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2013年3月24日日曜日

障がい者……利用者様……


◆障害を巡るいろんな呼び方

私は、過去に何度か「障害者」、「障がい者」、「障碍者」の表記について思うところを書きました。私は「障害者」派(?)です。言葉狩りをしても本質的には何も変わらないし、同じ意味なのに表記をコロコロ変えてしまうと、障害者自身が困ってしまうことも少なくないことが分かっているからです。

文字の認識について障害を持っている人から見れば、パンフレットに「当日は障碍者手帳を忘れずお持ちください」と書いてあっても、目の前にある手帳には「障害者手帳」と書いてあるわけです。「……あれ?……この手帳じゃないのかな?……ええと、そもそもこれ、なんて読むのかな?……しょう……ぎ?……とく?……てちょう?」と。

まあ、このあたりはいつも微妙なところで、結局、議論をしたところで「誰に合わせるのか」というところで結論はでないのですけどね。だって、私が「障がい者」という文字を読むと、なんとなく馬鹿にされてるのかな……って思ってしまいます。どうせ、「害」の字が読めないのだろうと思っているのだろう……と。

それでも、「障害」以外の表記の方が無難といえば無難なのかもしれませんけどね。なぜなら、そもそも「障害」の「害」の字を外せと言い始めたのは障害者の一部という説もありますから。もちろん当事者によっては「そんなもん興味ねーよ」と思っている人もいます。気にする人もいれば気にしない人もいるよ……というそういう次元の話です。

答えの出ない「障害者」表記問題はおいておくとして、最近、個人的に気になっている表記があります。近年、急速に障害者を対象とした就労移行支援事業所が増えてきているわけですが、ここで利用者を呼ぶ場合の表記が事業所によって微妙に違うことに気づきました。「利用者のみなさん」、「利用者」、「利用者様」……と。

◆「働く」=「お客様」?

この中で私が一番気になったのは「利用者様」です。これ、とても理由は分かるけど、その一方で個人的には違和感があります。たぶん、その事業所は「第一のお客様」を「利用者」と定義づけているんだろうなと思います。もしくは、へりくだった立ち位置で「自分たちは、自分たち以外の方々のためにあるのです」的な。だから企業に対しては「企業様」と呼んでいるのかもしれません。

話を進める前に書いておきたいのですが、私は「利用者様」と表現している事業所を馬鹿にしているわけではありません。ただ、どうして「様」を付けているのかな……と、その理由が知りたいというか、あくまでも個人的好奇心を刺激されただけなんです。その先にどういう価値観があるのかなあとか、そのあたりが知りたくて知りたくて仕方がないだけなんです。

さて、私が考える就労移行支援事業とは、「利用者」が「自立心」を持って「社会の一員」になれるための手伝いをすることです。社会の一員ということは、細かい形態はどうあれ「職場」で活動することになると思います。職場からの立場で考えて一番困る人は「何にもできないことを当たり前のことのように振る舞い続ける人」です。

いろんな職場で障害の有無に関係なく、こういう人によくかけられる言葉があると思います。「君ね、いつまでもお客さん気分じゃ困るんだよ」……と。働くということは「サービスを提供する側」に回ることです。サービスを提供される側がお客様です。つまり、働くための訓練や支援は「お客様」から脱却するためのステージだと思うんです。

で、いつかは「お客様」を脱却した「社会の一員」になっていこうと思っているはずなのですが、それをトレーニングするための場所で「利用者様」と「お客様」扱いを受けていると「脱皮」が難しくなったりしないのかな……と思ったりもします。きっとここらあたりの戦略が違うから、あえて「様」付けしているんだろうと思うのですが、やっぱり私には分かりません。

◆お客様には極上の居場所を……

ものすごーくシビアに現実的に考えれば「利用者」は就労移行支援事業所から見れば「一番のお客様」です。なぜなら、利用者が事業所を利用してくれることによって、貴重な税金の中から助成金として事業所は収入を得られるからです。そんな利用者を「絶対にしあわせにしたい!」と思う気持ちは私も同じです。でも、だからといって「お客様」……は違う……かな。

誤解を恐れずに書けば、「利用者は成長してとっとと社会へ出て行け!」というやり方が正しいのかなと思っています。もちろん分野によっては時間をかけてスキルアップしていくことが大事です。むしろ私が行っているいくつかの講座や試みは「長期的育成」に関するものです。それでも、基本的には「できるようになったら、とっとと社会に出て行け」というスタンスが正しいと思うのです。

利用者を「お客様」扱いして、とても居心地のいい「居場所」を提供するのは就労移行支援事業所のミッションではないんじゃないかなと思うのですね。むしろそのあたりは、地域活動センターとかデイケアとかそのあたりのお仕事なのかなと。それよりは「今よりは居心地が悪くなるであろう」職場に耐えうるためにも、早期にシミュレーションが必要なんじゃないのかなと。

それから、過去に私が関わった就労移行支援の現場で過去にこういう事例もありました。確か発達障害でお困りの方だったと思います。ものすごく頭が切れて回転もいい方だったことを記憶していますが、その人が利用者を結集して「自分たちの思い通りにさせろ」という抗議活動を始めようとしました。就労移行支援事業所の中で自治権を持たせろというのです。

「最終目標はすこしでも早く就職して、ここから出て行くことですよね。要求は最終目標からズレているし、ここの方針がイヤなら、他にたくさん就労移行支援事業所はありますよ。」と伝えたときに、彼の口からこぼれた言葉があります。「私たちのおかげであなた方は給料をもらっているのでしょう?だから私たちの要求を聞くべきです!」と。

◆権利主張は大切だが……

彼との話し合いは平行線を辿り続け、結果的には就労移行支援事業所の利用を中断していただくことになりました。最後まで「労働者は労働環境を変える権利がある」と訴え続けていました。「ここは職場なのではなく、職場で活躍するために必要なトレーニングの場ですから」……という言葉は最後まで理解されなかったかもしれません。

しかし、その時、自分の中で無意識に行っていたことを反省しました。「個性から生まれそうな可能性」を大切にしようとするあまりに、私は当時、利用者を「お客様」扱いしていたのです。嫌われないように、嫌われないように。いつでも気持ちよく通えるように。そして、創造性豊かな発想力にはなるべくブレーキをかけず、まずはとにかく成功体験と自信を持ってもらおう……と。

これは障害者手帳の有無に関係のないことですが、あまりに根拠のない自信が蓄積し続けると、人は時として「自分の価値観が絶対的に正しい」と思い始めます。そのエネルギーは洗脳的ですらあります。「こんなに努力をしているのに」、「こんなに貢献をしているのに」、「認めないのはアイツに能力がないせいだ」、「社会が悪いから自分は報われないのだ」……と。

権利主張は大切なことです。大切だと重要性を十分に理解した上で書きますが、私は権利主張が大嫌いです。権利主張は「頭を使わなくてもできる」ことだからです。そして「自分の責任を果たさなくてもできる」ことでもあるからです。その時から私はできるだけ、利用者に対して「お客様」扱いしないように心がけるようになりました。

権利主張というのは「戦い」です。相手から妥協を引き出すための戦いです。自分の非を認めると戦いが不利になるので、基本的には自分の非を認めません。「当然の権利」を手にするために戦うのです。しかし、最初から対決姿勢を好む人間を雇用したいと思う企業があるでしょうか。おそらく多くはありません。だから権利主張を我慢することも大事なトレーニングの一環なのです。

◆なぜ「利用者様」なのだろう?

そういう意味で「いやならいつでも『自分の意思』でやめてもいいんだよ」というスタンスを持つ事業所の方が私は好きです。変にお客様扱いをして、結果的に「職場とのズレ」で苦しませる結果になるのも気の毒ですし、「権利主張」を振り回しすぎて社会から煙たがられる存在になっても、やはり気の毒だと思うのです。

物事の「呼称」には「ポリシー」が宿ります。どのような何気ない言葉だったとしても、そのひとことの端々には理念が宿ります。私は、「利用者様」という言葉を使う事業所のポリシーというか理念を知りたいなあと本気で思います。なぜなら私が理解することの難しい価値観だからです。それを説明してくれる人がいたらじっくりお話ししてみたいです。

2013年3月17日日曜日

弱さを認めることと甘えること


◆「弱さ」と「甘える」こと

最初に書いておきます。私は強い人間じゃありません。どちらかというと弱いです。いや、圧倒的に弱い。どれくらいに弱いかと言えば、お金をつい使ってしまいそうな誘惑に負けがちなため、必要のないときには財布に多くのお金を入れないようにしているくらい弱い人間です(苦笑)。だから予想外のタイミングで飲みに誘われると思わずコンビニATMを探す有様です。

あと、行動力もだいぶ弱いです。だから、いつも行動予定をある程度たてて、それに沿って進まないとつい怠けたり、遊んだり、そして無駄に休憩してしまったりもします。「自分の弱さを認めていてよく知っている」からこそ、その対応策を立てることがとりあえずできています。そうしないと私はひたすら怠惰な道に流されていくことでしょう。

「弱さ」と「甘え」をセットで考えている人が、わりと多いような気がします。「弱さを認めること」=「甘え」の図式で生きること、それは自分の足で立とうとする意志を否定していることになると思うんです。だから「弱さを認めること」=「甘え」=「仕方ないじゃないか」じゃダメなんです。

あ、もうちょっと正確に書きましょう。「ダメ」じゃないです。今のままでも十分にしあわせで、これから先も今のままで十分にしあわせだとするなら、そのままでいいのです。今、私が話をしている相手は「今よりももうちょっとしあわせな未来を生きたい」と思っている方々です。

◆情に訴える生き方をやめよう

基本的に「弱さを認めること」は重要だと思います。さらに踏み込めば、それを公開することも重要でしょう。私なりに理由を考えるとふたつあります。ひとつめは「自分の弱点を知る」ことによって対策が考えられるからです。ふたつめは「弱点を公開する」ことで精神的に堂々とできるからです。ある意味で「脱皮」ができるのです。

しかし、この「弱点を公開する」という意味をはき違えると、結局、「変化のない人生」が続くだけなのだと思います。「私には弱点があるのだから仕方がないよね?」という正当化の盾にしてしまえば、そこからの成長はほとんどないからです。「ありのままのあなたでいい」というのは、何もしない人にかけていい言葉ではないと思うのです。

私は、自分の弱点を盾にして情に訴えようとする生き方が好きではありません。なぜかといえば、それが30歳までの私の生き方と同じだからです。うまくいかないことを、自分のハードウェアと環境の責任にしていました。「身体が強くない」だの「頭が良くない」だの「顔が良くない」だの、その理由を旗印にして前進を怠っていたような気がしてなりません。

誰かに「自分の才能のなさ」や「運のなさ」を嘆いてみては、慰めの言葉を心地よく受け止めつつも、それを決して受け入れようとしない。私はその当時の私の生き方が大嫌いです。ただ、その一方で感謝もしています。私の「現在」というのは、そういう「過去」の上に成り立っているからです。だから、同じ思考に逃げてしまう人の弱さと気持ちがよく分かるのです。

◆自分の人生を掴めるのは自分だけ

結局、当時の私に温かい言葉をかけてくださった方々にはずいぶん迷惑をかけてしまったと思います。一体どれだけの精神力と時間を費やしていただいたのでしょうか。結局のところ、そのスパイラルから抜け出すのは「自分で変わろう!」という自分の決意以外になかったのです。これには「大きな痛み」を伴います。生半可な痛みではありません。

今まで自分が寄りかかっていた「価値観」を捨てることは、自分の身体の半分を捨てるにも等しい痛みを伴うのです。だから、「自分から変わろう」という話をしたときに、「それでは、本当に自分ではなくなってしまう」という人がいますが、その気持ちも痛いほど分かります。「自分を守ってくれる言い訳」を捨てることはそれほど容易ではありません。

「自分はダメな人間」である……その理由は、「自分はダメな人間」であるからだ。これは、まったく論理性も客観性も欠いており、ただそう思い込みたいという「負の信仰」です。正しかろうが、間違っていようが、自分を定義づける「信仰」を変えることは「本当の自分ではなくなってしまう」という危機感を伴います。本当の信仰とそれほど変わりません。

しあわせならそれでかまいません。今のままでかまいません。今の人生が輝いていて、どこにも一点の悔いもないのならそのままでいいのです。しかし、もし、「このままではいけない」と心のどこかで考えているのなら、痛みを受け入れる覚悟が少しでもあるのなら、私はあえてハッキリ伝えたいと思います。

◆「本当の自分」なんて捨ててしまえ!

今の自分が「しあわせな人生を送っていない」のだとしたら、半分以上は「自分自身の責任」です。自分自身が愛してやまない「本当の自分」などという存在です。その「本当の自分」とやらのおかげで、納得のいかない人生を送らされているのです。「人生を送らされている」って、誰に?……それもまた「現状の自分自身」だったりするのです。

本当の自分なんて捨ててしまえ……と聞くと、物騒なことをいう人もいます。「それって死ねってこと?」……もちろん違います。「自分を変えることは、死ぬことと同じだ。だから死ねってことなんでしょう!」……という気持ちは分かります。ええ、分かります。その気持ちは分かりますが、残念ながらそれは正解じゃありません。

ゲームだと思って、だまされたと思って一度やってみてほしいのです。「自分自身は死んでしまった」というつもりで、「しあわせそうな自分を演じる」ということを。「自分自身の弱さを、まるで他人事のように笑い飛ばす自分」を演じてみてほしいのです。「弱さの公開」とはそういうことだと私は思います。その瞬間に弱さは「自分自身」と切り離されるのです。

そう、今、大事に守ってやろうとしてやっている「本当の自分」こそが本当の敵なのです。そいつは「自分が何もしなくてもいい理由を探し出すプロ」です。「本当の」などというたいそうな肩書きでごまかしていますが、たいしたヤツではありません。「自分の弱さ」を「甘え」に変えてくる「本当の自分」なんて捨ててやればいいのです。その結果、やってくるのは「本当の自分」ではないかもしれませんが「大好きな自分」かもしれません。

2013年3月11日月曜日

ユニバーサルな説明


◆基本的にはユニバーサルがいい

世の中はユニバーサルであった方がいいと思っています。特別に「障害に配慮する」というのではなく「誰にとっても配慮されている」ということが理想です。しかし、これで何でも解決するのかといえば、そんなことはありません。本質的に「完全」なユニバーサルは困難だと思っています。

一例をあげれば、私は技術的なことを説明しなければならない時に、いろんな「たとえ話」を活用します。個人的な理想としては「子供でも理解できる説明」ができることです。しかし、それすらも「ユニバーサル」ではありません。なぜなら発達支援が必要な方々の中には「たとえ話」を理解すること自体が困難な方々もいるからです。

私は千葉の市川市で、発達支援が必要な方々が幸せな就職をできるようにする仕事をしていますが、その説明会で親御さんから苦言をいただくことがありました。「発達障害に特化していると聞いて来たのですが、うちの子にあった説明でなかったのが残念でした」と。

せっかく足を運んでくださったのに、率直に申し訳ないと思います。ただ、発達障害というのは人の数だけ違います。いくらかの「傾向」はあっても、その強度や方向性、それから複数の「傾向」の重なり方から何から何まで違います。発達障害の特性は「ひとこと」で語れず、「うちの子」が抱える課題も多様すぎる事象の一個性なのです。

理想を言えば、それぞれ個別に説明できるのが一番いいのでしょうが、説明会という「一対多」という状況での伝達手段には限界があるのかもしれません。どこかにターゲットを定めてしまうと、どこかに支障が発生してしまうのです。誰かに対して「わかりやすく」伝えようとすると、そこにはまらない誰かにとって「分かりづらく」なってしまうのです。

さらに言えば、本当に来てほしいと思っている層にまっすぐメッセージを伝えたいのに、そこを下手に情報保障してしまうと、肝心な「来てほしい」層を獲得できず、「想定していない」層を取り込んでしまい、講師と利用者の双方が身動きできない状況を生み出してしまうかもしれません。

◆まずは「想定する層」に呼びかける

そこで「冷徹」な考え方についても検証してみたいと思います。それは「どんな人でも限りなく受け入れられるわけではない」ということです。たとえば障害特性というよりも人格的な部分で施設利用が困難な人もいるでしょうし、理解力という部分で職員のフォローが追いつかない人もいるでしょう。

これは実はものすごく大事なことで、「支援者としてお役に立てそうな対象者」を選別する必要があるのです。「選別」というと非常に刺激的な意味を伴って伝わってしまうかもしれませんが、要するに「当事者の利益が確保できないことはしたくない」ということなのです。貴重な人生の時間と受給期間を無駄遣いさせてしまってはいけないのです。

ここに松下が書くことは「就労移行支援事業所としての公式見解ではありません」が、少なくとも私が担当するコースにおいては、「何かひとつでも発見を持って帰ろう」という人だけに集まっていて欲しいのです。もっといえば「後ろ向きな気持ちを前向きにする」というところにエネルギーを割きたいとは考えていません。

そして「最低限の線引き」というのを分かりやすく説明しておく必要があるとも考えています。すなわち、説明会の時点で「この話が理解できない人は対象者ではありませんよ」という意図を伝えることです。もちろん無駄にハードルをあげるつもりはありませんが、最大限平易な表現で伝えてみて「理解されなかったら仕方がない」というスタンスです。

分かりやすい話をしましょう。たとえば私のコースを受けるための最低条件は「日本語が分かること」です。ここで「どんな国の人にでも機会は均等に提供すべきだ」と主張されたとしても、私にはどうしようもありません。私の意思をある程度誤解なく伝えるために、私が使える言語は日本語だけだからです。

つまり、私が想定している範囲を大幅に超えてしまっている方々に対して、有効に「お役に立つことができない」のです。この想定の種類は、言語だけにとどまらず、興味特性、最低限の知識……など多岐にわたります。

◆理解できないけれど興味のある人をすくう

そういう意味で個人的な本音を書くと、第一においでいただきたいのは「私がお役に立てる可能性の高い方々」だということです。つまり、私が説明会で話した内容を理解することができて、それを聞いて魅力を感じていただける方なのです。逆にそうでないと、せっかくおいでいただいても続けることがツライと思うのです。

先ほど、「来てほしい」層と「想定していない」層の話がありましたが、これも言い換えると「お役に立てそう」な層と「お役に立てなさそう」な層ということです。「それなら、どうして最初から条件を明らかにしないのか?」という質問が出そうですが、これについては理由があります。

それは、「理解はできないけどおもしろそう」と思ってくれた方には、一生懸命ご案内しようと思っているからです。だから、私は最初から条件を明確にしないのです。たまたまその条件の内容が理解できないために、その後の可能性の芽まで摘み取るようなことはしたくないのです。

ただし、残念ながら「まったく興味がない」という人まで引っ張る余力が私にはありません。時間ももったいないですし、本人が興味を持っていないのに無理に引っ張り上げようとするのはお互いに不毛なことです。「才能や能力がない」わけではなく「たまたまご縁がなかった」だけに過ぎません。

私はなるべく多くの人の可能性を信じたいと思っています。そして、それが伸びるきっかけになれればいいと願っています。だからこそ、そこに全力を注ぎ込みたいと思っています。逆にいえば、そこに乗れない方々については、お互いの利益のためにも慎重な対応が必要だとも思っています。

私がもっとも誠実ではないと思っていることは、「お役に立てなさそう」という予測があるにも関わらず、あたかも希望があるかのような対応をすることです。そして、お互いの時間と気力を無駄に浪費させることです。だから「本物の情け」として「お断り」という選択もあると思うのです。

なお、これは単なる「個人的な考え方の中のひとつ」に過ぎません。これをもって私の結論というわけではなく、私の中にはこれと異なる他の考え方もあります。つまり、私は思考にいくつかの選択肢を持っているのです。その中から「こういう考え方もある」ということを紹介させていただきました。

2013年3月3日日曜日

内面から燃え上がるような講座


◆カリキュラムありきではない

たまたま「発達支援が必要な人たちに『自己解決力』を伝える仕事」をしていますが、何度も書いているように、これは別に何かのハードルを持っている人たちだけに必要というものではなく、どんな人にも必要なスキルなんですよね。だから、私にとっては対象者が「たまたま発達支援」という印象が強いのです。

それはともかくとして、私がどのようにして受講者の「自立心」を磨いていくのか……という技法について興味を持っていただく方がいらっしゃいますが、実のところ、そんなにテクニカルなスキルはあまり持っていないような気がします。私が講義をするにいたって、一貫しているポリシーは「自分自身も楽しめること」だったりします。

ぜんぜんテクニカルな話ではなくて、ぶっちゃけ「欲望」に忠実なだけという感じですかね。私はまず「楽しむ」ということをスタート地点にしたいのです。難しそうに眉間に縦ジワを作って、当たり前に難しい話をしたところであまり意味がないと思うんですよ。そういう人は探せばいくらだっているわけですから。

私にとって「楽しむ」というのは、来てくれている受講者の「いいところ」が表面に出てくる時間を過ごすことです。だから、私はいつも受講者の顔ぶれをみて、その場で「テーマ」を決めています。もう少し具体的にいえば、「どういうことを知りたいか」という話を簡単に聞いてから、その日の内容を決めています。

しかし、毎回、受講者の顔ぶれは変わってしまいます。だから、私は、カリキュラムを作りません。作ったところで無駄だからです。さらに言えば「発達支援が必要な方々」という対象を考えたら、まさにそういうレールを苦手とする人も多いともいえます。つまり、従来と同じアプローチではいけないということにそろそろ気がつかなければならないと思うのです。

◆問題は「楽しさ」に火がつくか

世の中の管理者は「○月頃にはこれくらいできていて……」というレールをどうしても引きたがるように思います。もちろん、行政から税金をいただいて運営する以上、行政が安心できる計画案を持つことは重要かもしれません。しかし、所詮、それすらも、「他人が決めた目的」で「他人が決めた納期」に過ぎません。

私は思うのです。今までの学校教育の中でもずっと、こういうことが繰り返してこられたはずです。学校教育の指導要領の中で、期間を決めて、その期間内に学びきらなければ「落ちこぼれ」という烙印を押す仕組み。私は、そういうレールに乗ることが苦手な人に対して、そのレール以外の方法を提供したいのです。

すると、通り一遍の「同じ目標と納期」……いわゆる、シラバスとかカリキュラムは意味をなさなくなってしまうのです。「同じ品質の人材を、量産的に養成する」という軍隊式ではだめで、その人の「長所」とか「ピーク」をひたすら磨いた方がいいのです。この「長所」や「ピーク」というのは「楽しいこと」ということに他なりません。

実は今までお目にかかった受講者の中にも、才能がありそうに見えた人がいました。その方はIT関連の技術を猛烈な速さで吸収していきました。しかし、それだけではダメだったのです。いつまでたっても「楽しさ」につながらないまま、ただただ消耗していきました。「できる=楽しさ」でなければ、まったくその人の人生にはプラスにならないことを知りました。

つまり、逆にいえば「楽しさ」を掘り出せることが、どれくらい重要かということなのです。ただ、よく勘違いされるのは、「『趣味』を『仕事』にすればうまくいくだろう」という考えです。これは、正しいように見えて、実は違うことが少なくないようです。

私自身、そのことに気づくまでには、この就労移行支援関連に携わってから数年を要しました。「知らないうちに仕事が趣味になっていることが人生のしあわせ」というポリシーは今でも正しいと信じていますが、その逆が短絡的に正しいわけでもないのです。

◆「趣味=本当の楽しさ」ではないことがある

たとえば、「マンガを描きたい」とか「小説家になりたい」という人がいますが、それが本当の「楽しさ」ではないことがあります。あえて酷評をしますが、そういう人の作品を見せてもらうと、素人目に見てもどうにもならないほどの低いクオリティであることがほとんどです。そして、たいして作品の量も多くありません。問題はその駄作を見て「駄作だ!」と伝える勇気、伝えられる勇気がないことです。

本当にプロになろうとする覚悟があれば、「見せるべき人に見せて、言われるべき酷評をされる」はずのところですが、そこをそうしないのです。つまり、「正しくクオリティを上げていこう」と思えるほどのものでなくては「本当の楽しさ」ではありません。つまり、まったくクオリティの上がらない「趣味」は、残念ながら「仕事」ではなく「時間つぶし」にしかならないのです。

なぜ、「好きなこと」が「時間つぶし」になってしまうのかといえば、本当に夢中になれるほどの「何か」をみつけるための選択肢が少なかったからだろうと思います。そこで、私が提供する講座では、とにかく、「楽しいこと」の種類をたくさん見ていただけるように心がけています。すると、「生半可な夢」よりも、本気で追いかけてみたい「本当の夢」が見つかることがあるのです。

だから、私は「ひとつではなく、いろんな可能性を見つけて欲しい」と思っています。「自分でも知らなかったような才能」に気づくきっかけはたくさんあった方がいいのです。人間は本能的に賢い生き物です。「未来に繋がらない無駄なこと」だと心のどこかで信じていることには、本気で向かえないようにできています。

「生半可な夢」というのは、人生にとって有益ではなく、深刻なダメージを与えることがあります。なぜならば、(一生懸命)「がんばっているつもり」なのに、(あんまり)「芽が出てこない」ということ事実が、じわりじわりと自信を喪失させていくからです。しかも、厳しいことを書けば、(一生懸命)→(なんとなく)で、(あんまり)→(まったく)という形で事実がねじ曲がっていることもたびたびです。

◆「その人」のしあわせは「その人」にしか作れない

私の講座にカリキュラムやシラバスはありません。「いつまでに○○」という目標設定もありません。基本的には受講者が自分の力で決めることだと思っています。だから、私は受講生の悩みや希望に直結した講座をしたいと思っています。たとえば、目標を見失ってしまったときに、どういう探し方をすればいいのか……自分の経験をもとに「考え方」を伝えます。

私は特段優秀な人生を歩んできたわけではありません。対人関係についても仕事能力についても、人一倍、挫折と孤独を多く味わってきました。挫折をして、自分自身を責め続けながら生きてきました。そんな人間が編み出した「生きていくための技術」はたくさんあります。どん底でなければ理解できないノウハウがたくさんあります。

だから、当事者からどんなテーマを投げかけられても、たいていのことは経験しています。そこから脱却する術を知っています。勉強が大の苦手で記憶力も足りない私が、どのようにしてIT業界で生き抜いていったかを伝えることもできます。優秀な人生でなかったからこそ、どん底でのたうち回っている人たちの気持ちが分かるし、そこからの光明の見つけ方を知っているのです。

ただし、その光明の位置を私が知っていたからといって、私が見つけてはいけないと思っています。その光明を探し当てるのは本人でなければならないのです。なぜなら「他人に用意された人生」なんて、たとえ輝かしいものであったとしても、所詮は自分の人生ではないからです。自分で見つけて、自分で心を燃え上がらせなくてはいけないのです。

「気合いを入れろ!」と、誰かに突き動かされる気合いよりも、「ようし、気合い入れていくぞ!」と、自分の心の中からわき起こる気合いの方が遙かに力強いのです。私は気合いを注入したりしません。しかし、自分の中から気合いがわき上がるきっかけをたくさん振りかけたいと思います。

そんなことを考えながら、また月曜日を迎えます。受講生に今週はどんな世界をみてもらおうか、そしてどんな可能性を探してもらおうか……そう考えていると、力がみなぎってくるのです。ここ数年間、私の辞書に「サザエさん症候群」という文字はありません。とっくの昔に抹消済みです。