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2012年4月25日水曜日

発達障害はある意味で幸せな生き方


発達障害ってね、ある意味で幸せな生き方だと思う。自分の好きなことに全力を出しやすい特性なのだから。そういう意味でも「これぞ」と思える道探しは重要だと思う。逆に得意分野以外では圧倒的にアウェイなのだから。


先日、ツイッターでこうつぶやいたら、「簡単に言っちゃいけない……」と控えめなご意見をいただいた。「たしかに簡単でもないんだよなあ」 と思うとともに、「だからこそ『簡単』に言わないといけないんだろうな」とも思った。その理由については後述するが、まず、その前に訂正しておきたいことがある。

訂正したい点は「発達障害はある意味で幸せな生き方」という表現がちょっと乱暴だったということだ。もうすこし私が伝えたい意味にそって正確に書き直すと「発達障害と呼ばれる人の中には、特性を活かして幸せに生き方ができる人もいる」というところだろうか。

私自身は医師から発達障害という診断を受けたことはないが、実際に診断を受けてみたらどんな結果が出るものやら……と思っている。実際に社会の中で活躍している人たちの中にも、病院に行ったら「発達障害」という診断を下される人はたくさんいると思う。

ただ、それが直ちに「障害者認定」に結びつかないのは、「生活に著しい不具合が生じていない」というケースが多いからだろうと思う。私にしてもそうだ。ただ、人付き合いがヘタクソで、過去に不穏な空気をたくさん作ってしまった自覚はある。なぜそうなったのか理由が分からないケースすらある。

私は本質的に「人付き合い」が苦手だ。私が人付き合いできているのは、ひとえに相手になってくださる方々が寛容さに依存しているかもしれない。一日中、誰とも会話することなく、一人の世界に没頭することも苦痛ではないし、できればそうしていたいという気持ちもどこかにはある。

子供の頃、「そういうことをしたら、普通、人はどんな気持ちになると思う?」と聞かれて、「人の本当の気持ちは分からない」、「人によって違うと思う」と答えることが多かったように記憶している。むしろ、他人の気持ちを「想像」するよりも、常に「真実」を口にすべきだ……と思っていた。

そして、実際に私が通ってきた道は対立の連続だった。いろいろなところで「波風」を立ててきたし、「真実を貫くためにはやむを得ないこと」くらいの気持ちでいた。「ちょっと世の中から浮く存在」という私にとって、発達障害と呼ばれる診断を受けた人たちの考え方には深く共感できるところが多い。

さて、トラブルの多かった私がそれなりに快適に生きてきた方法は、次の二点に集約される。

・自分が苦手とする領域になるべくいかないこと
・人間関係は事実の確率に基づいた「論理」で解決すること

それぞれの詳細についてはいずれ触れてみたいと思うが、世の中が自分にとって生きづらい環境であるならば、少なくとも、自分の半径50センチ程度の範囲だけでも改善していくことから始めるといいんだと思う。オフィスで働くのがイヤならノマドワーカーになるのも有効な手段だと思う。(実際にやってみると、地味にトイレや電源の確保が悩みの種になるのだが)

もちろん、これも「全ての発達障害の人に有効」という方法論ではない。なぜなら「全ての人に有効な○○」というものは存在しないからだ。「発達障害」というくくりで話を始める前に「人間」という大前提を認識しておくことが当然で、そこには実に奥深い多様性があることは忘れてはいけない。

そういう前提においても、発達障害と診断された方のだいたい3割くらいは、一緒に可能性を磨いていきたいと思わせる人がいる。そして、その中のさらに何割かは実際に「自力」でスキルを身につけていく人がいる。その環境下で、実際にWebデザイン制作やWebシステムの構築ができる人もいる。

確かに発達障害を取り巻く環境が、素晴らしく幸せなものではないことは百も承知だ。それに乗り越えていかなくてはならなさそうなハードルもある。たとえスキルを身につけたからといって、そのスキルを活用できる形で採用してくれる企業は少ない。

どれだけシステム開発ができようと、素敵なデザインができようと「シュレッダーとコピー機を使う簡単な仕事です」という求人票に直面してしまう。法定雇用率(企業において1.8%以上の障害者を雇用するように国から指導されているルール)を満たすために「無難」な障害者を欲しがる企業は多い。

それでも「未来は明るい」ことを信じていた方がいいと思う。なぜなら「簡単ではない」=「難しい」と思った瞬間に、自己暗示にかかってしまうからだ。確かに現状においては、あまりいい材料はない。しかし、だからこそ「ハラミやホルモン」を目指す人が現れないといけないと思う。

今でこそ人気のハラミやホルモンは、かつては、お客様に提供できない部位として捨てられていたらしい。諸説あるが「ホルモン」=「ほうるもん(捨てるもの)」というところから由来しているという話もある。その真偽はともかくとして、社会全体がついてくるより前に、時代の先を歩くと認められないことは多い。

しかし、「現状の企業に認められないから」といって、可能性を持った人たちが簡単にあきらめてしまっては、いつか企業に「発達障害といわれている人の中には有益な人材がいる」と気づいてもらう機会を永遠に失ってしまうことにつながりかねない。それではいつまでたっても世の中は変わっていかない。

発達障害……私が関わってきた人たちの範囲でいえば、非常に論理的な人が多いような気がする。もちろん、特定の「こだわり」領域が強すぎる場合、その領域に関する部分だけ論理性が弱まることもあるが、それでも論理的な仕事に向いている人は多かったような気がする。

そういう特性が全ての人にプラスに働くとは言い切れないが、少なくともそういう傾向がある人は、そういう傾向を「メリット」として活用した方がいいと私は思う。私はそういう人の底力を信じていて、本来の能力を磨くことに時間を費やしている。

もちろん私は単なる人間だし、私が全ての人を幸せにできるなんて妄想などは抱いていない。そもそもそんなことは無理だ。ただ、私が目指している方向性を信じてくれる人が何名かいてくれて、そういう人たちと「まっとうな形」で社会進出していけたら幸せだなあと思っている。

2012年4月18日水曜日

二番煎じが効率的だから

諸説あるようだが、「二番煎じがもっとも効率性を追求できるビジネス手法である」という考え方がある。一番手は「多くのリスク」をかかこんでしまう。さりとて最後列に並んでしまうと利益はほとんど残っていない。だから「革新的な一番手が通った直後を通れば、少ないリスク(=コスト)で利益を享受できる」という考え方だ。

「ビジネス」として考えた場合、私もほとんど同意する。もちろん、「働くことに関する幸せ」ではなく「利益の効率性」を最優先するわけだが、それはそれでありだと思う。しかし、「就労移行支援事業」として考えたとき、私はビジネス的な考え方を貫き通すことに大きな疑問を感じる。自分たちの利益のために利用者の人生を「犠牲」にすることになってはいけないと思うからだ。

賛否両論あるだろうが、私は障害の有無にかかわらず「自ら考えて働くことの幸せ」を体験できる場を必死になって作ってきた。その結果として、「高いモチベーション」が先行して「体調」を牽引するというケースをたくさん見ることができた。「自分が必要とされていること」そして「自分が持っているイメージが実現する楽しさ」は、人生の起爆剤になる。

この環境を作り上げることができたのは、「既存の価値観」をできる限り意識せず、「前向きに生きることに何が必要なのか?」という一点のみに集中させていただいた環境のおかげだ。そういう意味では私一人の力で達成しえたものではなく、多くの方々に無言のご支援をいただいたからこそ実現できた。

私が作り上げた仕事環境は、「自分たちで考える」、「自分たちで解決する」という一貫した理念のもとで急成長している。私にとってそのルーツとなる考え方は「NPO法人NECST」が運営する、メンタルの方が集うクラブハウス「ForUs」のマディソンモデル活用事業に学んだもので、当然ながら私はこの考え方に大きく同意している。

ここで逆説的に考えてみよう。私が構築してきた「自律的職業訓練環境」を壊す方法は非常にシンプルだ。それは「職員が考えたルール」を利用者に一方的に押しつけてしまえば、すぐに崩壊する。彼らを「幼児」のごとく扱い、尊厳を傷つけるようなルールを導入すれば、1年近くかけて構築した環境は1ヶ月ともたないだろう。

だからこそ、私は感謝している。今まで二番煎じ的な発想で他の事業所のマネをせず、リスクがあっても独走させてくれたことに対する感謝だ。私のもとで仕事をしてくれている利用者の方がこんなことをいってくれた。「もし、ここが他の作業所と同じように管理型のルールを押しつけるような場所だったら、私はここにもいられなかったと思います。」と。

その時に私は気づいた。「ビジネスの基本は『質のよい模倣』にあるが、彼らに必要な環境は模倣性を高くして得られるというものではない。」ということだ。就労移行支援事業者が「右にならえ」をしてしまえば、社会の中に居心地の悪さを感じている彼らから選択肢を奪い取ってしまうだけになってしまう。

もちろん、私が目指している仕事環境は万人に適しているものではない。だからこそ、私とは違う価値観の人間が他にも就労移行支援事業を立ち上げるべきなのだと思う。そのようにして、バラエティ豊かな環境が選択肢の幅を広げていくことになれば、もうすこし世の中が明るくなるのではないかと思っている。二番煎じではない独自性の高い就労移行支援事業が増えてくるといいと願っている。

2012年4月11日水曜日

「ありがとう」が「働く」こと

「働きたいと本気で思ったことはありますか?」という質問は、就労移行支援をやっていると、どうしても聞いておかないといけない質問だと思っていた。そもそも「やる気」がなければ「スキル」を身につけても社会に出て行くことなどできないからだ。だから、まずは「気持ち」が大事だろうと。

しかし、最近、そればかりじゃないんだなと思うことがある。たとえば、私が運営している仕事訓練環境では、「業務ありき」という状況になっている。そして、その業務を遂行するための方法も教えない。ただし、「自分で考える」ということに対するヒントは出していく。それでも、基本的には仲間と相談して解決策を考えてもらうようにしている。

そういう環境において、「不思議な人材」が生まれてくるのだ。業務を遂行するための方法論、そしてどのような仲間とどのようなチームを組むと先に進めるか……ということを考えるのが得意な人、全体のモチベーションを高めるのに活躍する人、それぞれの長所を繋ぎ合って弱点を補い合う人……など、きっちりと連携して、そして自分たちで業務を完結していく。

それでも、「働きたいと本気で思ったことはありますか?」という質問に対して、「正直なところ、ありません」と答える人がいるのだ。十分に仕事をやっていけるし、こういう人が会社に入ったら助かるだろうな……と思えるような動きをする人でも、「働く」ということに対して「違和感」を感じている人は意外にいる。

気になって本人に聞いてみたところ、「なるほど」と思える事実が分かった。その人にとって「仕事」とは、「命令された『指示』どおりに一日中動く」ということが「働く」という認識だったということだ。そして、「働く」=「時間の牢獄に入れられる」というイメージで捉えていたのだ。確かに仕事にはそういう面があることは否めない。

実は、私が大学を卒業したばかりの時に「仕事」に対して抱いていたイメージと同じだ。社会人になるということは「自分の人生を捨てることだ」とまで考えていたことがある。まさか、それから十数年後に「楽しく仕事をしている自分」がいることを全く想像できなかった。「仕事」=「楽しい」という側面もあることに若かりし頃の自分は気づけなかった。

今にして思えば、「仕事」を楽しくするか、ツライものにするかは自分自身の心の在りようにかかっている。自分自身で「仕事」を作り上げようとすればするほど、「仕事」は限りなく「趣味」に近づく。逆に、「仕事」を命令としてこなそうとすればするほど、「仕事」は限りなく「労役」に近づく。一日に指定された時間で「趣味」をするか、それとも「労役」をするか。その違いは大きい。

今、私が運営している仕事訓練の場所では、自分たちの責任において、よりよい品質の業務を進めていこうとするモチベーションがとても高い。多少、時間がかかったとしても、私はその気持ちこそ大事にしてほしいと思っている。なぜなら「お客様が喜んでくれること」を価値観の中心に据えてくれているからだ。お客様が喜ぶことが目的にさえなればいいのだ。

どんな仕事も「お客様」がいる。想いを込めた仕事には、お客様が満足して「ありがとう」と思ってくれる。その気持ちを最上級の形にしたものが「お金」なんだと思う。全てのことが「感謝の言葉だけ」で済ませられるのならお金はできるだけ払いたくない。そのお金を払ってでも感謝したい……と思ってくれるだけの仕事をしなくてはウソなのだ。だから仕事は面白いのだ。

かつて、仕事に対して拒絶感があった私がたどり着いた考え方。ここに一人でも多くの方がたどり着いてくれたらうれしい。

2012年4月4日水曜日

「やらせる」ではだめなんだ

世の中には実にさまざまな考え方がある。「ゴールデンルール」、「GTD」、「7つの習慣」……など、仕事の効率を高める方法には私自身も非常に深い興味を持っている。しかし、こういう仕事術には注意をしなくてはならないと思っている。就労移行支援事業に関わる立場として、特に私は注意を払っている。

それは「自分に役に立ったからといって『やらせてみる』ではダメだ」ということだ。組織を動かすプロに多いような気がするが、「やらせればなんとかなる」と勘違いしてはいけない。なぜなら、そこにいたるプロセスの方がずっと大切だからだ。逆説的にいえば、「やらせる」という形ではうまくいかない確率のほうが高いと思う。

私は個人的に「どの仕事にどれくらい時間を使ったか」という記録をとっている。ひとつのタスクごとに記録しているので、一日が終わってみて「何も終わらなかったけれど、一体、何に時間をとられたのか分からない。」ということは一切なくなった。さらに一週間毎にレビューを実施すると、「何をやめるべき」で「何をすべきか」という点が明確になってくる。

しかし、実は、この行動記録を数年前に「やらされた」ことがある。とある社長の業務命令に仕方なく従ったわけだが、実はまともに業務記録などやっていなかった。ありそうな時間記録をして、ある意味では「でっちあげ」で報告していた。なぜなら記録をとること自体が「時間の無駄」だと思っていたからだ。だから当然、何の役にも立たなかった。

つまり、「自分で自分を改善しよう」という明確な目的がなければ、どれだけメソッドが優秀であっても意味がないのだ。「目的に達するためのメソッド」という考え方が重要で、「メソッドを実行することが目的」になることは全くナンセンスだ。本質的には「メソッドに近づきたくなるモチベーション」を身につけることの方が大事だ。

たとえば就労移行支援の現場にいると、「MOS検定試験に通る」という目的を持つ利用者をよく見かける。たしかにMOS検定に合格すれば、「マイクロソフトのOfficeがどの程度使えるのか?」という指標にはなる。しかし、これにしても同じことだと私は思っている。「MOSに通ること」が目的ではなく「どういう仕事にどういう機能が使えるか?」という観点こそが必要なのではないだろうか。

ビジネス関連のメソッドは、その根底に「自主性」があって初めて成立するものだ。必要に迫られなくては何も機能しないのだ。まったく忙しくない人に機能的なシステム手帳をプレゼントするようなものだ。忙しくもない人にシステム手帳を渡すのは「ゴミを渡される」ようなもので、それは「迷惑」でしかない。そこに気づかず「一方的にメソッドを押しつける」というやり方は百害あって一利なしだ。

私自身、ビジネスを加速させるメソッドを試してみることは楽しいことだ。それで、今まで見えなかった発見や、仕事の効率が高まることに至上の幸せを感じる。しかし、それでも「押しつけない」ようにしなければと自戒している。こういうメソッドが好きな人には陥りがちな罠があるからだ。「進んだメソッドを積極的に取り入れている自分は賢い」という勘違いだ。上から目線では誰も育たないことを知らなければいけないと思う。