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2012年6月27日水曜日

軽作業系は足りている


いろんな事情を抱えている人がいて、また住んでいる地域によっても違いがあることを理解した上で書きたいんですけど、比較的、軽作業とかの仕事って、支援したり仕事を開拓するための人材比率が高いような気がするんですよ。

たとえばね、「障害者が仕事するための作業所を運営しています。」って話を聞くと、知的障害の人たちが単調作業をして生活していくための施設だってことが多いんです。もちろん、これは私の知っている範囲で「たまたま」なのかもしれないけど。

この領域の話って、すごくよく聞くんですよねえ。有名どころではパン作り。他にも伝統工芸品作り、清掃業務、洗濯業務、洗浄業務、シュレッダー、バックヤードのピッキング。いや、今まで何度も書いているけど、これらの仕事がダメだとか言うつもりはないんですよ。

でも、細かいところでポリシーや手法の違いはあるものの、そういう系統の作業を支援する人はとっても多いような気がしています。まだまだそういうところに人材が必要だということも分かっているけど、私はその分野をあまり積極的にしたいなんて思いません。

なぜって、その分野の適性が私にはないから(苦笑)。単調作業は数分で眠くなっちゃう。それ以外にも「難しい顔で挑まないといけない会議」とか、実は精神的に大きな負担なんですよね。話題が頭に入らないのに眠気と戦う……って、一体なんの罰ゲームだと思うくらいです(笑)。

……と、そういう話も含めて、正直な気持ちを白状してみると、だいたい次の通りです。

・私が興味のもてないことに人生の時間を費やす意味を見いだせない。
・私が今まで蓄積してきたノウハウを活用しないことはもったいない。
・そもそも他の人がやらない領域にこそさまざまなチャンスが転がっている。

だから、「メンタル」+「ストレス対応」+「ITスキル」というハイブリッド技ができる領域を私は志向しています。力自慢の人たちがたくさんいるところに力自慢が入っても、そこでの価値は薄められるだけです。大多数が向かわないところに異端者が行くから価値が高まるんだと思います。

私は小さい頃から「人と同じことをやりたがる」ふりをしながら、「必ず人と違うことをしたい」という気持ちが強かったり、「気がついたら人と違っていた」という天然な結果が多くありましたが、まぁ、それも個性さ……ということで、今はけっこう助かっています。

そんなわけで、私は「積極的に頭を使わなくてもよさそうな領域」ではなくて、「とびっきり頭を使わなくちゃいけない領域」を全力で開拓していこうと思っています。それも「ラクをして」という要素は絶対に外せません。メンタルな人が快適に頭を使って幸せな生活が送れたらなと。

ホント、こういうことを考えているとワクワクします。もしかすると、今、私が携われている仕事というのは私にとって天職なのかもしれません。

2012年6月20日水曜日

職業選択の自由のために

メンタルでお悩みの障害者周辺の就職事情で、大きな課題は「実質的に職業選択の自由」が限られているということ。これには課題がふたつあると思っています。(「身体障害」だったりすると、比較的障害者手帳を持っていない人と同等のクオリティの職業に就きやすかったりします。)

(1) メンタルというだけで企業側が「軽作業」「事務作業」「清掃」に職域を絞ってしまう
(2) そもそも支援者に専門職(IT、経理、法務など)の経験者がおらず選択肢を知らない

私が考えている「職業選択の自由」に関する課題はこのふたつです。

まず、(1)から考えると、必要なスキルを持っていたとしても、オープン(障害手帳を持っているよ……ということを企業にカミングアウトすること)で就職を狙ってみても、求人票をみると「コピー機使えますか?」「シュレッダー使えますか?」というリクエストが多かったりします。なんとも残念な現実です。

ただ、その一方で、(2)の課題も残念だと思うんですよね。「選択肢をしらない」ということは、本来であれば「適性」があったかもしれないのに、知らないせいで「人生レベルの機会損失」をしている可能性があるということですね。この課題を何とかしたい……というのが、私が「即戦力ITコース」をやっている理由だったりします。

現実的に(1)の課題は重いものです。で、「がんばってみても『出口』がないのでは、どうしようもないではないか」といわれてしまうと、現時点においては確かにそうかもしれません。しかし、それでも(2)から始めなくてはいけないのです。なぜかといえば、(2)から解決しないと、(1)の課題にアプローチできないからです。

企業に「『軽作業』『事務作業』『清掃』以外の人材を雇ってください」とお願いしたところで、現実的にそれに該当する人材が少ない状況では、それまでなんですよね。また当事者が「社会環境が整ったら○○の仕事をしたい」と思っていても、おそらく受け身のままの姿勢では百年たたないと状況が整わないかもしれません。

しかし、たいていの人生は百年も生きられません。そしてまた、「生まれ変わって次の人生を体験できる」保証なんてどこにもありません。ほぼ、「そんなことは現実にない」と思っておいた方が一般的には無難でしょう。だから、今の人生を無駄にするなんてことはもったいないんです。幸せに生きる可能性に賭けた方がいいんです。

そうならば、社会を積極的に変えることに力を使った方がいいというのが私の考え方です。しかし、私が考える方向性は「障害者の権利擁護」とは全く関係のないものです。むしろ、本気で「職業選択の自由」を勝ち取るためには「障害者の権利擁護」からスタートすべきでないというのが私のスタンスです。

「被害者意識」から得られるモノは少ないことを知っておくべきだと個人的に思います。基本的に「被害者」が「かわいそう」という理由で企業は動いたりしません。障害者の雇用に熱心な企業でも、本質的には銭勘定で動いています。そうでなければ、企業が厳しい社会情勢の中で生き残るわけがないのです。

すると、企業を動かす本質的な力はなんなのか?……ありていに書けば「その企業にとっての利用価値が高いかどうか」に尽きます。これは障害者手帳の有無に関係なくそうでしょう。障害者を雇用すると国から様々な助成金が企業に支払われます。つまり雇用そのものについては障害者の方が企業にとって有利といえると思います。

あと、必要なもの。それは、「障害者手帳を持っていない人と渡り合える人材」という条件です。「障害者手帳を持っていない人と同等」で、「雇用コストが障害者手帳を持っていない人よりも低い」ということが事実として常識になれば企業の意識は間違いなく変わるでしょう。障害者手帳オーナーの方々、これを聞いて「無理だ」とあきらめますか?

私はこの可能性を大まじめに追いかけてみようと思っています。私は7月から今とは異なる新しい道を歩き始めることにしました。社会を変える可能性のある人たちと本気の冒険に出るんです。冒険の記録はブログに書いていきたいと思っています。ついてきてくれる勇気のある仲間が「勇者様」になれる日まで私は走り続けます!

2012年6月13日水曜日

「ボランティア=無償」を考える


このブログではほとんど枕詞になりつつありますが、私は就労移行支援の仕事をしています。でも、「慈悲」とか「ボランティア」という言葉にはあまり興味がありません。まず、「語感」が苦手です。もちろん「ボランティア」って大事なコトですよ。でも、苦手なんです。

なぜ、こんなに「ボランティア」という響きが嫌いなのかというと、どことなく「自分はいいヤツだ」とか「わざわざやってやってあげている」という言外の含みを感じるからです。はい、たぶん私のヤッカミなんだと思います。けっこう私は心が狭いですから。ヤッカミの理由は後ほど。

……と書くと、「じゃあ、お前はお金のためにしか動かないのか?」と聞かれるとそうでもありません。むしろ、お金のことを度外視してやったこともたくさんあります。ただ、それでも、私は「ボランティアをしました」とはいいたくないんです。

それをなんと呼ぶかといえば、あえていうなら「道楽」です。「ボランティアでゴミ拾いをしました」といわれると、「すばらしいですねえ」っていわないといけない気持ちになるけれど、「道楽でゴミ拾いをしました」なら、冗談まじりに「暇なんですか?」くらいで返せますからね。

つまり、「ボランティア」という言葉には「暗黙の賛辞の要求」がセットになっているような気がするんです。あえて「ボランティア」という言葉で自分の善行をアピールする必要なんてどこにもないんじゃないかと。善行はさりげなく、誰にも気づかれないのがたぶんかっこいいです。

それから、「ボランティア=無償」というイメージがつきまとうのも、私としては微妙な気分になるんです。最初から「無償」であることを暗黙の内に期待されてしまうと、ついつい「衣食足りて礼節を知る」という言葉を思い知らされるわけですよ。ホントにいやおうなしに。

だって、「無償」という旗印を堂々と掲げられてしまうと、私の価値観では「ボランティア=金持ちの道楽」という定義になってしまうんです。家族を食べさせていくだけでいっぱいいっぱいの自分が「道楽」どころではないだろうと。そんなことをしている暇があったら働け、自分。

たまに家庭の困窮も顧みず、ボランティアに身を投じる方の話を聞きます。そういう場合、その周囲の人たちも賛辞を送るのが普通です。でも、私の価値観では「アホか!もっと先にすべきことがあるだろう!」と思ってしまうのです。現実から逃げているようにしか見えません。

そもそも、ボランティアの価値を最上級に考えない方がいいと思います。たとえば、医療研究者がボランティアで、難病の子供達のために「千羽鶴」を折るようなことがあってはいけないと思うんです。そんな暇があったら「医療研究」に打ち込んでくれた方がいいわけで。

何度も書いておきますが「ボランティア」を否定しているわけではないです。できる余裕のある人はどんどんやるといいと思うんです。世の中との接点が少ない学生さんとか、老後の時間とお金があり余っている方々とか。私もそんな立場ならやってみてもいいと思います。

その上で私は宣言しておきたいと思います。私は「無償」を前提とする活動には、「私の夢」を果たすまでは一切参加しないつもりです。私の夢は、「障害手帳を持った人が全力で勝負できる環境を切り開くこと」と「家族に経済的な苦労をかけずにすむようになること」です。

私には描いた夢を現実に叶えるため、時間とお金が必要なのです。夢を現実化させるために家族との時間を少なくせざるを得ませんが、その貴重な時間を「お金にならないこと」には使えないのです。自分が心から目指していきたい夢そのものにもお金がかかるからです。

ずっと考えていましたが、私は「お金にならないボランティアなんて一切やらない」と宣言する勇気を得ました。普通に考えたら「なんて公共心に欠けた人だろう」と批判されても文句は言えません。それでも、選択と集中をしていくために「綺麗事」はやめることにしました。

しつこくなりますが、「ボランティア」が悪いというつもりはありません。でも、考えるべきだと思うのです。その「ボランティア」の先に「本当の自分の夢」があるのかどうか。あるのならいいんです。しかし、「かっこつけ」とか「断れなくて」だったとしたら、やらない方がいいと思うのです。

私は「ボランティア」の感覚ではなしえない、「私にしかできないであろうこと」に全力を傾けていこうと思います。公共心がないと思われるかもしれませんが、いつか、私の行動が「大きな回り道」をした後に、社会変革の一要因になれれば嬉しいと思います。