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2013年6月16日日曜日

起業家に最も必要な管理とは

◆タスクよりモチベーション

デジタル文化の発達により、時間内に処理しなければならない行動の密度が凝縮されている昨今、タスク管理に関するコンテンツは増え続けています。タスクの細分化、タスクの優先順位、タスクの納期管理……さまざまなツールがあり、さまざまな運用法がありますが、それだけで解決しない課題もあります。

タスク管理の方法をどれだけ知っても、知識だけでタスク管理が機能するというわけではありません。タスク管理の最も基本的な側面は「タスクリスト」の作成です。しかし、これを作成して並べるだけでなんとかなるのかといえば、そうはなりません。「実行したい」というエネルギーが必要不可欠なのです。

多くの「タスク管理」はモチベーションが十分にあることが前提になっています。やりたくない人に無理矢理やらせても無駄が多いので、それは当然のことなのですが、同じ人でも体調の波によってモチベーションの不調はやってきます。そういう時に乗り越えるノウハウを知っておくことは重要だと思います。


◆その願望はリアルなのか

比較的「雇われ仕事」で発生するタスクのモチベーションはシンプルです。なぜならば、やらなければ必ず何らかのペナルティがあり、後で困ってしまうことになるのでやらざるを得ないのです。問題は、自分で何かのプロジェクトを推進する時などで、どの選択肢も同じ程度に実現性に乏しい気がする時です。

どのタスクをやっても大した成果が出なさそうに感じる時、脳は何かの決断や選択を拒絶するようです。「やっても無駄かも」と思えるタスクに気持ちよく着手することは案外難しいのです。もちろん悩まずに、その「やっても無駄かも」をひとつひとつ根気強く潰すのが合理的なのですが、そうもいきません。

よく、起業に関する本を読んでいると、たいていはこのフレーズがでてきます。「成功したときのイメージを心に描こう」と。結局「夢」が大切なんですか……と軽視しがちですが、エネルギーが低下してきた時、最後にモノをいうのは自分の中にある「理想」をどれくらい本気でイメージできるかに尽きます。


◆非現実イメージが邪魔をする

非現実化イメージというのは恐ろしいモノです。何かを始める時には周囲から「できるわけないさ」といわれる言葉を背にして奮起するのですが、長期戦になってきて成果が上がっていないと、無意識が「簡単にできるわけないよなあ」に変わってしまいます。信じていない目標に向かって惰性で進むだけです。

自分自身が「現実化を信じていない夢」に向かって歩き続けるのは、ただツライだけです。開業当時の自分自身の気持ちに背を向けて歩き続けられるわけがないのです。事業を動かしていく人に必要なことは、自分の計画をできるだけ多くの人に宣言することだと思います。厳しい相手ほど効果があるでしょう。

中小企業の経営者が組織するコミュニティが存在する理由が、実は私にはよく分かっていなかったのですが、最近になって価値が分かってきたような気がします。それは自分自身の心のあり方を「自分自身に監視させる」モチベーションを得るためではないでしょうか。ごまかして生きていてはいけないのです。

2013年3月24日日曜日

障がい者……利用者様……


◆障害を巡るいろんな呼び方

私は、過去に何度か「障害者」、「障がい者」、「障碍者」の表記について思うところを書きました。私は「障害者」派(?)です。言葉狩りをしても本質的には何も変わらないし、同じ意味なのに表記をコロコロ変えてしまうと、障害者自身が困ってしまうことも少なくないことが分かっているからです。

文字の認識について障害を持っている人から見れば、パンフレットに「当日は障碍者手帳を忘れずお持ちください」と書いてあっても、目の前にある手帳には「障害者手帳」と書いてあるわけです。「……あれ?……この手帳じゃないのかな?……ええと、そもそもこれ、なんて読むのかな?……しょう……ぎ?……とく?……てちょう?」と。

まあ、このあたりはいつも微妙なところで、結局、議論をしたところで「誰に合わせるのか」というところで結論はでないのですけどね。だって、私が「障がい者」という文字を読むと、なんとなく馬鹿にされてるのかな……って思ってしまいます。どうせ、「害」の字が読めないのだろうと思っているのだろう……と。

それでも、「障害」以外の表記の方が無難といえば無難なのかもしれませんけどね。なぜなら、そもそも「障害」の「害」の字を外せと言い始めたのは障害者の一部という説もありますから。もちろん当事者によっては「そんなもん興味ねーよ」と思っている人もいます。気にする人もいれば気にしない人もいるよ……というそういう次元の話です。

答えの出ない「障害者」表記問題はおいておくとして、最近、個人的に気になっている表記があります。近年、急速に障害者を対象とした就労移行支援事業所が増えてきているわけですが、ここで利用者を呼ぶ場合の表記が事業所によって微妙に違うことに気づきました。「利用者のみなさん」、「利用者」、「利用者様」……と。

◆「働く」=「お客様」?

この中で私が一番気になったのは「利用者様」です。これ、とても理由は分かるけど、その一方で個人的には違和感があります。たぶん、その事業所は「第一のお客様」を「利用者」と定義づけているんだろうなと思います。もしくは、へりくだった立ち位置で「自分たちは、自分たち以外の方々のためにあるのです」的な。だから企業に対しては「企業様」と呼んでいるのかもしれません。

話を進める前に書いておきたいのですが、私は「利用者様」と表現している事業所を馬鹿にしているわけではありません。ただ、どうして「様」を付けているのかな……と、その理由が知りたいというか、あくまでも個人的好奇心を刺激されただけなんです。その先にどういう価値観があるのかなあとか、そのあたりが知りたくて知りたくて仕方がないだけなんです。

さて、私が考える就労移行支援事業とは、「利用者」が「自立心」を持って「社会の一員」になれるための手伝いをすることです。社会の一員ということは、細かい形態はどうあれ「職場」で活動することになると思います。職場からの立場で考えて一番困る人は「何にもできないことを当たり前のことのように振る舞い続ける人」です。

いろんな職場で障害の有無に関係なく、こういう人によくかけられる言葉があると思います。「君ね、いつまでもお客さん気分じゃ困るんだよ」……と。働くということは「サービスを提供する側」に回ることです。サービスを提供される側がお客様です。つまり、働くための訓練や支援は「お客様」から脱却するためのステージだと思うんです。

で、いつかは「お客様」を脱却した「社会の一員」になっていこうと思っているはずなのですが、それをトレーニングするための場所で「利用者様」と「お客様」扱いを受けていると「脱皮」が難しくなったりしないのかな……と思ったりもします。きっとここらあたりの戦略が違うから、あえて「様」付けしているんだろうと思うのですが、やっぱり私には分かりません。

◆お客様には極上の居場所を……

ものすごーくシビアに現実的に考えれば「利用者」は就労移行支援事業所から見れば「一番のお客様」です。なぜなら、利用者が事業所を利用してくれることによって、貴重な税金の中から助成金として事業所は収入を得られるからです。そんな利用者を「絶対にしあわせにしたい!」と思う気持ちは私も同じです。でも、だからといって「お客様」……は違う……かな。

誤解を恐れずに書けば、「利用者は成長してとっとと社会へ出て行け!」というやり方が正しいのかなと思っています。もちろん分野によっては時間をかけてスキルアップしていくことが大事です。むしろ私が行っているいくつかの講座や試みは「長期的育成」に関するものです。それでも、基本的には「できるようになったら、とっとと社会に出て行け」というスタンスが正しいと思うのです。

利用者を「お客様」扱いして、とても居心地のいい「居場所」を提供するのは就労移行支援事業所のミッションではないんじゃないかなと思うのですね。むしろそのあたりは、地域活動センターとかデイケアとかそのあたりのお仕事なのかなと。それよりは「今よりは居心地が悪くなるであろう」職場に耐えうるためにも、早期にシミュレーションが必要なんじゃないのかなと。

それから、過去に私が関わった就労移行支援の現場で過去にこういう事例もありました。確か発達障害でお困りの方だったと思います。ものすごく頭が切れて回転もいい方だったことを記憶していますが、その人が利用者を結集して「自分たちの思い通りにさせろ」という抗議活動を始めようとしました。就労移行支援事業所の中で自治権を持たせろというのです。

「最終目標はすこしでも早く就職して、ここから出て行くことですよね。要求は最終目標からズレているし、ここの方針がイヤなら、他にたくさん就労移行支援事業所はありますよ。」と伝えたときに、彼の口からこぼれた言葉があります。「私たちのおかげであなた方は給料をもらっているのでしょう?だから私たちの要求を聞くべきです!」と。

◆権利主張は大切だが……

彼との話し合いは平行線を辿り続け、結果的には就労移行支援事業所の利用を中断していただくことになりました。最後まで「労働者は労働環境を変える権利がある」と訴え続けていました。「ここは職場なのではなく、職場で活躍するために必要なトレーニングの場ですから」……という言葉は最後まで理解されなかったかもしれません。

しかし、その時、自分の中で無意識に行っていたことを反省しました。「個性から生まれそうな可能性」を大切にしようとするあまりに、私は当時、利用者を「お客様」扱いしていたのです。嫌われないように、嫌われないように。いつでも気持ちよく通えるように。そして、創造性豊かな発想力にはなるべくブレーキをかけず、まずはとにかく成功体験と自信を持ってもらおう……と。

これは障害者手帳の有無に関係のないことですが、あまりに根拠のない自信が蓄積し続けると、人は時として「自分の価値観が絶対的に正しい」と思い始めます。そのエネルギーは洗脳的ですらあります。「こんなに努力をしているのに」、「こんなに貢献をしているのに」、「認めないのはアイツに能力がないせいだ」、「社会が悪いから自分は報われないのだ」……と。

権利主張は大切なことです。大切だと重要性を十分に理解した上で書きますが、私は権利主張が大嫌いです。権利主張は「頭を使わなくてもできる」ことだからです。そして「自分の責任を果たさなくてもできる」ことでもあるからです。その時から私はできるだけ、利用者に対して「お客様」扱いしないように心がけるようになりました。

権利主張というのは「戦い」です。相手から妥協を引き出すための戦いです。自分の非を認めると戦いが不利になるので、基本的には自分の非を認めません。「当然の権利」を手にするために戦うのです。しかし、最初から対決姿勢を好む人間を雇用したいと思う企業があるでしょうか。おそらく多くはありません。だから権利主張を我慢することも大事なトレーニングの一環なのです。

◆なぜ「利用者様」なのだろう?

そういう意味で「いやならいつでも『自分の意思』でやめてもいいんだよ」というスタンスを持つ事業所の方が私は好きです。変にお客様扱いをして、結果的に「職場とのズレ」で苦しませる結果になるのも気の毒ですし、「権利主張」を振り回しすぎて社会から煙たがられる存在になっても、やはり気の毒だと思うのです。

物事の「呼称」には「ポリシー」が宿ります。どのような何気ない言葉だったとしても、そのひとことの端々には理念が宿ります。私は、「利用者様」という言葉を使う事業所のポリシーというか理念を知りたいなあと本気で思います。なぜなら私が理解することの難しい価値観だからです。それを説明してくれる人がいたらじっくりお話ししてみたいです。

2013年3月17日日曜日

弱さを認めることと甘えること


◆「弱さ」と「甘える」こと

最初に書いておきます。私は強い人間じゃありません。どちらかというと弱いです。いや、圧倒的に弱い。どれくらいに弱いかと言えば、お金をつい使ってしまいそうな誘惑に負けがちなため、必要のないときには財布に多くのお金を入れないようにしているくらい弱い人間です(苦笑)。だから予想外のタイミングで飲みに誘われると思わずコンビニATMを探す有様です。

あと、行動力もだいぶ弱いです。だから、いつも行動予定をある程度たてて、それに沿って進まないとつい怠けたり、遊んだり、そして無駄に休憩してしまったりもします。「自分の弱さを認めていてよく知っている」からこそ、その対応策を立てることがとりあえずできています。そうしないと私はひたすら怠惰な道に流されていくことでしょう。

「弱さ」と「甘え」をセットで考えている人が、わりと多いような気がします。「弱さを認めること」=「甘え」の図式で生きること、それは自分の足で立とうとする意志を否定していることになると思うんです。だから「弱さを認めること」=「甘え」=「仕方ないじゃないか」じゃダメなんです。

あ、もうちょっと正確に書きましょう。「ダメ」じゃないです。今のままでも十分にしあわせで、これから先も今のままで十分にしあわせだとするなら、そのままでいいのです。今、私が話をしている相手は「今よりももうちょっとしあわせな未来を生きたい」と思っている方々です。

◆情に訴える生き方をやめよう

基本的に「弱さを認めること」は重要だと思います。さらに踏み込めば、それを公開することも重要でしょう。私なりに理由を考えるとふたつあります。ひとつめは「自分の弱点を知る」ことによって対策が考えられるからです。ふたつめは「弱点を公開する」ことで精神的に堂々とできるからです。ある意味で「脱皮」ができるのです。

しかし、この「弱点を公開する」という意味をはき違えると、結局、「変化のない人生」が続くだけなのだと思います。「私には弱点があるのだから仕方がないよね?」という正当化の盾にしてしまえば、そこからの成長はほとんどないからです。「ありのままのあなたでいい」というのは、何もしない人にかけていい言葉ではないと思うのです。

私は、自分の弱点を盾にして情に訴えようとする生き方が好きではありません。なぜかといえば、それが30歳までの私の生き方と同じだからです。うまくいかないことを、自分のハードウェアと環境の責任にしていました。「身体が強くない」だの「頭が良くない」だの「顔が良くない」だの、その理由を旗印にして前進を怠っていたような気がしてなりません。

誰かに「自分の才能のなさ」や「運のなさ」を嘆いてみては、慰めの言葉を心地よく受け止めつつも、それを決して受け入れようとしない。私はその当時の私の生き方が大嫌いです。ただ、その一方で感謝もしています。私の「現在」というのは、そういう「過去」の上に成り立っているからです。だから、同じ思考に逃げてしまう人の弱さと気持ちがよく分かるのです。

◆自分の人生を掴めるのは自分だけ

結局、当時の私に温かい言葉をかけてくださった方々にはずいぶん迷惑をかけてしまったと思います。一体どれだけの精神力と時間を費やしていただいたのでしょうか。結局のところ、そのスパイラルから抜け出すのは「自分で変わろう!」という自分の決意以外になかったのです。これには「大きな痛み」を伴います。生半可な痛みではありません。

今まで自分が寄りかかっていた「価値観」を捨てることは、自分の身体の半分を捨てるにも等しい痛みを伴うのです。だから、「自分から変わろう」という話をしたときに、「それでは、本当に自分ではなくなってしまう」という人がいますが、その気持ちも痛いほど分かります。「自分を守ってくれる言い訳」を捨てることはそれほど容易ではありません。

「自分はダメな人間」である……その理由は、「自分はダメな人間」であるからだ。これは、まったく論理性も客観性も欠いており、ただそう思い込みたいという「負の信仰」です。正しかろうが、間違っていようが、自分を定義づける「信仰」を変えることは「本当の自分ではなくなってしまう」という危機感を伴います。本当の信仰とそれほど変わりません。

しあわせならそれでかまいません。今のままでかまいません。今の人生が輝いていて、どこにも一点の悔いもないのならそのままでいいのです。しかし、もし、「このままではいけない」と心のどこかで考えているのなら、痛みを受け入れる覚悟が少しでもあるのなら、私はあえてハッキリ伝えたいと思います。

◆「本当の自分」なんて捨ててしまえ!

今の自分が「しあわせな人生を送っていない」のだとしたら、半分以上は「自分自身の責任」です。自分自身が愛してやまない「本当の自分」などという存在です。その「本当の自分」とやらのおかげで、納得のいかない人生を送らされているのです。「人生を送らされている」って、誰に?……それもまた「現状の自分自身」だったりするのです。

本当の自分なんて捨ててしまえ……と聞くと、物騒なことをいう人もいます。「それって死ねってこと?」……もちろん違います。「自分を変えることは、死ぬことと同じだ。だから死ねってことなんでしょう!」……という気持ちは分かります。ええ、分かります。その気持ちは分かりますが、残念ながらそれは正解じゃありません。

ゲームだと思って、だまされたと思って一度やってみてほしいのです。「自分自身は死んでしまった」というつもりで、「しあわせそうな自分を演じる」ということを。「自分自身の弱さを、まるで他人事のように笑い飛ばす自分」を演じてみてほしいのです。「弱さの公開」とはそういうことだと私は思います。その瞬間に弱さは「自分自身」と切り離されるのです。

そう、今、大事に守ってやろうとしてやっている「本当の自分」こそが本当の敵なのです。そいつは「自分が何もしなくてもいい理由を探し出すプロ」です。「本当の」などというたいそうな肩書きでごまかしていますが、たいしたヤツではありません。「自分の弱さ」を「甘え」に変えてくる「本当の自分」なんて捨ててやればいいのです。その結果、やってくるのは「本当の自分」ではないかもしれませんが「大好きな自分」かもしれません。

2012年12月14日金曜日

遠慮しない

あいかわらず、発達障害でお悩みの方に特化した就労に役立ちそうなスキルを伝授する日々。その中でちょっと悩んだり考えたり迷ったりしていたことがあった。それは「利用者に配慮するレベル」について。

障害特性によっては、当事者が抗しがたいシチュエーションがある。いわゆる「地雷」というやつで、それは「状況」だったり「キーワード」だったりと種類は様々。そういう「地雷」に対してどういう姿勢で挑むかというのは支援におけるひとつのテーマかもしれない。

私は基本的に「無駄な地雷は踏まないに越したことはない」と考えている。「激しく嫌がられる」ようなことなんてしないほうがいいに決まっている。でも、特定の地雷は「どこに埋まっているか分からない」ということがある。たいていは「このあたりは危なそうだ」という精神的嗅覚に頼ることになる。

しかし、いずれにしてもいつか地雷は炸裂するもの。そのまま放置しておけば誰かがどこかで踏むわけだ。地雷を踏まないように注意している就労移行支援環境でうまくいったとしても、その先の就職先で誰かが地雷を踏んで、派手に爆発してしまえばそこで終わり。

とっかかりの部分についてはやむを得ないが、発達障害の就労移行支援で「腫れ物を触る」対応をし続けることは、最終的に当事者の利益に繋がらないことだと思う。医療にたとえれば、お腹の中に切り取るべき病巣があるのに、お腹の外側に塗り薬を塗ってごまかすようなものだ。

もちろん対応のひとつとして、「こういう状況は避けていただきたい」という「人材活用個別マニュアル」のようなものを作って企業に渡すのも有効だとは思う。当事者を多く採用すればするほど制限事項がひたすら増えていくだけになってしまう。そして企業はそれを嫌う。

だって面倒くさいじゃないか。だって、考えてもみよう。たとえばNGワードを事前通知するルールにしたとする。Aさんは「努力」「障害」「遅い」がNGワード、Bさんは「回復」「常識」「努力」「丁寧に」がNGワード、Cさんは「結果」「早く」「甘い」。……これが増えていったらNGワードだらけになる。

一人だけならなんとかなるかもしれないが、このルールが複数人で、かつ一人あたりのNGワードが複数に及べば把握しきれる範囲を超えてしまう。NGワードを設定することは、「職場の言葉狩り」を意味する。ましてや「NGワード」だけでなく「NG状況」も加われば混乱必至だろう。

基本的にこういう地雷を放っておいてはいけないのだ。もちろん障害特性も相まって、完全に撤去することは難しいかもしれない。でも、双方に歩み寄ることはできる。当事者は「地雷」を踏まれても爆発しない努力、企業側は当事者が「イヤな顔」を隠しきれなかったとしても大目に見る努力。

……現実的に考えるとすれば、このあたりが落としどころなのではないだろうか?

いずれにしても、それもこれも「地雷」が分かっていないとできないことで、「地雷」が分からないのであれば、もう、それは踏むしかないのだ。踏んでみて「カチッ」といったら、その場で安全に撤去するしかない。もしかすると爆発して縁切りコースかもしれないが、それでも踏むしかない。

なるべく事前に多くの地雷を発見して安全に解除する。解除できなかったとしても被害(当事者にとっても就職先にとっても)を最小限にするべきなのだ。影響範囲を最少にする努力をしたあとに、その内容について企業に説明できるといいんだろうと思う。

2012年9月4日火曜日

「情報発信」だけの限界

最近はなんでもかんでもネットを利用して、積極的に情報発信しようという機運が高まっているけど、情報発信だけに偏ってはいけないんじゃないかな。特に、ベンチャーであったり、個人事業主の場合、「自分の存在を認識してもらわないといけない」わけだけど、それでも「情報発信だけ」じゃ厳しいよね……と最近思うんです。

どういうことかといえば、「中身が伴っていなければ言葉の無駄撃ち」に過ぎないっていうこと。たとえば、「○○であるべきだ」という主張があったとして、それを訴え続けることも重要ではあるものの、いつまでたっても「訴え続けるだけ」では、ちっとも前に進みやしないわけですね。

「主張は分かったけど、それで実際に試したの?」

ってこと。主張してばかりじゃなくて、早く実行しろよ、早く検証しろよ、そしてその結果を報告しろよ……ってことなんですよね。そうでなくてはタダの屁理屈になっちゃうわけです。そんなことをしていては、自分自身の時間ももったいないし、そんな状況で書いた文章を読まされる方も等しく時間がもったいないわけです。

ちょっと話がそれますが、昔、ハマらないように十分に注意しながら「自己啓発系セミナー」に足を運んだことがありました。いくつか種類の違うセミナーに参加してみたんですが、おもしろい現象が見られるんですよね。講演が終わって、交流会みたいな時間になると顔見知りの常連さん同士が挨拶してるんです。

「いや、またお会いしましたね」
「先日はどうも、○○さんも勉強熱心ですねえ」
「いえいえ、まだまだ。今度は□□先生が講演されるセミナーに参加するんです」
「へえ、□□先生ですか、また私も聞いてみたいですね」
「ええ、なんか、最近、モチベーションが上がるセミナーが多くて忙しいですよー」

セミナーに参加したてのころ、私はそういう人たちを見て、「意識の高い人たちはやっぱり違うんだなー」なんて平和的な勘違いをしていたわけですが、何種類かのセミナーでそういうシーンを見ている内にものすごい違和感が湧きだしてきたんです。

「なんで、この人たち、こんなにセミナーに参加ばっかりしていられるんだろ?」
……って。

いや、もちろん、モチベーションが高くなるのはいいことですよ。ですけど、高いモチベーションを仕事に活かすんじゃなくて、その高いモチベーションをセミナー参加に使っているわけです。つまり、「セミナーを受ける」ということ自体で満足しているようにも思えます。

知り合いで「自己啓発セミナーマニア」がいるわけですが、その人を知ってから数年。セミナーへの参加は相変わらずのようですが、未だに何もアクションを起こしていないようです。セミナーに参加すればするほど、自分の未熟さが見えてきて、さらに他のセミナーを受けないと……という気持ちになるんだそうな。

いくら講師が「この講演を聞いて満足していたらいけませんよ。大事なことはとにかく実行するということです!」と熱弁をふるっていても、「そうか、実行が大切なんだよな。よし、それじゃ、とにかく熱が冷めないうちに他のセミナーの参加申し込みをしよう!」と残念な方向に転がっちゃうようです。

ネット上での持論展開もこれと同じで、「実行」と「検証」を伴わずに、ただ主張しているじゃダメなんだと思います。自分自身にノルマを課して、たいした成果もないのに内容のない文章で空白を埋めることには意味がないと思うのです。情報発信に躍起になるのではなく、たまには『黙って成果を出す』ことが大事なのでしょう。

2012年8月1日水曜日

生きがい

私は千葉の就労移行支援事業所でITコースの講師をしています。受講者の中には認知機能が大幅に低下していて、パソコンに触れること、コミュニケーションをとること、気持ちを表現すること……が難しくなっている人たちもいます。正直、「教えたって無理だろう」といわれたこともあります。

でも、私は続けてきました。気がついてみると、始めてから2年を過ぎています。そんな中で「私の実績ってどの程度なのだろう」と自問自答することも少なくはありません。うまくいくことばかりではありませんでした。冒険的かつ挑戦的な試みの末に、受講生の大半から総スカンの嵐を食ったこともあります。

私は『IT』を通じて、(1)どんな仕事であってもITを利用して効率的にラクになれるように。(2)就職先としてのITという選択肢を増やせるように。……という可能性を開きたいと考えていました。つまり、ITを目指さない場合でも、何かひとつ、人生を楽しく生きていけるものを発見してほしいと思っていました。

すべての人たちが(2)に進むわけではなく、(1)の段階で去って行く人も多くいます。「去って行く」というのは、就職が決まって去って行く人もいますし、「ITは無理なんだな」と感じて去って行く人もいます。冷たいと思われそうですが、私は基本的に「去る者を追わず」というポリシーを持っています。

なぜかというと、あくまでも「選択するのは本人であるべき」という信念を持っているからです。続けることも去って行くことも「自分の意志で決める」という価値観に重きを置いているからです。そうは言っても、やはりふとした時に思うことがあります。「私を信じて時間を費やした人を失望させたかもしれない」と。

最近、千葉の乗降駅で、たまたまかつての受講者に会うことがありました。彼はYさん。たしか、受講してくれていた当時はかなり具合が悪く、会話もとてもゆっくりで、ひとつずつ時間をかけるタイプの人でした。分かりやすく表現すれば、徹夜を二日続けて疲労困憊した時のコンディションと言えば伝わるでしょうか。

「ああ!松下先生!お久しぶりです!」

ところが、駅でばったり出会ったYさんは、当時の彼とは見分けがつかないくらいに認知機能がはっきりとしていました。いや、過去を知らなければどこにでもいる若者です。不調に苦しんだことのある人だとは思えないほどです。Yさんの活発な声を聞いたのは実は初めてでした。

私は、そこで、私自身が抱えていたモヤモヤに対する答えのひとつを聞いたような気がします。

「松下先生のおかげで今の自分があると思っています。」
「諦めそうになっていた自分たちに本気で情熱をかけてくれました。」
「松下先生に認めてもらえるほどITはできませんでしたが勇気をもらいました。」
「自分たちの可能性をあそこまで信じてくれたのは本当に嬉しかったです。」

かつてのYさんでは考えられないほど、矢継ぎ早に「当時の思い」を語ってくれました。家路を急ぐ人たちが行き交う暮れなずむ駅前、私は感謝の気持ちでいっぱいでした。当時のYさんは、コミュニケーションを取るだけでも大変な体調だったこともあり、私はYさんの気持ちを聞けないままだったのです。

正直なところ、私は長いこと不安を抱えていました。私の言葉は認知機能の低下で困っている人たちに、どこまで届いているのだろうか……。ただ、ツライだけのことをやっているのではないか……。ITに進まなかった人たちは「切り捨てられた」ように思っているのではないか……と。

私が彼らに投げかけた言葉の返事を一年後にやっと聞くことができました。まるでタイムカプセルを開けたような不思議な感覚です。「私の言葉は確実にしっかりと心に届いていたんだ!」と思うと嬉しくて仕方がありません。そして、Yさんからいただいた言葉は私の心に火をつけました。

「これからも『即戦力ITコース』で希望をなくした人に勇気を与え続けてください!」

……そうか。ITだけじゃなくて、そういうことも伝わっていたんだ。むしろ、IT以上に大事なことなのかもしれないなあ……と思いつつ、私自身、希望を捨てずにチャレンジしてよかったと思える、ある日の夕方でした。

2012年5月23日水曜日

わが闘争(という妄想)

私はポジティブな人間だと間違われることもあるのだけれど、実は超がつくほどのネガティブ人間という一面もあるんです。だから私がいろんなことに「否定」から入っていくことも少なくないです。そして、だからゆえに、「誰にでも刃向かう」とか「波風を立てる人間」という評価を受けることだらけです。

実際のところ、私はどうにも扱いにくい人間だと思います。特に「支配」という上からの圧力、「常識」という世間の大多数を盾にした力。私はどうもそういう力には逆流するタイプで、いろんなところで毒づいたり、勝手に苦労していたりします。客観的に見れば自業自得としかいえないわけですが。

ただ、私が噛みついて戦っているのは「力」そのものではありません。その先にある人間でもありません。ありきたりな表現になってしまうのですが、行き着く先は「自分自身」なんじゃないかと最近思うんです。「当たり前というあきらめ」に流されやすい自分に対してなのかなと。

だから、刃向かいます。そして批判します。否定します。でも、本質的には自分自身が相手なので、ひたすら自分の中で立場を変えながらディベートします。そのうちに最初に否定していた物事が、自分にとっても受け入れやすかったり、それでも違和感がどこかにあることに気づくことも多かったりします。

もう少し本音で書くと、そりゃ、直接的な相手に「カチン」とくることってあります。その瞬間はあまり理性めいたものはありません(苦笑)。最初の出発点はそこから始まるんですが、徐々に検証に入っていくんです。「相手が立たされた状況は?」とか「本当に自分自身に選択肢はないのか?」とか。

誤解を恐れずに書くと、世の中、たいていのことはお互いに「ずるい」ことをやっていたりします。自分では「私はずるいことや恥ずかしいことは一切やっていない」と認識していても無駄というものです。それは「ずるい」と感じた相手側の立場からしか見えないことだから。

そうやって「ちょっと変だよね?」というポイントに気づく感度を高めていくことは、無駄にはならないと私は思っています。それによって不快に感じる人がでてしまう点は、今後の課題としていずれは改善しなくてはいけないわけですが。それでも立った波風はどこかに役立つような気がします。

ちなみに、私は「自分は清廉潔白だ」と思っている人を信用しないことにしています。そういう人は、自分が犯した過ちや、犠牲にしている人たちの現実を直視できない人だと思うからです。私はというと、泥臭い失敗をたくさんしました。汚れればいいというモノではないのですが、決してきれいな人間ではないんです。でも、だからこそできることがあると思っています。

2012年5月16日水曜日

健常者だとどれくらいでOKですか?


何度も書いてますが、私は障害者の就労移行支援の仕事をしています。でも、私は「就職させて、はい、おしまい」というタイプの支援をしたいとは思いません。たまたま障害を持っていたということで、才能や適性があるにも関わらず「本当にやりたかった仕事」を選べない人たちが、普通に職業選択ができる流れを作っていけたらいいなあと思います。

で、その一環として、健常者と互角に渡り合えるエンジニアを養成しています。養成といっても「手取り足取り」ではなくて、「自己解決」しながら自力でスキルを身につける環境を準備するだけです。それで、気がつけばDB連携したWebシステムを構築できるようになっていたり、センスのいいWebデザインができるようになった人も育ちました。

ここで「健常者」という言葉を使うのは無粋の極みなんですが、あえて書くと、当事者には「健常者のシロウトが追いつけないレベル」を目指してもらいました。むしろそうじゃないといけないと思ったんですよ。「健常者>当事者」という枠組みで語るのではなく「熟練者>シロウト」という枠組みで立ち位置を定めた方がいいだろうなと。

でも、たまたまだと思うんですが、最近、立て続けに違う人から聞かれました。

「彼らがやっているWebページの更新って1日くらいでレクチャー受けられますか?」
「健常者に説明してほしいのですが、健常者だとどれくらいでOKそうですかね?」

……もうね、残念すぎるんです。特に福祉関連の人からそういう話を聞くと心の底からブルーになるんですよ。「結局、障害者よりも健常者の方が優れているという先入観があるのかな」って。そうじゃなくて、彼らがWeb関連の技術を獲得したのは「時間」と「モチベーション」と「気合い」を投資した結果であって、そこに能力差はあまり関係ないわけですよね。

健常者だろうがそうでなかろうが、こと、技術分野の領域の話では「時間」+「モチベーション」+「気力」=「経験値」になるわけで、健常者であれば「時間」も「モチベーション」も「気力」も不要で経験値を蓄積できるなんてことはないんですよ。もちろん、その周辺技術をあらかじめ知っている人にレクチャーするのであれば、いくらでもショートカットは可能なんですけど。

彼らが数ヶ月ほどの時間をかけて「自力」で獲得してきた技術や経験を「健常者に1日程度でレクチャーしてほしい」なんていわれるのは非常に残念なんです。そして、たいていの場合は「無償」であることが前提だったりします。当事者の努力に対しても、獲得した技術そのものに対しても圧倒的に敬意が払われていないような気がしてならんわけです。ただなら便利に使ってやろうと。

だからこそ、もっとがんばらないといけないなと思います。私もそうだし、当事者もそうなんです。表現として美しくないかもしれないけれど「ナメられないレベル」を目指していかないといかんのだと思うのです。「彼らの技術を1日で、それも無償でレクチャーしろだなんてとてもいえない」レベルになっていかないといけないのです。ぱっと見でわかるレベルでないといかんのです。

そういう意味で、前述の言葉を発せられた方々を恨むつもりは毛頭ありません。私と当事者が置かれた現実を正確に把握させてもらったという意味で感謝しているんです。自分の中では「そこそこいい結果が出始めているんじゃないだろうか」と思い始めていたことも事実です。そのあたりは甘ったれていたわけですね。そこは率直に反省でございます。

そんなわけで、心を入れ替えて、楽しみながら結果を出していくぞう!

2011年12月23日金曜日

私は差別をしている

私には基本的に「どんな人でも平等に幸せになってほしい」という理想がある。しかし、これから書くことは、およそその理想とはかけ離れたことだ。私にとって実に残念なことだが、私が目指す理想に近づくためにはどうしても越えなくてはならない現実だ。

私の仕事は、「障害」というレッテルのために、なかなか前に進もうとしてもハードルが厳しい人たちと一緒に、「本当の仕事」をしながら、仕事の楽しさを体験してもらうことだ。さらなる特徴として、「自主的な創造性」を形にしていく喜びを知ってもらうことだ。

たいてい、このふたつが十分に満たされていれば、スキルや仕事の効率性は上がっていくし、さらに仲間と協調して仕事を積み上げていくことも自然と身についてくる。ポイントは「楽しさ」と「喜び」だと思っている。だからこそ、私の周りで仕事体験している方々はモチベーションが非常に高いし、創造性も成長性も同じく高い。

しかし、残念なことに「誰でも」というわけにはいかない。確かに最初のうちは「誰でも」という方向性を狙っていた。しかし、様々な状況を経験していくにつれて、それは傲慢で安直な考え方だったと反省に至っている。

私がフォローして幸せになれそうな方々というのは、次の条件を満たした方だ。私が優先している条件の順番に書いてみた。

(1)素直であること
(2)真摯であること
(3)やる気があること
(4)目的意識があること
(5)覚悟ができていること
(6)好奇心が旺盛なこと

私が専門としているのは「IT関連の人材育成」だが、この条件の中には「IT技術に詳しいこと」という項目はない。技術云々は後からどれだけでもついてくる。しかし、それを受け入れるために「人間の器」が先になくては、何も得られるものはない。

先ほどの条件を考えるたびに、私は「障害者支援をしているわけではないのだ」という事実に直面する。なぜなら私が重要視している条件とは、「障害の有無に関わらず『成長できる人材』に必要不可欠な要素」であり、私はこれらの条件を満たしていない人をフォローしようなどとは全く思っていないからだ。

もっとはっきり書いてしまおう。私は「差別」をしている。それは障害の有無という意味での差別ではない。「本気でやる覚悟があるか」「それほどの覚悟がないか」という部分での差別だ。もっと分かりやすくいえば、「障害があろうがなかろうが、本気になれないヤツにかける時間はない」という意味だ。

だから、私と一緒に時間をかけて前を向いてスキルアップに励んでいる当事者のことを、私は「訓練生」ではなく「仲間」だと思っている。正直なところ私は彼らを「障害者」という枠で見ていない。ついでにいえば「メンタル」というところもあまり意識していない。むしろ、プロ意識の芽生えてきた彼らのことが誇らしくて仕方がないほどだ。

さて、私が先ほどの条件を挙げた理由を書いてみたいと思う。

(1)素直であること
→今までうまくいかなかったから、それを改善するために時間をかけていることを忘れないでほしい。つまり、「我を通す」ということは、今までと何も変わらないということなのだ。

(2)真摯であること
→「できる」「できない」というのは一過性の事実だ。そこで必要になるのは「できる」ことを増やすための「自己解決力」だ。それを身につけるには真摯さが必要だ。

(3)やる気があること
→最初から「満ちあふれたやる気」を期待しているわけではないが、多少なりとも「やる気」がなければ、そこから「大きなやる気」に成長させていくことはできない。

(4)目的意識があること
→自分が「何のために」時間をかけているのかを常に確認してほしい。自分が「改善すべき点はどこなのか」を意識しない人は、おそらくどれだけ時間をかけても解決できない。

(5)覚悟ができていること
→ゼロからプロに向かっていく過程において厳しい評価が下されることもある。これは「お勉強」でも「ままごと」でもなく、本当の仕事をやっていただくからこその厳しさだ。

(6)好奇心が旺盛なこと
→私は「指示待ち人間」に興味がない。自分で何かを考えて、そしてそのために何が必要なのかを考え、そして提案できる力を持った人材を育成したいと思っている。

これらは、およそ「就労移行支援事業所」に携わる立場として、ふさわしくない意思表明と思われるかもしれない。しかし、考えてもみてほしい。上記の条件を満たさなくても、大事に扱ってくれる就労移行支援の事業所は日本中のどこにでもあるではないか。

私のポリシーに賛同できなければ、無理に私と一緒にスキルアップを目指さなくてもいいと思うのだ。そういう意味で、私が逆に「お断り」させていただきたい条件も明確に書いておきたい。それは、「自分自身を就労移行支援サービスを受ける『お客様』だと思い込んでいる方」だ。

私は「モチベーションを上げてもらうのを待っているお客様」に時間をかけるつもりはない。そうではなく、「障害など関係なく、闇雲にチャレンジする仲間」と一緒に本気で高みを目指したいと考えている。申し訳ないが、障害というレッテルを覆して「本気で幸せになりたい」人だけを私は本気で応援したい。

ちなみに、私と一緒に前進している仲間たちに面白い現象が起きている。それは「できないこと=障害のせい」にする人が少ないことだ。楽しさと工夫があればたいていのことは乗り越えていける。そして、障害者手帳を持った仲間たちはそれを実践している。後から入ってきた方々もそういう先輩を見て「できない=障害」にはできないんだろうと思う。

こんな場を見学される方からは「本当にこの方々は障害者手帳をお持ちなんですか?」とよく聞かれる。それくらいに「障害」を忘れて仕事に没頭できる環境が日本中にできていけば、おそらく日本は変わっていくんだと思う。この国が障害の有無に関係なく仕事を楽しめる国になれるように、私は私なりのポリシーで尽力していきたいと思う。

2010年6月11日金曜日

先輩風と同族嫌悪

私はいわゆる「先輩風」というのが苦手だ。いつから苦手になったのか分からないが、とにかく現在のところすっかり苦手になっている。障碍者の就労支援などの飲み会に行ったりしても、たまにそういうタイプの方をお見受けする。

「オマエのダメなところをオレが教えてやるよ」「要するに今のオマエに足りないのは・・・」「今度オレが見本を見せてやるから、そこから何かを学べよ」・・・そんな説教を耳にしてしまうと、どうにも居心地が悪くなって逃げ出したくなるのだ。

できれば飲み会では説教を聞きたくないモノだ。面倒見がいいタイプと言えば、おそらく面倒見がいいタイプなんだろうと思う。だから適材適所というやつで、きっとそういう人が役に立つ領域はあるに違いないし、きっと感謝している人もいるんだろうと思う。

それなのになぜ、私は先輩風で説教をする人が苦手なのか。それはたぶん、私もそういうことが本質的に好きだからなんだろうと思う。自分の中で理性がなくなったら、いろんな人に説教して回るような気がする。いくらかしているかもしれないが、できればしたくない。

経験のある人の言葉は貴重だ。そして自分が体験したことを、未体験の人に伝えることもとても大事だ。しかし、無意識にとはいえ「上下関係」ができてしまうと、自分の判断を相手に押しつけてしまうことがあるのではないかと思う。

たとえば「オマエのダメなところをオレが教えてやるよ」という言葉には、「自分のやり方=正しい」ゆえに「自分のやり方以外=ダメ」という価値観の押しつけが含まれている。そして基本的に「上から目線」というのは本人にとって気持ちのいいものだ。実にイヤらしい話だが。

人はそれぞれ得意なことが違う。好きなことも違う。考え方も違う。しかし、そういう基本的かつ簡単なことをいとも簡単に忘れてしまいがちだ。私はその昔、自分の価値観を押しつけてしまった結果、有能な部下を失ってしまったことがある。その時の教訓は今も心にしみついている。

心地よい「上から目線」に慣れすぎてしまうと、それで誰かを縛り付けてしまっていることに気づかなくなってしまう。先輩として親切な気持ちから生まれた言動であっても、相手にとっては迷惑きわまりない圧力となっているかもしれない。

得意げに先輩風を吹かして説教をしている人を見ると、まるで過去の私をみているような気がしてしまう。なんともいえない気恥ずかしさで逃げ出したくなる。今さらガキ大将でもあるまいしと。そういう意味では同族嫌悪なのだ。

世の中はうまくできているような気がする。イヤなシーンに出会うからこそ思い出せることもある。きっと「人の振り見て我が振り直せ」ということなのだろう。そういう意味では私の役に立って頂いているわけだ。やはり感謝しなくてはいけない。

2009年8月22日土曜日

ナアナア

今日、床屋を変えた。

「いきつけ」にベッタリになりがちな私にとっては、以前の店には二度と行かないということだ。今までは自宅から20秒以内かつ完全予約制ということもあって、4年間ほど、けっこう便利に通っていた。店にはオヤジがひとりだけいて、基本的に一対一で他の客はその時間は入ってこない。

しかし、前回、いきつけの床屋の予約時間を寝過ごしてしまったのだ。まぁ、これは完全に私が悪い。前日の疲れがたたってしまったことはあるのだが、まぁ、それにしても言い訳にはならない。これが仕事だったら相手先に怒られても仕方がないことだ。

予約から20分くらい過ぎてしまっている状態で、寝ぼけた頭であわてて床屋に電話をかけた。とりあえず、カット時間は短くなるが来店してくれということで、30秒以内で店に到着した。店に入ってから苦情を言われ続けた。まぁ、仕方がない。予約でやっているわけだからね。ドタキャンされたらその時間は収入ゼロなんだし。

ただ、そんな状況でカットしてもらうのは実に気まずいながらも、細かいいろいろな工程をショートカットしてもらいながら、短時間で散髪が終わった。

その時、ふと思った。

・確かに予約の時間に遅れたのは私が悪い。これは主観的にでも分かる。
・しかしここまでブルーな気分にされる必要はあるのか?
 →「予約の時間をずらされるとうちの利益に響くんですよ。」
・というか無駄な工程を省いたら早くてむしろいいじゃないか。
 →眉毛とか、顔の表面とか、髭とか特に剃ってもらわなくていい。
 →家に帰ってからどうせ頭を洗うんだから洗髪はいらない。
・そこの店主はネガティブ思考で、過去にもそんな話題に耐えてきた。
 →「不景気で今の時代、何をやってもダメですよ。」
 →「しばらくはこの不況は続くだろうし、未来はないですね。」
 →「予約が埋まらなくなってきたら、こんな店やめちゃいますよ。」
 →「うちの店がイヤなら、無理して来てもらわなくていいです。」
・結構、予約って足かせになってきちゃってるな。
 →常連客の予約がそこそこ入っていて予定を組まないと散髪できない。
 →予約して、また同じようなことになったらと思うと気が重い。
・別に技術的にビックリするくらいウデがいいワケでもなかった。
 →たまに帰ってから鏡を見ると切り残しの長い毛がいっぱいあった。
 →基本的にバリカンで短くするだけなのになんで切り残しがあるんだ?
 →たまに細かい傷跡があったりして、明らかに出血していたりもした。

客商売って難しい。明らかに客の方が悪くても、店主が客に怒りを見せたら最後だ。誰がそんな気まずくなった場所に足を運ぼうとするだろうか。サービス業は客にイヤな思いをさせる場所ではないはずだ。

店の利益の話をされた時、つい「ははぁ、このオヤジにはオレの顔が5千円札に見えるらしい。」と思った。だいたい、そこでの散髪料がそれくらいだから。そんな風に思わせた時点で、私はその店にお金を落とすのがバカバカしくなった。

もし、この時に「ああ、お疲れだったんですね。そういうこともありますよ。とりあえず次回からは気をつけてくださいよー。」と声をかけてもらっていたら、確実に今日も以前の床屋に行っていたはずだ。「申し訳なさ」という借りがあったとすれば、私は何が何でもそれを返そうとする性格なのだ。

もちろん原因は私にある。飲み屋で宴会コースを頼んでおいて、ドタキャンしたり激しく時間が遅れてしまったりしたら、当然タダでは済まないだろう。飲食しなくてもその分の料金を支払う必要があるし、それを払わなければ法的な対応があっても不思議ではない。床屋の予約にしても基本的にそういうものだろう。

しかし、どんな固定客(4年も通えば半ば固定客といえないだろうか?)でも、そこの店から離れる可能性を持っているのだ。時間がかかりすぎるとか、会話がネガティブでウザイとか・・・そういう感想が多少あっても「まぁ、長いつきあいだから」と大目に見ているものなのだ。

そこに冷や水をぶっかければ当然ながら目が覚める。「この店は私のいきつけとして向いていないな」と。相手がこちらを大目に見られないなら、やはりこちらも店を大目にみられなくなるのだ。相互作用としてそういう点はあると思う。そもそも店の空気が主客転倒している。

そういう意味ではお互いに「ナアナア」だったんだろうなあと思う。私は予約の時間に遅刻していったワケだし、店の方は切り残しがあっても気づかなかったり、怪我をさせてしまっても何も言わなかったり、ネガティブな話題ばかりだったり、自分の利益優先で客の気分を落ち込ましたり。

そんなワケで、最近、自宅から5分くらいのところにできたカット屋に行ってきた。

・お値段は1100円で今までの5分の1から4分の1!
・洗髪はなしで吸引器(掃除機?)で髪の毛を吸い取る。
・顔剃り、髭剃り、眉剃りはないからスピーディ。
・一人あたり10分くらいだから待ち時間もほとんどなし。
・当日ふらっと行ってもさくっと切れるのはお気軽。
・会話にも気を遣わずにカットしてくれるのがうれしい。

今までの行きつけのオヤジには感謝している。目を覚まさせてくれたおかげで、値段が安くて、時間も短くて、そして気も遣わなくていい店を知るきっかけができたからだ。心から「ありがとう」と言いたい。もうオヤジの店にはいかないけれど。

2009年8月2日日曜日

死ぬのが怖くない!?

なに言っちゃってんの?・・・と思われるかもしれないが。
正直なところ、私は死ぬことが怖い。いつか死ななきゃいけないんだけど。

「死ぬ準備ができた人から死んでいく」なんて話をよく聞く。
ついでに「いい人から先に死んでいく」なんて話もよく聞く。
ひょっとして人間性を磨くことが死ぬ準備なのかなあ。

で、あるならば、人間性を磨かないで長生きしたいなあ・・・って?
まさか、人に嫌われてまで長生きはしたくないけど、長生きしたい。
なぜって、世の中がどんどん面白くなっていくのを見たいからね。

こんな時代だけど、まだ、私は未来に期待感を抱いてます。

昨日、新しく始める事業の主要メンバーと一緒に飲んでました。
ビジョンとかそのあたりのことを、ざっくばらんに話し合いました。
一人は福祉系の人。一人は障碍者支援の事業をしている社長さん。

何かで話が脱線して「死ぬことって怖いんですよね」なんて話に。
その時に聞いた社長さんの話が、ちょっと響きました。

「自分で会社を立ち上げた時から死ぬことが怖くなくなったんだよね。
まず会社を立ち上げる時って、死ぬくらいに怖かったし勇気が要った。
だけど、腹をくくって自分のやりたいことにまっすぐ進んだわけ。
死ぬことが怖いのは、やりたいことができなくなるからなんだよね。
だったらさ、常にやりたいことをやり尽くすくらいやればいいんだよ。
いつも全力だからさ、いつ死んじゃっても悔いは残らないんだよね。」

・・・なるほど。そう言える領域に行けるようになんとか前に進もう。
昨日はいい話を聞けました。

=====
最近、ブログ日記を書くとなると長文になりがち。
とりあえず、初心を思い出して短文で書いていこうと思う。

2009年6月1日月曜日

ヒューマンスキル

ハケンの現場にスゴイヤツがいる。

どんな人にもほとんどタメ口で、やたら馴れ馴れしく声を掛けてくる。
丁寧語も最低限。ちょっと間違えれば「失礼なヤツ」で終わりそうな感じ。
ものすごく開けっぴろげで、感情表現もストレート。

でも、憎めないキャラなんだ。しかも仕事はシッカリしている。
どんな気むずかしそうな相手にも、気後れすることなく声を掛けている。

ただ、よく観察していると、実はかなり距離感を読んでいるように見える。
天然なのか、才能なのか、つかず離れずの絶妙の空気感覚だ。

私にとってハケンは通過点だと思っている。
そうでなくては、ハケンをやっている意味がないと思っているから。
未来への夢があるから、ハケンをやっているんだから。

通過点・・・。
確かに通過点に過ぎないのだけれど、こういう才能に出逢うと嬉しい。
もしかして何かが吸収できるんじゃないかと思うと、ワクワクする。

自分の特性を大事にしながら、学べることを学んでいきたい。

2009年5月26日火曜日

孤独というリスクを取る

以前、新しい仕事を立ち上げようとして、共同経営パートナーを募りました。
一人よりも複数人で進めた方がいいと思ったからです。

結果、責任の所在が不明確になってしまい、方針の分裂を招いた挙句に失速。
でもこれは、価値のある失敗体験だったと思います。

なにか本当にやりたいことがあるなら、孤独というリスクを取るべきなんです。
ちゃんと自分一人でやりたいことの方向付けをしておくことは何よりも大事。
なぜなら、プロジェクトの方向性が甘いと、ブレ幅が広くなっていくから。

たとえば、本当にやりたいことを突き詰めていこうとした場合、

(1)「いい入れ物を作りたい」
    ↓
(2)「いい箱を作りたい」
    ↓
(3)「いい黒い箱を作りたい」→「こんな素材がある」「得意な人がいる」

のように、やりたいことを一人で熟成させていくと(1)~(3)の順で決まります。
で、(3)の時点で協力者を入れれば、やりたいことにほとんどブレがありません。

きっと(3)を実現するために、素材や人材についての助言がもらえるはずです。
そしてたぶん、いい黒い箱が作れると思います。まぁ、へんなたとえですけど。

でも、中途半端な状態で協力者を入れると、協力者によるブレが広がります。

(1)「いい入れ物を作りたい」→「壷はどうか?」「灰皿は?」「ポーチは?」
    ↓
(2)「いい箱を作りたい」→「白い箱がいいのでは?」「小さい箱どはどうか?」
    ↓
(3)「いい黒い大きな箱を作りたい」→「こんな素材がある」「得意な人がいる」

自分で何かを作りたいと考えた時、(1)や(2)の時点で構想を手放さないこと。
結局、助言を尊重するあまり、作りたくなかった「壷」を作る可能性があるから。
自分でやろうとしている仕事なのに、やりたくないことをやるハメになっちゃう。
リスクを取ってやらされ仕事をやることほど、アホらしいことはないと思います。

昔、普通に正社員をやっていたころ、
「社長は自分の意見ばかりで人の意見を聞かない」
なんて、よく憤慨していたものです。

今ではその理由も分かります。もちろん第三者の意見を聞くことも大事です。
でも、第三者の構想だけを尊重していくと、結局自分の構想がなくなっちゃう。
このあたりのさじ加減やバランス感覚は、理屈じゃないのかも知れません。

2009年5月10日日曜日

人材を育成するとか

人材育成とかについて、難しい話だなー・・・と思ったことについて。

あまり厳しい態度で指導すると、依存体質が生まれるんじゃないかなーと。

ハケンの立場っていろんなコトがあってね。まー、こっちはどんな出来事があったとしても、そこから考えたり、ノウハウのネタにするつもりでいるんで、特に困っちゃいないんだけど。

詳しくはアレなんだけど、仕事の決定権を持つ主任の下でハケンしてます。基本的には自分で仕事を進めていい環境なワケですが、たまに主任から指導を受けることがあります。こちらが明らかにウッカリしていたこともあれば、明らかに理不尽な指導もあったりしてね。あとは、どっちでもよさそうな選択肢で主任の主観による判断が必要だったりとか。

まぁ、そのあたりは職制上の制約だったりもするんで、感情的な点についてはスルー。ただ、あまりに口を出しすぎてしまうと、依存体質が芽生えるなぁと思った次第。

・自分がコミットしていい範囲がよく分かんないな。
 ↓
・あとで目くじら立てられるのも面倒くさいしなー。
 ↓
・コミットが必要なところは全部見てもらっちゃうか。
 ↓
・徐々に自分で判断をしなくなる。(提案はするけど)

人に任せるってのは難しい話で、自分の価値観を重視しちゃうと、細かいところでいろんなところを直したくなってくるんだよね。それは、以前、部下を持っていたときに自分自身の体験としてあるんだけど。

でも、そうかといって、部下が失敗すると自分の責任になったりもするんで、放っておくこともできなかったりして。このあたりのサジ加減がなんとも難しいんだよね。でも、自主的な判断を抑制する方向性に動くと、部下の数だけ上司の負荷が高まってくるワケで。

十分な信頼感を醸成すること。
高いモチベーションに導くこと。

これさえしっかりしていれば、ストレスの大半は減ると思う。
ただ、実際にどうするか・・・ですね。

2009年3月16日月曜日

人のことをいえん

某社で取り扱っているサーバ構築の面倒をみていた関係で、それらを再構築するためのドキュメントを書くことになりました。まぁ、よくあることです。何度もレビューを行って、4回目のリテイクに突入しました。

「マニュアルは分からない人にも分かるように!」

というのがモットーなんですが、やっぱり第三者の目を通過すると、自分の中で当たり前のことが盲点になって、その結果として「この書き方じゃ、そこまでは想像できない。」という反応を目の当たりにしたりするわけです。

ダメじゃんか・・・自分だって。

こういうのは、さじ加減が難しいですね。つい、自分が知っていることは前提として書き飛ばしてしまいがち。かといって、ひとつひとつを丁寧に検証していくと、さっぱり進まなかったりとか。技術系のドキュメントは難しいんですよね。

そういやこないだ、若手芸人の漫談であったなぁ。携帯電話の説明書が分厚すぎるって。

==========
●説明書の「故障かなと思ったら」ページがバカすぎ!

「相手の声が聞こえません」
 →「受話器を耳にあてていますか?」
  →「携帯電話の使い方くらい分かるわ。バカにすんな!」

#同感なんですけど、これ、フールプルーフってヤツなんですね。ドキュメントとして必要と言えば必要なんだろうけど、ほとんどの人には不要なんですよね。でも、仕様書畑の人は書かないと落ち着かない・・・と。

●「説明書」に説明書をつけるな!

「説明書の読み方」というガイドブックがある。
 →「こんなものをつけるから余計に分厚くなるだろうが!」

#フールプルーフ対策で、膨れ上がったマニュアルを読みやすくしようとしたら、かえって裏目にでたって感じでしょうか。マニュアルを作る立場も読む立場も、分厚いマニュアルなんて嫌いなのに、結果的にそういうことになっちゃうんですよねえ。
==========

若手芸人の意見にはかなり同意するけど、作る立場だって苦労しているんだろうなぁ・・・と、思わずにはいられません。あのボリュームのマニュアルを作るのって苦行に近いと思いますもん。たぶん、社内で何度もイヤってほどレビューして、夢に見るくらいに作業したんだろうなあとか。

「故障かなと思ったら」に書くバカっぽい内容だって、いざ、分からない人がクレームを投げてきたら、「シロウトに優しくない」とか「老人を情報弱者にするつもりか」とか、けちょんけちょんに叩かれるんだから・・・ねえ。それを考えると、やっぱり、メーカーとしては「バカだなー」と思うことも書くんだろうなと。

なんにしても、人に何かを伝えるというのは難しいものです。特に知識レベルが想定できない対象に適切な説明を印刷物で行うのは難しいでしょう。たぶん、込み入った製品に対する説明をするなら、オンラインマニュアルがもっとも適しているんでしょうね。

それならレベルに応じて動的に見せる範囲を絞り込むことも可能です。マニュアルデータの総量としてはものすごい量になると思いますが、ビジュアルで分厚い説明書っぽく見せずにすみます。

ただ、まぁ、そうしても、結局「オンラインサイトを見られない人には不公平だ」ということになるんでしょう。もちろん技術側も、そういった層にあの手この手でアプローチすることも大事です。でも、一定水準以上の話については、各自、苦労してもらえばいいんだと思います。

サポート関連のメールを参照できる立場にいるんですが、初心者にはひどい内容が多い気がします。「CGIの使い方を分かりやすく教えるべきだ!」「HTMLの書き方の基礎を教えてほしい。」・・・などなど。

たいていこういうのは独学で学ぶべきものだし、そうでなければお金を払って然るべき教室に行けばいいんですよ。ほとんどの技術屋さんにしたって、CGIやらHTMLやらってのは、誰かに教えてもらったわけじゃないと思いますよ。分からないところは時間をかけてがんばって習得しているはずです。

さらにはCGIにしても、不正な情報の入出力には注意を払うべきところがたくさんあります。そこを「初心者だから敷居を低くしろ」なんて言われてもできない相談なんですよ。アメリカに到着した日本人が、「オレは日本語しか分からないから、みんな日本語を勉強してくれ!」というほどムチャです。

マニュアルを書く方も読む方も学ぶべきことは多そうです。

2009年3月15日日曜日

体調管理

自己管理といえば仕事に影響するとても大事なスキルです。でも、自己管理といえば「体調管理」でもあり、メタボリックを防ぐのも大切な自己管理のひとつ。実はこれに失敗しました。いろいろなダイエット法があるんですが、一番、苦労しなさそうな方法を選んだところ拡大解釈をしてしまい、結果的には始める前よりもひどいことになってしまいました。

失敗した理由は簡単です。どんなダイエット方法でも押さえるべき基本があります。それは毎日の計測です。それをしなかった。さらにデータを観測しないまま半年ほど放置してしまった。そしてダイエットをするためのモチベーションがなかったんですね。でも、いろんな人の人生にも関わる仕事を始めようとするにあたって、今まで以上に体調管理が必要性を感じています。

そこで、明確な数値目標を掲げて正しい健康状態を取り戻そうと思います。
長々と書きません。
やります。

2009年3月12日木曜日

好き嫌い

昔、こんなことを言われたことがあったな。「女にモテたければ自分の好みをハッキリさせておいた方がいい」とかって。その辺については私の専門じゃないので、その真偽についてはなんとも言えませんが。ただ、そう言われた当時は「好き嫌いはよくない。どんな人でも必ずいい面はあるものだ。」と、思うのが正しいことだと思ってました。

まぁ、今でも「どんな人でも必ずいい面はある」というのは本当だと思ってますが、ただ、よく考えてみれば、好みで言えば「速射砲みたいにハイスピードでしゃべり続ける人は苦手」です。常に「聞いて聞いて」光線が出ているような人。

もちろんそういう人が悪いとか言いたいワケじゃないんです。単に「スローペースな自分が飲まれっぱなしになる」のがストレスになるからです。だから、一緒にいるなら、比較的物静かで自分のペースを乱さないような人がいい。

でも、ここまで書いて気がつくのは、確かに自分の好みをハッキリさせておいた方がいい・・・というのは大事かもしれないということです。「好み」というのは「ターゲットを定める」という意味とも考えられます。そしてそのターゲットは「自分の特性」を分析して選別することが重要です。そこをよく考えずに走り始めてしまうと、うまくいったとしても自分に無理がかかってしまうのでしょう。

つまり「敵を知り己を知れば百戦して危うからず」・・・ということですね。これ、仕事にも言えるんじゃないかなと思います。何か始めるなら自分が理解できることで、自分の特性や好みに合う仕事を始めたほうがいいんじゃないかなと。投資で財産を築き上げた、かのウォーレンバフェットも「自分が理解できる企業にしか投資しない」というポリシーなんだとか。

そういえば、パソコンで株取引できるようになった時、毎日株価が気になっていた時期がありました。仕事も何も手につかないほどで、今にしてみればもったいないことをしたなと思います。よく、投資をすることについて「お金に働いてもらう」なんて言う人もいますが、パソコンの前で株価とにらめっこというのは労働だと思います。神経を使ってお金を稼いでいるんだから不労所得じゃないと思うんですよ。

株価に流されないようにするためには、そこでも、よく企業を分析した上で「好き嫌い」で投資をするのがいいのかもしれません。自分が好きな会社だったら株価が下がっても、我慢して応援していられるんじゃないでしょうか。まぁ、私自身はと言えば、現在は何かと現金が大事なので投資は控えていますけど。

2009年3月11日水曜日

ストレスメンテ

昔からどうも私は要領が悪いんですよ。何か自分の知らないことを人から聞く時に、他の人よりも理解が遅いんです。特に概念論を聞くことが苦手みたいです。

こないだ、ハケン仕事で技術的に確認しないといけないことがあって、開発SEに電話で確認したんですけど、説明されているメカニズムがどうにも理解できない。理解の早そうな人に電話を変わってもらいたい気持ちをグッと抑えて、最後まで聞ききりました。

というか、最終的には「実際のメカニズムを見せてください。スクリプトでも何でも読みますので。」という話をしたところ、実際の動作メカニズムをスイスイ理解できました。ああ、ここのパラメータが変わるだけなのね・・・と。今まで延々と説明を聞いていたのが無駄に思えるくらいに一瞬で。

概念論ってどこまで行っても概念論。自分で詳細を知るところまで理解していないと、また、別の人から違う質問をされた時に、ガキの使いよろしく開発SEに質問しなくちゃいけない。でも、自分の頭と目でしっかり理解したものなら、自分の回答として堂々と質問に答えることができます。

でもね、実際に開発SEに電話で食い下がるのって勇気がいりますよ。「こいつ、オレがこれだけ説明してるのに理解できないのかよ?」とか「っていうか、他の話の分かるやつに電話かわってくれよ!」みたいな妄想上のプレッシャーと戦いながらの質問です。

ふと、なんとなく分かった部分だけ拾って、「ああ、そういうことですか、理解しました。」と逃げてしまいたい衝動に駆られても、そんなことをして、後から苦労するのは自分自身だ。

だから、「なにこいつ?使えねーやつ!」と思われていい覚悟で、どこまでも食い下がる必要があるのですよ。相手の口調がたとえイラついてきているなぁ・・・と、読みたくない空気をつい読んでしまったとしても。

ここからはストレスメンテナンス的な考え方なんですけど、要するに説明する方が下手糞だったとも言えるかも知れません。概念論を伝えるのが下手糞だから、具体例を見た瞬間に内容を理解されちゃってるワケで。とりあえず今後、概念論を聞いて理解できない時には、まず具体例を見るようにしたいと思います。

そういえば、これまたどこかのサイトで読んだ話なんですが、スチュワーデスが嫌な客と話をしなきゃいけない時のストレスメンテナンス術。

どうにも理不尽なクレームをつける客に対しては、「この人は可哀想なお客様だ」と心から思い込むことにして、とにかく文句の内容を聞くだけ聞くんだそうです。言いたいだけ吐き出すと、「ちょっと言い過ぎたかな?」と気持ちが落ち着くんだそうで、その時に刺激しないように正論を伝えて「了承」してもらいやすいとか。この時、心から「可哀想だ」と思い込むのがポイントだそうです。配役に入り込む・・・というのに近い感じで。

もちろんスチュワーデスも人間なので、理不尽な怒りをそのままマトモに受けたままでは、メンタルダメージを食らってしまいます。そこで、その客の対応が終わった時点ではガラッと意識を変えて、「あの客が悪いんだから、気にするだけ時間がもったいない。」と考えるのがストレスメンテナンスのコツなんだそうだ。

まぁ、人生は劇場です。相手や状況によっていろんな役割を演じ分けなくてはいけません。頭を下げる立場を演じてみたり、頼れる人物像を演じてみたり。どのような状況であれ「演技」だと思っていれば、回避できるストレスはあるのかも知れませんね。

仕事で怒られることがあっても、それは仕事上の配役の人が怒られたと思えば、仕事が終わった後のほかの舞台に感情を持ち込まずにすみそうです。劇で悪役がやらかした悪逆非道な行為をしたからといって、配役の人が後で悩まないのと一緒です。怒られたのは自分の「役割」であって「人格」ではないという思い込みは大事かもしれません。

心の中で他人事だと思いながら「さっき、○○さん(自分の名前)、いろいろ言われてたねえ。ありゃー大変だわー!」なんて言ってみる。で、「・・・ま、他人事だけどさ・・・」と思った瞬間に気持ちの切り替えが完了・・・と。

もちろん、その後で「感情を交えず」に、指摘されたポイントなどを振り返ることも大事です。感情ではなく指摘を冷静に受け入れることも重要なことです。

2009年3月3日火曜日

フールプルーフ

「fool(お馬鹿さん)」
  +
「proof(~に耐える)」=「fool proof(バカでもOK)」

まぁ、考えてみれば失礼な感じですが、これがけっこう大切だと思います。特に危機管理という単語とは切っても切り離せません。別にバカとかそうじゃないとかの差別や区別でなく、どんな人でもバカになり得るという点が重要です。

たとえば、大地震が起きて通常ではない状況になってしまうと「パニック」を起こすことがあります。この状態は正常な判断ができなくなっている状況と言えるので、やはり、その状況における「バカ対策」が重要になります。

たとえば、私の場合、かなり昔の話ですがフライパンで大量の肉を焼いていたら、肉汁になぜか火が引火してフライパンが燃え上がりました。

換気扇が溶けるかというほど高い場所まで立ち上った炎を見て、思わず反射的に水をかけてしまいました。その瞬間、激しい花火のような音とともに、フライパンを中心に火の粉が激しく爆発して、ものすごく怖い思いをしました。

燃えている油に水をかけると危ないことが分かっていたにも関わらず、とっさの行動が「バカ」になりうるという貴重な経験でした。結果的に大事には至らなかったので、こんなコトが書けているのですが。

ちなみに、水で濡らしたタオルをフライパンにかけるといいらしい・・・というコトも知ってはいましたが、あの火柱に向かってタオルを掛けるのは勇気がいるもんですね。
→念のため油が燃えたときの消火方法

パニックを起こさなくとも、いろんな状況に人間はバカになります。寝起き、酔っぱらい、初めての行動。

今日、業務の引き継ぎということで前任者が書いたマニュアルを読みながら、引き継がれた作業をしていたのですが、とにかく意味不明なのですね。少なくとも初めてその作業をする人を全く想定していないマニュアル。初めて作業する人もある意味「バカ」なんです。

作った本人に聞いてみると、かなり想像の翼を広げないとその意図まで到達できない有様。というよりも、マニュアル・・・特に運用マニュアルというのは、「想像の翼が広がらない」ように書かないといけません。想像の翼が広げやすいということは、「誤解の余地が大きい」ということだからです。

とはいえ、マニュアル作りは難しいモノです。私も某大手企業で公開しているWebマニュアルページを作りましたが、素人さんにも分かるように書くのは至難の業です。想定するレベルが下がれば下がるほど難易度は上がります。

そういう時、あえて選択肢の幅を広げることに集中しています。たとえば、自由に変えられるファイル名もあえてルール通りにやってもらいます。「○○の場合は」などという条件分岐もあえて入れません。

「バカでも書いてある通りにやったらできた」というのが、緊急時に最も価値のあるマニュアルだと思います。もちろん作るには相応の手間もかかるのですが。

でも、後で質問が矢のように飛んでくることを考えれば、最初に手を掛けてでも丁寧に作っておいた方がいいんだと思います。

ま、どうせ「この作業は自分でやるからいいでしょ?」なんて思っていると、非常時にその仕事を誰も分担できずに、自分がツライことになりますからね。いつでも後任に仕事を引き継げるような仕事をしたいものです。