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2009年7月27日月曜日

たったそれだけの

「たったそれだけのことができない」なんて言葉に打ちのめされている人はいないだろうか。そして打ちのめしている人はいないだろうか?

私はその「たったそれだけ」のことを、けっこう本気で考えてみたいと思っている。「たったそれだけ」というのは、工夫をする余地がたくさん残されていると思う。

「たったそれだけ」は小石のような存在で、やってみると簡単なコトだらけだ。たとえば駅で切符を買うというのもそうだし、コンビニでお金を出して商品とお釣りを受け取るのもそうだ。

切符を買うという「たったそれだけ」のこと。
初めての駅なら券売機を探さないといけない。そして行き先までの料金を調べたり小銭を用意したりもする。単純だが面倒だ。

こういう「たったそれだけ」のことをマジメに考えた人がいたからこそ、さまざまな電子マネーの仕組みができてきた。これで、駅でわざわざ並んで切符を買わなくてもよくなったり、コンビニでの支払いが5秒以内に終わるようになった。

私がハケンでやっている仕事の中には、人力で数時間かかるようなモノもある。ひとつひとつは些細で単純な作業だが、それが重なるとかなりの労働量になってしまう。私はこういう「作業」の指示をそのまま受けて「作業」したりはしない。

こういう「作業」からどうやって人力部分を省いて、数分でできるようにするのかを必死で考える。もちろん正確性などの品質も人力以上に高めることも含めて考える。これこそが私にとっての「仕事」だと考えている。

私が行うべき定例作業のほとんどは手間のかかるものだが、何も考えずにやっていたら数時間かかるような作業も、実は自動化の仕組みを作ったりして数分で終わってしまっている。その空いた時間を有意義に利用して、さらに他の「作業」の効率化を考えるのだ。私はこれを個人的に「時間を耕す」と呼んでいる。

私はこういうちょこちょこっとしたシステム化が好きだ。特に作ったシステムが有効に稼動していることを、空いた時間で実感することが仕事における最上の喜びだ。別に大規模なシステムじゃなくていい。むしろ小手先から順番に少しずつ便利になっていけばいいんだと思う。

で、私が最終的に構築してみたいのは人間そのものを巻き込んだシステム化だ。別に人間をコンピュータに組み込もうなんて話をしたいわけではない。人間は人間らしく生きた方が幸せだと思っている。本人の幸せを追求するために無関心な領域を省力化するシステム組織だ。

たとえば、苦手に思っていたり関心のない分野については、他のシステム(コンピュータ資源も人的資源も含まれている)によって補い、そのシステムを利用する人が最も興味を示す点だけに没頭できる組織を作れないかな・・・ということだ。そもそも人間社会自体が相互依存システムなのだが、どうもその恩恵を受けられていない層がいると考えている。

精神障碍周辺の勉強会なり研究会なりに参加していると、「○○の特徴として、興味のある分野に関しては特異的な能力を示すが、それ以外の点についてはまったく関心を示さないため、社会的コミュニケーションに支障をきたしやすい。」という話をよく聞く。

個人的には、別に他の人に迷惑をかけないなら、それでいいんじゃないかな・・・と思う。一体、誰が「人間として総合得点とか平均点が高くないといけない」と決めたのだろう。むしろ、興味のある分野に傾倒することが本人の幸せなら、安心して好きな分野に傾倒できる環境を作ることが大事だと思う。

そもそもそんなことを言ったら、私だってよく指摘されることがあったような気がする。「興味のあることにはムチャクチャ食いつきがいいのに、それ以外になるとテンションが目に見えて落ちるよね。」とか。

そりゃそうだ。人生に与えられた時間は有限なのだ。しかもその終焉がいつなのか分からないことを考えれば、できれば関心の強いところに時間を注ぎ込みたいじゃないかと思う。(寿命や病気だけが人生の終焉ではない上に、誰もが明日の生命を保証されていないのだから。)

たとえば、私は美術に全く関心がない。車や建造物などのかっこいいデザインなどは気になっても、名画のために美術館に足を運ぶ習慣はない。その時間やお金を自分の興味のある対象に注ぎ込んだ方がいいと思うからだ。

そういえば中学生だった時、歴史の先生に詰め寄ったことがある。「本当に授業で教えている歴史というのはホンモノである証拠はあるんですか。そんな不確かなものに時間をかけることに意味を見出せません。」と。

実際に、あれから数年たった今でも日本を取り巻く近代史については歴史観が分かれているし、昔、覚えた「いい国つくろう鎌倉幕府」もイイクニ(1192年)ではない説が有力になってきているらしい。(と、書きつつ、今では歴史認識の重要性は理解しているつもりだが。)

ともかく当時の私は、頑なにまで歴史を学ぶことに激しい抵抗を覚えていた。歴史の先生から見れば私は単なる問題生徒だったかも知れない。ただ、その行動特性が○○病の兆候だろうが△△症を表すものだろうが、私はまったく問題ないと思っている。

なぜなら私はそれなりに無事に生き延びているわけで、何かと欠点やら弱点やらを抱えていながらも、いろいろと工夫をしてそれなりに快適に日々を生きている。私が考えるユニバーサル環境とは、そういう仕組みだ。何かの障壁があっても、それを意識させないシステムが世の中に浸透することだ。

ユニバーサル環境というのは特別なことではない。たとえば、インターネットのメール、掲示板、ブログなども十分にある種のユニバーサル環境だと思う。インターネットを通したメディアで交換されるやりとりの先にいる人が、聴覚障害を抱えていようが言語障害を抱えていたとしても、たぶん自己申告でもしない限りは分からないし、そこには相互に何の不便もない。

私はフィジカルな分野ではなく、メンタルな領域でのユニバーサル環境について、何か発展的なシステムを構築できないかと考えている。幸せな仕組みをはやく実現させたい。もちろん、賛否両論あるだろうことは想像に難くない。それでも今よりも幸せになる人がいるのなら、やってみる価値はあると思う。

2009年7月22日水曜日

正常と異常の境界線

たまに受ける質問について書いてみたいと思います。

(1) どうして「障碍者」と表記するのか?
「害」じゃなくて「碍」。

(2) どうして「健常者」という表現が嫌いなのか?

まず、(1)について。

ひとつには「害」というイメージに拘りたくないということがあります。特に漢字というのは一文字ずつに意味が込められているので、イメージの刷り込みされやすいような気がするから。これは当事者にとっても周囲にとってもあんまり幸せじゃない。

他の表記方法としては「がい」というのもあります。いわゆる「障がい者」。これは極めて個人的な理由で好きではありません。日本には(大元は中国ですが)表現豊かな漢字があるのに、最近はどんどん「ひらがな」化されているのがなんだか残念なんです。

市町村が「ひらがな」化されたり、ニュースのテロップに「ひらがな」が増えてくるのを見ると、文化水準として大丈夫なんだろうか・・・なんて思ってしまいます。特にマスコミに誤字や誤読が多いのも問題だと思います。テレビを見ていると頭が悪くなるんじゃなかろうかと心配になるくらいです。

それで「碍」なんです。読みは「がい」で、意味は「さわる」という意味ですね。繋げて読むと「障碍=しょうがい」。「障=さわる」+「碍=さわる」→「障碍=さわりまくり?」

個人的には「得」の時に似ていて好きなんですよ。「石を得る」と覚えて「碍」。その昔、大きな功績をあげた武将に与えられるご褒美は領地で、その単位は「石(ごく)」。だから、百万石大名・・・なんていいますよね。まぁ、無理矢理感もありながら、なんとなくポジティブなイメージがあります。

ただ、そうはいっても、公的な名称についてはそのまま表記しています。たとえば「精神障害者保健福祉手帳」なんかはそのままです。このキーワードを必要としている人が、それを調べようとした時、無駄に遠回りさせてしまう可能性があるから。

次に、(2)について。
どうして「健常者」という表現が嫌いなのか?

やたらと区別することが、本質を見えにくくしているんじゃないかと思うからです。たとえば事前に「○○障碍」と聴いた場合、どうしても実際に会う前に頭の中に何らかのイメージが刻み込まれるケースが多いように感じます。

それから「健常者」という響きの中に「障碍を持っている人間とは違う」とか「自分たちは社会のスタンダードだ」というニュアンスを感じます。たまたま医療的な障碍を認知していないだけで「健常者」って、別にそんな偉いワケじゃありません。あまり「上から目線」で人を見ない方が幸せになれそうな気がします。

健常者として生活している人の中にも、いわゆる「○○という疾患で代表的な症例は△△という行動である。」という話があれば、それにあてはまる人なんていくらでもいます。一般社会の中でこんなセリフをよく聴いたりしませんか?

「あの人、変わり者だけど、仕事はものすごくできるよね?」とか。

ひょっとすると病理的には何らかの診断が下される可能性もあるし、実は本人も知っていて言わないだけなのかもしれない。でも、そこに何らかの規定をすることには全く意味がないんだと思うんですよ。「人間」を見る前に「病気」を見てしまっては・・・ね。

それから、「狂気」・・・と書いてしまっていいのか分かりませんが、誰もがそういう性質を隠し持っているものだと思っています。たとえば、最も分かりやすい分野で言えば「性行動」かも知れません。おそらく普段は行わないようなことがたくさんあると思います。

「健常者」・・・なんて言ったって、紙一重なんだと思います。

2009年7月20日月曜日

発達障害サポートコーチング研究会

今日は午前から「精神障碍就労支援育成プラン」の打ち合わせ。モーニングセットを注文できる時間から、延々3時間に及びました。さらに謎の「フェニックスプロジェクト」についても話を詰めました。

うん。だいぶいい感じ。足りない部分は24日に再調整する予定です。

気がつくと、午後の「発達障害サポートコーチング研究会」に遅れそうな時間になっていました。電車で新宿から高田馬場に移動。徒歩じゃ間に合わないのでタクシー。ああ、今月、ちょっとフトコロがきついんだけど・・・しょうがないか。

この研究会、実は一回目。
「発達障害サポートコーチング研究会」が生み出すモノはまだ未知数。だけど必要なインスピレーションって、そんなところにあったりするんですよね。未知数だからおもしろい結論が得られたり共有できたりするんじゃなかろうかと。

私が今、やろうとしているのは、精神障碍の当事者に対する就労支援。いや、支援よりもさらに積極的なフィールドを構築することなんです。・・・ん、このあたりの詳細は、もうちょっと事業として形ができてくるまで詳細を割愛します。

さて、精神障碍と発達障碍。
似ているようでだいぶ違う。だけど似ています。
外側からわかりにくく、さらに理解されにくいという一点において。

実は、私にとって興味があるのは「メンタル・ユニバーサル環境」の構築なんです。要するにいかなる障碍を患っていても、要するに本人が幸せに生きられるようになればいいんだと考えています。

「現実を知らない人間が、そんなに簡単に言うな!」

と、関係者から怒られそうですが、現実を知らないからこそ、第三の視点から大胆な発想で解決に迫れる可能性があるんだとも考えています。そういう意味では「部外者」という自覚もありながら、今回の研究会に参加しました。

研究会の感想を書きたいと思います。

今まで苦労して戦いながら子供を育て、これからの未来を心配する親御さん。そこには深刻な切実さを感じました。

・・・が、ちょっと気になったことがあります。

「○○だから△△は絶対に無理です。」
「××という簡単なことができなくて心配です。」
「○○だから□□という人生を歩ませたい。」

という話についてです。これは過酷なことを書いているのかも知れませんが、私には分からないことがあります。

親の価値観で決めつけて敷いたレールを歩ませることは、本当に当事者にとって幸せなことなんだろうか?

そして実際に試すこともせずに、親の判断で「不可能」と決めたことを、当事者の人生に納得させることが正解だろうか?

・・・と。

順当に人生を送っていったとしたら、親はいつか、子供より先に天寿を全うすることになります。その時に当事者が初めて人生のハンドル(責任)をたったひとりで握らなければならないとしたら、その方が過酷な人生になるような気もします。

もちろん親御さんには大変なご心労があることと思います。
私には知りようもない壮絶な戦いの日々なんだと思います。

しかし、障碍の有無に関わりなく、親の価値観の強さが自立心の芽を摘んでしまうこともあるような気がするんですね。

たとえば私は、とりあえず今のところ「健常者」ということになっています。もちろん細かく診断してみると何らかの障碍がどこかにあるのかも知れませんが。(個人的には「健常者」という呼び名は好きじゃありません。)

それでも職業選択や人生の選択において、「親の意見は先人の意見として正しいのだから従うべきだ」という価値観の押しつけを感じることは過去にありました。つまり、障碍の有無に関わりなく、親とはそういうものだと思うのです。

鳥は自由に飛ぶから鳥なんです。安全だからと鳥かごに鳥を入れていたら、その鳥は自分で飛ぶことをあきらめてしまうと思うんです。そして飼い主が突然いなくなってしまったら・・・どうなるんでしょうか。

それから、親御さんの話を拝聴していて思ったのですが、そもそも100点満点じゃなきゃいけないのでしょうか?

できないことなんて人それぞれ当たり前にあると思うんですね。

たとえば寿司職人はお客さんからバラバラに注文されても、それぞれのお客さんに間違いなくお寿司を出すことができます。すごいなあと思います。私にはたぶんそれは難しい。なぜならその能力を伸ばすことに何の関心もないからです。

だから、私の場合、同時に何かを頼まれたら最初から記憶力に頼るつもりなんてありません。その代わりにメモをとったりするんです。そしてそのメモの内容をその場で確認して間違いのないように努力する。それだけです。

だから見る人によっては、ひょっとすると私は短期記憶能力が乏しいと思う人もいるかも知れませんが、それを補うための方法論を作り出せば何の問題もないと思うのです。もちろん寿司職人になることはできないと思いますが。

100点満点じゃない人なんて健常者と呼ばれる人の中にいくらでもいると思います。というか100点満点の人なんて見たことがありません。むしろ100点満点に見えそうな人なんて、近づきがたいことこの上ありません。

確かに障碍によって不都合なことはあると思います。これは決して否定しませんし、それは何らかの形で上手にフォローする必要もあると考えています。ただ、このフォローの手段にはいろんな方向性があると思うんです。たとえばまったく違う業種のまったく違う立場の人間にしか見えない解決策もあると思います。

そのために私はこの研究会に出席しました。そしていろんなヒントを求めています。さらに私が持っている「何か」がお役に立てばいいとも思っています。当事者の才能や特徴を社会のために生かせる発想が隠れているかもしれません。

だからこそ簡単にあきらめないでほしいなと思うんです。当事者の方もその周辺の方も。いろんな活動をしている人たちが世の中にはいます。知恵を集めれば何かが生まれる可能性は高いと思うんですね。

さて、今回の研究会で受け取ることのできた、私なりの重要なキーワードをここに書き残しておこうと思います。

・「答えは相手の頭の中にある。」

他にも気になるキーワードはありますが、もっとも重要なキーワードをひとつだけ挙げろと言われたとしたら、この一言に尽きると私は思います。

無意識に相手をコントロールしようとしてしまうことって、かなりあると思うんです。それがたとえ相手に対する善意であったとしてもイヤなことだと思います。イヤなことだから徹底的な反発を食らっちゃう。考えてみりゃ・・・当たり前のコトなんですよね。

たしかに「答えは相手の頭の中にある」んだと思います。ただ、その答えを「頭の中」から上手に自分で探せない人もいます。だから「頭の中」の冒険を一緒につきあう必要があるんだろうと思いました。

相手の目の前に自分が準備した宝箱を出して「これが正解だ!」とするんじゃダメなんだと思います。一緒に宝箱を捜しに行く過程が大事なんだと思います。ひょっとするとその宝箱には、まったく意図しなかった結論が入っているかも知れません。

でも、それが本人にとっての「宝物=価値観=納得」なんだと思います。

そんなことを考えた研究会でした。

2009年7月16日木曜日

WRAP・・・元気回復プラン行動

Wellness Recovery Action Plan・・・でWRAP(ラップ)。
「元気回復行動プラン」という方法論がシステマチックにまとめられています。
個人的には、この動き、応援したいなと思っています。

WRAPというのは、もともとはアメリカから伝わってきた概念で、精神障碍に対する有効なアクションプランです。あらかじめ調子のよい時に、自分の弱点や回復に関する分析を行っておいて、調子が下降してきた時にどのように回復するのか・・・という、自分専用の回復マニュアルを作るワケですね。

すべらく!(http://respect.arrow.jp/suberaku/)の目指すところも、「元気回復行動プラン」に非常に近いんですよね。自分的には。

もともと「すべらく!」に書いていることって、自分がへこんだ時にどうやって回復したんだろう・・・という経験則をまとめたものなんです。後になって、同じようなコトが発生した時に、「あの時どうやって復活したんだっけ?」というのが思い出せると便利だなぁって。

そうやって、いろんなコトにぶつかるたびにメモしてきたんですが、ふと思ったんです。

「ひょっとして、自分の経験則って他の人でも役に立ったりするかな?」

・・・って。そんなワケでサイトを作ってそこで発表してみたらどうかなー・・・って思ったワケですね。そう思ったのが2008年。2009年になってやっとサイトという形ができてきたところなんですが、そこでWRAPに出会うというのは何やら縁を感じます。

これから、すこしずつWRAPについて研究してみようと思います。
こういう人間が幸せになるためのメソッド開発っていいな。

2009年7月12日日曜日

誰もが精神障碍を体験する

精神障碍者というのは「特別」とか、もうちょっと誤解を恐れずに言えば「特殊」とか、そういう範疇で考えている人は多いと思う。ぶっちゃけたところ、大昔は私もそう思っていたかもしれない。

私がいろいろと当事者をとりまく雇用状況に興味を持った当初、私が聞き回っていたのは「精神障碍者の人って平均的にどういう傾向があるんですか?」という質問だった。

これは「男性って平均するとどんな傾向があるんですか?」とか「愛知県出身の人って平均するとどんな傾向があるんですか?」っていう質問と同じぐらいの愚問だ。

それらに対する答えは「一概に言えない。人によって違う。」というのが答えだ。障碍という焦点で答えるならば、「一概に言えない。障碍の程度によっても、人によっても違う。」としか答えられない。

ただ、精神障碍を持つ人たちに向けられる視線の傾向・・・というコトであれば、私は答えられる。当事者と無縁な人たちであるほど無理解で無慈悲な評価を下してしまいやすいということだ。

もちろん評価を下した人に悪気があるわけではない。要するにそういう障碍を持つ当事者との向き合い方を知らないだけなのだろう。精神障碍の当事者は、身体障碍とか知的障碍とかと同じ対応をされやすい。

身体障碍・知的障害の場合は、ある程度の「根性」とやらで、なんとかなる点が往々にして多い。だから「良識ある健常者」側からの立場で口を開くと、

「物理的に対応可能なハンデは支援する。ただし泣き言なんか許さない。特別扱いなんかしないから同じ土俵で勝負しろ。それがオレなりの公平な態度だ。根性で戦え!」

・・・となってしまう。

確かに、この意見はユニバーサルな姿勢が持つ一面として正しいと思う。障碍以外の部分については、健常者と同じ条件として厳然と扱う姿勢に正しさもある。変に障碍を意識されて過保護な姿勢をとられるよりは、厳しさも対等である方がむしろ救われる障碍者も多いだろうと思う。誰かに「かわいそう」と憐れまれる状況の方がミジメなのだから。

ただ、精神障碍というのは「根性」と相性が合わない領域だから、ある意味、身体障害や知的障害よりも理解を得ることが難しいかもしれない。精神障碍の疾患の中には、常に幻聴が聞こえる状態で仕事に集中できない症状や、一切の気力が失われて何もできない状態が続く症状もある。

・・・と書いてはいるが実際のところ、私自身がこのような症状を体験したことがないから実はよく分からない。だから、「どうせいい加減なコトを理由にして現実逃避しているんだろう?」と思う人もいるだろう。自分が体験できないことは信じない。ついそう考えてしまうことは別に珍しくない。かくして「幻聴が聞こえるなんてウソばっかりついてやがる!」とか「何もやる気力が起きないなんて気合いが足りないだけだ!」という、感情的な主観論になってしまいがちだ。

ただ、私もIT業界に身を置いた体験の中で、連日の徹夜による疲労のピークで幻聴を聞いたことがある。おそらく幻聴自体は誰もが体験したことがあると思う。もっともわかりやすいのは「夢」だ。誰もが夢の中で誰かの声を聞き、何かの音を聞いているはずだ。しかし、現実ではなんの音も出ておらず、夢の中で聞いた音は脳が勝手に作り出した幻聴だ。

疲労の極みで睡眠を我慢していると半覚醒状態になるのか、起きていながら「夢」で聞くような声が聞こえることがある。俗な言葉で表現すると「寝ぼけている」状態だ。おそらく幻視についても「夢」で人や風景が見えることを考えたら、まったくありえないことではないことが分かる。これが現実とオーバーラップして発生するのがいわゆる白昼夢ではないか。

白昼夢もまた、誰もが経験していることだと私は考えている。「脳」がパニックを起こして、現実と過去の区別がつかなくなる体験をしたことがないだろうか。いわゆる「デジャブ(既視感)」という現象だ。今、起きていることが過去の夢で予知していたかのように、脳がパニックを起こしている状況だ。

寝ている間に勝手に「夢」として音や映像を作り出してしまう「脳」。そして「現実」と「夢」の境界線が認知できなくなる「デジャブ」を引き起こす「脳」。この二つの状態が「脳」で同時に起こってしまったとしたら、普通に生活をしている中で、幻聴や幻視が見えることは可能性として十分にあり得ると思う。

もちろん「幻聴が聞こえた」「幻視が見えた」と言っても、誰もそれが真実であるかどうかを確認することはできない。あなたが実際に体験した夢について「○○という夢を見た」と、他の誰かに本当のことを主張したとしても、それが真実であることを証明する方法が存在しないことに似ている。

心とか精神というものは、他の誰にも触れることのできない領域ゆえに、適正な方法でその正しさを証明することができない。精神障碍という症状と向き合う難しさというのは「無条件に信じる」しか出発点がないことなのだろう。つまり精神障碍の症状を聞くときには、相手の「夢」のように思える話を真実として認める覚悟が必要になる。「それは気のせいだろう!」とか「それは精神がたるんでいるからだろう!」・・・などと否定したって何も前には進まないのだ。

仮に夢の中で写真を撮っていても録音していたとしても、現実世界にはそれを持ってくることはできない。それを信じてもらうためには「無条件に」信じてもらうしか方法がないのだ。もちろん夢の話では簡単にウソをつけることも歴然たる事実だ。

あえて性悪説で精神障碍を考えた場合、「ニセ」の症状を語る人も数パーセント含まれているかもしれない。実際にありもしないことを真実のように語っている人もいるかも知れない。またはちょっとしたことを大げさに申告している人もいるかも知れない。しかし、そのことが精神障碍の症状すべてを頭から否定する理由にはなりえない。

本人がそういうなら「真実」なのだ。がんばろうと思ってもがんばれない。これも真実なのだ。そこに精神論とか根性論を持ってくることはナンセンスだと思う。事実を事実として受け止めた上でその先を考えていくしかないのだ。

誰もが夢をみるし誰もがデジャブ(既視感)を体験する。感情の感度も人によって違う。価値観も人によって違う。誰もがそれぞれ違う世界を持っている中で、脳のメカニズムの失調(伝達物質や電気信号の不調)により、そこにさらなる違いが発生する。

精神障碍というのは、いわゆる「健常者」にとって遙か遠くの現象でありながら、その一方で実はものすごく近い現象なのだと思う。精神障碍という現象は、あらゆる意味で紙一重の世界なのではないかと最近考えさせられている。

2009年7月8日水曜日

職人気質?

今日は、IT現場のハケン仲間が大騒ぎしていた。

今まで面倒な作業で制作していたWebアプリケーションを、「Ext」(http://extjs.co.jp/)という仕組みを使うと、洗練されたWebアプリケーションが簡単に作れてしまうことが明確になったからだ。

要するに誰でも簡単にWebアプリケーションを作れてしまうから、自分たちの商売がなくなってしまうんじゃないか・・・という話だ。

個人的には「え?・・・それっていい話じゃないの?」と思ったんだけど。

・そもそもその面倒くさい仕事を一生やるつもりだったの?
・世の中の知的財産が増えるのならそれをこそ応援すべきでは?

今までアプリケーションの制作ってハードルが高かったから、何かを作ろうと思っていた人が作れずにいたかもしれない。これから世の中に役立つ仕組みがもっと出てくるかもしれない。いろんな人のアイデアが世の中にもっと出てくる。

世の中がよくなるんだとしたら、逆にこれから何かを作ろうとしている人を応援する側に回ればいいと思う。いくら簡単になったからって言っても、ハードルがまったくなくなったかといえばそうでもない。やっぱり初めての人にはハードルが高い。

時代に合わせてニーズを自分で考えていくべきじゃないのかな。昔の日本には自分の足で走って手紙を届ける「飛脚」がいた。今はいない。車社会という時代にマッチしないからだ。逆に車を使って手紙を届ける職業は現代に存在する。

要するに環境なんていうのは道具に過ぎないわけで、便利な道具ができたのならその道具を使って生きていけばいいんだと思う。車社会になりつつある時に、飛脚の仕事にこだわっていたら仕事はなくなると思う。

変革の時に保守的になるのか。それとも変化を受け入れていくのか。その姿勢によって自らの未来は大きく変わると思う。それにIT業界には大きなインパクトを与えながら、主流にならなかったモノの残骸がたくさんあるじゃないか。最初は鳴り物入りでジャーンとでてきて、いつの間にかなりを潜めるバズワード。

たとえば「Second Life」が出てきた時なんか、「これからはバーチャルリアリティの時代だ。あらゆるコンテンツは3D化され、ブラウザでインターネットの情報を閲覧するのは時代遅れになるだろう。早かれ遅かれWebデザイナーは転身を余儀なくされる。」なんて言われていたのにね。

実際にゃ、今、そんな世の中になってないじゃん。未だにインターネットと言えばWebサイト・ブログの閲覧が主流だ。

私が浅慮なのかも知れないが、もっと前向きに考えられないものかと思う。時代が変わるときに自分の足下を気にして、世間に逆行することをしてはいないだろうか。日本の政治でいえば既得権益にしがみつく道路族や郵政族みたいなもののようにも思える。

今後「Ext」が主流になっていくと思うのなら、その関連のノウハウをコアにして今後やっていくのもいいだろうし、違う技術畑を耕してみてもいいんだと思う。

繰り返しになるが、環境・・・もっと具体的にいえば開発環境はツールに過ぎない。そこにアイデアが乗らないと何の役にも立たない。誰でも使える大きなキャンバスがあって、誰でも使える色鉛筆が置いてあっても、絵を描く動機やイメージがなくては絵画にはならない。

アイデアをすぐに形にできるツールができたのなら、どうして「これからはアイデア力で勝負するぞ!」と思えないのだろう。ハケンだから・・・というワケではないだろうが、一生、誰かから命令された仕事を、やり続けるつもりなんだろうか?

正直ね、「Ext」なんて使わなくても、アイデア力のある人なら既存技術でも十分におもしろいモノを作っちゃいますよ。そういうことを心のどこかで知ってるくせに、気持ちで負けちゃつまんないと思う。

2009年7月5日日曜日

12/12(12分の12)

忘れてはいません。
1月13日に「夢に進むか諦めるか」という基準を設けていました。
1/12(12分の1)[2009/01/13]

当時の日記から引用してチェックしてみました。

==========
◆現時点(当時)での案件リスト
  案件(L1):
    新規業態の飲食店システムの立ち上げ
↑まったく進んでません。もうちょっと力が必要です。

  案件(M1):
    新規業態のIT雇用の開拓・促進・教育システムの立ち上げ
↑こちらをメインに進めています。事業計画書を作成中です。

  案件(S1):
    異業種コラボレーションによる新規事業開拓の基盤構築
↑発展基盤として「すべらく!」というサイトを作りました。

  #なお、これらの案件以外にも増えていく可能性はあります。
↑実際には案件を増やさずM1とS1に集中することにしました。

●6/30の時点で夢の継続が可能な到達条件:
次の項目において、3つ以上が満たされている場合。
  (1) 案件(L1)の持ち込み先で正式な事業案件として進行していること。
    □事業案件を進めるための人材リストに名を連ねていること。
    □事業立ち上げまでの日程が計画として関係者周知されていること。
↑未知の領域でもあるので、もうちょっと自分の力を磨きます。

  (2) 案件(M1)の持ち込み先で正式な事業案件として進行していること。
    ■事業案件を進めるための人材リストに名を連ねていること。
↑当時は、すでに力のある組織にアイデアを持ち込んで、そこの
一員として働く・・・という前提でしたが、やはりやるからには
自分の主体性を意識しようということで、私が代表者として立つ
スタンスで行くことにしました。

    ■事業立ち上げまでの日程が計画として関係者周知されていること。
↑ご協力いただけそうな方々には事業計画書案を配布しました。
これから資金調達も含めて、方針を固めて動いていく予定です。

  (3) 案件(S1)について考案した仕組みがすでに運営されていること。
    ■上記仕組みがすでに開発済み(β版で構わない)であること。
↑実は個人個人のノウハウ熟成をアシストするためのWebアプリ
を作成したのですが、不特定多数に使ってもらうには人が集まる
場所を作る必要がある・・・ということで「すべらく!」を作り
ました。まぁ、まだ、サイト自体の完成度が高くないので、改善
を続けていく必要がありますが、サイト閲覧者が増えてきたら、
ちょっとおもしろい機能を追加していこうと考えています。

    ■上記仕組みを利用している協力者・利用者がすでに存在すること。
↑サイト閲覧者自体は思いのほか多かったのですが、アクセスの
状況を追跡するとページ遷移が途中で止まっていて、コンテンツ
の誘導性がよくないことが分かっています。まったく読まれない
ページも存在しているため、現在、根本的にサイト見直し中です。
とにかく、地道に続けていくしかないかなと考えています。

上記を満たさない場合でも、次の条件のどれかを満たす場合。
  (4) 上記案件またはそれ以外で収益があるか収益予定が明確な場合。
    ▲派遣業務以外の自主的活動において入金がなされた場合。
↑とりあえず、アフィリエイト広告などをサイトにつけてみた。
広告の表示は自由に制御できることが分かったので、閲覧者傾向
にあわせた広告を効果的に出せる方法を模索しようと検討中。

    □たとえば協力者報酬など書面等によって担保されている場合。
↑自分が主体的にはじめるので、担保なんて何にもないです。

  (5) 目的に関する理解が広く得られ第三者より継続を希望された場合。
    ■実名による継続希望または協力の申し出があった場合。
↑新規雇用の創出の件は、いろんな人にお世話になっています。
実際に私の構想を支援してくれている方々もいます。感謝です。
そんな状況で「あきらめる」なんて選択肢は私にはありません。
==========
いささか、自分でも判定がアマアマだなぁ・・・という印象は拭えきれないのですが、もともと継続するために立てた判断基準なんです。それにこの数年、具体的に何も動いていなかったことに比べれば、とりあえず自分で動いて、何かを作り、人に会い・・・ということができてきた半年だったと思います。
そういう日常に何か光というか希望を見いだしています。今、私は次の半年を意識して動き始めています。地道にやっていこうと思います。
本当は12月までのプランを具体的に書きたいところなのですが、さすがにアイデアが固まってくるとなかなか書きづらくなってきますね。企業秘密・・・といっては、いいすぎかもしれませんが。

とりあえず、ざっくりと。
案件M1:とにかく資金調達。魅力ある事業計画書を作り資金を集めます。
案件S1:読まれるサイトとして多く読んでいただける状態に改善します。

そういえば、ハケン。更新できれば・・・という前提条件がありますが、9月末日から12月末日まで再延長せざるを得ない状況です。なにしろ事業を開始するまでの収入の口を確保する必要があるからです。おもしろいことに「自分で事業を始める」という視点でハケンを見ると、ハケンって不安定なはずなのに、まだ安定しているように見えるのがおもしろい現象です。

ちょっと牛歩のような気がしますが、着実に前進するしかありませんね。