+1

2013年3月17日日曜日

弱さを認めることと甘えること


◆「弱さ」と「甘える」こと

最初に書いておきます。私は強い人間じゃありません。どちらかというと弱いです。いや、圧倒的に弱い。どれくらいに弱いかと言えば、お金をつい使ってしまいそうな誘惑に負けがちなため、必要のないときには財布に多くのお金を入れないようにしているくらい弱い人間です(苦笑)。だから予想外のタイミングで飲みに誘われると思わずコンビニATMを探す有様です。

あと、行動力もだいぶ弱いです。だから、いつも行動予定をある程度たてて、それに沿って進まないとつい怠けたり、遊んだり、そして無駄に休憩してしまったりもします。「自分の弱さを認めていてよく知っている」からこそ、その対応策を立てることがとりあえずできています。そうしないと私はひたすら怠惰な道に流されていくことでしょう。

「弱さ」と「甘え」をセットで考えている人が、わりと多いような気がします。「弱さを認めること」=「甘え」の図式で生きること、それは自分の足で立とうとする意志を否定していることになると思うんです。だから「弱さを認めること」=「甘え」=「仕方ないじゃないか」じゃダメなんです。

あ、もうちょっと正確に書きましょう。「ダメ」じゃないです。今のままでも十分にしあわせで、これから先も今のままで十分にしあわせだとするなら、そのままでいいのです。今、私が話をしている相手は「今よりももうちょっとしあわせな未来を生きたい」と思っている方々です。

◆情に訴える生き方をやめよう

基本的に「弱さを認めること」は重要だと思います。さらに踏み込めば、それを公開することも重要でしょう。私なりに理由を考えるとふたつあります。ひとつめは「自分の弱点を知る」ことによって対策が考えられるからです。ふたつめは「弱点を公開する」ことで精神的に堂々とできるからです。ある意味で「脱皮」ができるのです。

しかし、この「弱点を公開する」という意味をはき違えると、結局、「変化のない人生」が続くだけなのだと思います。「私には弱点があるのだから仕方がないよね?」という正当化の盾にしてしまえば、そこからの成長はほとんどないからです。「ありのままのあなたでいい」というのは、何もしない人にかけていい言葉ではないと思うのです。

私は、自分の弱点を盾にして情に訴えようとする生き方が好きではありません。なぜかといえば、それが30歳までの私の生き方と同じだからです。うまくいかないことを、自分のハードウェアと環境の責任にしていました。「身体が強くない」だの「頭が良くない」だの「顔が良くない」だの、その理由を旗印にして前進を怠っていたような気がしてなりません。

誰かに「自分の才能のなさ」や「運のなさ」を嘆いてみては、慰めの言葉を心地よく受け止めつつも、それを決して受け入れようとしない。私はその当時の私の生き方が大嫌いです。ただ、その一方で感謝もしています。私の「現在」というのは、そういう「過去」の上に成り立っているからです。だから、同じ思考に逃げてしまう人の弱さと気持ちがよく分かるのです。

◆自分の人生を掴めるのは自分だけ

結局、当時の私に温かい言葉をかけてくださった方々にはずいぶん迷惑をかけてしまったと思います。一体どれだけの精神力と時間を費やしていただいたのでしょうか。結局のところ、そのスパイラルから抜け出すのは「自分で変わろう!」という自分の決意以外になかったのです。これには「大きな痛み」を伴います。生半可な痛みではありません。

今まで自分が寄りかかっていた「価値観」を捨てることは、自分の身体の半分を捨てるにも等しい痛みを伴うのです。だから、「自分から変わろう」という話をしたときに、「それでは、本当に自分ではなくなってしまう」という人がいますが、その気持ちも痛いほど分かります。「自分を守ってくれる言い訳」を捨てることはそれほど容易ではありません。

「自分はダメな人間」である……その理由は、「自分はダメな人間」であるからだ。これは、まったく論理性も客観性も欠いており、ただそう思い込みたいという「負の信仰」です。正しかろうが、間違っていようが、自分を定義づける「信仰」を変えることは「本当の自分ではなくなってしまう」という危機感を伴います。本当の信仰とそれほど変わりません。

しあわせならそれでかまいません。今のままでかまいません。今の人生が輝いていて、どこにも一点の悔いもないのならそのままでいいのです。しかし、もし、「このままではいけない」と心のどこかで考えているのなら、痛みを受け入れる覚悟が少しでもあるのなら、私はあえてハッキリ伝えたいと思います。

◆「本当の自分」なんて捨ててしまえ!

今の自分が「しあわせな人生を送っていない」のだとしたら、半分以上は「自分自身の責任」です。自分自身が愛してやまない「本当の自分」などという存在です。その「本当の自分」とやらのおかげで、納得のいかない人生を送らされているのです。「人生を送らされている」って、誰に?……それもまた「現状の自分自身」だったりするのです。

本当の自分なんて捨ててしまえ……と聞くと、物騒なことをいう人もいます。「それって死ねってこと?」……もちろん違います。「自分を変えることは、死ぬことと同じだ。だから死ねってことなんでしょう!」……という気持ちは分かります。ええ、分かります。その気持ちは分かりますが、残念ながらそれは正解じゃありません。

ゲームだと思って、だまされたと思って一度やってみてほしいのです。「自分自身は死んでしまった」というつもりで、「しあわせそうな自分を演じる」ということを。「自分自身の弱さを、まるで他人事のように笑い飛ばす自分」を演じてみてほしいのです。「弱さの公開」とはそういうことだと私は思います。その瞬間に弱さは「自分自身」と切り離されるのです。

そう、今、大事に守ってやろうとしてやっている「本当の自分」こそが本当の敵なのです。そいつは「自分が何もしなくてもいい理由を探し出すプロ」です。「本当の」などというたいそうな肩書きでごまかしていますが、たいしたヤツではありません。「自分の弱さ」を「甘え」に変えてくる「本当の自分」なんて捨ててやればいいのです。その結果、やってくるのは「本当の自分」ではないかもしれませんが「大好きな自分」かもしれません。

0 件のコメント:

コメントを投稿