみましょうか?」くらいのことを言ってもいいんじゃないだろうか。「会社には悪いですけど、とりあえず僕で役に立てることがあれば一部だけでも無料でお教えしますよ。」なんて言われたらどうだろう。

そんな理由で、今後、何度も足を運ばれて、無料の「こっそりセミナー」が続いてしまったとしたら。本当によいメソッドであるならば、たぶん何らかの効果は出てくるはずだ。そこまでの信頼感が醸成されてしまったら、たぶん私はそのセミナーにお金を払うと思う。それが人間としての礼儀だ。

セミナー紹介用CDも含めてケチいのだ。何も価値を感じさせるモノを出さずに、こちらのお金だけ出せというのは無理だ。今日は新人セールスマン氏の砥石になったわけだが、ちゃんと自前のセミナーで学ばせてからじゃないと、看板に傷がつくんではないかと余計な心配をしてしまう。

入り口でケチると、たとえ中身がいい商品だったとしてもダメになる事例かな・・・と思った。というか、特にこういう関連のシロモノは警戒させたらそれまでよ。本当にいい内容なら受けてみたいけれど、少なくとも今のセールスでは無理。今のところほしくない。

そのあたり「志縁塾」あたりは絶妙な商売の旨さがあるなと思う。無料に近いセミナーでもしっかりと、笑いとモチベーションを持ち帰らせてくれる。だから、また行きたくなる。お金を払っても行きたくなる。なぜなら、入り口で太っ腹だからだ。

競馬で一番儲けるのは、競馬でひと山あてたいヤツを相手に商売する情報屋。株とか投資情報で一番儲けるのは、投資でひと山当てたい素人投資家を相手にする情報屋。情報商材というのは作ったもの勝ちだ。成功マニュアルで一番儲けるのは・・・。

「成功」という一見甘美な蜜はどこに続いているか分からない。そもそも「成功」ってのは、それなりに自分で苦しんだり迷ったりしながら掴むものじゃないか?

マニュアルを自分で作ることを忘れて、完成系のマニュアルを簡単に買っちゃおう・・・というのは、なんだか安直な気がするよ。個人的には。

彼はこれからいいセールスマンになるんだろうか。そこは注目して見ていたいと思っている。彼の方からあきらめてしまわない限りは。

2009年11月19日木曜日

重要ポイントを3個に絞る

人間の記憶は7~9個までを最適として短期記憶限界があると聞く。しかし、実際に口に出して7個の全てを連続して言うのは難しい。指折りしながら途絶えてしまったり、重複してしまうものだ。

赤・黄・青・・・の信号とか。グー、チョキ、パーのじゃんけんとか。子供が覚えやすいものは、3個の固まりになっているような気がする。大人でも、普通、7個もポイントを言われたらメモを取るだろう。メモなしの記憶最適数は平均しても3つだと思う。

要するに7個なら大丈夫というのは、ある意味でウソなんだろう。でも、3個なら覚えられる。「実はこれが本当の最小単位なのではないか?」と私は思っている。むろん、これは私の記憶能力に依存した程度の低い話かも知れないが。

3個というと、いくらなんでも少なすぎるんじゃないだろうかとも思わなくもないが、それは7個でも同じことだ。全てを7個に凝縮するのは無理なのだ。「ラッキーセブンだから7にしたんじゃないの?」・・・と思うほど。

本当に実用として使える知識というのは、必要な時にすらっと出てこなくちゃ意味がない。そういう意味では実用記憶をするために、ポイントを3個以下にまとめるのは重要ではないだろうか。

と、そういう言い訳を並べつつ、重要ポイントを3つに絞る過程について考えてみたい。題材にするのは、2009/11/18に渋谷で行われた障碍者雇用の勉強会だ。講師は大東コーポレートの山崎社長。

あえてメモを見ず、記憶の中のみから話の概要を書いてみる。

(1)大東コーポレートは大東建託の特例子会社である。
(2)元々は法定雇用率を満たすために作られた会社である。
(3)精神障碍者雇用によって実際に多大な利益がでている。
(4)知的・身体・精神のどれも採用対象である。
(5)筆記テストは平均点数が低く意味がないのでやめた。
(6)面接も本人ではなく支援者や親が答えるのでやめた。
(7)自分のできることは当事者の方にもできることである。
(8)怒ったり叱ったりせずに根気強く反復が必要である。
(9)達成目標は当事者自身に書いてもらう。
(10)達成目標のスパンは2週間の短期と1年間の長期である。
(11)何かが起こったらすぐに報告してもらう習慣をつける。
(12)失敗を怒らない代わりにウソをつかない約束をする。
(13)明るく挨拶をする習慣をつける。
(14)失敗の責任はすべて代表者の責任との認識を持つ。
(15)当事者と一緒に二度と失敗を起こさない方法を考える。
(16)短期的に無理をさせてしまうと長期的にダメになる。
(17)焦る気持ちに「ブレーキ」をかける能力は必須である。
(18)精神障碍の場合は最初は3時間から開始するとよい。
(19)ひとつのことができるようになってから職域を広げる。
(20)複雑工程の解決として高性能ハードウェア導入も有効。
(21)ミスが深刻化する前の段階でチェックの段階を設ける。
(22)大手が敬遠しやすい少量多様な生産業務を専業化する。

とても3個にはまとめられない・・・が、7個だって無理だ。
メモを見ないで、取り上げてみたって21個もあったりする。

・・・あれ?・・・7つを超えてるぞ?
でも、記憶の中から引っ張り出すのに時間はかかっている。
「ああ、そういえばこれも」というのはコアな記憶じゃない。

そこで、いろんな視点からこの話を自分なりに切り分ける。
単なるまとめではなく、自分なりの視点や匂いをつける。

◆大東コーポレート概要
 ・特例子会社である
 ・精神・身体・知的と多様な障碍者を雇用
 ・外注の競合他社に比べても大きな利益を提供

◆育成における注意点
 ・無理をさせない(ちゃんとブレーキをかける)
 ・怒ったりしない(誉めて誉めて伸ばす)
 ・根気強く時間をかける(反復を強く意識する)

◆自主性の醸成
 ・一緒にトラブル防止策を考える
 ・一緒に目標設定を考える
 ・目標設定を自分で書いてもらう

◆効率化のポイント
 ・地道な反復による作業効率の向上
 ・浅いチェックポイントでミスを検知する
 ・費用対効果により高額な装置導入も検討
 
◆収益化のポイント
 ・地道に業務範囲の拡大をすすめる。
 ・原則残業なしを前提で業務をすすめる。
 ・大手が面倒くさがる業務を請ける。

いくらか削れてしまっている部分もあるが、あくまでも「私の価値観」で3個ずつにポイントを絞るとこのようになる。

講義は教科書ではないのだから全部覚えなくていい・・・と、私は思う。もし、講義の通りにやったとしても、それは単なるコピーだ。コピーが悪いということではなく、コピー元の経営者が持つ特性や個性まではコピーできないことの認識が重要なのだ。

経営者が持つ特性や個性がある前提で、たまたま方向性がベストマッチングすると成功事例につながる。だから講義を聴くときには常に自分の価値観に合うもの、もしくは合わせるべきだと思うことを明確に意識したい。

たぶん、そういう価値観だとか好き嫌いの感覚が、無意識に自分の個性や特性に合う価値観に結び付けてくれているような気がする。

それはそれとしても、大東コーポレートはすごい会社だ。特例子会社ゆえに「障碍者ありき」という宿命の下で生まれた会社ではあるが、職を転々としがちな(いわゆる)健常者ですら、こういう会社だったら長く定着するんじゃないだろうかと思う。

私は勝手に「メンタルユニバーサル」と呼んでいるが(そして広げたいとも思っている)、本来、精神障碍者が楽しく仕事できる環境というのは、(いわゆる)健常者にとっても楽しく仕事ができる環境だと思うのだ。

特殊な人たちが置かれる特殊な環境・・・ではなく、ストレス圧力が極めて少なく、「快」のオーラに満ち溢れた仕事場は、すべての人に好ましいのだと思う。(もちろん死ぬほど働きたい人は、死ぬほど働くのも自由だ。)

もし、そういう仕事場に巡り合っていれば、私もサラリーマンを辞めたいなんて思ったりはしなかったと思う。でも、せっかくサラリーマン生活を抜け出そうと、ここ数年、構想を温めてきたのだ。せっかくだから自分が就職したら幸せになる事業を創ってみたい。

2009年11月17日火曜日

心構えとして

「昨晩書いたラブレターは、朝、読み返せ」
なんて言葉があります。

激情のままに書いた文章がどんなものかが分かるわけです。もちろん酔っ払って書き殴った文章も同様だと思います。

そんなワケで、昨晩のブログは一時間経たずに消えました。しばらくして読み返してみると、読むに堪えなかったので。

要するに自分の能力不足を指摘されブログで吠えてました。まぁ、それほどまでに痛いところを突かれたワケですかね。朝の5時まで眠れないくらい悔しさを噛みしめていました。

MBAを修得した人の素晴らしさが身にしみたことがひとつ。そして経営する能力がないという指摘を受けたのがふたつ。自分で思い知っていることに追い討ちをかけられると痛い。

ただ、こういうことは今後もたくさん出てくるでしょう。自分の至らなさで火を噴くほど悔しい思いをするでしょう。

そこにいちいち反応していては、無駄に消耗するだけです。何かを地道に続けていくためには、打たれ強さが必要です。ちょっとしたことで感情的になっていてはいけないのです。

能力不足は元から承知の上で始めようと決意したことです。指摘で痛みを感じるのは、実は承知ができていなかっただけ。もうちょっというと覚悟ができていなかっただけなんです。

沈みそうになるまで殴られても殴られても沈んじゃいけない。パンチを食らいまくっても前進する不沈艦を目指すんです。

私は優等生ではないから、たくさんパンチを食らうでしょう。そこで怒って席を蹴飛ばしてしまっては、やっぱり負けです。
#もちろん、それをやってしまったら爽快なんだろうけれど。

その時は言葉だけを取り入れて、余計な感情は受け流す技術。そういうものをキチンと自分の体に取り入れるべきなんです。いちいち心の真正面から受けていたらダメージが溜まります。

私は、いろんな局面で我慢が必要な立場を目指しています。そうであるなら、それなりの覚悟と見識が必要なのでしょう。MBAうんぬんというより、まず、自分にとってはそれが大事だと思います。

でも、
「そういうところに気づくかどうか試していたんですよ。」
なんて、したり顔で言われたら、やはり蹴飛ばしたいかもね。よく「試す」なんて言うけれど、やっぱりそれって失礼なことだと思いますよ。

・・・なんて思うあたり、まだまだ人間が出来上がっていなかったりします。困ったものです(苦笑)。

ただ、どちらを向いて仕事をするのかということ。
誰のために仕事をするのかということ。
そこを見誤っちゃいけないと強く思います。

2009年11月9日月曜日

ホルモンとハラミ

「ホルモン焼き」の由来は「ほうる(捨てる)モン」なんだそうで。
その真偽はともかくとして、似たような話は結構ありそうです。
たとえば「中落ち」やら「ハラミ」も昔は捨てていたんだとかで。

捨てられるモノに注目すると、新しい道が見つかると思います。
たまに「クラゲ」が大発生したというニュースを見聞きします。
網にかかるのはクラゲばかりで、肝心の魚はまったく獲れない。
漁師は「これじゃ商売にならない」とクラゲを海に投げ捨てる。

こういう映像をたまに見ますが、他に道がないのかと思います。
クラゲの成分から有益なものを取り出して活用する方法だとか。
もちろん、美味しく食べられる加工方法を考えるのもアリです。
何らかの活用方法があれば「大発生」→「大漁」になるんです。

で、国民がジリジリと減っていく少子高齢化が進行中の日本国。
フィリピンなどの海外から労働力を輸入する話もありましたね。
一時期ニュースになったあと、どうなったのか分かりませんが。

海外から安直に人材資源を買う前にやることがあると思います。
それは、日本国内の人材資源から先に活用していくことです。
昔の60代~70代はヨボヨボのジジイという印象がありました。

でも、最近の60代~70代は骨のある人がやたらと多いんですね。
「ジジイ」と呼ぶには抵抗のある人がすごく増えた気がします。
30代後半の私にとってロールモデルになりそうな人すらいます。

まず、そういう人はもっと活躍しないともっとないと思います。
まだリタイアしたくなさそうな人が、ウジャウジャいそうです。

還暦過ぎても現役な人は、死ぬまで働いたほうが世のためです。
私自身、PPK(ピンピンコロリ)で終われたら理想だなと思います。
ご本人の望みも叶えた上に、社会も活性化するならいいですね。

私個人として高齢者に望むのは高齢者への新サービス創造です。
若いヤツがどれだけ想像しても思い浮かばないようなサービス。
それを生み出せるのは、骨のある現代の高齢者層だと思います。

ギャル社長が渋谷ギャルのためのムーブメントを作り出す現在。
高齢者が高齢者のためのムーブメントを作るのもアリでしょう。
高齢者が楽しい社会にならないといけないと私は思っています。
高齢者が楽しくないと、年老いていくことがリスクになります。

それから障碍者の層も人材資源として活用できるといいですね。
これも個人的に早いうちに整備された方がいいと思っています。
だって、実は誰だって障碍者になる可能性があるわけですから。

最終的には「障碍者」にこだわるつもりもないんですけどね。
私が目指している理想は、障碍者だけに特定してはいません。
どんな状況であれ「働く意志」を無駄遣いしない社会の実現。
ここに向かって走れば障碍者も高齢者も働けるようになります。

たとえば、長期入院しなくてはならない体になってしまったら?
そんな時でも働くことができるかどうかということは大事です。
だから勤務時間や形態も含めて多様性を考えた方がいいんです。

今まで長期入院したら、その間は仕事をしないのが常識でした。
でも、とてつもなく無駄に長い一日なんて私なら苦痛ですから。
ただ、窓の外を眺めるだけの日常は命の無駄遣いだと思います。
何もすることがないなら、いっそ働いていた方がマシです(笑)。

働ける人材資源は、高齢者、障碍者、入院患者の中にもいます。
それぞれの視点から、ビジネスを立ち上げる気持ちは必要です。
そのことが、それぞれの社会的立場を変容させる力になります。

今、「働きたい!」と願う人材の気持ちが無駄になっています。
働きたいと願う人にこそ、働いてもらうことが日本のためです。
「視点の転換」こそが、現代における「錬金術」だと思います。
誰もがしあわせになれる錬金術なら、急いで始めたいものです。

2009年11月6日金曜日

精神障碍とモチベーション

精神障碍の人が就労する場合の、ハードルの高さを考えています。
それは就労時間の短さとも、欠勤確率の高さとも言われています。

実際、一日5時間の週4日というケースも確かに珍しくありません。

が、実際にはすべての当事者に当てはまるワケでもありません。
欠勤を全くしないで頑張っている当事者もけっこういるんです。
作業所で当事者を眺めていても、例外はいっぱいあるようです。

でも、精神障碍の当事者は「根性ナシ」と思われることが多いです。

「だって、就労が決まっても、ヤツラ、すぐ辞めちゃうじゃん。」

・・・まあ、持続しないケースも確かにけっこう多いみたいです。
で、私はこの「持続性」の原因自体にものすごく興味があります。

たとえば、ものすごく働きたくない職場で働いているとします。
ただ、生活のためには仕方がないから働いているとしましょう。
・・・正直なところ、そんな環境なら私でも持続できません。

でも、極端に雇用先がない状況はそういう状況を生み出します。
実際に精神疾患の人を受け入れたくない企業は相当数あります。
そして選択肢が狭まった状態で、職業選択を迫られるわけです。

で、「入れただけでも幸せなんだからがんばりなさい」とか。
ある意味「入れただけでも幸せ」はその通りなんですけどね。
だけど、一方ではちょっと違和感を感じたりもするんですよ。
狭い選択肢から選んだその仕事は、本当にやりたかったのか?
・・・って。

精神障碍の当事者が働きたい・・・というとどこでしょうか?
たとえば「掃除」とか、たとえば「事務」とか。よく聞きます。

「でもさあ、その『清掃』って、本当にやりたい仕事なの?」

と聞きたくなったりするんです。

「その『事務』というのは、たとえば具体的に何したいの?」

と聞きたくなったりもします。

もちろん、清掃業が心から好きなら「清掃業務」全然アリです。
仕事自体としては、とっても大事な仕事だと思っていますから。
ただ、選んだ仕事が、本当に好きかどうかは大切だと思います。

精神障碍って、語弊を恐れずに書いちゃえば「正直病」ですよ。
いわゆる健常者って「本当はキツイんだけど」耐えきっちゃう。
「正直、8時間労働って超キツイっすよ」と思っていたとしても。

だけど「正直病」にかかっていると、ゴマカシがききません。
キツイ状況に置かれると、体が先にやられちゃったりしちゃう。

それでは、本当は働きたくない環境でもし働いていたとしたら?
・・・そりゃ辞めちゃいますよね。だって正直病なんですもの。
限られた職業選択肢の中に、好きな仕事がないのって不幸です。
「離職率の高さの原因ってそこなんじゃないの?」と思います。

だからね、求職者側も福祉に「してもらう」だけじゃダメです。
具体的に「自分は何をすると幸せなんだろう」を考えなくちゃ。
で、「どの仕事をすると幸せに近づくんだろう?」って考える。
考えるというより「妄想」レベルでも構わないと思っています。

現実を見すぎて、夢や希望を失うくらいなら妄想した方がいい。
妄想から、自分の目指したい方向性を見つけりゃいいんですよ。

選択肢がないのなら、自分から選択肢を作る選択肢もあります。

「自分自身の幸せを追いかけている実感」=「モチベーション」

なんじゃないかな・・・と私は思うんです。

就労支援側も、選択肢を増やす努力をした方がいいと思います。
与えられた選択肢からの脱却を目指した方がいいんだろうなと。

そういう志で、私は精神障碍の当事者向けの講座を担当します。
正直、IT業界で働いていた時よりも、収入は大幅にダウンです。
時給ベースで考えたら半減なんて言葉じゃ足りないくらい薄給。

ただ、長期的視野でビジネスを考えているのでできるだけです。
当面は個人的に大赤字だけど、ひとつの投資だと考えています。

要するに「幸せを追いかけているつもり」だからできるんです。
自分なりのモチベーションがあるから、できるってだけです。

そのために未来に対する建設的な妄想が必要なんだと思います。
で、それは精神障碍の当事者だって、そうなんじゃないかなと。

個人的にはこんなことを考えています。

2009年11月2日月曜日

脱・貧乏な福祉

いわゆる「福祉=貧乏」という構図。
これ、なんとかしないといけないんじゃないかなと思うんですよ。
「福祉は清貧じゃないとできない」という発想はどうなんだろう。
そんな視点で支援活動を始めると、必ずお金の壁にぶつかります。

http://www.news.janjan.jp/area/0810/0810010483/1.php

活動のために避けては通れないのが、やっぱりお金なんですよ。
せっかくいい活動をしようとしても長続きは難しいと思います。
また、活動の手段と目的がひっくり返りやすいことも残念です。
就労支援が目的なのに運営だけでいっぱいいっぱいだとかね。

決して、ボランティア精神を貶めるわけでは決してありません。
という前置きをしないと、誤解されそうな話をあえて書きます。

精神障碍者の就労支援ボランティアが苦境に立っていたそうです。
就労支援の場として喫茶店を運営しているボランティア団体です。
すごく残念だなと思うと同時に、当たり前の結果だとも思います。
なぜ、存続性が薄い「ボランティア」にこだわるんでしょうか?

いっそ、営利法人として勝負をかけてもいいと思うんですよね。
そして、大手のコーヒー会社に働きかけてもいいわけなんですよ。
「フォローは我々がやるので特例子会社で始めませんか?」とか。

UCCとかに特例子会社があるんだけど、店はたぶん出してません。
なら「特例子会社でカフェを作りましょうよ」と持ちかけるとか。

それから「ボランティア」に拒否反応を示す層もいるんですよね。
あんまり「ボランティア」を強調しないほうがいいとも思います。
「福祉」すらも看板に出さないくらいがちょうどいいと思います。

なんだか不思議といい雰囲気で、いいコーヒーを出してくれる店。

で、よくよく聞いてみたら、
「え?・・・ここのお店って、本当は就労支援の店なんですか?」
って驚かれるくらいがカッコいいと思うんですよ。

最初っから、
「精神障碍の就労支援なんで、ダメなコトがあってもスミマセン」
というスタンスじゃ、同じ飲食業への就労も難しい気がします。
それに自分が働けば働くほど迷惑をかける環境ってツライですよ。
気疲れしやすい当事者に余計な気苦労をかける環境って微妙です。

社会に叩かれたっていいから、商売っ気を出せばいいと思います。
たとえばテレビ局のツテをたどって、番組作りの提案をするとかね。
スゴ腕の喫茶店の仕掛け人とかを入れてもらって、それで店を出す。
で、「このステキな店は就労支援のための店なんですよ」ってオチ。

制作したテレビ局も仕掛け人も、いいイメージを獲得できますよね。
さらにテレビ放送で店が紹介されれば、人が来るかもしれません。

もちろん「障碍者を食い物にして稼いでいる」という批判は受ける。
そんな批判は甘んじて受ければいいんじゃないでしょうか。
「それがどうした!」って。

たとえば、派遣会社は非正規社員を食い物にして稼いでいます。
たとえば、老人ホームは老人を食い物にして稼いでいます。
で、就労支援の組織は障碍者を食い物にして稼いでいます。
単なる言い方の問題であって、助かる人がいればいいんです。

福祉だからって、なんだか萎縮しちゃってるような気がします。
助成金を貰いつつお金を稼ぎすぎたら、何か言われそうだとか。
助成金を貰っても不利な状況で努力するんだから、いいんですよ。

「それは我々の税金だろ!」

その通りです。その税金を使って労働力を世に送り込むんですよ。
送り込めば送り込むほど、生活保護の支給比率は減るんですよ。
長い目で見たら、そっちの方がよっぽど世の中のためになります。
税金を世の中の役立てて、無駄に罪悪感なんて必要ありません。

福祉業界が貧乏くさいと、お金を持った人が近寄りづらいです。
ちゃんとビジネスになることが分かってこそ活性化するんです。
そこを勘違いしていると、いつまでたっても貧民層のままです。

たいへん生意気なことを書いています。すみません。
でも、私はこの「今の常識」のサイクルを変えたいんです。
というか、私自身「福祉」をやるつもりはないんですけど。

2009年10月26日月曜日

そろそろ脱出します

2009年の12月をもってハケンを辞めることにしました。
現場側では継続できる方向で考えていてくれていました。
だからハケン切りではありません。
そんなワケで「脱出編」はそろそろ終わる予定です。

千葉のNPOの精神障碍の作業所でIT即戦力講座を始めます。
11月から毎週金曜日に本気でIT現場で必要な技術を教えます。
適性のありそうな人を全力で育てていくということです。
私にとって「適性」というのは実に簡単な定義だったりします。

「興味があること」「やっていて楽しいこと」のふたつだけ。

私がIT関連の業界で生きてきたのも、このふたつがあってこそ。
だから、このふたつを満たせば、受講資格があると思っています。
そういう意味でITの面白さを伝えていくことが最初の任務です。

ちなみにIT系の講座といっても、ありがちな講座にはしません。
必要な知識を全部詰め込んでいく・・・ということもしません。

知識だけではないところで、私が重要視していることがあります。
それは「自分で解決していく力」をを身につけることです。
だから、私はこの講座には自分なりの「こだわり」を込めます。

具体的には・・・。
いえいえ、これは実際に結果が出てから公表したいと思います。
受講者にもワクワクしてほしいので、ネタバレできないんです。

私が講座をやる上で考えている達成目的はただひとつ。

企業から「喜んで採用したい」と言われる人材を育てること。
数値目標としては、採用実績を1年以内に達成することです。
人数はとりあえず1人でもいいかな。そう、たった1人でいい。

その1人がとっても大事。
その後のロールモデルという意味で。

「あ、ここでがんばると本当に道が開けるんだ!」

という意識付けになればいいと思うんです。
あ、でも「たった1人」というのはちょっと訂正。
もちろん、それ以上を狙います。

2009年10月16日金曜日

しあわせの定義

これを考えるのと考えないのでは、だいぶ違うんじゃないかな。
自分にとって「しあわせ」ってなんだろうって考えること。
しあわせになりたいっていう人はけっこういるんだけど。
でも、具体的に何・・・っていうと、困る人も多いような。

しあわせは歩いてこないけど、歩くだけでもダメなんだよね。
どこに向かって歩くべきなのか、考えていないといけない。
それが、本来、人生の選択になってなきゃいけない気がする。
たとえば、仕事にしてもそうなんじゃないかなって思う。

大学時代に就職活動しなきゃいけない時、それが一番困った。
やりたい仕事なんて、正直言ってみれば何にもなかったし。
高収入でラクだったらいいよなあ・・・って思う程度だった。
何もしないでお金がもらえるなら、一生働かないのになーと。

最初の就職に失敗して、自分に合わない会社に入っちゃった。
そこを辞めたのをきっかけにいろんな職場を渡り歩いてきた。
別に飽き性だったワケではないんだけど、結果的にそうなった。
世の中一般的には誉められた話じゃないけど、後悔はしてない。

いろんな職場を渡り歩いたおかげで、大事なコトに気づいた。
それを書き始めると長くなっちゃうから、それは別の機会に。

ただ、仕事と仕事の間で時間的な隙間ができた時期があった。
仕事についてどうしようかって、今後を考えてた頃だった。
働かなくても生きていける・・・という不思議な時期だった。
理想的だと思ってたんだけど、実際はそんな感じでもない。

いつもが休日でいつでも遊びに行けちゃう。とっても自由。
でも周りを見渡すと、当然だけどみんな働いているんだよね。
仕事場なら仲間がいるんだけど、仕事がないとそれもない。
結局、すっごく孤独感ばっかりが募っちゃった記憶がある。

しあわせっていうモノは「無制限な自由」でもないらしい。
で、「仕事をしない」というコトがしあわせでもなかった。
会社員になるか、それとも自分の夢を追いかけるか考えた。
で、自分の夢を追いかけるため、つなぎでハケンを選んだ。

ハケンを選んだ時点で、いずれ事業をやることは大前提。
普通に考えると、34歳でハケンを選ぶのは勇気がいった。
いくら将来の夢のためとはいえ、かなり遠回りな感じだ。
そもそも30代後半になれば、一般入社だって険しくなる。
・・・と、このあたりも書くと長くなりそうなので割愛。

#ちなみにハケンは辞めるときもそれなりに勇気がいる。

くだらないコトだけど、ハケンを始めるのは屈辱だった。
働き始めて思い知ったんだけど、最下級の一兵卒だからね。
ましてや知らない現場に入れば、単なる使えない野郎だ。
自分ってこんなに使えないヤツだったのかとか、自己嫌悪。

でも、そんな毎日の中に「しあわせ」が隠れていたりした。
自分が過去に体得した知識で業務効率が上がった時とか。
「自分の存在が社会の一部に影響を与えてる」って感覚。
世の中で空気のように忘れ去られた自分を取り戻した感じ。

「自分が社会の役に立つと思えるコトって大事なんだな。」
と初めて感じた。自分にとっては効率化がしあわせだった。
面倒な作業で苦しんでいる人を助けるのが私の喜びだった。
自分が好きな分野で役に立てるというのは、しあわせだ。

つまり、仕事を選ぶときに大事なことは「しあわせ」だ。
仕事を選ぶのは、けっこう深く考えなきゃいけないと思う。
自分がどういうことで「しあわせ」なのか。適性は後だ。

今、アイデアを事業化するため、具体的に行動している。
まず、やっていて自分が「しあわせ」になれることをする。
そしてそこに関わる人が「しあわせ」になれることをする。
そこはブレないようにしていきたいな。

2009年10月14日水曜日

怒らない怒らない

今、ハケン先で若手のお世話をしたりもしているんだけど、最近、ものすごく気をつけていることがあります。まー、こっちもハケン、あっちも委託の人ということで、職制的の上下はないんだけどどうしても教える状況が多いせいか、パワーバランス的には強気なことが言えそうな立場になってます。

で、たまに面白いくらいに正解から距離の離れた失敗とかをやらかすんだけど、とにかく腹を立てない、怒らない・・・というコトを自分に課しています。元々、私は瞬間湯沸かし器みたいな性格だもの・・・だから言葉にするよりも先に、腹の底からこみ上げるエネルギーを心の中で押し戻すんです。

これが自分のストレス値を上げずに自然にできるようにしたいんですよ。っていうのは、怒るのってすごくラクなんですよね。腹が立つコトがあったら我慢なんてしないで、怒涛のように怒ってしまえば・・・すっきりするじゃないですか?

でもそれって「自分自身がすっきりする」だけなんですよ。自分自身がすっきりするために、「ストレス」を相手になすりつけているだけなんです。だから、それをなすりつけられた相手は当然ストレスを抱えるワケです。

その相手のストレス耐性値が非常に低いとしたら、そのストレスで仕事が続行不能になってしまうかも知れません。昔は「怒鳴りつけられてもついてくる骨のあるヤツ」だけいればよかったかもしれませんが、最近は「うつ」などの精神疾患で精神的にやられている人も多くなってきました。

そういう人たちのパフォーマンスを引き出すためには、一昔前とは異なるアプローチが必要になってきているんじゃないかと思います。以前の常識とは異なるメソッドが必要になってくるわけです。そのあたりの面白い試みをこれからスタートさせようと思っています。

そのための心構えとして「怒らない、怒らない・・・」を続けていこうと思います。本来、熱血な私にとっては、わりと精神修養チックな感じではありますが。

2009年10月8日木曜日

障碍ってなんだ?

本音でたまに思うんですけどね。
障碍って一体なんなんでしょうね。
引き算で欠点を見るから、おかしなコトになるのかもしれないなと。

ヘリコプターは空を飛べるけど、海には潜れない。
これは欠点なんだろうか?

潜水艦は海に潜れるけど、空は飛べない。
これも欠点なんだろうか?

車は空を飛ぶことも、海に潜ることはできない。
これは欠点だらけなんだろうか?

そういうワケじゃないんだよね。
それぞれに活躍すべきフィールドがあったりする。
人間もそういうコトなんじゃないかなと思う。

たとえば、目の見えない人なんかではすごい人がいる。
初めての人たちとミーティングをすると、名前を覚えるのが大変。
さらに顔と名前を一致させるだけでも、実はかなり一苦労ですよ。

でも、その目の見えない人について、私が聞いた話じゃ、
・全ての人の声で名前を覚えた(当然メモはとれない)
・発言内容と発言者を全て覚えている(当然メモはとれない)
という人がいたんだそうで・・・。

もちろん、その人の猛烈な努力の賜物かもしれないけどね。
でなきゃ、生きてきた環境の中で能力が進化したんだろう。
いずれにしても「目が見えない」を補って余りある能力じゃないかな。

他には、自分の音の反射で自分の位置感覚を知る人もいるらしい。
こうなってくると、ほとんどイルカとかコウモリに近い能力だよ。
これはほとんど「超能力」といってもいいんじゃないかと思う。
真夜中に停電になったら、健常者の誰よりも有利に違いない。

もともと「何もない」というのがゼロの状態。
そこからできることを積み上げていけばいいんじゃないですかね。

2009年10月1日木曜日

夢がすぐに叶う

「あなたの夢が必ず叶います!」
・・・なんて書いてあると、なんともうさんくさい。
ははーん、さては情報商材ってやつか?

ただ、ちょっと考えてみたいんだけど。
夢が本当に「簡単」に叶うとしたら、それって夢になるんだろうか。

「いつか○○に行きたいな。」
→「はい、これが航空券です。明日にでもどうぞ。」

「あんな人と付き合いたいな。」
→「じゃあ、この人があなたにぴったりの人ですよ。」

「いつか豪華客船に乗ってゆっくりしたいな。」
→「これが明日から半年間の豪華クルーズ招待券です。」

「ああ、100億円あったら幸せになれるのに。」
→「はい、100億円を口座に振り込んでおきました。」

リアルに想像してみると、そこから先の世界が思い浮かばない。
思った次の瞬間に願いが叶ってしまうなんて、一体どうなんだろう。

「100億円あったら豪邸に住んでリッチに生きるのに・・・」

と想像した瞬間に夢が叶ってしまうなら、そもそも100億円なんていらない。だって、最初から「豪邸に住みたい」って思えばいいだけなんだから。

お金がなくたって、頭に思い浮かぶものなら何でもすぐ手に入るんだから。そうなると当然、お金の価値観なんて崩壊してしまう。世界のすべてが自分のモノなのだから。

思ったことがその瞬間に現実になる世界。自分にとって都合のいい人間しか登場しない世界。どんなモノでも食べられて、好きなだけ遊べて、仕事もまったくしなくていい世界。

たぶん、そんな世界なんて飽きると思う。自分自身を完全に何も制限しない、自由すぎる現実があったとしたら、たぶんロクなコトをしないと思う。何をやっても罪に問われないのだから、もしかすると犯罪のやり放題になるかもしれない。

だって、やりたいことがすべて叶うんだから。次から次へと「できること」を一生懸命考えた末に、ネタが完全に尽きてしまえば残った悪事に手を出すかもしれない。と、いうよりも、「できること」を考えるコト自体が苦痛かもしれない。

ほどほどだから楽しいんだと思う。
現実がほどほどだから、目標に向かっていけるんだと思う。

たとえば「休日」。普段、忙しいからこそ休日がうれしいわけで、週一日しか働かなくていい人が大型連休をもらっても、そこに大してありがたみなんてない。

たとえば「ゲーム」。ぜったいに自分がやられたりしない、いつも無敵状態で、画面を見ていなくたって解けてしまうゲーム。それはゲームじゃない。作業だ。

人生のすべてが作業になってしまったとしたら、生きている価値がないような気がする。すべてが思い通りになるんだとしたら、最後に自分で選べるのは「死」くらいしかないんじゃないか?

幸いなことに、現実はそんなに甘くない。
だからこそ、生きていけるんだと思う。
だからこそ、がんばりがいがあるんだと思う。

本音を言えば、そりゃお金は欲しい。たくさんほしい。
でも、お金を乗り越えた先にあるのはなんだろう?
たぶん、目指しがいのある「夢」とかなんじゃないかなあ。

人間って、わがままなんだよね。
つらいことがイヤなくせに、簡単すぎる退屈もイヤ。
難しいとストレスがたまるのに、簡単すぎるともっと疲れちゃう。

たぶん、適度なストレスがなきゃ生きていけないんだよね。
人間って。

・・・ところで、話はちょっと変わりますけど・・・。
退屈から逃げるためにテレビやゲームの刺激に囚われていませんか?
なんだかんだいいつつ、私もそういう誘惑にむっちゃくちゃ弱い。

自分も含めてダメ人(だめじん)はどうやって、誘惑に負けずに貴重な時間を獲得すべきなのか。なんてことを考えながら書いた記事を例の「すべらく!」に掲載してみました。
 →ダメ人の時間管理

2009年9月29日火曜日

ブログとかサイトとか距離とか

ブログとかサイトとかって、どうやって距離を保ってますか?

ここしばらくブログを放っておいたおかげで、なんとなく距離感がつかめました。ブログとかサイト更新とか、基本は書きたいときに書くってコトですね。一時期はノルマのつもりで毎日・・・なんて思ったんだけど。毎日書けば文章力がついてくるぞ・・・とか。

でも、それって実は本末転倒なんじゃないのって思っちゃって。

作家じゃあるまいし、シロートがうんうん唸って無理矢理書いたところでねえ。無理矢理に書いていると当然、気持ちが文章にぜんぜん乗ってこないから思いついた単語を無駄に重ねて、はいおしまい。そんなのを読まされる方の気持ちになってみろっていうの・・・。

実際は「駄文は読まない」という権利を公使されるだけですけどね。
つまらない文章は読まない。無駄な時間は使わない・・・と。

そういう意味では、書く方も読む方も疲れないスタンスが一番かなと。作家でもなければ仕事でもないんだから。書く方は書きたいモノを書けばいいし、読む方は読みたいモノを読む。

ブログのネタそのものが、ロングテールな性質を持ってるんだと思うんですよ。だから、どんな駄文でも、おもしろがって読む人もいるかもしれないですねえ。
たとえば、こんな駄文とか・・・あ、すんません。

ところで唐突なんですが「自分の時間」って大事にしてますか?
なんとなく頭に「ぴーん」ときたので、ストレスを減らす「自分の時間」の過ごし方についての提案をサイトに書いてみました。

雑音で疲れない

雑音を抜いてみると、時間のすすみがゆっくりになったりします。
無音・・・が、すっかり最近のマイブームです(笑)。

2009年9月14日月曜日

人を鍛えるとは?

近所の飲み屋で「北海道の洋菓子店のスタッフを人材育成の講師が叩き直す」という企画のテレビ番組をみた。どこまで本気でどこまでヤラセなのか分からないけれど、いろんなコトを考えさせられる内容だった。

突然、店にやってきた女性講師が怒鳴りまくるという光景。それにとまどうのが店長をはじめとするスタッフ陣。研修では「笑顔が足りない!」と怒鳴り倒し、店長に対してもボッコボコに叱責を叩きつけるありさま。

最終的には店長を一対一の場所に連れ出して、「アンタならできる。それを信じてるから強くもいうんや。」と激励。ムチの後のアメは大変甘かろう。・・・というワケで、そのアメの言葉に奮起して店長の行動が変わっていくという「シナリオ」だ。

なるほど、激しい衝撃を与えて人は変わる。たしかにそういうコトはある。スポーツでもそうだろうし、多くの職場でもそういうコトはあるだろう。私の過去を振り返ってみても、厳しい条件に置かれた時に自分が成長できたという経験はある。

おそらくこの番組が終わってから、テレビ出演した講師に問い合わせが殺到したんじゃないかと思う。もちろん実績があるから講師業をやっているワケで、そういう実績を無視して批判したいとは思わない。ただ、研修風景にものすごい違和感を感じたのだ。(もちろん、テレビ放映された範囲に限られる話だが。)

「笑顔が足りない!もっと笑顔を作れ!こんな簡単なコトもできんのか!」と関西弁で叱り飛ばす女性講師。要するに「作り笑顔」をスパルタで教え込んでいるだけだ。

確かに接客業をやっていたら、承服できない状況で笑顔を作らなければならないシーンはあるだろう。それにしても、作り笑顔をスパルタで教え込む情景がちょっと下品に感じたのだ。笑顔はまごころが先じゃないのか?

もちろん、この女性講師にはそれなりの「思い」や「情熱」があって、そのような指導をしているのだろう。しかし、あのやり方がどこでも通用すると思ったら危険だと思う。

特に高度成長期を生きてきた人たちにとっては、ああいう厳しい教育シーンが心を打つようだ。しまいには「今の日本でも徴兵制度を実施すれば、もっとビシッとするはずだ!」と言い出す始末。

たいてい、そういうコトを声高に言う人は、自らが軍隊経験のない人だったりもするし、これから徴兵制度が始まっても徴兵されない人たちだ。なんだかズルイ話だね。

確かに理解に苦しむ若者も増えているような気がするけど、そもそもいつの時代も若者は理解されないものなのだ。だって、いつも若者を見ている世代は自分たちが生きてきた頃の「理想的な若者像」に縛られているからだ。

つい、わき道にそれた。

思うに、くだんの女性講師は自らの基本的性格を上手に活用して、ニッチビジネスを展開しているんだと思う。スパルタ式の教育現場が珍しくなってきている中で、それをあえてやることによってビジネスの差別化が図れているんだろう。そういう人が少ないから依頼もかなり集められるだろう。

でも、私はこの人の研修を受けたくないなあと思った。ああいう鬼教官が職場にいれば、いろんなコトが確かにピシっとすると思う。それなりのメリットがあるコトも間違いない。フワフワしていた人がキビキビと動けるようになる可能性もあるだろう。

でも、そこから何かが生まれるんだろうか。高圧的な鬼教官がいる環境で、想像力や発想力をのびのびと伸ばせるんだろうか。私なら無理だ。怒鳴られないようにすることだけに集中してしまうだろう。失敗を畏れて生きる日々になるだろう。

そんな毎日に何の意味があるのか分からない。やはり、私は高圧的でスパルタ的なやり方には賛成できない。

2009年9月13日日曜日

どうして甘いのか?

常識にこだわらないストレス対策方法を提案するサイト「すべらく!」の運営を本格的に開始してから4ヶ月ほどたった。まだまだこれから・・・という感もあって、全体的なナビゲーションや既存コンテンツの質なども含めて改善を進めていくつもりだ。

まぁ、それでも5月に比べてだいぶ形になってきたのかな・・・という気もする。RSSの自前生成とか、コンテンツ更新機能、コンテンツ検索機能、検索内容によって役に立ちそうな自動バナー選択、携帯サイトの同時運用化など、それなりに進化してきたように思う。

現在、構想を温めている事業についてもストレスの軽減が大きなファクターになるワケで、そのあたりのコトを自分なりに研究していくと、ストレスを受けやすい生き方とか環境が見えてくる。その経過で感じたことや、考えたことを記事にして更新しているワケだ。

でも「すべらく!」に書いてあるストレス対策の提案は、どれもこれも「誉められた」モノではない。実際に誉められたコトもそれほどないし、おそらく常識人から見れば「姑息」な方法ばかりを掲載しているように見えるかもしれない。

上役に注意されたら「ひとつひとつの言葉の意味を考えて反省しましょう」じゃなくて、「上役も哀れな人間だと思って大目に見てやりましょう」なんてコトを平気で書いたりしているワケで、おそらく社会人ルーキーには一番読ませたくないコンテンツかもしれない。

でも、あえて「甘い」コトを書いている。たぶん元気な人は、ストレスに関するコンテンツなんて読まなくてもいいと思うし、現実に読まないと思う。一番読んで欲しい層は「心が折れそうになっている人」なのだ。

悪意の有無に関わらず、ストレスを真正面から「バーン!」と食らっちゃう人がいるんだよね。そういう人に元気になって欲しいという願いを込めて更新を続けている。だって、たいていストレスを真正面から食らう人って、マジメで謙虚で我慢や反省をしすぎるせいで大きく傷つくんだから。

そんな人をつかまえて「我慢しろ」「マジメに聞け」「反省しろ」なんてメッセージを書きたくない。たぶんストレスを抱えている人は、我慢して、マジメに聞いて、反省して消耗しているかも知れない。

大して読まれているワケでもないサイトだけど、社会から一人でもストレスで自殺する人が減って欲しいと思う。多少、甘くっても、生きているコトの方が価値が高いと思う。生きてさえいれば、その後の生き方を自力で変えていくコトができる。少なくともそういう希望があると思う。

2009年9月4日金曜日

大きい会社の宿命?

いろんな立場にいる人が読める場で、こういうコトは書きづらいコトだが、私にとって「ハケン」を始めることは屈辱的なコトだった。正直なところ「ハケン」をやらずに済む方法があるのなら、それを選びたかった。でも、一方で正社員としての会社勤めをするつもりはなかった。もう、これ以上「やらされ仕事」をやりたくなかったから。

もちろん自分の中で上手に消化(「昇華」でもいい)することができれば、どんなコトでも「やらされ仕事」じゃなくなる。自分なりの意義を持って与えられた職務を果たすことも重要だ。しかしながら、中小企業とはいえどもトップの近くで仕事をした立場として、自分のやりたいコトと会社の方針が違う時に、何度もジレンマを抱えることになった。

もちろん、リスクを自らとった人の意見が強いのは当たり前だ。リスクを持たない人は文句や批判だけを口にして、いざとなれば他へ転職すればいいだけだ。しかし、リスクをとっている人はさまざまな責任を取らなくてはいけない。進言を受け入れるのも拒否するのも責任が伴うのが当然だ。

だから、自分で強くやりたいコトがあるのなら、他人のふんどしで相撲を取ってはいけないのだろうと思ったのだ。やりたいことについて社長とケンカする暇があるなら、自分がリスクを取ってやりたいコトをやる覚悟ができているかどうかを考えたほうがいい。

そんなコトを考えながら仕方なく選んだ選択肢が「ハケン」だった。もちろん、今にしてみれば大いに感謝している。なんだかんだと言ってみても2年近く私の生活を支えてくれた環境だったことに違いはない。それにいわゆる大企業と呼ばれる環境を体験できたのも幸いだった。大企業のパワーやリソースの豊富さも体験できたし、ネックになる部分もたくさん自分の目と耳で理解できた。

ただ、プロパーではない立場ゆえに仕方がないのかも知れないが、大企業という場所は私にとって居心地のいい場所ではなかった。語弊があるかも知れないが「たらたら」と「つつがなく」生きるにはこんなに快適な環境はないと思うし、プロパーならそんな環境でも大きなミスがなければ、これからも生き抜いていけるんだろうと思う。もちろんリストラがないとも言えないけれど。

「たらたら」と「つつがなく」ハケンを続けていくリスクについては、以前にも十分に書いたので詳細は割愛したい。今回は大企業が自分の肌に合わない理由を考えてみたいと思う。なぜなら、それを考えることで自分自身が目指したい方向が見えてくると思うからだ。

まず、「自分でなんとかしよう」という意志を持った人が比較的少ないような気がすること。もちろん大企業には豊富な人材リソースがあるのだから、そういう人脈や部署と密接に協力していくことは重要だと思う。だけど、ちょっとそういう次元の話とそれた感じの違和感。

「うちはうちのやるべきコトをやった。ボールは投げたんだから、後はあっちの仕事。うちには何も問題はない。」・・・確かに問題はないのかも知れないけど、この不思議な不安感はなんだろう。もちろん「上流工程」と呼ばれる職場においては、全体のスケジューリングやコーディネートを行うことが重要なんだけど、それ単体の技能で食っていける仕事なのかどうか分からない。

それから、これは仕方のないことなのかも知れないけど、何をするにもとにかく慎重。企業の看板を背負っていることも理由なのだろうけど、とにかく失敗を恐れる人が多い。見ればすぐに分かりそうなことでも、それを自分の判断にしないで専門の部署に確認してから進めていく。時にその「鈍さ」をウザったく感じることもあるが、それがその組織で生き抜いていく処世術なら仕方がない。

そういう仕事のやり方は、その組織で生きていくためには必要なルールなんだろうけど、その外側の人間にとっては窮屈かつ退屈なこと極まりない。とにかく後で自分の責任が追及されないように徹底的に保身しながら針をつつく感じ。

そういう環境下では常にガード状態でいることが基本になる。ちょっと見れば分かるようなことでも他の人に確認するようになる。だから私もそうする。郷に入れば郷に従えだ。我を張って自分の意見を通していては歩けない場所もある。ただ、本当は判断をお願いした「他の人」がどのような思考経路を辿って判断したのか・・・の方が重要なんだと思う。

ただ、そこは大企業。判断を任せた部署の担当者が間違った回答をした場合、その部署の責任にしてしまえば自分たちの部署には傷が付かない。たしかにその環境下での判断としては正しいんだろうけど、その感覚で起業したり中小企業に転職したとしたら苦労するだろうなと思う。まぁ、しないだろうけど。

逆に私は中小企業の経験が多いから大企業にハケンで来てみて驚いた。「ほとんどのことは自分でやらなくても大丈夫なんだ」と。技術職のつもりで来たんだけど、そんなに技術はいらない感じ。そりゃ最低限のことは知らなくちゃいけないけど、本当に最低限の知識でなんとかなっちゃう。

ひょっとしたら中小企業でガツガツやっているエンジニアの方がスキルは高いかもしれない。だって、他人に頼れないから自力でやるしかないんだもん・・・中小企業だと。たぶん、何百人という社員の中で数パーセントくらいの「ハイパーな頭脳」がいて、その残りが「忠実にルールを守る兵隊」という構造になっているのかも知れない。

大企業を体験したことのない中小企業の社長が、大企業の文化にアテられちゃって「うちも大企業を見習おう!」ってケースがけっこうあるような気がする。その思い込みが中小企業らしい機動性を奪った挙句、人材リソースに組織力がないものだから業務が回らなくなる・・・というパターンも多いんじゃないだろうか。

私がハケンを通して得られた価値ある経験は「入社が難しい大企業でも、ものすごい人材が溢れているワケじゃない。」という点。つまり大企業にあまり過大な夢とかイメージを持っていると、判断を誤ることがあるんじゃないか・・・というコト。そういう意味では正直なところガッカリした面もなくはないが、大企業に対して抱いていた幻想がなくなっただけでも貴重な発見だと思う。

2009年8月29日土曜日

動きがない?

このところハケンの仕事が大忙しです・・・と、いってもハケン人生に身を捧げるつもりがないのは書くまでもありませんが。

事業計画書を書かなきゃなあと思いつつ、なかなか書けていないのは、今のハケン仕事にかなりの比重を注いでいるからだったりします。と、書いても言い訳っぽいなぁ・・・という自覚はあるわけですけど。

ただ、正直な話、これからはじめようとしている事業と密接につながっている業務を遂行中なので、実際に人を雇用した時のプラクティスケースというかシミュレーションとして考えています。実際に人を雇用した時点で固定費がかかっちゃいますからね。

人件費をかけずにハケン現場で業務効率化の実験ができるのは、今の私にとってはかなり魅力的な状況なんですね。どうやったら快適に業務を遂行できる環境を提供できるのか。そこで働く人材のパフォーマンスはどのくらい向上するのか。今、自分の中では完全に「研究モード」です。

これで事業化に踏み切るための実績と経験がついてきている実感があります。細かい業務のチューニングで2時間かかっていた作業が30分になったり、効率化によってモチベーション向上につながるなど、なかなかに手ごたえアリです。メンタルストレスを最小限にする仕事・・・これは本格的にやってみたいですね。

重くて多い作業量に暗い顔をしていた人が、楽しそうに軽快に作業をすすめていくのを見ると、こちらまで嬉しくなります。

私は徹底的にラクをしたい人です。そしてみんなと一緒にラクをしたい人です。周りを見回してみると、意外にも非効率に力技で仕事を進めている人が割といるんですね。面倒くさいのも仕事のうちとあきらめてしまっている人がけっこういます。

でも、非効率なことに時間を割くことは、ストレスを受けることを甘受してしまっているような気がします。「効率を良くする」ことは「手を抜く」という意味ではありません。考える時間を分散させるのではなく、考える時間を一度にまとめて集中するという意味です。

非効率なことを効率的にするためには、多岐にわたる知識や経験が必要ですが、非効率なことを効率的にして空いた時間には、さらに効率化を推進するための知識や経験を身につけるためのブラッシュアップをするといいと思うんです。

「ああ、面倒くさい」というのが、私にとっては仕事の源だと思います。だから、面倒なことをやっている人が近くにいるとワクワクするんです。「ああ、こんなにラクになる方法があるんだ。」・・・って実感してもらえるのが快感で(笑)。

今、そういう「面倒くさい」がより固まっている業務(すみません!まだ公開できません!)を中心にして、面白い事業ができないかどうか真剣に考えています。

2009年8月27日木曜日

景気の悪化を望む人々?

「本当はまだ底が深い不況」「今後の最悪シナリオ」などという読み物がメールマガジンで大活躍している。そういうタイトルをさっと見ると「ばかだなあ」と思う。こうまでして執筆料を稼ぎたいのかと思う。書きたいなら読者から見放されるまでネガティブな記事を書いていればいい。

昔、「1999年を迎える前に恐怖の大王が降ってきて地球は滅亡する」なんてデマが蔓延していた。もちろんまったくのウソっぱちだった。「実は世界の裏側では秘密裏にエージェントが暗躍していたのである。」などという三文SFのような話はあっさりと無視するとしても、人間を動かすのに「不安」という要素は相当に大きなものらしい。

ここぞとばかりに不安商法よろしく執筆料を稼ぎたいネガティブ記事が増えているが、その予言が当たるとしても我々はただ黙々と日々を続けるしかないのだ。あの時、1999年に地球が滅亡すると予言されていたにも関わらず、我々は日々をパニックを起こすこともなく、ただ淡々と2000年を迎えてきた。

予言なのではなく「事実に基づいたデータ」と主張したいアナリストもいるだろうが、そのアナリストなる人間は今回の世界同時株安を「事実に基づいたデータ」から予想できていたのか。

起こってしまってから「だからあの時言ったのだ」と言っても遅いわけだし、そもそも「言った」ことが事実だとして、それを防ぐことができなければ全く意味も価値もない。ネガティブな事実が起こる前にネガティブな予想をして、世の中にネガティブな種を余分に振りまいただけだ。火が十分に回ってから「火事だ!」と叫ぶマヌケぶりだ。

そもそも「百年に一度の大不況」なんてコトを強調している時点で、どれだけ彼らの「カン」がアテにならないか分かる。

自分たちの推論が当たれば「データ分析の成果」などと公言し、外れれば「百年に一度の例外」なる謎のおまじないで切り抜けることができるとは、なんと都合のいい世界に生きているんだろうか。さらにはその「百年に一度の不況祭り」を利用して儲けたい輩が徘徊しているのだから油断ならない。

私だけかも知れないが、もう「まだまだ止まらない不況シナリオ」とか「そこまできている○○危機」などという読み物には心底ウンザリしているのだ。今、必要な読み物はそれじゃないだろう。

「○○するためにはどうすべきか?」「○○を防ぐにはどうすべきか?」という話なのだ。百年の○○に酔っ払って、そこから視線を外すことにできない思考停止した輩の読み物に時間を浪費するのは無駄だ。

そもそも、たとえば「地球がもうすぐ滅亡します」と予言されたとしても「ああそうですか」と、途方に暮れるしかないのだ。それが事実だとした場合、本当に必要な情報とは「滅亡を回避するために我々にできることはあるのか?」なのだろう。

よっぽど最悪なシナリオは、ネガティブな予言を本気で信じて大パニックが起こることだ。ネガティブな予言の歌につられて踊るとネガティブな予言は現実化する。ネガティブな予言を真に受けて悪意の予言を的中させてあげる必要はない。

「不況だ不況だ」「不幸だ不幸だ」と書き立てている人間は、不況や不幸のお陰でメシを食えている寄生虫だという事実を忘れちゃいけないと思う。それにしても不況ブームを作って一番トクをしている人は誰なのだろう。

ともかく不況が終わるにせよ続くにせよ、不況の大波がまだ来るのだとしても、我々は日々を生きていかなきゃいけない。実際に何が起こるにしても、今の生活からかけ離れたアクションを起こすことは大多数にとって困難なのだ。

どんなにネガティブな記事が世の中を席巻しても、我々はささやかな希望を信じて日々の生活を粛々とすごしていくしかないのだ。そういう生活の中にネガティブなメールマガジンが届くと、なんとも残念な気持ちになる。

2009年8月22日土曜日

ナアナア

今日、床屋を変えた。

「いきつけ」にベッタリになりがちな私にとっては、以前の店には二度と行かないということだ。今までは自宅から20秒以内かつ完全予約制ということもあって、4年間ほど、けっこう便利に通っていた。店にはオヤジがひとりだけいて、基本的に一対一で他の客はその時間は入ってこない。

しかし、前回、いきつけの床屋の予約時間を寝過ごしてしまったのだ。まぁ、これは完全に私が悪い。前日の疲れがたたってしまったことはあるのだが、まぁ、それにしても言い訳にはならない。これが仕事だったら相手先に怒られても仕方がないことだ。

予約から20分くらい過ぎてしまっている状態で、寝ぼけた頭であわてて床屋に電話をかけた。とりあえず、カット時間は短くなるが来店してくれということで、30秒以内で店に到着した。店に入ってから苦情を言われ続けた。まぁ、仕方がない。予約でやっているわけだからね。ドタキャンされたらその時間は収入ゼロなんだし。

ただ、そんな状況でカットしてもらうのは実に気まずいながらも、細かいいろいろな工程をショートカットしてもらいながら、短時間で散髪が終わった。

その時、ふと思った。

・確かに予約の時間に遅れたのは私が悪い。これは主観的にでも分かる。
・しかしここまでブルーな気分にされる必要はあるのか?
 →「予約の時間をずらされるとうちの利益に響くんですよ。」
・というか無駄な工程を省いたら早くてむしろいいじゃないか。
 →眉毛とか、顔の表面とか、髭とか特に剃ってもらわなくていい。
 →家に帰ってからどうせ頭を洗うんだから洗髪はいらない。
・そこの店主はネガティブ思考で、過去にもそんな話題に耐えてきた。
 →「不景気で今の時代、何をやってもダメですよ。」
 →「しばらくはこの不況は続くだろうし、未来はないですね。」
 →「予約が埋まらなくなってきたら、こんな店やめちゃいますよ。」
 →「うちの店がイヤなら、無理して来てもらわなくていいです。」
・結構、予約って足かせになってきちゃってるな。
 →常連客の予約がそこそこ入っていて予定を組まないと散髪できない。
 →予約して、また同じようなことになったらと思うと気が重い。
・別に技術的にビックリするくらいウデがいいワケでもなかった。
 →たまに帰ってから鏡を見ると切り残しの長い毛がいっぱいあった。
 →基本的にバリカンで短くするだけなのになんで切り残しがあるんだ?
 →たまに細かい傷跡があったりして、明らかに出血していたりもした。

客商売って難しい。明らかに客の方が悪くても、店主が客に怒りを見せたら最後だ。誰がそんな気まずくなった場所に足を運ぼうとするだろうか。サービス業は客にイヤな思いをさせる場所ではないはずだ。

店の利益の話をされた時、つい「ははぁ、このオヤジにはオレの顔が5千円札に見えるらしい。」と思った。だいたい、そこでの散髪料がそれくらいだから。そんな風に思わせた時点で、私はその店にお金を落とすのがバカバカしくなった。

もし、この時に「ああ、お疲れだったんですね。そういうこともありますよ。とりあえず次回からは気をつけてくださいよー。」と声をかけてもらっていたら、確実に今日も以前の床屋に行っていたはずだ。「申し訳なさ」という借りがあったとすれば、私は何が何でもそれを返そうとする性格なのだ。

もちろん原因は私にある。飲み屋で宴会コースを頼んでおいて、ドタキャンしたり激しく時間が遅れてしまったりしたら、当然タダでは済まないだろう。飲食しなくてもその分の料金を支払う必要があるし、それを払わなければ法的な対応があっても不思議ではない。床屋の予約にしても基本的にそういうものだろう。

しかし、どんな固定客(4年も通えば半ば固定客といえないだろうか?)でも、そこの店から離れる可能性を持っているのだ。時間がかかりすぎるとか、会話がネガティブでウザイとか・・・そういう感想が多少あっても「まぁ、長いつきあいだから」と大目に見ているものなのだ。

そこに冷や水をぶっかければ当然ながら目が覚める。「この店は私のいきつけとして向いていないな」と。相手がこちらを大目に見られないなら、やはりこちらも店を大目にみられなくなるのだ。相互作用としてそういう点はあると思う。そもそも店の空気が主客転倒している。

そういう意味ではお互いに「ナアナア」だったんだろうなあと思う。私は予約の時間に遅刻していったワケだし、店の方は切り残しがあっても気づかなかったり、怪我をさせてしまっても何も言わなかったり、ネガティブな話題ばかりだったり、自分の利益優先で客の気分を落ち込ましたり。

そんなワケで、最近、自宅から5分くらいのところにできたカット屋に行ってきた。

・お値段は1100円で今までの5分の1から4分の1!
・洗髪はなしで吸引器(掃除機?)で髪の毛を吸い取る。
・顔剃り、髭剃り、眉剃りはないからスピーディ。
・一人あたり10分くらいだから待ち時間もほとんどなし。
・当日ふらっと行ってもさくっと切れるのはお気軽。
・会話にも気を遣わずにカットしてくれるのがうれしい。

今までの行きつけのオヤジには感謝している。目を覚まさせてくれたおかげで、値段が安くて、時間も短くて、そして気も遣わなくていい店を知るきっかけができたからだ。心から「ありがとう」と言いたい。もうオヤジの店にはいかないけれど。

ラクなことの是非

すべらく!」というサイトを運営していることからも分かるように、私はラクをすることが大好きだ。ラクをするための仕組みを考えることが大好きだ。そういうコトを書くと「最近の若いヤツは汗水たらさないで、ラクするコトばっかり考えやがる!」とか「ラクばかりして、汗水をたらさない仕事なんて仕事じゃない!」なんて白眼視される傾向が強いんじゃないだろうか。

汗水たらして働くコトはそれはそれで素晴らしいことだと思う。しかし「ラクするコトばっかり考えやがる!」という批判についてはいささか腹立ちを覚える。私の感覚からすればまったく時代錯誤で前時代的なトンチンカンな批判だと思う。少なくとも自分の生きてきた世界の価値観だけを見ていて、これからの未来をまったく見ていないと個人的に思っている。

汗水たらしてラクをしないことが美徳だと主張する人は、車にも電車にも乗らないほうがいいだろう。ラクするコトを考えずに汗水たらして歩けばいいじゃないかと思う。人と話がある時は携帯電話どころか電話も使わず、直接、相手のところまで汗水たらして出向いていけばいいんだと思う。

わざわざそんな面倒なコトをしたくない「ラクをしたい」人がいたからこそ、車や電車が存在するし、電話が存在するし、さらに便利な携帯電話が存在する。自分を取り巻く世界が受けている恩恵は「ラクをしたい」という願望から生まれていることが多いと思う。

自らがそういう便利なモノの恩恵を受けていながら「ラク」を批判することは明らかな矛盾だ。みんなが汗水たらして働く仕事をするようになったら、間違いなく今までにいたる文明は崩壊するよ。「ラクをすることを考えず、つらくても必死で汗を流すことがいい。」というのは、完全に旧時代的なファンタジーだと思う。現代社会には「肉体労働」だけじゃなく「頭脳労働」の両輪が必要なのだ。どちらかだけではダメだと思う。

ただ「ラクをする」というのが大好きな私も、「ラク」をする「ラク」の種類にはこだわりがある。

「何も考えなくても、ずっと同じコトだけ続けていればいいからラクだ。」

というのは、私にとっての「ラク」じゃない。ラクになったことをずっと続けるだけというのは苦痛だ。私にとっての「ラク」とは、今まで「ラクじゃなかった」ものが「ラクになった」と実感できるコトだ。だから、何かひとつをラクにしたら、何か他の「ラクじゃない」ものを探し歩くことになるんだろうと思う。

そういう意味では、私自身も矛盾を抱えて生きている。ラクを実感するにはその真逆を知らなければ、決してラクをできないということだ。ラクをするコトが大好きな人にとって、もしもラクしかない世界が実現してしまったら、何もするコトがない世界になってしまう。

ちなみに、今、ハケンをしているが、これもまた「ラク」な環境と言えるだろう。仕事の根本を考えなくとも仕事が与えられ、それを解決さえしていればお金がもらえる世界なのだから。その代償としてプライドを売り渡さなければならない場面はあるが、仕事を必死に考えなくても生きていける環境だ。自分で仕事を考えて、仕事を引っ張ることを考えたらどこまでもラクな世界だと思う。少なくとも短期的には。

ただ、長期的に今の環境を眺めてみると、私にとっては決して「ラク」な環境でないことを知っている。ハケンだけでやっていくという選択は、自分で自分自身の生き方をコントロールできない生き方だからだ。仕事の根本を考えなくてもいい環境は、仕事の根本を考える力が鍛えられない環境なのだ。大した技術力がなくとも回ってしまう環境にいれば、それ以上の技術力を身につけられない環境なのだ。これほど危険な環境があるだろうか。

また、時間の経過に従って自らの体力も経年変化することだろうし、時間を重ねれば重ねるほど契約の打ち切りリスクも増大するだろう。そして10年続いたとしても、時給はいつまでたっても据え置きだろう。もっと現実的に考えれば減少方向に移行することも想像に難くない。10年前に同じ現場にいたプロパーとは驚くくらいに収入に格差ができているだろう。その時にハケン以外の生き方をしようとしても、その時点で選べる選択肢はほとんど枯れ果てているはずだ。

これがハケンをずっと続けていった先に見える悲劇のシナリオだ。どうしてここまで最悪のパターンを考えるかといえば、自分でコントロールできない力に寄りかかって生きる場合、その力が影響を示す範囲でしか生きていけないことを意味しているからだ。中途半端な飼い犬は捨てられた後がミジメだ。エサをもらうことに慣れてしまい、自分でエサを確保できなければ死んでいくしかない。

このように、短期的に「ラク」そうに見えることには大きな危険が潜んでいることがある。さりとて、長期的な「ラク」だけを追っていると、苦労した経験だけを残して早死にしてしまう可能性もある。だから「ラク」をするにしても、「近い未来」と「遠い未来」の両方をバランスよく追いかけることが必要なんだと思う。

2009年8月19日水曜日

プロパーとハケン

ハケン暮らしももうすぐ2年半。こんなに長く続けるつもりなんてサラサラなかったのに、思ったよりも長くウダウダしてしまったかなとも思う。まぁ、とりあえず、今、着実にできることをやっていこう。いずれにしてもハケン生活も今年中までかな・・・と考えているし。で、ハケン暮らし真っ最中のうちに思ったことを書き残しておこうと思う。

私自身はプロパーとしてハケンの人と関わった経験もあるし、今はその正反対の立場を経験している。これだけ視点が真逆になってみると面白い発見がたくさんある。

まぁ、どちらも「私のプロパー体験」と「私のハケン体験」という視点ではあるので、それが「世間一般のプロパー像はこうだ」とか「世間一般のハケン像はこうだ」ってことにはならないと思う。それにIT系の業界に限定した見え方に過ぎないんだけどね。

プロパーだった頃、「なんでハケンって仕事を一生懸命やらないんだろう」・・・って思ったことがある。定時になったらさっさと帰宅しちゃうし、なんだか仕事に対する一体感というか連携感が薄い。

そして「結局、あの人たちは一生懸命仕事をやらないからハケン止まりなんだろうなー」とも思っていた。基本的に人生に対する認識が甘っちょろいヤツラなんじゃねーかと。「ハケンって社会をナメてるよねー」って真顔で思っていたからね。

うーん、なるほど。立場が変わってみても、たしかにそう思えるフシもある。まぁ、そう思われても仕方ないかな。ひるがえって、ハケンになってみると見える世界がまったく変わる。当時、ハケンの人たちに聞けなかった答えらしいモノが分かってくる。

基本的にIT技術系のハケンの人々というのは半ば「個人事業主」みたいな立場なんだと思う。だからそこの職場だけで通用することに時間を削ることを好まない。どこの現場でもやっていけるスキルアップを行動の軸にしやすいような気がする。

昇進なんてないから社内のウェットな人間関係には全く興味がない。上司を一生懸命ヨイショしてみたり、会社のためにこんなにがんばっているんだ・・・なんていうアピールも必要がない。というより無駄だ。オリの外からそういうのを見ると「はいはい、どうもお疲れ様」という感覚になっちゃう。

だから仕事に対する一体感が希薄・・・と言われても仕方がない。「実際に『一体』じゃないんだから、それで『一体感』を見せろなんて言われても、そもそもそれは無理でしょ?」ってなっちゃう。一体感を得られた「つもりになっちゃった」ハケンは悲しい。

「パーツとして使えない」と思われたらそこまでだ・・・という覚悟をするのがハケンの宿命なんだから、それなりに仕事に対してもクールにならざるを得ない。「家族同然の関係になっておけばクビは切られないだろう」なんて考えるハケンは認識が甘いと思う。

ハケンの側に立って、プロパーだった時の使命感とか、そこから派生する残業やらを眺めてみると、「組織の中で生き残るためにがんばってるなあ」とか「会社のオリをちゃんと一生懸命に守ってるなあ」という冷静な感想に行き着く。まぁ、ハケンなんてオリの外側の人間だからね。オリの中の権威とか序列とかどーでもいいことに見える・・・いや、実際にどーでもいいんだけど。

こういう簡単なコトがプロパーの立場の時には想像もできなかった。自分の価値観と異なる生き方があるっていうだけの簡単な話なんだけどね。プロパーの立場でいることが世の中で唯一の正解くらいに考えていたこともあるくらいだもの。たぶん自分の価値観を絶対視しちゃうと、異質の存在を永遠に理解できないかもしれない。

ま、プロパー的には「別に知りたいとも思わないけどね」という感想だろうし、それはそれでいいと思う。ただ、異なる価値観とか生き方があることくらいは、現実として知っておいた方がいいと思う。別に理解までしなくていいから。

一方でハケンの人は社会的待遇に文句を言っちゃいけないと思う。少なくともそういう生き方を選択したのだから。選択せざるを得なくて仕方なくハケンになった人は、本来選択したかったポジションに移るために努力したほうがいいんじゃないかなあ。技術を極めて職人になるのもいいし、プロパーを目指しているのならプロパーを目指せばいいじゃないかって思う。

ともかくプロパーとハケンのどちらも経験した立場から考えてみると、この両者がどうもしっくり来ない場合の原因は、

「一生ここでがんばるぞ!」 vs 「まさか一生そこにいるの?」
「この会社のことなら任せろ!」 vs 「その会社だけで通用すればいいの?」

という価値観のすれ違いとか意気込みの温度差があるからで、それがプロパーとハケンの間に感情的な対立構造を生んでいるんじゃないかなと思う。

2009年8月12日水曜日

小学生の自分に

小学生の頃の自分というのは、まぁ、できないことが多かった。

今となっては恥ずかしい話だけど、一人でバスに乗ることもできなかった。
街の中にいる大人に話しかけるだけでも、ものすごく勇気が要った。
当然だけど、働いてお金を稼ぐなんてこともだって考えもできなかった。

それが歳をとるにしたがって、いろんなコトができるようになってきた。
たぶん大人なら誰でもできることには違いないけど、できるようになった。
いったんできるようになったコトって、そんなに難しくはなかったりする。
補助輪をなくした自転車に乗るのに苦労していた頃なんてウソのようだ。

できないことをやるには勇気がいるし、また根気もいるんだろうと思う。
でも、いつか「今にして思えば普通だね」と言えるようにしたい。

2009年8月5日水曜日

期限が近づいてきた

今、千葉県内の精神障碍就労支援で面白い動きが立ち上がろうとしています。半ば自作自演という趣もなくはないのですが、そこに私が関わっていく予定にもなっています。この動き自体が私が立ち上げる事業の本体ではないわけですが、密接に関係する動きではあります。

すると、ハケン仕事をやっている時間がなくなってきます。というか、まぁ、ハケン契約打ち切りも視野に入れた行動をとっていかないと、ひょっとすると年越しができなくなるかもしれません(苦笑)。

事業立ち上げの準備ってのは難しいところがあって、安定した(まぁ、所詮ハケンだから「安定」とは言わないような気がするけど)収入を手放すのがすごく怖かったりします。

だから、「ある程度、生活資金なりが貯まったら始めよう。」とか思うんだけど、じゃあ、それはどのくらい貯めれば安心できるの?・・・ってところで答えが出なくなる。基本的に成功させるつもりで事業を立ち上げるにしても、「約束」なんてのはどこにもないんですね。

事業化に向けてのビジネスモデルのアウトラインはできていて、関係各所との打ち合わせもできてはいるんだけど、事業単体での収益化プランのところがまだまだ甘い。ここを急ピッチで作り込まないといけない。しかも、たぶん9月末には誰もが納得するものができていなければ危ない。

そういう意味では、千葉県内の就労支援のグループが先に動いてくれたおかげで、腹をくくるまでの「期限」が明確になったような気がします。残業規制とやらで、時給単価は据え置きながらも、ハケン収入が去年よりも大きく下がっていて、月々に貯蓄できる額も縮小傾向になっているわけで。

このまま「ある程度貯蓄できたら」という姿勢を続けていたら、いつまでたっても何もできやしません。腹をくくって来年から始められるように準備をしなくてはなりません。

正念場です。

2009年8月2日日曜日

死ぬのが怖くない!?

なに言っちゃってんの?・・・と思われるかもしれないが。
正直なところ、私は死ぬことが怖い。いつか死ななきゃいけないんだけど。

「死ぬ準備ができた人から死んでいく」なんて話をよく聞く。
ついでに「いい人から先に死んでいく」なんて話もよく聞く。
ひょっとして人間性を磨くことが死ぬ準備なのかなあ。

で、あるならば、人間性を磨かないで長生きしたいなあ・・・って?
まさか、人に嫌われてまで長生きはしたくないけど、長生きしたい。
なぜって、世の中がどんどん面白くなっていくのを見たいからね。

こんな時代だけど、まだ、私は未来に期待感を抱いてます。

昨日、新しく始める事業の主要メンバーと一緒に飲んでました。
ビジョンとかそのあたりのことを、ざっくばらんに話し合いました。
一人は福祉系の人。一人は障碍者支援の事業をしている社長さん。

何かで話が脱線して「死ぬことって怖いんですよね」なんて話に。
その時に聞いた社長さんの話が、ちょっと響きました。

「自分で会社を立ち上げた時から死ぬことが怖くなくなったんだよね。
まず会社を立ち上げる時って、死ぬくらいに怖かったし勇気が要った。
だけど、腹をくくって自分のやりたいことにまっすぐ進んだわけ。
死ぬことが怖いのは、やりたいことができなくなるからなんだよね。
だったらさ、常にやりたいことをやり尽くすくらいやればいいんだよ。
いつも全力だからさ、いつ死んじゃっても悔いは残らないんだよね。」

・・・なるほど。そう言える領域に行けるようになんとか前に進もう。
昨日はいい話を聞けました。

=====
最近、ブログ日記を書くとなると長文になりがち。
とりあえず、初心を思い出して短文で書いていこうと思う。

2009年7月27日月曜日

たったそれだけの

「たったそれだけのことができない」なんて言葉に打ちのめされている人はいないだろうか。そして打ちのめしている人はいないだろうか?

私はその「たったそれだけ」のことを、けっこう本気で考えてみたいと思っている。「たったそれだけ」というのは、工夫をする余地がたくさん残されていると思う。

「たったそれだけ」は小石のような存在で、やってみると簡単なコトだらけだ。たとえば駅で切符を買うというのもそうだし、コンビニでお金を出して商品とお釣りを受け取るのもそうだ。

切符を買うという「たったそれだけ」のこと。
初めての駅なら券売機を探さないといけない。そして行き先までの料金を調べたり小銭を用意したりもする。単純だが面倒だ。

こういう「たったそれだけ」のことをマジメに考えた人がいたからこそ、さまざまな電子マネーの仕組みができてきた。これで、駅でわざわざ並んで切符を買わなくてもよくなったり、コンビニでの支払いが5秒以内に終わるようになった。

私がハケンでやっている仕事の中には、人力で数時間かかるようなモノもある。ひとつひとつは些細で単純な作業だが、それが重なるとかなりの労働量になってしまう。私はこういう「作業」の指示をそのまま受けて「作業」したりはしない。

こういう「作業」からどうやって人力部分を省いて、数分でできるようにするのかを必死で考える。もちろん正確性などの品質も人力以上に高めることも含めて考える。これこそが私にとっての「仕事」だと考えている。

私が行うべき定例作業のほとんどは手間のかかるものだが、何も考えずにやっていたら数時間かかるような作業も、実は自動化の仕組みを作ったりして数分で終わってしまっている。その空いた時間を有意義に利用して、さらに他の「作業」の効率化を考えるのだ。私はこれを個人的に「時間を耕す」と呼んでいる。

私はこういうちょこちょこっとしたシステム化が好きだ。特に作ったシステムが有効に稼動していることを、空いた時間で実感することが仕事における最上の喜びだ。別に大規模なシステムじゃなくていい。むしろ小手先から順番に少しずつ便利になっていけばいいんだと思う。

で、私が最終的に構築してみたいのは人間そのものを巻き込んだシステム化だ。別に人間をコンピュータに組み込もうなんて話をしたいわけではない。人間は人間らしく生きた方が幸せだと思っている。本人の幸せを追求するために無関心な領域を省力化するシステム組織だ。

たとえば、苦手に思っていたり関心のない分野については、他のシステム(コンピュータ資源も人的資源も含まれている)によって補い、そのシステムを利用する人が最も興味を示す点だけに没頭できる組織を作れないかな・・・ということだ。そもそも人間社会自体が相互依存システムなのだが、どうもその恩恵を受けられていない層がいると考えている。

精神障碍周辺の勉強会なり研究会なりに参加していると、「○○の特徴として、興味のある分野に関しては特異的な能力を示すが、それ以外の点についてはまったく関心を示さないため、社会的コミュニケーションに支障をきたしやすい。」という話をよく聞く。

個人的には、別に他の人に迷惑をかけないなら、それでいいんじゃないかな・・・と思う。一体、誰が「人間として総合得点とか平均点が高くないといけない」と決めたのだろう。むしろ、興味のある分野に傾倒することが本人の幸せなら、安心して好きな分野に傾倒できる環境を作ることが大事だと思う。

そもそもそんなことを言ったら、私だってよく指摘されることがあったような気がする。「興味のあることにはムチャクチャ食いつきがいいのに、それ以外になるとテンションが目に見えて落ちるよね。」とか。

そりゃそうだ。人生に与えられた時間は有限なのだ。しかもその終焉がいつなのか分からないことを考えれば、できれば関心の強いところに時間を注ぎ込みたいじゃないかと思う。(寿命や病気だけが人生の終焉ではない上に、誰もが明日の生命を保証されていないのだから。)

たとえば、私は美術に全く関心がない。車や建造物などのかっこいいデザインなどは気になっても、名画のために美術館に足を運ぶ習慣はない。その時間やお金を自分の興味のある対象に注ぎ込んだ方がいいと思うからだ。

そういえば中学生だった時、歴史の先生に詰め寄ったことがある。「本当に授業で教えている歴史というのはホンモノである証拠はあるんですか。そんな不確かなものに時間をかけることに意味を見出せません。」と。

実際に、あれから数年たった今でも日本を取り巻く近代史については歴史観が分かれているし、昔、覚えた「いい国つくろう鎌倉幕府」もイイクニ(1192年)ではない説が有力になってきているらしい。(と、書きつつ、今では歴史認識の重要性は理解しているつもりだが。)

ともかく当時の私は、頑なにまで歴史を学ぶことに激しい抵抗を覚えていた。歴史の先生から見れば私は単なる問題生徒だったかも知れない。ただ、その行動特性が○○病の兆候だろうが△△症を表すものだろうが、私はまったく問題ないと思っている。

なぜなら私はそれなりに無事に生き延びているわけで、何かと欠点やら弱点やらを抱えていながらも、いろいろと工夫をしてそれなりに快適に日々を生きている。私が考えるユニバーサル環境とは、そういう仕組みだ。何かの障壁があっても、それを意識させないシステムが世の中に浸透することだ。

ユニバーサル環境というのは特別なことではない。たとえば、インターネットのメール、掲示板、ブログなども十分にある種のユニバーサル環境だと思う。インターネットを通したメディアで交換されるやりとりの先にいる人が、聴覚障害を抱えていようが言語障害を抱えていたとしても、たぶん自己申告でもしない限りは分からないし、そこには相互に何の不便もない。

私はフィジカルな分野ではなく、メンタルな領域でのユニバーサル環境について、何か発展的なシステムを構築できないかと考えている。幸せな仕組みをはやく実現させたい。もちろん、賛否両論あるだろうことは想像に難くない。それでも今よりも幸せになる人がいるのなら、やってみる価値はあると思う。

2009年7月22日水曜日

正常と異常の境界線

たまに受ける質問について書いてみたいと思います。

(1) どうして「障碍者」と表記するのか?
「害」じゃなくて「碍」。

(2) どうして「健常者」という表現が嫌いなのか?

まず、(1)について。

ひとつには「害」というイメージに拘りたくないということがあります。特に漢字というのは一文字ずつに意味が込められているので、イメージの刷り込みされやすいような気がするから。これは当事者にとっても周囲にとってもあんまり幸せじゃない。

他の表記方法としては「がい」というのもあります。いわゆる「障がい者」。これは極めて個人的な理由で好きではありません。日本には(大元は中国ですが)表現豊かな漢字があるのに、最近はどんどん「ひらがな」化されているのがなんだか残念なんです。

市町村が「ひらがな」化されたり、ニュースのテロップに「ひらがな」が増えてくるのを見ると、文化水準として大丈夫なんだろうか・・・なんて思ってしまいます。特にマスコミに誤字や誤読が多いのも問題だと思います。テレビを見ていると頭が悪くなるんじゃなかろうかと心配になるくらいです。

それで「碍」なんです。読みは「がい」で、意味は「さわる」という意味ですね。繋げて読むと「障碍=しょうがい」。「障=さわる」+「碍=さわる」→「障碍=さわりまくり?」

個人的には「得」の時に似ていて好きなんですよ。「石を得る」と覚えて「碍」。その昔、大きな功績をあげた武将に与えられるご褒美は領地で、その単位は「石(ごく)」。だから、百万石大名・・・なんていいますよね。まぁ、無理矢理感もありながら、なんとなくポジティブなイメージがあります。

ただ、そうはいっても、公的な名称についてはそのまま表記しています。たとえば「精神障害者保健福祉手帳」なんかはそのままです。このキーワードを必要としている人が、それを調べようとした時、無駄に遠回りさせてしまう可能性があるから。

次に、(2)について。
どうして「健常者」という表現が嫌いなのか?

やたらと区別することが、本質を見えにくくしているんじゃないかと思うからです。たとえば事前に「○○障碍」と聴いた場合、どうしても実際に会う前に頭の中に何らかのイメージが刻み込まれるケースが多いように感じます。

それから「健常者」という響きの中に「障碍を持っている人間とは違う」とか「自分たちは社会のスタンダードだ」というニュアンスを感じます。たまたま医療的な障碍を認知していないだけで「健常者」って、別にそんな偉いワケじゃありません。あまり「上から目線」で人を見ない方が幸せになれそうな気がします。

健常者として生活している人の中にも、いわゆる「○○という疾患で代表的な症例は△△という行動である。」という話があれば、それにあてはまる人なんていくらでもいます。一般社会の中でこんなセリフをよく聴いたりしませんか?

「あの人、変わり者だけど、仕事はものすごくできるよね?」とか。

ひょっとすると病理的には何らかの診断が下される可能性もあるし、実は本人も知っていて言わないだけなのかもしれない。でも、そこに何らかの規定をすることには全く意味がないんだと思うんですよ。「人間」を見る前に「病気」を見てしまっては・・・ね。

それから、「狂気」・・・と書いてしまっていいのか分かりませんが、誰もがそういう性質を隠し持っているものだと思っています。たとえば、最も分かりやすい分野で言えば「性行動」かも知れません。おそらく普段は行わないようなことがたくさんあると思います。

「健常者」・・・なんて言ったって、紙一重なんだと思います。

2009年7月20日月曜日

発達障害サポートコーチング研究会

今日は午前から「精神障碍就労支援育成プラン」の打ち合わせ。モーニングセットを注文できる時間から、延々3時間に及びました。さらに謎の「フェニックスプロジェクト」についても話を詰めました。

うん。だいぶいい感じ。足りない部分は24日に再調整する予定です。

気がつくと、午後の「発達障害サポートコーチング研究会」に遅れそうな時間になっていました。電車で新宿から高田馬場に移動。徒歩じゃ間に合わないのでタクシー。ああ、今月、ちょっとフトコロがきついんだけど・・・しょうがないか。

この研究会、実は一回目。
「発達障害サポートコーチング研究会」が生み出すモノはまだ未知数。だけど必要なインスピレーションって、そんなところにあったりするんですよね。未知数だからおもしろい結論が得られたり共有できたりするんじゃなかろうかと。

私が今、やろうとしているのは、精神障碍の当事者に対する就労支援。いや、支援よりもさらに積極的なフィールドを構築することなんです。・・・ん、このあたりの詳細は、もうちょっと事業として形ができてくるまで詳細を割愛します。

さて、精神障碍と発達障碍。
似ているようでだいぶ違う。だけど似ています。
外側からわかりにくく、さらに理解されにくいという一点において。

実は、私にとって興味があるのは「メンタル・ユニバーサル環境」の構築なんです。要するにいかなる障碍を患っていても、要するに本人が幸せに生きられるようになればいいんだと考えています。

「現実を知らない人間が、そんなに簡単に言うな!」

と、関係者から怒られそうですが、現実を知らないからこそ、第三の視点から大胆な発想で解決に迫れる可能性があるんだとも考えています。そういう意味では「部外者」という自覚もありながら、今回の研究会に参加しました。

研究会の感想を書きたいと思います。

今まで苦労して戦いながら子供を育て、これからの未来を心配する親御さん。そこには深刻な切実さを感じました。

・・・が、ちょっと気になったことがあります。

「○○だから△△は絶対に無理です。」
「××という簡単なことができなくて心配です。」
「○○だから□□という人生を歩ませたい。」

という話についてです。これは過酷なことを書いているのかも知れませんが、私には分からないことがあります。

親の価値観で決めつけて敷いたレールを歩ませることは、本当に当事者にとって幸せなことなんだろうか?

そして実際に試すこともせずに、親の判断で「不可能」と決めたことを、当事者の人生に納得させることが正解だろうか?

・・・と。

順当に人生を送っていったとしたら、親はいつか、子供より先に天寿を全うすることになります。その時に当事者が初めて人生のハンドル(責任)をたったひとりで握らなければならないとしたら、その方が過酷な人生になるような気もします。

もちろん親御さんには大変なご心労があることと思います。
私には知りようもない壮絶な戦いの日々なんだと思います。

しかし、障碍の有無に関わりなく、親の価値観の強さが自立心の芽を摘んでしまうこともあるような気がするんですね。

たとえば私は、とりあえず今のところ「健常者」ということになっています。もちろん細かく診断してみると何らかの障碍がどこかにあるのかも知れませんが。(個人的には「健常者」という呼び名は好きじゃありません。)

それでも職業選択や人生の選択において、「親の意見は先人の意見として正しいのだから従うべきだ」という価値観の押しつけを感じることは過去にありました。つまり、障碍の有無に関わりなく、親とはそういうものだと思うのです。

鳥は自由に飛ぶから鳥なんです。安全だからと鳥かごに鳥を入れていたら、その鳥は自分で飛ぶことをあきらめてしまうと思うんです。そして飼い主が突然いなくなってしまったら・・・どうなるんでしょうか。

それから、親御さんの話を拝聴していて思ったのですが、そもそも100点満点じゃなきゃいけないのでしょうか?

できないことなんて人それぞれ当たり前にあると思うんですね。

たとえば寿司職人はお客さんからバラバラに注文されても、それぞれのお客さんに間違いなくお寿司を出すことができます。すごいなあと思います。私にはたぶんそれは難しい。なぜならその能力を伸ばすことに何の関心もないからです。

だから、私の場合、同時に何かを頼まれたら最初から記憶力に頼るつもりなんてありません。その代わりにメモをとったりするんです。そしてそのメモの内容をその場で確認して間違いのないように努力する。それだけです。

だから見る人によっては、ひょっとすると私は短期記憶能力が乏しいと思う人もいるかも知れませんが、それを補うための方法論を作り出せば何の問題もないと思うのです。もちろん寿司職人になることはできないと思いますが。

100点満点じゃない人なんて健常者と呼ばれる人の中にいくらでもいると思います。というか100点満点の人なんて見たことがありません。むしろ100点満点に見えそうな人なんて、近づきがたいことこの上ありません。

確かに障碍によって不都合なことはあると思います。これは決して否定しませんし、それは何らかの形で上手にフォローする必要もあると考えています。ただ、このフォローの手段にはいろんな方向性があると思うんです。たとえばまったく違う業種のまったく違う立場の人間にしか見えない解決策もあると思います。

そのために私はこの研究会に出席しました。そしていろんなヒントを求めています。さらに私が持っている「何か」がお役に立てばいいとも思っています。当事者の才能や特徴を社会のために生かせる発想が隠れているかもしれません。

だからこそ簡単にあきらめないでほしいなと思うんです。当事者の方もその周辺の方も。いろんな活動をしている人たちが世の中にはいます。知恵を集めれば何かが生まれる可能性は高いと思うんですね。

さて、今回の研究会で受け取ることのできた、私なりの重要なキーワードをここに書き残しておこうと思います。

・「答えは相手の頭の中にある。」

他にも気になるキーワードはありますが、もっとも重要なキーワードをひとつだけ挙げろと言われたとしたら、この一言に尽きると私は思います。

無意識に相手をコントロールしようとしてしまうことって、かなりあると思うんです。それがたとえ相手に対する善意であったとしてもイヤなことだと思います。イヤなことだから徹底的な反発を食らっちゃう。考えてみりゃ・・・当たり前のコトなんですよね。

たしかに「答えは相手の頭の中にある」んだと思います。ただ、その答えを「頭の中」から上手に自分で探せない人もいます。だから「頭の中」の冒険を一緒につきあう必要があるんだろうと思いました。

相手の目の前に自分が準備した宝箱を出して「これが正解だ!」とするんじゃダメなんだと思います。一緒に宝箱を捜しに行く過程が大事なんだと思います。ひょっとするとその宝箱には、まったく意図しなかった結論が入っているかも知れません。

でも、それが本人にとっての「宝物=価値観=納得」なんだと思います。

そんなことを考えた研究会でした。

2009年7月16日木曜日

WRAP・・・元気回復プラン行動

Wellness Recovery Action Plan・・・でWRAP(ラップ)。
「元気回復行動プラン」という方法論がシステマチックにまとめられています。
個人的には、この動き、応援したいなと思っています。

WRAPというのは、もともとはアメリカから伝わってきた概念で、精神障碍に対する有効なアクションプランです。あらかじめ調子のよい時に、自分の弱点や回復に関する分析を行っておいて、調子が下降してきた時にどのように回復するのか・・・という、自分専用の回復マニュアルを作るワケですね。

すべらく!(http://respect.arrow.jp/suberaku/)の目指すところも、「元気回復行動プラン」に非常に近いんですよね。自分的には。

もともと「すべらく!」に書いていることって、自分がへこんだ時にどうやって回復したんだろう・・・という経験則をまとめたものなんです。後になって、同じようなコトが発生した時に、「あの時どうやって復活したんだっけ?」というのが思い出せると便利だなぁって。

そうやって、いろんなコトにぶつかるたびにメモしてきたんですが、ふと思ったんです。

「ひょっとして、自分の経験則って他の人でも役に立ったりするかな?」

・・・って。そんなワケでサイトを作ってそこで発表してみたらどうかなー・・・って思ったワケですね。そう思ったのが2008年。2009年になってやっとサイトという形ができてきたところなんですが、そこでWRAPに出会うというのは何やら縁を感じます。

これから、すこしずつWRAPについて研究してみようと思います。
こういう人間が幸せになるためのメソッド開発っていいな。

2009年7月12日日曜日

誰もが精神障碍を体験する

精神障碍者というのは「特別」とか、もうちょっと誤解を恐れずに言えば「特殊」とか、そういう範疇で考えている人は多いと思う。ぶっちゃけたところ、大昔は私もそう思っていたかもしれない。

私がいろいろと当事者をとりまく雇用状況に興味を持った当初、私が聞き回っていたのは「精神障碍者の人って平均的にどういう傾向があるんですか?」という質問だった。

これは「男性って平均するとどんな傾向があるんですか?」とか「愛知県出身の人って平均するとどんな傾向があるんですか?」っていう質問と同じぐらいの愚問だ。

それらに対する答えは「一概に言えない。人によって違う。」というのが答えだ。障碍という焦点で答えるならば、「一概に言えない。障碍の程度によっても、人によっても違う。」としか答えられない。

ただ、精神障碍を持つ人たちに向けられる視線の傾向・・・というコトであれば、私は答えられる。当事者と無縁な人たちであるほど無理解で無慈悲な評価を下してしまいやすいということだ。

もちろん評価を下した人に悪気があるわけではない。要するにそういう障碍を持つ当事者との向き合い方を知らないだけなのだろう。精神障碍の当事者は、身体障碍とか知的障碍とかと同じ対応をされやすい。

身体障碍・知的障害の場合は、ある程度の「根性」とやらで、なんとかなる点が往々にして多い。だから「良識ある健常者」側からの立場で口を開くと、

「物理的に対応可能なハンデは支援する。ただし泣き言なんか許さない。特別扱いなんかしないから同じ土俵で勝負しろ。それがオレなりの公平な態度だ。根性で戦え!」

・・・となってしまう。

確かに、この意見はユニバーサルな姿勢が持つ一面として正しいと思う。障碍以外の部分については、健常者と同じ条件として厳然と扱う姿勢に正しさもある。変に障碍を意識されて過保護な姿勢をとられるよりは、厳しさも対等である方がむしろ救われる障碍者も多いだろうと思う。誰かに「かわいそう」と憐れまれる状況の方がミジメなのだから。

ただ、精神障碍というのは「根性」と相性が合わない領域だから、ある意味、身体障害や知的障害よりも理解を得ることが難しいかもしれない。精神障碍の疾患の中には、常に幻聴が聞こえる状態で仕事に集中できない症状や、一切の気力が失われて何もできない状態が続く症状もある。

・・・と書いてはいるが実際のところ、私自身がこのような症状を体験したことがないから実はよく分からない。だから、「どうせいい加減なコトを理由にして現実逃避しているんだろう?」と思う人もいるだろう。自分が体験できないことは信じない。ついそう考えてしまうことは別に珍しくない。かくして「幻聴が聞こえるなんてウソばっかりついてやがる!」とか「何もやる気力が起きないなんて気合いが足りないだけだ!」という、感情的な主観論になってしまいがちだ。

ただ、私もIT業界に身を置いた体験の中で、連日の徹夜による疲労のピークで幻聴を聞いたことがある。おそらく幻聴自体は誰もが体験したことがあると思う。もっともわかりやすいのは「夢」だ。誰もが夢の中で誰かの声を聞き、何かの音を聞いているはずだ。しかし、現実ではなんの音も出ておらず、夢の中で聞いた音は脳が勝手に作り出した幻聴だ。

疲労の極みで睡眠を我慢していると半覚醒状態になるのか、起きていながら「夢」で聞くような声が聞こえることがある。俗な言葉で表現すると「寝ぼけている」状態だ。おそらく幻視についても「夢」で人や風景が見えることを考えたら、まったくありえないことではないことが分かる。これが現実とオーバーラップして発生するのがいわゆる白昼夢ではないか。

白昼夢もまた、誰もが経験していることだと私は考えている。「脳」がパニックを起こして、現実と過去の区別がつかなくなる体験をしたことがないだろうか。いわゆる「デジャブ(既視感)」という現象だ。今、起きていることが過去の夢で予知していたかのように、脳がパニックを起こしている状況だ。

寝ている間に勝手に「夢」として音や映像を作り出してしまう「脳」。そして「現実」と「夢」の境界線が認知できなくなる「デジャブ」を引き起こす「脳」。この二つの状態が「脳」で同時に起こってしまったとしたら、普通に生活をしている中で、幻聴や幻視が見えることは可能性として十分にあり得ると思う。

もちろん「幻聴が聞こえた」「幻視が見えた」と言っても、誰もそれが真実であるかどうかを確認することはできない。あなたが実際に体験した夢について「○○という夢を見た」と、他の誰かに本当のことを主張したとしても、それが真実であることを証明する方法が存在しないことに似ている。

心とか精神というものは、他の誰にも触れることのできない領域ゆえに、適正な方法でその正しさを証明することができない。精神障碍という症状と向き合う難しさというのは「無条件に信じる」しか出発点がないことなのだろう。つまり精神障碍の症状を聞くときには、相手の「夢」のように思える話を真実として認める覚悟が必要になる。「それは気のせいだろう!」とか「それは精神がたるんでいるからだろう!」・・・などと否定したって何も前には進まないのだ。

仮に夢の中で写真を撮っていても録音していたとしても、現実世界にはそれを持ってくることはできない。それを信じてもらうためには「無条件に」信じてもらうしか方法がないのだ。もちろん夢の話では簡単にウソをつけることも歴然たる事実だ。

あえて性悪説で精神障碍を考えた場合、「ニセ」の症状を語る人も数パーセント含まれているかもしれない。実際にありもしないことを真実のように語っている人もいるかも知れない。またはちょっとしたことを大げさに申告している人もいるかも知れない。しかし、そのことが精神障碍の症状すべてを頭から否定する理由にはなりえない。

本人がそういうなら「真実」なのだ。がんばろうと思ってもがんばれない。これも真実なのだ。そこに精神論とか根性論を持ってくることはナンセンスだと思う。事実を事実として受け止めた上でその先を考えていくしかないのだ。

誰もが夢をみるし誰もがデジャブ(既視感)を体験する。感情の感度も人によって違う。価値観も人によって違う。誰もがそれぞれ違う世界を持っている中で、脳のメカニズムの失調(伝達物質や電気信号の不調)により、そこにさらなる違いが発生する。

精神障碍というのは、いわゆる「健常者」にとって遙か遠くの現象でありながら、その一方で実はものすごく近い現象なのだと思う。精神障碍という現象は、あらゆる意味で紙一重の世界なのではないかと最近考えさせられている。

2009年7月8日水曜日

職人気質?

今日は、IT現場のハケン仲間が大騒ぎしていた。

今まで面倒な作業で制作していたWebアプリケーションを、「Ext」(http://extjs.co.jp/)という仕組みを使うと、洗練されたWebアプリケーションが簡単に作れてしまうことが明確になったからだ。

要するに誰でも簡単にWebアプリケーションを作れてしまうから、自分たちの商売がなくなってしまうんじゃないか・・・という話だ。

個人的には「え?・・・それっていい話じゃないの?」と思ったんだけど。

・そもそもその面倒くさい仕事を一生やるつもりだったの?
・世の中の知的財産が増えるのならそれをこそ応援すべきでは?

今までアプリケーションの制作ってハードルが高かったから、何かを作ろうと思っていた人が作れずにいたかもしれない。これから世の中に役立つ仕組みがもっと出てくるかもしれない。いろんな人のアイデアが世の中にもっと出てくる。

世の中がよくなるんだとしたら、逆にこれから何かを作ろうとしている人を応援する側に回ればいいと思う。いくら簡単になったからって言っても、ハードルがまったくなくなったかといえばそうでもない。やっぱり初めての人にはハードルが高い。

時代に合わせてニーズを自分で考えていくべきじゃないのかな。昔の日本には自分の足で走って手紙を届ける「飛脚」がいた。今はいない。車社会という時代にマッチしないからだ。逆に車を使って手紙を届ける職業は現代に存在する。

要するに環境なんていうのは道具に過ぎないわけで、便利な道具ができたのならその道具を使って生きていけばいいんだと思う。車社会になりつつある時に、飛脚の仕事にこだわっていたら仕事はなくなると思う。

変革の時に保守的になるのか。それとも変化を受け入れていくのか。その姿勢によって自らの未来は大きく変わると思う。それにIT業界には大きなインパクトを与えながら、主流にならなかったモノの残骸がたくさんあるじゃないか。最初は鳴り物入りでジャーンとでてきて、いつの間にかなりを潜めるバズワード。

たとえば「Second Life」が出てきた時なんか、「これからはバーチャルリアリティの時代だ。あらゆるコンテンツは3D化され、ブラウザでインターネットの情報を閲覧するのは時代遅れになるだろう。早かれ遅かれWebデザイナーは転身を余儀なくされる。」なんて言われていたのにね。

実際にゃ、今、そんな世の中になってないじゃん。未だにインターネットと言えばWebサイト・ブログの閲覧が主流だ。

私が浅慮なのかも知れないが、もっと前向きに考えられないものかと思う。時代が変わるときに自分の足下を気にして、世間に逆行することをしてはいないだろうか。日本の政治でいえば既得権益にしがみつく道路族や郵政族みたいなもののようにも思える。

今後「Ext」が主流になっていくと思うのなら、その関連のノウハウをコアにして今後やっていくのもいいだろうし、違う技術畑を耕してみてもいいんだと思う。

繰り返しになるが、環境・・・もっと具体的にいえば開発環境はツールに過ぎない。そこにアイデアが乗らないと何の役にも立たない。誰でも使える大きなキャンバスがあって、誰でも使える色鉛筆が置いてあっても、絵を描く動機やイメージがなくては絵画にはならない。

アイデアをすぐに形にできるツールができたのなら、どうして「これからはアイデア力で勝負するぞ!」と思えないのだろう。ハケンだから・・・というワケではないだろうが、一生、誰かから命令された仕事を、やり続けるつもりなんだろうか?

正直ね、「Ext」なんて使わなくても、アイデア力のある人なら既存技術でも十分におもしろいモノを作っちゃいますよ。そういうことを心のどこかで知ってるくせに、気持ちで負けちゃつまんないと思う。

2009年7月5日日曜日

12/12(12分の12)

忘れてはいません。
1月13日に「夢に進むか諦めるか」という基準を設けていました。
1/12(12分の1)[2009/01/13]

当時の日記から引用してチェックしてみました。

==========
◆現時点(当時)での案件リスト
  案件(L1):
    新規業態の飲食店システムの立ち上げ
↑まったく進んでません。もうちょっと力が必要です。

  案件(M1):
    新規業態のIT雇用の開拓・促進・教育システムの立ち上げ
↑こちらをメインに進めています。事業計画書を作成中です。

  案件(S1):
    異業種コラボレーションによる新規事業開拓の基盤構築
↑発展基盤として「すべらく!」というサイトを作りました。

  #なお、これらの案件以外にも増えていく可能性はあります。
↑実際には案件を増やさずM1とS1に集中することにしました。

●6/30の時点で夢の継続が可能な到達条件:
次の項目において、3つ以上が満たされている場合。
  (1) 案件(L1)の持ち込み先で正式な事業案件として進行していること。
    □事業案件を進めるための人材リストに名を連ねていること。
    □事業立ち上げまでの日程が計画として関係者周知されていること。
↑未知の領域でもあるので、もうちょっと自分の力を磨きます。

  (2) 案件(M1)の持ち込み先で正式な事業案件として進行していること。
    ■事業案件を進めるための人材リストに名を連ねていること。
↑当時は、すでに力のある組織にアイデアを持ち込んで、そこの
一員として働く・・・という前提でしたが、やはりやるからには
自分の主体性を意識しようということで、私が代表者として立つ
スタンスで行くことにしました。

    ■事業立ち上げまでの日程が計画として関係者周知されていること。
↑ご協力いただけそうな方々には事業計画書案を配布しました。
これから資金調達も含めて、方針を固めて動いていく予定です。

  (3) 案件(S1)について考案した仕組みがすでに運営されていること。
    ■上記仕組みがすでに開発済み(β版で構わない)であること。
↑実は個人個人のノウハウ熟成をアシストするためのWebアプリ
を作成したのですが、不特定多数に使ってもらうには人が集まる
場所を作る必要がある・・・ということで「すべらく!」を作り
ました。まぁ、まだ、サイト自体の完成度が高くないので、改善
を続けていく必要がありますが、サイト閲覧者が増えてきたら、
ちょっとおもしろい機能を追加していこうと考えています。

    ■上記仕組みを利用している協力者・利用者がすでに存在すること。
↑サイト閲覧者自体は思いのほか多かったのですが、アクセスの
状況を追跡するとページ遷移が途中で止まっていて、コンテンツ
の誘導性がよくないことが分かっています。まったく読まれない
ページも存在しているため、現在、根本的にサイト見直し中です。
とにかく、地道に続けていくしかないかなと考えています。

上記を満たさない場合でも、次の条件のどれかを満たす場合。
  (4) 上記案件またはそれ以外で収益があるか収益予定が明確な場合。
    ▲派遣業務以外の自主的活動において入金がなされた場合。
↑とりあえず、アフィリエイト広告などをサイトにつけてみた。
広告の表示は自由に制御できることが分かったので、閲覧者傾向
にあわせた広告を効果的に出せる方法を模索しようと検討中。

    □たとえば協力者報酬など書面等によって担保されている場合。
↑自分が主体的にはじめるので、担保なんて何にもないです。

  (5) 目的に関する理解が広く得られ第三者より継続を希望された場合。
    ■実名による継続希望または協力の申し出があった場合。
↑新規雇用の創出の件は、いろんな人にお世話になっています。
実際に私の構想を支援してくれている方々もいます。感謝です。
そんな状況で「あきらめる」なんて選択肢は私にはありません。
==========
いささか、自分でも判定がアマアマだなぁ・・・という印象は拭えきれないのですが、もともと継続するために立てた判断基準なんです。それにこの数年、具体的に何も動いていなかったことに比べれば、とりあえず自分で動いて、何かを作り、人に会い・・・ということができてきた半年だったと思います。
そういう日常に何か光というか希望を見いだしています。今、私は次の半年を意識して動き始めています。地道にやっていこうと思います。
本当は12月までのプランを具体的に書きたいところなのですが、さすがにアイデアが固まってくるとなかなか書きづらくなってきますね。企業秘密・・・といっては、いいすぎかもしれませんが。

とりあえず、ざっくりと。
案件M1:とにかく資金調達。魅力ある事業計画書を作り資金を集めます。
案件S1:読まれるサイトとして多く読んでいただける状態に改善します。

そういえば、ハケン。更新できれば・・・という前提条件がありますが、9月末日から12月末日まで再延長せざるを得ない状況です。なにしろ事業を開始するまでの収入の口を確保する必要があるからです。おもしろいことに「自分で事業を始める」という視点でハケンを見ると、ハケンって不安定なはずなのに、まだ安定しているように見えるのがおもしろい現象です。

ちょっと牛歩のような気がしますが、着実に前進するしかありませんね。

2009年6月28日日曜日

精神障碍者をナメるな!?

精神障碍(しょうがい)者のイメージって、一般的にどういうモノなんだろう。就労支援の研究会にいくつか参加してみたけれど、総じて身体障碍者よりも企業から敬遠されることが多いみたいです。

もちろん、この表現はいささか乱暴で「障碍」と一言で言っても千差万別。身体障碍者といっても重いモノから軽いモノまであるし、精神障碍についてもまた同じ。風邪と同じで、放っておいたら死に至る「風邪」もあれば、一晩寝るだけで治ってしまう「風邪」もあります。だから、障碍と一言でくくってしまうのは乱暴といえば乱暴なんですね。

で、精神障碍者のイメージなんですが、居酒屋でたまに会う人にさらっと聞いてみました。どんなイメージですかね・・・と。

「精神障碍者は怠け者で、圧倒的に努力が足りない人だ。」
「俺たちだって辛いことがあるけど乗り越えてるんだよ。」

・・・。

まぁ、自分の考えに同調する意見ばっかり集めても、それはあまり有益な意見じゃないワケで、こういう反応もアリでしょう。要するに「精神障碍だって働けるじゃないか。社会貢献できるじゃないか。」と思える人だけで社会が構成されていれば、精神障碍者の就労支援なんていらないんです。でも、そうじゃないからなんとかしなきゃいけない。

だから、気分はあまりよくないかも知れないけれども、もし精神障碍者ならびに身体障碍者が普通に働ける社会を目指すのであれば、ネガティブな意見にこそ耳を傾けないといけないと思うんですね。ネガティブな意見や思いこみは実績でひとつずつ崩していくしかないんだと思うんですよ。とっても地道だけど。

ネガティブな意見って言うのは、正直なところあんまり聞きたくないモノだけれど、場合によってはポジティブな意見よりも対応に直結できる場合が多いと思うんです。ポジティブな意見ばかりもらえて、どこからも評判がいいんだけど、どうにも結果に結びつかない場合って「みんな、いいって言ってくれるんだけど、どうしてだめなんだろう?」なんて迷走しちゃう。

一方、ネガティブな意見というのは、逆に解釈すれば「ここが改善されればいい!」という直接的なアドバイスにもつながっているわけですね。だから、ぱっと聞いたところ、誹謗中傷や偏見に満ちているように感じても、その中から得られるモノは多いんです。検討すべきポイントが分かりやすいし。

ただ、ネガティブな意見に対して、いくら言葉で「精神障碍者は怠け者なんじゃなくて、物理的に脳内の伝達物質が・・・」とか「彼らの中にもキッチリと議論して物事を前向きに進める力があって・・・」とか、数百回繰り返してみてもあまり意味がないと思います。そんな無駄なことに力を入れるよりも、実際にその姿を世の中に見せていくしかないんです。百の言葉よりも一回の体験で変わることはたくさんあります。

私は定期的に千葉県の就労支援組織の就労ミーティングにお邪魔しています。当事者の方が主体となって、社会に参画した上で困った点に対する相互アドバイスをするミーティングです。およそ半数以上はすでに就労をしている人々。そして未就労の後輩たちに社会へ参画するための、よりよい方法について自律的に伝えていく集まりです。

私が、ここの集まりで感銘を受けるのは、当事者の一人として「自分は精神障碍だからどうせ○○なんだ!」なんて言い出す人がいないこと。よくありがちな「我々は不当な扱いを受けている。悪いのは社会の方だ!・・・従って社会が先に変わるべきだ!」などという意見などまったく出ないんです。逆に、もしそんな場だったとしたら、私は何回も足を運んだりはしなかったと思います。(私にとって居心地がよくないからね。)

それどころか、仲間が悩みを相談した時に、同じ状況を抱えた他の仲間が、「そんなことは健常者だって同じ苦しみがあるでしょうよ。そこは仕事として乗り越える必要があるんじゃないですか?」など、まっとうな意見が飛び出す場所でもあります。誤解を畏れずに言えば、「本当にこれって当事者の集まりなの?」・・・と不思議に思えるくらいなんですね。常に現実に対して自分たちがどう歩み寄るべきか、どう表現すべきか・・・というのを真摯に考えている人たちです。

よく精神の方について言われることとして、「彼らは根性がないから集中力が続かない」なんていう話も聞きますが、そうじゃない人も大勢います。何せ、ぶっ続けのプロジェクト会議に集中して挑める人たちですよ。彼らのこういう姿勢がもっと世の中に認知されれば、今、社会で活用されずに眠らせている潜在的な戦力が日本の中に潜んでいることが分かるんだと思います。

私はこういう人を掘り起こしていきたい。ここでは詳細を書けないけれど、ある特定の分野で脚光を浴びるような存在にできていけたらいいなあ・・・と思っています。そのための構想・・・だいぶ固まってきました。さぁ、こっちもがんばらなくては!

あと一歩踏み出すための準備に全力で取り組んでいきますヨ!
↑その一歩が一番こわいというか、勇気がいるんですけどね(苦笑)。
↑今もハケンゆえ「安定」ではないけど、月収を手放すことになるんだから。

2009年6月21日日曜日

希望月収12万円以上

「精神の方(かた)」・・・というのは、いわゆる「精神的疾患を抱えた方」という意味でよく使う言葉です。・・・なんとなく隠語っぽい響きがありますけどね。ちなみに、もうちょっと中に入って話をする時には「当事者の方」になります。

それはともかく、私はこの領域の就労環境について興味を持っています。で、当事者の方々にお会いして就労状況などをヒアリングして回っているワケですが、なかなか光が当たらない世界だけに、新しい情報に触れるたびに未知の驚きを経験します。

まず、明らかになっているのは一般的に「精神の方」は、身体の障碍(しょうがい)と比較して企業から敬遠される可能性が非常に高いということ。(もちろん、そうでない企業もたくさんありますが。)

次に、救急救命士、美容師、指圧師などの資格制限のある職業に関して、そのほとんどが精神的疾患は制限対象になっているということ。職業の自由という観点から、完全に制限されているわけではありませんが、あえて望む場合は相当の厳しい審査が予想されます。

それから賃金が安くて、月収が手取り数万円ということも珍しくないらしいということ。もちろん障碍者の場合、障害年金を受け取れる可能性もあります。・・・あくまでも可能性ですが。

3級に認定されると、だいたい60万円を切るくらいの年額です。・・・何もしないで、さすがにこれだけでは生きてはいけない。月5万円たらず。ただし、これにしても会社勤めなどをして、厚生年金を支払っている必要があります。

「障碍者は障害年金を受けているから、何もしなくても食っていける。」・・・という思い込みが世の中で幅を利かせているような気もしますが、詳しく調べてみるとかなりの誤解ということが分かります。障碍者でも障害年金を受給できないケースも多いし、もらえたとしても、その年金では生きていくだけで精一杯という状況です。

ちなみに、2級に認定されると受給できる年額は上がるのですが、障害等級が2級となると就労どころか日常生活レベルで著しい制限があることが条件となります。そこでここでは3級もしくは受給を受けていない人について考えてみます。

で、独自に就労している当事者の方にヒアリングしてみました。

「いくら月収があれば納得できますか?」
→「最低限ですが手取りで12万円はあると助かりますね。」

えぇ?・・・すごく少ない・・・と正直なところ思いました。でも、さらにそこから深く考えると、この給与水準をとりまく事情がよく見えてきます。

その方の場合、精神疾患の事情で1日5時間の週3日=週22時間に労働時間を制限していました。仮に週15時間働ける人が、4週間(1ヶ月)ペースを崩さずに働いたとしましょう。すると月60時間ですね。

月60時間の就労で最低提示額の12万円を稼ぐために必要な時給を計算すると、120,000/60=2,000円となります。この時給で残業なしのフルタイムで働いたとすれば、1日8時間の週5日で4週間=月160時間で32万円になります。

・2008年度3月の派遣社員の平均時給が1,619円(エン・ジャパン調べ)。
・2009年度4月のアルバイト平均時給が955円(インテリジェンス調べ)

ちょっと同時期の調査結果を探しきれなかったのですが、こういう情勢を考慮した上で冷静にソロバンをはじくと、少ない就労時間で最低賃金12万円というのは、かなり浮世離れした願望ということになってしまうわけです。

さらに、職種別で最も高いシステム開発などの「IT関連」でも時給水準が2,059円(インテリジェンス調べ)。要するにハケンで最高値の業種についたとしても、最低賃金の12万円にやっと届くくらい。アルバイトの平均時給955円で考えたら月60時間で57,300円。残業なしのフルタイムなら152,800円。

つまり、就労時間数が大きく状況を左右するんですね。これを少しずつ増やさないことには、相当スキルが高くないと最低賃金の12万円に達することは困難だということですね。不幸なパターンとして考えられるのは、「企業側は努力して高額で雇用している」と思っているのに「雇用される側は月に12万円に達しなくて不満」という状況です。

雇用したい側の理解が今後も必要なことは書くまでもないワケですが、逆に雇用されたい側にも世の中をもっと知ろうとする姿勢が求められると思います。

企業側は障碍に関する理解を深めてよりよい環境を用意する工夫をするといいかもしれません。障碍者の側としては一歩だけ社会情勢と自分との関係を考えてみるといいかもしれません。

双方ともに背景や前提を理解して歩み寄っていく姿勢が必要なんだと思います。

=====
一部、記載に不正確な点がありましたので訂正しました。
ご指摘ありがとうございます。(2009/06/23)

2009年6月18日木曜日

一般論を裏返す

会社は仲良しクラブじゃない → 会社は仲良しクラブだ

いいんじゃないですかね。ある程度までは仲良しクラブで。もちろん、それが目的だ・・・とまではさすがにいえませんが。でも、昔の会社では社内運動会や社内旅行があったと聞きます。今の風潮から考えると、よっぽど仲良しクラブ的な空気感があったんじゃないかなと思いますよ。

能力主義だなんだかんだというのも否定はしないし、長所も多いとは思うんですけどね。でも、能力主義に徹して個人競争が激しくなった時に、ひとりぼっちになっちゃう人が増えちゃったんじゃないのかな。そして組織の中に愛がなくなっちゃった。

仕事でご一緒したことのある人事のオジサンが言ってました。

「昔はね、落ち込んでいるヤツが会社の中にいたらさ、誰ともなく飲みに誘い合ってさ、会社のメンバーぐるみで一緒に考えたり悩んだりしたもんだけど、今はそういう時代でもないのかなぁ。会社が仕事だけをする場所っていうのは寂しいねぇ。昔が全部いいってワケじゃないけどさ、最近の若いヤツはすぐに孤立しちゃうから見ててかわいそうだね。」

「この会社をやめちゃったら、大好きな仲間に会えなくなっちゃう。」って論理はビジネス的に正解じゃないかもしれないんだけど、離職率を下げたり、自分の方向性を見失っちゃったり・・・ってコトは少なくなるんじゃないのかな。

今は会社が個人の能力を交換可能なモノとして、簡単に売り買いするようになっちゃった。そして個人のほうも会社が交換可能になっちゃった。本当は、そこに信頼だの愛だのなんだのが残っていれば簡単に交換できる存在にはならないんじゃないのかな。

もちろんね、仕事をする集団だから厳しい状況もあったりするんだけど、ただ厳しいだけだったら、そのうち、仕事辞めちゃうと思うんだよね。厳しい状況でも信頼関係で結ばれているから、なんとか乗り越えようっていうモチベーションにつながるんじゃないかなと。

どれだけ理詰めで「ビジネス」を語ってみたところで、仕事を構成するのはひとりひとりの人間で、その人間には人生があって、感情があって、価値観がある。そもそも個性によって隔てられた別種の存在が手を組んで仕事をするためには、なんらかの接着剤が必要なんじゃないかな。

もちろん理想論なのは百も承知で、日々、会社の運営に苦心している経営者からしてみると、一笑に付される程度の話かも知れません。が、このままでは、何かマズイような気がしています。

理想と現実がかけ離れていることって珍しくなくて、だからこそ現実を理想に近づけていく価値があるんだと思います。馬鹿馬鹿しくても、まずは理想がないと走れないんじゃないだろうかとも思う今日この頃です。

2009年6月11日木曜日

ストレスを本気で考える

2008年度、仕事上のストレスが原因で精神疾患にかかり、労災認定された人が269人で過去最多だったというニュース記事をいろんな場所で目にします。

今、ハケンに言っている現場にも鬱病を抱えている人が働いています。まぁ、薬を飲めばある程度カバーができるという点と、IT業界自体がそういう人材がいても珍しくない現場なので、特に問題にはならないようです。まぁ、本人を見ていても自己申告しない限り、そうとは分からなかったくらいですけどね。むしろやり手に見えるくらい。

そうはいっても、そろそろ職場環境のストレスに関して、そろそろ真剣に考えるべき時期が来ているように思います。近年は不況で、右を向いても左を向いても人減らし人減らし・・・という傾向がずっと続いていましたが、基本的に日本は相変わらず少子高齢化という問題を抱えているわけです。

これから、どれだけ頑張って子供の数を増やしても、ヒューマンリソースの増加という意味でその効果が現れてくるのは、十数年待たなくてはいけないワケです。安易に外国人を呼んでくる・・・というのも、やや慎重になった方がいいと思っています。外国人を排斥しているワケではなく、日本という国家が外国人に対してどの程度責任を果たせるのか分からないから。いつか、社会情勢が変わってきた時期に、日本の無責任な対応で彼らに迷惑をかけそうな気がしています。

そういうところまで考えて、あえて日本国内の現存戦力で戦うことを想定してみます。となると、今まで戦力として見られていなかった層を掘り起こす必要が出てくると思います。ニートにしてもそうだし、高年齢層にしてもそう。また、障碍者と呼ばれている層についても貴重なリソースとして捉えていく必要があると思います。

さらに言えば、主婦層や若年層の社会参画をもっと考えてもいいと考えています。もちろん学業自体も専念するに値する大切なことだと思いますが、「学業」と「社会参画」は切り離さなければならないものとは思えません。自分が社会に直接触れることによって、社会を変えていくために必要な学業や未来設計について真剣に考えることができて有益だと思います。多感な時期に社会のコトを本気で考えることは、高い投票率にも繋がるんじゃないでしょうか。

そして、ここからが大切なところで、今、しっかり働けている人を損なってはならないということ。消耗品のように人材を切り捨てていたら社会が消耗するということです。自殺者を出してもいけないし、精神疾患に追い込んで社会から吹き飛ばしてもいけない。

そういう意味でも、今後、ストレス周りも含めた効率化が特に重要になってくると私は思っています。私に何かできるだろうか・・・と考える日々です。今、未来に向けて考えている事業もそこに密接にリンクしています。それはちょっと時間がかかるかも知れませんが、前を向いて歩いていくつもりです。

・・・という方向性を持ちながらも、今、自分にできる取り組みとして「すべらく!」というサイトを運営しています。意識の変革によって、少しでも幸せな方向に歩いていけることを願って作ったサイトです。

すべてはラクをするために・・・「すべらく!」
http://respect.arrow.jp/suberaku/

ビジネスパーソンが高みに登っていけるような自己啓発・・・というような高いレベルはぜんぜん目指していません。むしろ、今、どん底で苦しんでいる人たちになんとかいろんな選択肢を提供できないだろうか。ちょっとでも気分をラクにしてもらって、生きていくエネルギー源になれないだろうか・・・という思いでこれからも続けていこうと思います。

気が向いたら見てやってください。

2009年6月9日火曜日

自分の言葉

いろんな言葉が世の中にはあふれていて、それらを無意識または意識的に自分の体とか心に取り込んでいくわけだけど、「本当の自分の意見を持っているだろうか?」と気になる時がある。

テレビで見聞きする評論家の意見。特に政治評論家の言うことや経済評論家の言うことはもっともで、特に知識として自分の中で層が薄いと、自分の意見がそのまま評論家の受け売りになりやすいと思う。

たとえば現在の政治について思うこと。これを自分の知っている政治背景を元に話すことができるだろうか。たぶんできない。政治背景に関する知識の引き出しがあまりにも少ないからだ。政治家の誰かをこき下ろすにしても、テレビで報道された一部分の発言に振り回される有様だ。その人のことを何も知ってさえいない。

その人のことを何も知らない・・・といえば、ホリエモンこと堀江氏。マスコミが散々に悪い悪いというから、何となく悪いヤツだ・・・と思っている人が多いと思う。私もそう思っていたし、堀江氏の立場を擁護する意見などを言った日には、たいていエライ目に遭う。社会の敵を擁護するとは何事か・・・的な勢いで攻撃を受ける羽目になる。

私は頻繁に堀江氏のブログには目を通している。彼には彼なりの正義があって、それを勇気をもって実行しただけのようにも見える。そして私が読む限りではスジが通っているような気もしている。もちろん、私は彼のブログを読むことしか彼を知る方法を選択していないのだから、ブログだけを信じるのも危険なのかも知れないが。

ただ、マスコミのように声の大きい方だけを向いていてはいけないと思う。それぞれの人間の人生は一度きり(たぶん)と思われるし、その人生の中で、自らの意見の正しさを信じてほとんどの人は生きている。そうであるなら、その人が信じている意見にも耳や目を貸すべきじゃないかと思う。批判的な世論に対して無批判になってしまうのは危険なことかも知れない。

ともかく、一つのことをまっとうに自分の言葉で論じるためには、その背景に潜むモノをしっかりと知る必要があると思う。それは誰かから伝え聞いた話でなく、自分が実際に体験したことをベースにするのがよいのだと思う。

自分の信念・・・を語る時に、それは本当に自分の信念なのか、自らに問いかけたい。自分のモノだと思っていて、実は借り物だったということはあるものだから。

2009年6月5日金曜日

趣味≠仕事?

「趣味は仕事にしたくない」って話をよく聞く。これは田舎で「東京は人が住むところじゃない」という話と同じくらいによく聞くような気がする。

これ、ホントかよ?・・・って思う。

プロゴルファーになる人はゴルフ嫌いなのか?
プロ野球選手になる人は野球が嫌いなのか?
プロテニスプレイヤーはテニスが嫌いなのか?

そんなことないだろうと思う。

もちろん、純粋な趣味のように勝ち負けなんてどうでもいい・・・というわけにはいかない。負ければ収入を失うことになるから、プレイそのものを楽しみたい人という人には向かないと思う。

でも、やるからには勝ちたいじゃないか。負けてもいいや・・・なんて思うスポーツはやらない方がいい。だって最初からメンタルで負けているんだから。負けたら死ぬほど悔しいところまで本気でやるからいいんだと思う。

陶芸職人は本心では陶芸が嫌いなのか?
プロミュージシャンは音楽が嫌いなのか?
ジャーナリストは真実の追求が嫌いなのか?

・・・リスクを背負ってまで動いている人は、そんなことないような気がする。

ハケン現場では頻繁に人事異動が行われている。いろんな部署を体験させるという名目で、やや適材適所を度外視した形でプロパーさんがいろんな部署を回遊している。

前にお世話になったプロパーさんが、先日、ボソリとつぶやいた。

「配属になった部署でやりたい仕事がまったくみつからない。」

すごいなあと思った。それでもずっと働き続けるんだから。

たぶん世の中にはこういう辛抱強い人が多いんだろうなあと思う。特に入社が難しい企業に一度入ってしまったら、よっぽど勇気か独立心が強くなければ辞められないんだろうなあとか。だって普通に考えたらもったいない。

でも、無事にいけば定年までずっと自分をごまかしながら、本心では面白くもなんともないことをずっと続けていくことを想像すると、個人的には気が遠くなってしまう。無論、余計なお世話なんだけど。

確かに「趣味≠仕事」のケースは多いと思う。
でも「趣味≒楽しい≒仕事」であってもいいと思う。

「楽しくないことが仕事だ」という人は吐いて捨てるほどいる。

昔、自分たちで会社をやっていた時、ちょっとセレブっぽいスポーツクラブに通っていたことがある。そこにはビジネスオーナーや投資家、不動産屋、芸能人などがウヨウヨしていた。

たまに会員同士の話を聞いていると「ビジネス」の話を楽しそうにしていた。会社の「仕事」ではなくて、自分の意思で動かしている「ビジネス」。「仕事が趣味」っていう人が居酒屋なんかによくいるけど、それとはちょっと違う次元でビジネスを楽しんでいる人がいる事実に驚いた記憶がある。

今はそのスポーツクラブをやめてしまったけれど、その時の記憶は脳裏を離れない。
あの世界で生きていきたい。

2009年6月4日木曜日

やらされ仕事

「やらされ仕事」というのは、自分の考え方を変えることによって「やりたい仕事」に変えることができます。すごく前向きに考えると。場合によってはものすごく前向きに考える必要があるけれど。

そういう意味では、ハケンの現場にも仕事として面白かったり、興味を持てる部分というのはけっこうあります。いろんな学びができます。ただ、私にとって「ハケン」という立場は、多くの「大学生」に通じるポジションだと思っています。

・学ぶことは大事だけど、卒業するためにいるということ。
・どれだけ馴染んだとしても、ずっといられないということ。

たとえどれだけその現場が好きになったとしても、登用されることはないはずで、万一、登用されたとしても社内政治で生き抜いていく・・・そういう人生は私には向いていません。私にとっては楽しくないから。

そもそも、私は会社員ではない生き方をしたくて、そのために資金をためたくて、それでハケンをやっているんです。

どうして、こんなコトを今さら書いているのか。

気がついたら私は2年以上もハケンをやっています。3ヶ月ずつ契約を更新をしながら、季節の変わり目を何度も見てきました。

どういう仕事でも「やらされ仕事」から「やりたい仕事」にすることはできます。でも、本当に「やりたい仕事」ではないことをしっかり自覚しないとね。

最近、そんな気持ちでハケン、やってます。

2009年6月1日月曜日

ヒューマンスキル

ハケンの現場にスゴイヤツがいる。

どんな人にもほとんどタメ口で、やたら馴れ馴れしく声を掛けてくる。
丁寧語も最低限。ちょっと間違えれば「失礼なヤツ」で終わりそうな感じ。
ものすごく開けっぴろげで、感情表現もストレート。

でも、憎めないキャラなんだ。しかも仕事はシッカリしている。
どんな気むずかしそうな相手にも、気後れすることなく声を掛けている。

ただ、よく観察していると、実はかなり距離感を読んでいるように見える。
天然なのか、才能なのか、つかず離れずの絶妙の空気感覚だ。

私にとってハケンは通過点だと思っている。
そうでなくては、ハケンをやっている意味がないと思っているから。
未来への夢があるから、ハケンをやっているんだから。

通過点・・・。
確かに通過点に過ぎないのだけれど、こういう才能に出逢うと嬉しい。
もしかして何かが吸収できるんじゃないかと思うと、ワクワクする。

自分の特性を大事にしながら、学べることを学んでいきたい。

2009年5月30日土曜日

幸せを考えること

幸せを考えるコトって、自分を考えることなんだと最近つくづく思います。
考えてみれば、自分が強く願っていたことは、叶って現在に至っています。

前にも書いた話なんですが、昔、すごく東京で暮らしたかったんですよ。
今、東京で暮らしている毎日は、自分にとって納得できる日々です。

多くの人にとっては「なんだそんなことか?」って思われそうだけど。
でも、自分にとっては大事な夢だったんですね。

小さいことなんだけど、自分の中で「叶った夢」として輝いている事実。
それ、どうして叶ったんだろう?・・・って、久しぶりに振り返ってみた。

そういえば、栃木の会社に間違えて入社しても、ずーっと諦めなかったな。
山奥に引っ越したばっかりだったのに、なぜか「いつか東京に」って。

そして会う人会う人に「いつか東京で仕事したいんです」って言ってた。
田舎モノくさいセリフで恥ずかしさもあったけど、やっぱり言ってた。
決して焦らなかったし時間もかかったけど、それでも夢を捨てなかった。

「そういや東京に来たいっていってたよな?・・・オレの下で働けよ!」

ある日、そう言ってくれる人が現れた。
・・・この体験は、たまに思い出して、未来に繋げていきたいと思う。

2009年5月26日火曜日

孤独というリスクを取る

以前、新しい仕事を立ち上げようとして、共同経営パートナーを募りました。
一人よりも複数人で進めた方がいいと思ったからです。

結果、責任の所在が不明確になってしまい、方針の分裂を招いた挙句に失速。
でもこれは、価値のある失敗体験だったと思います。

なにか本当にやりたいことがあるなら、孤独というリスクを取るべきなんです。
ちゃんと自分一人でやりたいことの方向付けをしておくことは何よりも大事。
なぜなら、プロジェクトの方向性が甘いと、ブレ幅が広くなっていくから。

たとえば、本当にやりたいことを突き詰めていこうとした場合、

(1)「いい入れ物を作りたい」
    ↓
(2)「いい箱を作りたい」
    ↓
(3)「いい黒い箱を作りたい」→「こんな素材がある」「得意な人がいる」

のように、やりたいことを一人で熟成させていくと(1)~(3)の順で決まります。
で、(3)の時点で協力者を入れれば、やりたいことにほとんどブレがありません。

きっと(3)を実現するために、素材や人材についての助言がもらえるはずです。
そしてたぶん、いい黒い箱が作れると思います。まぁ、へんなたとえですけど。

でも、中途半端な状態で協力者を入れると、協力者によるブレが広がります。

(1)「いい入れ物を作りたい」→「壷はどうか?」「灰皿は?」「ポーチは?」
    ↓
(2)「いい箱を作りたい」→「白い箱がいいのでは?」「小さい箱どはどうか?」
    ↓
(3)「いい黒い大きな箱を作りたい」→「こんな素材がある」「得意な人がいる」

自分で何かを作りたいと考えた時、(1)や(2)の時点で構想を手放さないこと。
結局、助言を尊重するあまり、作りたくなかった「壷」を作る可能性があるから。
自分でやろうとしている仕事なのに、やりたくないことをやるハメになっちゃう。
リスクを取ってやらされ仕事をやることほど、アホらしいことはないと思います。

昔、普通に正社員をやっていたころ、
「社長は自分の意見ばかりで人の意見を聞かない」
なんて、よく憤慨していたものです。

今ではその理由も分かります。もちろん第三者の意見を聞くことも大事です。
でも、第三者の構想だけを尊重していくと、結局自分の構想がなくなっちゃう。
このあたりのさじ加減やバランス感覚は、理屈じゃないのかも知れません。

2009年5月24日日曜日

自分が自分でいるために

自分ってのは難しいなぁと思います。
自分が新しい考え方を獲得するためには、古い概念を捨てなきゃいけない。
自分の考え方だけでなく、自分の知らないことは知っている人の助けを求める。
そうしないと、今の自分自身のキャパシティを越えることはできない。

自分と異質の価値観を受け入れることによって得られるパワーは絶大で。
でも、助言者が持つパワーを無批判に受け入れるとそこに自分はなくなる。

自分と異なる価値観、そして知識、経験・・・。
あらゆる意味で自分のそれらを上回る人との出会いやコミュニケーションは大切。
自分が気づいていない点こそ大切なポイント。

でも、そういうことが重なってくると、自分が小さくなっていく気がしてくる。
たぶん、正確には自分の自信が小さくなっていくんだろうと思う。

こんな自分に何ができるんだろう?
この人がやった方がずっとうまくできるんじゃないだろうか?
自分に何か始める資格なんてあるんだろうか・・・なんて。

でも、信じるしかないんだなあ。
自分にしかできないことがきっとあると。
何かを始めようと思わないと何も始まらない。
諦めないでやり続けようとするところに価値があるんだと。

愚鈍でもいいから。
そこしかないんだよなぁ。
自分が自分でいるために。

2009年5月21日木曜日

コンティニュー?

これから夏に向かおうかという昨今ですが、とりあえず秋頃までのことを決めました。・・・というのが、昨日は6月を目前にして、6月末から先の3ヶ月についてのハケン継続意思の確認日だったからです。とりあえず延長しました。9月までハケン続行決定。

ハケンの営業さんにIT系の仕事紹介数の近況を聞いてみたら、ハケン業界も去年の今頃に比べて4分の1程度に激減しているんだそうですね。で、ちょうど私が今考えているのもIT系+就労支援系の組み合わせ・・・。

しかし、ハケン業界ですら仕事が取れない状況下で、新規事業を焦って立ち上げても仕事がなくては仕方がない。そういう意味で、好景気を見据えた準備はするんですけど、生活のバックボーンを全てなげうって攻勢に出るには時期尚早だろうと。

まぁ、今もそうなんですが、どこかのタイミングで攻勢にでるために資金を蓄積しています。9月まで地道に進めていけば、もうちょっと資金もたまってくるはずです。

そして、何より、今後の仕事と密接なハケン仕事をやっているので、ここでこのハケン仕事を手放すのももったいなかったりもするんです。お金をいただきながら今後に対するノウハウ蓄積もできるなんて、このご時世でありがたい状況かも知れません。

それにしても、昔のように「正社員」という肩書きで会社人間を続けていたとしたら、自分はどういう人生を歩んでいたんだろう・・・という興味は今でも尽きません。それはそれで楽しかったんだろうなと思わなくもないかな。

もちろん、今の人生を選択していることが、自分にとっての答えではあるんですけどね。

2009年5月18日月曜日

なんで双方向性じゃないの?

なんだかミョーにハケン仕事が忙しくなってきた。
効率化とモチベーション強化は、最大の関心事なだけに、そういう状況の方が気合いが入るわけですが。

・・・ただ、寝不足。
今日こそは早い時間に寝たい。
寝付きがすっごく悪いんだ。5月に入ってから。
ああ・・・。

さて、こないだ作ったサイトを見てくれた人から、
「このサイト、今どき、なんで双方向じゃないんすか?」
と、けっこう聞かれた。

んー、今は、考えがあって、あえて双方向性にはしてません。
単純にコメント欄を付けるのもいいんだけど、なんか、もうちょっと違う形の双方向性にしたいなと思ってます。
遊びの要素を入れられるような感じで。

つか、そういう要素を本気で入れようかという段階じゃないんですけどね。なにせコンテンツが読まれてないんだから(苦笑)。
しばらくは地味な展開になりそうな気がします。まー、じっくりと。

すべらく!
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2009年5月17日日曜日

最近のハケン

最近、ハケンでやってる仕事が楽しいのですよ。実は。
それは、自分が立ち上げてみようと思っているコトに近い仕事だから。

どうやったら、効率よく進めていけるだろう?
どうやったら、効果的なモノになるだろう?

そんなコトを考えていると、仕事時間が楽しくて仕方ないです。

・・・が、最近、夜、眠れない。
眠るべき時間に眠れない。
どうやってサイクルを変えようとしても変わらない。

不調の兆候は睡眠にでるというから、ちょっと気になる。

2009年5月15日金曜日

ブログも流行っているけれど・・・

「すべらく!」っていうサイトを公開してから一週間くらい?

ブログとはちょっと違うおもしろさがありますね。
ビックリするほどのアクセス数はないんだけど、すこしずつ誰かが見てくれているのが楽しいというか、サイトを作っていて心の支えになります。。

しかもかなりマイナーな内容だもんね。「もっとスゴクなろう!」というよりは、「今の状況をどうやって回避しようか?」「今の状況をどうやって乗り切ろうか?」という、ダメダメな教科書と言っても過言じゃない(苦笑)。

ただね、崩したくない大きなポリシーはあるんです。「立派な人物になろう」とか「公明正大清廉潔白な仙人を目指そう」・・・って方向性のサイトだけは絶対やらないぞ・・・っていう。

もともと、自己啓発系の本やらなんやら・・・ってのは嫌いじゃないです。でも、読み進むとだんだん肩が凝ってくるんですよ。「あー、この著者はひたすら高みを目指してるんだなー!すごいなー!大変だなー!」みたいな。

特に「・・・べきである」「・・・して然るべきだ」「・・・で間違いはない」という部分を読むたびに、「あー、すごいなー、え?・・・自分?・・・無理無理!」みたいな感想が渦巻くんですよ。そういう内容が好きなくせに。脇目を振らずにがんばれる人への嫉妬?・・・んー、ちょっとあるかもしれない。

今の社会って、なんだかんだ言ってピラミッドですよ。いや、それが悪いとかどうとか、そういう話をしたいんじゃないんだけど。いわゆる向上心がある人たちはほっといても自己啓発の本を読んで、勝手に向上していっちゃいます。それも悪いこっちゃない。むしろいいことだと思います。

でも、ピラミッドのもっとも面積というか体積の大きい裾野部分。私もその場所に今はいます。まぁ、そこから少しずつ這い上がろうかという局面なんですが。ともかく、裾野の方が人口が多いんだから、近い場所にいる仲間たちの心を後押しすることができたら、微妙に世の中が変わるんじゃないかなー・・・とか思ったんですよ。大まじめに。今でもそう信じてます。

せっかくその場所にいるのなら、「すごい人にはならなくていいから、ちょっとラクになろうよ&ラクをしようよ」という働きかけを、同じ目線で社会に対してやっていけないか・・・と、今年の1月頃から考えて、レンタルサーバの選定とか地味にいろいろと準備をしてきました。

富士山のてっぺんに登るためのノウハウじゃなくて、近所の上り坂を乗り越えていくノウハウ。それでいいんじゃないかなー・・・と思っているんです。

そんな「すべらく!」をもうちょっと時間をかけて育てていこうと思います。

「すべらく!」
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2009年5月12日火曜日

怖い妄想

自分の中で、これだけは「怖い」と思える妄想がある。
まず、最初に思い浮かぶのは「死ぬこと」「命の先が見えること」。
でも、それよりも怖い妄想をすることがある。

それは何らかの原因で五感が消滅した後も、意識が生き続けること。要するに、意識がある状態で植物状態になってしまうことだ。現在の医学では意識を認識できないけれど、実は意識がある状態。

耳が聞こえない、目が見えない、嗅覚も、触覚も、味覚も何もない。そんな中で、ただ自分の意識だけが生き続けている状況は恐怖だ。叫ぶことも、自分の気持ちを表現して伝えることもできない世界。
新しい何かを心の中で創造しても、それを誰とも共有できない世界。そんな気持ちを誰にも伝えられない世界。土に埋まったような世界。

人間は人と人の間にいられるから、人間でいられるんだと実感する。・・・たかが妄想・・・。でも、いつまで続くか分からない孤独を生きていけるんだろうか?

なぜ、こんな話をするのか。

それは、この妄想のおかげで自分の今の状態に感謝できるからだ。不満不平を言えばきりがない。でも、やっぱり幸せだと思う。
こうやって駄文でも、思いを誰か一人にでも伝えられるのだから。
たとえ伝わらないとしても、望みをかけて文章に残せるのだから。

表現できるすばらしさを忘れちゃいけないんだと思う。
死ぬよりもツライことは、同じ世界を共有できないことだから。

2009年5月10日日曜日

意識

意識すると、何も書けやしない。

丁寧な言葉遣いがいいのか?
フランクな言葉遣いがいいのか?
軽めの言葉を振りまくのがいいのか?
重い言葉を連ねるのがいいのか?

ただ、どっちにしても「上から目線」の文章はイヤだ。
かといって、「下から目線」というのはなんかヘンだ。
「対等」というのも、初めて読む人には失礼かもしれない。

もともと、こういう文体が好きだ。
特に愛想がいいワケでもない、そんな文体。

結局、最近では、枕元のノートに何かを書いて寝ている。
なりたい自分、目指したい自分、やっていきたいことなど。

ブログとのつきあい方をもう一度考えてみたいと思う。

人材を育成するとか

人材育成とかについて、難しい話だなー・・・と思ったことについて。

あまり厳しい態度で指導すると、依存体質が生まれるんじゃないかなーと。

ハケンの立場っていろんなコトがあってね。まー、こっちはどんな出来事があったとしても、そこから考えたり、ノウハウのネタにするつもりでいるんで、特に困っちゃいないんだけど。

詳しくはアレなんだけど、仕事の決定権を持つ主任の下でハケンしてます。基本的には自分で仕事を進めていい環境なワケですが、たまに主任から指導を受けることがあります。こちらが明らかにウッカリしていたこともあれば、明らかに理不尽な指導もあったりしてね。あとは、どっちでもよさそうな選択肢で主任の主観による判断が必要だったりとか。

まぁ、そのあたりは職制上の制約だったりもするんで、感情的な点についてはスルー。ただ、あまりに口を出しすぎてしまうと、依存体質が芽生えるなぁと思った次第。

・自分がコミットしていい範囲がよく分かんないな。
 ↓
・あとで目くじら立てられるのも面倒くさいしなー。
 ↓
・コミットが必要なところは全部見てもらっちゃうか。
 ↓
・徐々に自分で判断をしなくなる。(提案はするけど)

人に任せるってのは難しい話で、自分の価値観を重視しちゃうと、細かいところでいろんなところを直したくなってくるんだよね。それは、以前、部下を持っていたときに自分自身の体験としてあるんだけど。

でも、そうかといって、部下が失敗すると自分の責任になったりもするんで、放っておくこともできなかったりして。このあたりのサジ加減がなんとも難しいんだよね。でも、自主的な判断を抑制する方向性に動くと、部下の数だけ上司の負荷が高まってくるワケで。

十分な信頼感を醸成すること。
高いモチベーションに導くこと。

これさえしっかりしていれば、ストレスの大半は減ると思う。
ただ、実際にどうするか・・・ですね。

2009年5月7日木曜日

まだハケンやってます

今の私にとって何のためにハケンで働いているのか・・・っていうと、

・新しい仕事を生み出すための生活余力を蓄えるため
・仕事の中から「効率化」を生み出すネタを作るため
・人間関係から「ストレス操作」のネタを作るため
・優れた上司力を持った人の所作を研究するため
・システム化された企業文化のいいところを研究するため

こんな感じかなあ。

ハケンでやってる実務自体にゃ特に愛着ありませーん。
ただ、実務の種類に関わらず「効率化」という仕事自体は好き。
もうね、何としてもラクしたい人にとってはライフワークですかね。

ラクをするということは、

(1) 扱う情報を標準化すること
(2) 判定条件を明らかにすること
(3) 同じ作業の繰り返しを省くこと

(1)+(2)+(3) 自動化すること

最初のうちは検算をかねて、従来方式と自動方式を併用。
こなれてきたら、ある頻度で抜き打ち検査的な検算をしてみる。

効率化は好きだけど、効率化のための効率化じゃ意味がない。
効率化の果てに人間が残る・・・でありたいなぁ。

(1) 決して標準化できない感情の表現
(2) 二元論ではない豊かな価値観の共有
(3) 常に新しい発想を前進させていく世界

そういうところに、私が望んでいる未来があるんです。
そんな思いを胸に秘めつつ、研究者の視点でハケンやってます。

2009年5月6日水曜日

作ってみた

地道にゴニョゴニョやってましたが、やっとできました。
いや、本当はまだぜんぜん未完成なんですけどね。

すべらく!(http://respect.arrow.jp/suberaku/)

自分自身のメンタルケアをしていくためのサイトです。
自己啓発・・・じゃないですね。そこまでいってません。

どっちかというと、普段のストレスをどうやり過ごすか?
そして、どうやってストレスがやってくる前に予防するか?
そのあたりがメインです。

実はメンタルバリアフリー・・・なんてコトを最近考えてます。
そろそろ疲れない世の中を構築した方がいいんじゃないかなとか。

2009年5月4日月曜日

習慣化

いや、ホント、日記、全然書いてませんでした。
習慣化させないと自分のためにならないんですけど。
いろんな心境の変化を迎えたりとか、いろいろあったわけですが。
でも、当初の計画を何とか実現させようという意志は変わってません。

ところで、ビソク前進すぎてアレなんですけどね。
いろいろと話を進めています。
もう5月。6月末日まであと2ヶ月。

当初、6月30日までと決めていた計画ですが、いろいろな方々のご協力によって地道に前進し始めています。
ただ、行政関連との調整とかも含めて、いろいろと成果が出るのは9月頃になりそうな雲行き。
地道に踏み固めて行かないといけなさそうです。

ただ、それでも、当初決めたノルマの達成を意識していこうと思います。
あと、2ヶ月。

そういや、話は全然変わるけど、最近の金貸し業のCMはなんなんだ?
「返済計画には余裕を持って」
って、そりゃそうなんだけどねぇ。
でも、余裕がないからお金を借りるんだと思うよ。
余裕のある人はお金借りないと思う。

2009年4月26日日曜日

メンタルが壊れるのは?

IT業界とか、出版業界とか、働きすぎて突然壊れる人が多いらしいですね。生きるために働いているはずなのに、それが元で壊れてしまって、生きることが楽しくなくなるのはどうなんだろう。

たぶんね、みんなが働きすぎなのは、効率化したところにさらに仕事を詰めちゃうからなんだと思うんですよ。そうなるとスピード社会の加速は止まりませんな。それで心が疲れて壊れちゃう人が多くなったんじゃないのかな。

物理的な移動についても、情報流通の速さについても、人間の限界を突き破る勢いで加速してますもんね。人間の物理的能力は変わっていないのに、周辺機器の発展でできることが飛躍的に増えちゃった。

今や東京から九州まで行くなら、飛行機や新幹線を使えば数時間で着くのが常識。でも、人間本来の機能を使って歩いたら江戸時代以前に逆戻りですよ。まぁ、道路が整備されているし治安もよくなったから、当時よりは環境がいいかも知れないけど。(逆に当時の人より足が退化してるかもね。)

情報伝達にしてもそう。昔は手紙を出したってそれが届くのは数日後だったりしたのに、今じゃ電子メールで海外とですら数分で返事が戻ってきたり、ついでに資料が添付されていたりするんだもんね。携帯端末や携帯PCを持っていれば、いつでも手元に届いちゃう。

別に文明の発展を否定していないし、むしろいろいろと技術革新があるのはは大歓迎。ただ、人間本来の能力限界を超えた生活を続けているのだとしたら、見えないところでメンタル面にものすごい負担がかかってしまっているんじゃないかな?・・・とも思う点もあるんですよね。

効率化を徹底的に追求する一方で、そこから得られたメリットを人間環境に還元する試みが必要だと思います。現代人はストレスに弱くなったのか・・・という話もありますが、実際には効率化された時代の中でストレス密度が上がったんだと思います。

ストレス過多で壊れていくメンタルバランス。ここらで、歯止めをかけないといけない気がします。

2009年4月21日火曜日

今、もくもくと・・・

これから始めようかな・・・と思っていることと関連深い(と思われる?)サイトを作ってます。
とても地味ですが、少しずつ原稿が集まってきました。
(そうは言っても全部自分で書いているんですが・・・)

そんなわけで、ブログの方が止まってしまってます。
誰も気にしちゃいねーだろ・・・という感じなんですが・・・。
ですが・・・。

いけませんね。
なるべくちゃんと書こうと思います。
それにしても、4/29には突然、舞台で寸劇に立つことになりそうで。
あと一週間もないのに、そして台詞もまだ決まってない・・・と。

仲間も含めて、度胸が据わっているというか、ムチャクチャというか。

あ、そういえば、今日、ハケンの仕事の中でのひと幕。
「7月のこの頃だと余裕があるとはずなので、この作業をお願いします」

せめて、9月には独り立ちできるように準備を進めたいものです。