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2012年5月30日水曜日

臨機応変が苦手


一部の発達障害オーナーの人は理解してくれやすいかもしれませんけど、私は「臨機応変」という言葉が苦手です。ハッキリ言えば嫌い。「臨機応変=判断は任せる」という意味だと思いますが、実際のところ「判断しがたい状況」って割とあると思うんですよね。

「臨機応変に対応してください」という言葉が期待している内容を叶えるためには、「依頼人にとってのベストな判断」が何であるのかを知らないといけないんですね。で、その期待を外した行動をとれば、「なんでそんな判断をしたんだ」と文句をつけられます。理不尽この上ない!

また、能力的なハードルもあります。たとえば、完全なメカオンチな人に「機械が異常動作をしたら臨機応変に対応してください」といったとしても、お願いされた人には判断のしようがないんですよ。つまり、「仕組みをしらない人」に「臨機応変」は通用しないんですよね。

そこまで極端でなくても、「臨機応変」には広範な前提知識が必要になることがあります。たとえば、揚げ物の鍋に引火して炎が上がったとき、何も知らなければ水をかけて消そうとする人がいると思います。もちろん、この行動は間違っていて非常に危険です。(逆に火が燃え広がります)

この二つの例はいずれも「臨機応変」を指示した側に大きな問題があります。ひとつには「臨機応変」な対応をする適性がない人に判断責任を委ねてしまっていることで、ふたつには「臨機応変」になるまでの危機管理のガイドラインがないことです。

なんでも「臨機応変」という「魔法の言葉」で安易に片付けてしまっちゃいけないんです。もちろん、全てのケースを列挙することは無理です。どれだけ時間をかけてもそういうマニュアルを作れないし、作れたとしても、読み切った上で全てを暗記することは無理ですよ。だから基礎力が必要なんです。

「臨機応変」とは「基礎的な知識を駆使して」「その状況でベストだと思われる行動」を考えなくてはならないという、極めて高度な仕事を要求しているということなんですね。「臨機応変」という言葉を多用することは、「その人の価値観を予測しろ」ということに他ならないわけで。やはり苦手です。

エスパーではない(そして他人の期待から外れたところに着地しやすい)私としては、「臨機応変」などという「魔法の言葉」よりも、ちゃんとした「ルールブック」が欲しいわけです。ルールブックが無理だとしても、私なりの「臨機応変」に文句をつけるんじゃねー!……と、訴えたいのであります(笑)。

「臨機応変」という言葉を使うとき、よーく心してください。その結果、何が起こっても、それは「臨機応変」といった人に責任があるんですよ。幼稚園の子に「たき火番」をさせて、大火事になったとしても、普通に考えたら子供に責任はないですよね。この場合、もちろん悪いのは大人の判断能力です。

ここまでは誰にでも分かるのに、「臨機応変」という言葉を使うときには忘れてしまうことが多いのは不思議なことです。ええ、本当に不思議です。私もたまにそうですから。「臨機応変」といわれて困った自分の気持ちを忘れず、なるべく「臨機応変」を誰かに押しつけないように気をつけたいと思います。

2012年5月23日水曜日

わが闘争(という妄想)

私はポジティブな人間だと間違われることもあるのだけれど、実は超がつくほどのネガティブ人間という一面もあるんです。だから私がいろんなことに「否定」から入っていくことも少なくないです。そして、だからゆえに、「誰にでも刃向かう」とか「波風を立てる人間」という評価を受けることだらけです。

実際のところ、私はどうにも扱いにくい人間だと思います。特に「支配」という上からの圧力、「常識」という世間の大多数を盾にした力。私はどうもそういう力には逆流するタイプで、いろんなところで毒づいたり、勝手に苦労していたりします。客観的に見れば自業自得としかいえないわけですが。

ただ、私が噛みついて戦っているのは「力」そのものではありません。その先にある人間でもありません。ありきたりな表現になってしまうのですが、行き着く先は「自分自身」なんじゃないかと最近思うんです。「当たり前というあきらめ」に流されやすい自分に対してなのかなと。

だから、刃向かいます。そして批判します。否定します。でも、本質的には自分自身が相手なので、ひたすら自分の中で立場を変えながらディベートします。そのうちに最初に否定していた物事が、自分にとっても受け入れやすかったり、それでも違和感がどこかにあることに気づくことも多かったりします。

もう少し本音で書くと、そりゃ、直接的な相手に「カチン」とくることってあります。その瞬間はあまり理性めいたものはありません(苦笑)。最初の出発点はそこから始まるんですが、徐々に検証に入っていくんです。「相手が立たされた状況は?」とか「本当に自分自身に選択肢はないのか?」とか。

誤解を恐れずに書くと、世の中、たいていのことはお互いに「ずるい」ことをやっていたりします。自分では「私はずるいことや恥ずかしいことは一切やっていない」と認識していても無駄というものです。それは「ずるい」と感じた相手側の立場からしか見えないことだから。

そうやって「ちょっと変だよね?」というポイントに気づく感度を高めていくことは、無駄にはならないと私は思っています。それによって不快に感じる人がでてしまう点は、今後の課題としていずれは改善しなくてはいけないわけですが。それでも立った波風はどこかに役立つような気がします。

ちなみに、私は「自分は清廉潔白だ」と思っている人を信用しないことにしています。そういう人は、自分が犯した過ちや、犠牲にしている人たちの現実を直視できない人だと思うからです。私はというと、泥臭い失敗をたくさんしました。汚れればいいというモノではないのですが、決してきれいな人間ではないんです。でも、だからこそできることがあると思っています。

2012年5月16日水曜日

健常者だとどれくらいでOKですか?


何度も書いてますが、私は障害者の就労移行支援の仕事をしています。でも、私は「就職させて、はい、おしまい」というタイプの支援をしたいとは思いません。たまたま障害を持っていたということで、才能や適性があるにも関わらず「本当にやりたかった仕事」を選べない人たちが、普通に職業選択ができる流れを作っていけたらいいなあと思います。

で、その一環として、健常者と互角に渡り合えるエンジニアを養成しています。養成といっても「手取り足取り」ではなくて、「自己解決」しながら自力でスキルを身につける環境を準備するだけです。それで、気がつけばDB連携したWebシステムを構築できるようになっていたり、センスのいいWebデザインができるようになった人も育ちました。

ここで「健常者」という言葉を使うのは無粋の極みなんですが、あえて書くと、当事者には「健常者のシロウトが追いつけないレベル」を目指してもらいました。むしろそうじゃないといけないと思ったんですよ。「健常者>当事者」という枠組みで語るのではなく「熟練者>シロウト」という枠組みで立ち位置を定めた方がいいだろうなと。

でも、たまたまだと思うんですが、最近、立て続けに違う人から聞かれました。

「彼らがやっているWebページの更新って1日くらいでレクチャー受けられますか?」
「健常者に説明してほしいのですが、健常者だとどれくらいでOKそうですかね?」

……もうね、残念すぎるんです。特に福祉関連の人からそういう話を聞くと心の底からブルーになるんですよ。「結局、障害者よりも健常者の方が優れているという先入観があるのかな」って。そうじゃなくて、彼らがWeb関連の技術を獲得したのは「時間」と「モチベーション」と「気合い」を投資した結果であって、そこに能力差はあまり関係ないわけですよね。

健常者だろうがそうでなかろうが、こと、技術分野の領域の話では「時間」+「モチベーション」+「気力」=「経験値」になるわけで、健常者であれば「時間」も「モチベーション」も「気力」も不要で経験値を蓄積できるなんてことはないんですよ。もちろん、その周辺技術をあらかじめ知っている人にレクチャーするのであれば、いくらでもショートカットは可能なんですけど。

彼らが数ヶ月ほどの時間をかけて「自力」で獲得してきた技術や経験を「健常者に1日程度でレクチャーしてほしい」なんていわれるのは非常に残念なんです。そして、たいていの場合は「無償」であることが前提だったりします。当事者の努力に対しても、獲得した技術そのものに対しても圧倒的に敬意が払われていないような気がしてならんわけです。ただなら便利に使ってやろうと。

だからこそ、もっとがんばらないといけないなと思います。私もそうだし、当事者もそうなんです。表現として美しくないかもしれないけれど「ナメられないレベル」を目指していかないといかんのだと思うのです。「彼らの技術を1日で、それも無償でレクチャーしろだなんてとてもいえない」レベルになっていかないといけないのです。ぱっと見でわかるレベルでないといかんのです。

そういう意味で、前述の言葉を発せられた方々を恨むつもりは毛頭ありません。私と当事者が置かれた現実を正確に把握させてもらったという意味で感謝しているんです。自分の中では「そこそこいい結果が出始めているんじゃないだろうか」と思い始めていたことも事実です。そのあたりは甘ったれていたわけですね。そこは率直に反省でございます。

そんなわけで、心を入れ替えて、楽しみながら結果を出していくぞう!

2012年5月2日水曜日

マナーなんて教えない

深い意味はないのですが。今回は「ですます調」です。いや、もっとくだけて「口語調」。

さて、私のクセというか、どうしても刺激的なタイトルを付けてしまうのですが、たぶん、それくらいでちょうど私が考えていることが伝わるのかな……と思い、やっぱりこのタイトルです。先に謝っておきます。ごめんなさい。

さて、就労移行支援事業というと、すぐに「プログラム」とか「マナー」とか、そっちの方に行きがちですよね。でも、私は違うアプローチで社会性を身につけてくれたら嬉しいなあと思っているのです。そもそもね、発達障害とか、そのあたりって、社会に溶け込むのが体質に合わないから困っているわけです。

そこに「まずは挨拶の仕方ができないと就職なんてさっぱりダメだ!」とやっちゃっても、個人的には意味がないかなと思うんです。だって、もともとあまり働きたくなかった人が、なんとか「働く選択肢もなくはない」というステージに来たわけですよ。ま、もちろん、挨拶が社会人の基本というのは正しいんですが、いきなりそこから入って萎えちゃったらもったいないよなあと。

だから、挨拶とかマナーとか、そこから始めちゃうのってどうなんだろう……って思うんです。もちろん個人差があるので「全ての人がそうすべき」だなんて思ってはいないんだけど、苦手なところから出発するんじゃなくて、「自分ってこういうことをやってると楽しいらしい」とか「こういう仕事だったらやっていけそう」とか、そっちが先だと思うんですよ。はい。

つまり、本質的に「仕事」とか「仕事を構成するスキル」を楽しんでもらって、「この楽しいことを生活の中心にしていくためにはどうすればいいんだろう?」……という、逆説的なアプローチで社会性を身につけていくというのはアリなんじゃないかなと。実際に私が運営している仕事シミュレート環境では、社会性についてのプログラムは一切用意していません。少なくとも私はやりません。

じゃあ、システム開発とかWeb制作とか、デザイン制作とかができるようになってきた人たちは社会性がないの?……っていうと、決してそんなことはないんです。実はスキルを身につけていくうちに、その過程で普通に身につけていくんです。たとえば「質問する時の態度が悪い」場合には「そういう聴き方をする人には何も言わないよ」と言っちゃいます。

つまり、座学じゃなくて、本当に「社会性スキル」が必要になるシーンを、仕事シミュレート環境の中にたくさん転がしておくんです。あくまでも個人的な意見なのですが、たとえば「名刺の渡し方」なんてことを講義でやっても、名刺を渡す機会がそもそもない人にやっても意味がないと思うんです。それは名刺を持ってからでしょう。さらにいえば名刺を持つ仕事を選んでからのことでしょう。

挨拶にしてもね、挨拶の仕方をやる前に「人と協力しあう仕事をする」というステップが先にあって、「そのステップをどうやったら円滑にできるようになるんだろう?」っていう、「本人からの需要」があって初めて本気で取り組めることなんだと思うんです。「本人からの需要」がないのに、施設側からいろんなプログラムを押しつけるのってどうなのかなと。

たとえば英会話教室のことを考えてみるといいかなと。

(1) 暇つぶしに何か新しいことをやってみたい人。
(2) なんとなく英語が話せるようになりたい人。
(3) 4週間後にアメリカにいく用事ができてしまった人。

たぶん、一番たらたらとやるのが(1)。そもそもが暇つぶしだから、ちょっとイヤなことがあると、「やめよっかなー」って思ってる(笑)。(2)の人は(1)よりはずっとがんばれちゃうんだけど、「まぁ、焦らなくても時間をかけてなんとかなればいいかなー」と希望的観測をしていたりする。当然だけど、誰よりも必死になるのは(3)の人。だって、たらたらやっていたら後がないんだから(苦笑)。

需要レベルが(1)<(2)<(3)という形になっているんだけど、たぶん同じ講義を受けていたとしても、密度は全然ちがうと思いますよ。就労移行支援事業にしたって、そのあたりの本質は同じだと私は思ってます。でね、言いたいのは「無駄なことにお互いに時間をかけるのはやめよう」ってことなんです。「聞きたくもない話を聞かされる人」→無駄。「聞きたくない人に話を聞かせる人」→無駄……ってことです。

これは私だけがそうなのかもしれないけど「自分と関係なさすぎる話」を聞くというのは、もうね、ものすごい苦痛なんですよ。さらにその上に睡魔と戦わないといけないという状況は地獄ですよ。そもそも「戦わなくてもいい睡魔」と戦っている時間って生産性ゼロですからね。睡魔と戦っている時間があるならもっと「自発的」に使った方がいいと思うんです。

もちろん「社会人になったら睡魔と戦うのも仕事のうち」って言いたくなっちゃうのは分かります。私だってそう思うから。そう言っちゃいたくなるから。でも、何のインセンティブもないうちに「ツライところから体験してもらう」っていうことの価値について、実のところ私はよく分からないです。

私だったら「そんなツライだけの社会人なんて、誰が好きこのんでなるか?」って思っちゃうもの。仕事そのものの「楽しさ」がまず先にあって、そこに相反する「イヤなこと」というのが出てくる。「楽しさ」の恩恵を享受するためには「イヤなこと」をなんとかしなくちゃいけない。そういう関係性があって初めていろんなノウハウが必要になると思うんですよ。ノウハウに需要ができるんです。

そんなわけで、私はね「フォーマット」としてのプログラムを先にやるんじゃなくて、「需要」だとか「モチベーション」とか「自己改善のきっかけ」みたいなものを、本人の中から掘り起こすところからはじめていきたいなあと思ってます。同じことをやっていても「楽しさ」があれば、体感時間は半分以下になります。ということは相対的に密度は2倍なんです。私の仕事シミュレート環境では、週末によくこんな言葉を聞きます。

「ああ、もう、こんな時間か。早いなあ。なんで明日は休日なんだろう?」

なんて。
これが数年前に自宅に引きこもっていた人のセリフとは思えません(笑)。
本当に嬉しい変化です。