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2009年12月29日火曜日

個性で考える

2009年の11月中旬から始まった「即戦力ITコース」。12月25日に年内の講義が無事に終わった。考えてみれば、今年の初めから精神障碍の世界に猛烈にアプローチして、ほぼ自分の思い通りに運営できる「ITスキル」の講座を持てるようになった。

いや、別に「自分、よくがんばった」ということを書きたいワケじゃない。まぁ、もちろんがんばった点もあるんだけれど、それ以上に出会えた方々のご協力に感謝する一年だったと思う。運や縁にも恵まれていたと思う。で、今年は「走り始め」というところもあったけれど、来年は圧倒的な「発展」の年にしたい。

そんなワケで、とにもかくにも今年の講義の全6回が終了。そのうち2回はパソコンが間に合わなくて座学だったから、パソコンが使えるようになった状況から数えればたった4回。それでWord→Excel→Eメール→画像加工→ビジネスメール→ホームページ作成まで到達したのだからすごい・・・というか、だいぶ過酷だったかなと思う。

ただ、「一般的なパソコン教室」を期待していた受講生については、期待を裏切ってしまったかもしれない。でも、申し訳ないんだけど「テキストがあって第一章から最終章まで丁寧に教えてくれる講座」なんて最初からやるつもりはなかった。だったら、そのあたりのパソコン教室に通っていただきたい。そういう目的なら、ちょっとネットで調べればいくらでもある。

「即戦力ITコース」という講座名に注目してほしい。「パソコンを使えるようにする」ことが目的ではなく、「ITエンジニアとしてやっていける」ことが最終目的の講座だ。もちろん、その課程として「パソコンが使える」ようになるというだけの話だ。

そういう意味で最終的な目標は高いのだ。もっとも、そこに到達するまでの実践では「低いハードルを何度も飛ぶ」ということを繰り返すわけだが。

だから「一般的なパソコン教室」と思われたくはない。ITエンジニアを目指した人が、どうやってその業界に入っていったのか・・・という入り口を教えるのが本コースのミッションだ。

だから、最初は世の中にある幅広い技術を「知る」ことが大事だ。「学ぶ」ではなく「知る」こと。その中で自分にフィットした分野があったとすれば、「知る」→「もっと知りたい」→「学ぶ」に進化するわけだ。

私にできることとできないことは明確だ。「知る」→「もっと知りたい」→「学ぶ」という部分において、どのようにすれば効率的に結論に近づけるのか・・・という方法なら教えることができる。

でも「もっと知りたい」という気持ちだけは私にはどうすることもできない。湧き上がってくる好奇心がなくては「もっと知りたい」には到達できないのだ。

だから「座っていれば最初から最後まで教えてもらえる」なんて、なまっちょろいコトを言っちゃいけない。「教えてもらう」という受け身の姿勢なら、最初からやめておいた方がいいと思う。

私は正直なところ「ITの講師」なんかではない。どちらかというとITエンジニアの世界の入り口まで導くコーディネーターだと思っている。

だから「些末な技術」なんてほとんど教えない。その代わり徹底的に「自己解決力」を高めることに力を入れている。そして「好奇心」の広がりを体験してもらうことにも主眼をおいている。

猛スピードで講義をすすめた理由もそこにあるのだ。WordやExcelを短期間に徹底的に学ぶ必要なんてまったくない。私だったら眠くなって寝ると思う。だって決まり切った教科書というレールの上を走らされていたら、自分自身の動機が希薄になっちゃうから。

そうじゃないんだ。最終的には「好奇心」というエネルギーが一番大事なのだ。重複になってしまうが、こればっかりは私にどうすることもできない。受講生自身がどうにかしなくちゃいけないことなのだ。

だから私は「好奇心」を探すためにいろんなフィールドに受講生を連れ出す。そこで気に入ったフィールドを見つけて「好奇心」を高めてほしい。その「好奇心」の後に「好奇心の欲求を満たすいろんな方法」を教えるという方針だ。

全6回の講義を急ぎ足で駆け抜けたが、実はおもしろいことに気がついている。ExcelやWordでつまずいてへこんでいた人が、画像の加工編集となると妙に熱中したりしている。これこそが私の狙いだ。

みんな一律同じスキルを身につける必要なんて全くない。まずは自分の好きなフィールドを見つけること。そして「自らの好奇心」でさらに「できること」を増やしていくこと。そしてそれを仲間で共有すること。

仲間を引っ張ってあげたり、仲間に引っ張ってもらったりしながら、お互いの苦手分野を埋め合っていく。これが社会の仕組みなんだと思う。この本質に気づくことができれば、自然と社会で働くことができるようになるんだと思う。

どうせ働くなら楽しく働いた方がいい。楽しくなくては何事も長続きなんてしないから。そういう意味で、私の講義に「つらいけど楽しい」とついてきてくれる受講生には本当に感謝している。彼らを絶対に幸せにしたい。

2009年12月25日金曜日

戦っちゃいけない

「戦っちゃいけない」という言葉を最近よく聞く。正直なところ私にとって耳の痛い言葉だ。誰か優れた人がいるとその才能がまぶしく見えてしまう。そしてその足下に追いつけるくらいまでには努力しようと思ってしまう。20代だったころは実際にそういう悔しい気持ちをバネにして多くのことを学んだ。しかし問題は最近になって多方面で優れた人を多く見かけることだ。

経済のプロ、交渉のプロ、メンタルケアのプロ、英語のプロ・・・それぞれにまばゆい光を感じてしまう。しかし、その人たちが必死になって積み上げてきたものに追いつくことは不可能だ。たとえばプロが20年かけて蓄積した経験知を1年で習得することは無理だ。精神論的には「この世に不可能はない」と言いたいところだが、この願いについてはファンタジーでしかない。

ただ、逆に私が積み上げてきた経験知についても、もっと誇りとプライドを持ってもいいんだろうと思う。もちろん私の職域において私より優れた人間は星の数ほどいるわけだが、それをいうなら私がうらやましく感じている「隣の芝」だって同じだ。スキルの高さも大事だが、そのスキルを使って何を成し遂げるのか・・・という点が大事だと思う。

最先端の医療技術で難病を治す医師も大事で、離島をかけずりまわって島の健康を守る医師も大事だ。医療というスキルを活かして紛争地帯まで赴いて負傷者の救護にあたる医師もいる。同じ「医療」というスキルには違いがないが、そのスキルにプラスして「何を成し遂げたいのか?」という想いが人生を形成するんだと思う。

適材適所というとどうしても組織論というか、「会社」の中だけの狭い話のように思えてしまうかもしれないが、本当は「社会」に対して適材適所という考え方が必要なんだと思う。ハケンという立場を辞め、これからまた一人で社会の中を泳いでいくわけだが、常に自分自身に問うことになるだろう。自分はどこで誰のために役に立てるのだろうか?・・・と。

自分が活躍して喜んでいただけること、そして自分にないスキルを持つ人と経験知を融合して新しい価値を作ること。これが大事なわけで、自分にないスキルをうらやんで勉強を始めるというのは微妙に筋違いなのかもしれない。もちろん基礎的なラインを学ぶことの価値までは否定しないが、自分のメインスキルでない限りは「隣の芝」を追求していちゃいけないのだろう。人生、そんなに長くない。

せっかく自分と違う領域の人に会えたのに、そこと同じ領域を目指したところでその人を超えることはおそらくない。それに、できたところで領域がぶつかるだけだ。無駄に戦わずに共存できる道を探ることが大事なのだと思う。残念ながら今の私はそれを実現できていない。しかし、いつか異業種とのコラボレーションを楽しめる自分でいたいと切望している。きっとできるはずだ。

2009年12月21日月曜日

優しい&悔しい

「優しい」というのは決してほめ言葉ではない。すごく残念なことなのだが、私は投資会社の人やら、すでに会社を創っている社長によく「それでもまだ優しいような気がするんですよ」とか言われる。さすがに自分なりにも、この言葉はマイナス方向の言葉だということは気づいている。要するに「甘い」ということだ。「情に流されている」という意味も含んでいるんだろう。

局面に応じてクールに判断できない人間は経営者をやるべきではないというメッセージだ。資会社など金融系の人たちは「非情と言われようが冷徹に判断できる人」を好む。実際のところそういう経営者こそが実績をあげてきたからこそ、それが常識になっているのだろう。別にそのこと自体には不満はない。冷徹な判断を下すことも必要な資質だ。

私がNPOの講師をやっていることについても批判がある。ボランティアやら慈善事業に手を出してはロクなことにならないという話だ。どれだけ言っても言葉が相手に届かないのが残念なのだが、決してそういうつもりではない。悔しいのは目的がありながら、知らない領域が多すぎるという点だ。率直に書こう。私の力不足でもあるし、知識不足でもあるし、経験不足でもある。

「本音ベースで夢を語ってください」と言われ、本音ベースで私の夢を語ると「当然、それに対する答えを持っているんでしょう?」と聞かれる。「どこが問題点でどのように解決すべきか・・・という部分までもちろん考えているんですよね?」・・・と聞かれる。これに対しても本音で答えれば、そんなのあるわけないじゃないかということになる。

私に考えが足りないことは率直に認めている。想定範囲もきわめて狭いのだろう。それも薄々ながらイヤというほど気づいている。しかし、その先まで見えていることを求められるのはなぜなのだろう。もちろん戦略というのは必要だろう。しかし、その戦略というのは戦術レベルでの経験知によって構築できるものがあると思うのだ。仮想の上に仮想を重ねて戦略を重ねるとウソになることもあると思う。

ちらっと話をすると「じゃあ、話してごらん。私が聞いてあげるから。」というシチュエーションになる。ああ、やっぱりそうですよね。上から目線になっちゃいますか。単純に批判することほど簡単なものはない。一から考えるよりもアラを探して崩す方が簡単だ。むろん、そこで貴重なご意見を真摯に受け止めて改善に努める・・・という気持ちは大切だ。しかし、本音で言えば実にやっかいだ。

意見に対して「その通りですね」と答えれば、「他人に言われて簡単に意見を変えるようなら価値がない」なんて話になる。意見に対して「それはこう思うんです」なんて反論すれば、「もっと率直に意見を聞くべきだ」なんてことになる。「なるほど、それは参考にさせていただきます」なんてお茶を濁しても「それって、本当に考えてます?」なんて言われてしまう。なんなんだよ、それって。

自らの未熟を意識しているからこそ、未熟なうちに本音を書いておきたい。正直ずるいね。特に「その分野、よくわかんないけど、たぶんそれは無理だと思う」っていう発言とかね。ただ単に感想を言ってるだけじゃないか。なんでよく分かんないのに正解の提出を求めるんだろう。そもそも話す相手のすべてが納得するような正解なんてあるんだろうか。なんで、みんな本音を言わないんだ。「やってみなけりゃ分からない」って。王様の耳はロバの耳だ。

テクニックらしきものはいろいろとあるらしい。必ず断定形でで言い切ること。ハッタリでも自信満々に主張すること。なるべく専門用語で煙に巻くこと。数字を持ってくると説得力が増すこと。なるべく派手な働きかけを入れておくこと。たとえば政治家に対する交渉だとか、学術研究機関が絡んでいることを匂わすとか。夢を買ってもらうのだからそれくらいはするのが当たり前・・・なのか?

でも、なんだか、私からみると「なんでそれで納得するんだろう?」と思う。夢を語ってみても「そんなこと、できるわけないじゃないか」の大合唱だ。でも、これだけは言いたいのだ。上から目線で他人の批判ばかりをしているヤツよりも、無責任に飛んでくる矢を受けまくっても前進しているヤツの方が、必ず何かをつかめるってことを。そうじゃなきゃいけないと思う。さすがにさ。

2009年12月16日水曜日

夢を叶える

「即戦力ITコース」の講義を始めて4回目。1週間に1度なので、4回目といっても1ヶ月たっている。これが毎日だったらもっと先に進むんだろうけど、「自分で考える」ということを主体に置いているので、たぶん毎日やったらキツイかもしれない。

さすがに受講生から「きついきつい」という意見も出はじめた。それはそうだ。私の講義は「ゴールを自分で考える」という場面が多い。自分で考えるということは大変なコトなのだ。今はキツイかもしれないが、自分で考える力を全面に押し出せていけない限り「だから精神障碍者は・・・」という企業側の雇用ハードルはなくならないような気がしている。

それはなぜか。「精神障碍者」=「指示待ち族」という図式ができているとすれば、それは企業にとって重荷になりやすいからだ。実際に働いてみれば分かるはずだが、「指示を出す」とか「仕事を与える」ことそのものが「仕事」になるわけで、指示だけを頼られてしまっては「重荷」でしかない。特に頭脳労働においては。

本質的に「精神障碍」というのは「考えられない病」ではない。特定の環境や状況下において、精神的な部分を源とした耐性が低めであるということだ。もちろん精神障碍には知的障碍を伴う場合もあるので、そのあたりまで言及すると一概には言えない部分もあるのだが。

そのような点を踏まえ、すべてがすべてではないにせよ、精神障碍の当事者の中には「自分で考え」「意見を提案し」「自分で実行」を実行できる人はいる。確実にいる。それは断言してよい。いわゆる健常者でも「指示待ちなヤツ」もいれば「アイデアマン」もいる。精神障碍でもたぶん同じだ。

私の講義はすべて「○○をしてみたい」から始まっている。だから、教室に来て座っていれば勝手に教えてもらえるというスタンスではない。自分から新しいことに挑戦して「○○がしたい!」という強烈な欲求に対して、どうすれば自分のその欲求を満たせるかどうかを教える。

だから、私の講義は「まるで遊びみたいだ」と言われることもある。そう思ってもらえるのであれば、私の試みは「大成功」だ。仕事でもなんでもそうで「楽しい」と思えれば勝ちだ。時間をもてあまして無駄に眠くなることもなければ、どうしたらもっとよくなるか・・・という思考によって、仕事の質もよくなる。

仕事も「遊び」みたいなものなのだ。楽しんでできれば必ずいい効果が上がる。もちろんその枠組みの中で「きついきつい」と言われがちな「ざっくりとした指示」も出す。それは、わざとやっているんだから「きついきつい」と言われても、それはやめるわけにはいかない。

だって就労したいから、貴重な時間を削って講義を受けているんでしょ?・・・と。私だって収入大幅ダウンを覚悟して講師をやってるんだから、ちゃんと就労してもらわくてはやっている意味がない。もちろんその先に描いている夢もあるんだけど、ともかく今は就労を成功させること。そしてその就労を楽しめる精神的土壌を作ること。これが今の私のミッションだ。

ただその代わりどんな成果物ができても怒らないし、物理的な疲れについては頻繁かつ少し長めに休憩時間も確保している。また、どんな愚痴にでも徹底的につきあうつもりだ。だから「講義でキツイと思ったら、いくらでも愚痴を聞きますよ。いつでもご遠慮なくどうぞ!」と、よく言っている。

基本的に講義の大枠の方針は変えないんだけど、「なぜ、つらいことをするのか」を伝えて、納得してもらえると一様に表情が明るくなる。それが大事なんだと思う。たとえば、最初の講義で作ってもらった「夢」の紙に、「今まで自分が知らなかったことができるようになっている」と描いていた人の愚痴を聞いたことがある。

「講義のテンポが早すぎてついていけていないような気がするんです。今までと違って分からないことだらけになってきて不安です。」という愚痴。だけど、実際にMS Officeで作ってもらった成果物を見ていると、いろんなところにイラストも入っているし、レイアウトや文章もしっかりしている。

「これ、講義を受け始めた頃からできましたか?」と聞いてみたら、首を横に振って「いいえ」と一言。

その通り!

確実に「できること」の領域は広がっているし、イマジネーションを現実化させるための選択肢も増えているはずなのだ。ただ、新しいことをたくさん始めれば「知らないこと」でいっぱいになる。だから「不安」にもなる。それは未知の領域でがんばっている証拠なのであって、不安な気持ちになることは至って健全な反応だ。描いた夢のとおりになっているということに気づいてほしい。

私は受講生のみんなが描いてくれた「夢」の紙(のコピー)をいつも持ち歩いている。そして、叶えられそうな夢があったら、どんなに些細なことでも少しずつ叶えていこうと考えている。「夢は叶ったら終わり」ではない。夢が叶うと必ずそれまでの夢を上回る夢が生まれるからだ。新しい夢が生まれたらそれをまた追いかければいい。

「夢」ありきで始める「IT講義」があってもいいと私は信じている。どんなに便利で優れた開発ツールがあってもアイデア(=夢)がなくては何も作れない。テクニックだけがあっても、感情を伴うイメージがなくては何も生み出すことはできないのだ。ここを大切に考える人材を全力で育てたいと思う。

2009年12月9日水曜日

潜在能力を信じる

驚くほどに時間の経過が早い。先週、講義をしたかと思ったら、また明後日に講義だ。

先週は即戦力ITコースの3回目にして、いきなりWordとExcelを使ってもらった。あまりの急展開に受講生の半分くらいが軽く混乱。しかもその教え方が荒いのだから、まぁ、正直、受講する立場からすれば、たまんないだろうな・・・と思う。でも実は意図的にやっている。

たぶんね、WordとかExcelとかをやるんだったら、大上段から難しめの講釈から入って、そしてひとつひとつの機能解説から入って・・・というのを期待されていると思うんだ。でも、そういうのを期待するのなら、そこらへんのパソコン教室に行けばいくらでもある。それと同じコトをするために、私はわざわざ「即戦力ITコース」なんて開講しない。

まず、「WordとかExcelに過剰な期待を持つな」ってこと。だって道具だよ。ただの道具。これに数ヶ月・・・なんて、目指す山を高くしすぎなんだと思うよ。もちろん高い山は登り甲斐があるかも知れないけどさ、やたら時間と体力を使えばいいってもんじゃない。そうじゃなくて小さい山をいくつも登った方がいいんだと思う。

だから「この高い山の先はまだまだ先だ。さぁ、みんな、へこたれるな!」なんてことは最初からやる気がない。ハードルの低いモノを高そうに見せるのは、商業的にはアリなんだと思うけど、こっちは金儲けでやってるワケじゃないんだ。少なくとも「就労移行支援」単体ではお金儲けを考えていない。

とりあえず希望に近いところに就労してもらうことが目的だし、就労した後に苦労しないようにしておきたいだけだ。だから、就労した後の困難を乗り越えるための「自己解決力」を徹底して教えている。「自己解決力」というのは「状況分析能力」と「情報収集能力」と「行動発想能力」の足し算だ。

「自分は何をすることが必要なのか?」を知り、「どうやって情報を集めていくか?」を考え、「どのように対処していくのか?」とまとめる能力を必要とする。その能力を磨くために必要と思われることを、現時点においてすべて行っている。「教え方が荒い」というのも、それが大きな理由なのだ。

「[スタートメニュー]から[プログラム]を選んで[Microsoft Office]を選んだ後に[Microsoft Word 2003]を開いてください。」なんて指示はしない。「Wordを開いてください。」といきなり言い放ってしまう。「知っている人は教えてあげてください。分からない人は仲間に教えてもらってください。」と言うだけだ。それでちゃんとどうにかなるのだ。なってもらわないと困る。

精神疾患の当事者には「できるだけ具体的な指示を与えてください」なんて指導されやすいこの業界(?)からの常識(??)なんてどうでもいい。そんな常識に縛られているから「精神障碍者は使い物にならん」なんて、企業側から言われてしまうのではないかと密かに思っている。

私は精神疾患(鬱)を16歳から罹患しながらも、IT業界で人並み以上の能力を発揮している人を知っている。いろんな難題が降りかかってくる部署でいろんな応用力や機転を利かせ、圧倒的に大きな存在感をもって仕事をしている。彼が突然いなくなったらたぶんその職場は大混乱を起こすと思う。

こういう優れた人材は私の職業人生でもけっこう出会ってきた。実際に精神疾患を抱えながら、企業でバリバリ仕事をしている人はかなり多い。技術屋の領域で自ら起業している人すらいる。彼らに共通するのは自己解決力が非常に高いことだ。かなり抽象的な指示や課題に対しても適切に対応している。

「精神障碍にもっと理解を」と言っている就労支援組織には、企業の実務を知らない人が案外多いような気がする。そして、バリバリ働いている当事者のこともあまり知らない。それは就労支援組織が悪いのではない。普通に考えて、バリバリに就労している当事者と就労支援組織との接点は少ないだろうからだ。仕方がない。

そのこともあって、「精神障碍者の人にはわかりやすく具体的に」という「指導の指導」が入ってしまうのだろう。確かにそうしなければならない病状や職業環境もあるだろう。だからその指導方針のすべてを否定するつもりはない。

しかし実社会に出て働いてみると、けっこうアバウトな指示が飛んできたりもする。就労移行支援の講義で「わかりやすく具体的に」を徹底しすぎると、そこのギャップで突然苦しむことになる。企業特有のスピード感にしてもそうだ。ゆったりした講義に慣れすぎると企業のスピード感についていけない。

ぬるま湯から熱湯に放り込むのはある意味で残酷だ。熱湯と言わないまでも実社会と近い程度の温度を事前に体験しておくことは重要だ。私の講義はシンプルさの割に、実はハードルが高い。なぜなら就労した後に体験するであろう出来事をできるだけ講義の中に織り込んで、それをシミュレートしているからだ。

いろんな不満も出てくると思う。でも、私はそのひとつひとつの不満に向き合っていくつもりだ。「不満」というのは一見ネガティブなパワーだが、パワーには違いない。そのパワーの向きを変えることができればポジティブなパワーにもなる。

私は講義自体に「容赦」をするつもりはない。でも「情け」は力一杯かけていきたい。私は受講生の潜在能力を信じている。今は企業から相手にされていなくても、必ず光があたる日が来るのだ。ひとりひとりと向き合ってみんなで勝利をつかみたいと思う。

2009年12月1日火曜日

NHKの障碍者番組

最近はテレビ番組をめっきり観なくなってしまったのだが、その代わり、おもしろい番組についてはビデオ録画している。その中で最近、毎週ビデオに録画してみている番組が「きらっといきる」(NHK教育 毎週金曜20:00~20:30 http://www.nhk.or.jp/kira/)。

NHKに受信料を払っていてよかったと本気で思える良質な番組だ。むしろNHKはこれしか観ないから、この番組の視聴料を払っているようなものだ。

この番組のすごいところ。
それは「障碍者に対する変な憐れみがない」ということ。

最近の番組に多いのが「障碍を持っているのにこんなにがんばりました・・・出演陣の全員が涙で感動」というパターン。「たしかにスゲーよなー」と思う人たちが紹介されたりするんだけど、「感動物語」となるといくらか微妙だ。

上から目線で「はい、よくがんばりました」的な気持ち悪さを感じるのだ。だからゲストのコメントでも「障碍を持っているのにすごいですよねー」という結論になっちゃう。

たとえば私はITエンジニアとして生きるために、記憶力やらなんやらという自分の弱点を補う方法をいくらか研究した。そこで仮に「記憶力がたいして良くないのに、そんなに努力するなんて感動しました」なんて言われたとしてもちっともピンと来ない。生きるために必要だったからそうしただけだ。

でも、この番組ではそういうヌルイ意見があまり出ないところがイケている。

たとえば脳性麻痺のお笑いコンビが「僕たちは芸人ですから笑ってほしいんです。障碍者の努力の姿に感動した・・・なんて泣いてほしくない。」などと言っていた。しかし、その翌週の番組で健常者から寄せられたお便りがステキだ。

「泣かれるのがイヤなら芸を磨いてほしい。あなた方は芸人の世界をナメすぎている。人様に笑えない程度の芸を見せて笑ってほしいと頼む姿勢そのものが甘い。芸が陳腐だから笑えなくて泣くしかないのだ。そこに障碍者という言葉を持ってくるのは、あなた方ご自身が障碍にもたれかかっている証拠ではないのですか?」

手厳しいがその通り。そういうお便りが届くのもすごいが、それを番組で正直に紹介してしまう制作姿勢もすごい。率直に感心した。

そのお便りに対して司会者自身も「私は正直な気持ちとして、今、反省しています。私自身も『障碍者』という視点で評価にゲタを履かせていたと思います。正直、お笑いとして純粋に内容を評価すると、まだまだだったと思います。もっとがんばってほしいですね。」と発言してしまう始末。

しっかりとその後のフォローもしている。その二人組のお笑いコンビにちゃんとそのお便りを届けていた。そのコンビは、その意見を踏まえてもう一度「お笑い」に対して最初から取り組み直すんだそうだ。

ちなみに、しばらくは「障碍者ネタ」も封印するんだそうだ。個人的な意見だけど、そこまでやっちゃうともったいないと思う。障碍者という現象がネタ(武器)になるのなら、それはそれで有効に使った方がいいと思うんだけどね。健常者の芸人だって、自分の借金とか離婚までネタにしちゃう人がいるくらいなんだから。

似たような芸風で「ホーキング青山」という芸人もいるけれど、彼くらいにまで突き抜けてしまえば笑える芸人になれると思う。ただ、彼のステージは最高におもしろいんだけど、たぶん放送電波には乗せられないところが弱点なんだけど。トークの8割が「ピー」で消されるだろうから。

この番組の画期的なところは他にもある。脳性麻痺の人をコメンテーターとして常に出演させている点だ。脳性麻痺の程度によっては言葉が話しづらくなる。だから慣れていないと聞き取りづらいこともあって、残念なことに後ろ向きなイメージが定着しがちだ。

実際にはそういうことはなくて論理的な意見に長けている人が多い。でも、脳性麻痺の人に会える機会というのは、普通に生きているとなかなかない。しかし、このように番組でそういう人をコメンテーターに抜擢するというのは画期的だと思う。この人が出演しているおかげで「上から」感が薄れるのだ。

個人的にも助かっていて、昔、聞き取りづらかった脳性麻痺の発音特有のヒアリングがだいぶ楽になった。よく聞き取れなくて「すんません、もう一度お願いします。」と言わなくて済むのはやっぱりラクだ。何度も聞き返すのはやっぱり失礼なような気がするし。

他にも、生活費やら助成金の細かい金額についても公開する懐の深さもいい。そういう現実のデータを知りたいと思っても、当事者にはなかなか聞きづらい話だったりするから。また、多彩な障碍について取り扱うので障碍者の種類を適切に把握するための教科書的な番組といえそうだ。

全体的に明るくて前向きな番組作りにも成功していて、観ていて心理的に辛くなるようなことも少ない。今後もこの番組には注目したい。