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2012年1月22日日曜日

旅立ちを見送る


訓練生は私と一緒に就労訓練の日々を過ごし、そしていずれは卒業していく。「寂しくないか?」と聞かれれば、正直なところ否定できない。しかし、やはりそれ以上に卒業してもらえるのは嬉しいものだ。その先には自由に生きられる人生が広がっている。今まで体験したことのない厳しさと楽しさを体験することだろう。

今まで一緒に日々を積み重ねてきた仲間たちと、卒業後、どのようなスタンスで付き合っていくのか・・・という考え方は人によってさまざまだ。私の場合は、卒業して離れていった人たちとは一定の距離をおくことにしている。「卒業しても遊びに来なよ!」と、本音では言いたいところだが、私はあえてそれを言わない。むしろ、「来るな!」・・・という感じだろうか。

・・・と、書くと、「自分の影響力が及ばなくなった人に対しては冷たくなるのか?」と思われてしまいそうだが、実はその逆だ。むしろ、私は「私自身が与えてきた影響力」を彼らから取り去ってしまいたいと思っている。私と一緒に過ごした日々は「過去の日々」だ。卒業したらそこからが「現在の日々」を生き続けることになる。

私自身、実際のところ大層な人物ではないのだが、少なくとも、「人生を賭けている人たち」から見れば、私のことを「目の前にぶら下がっている、たった一本の蜘蛛の糸」のように見ている可能性を自覚している。その自覚こそが、「本当に世の中に役に立つ人材になってもらわなければ!」という私自身の使命感につながっている点でもある。

私の使命感はさておいても、初期の頃は「影響力」はある程度は必要だと思っている。「この人についていったら未来が開けるかもしれない!」という希望が必要だ。人間にとって「前が見えない時」が一番つらいわけだが。そんな、何を信じていいか分からない時期に「盲信的」になれる対象が目の前にいることは重要だと考えている。

どれだけ頭で考えても未来は見えない。すると、考えれば考えるほど不安になっていってしまうものだ。しかし、「とにかく目の前のことを一生懸命やってみよう!」という精神状態にあれば、どんな不安に対してもある程度は立ち向かっていける。誤解を恐れずに白状すると、私は、私の価値観に共感してくれる人だけを支援することにしている。

私の価値観と真逆を向きすぎている人は相手にしない。「勉強」にたとえて言えば、私は「勉強したくない人」に「勉強をしたくなるように仕向ける」という労力を割くつもりはないということだ。基本的に、私は「自分から勉強したい」というスタート地点に立っている人にしか時間を使う気がない。私の価値観と真逆の方向に向かいたい人は、きっとその人に合った支援者が日本のどこかにいるはずだ。そして、私にはできないことをやってくれるだろう。

別に私は教祖のようになりたいわけではない。ただ、「信じてもらえないと、そこからどうにも進めない」というのも事実なので、結果的には「少なからぬ影響力」を獲得することになってしまう。しかし、私があえて影響力を行使するのは、「訓練の場」という狭い空間においてだけだ。うぬぼれも多少は混じっているが、私は訓練生の人生における「カタパルト」のような存在だと思っている。

「カタパルト」というのは、地上の滑走路に比べて滑走距離の短い洋上の空母から、戦闘機が飛び立つために勢いをつけて後ろから戦闘機を押し出すための仕組みだ。カタパルトが戦闘機を押し出す時に、戦闘機がその勢いに逆らってしまうと上昇に必要なだけの速度を確保できない。素直に加速しなければ墜落してしまう。人間も飛翔するときには「素直さ」が必要だ。

しかし、飛翔することに成功したら、そこから先は飛ばされた方向に一直線に飛ぶのではなく、自力で方向を決めて飛ぶべき方向に向かって操縦できなくてはいけない。カタパルトは「勢いをつける」ところまでが仕事なのだ。確かに私が「人生のきっかけ」になることはあるかもしれない。しかし、さらにその先にまで影響したいとは思っていない。

なぜなら、飛び立っていった彼らには、「私の価値観」ではなく「自分自身の価値観」で飛行してほしいからだ。そのためには、卒業後はなるべく私の価値観が影響しないようにしたいのだ。もちろん、私と一緒に過ごした日々の中で体得した価値観もあるだろう。しかし、それは、すでに彼らが獲得した彼ら自身の価値観なのだから、それは大事にしていってほしいと願っている。

#「来るな!」と書いたものの、それでもたまには会いに来てくれて、元気な顔を見せてくれたら嬉しいんだろうな・・・と思う。

#「卒業」を見送るだけじゃなく、「仲間」として一緒に仕事をしていく方向性も本気で考えている。これからもずっと仲間として。