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2012年9月18日火曜日

仕事は引き継ぎをしながら


「引き継ぎ業務」というと、仕事を辞める時に多く聞かれる言葉ですが、私はどんな職場に行っても、お世話になり始めた初日から「引き継ぎ業務」を開始します。念のために補足すると、当然ながら「引き継ぎを受ける」のではなく、あくまでも「引き継ぎをする」仕事を初日からするのです。

どういうことかというと、「引き継ぎ業務」に一番適している時期は「最初」と「最後」だからです。「最後」の理由は分かりやすいでしょう。様々なノウハウが身について、「○○を実現するためには□□をすればいい」ということが深く理解できているからですね。

では、「最初」から引き継ぎを始めるのは、なぜでしょうか?……結論から書くと、その環境に初めてやってきた人が「何を知りたいか?」、「何を知るべきか?」という部分について誰よりも把握しているからです。おそらく、「仕事を辞める時の自分」以上に熟知している状態です。

「『新人が知りたい質問』を考えなくても分かる時期」を放置しておく手はありません。なぜなら、「分からないこと」、「分かりたいこと」、「不思議に思うこと」を徹底的にリストアップしていきます。できれば、デジタルデータとして保存しながら蓄積していくといいでしょう。

そして、それらの項目が「解決」したタイミングで、その内容をアップデートしていくのです。すると、「分からないこと」→「分かったこと」という「引き継ぎ資料」が時間をかけて育っていくので、いろいろとバタバタしがちな「最後」の時期に焦って「引き継ぎ資料」を作らなくても済むのです。

ある程度、その職場に適応してきて、様々なノウハウが身についてきたとしたら、さらにいい方法があります。「引き継ぎ資料」の作成に比重をかける代わりに、「常に自分の仕事を他の人と分け合う」ということを意識すると、「引き継ぎ業務」はさらにラクになります。

組織内のポジションにもよるのですが、ある程度、自分の判断で人を動かせる状況であれば、積極的に自分の仕事を委譲していくのです。意外とこれを嫌がる人は多いんですけどね。「自分だけしかできない仕事を抱えておかないと、仕事をクビになるリスクが増えちゃうじゃないですか!」……って。

でも、次の理由で、私は「引き継ぎ業務」を初日から意識することは重要なのです。

・クビになる時にはクビになります
→「仕事がなくなるからクビになる」という可能性も事実としてありますが、組織がクビを言い渡す時には、「仕事をどれだけ抱えていようが、引き継ぎ業務を要求する」という終わりを迎えるものです。

・人が育つと休みやすくなれます
→自分の代わりにできる人が増えるということは、その分、仕事の呪縛から解放されるということです。「その日はどうしても自分がいなければ」という状況が減ります。

・たいした引き継ぎ時間が不要です
→引き継ぎをやっていないで、突然、最終日が近づいてくると、マニュアル作成やデータの整理など猛烈に忙しくなることはわりとあります。でも、普段から引き継ぎしておけばそういうプレッシャーと無縁でいられます。

・長期休暇後の自分のためになります
→年末年始や夏期休暇など、長期の休みを取得すると、いわゆる「休みぼけ」にかかってしまって、休暇前に自分がどうやって仕事をしていたのか忘れることがありますが、そんな時に役に立ちます。

私自身、何度か転職を体験していますが、転職のたびに苦痛だったのは「引き継ぎ作業」だったのです。特に、状況によっては、退職前というのはモチベーションが下がっていることもあるもので、そんな状況の中で引き継ぎ作業をすることは大きな苦痛を伴うこともあります。

そういうケースも踏まえて、モチベーションの高いうちに「引き継ぎ作業」を継続しておくことは、オススメだと思っています。あ、当然のことですが、間違っても「初日から引き継ぎ作業を頑張っています」なんて口に出してはいけませんよ(笑)。

2012年9月11日火曜日

正直でいるための「趣味」

前にも書いたんですが、私は「ボランティア」って言葉が苦手です。何よりも語感が好きじゃありません。「してあげています」という恩着せがましさと、「押しつけられた自己犠牲」という匂いを感じてしまうからです。そして無償の「奉仕」という行動……「奉って仕えて」しまうんですよ。なんだ、相手は神様か仏様か?……と。

私の単なる「言葉のこだわり」であることは重々承知しているのですが、私はあくまでも「無償」で行うことは「趣味」にしておきたいのです。「奉仕」でもなく「趣味」です。私は後になって「□□してあげたのに……」なんてことは言いたくないし、そんな気持ちにもなりたくないわけです。

私の癖なんだろうとは思うのですが「□□のために……」という気持ちから何かをしてしまうと、ほぼ無意識に「見返りを求める」マインドになってしまいます。私はこの「善意の裏に隠れた無意識の見返り欲求」がイヤなんです。だったら最初から「趣味」と割り切って挑んだ方がいくらかマシだと思えるんです。

「趣味」というのは「□□のため」というよりも前に「自分が□□をしたいから」という欲求からスタートします。つまり、そこに「恩着せがましさ」が入り込む余地はありません。また、「見返り」は「自分の欲求を実行した」時点で満たされているので、自分の中ではよほどすがすがしく、偽善的にならずにいられるのです。

さらにいえば「趣味と実益を兼ねる」という言葉があるように、誰かの役に立つことで、それが利益を生むことがあれば、遠慮なく対価を受け取ればいいんだと思っています。でも、これが「ボランティア」でスタートしていると「変節した」だの「結局はお金のために?」という背信的な気持ちになってしまいそうです。

また、自分自身が蓄えてきた「ノウハウに対する敬意も持っていたい」ということも「ボランティア」を嫌う理由のひとつです。自分が今まで蓄えてきた経験なりノウハウを「無料で提供する」ということは、「プロとしてのスキルにお金を払ってくれている方々」に対してとても失礼な気がするんです。

しかし、普段は対価をいただいているスキルを「自分のやりたいこと」に使うのであれば、そういう葛藤とも無縁でいられます。なぜなら、「自分のために使う」という行為は、「あの人には有料」←→「あの人には無料」という枠組みの外側にあるからです。ある程度、自分にウソをつかずに公平性を保ちたいんですよね。

人によっては「本気でやっている人助け」を「趣味」と言われることは不快感を感じるかもしれません。まぁ、確かにそうかもしれません。また、「趣味」ではなく「マジメ」にやってほしいと思うかもしれません。でもね、私の価値観で考えれば、本気度は「ボランティア<仕事<趣味(遊び)」という大小関係だったりします。

なぜなら「趣味(遊び)」こそ、本気でやる価値のある行動だと思うからです。「仕事」の場合、「この報酬額なら、この程度のコストで妥協するしかないな」という判断をしなければならないことがあります。いただく報酬よりもコスト(原価)の方が高くなってしまえば「赤字」になってしまうからです。生きるためには当たり前の判断です。

しかし、趣味であれば、ある程度は原価計算を度外視できる可能性が高くなります。そもそも、「無償奉仕」に「仕事」の価値観を持ち込んだ場合、明らかに「収入<原価」という関係になります。つまり、普通に考えると「仕事品質を求めるなら、タダでは提供できませんよ」ということになっちゃうわけです。

 ×「誰かのために何かをしてあげたい」→○「趣味で誰かに何かをしたい」

もっとも、作業に「マジメ」を求めるのであれば、そもそも「無償」ではなく「有償」でお願いしてくださいよ……という話になるんでしょうが。

2012年9月4日火曜日

「情報発信」だけの限界

最近はなんでもかんでもネットを利用して、積極的に情報発信しようという機運が高まっているけど、情報発信だけに偏ってはいけないんじゃないかな。特に、ベンチャーであったり、個人事業主の場合、「自分の存在を認識してもらわないといけない」わけだけど、それでも「情報発信だけ」じゃ厳しいよね……と最近思うんです。

どういうことかといえば、「中身が伴っていなければ言葉の無駄撃ち」に過ぎないっていうこと。たとえば、「○○であるべきだ」という主張があったとして、それを訴え続けることも重要ではあるものの、いつまでたっても「訴え続けるだけ」では、ちっとも前に進みやしないわけですね。

「主張は分かったけど、それで実際に試したの?」

ってこと。主張してばかりじゃなくて、早く実行しろよ、早く検証しろよ、そしてその結果を報告しろよ……ってことなんですよね。そうでなくてはタダの屁理屈になっちゃうわけです。そんなことをしていては、自分自身の時間ももったいないし、そんな状況で書いた文章を読まされる方も等しく時間がもったいないわけです。

ちょっと話がそれますが、昔、ハマらないように十分に注意しながら「自己啓発系セミナー」に足を運んだことがありました。いくつか種類の違うセミナーに参加してみたんですが、おもしろい現象が見られるんですよね。講演が終わって、交流会みたいな時間になると顔見知りの常連さん同士が挨拶してるんです。

「いや、またお会いしましたね」
「先日はどうも、○○さんも勉強熱心ですねえ」
「いえいえ、まだまだ。今度は□□先生が講演されるセミナーに参加するんです」
「へえ、□□先生ですか、また私も聞いてみたいですね」
「ええ、なんか、最近、モチベーションが上がるセミナーが多くて忙しいですよー」

セミナーに参加したてのころ、私はそういう人たちを見て、「意識の高い人たちはやっぱり違うんだなー」なんて平和的な勘違いをしていたわけですが、何種類かのセミナーでそういうシーンを見ている内にものすごい違和感が湧きだしてきたんです。

「なんで、この人たち、こんなにセミナーに参加ばっかりしていられるんだろ?」
……って。

いや、もちろん、モチベーションが高くなるのはいいことですよ。ですけど、高いモチベーションを仕事に活かすんじゃなくて、その高いモチベーションをセミナー参加に使っているわけです。つまり、「セミナーを受ける」ということ自体で満足しているようにも思えます。

知り合いで「自己啓発セミナーマニア」がいるわけですが、その人を知ってから数年。セミナーへの参加は相変わらずのようですが、未だに何もアクションを起こしていないようです。セミナーに参加すればするほど、自分の未熟さが見えてきて、さらに他のセミナーを受けないと……という気持ちになるんだそうな。

いくら講師が「この講演を聞いて満足していたらいけませんよ。大事なことはとにかく実行するということです!」と熱弁をふるっていても、「そうか、実行が大切なんだよな。よし、それじゃ、とにかく熱が冷めないうちに他のセミナーの参加申し込みをしよう!」と残念な方向に転がっちゃうようです。

ネット上での持論展開もこれと同じで、「実行」と「検証」を伴わずに、ただ主張しているじゃダメなんだと思います。自分自身にノルマを課して、たいした成果もないのに内容のない文章で空白を埋めることには意味がないと思うのです。情報発信に躍起になるのではなく、たまには『黙って成果を出す』ことが大事なのでしょう。