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2009年12月25日金曜日

戦っちゃいけない

「戦っちゃいけない」という言葉を最近よく聞く。正直なところ私にとって耳の痛い言葉だ。誰か優れた人がいるとその才能がまぶしく見えてしまう。そしてその足下に追いつけるくらいまでには努力しようと思ってしまう。20代だったころは実際にそういう悔しい気持ちをバネにして多くのことを学んだ。しかし問題は最近になって多方面で優れた人を多く見かけることだ。

経済のプロ、交渉のプロ、メンタルケアのプロ、英語のプロ・・・それぞれにまばゆい光を感じてしまう。しかし、その人たちが必死になって積み上げてきたものに追いつくことは不可能だ。たとえばプロが20年かけて蓄積した経験知を1年で習得することは無理だ。精神論的には「この世に不可能はない」と言いたいところだが、この願いについてはファンタジーでしかない。

ただ、逆に私が積み上げてきた経験知についても、もっと誇りとプライドを持ってもいいんだろうと思う。もちろん私の職域において私より優れた人間は星の数ほどいるわけだが、それをいうなら私がうらやましく感じている「隣の芝」だって同じだ。スキルの高さも大事だが、そのスキルを使って何を成し遂げるのか・・・という点が大事だと思う。

最先端の医療技術で難病を治す医師も大事で、離島をかけずりまわって島の健康を守る医師も大事だ。医療というスキルを活かして紛争地帯まで赴いて負傷者の救護にあたる医師もいる。同じ「医療」というスキルには違いがないが、そのスキルにプラスして「何を成し遂げたいのか?」という想いが人生を形成するんだと思う。

適材適所というとどうしても組織論というか、「会社」の中だけの狭い話のように思えてしまうかもしれないが、本当は「社会」に対して適材適所という考え方が必要なんだと思う。ハケンという立場を辞め、これからまた一人で社会の中を泳いでいくわけだが、常に自分自身に問うことになるだろう。自分はどこで誰のために役に立てるのだろうか?・・・と。

自分が活躍して喜んでいただけること、そして自分にないスキルを持つ人と経験知を融合して新しい価値を作ること。これが大事なわけで、自分にないスキルをうらやんで勉強を始めるというのは微妙に筋違いなのかもしれない。もちろん基礎的なラインを学ぶことの価値までは否定しないが、自分のメインスキルでない限りは「隣の芝」を追求していちゃいけないのだろう。人生、そんなに長くない。

せっかく自分と違う領域の人に会えたのに、そこと同じ領域を目指したところでその人を超えることはおそらくない。それに、できたところで領域がぶつかるだけだ。無駄に戦わずに共存できる道を探ることが大事なのだと思う。残念ながら今の私はそれを実現できていない。しかし、いつか異業種とのコラボレーションを楽しめる自分でいたいと切望している。きっとできるはずだ。

2 件のコメント:

  1. オンリーワン。自分にしかできない仕事を見つけたいです。

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  2. お読みいただき、ありがとうございます。
    自分にしかできない仕事ってあると思います。
    それはどれだけ仕事を愛することができるのか。
    そのあたりがヒントなんじゃないかなと思います。

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