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2013年3月3日日曜日

内面から燃え上がるような講座


◆カリキュラムありきではない

たまたま「発達支援が必要な人たちに『自己解決力』を伝える仕事」をしていますが、何度も書いているように、これは別に何かのハードルを持っている人たちだけに必要というものではなく、どんな人にも必要なスキルなんですよね。だから、私にとっては対象者が「たまたま発達支援」という印象が強いのです。

それはともかくとして、私がどのようにして受講者の「自立心」を磨いていくのか……という技法について興味を持っていただく方がいらっしゃいますが、実のところ、そんなにテクニカルなスキルはあまり持っていないような気がします。私が講義をするにいたって、一貫しているポリシーは「自分自身も楽しめること」だったりします。

ぜんぜんテクニカルな話ではなくて、ぶっちゃけ「欲望」に忠実なだけという感じですかね。私はまず「楽しむ」ということをスタート地点にしたいのです。難しそうに眉間に縦ジワを作って、当たり前に難しい話をしたところであまり意味がないと思うんですよ。そういう人は探せばいくらだっているわけですから。

私にとって「楽しむ」というのは、来てくれている受講者の「いいところ」が表面に出てくる時間を過ごすことです。だから、私はいつも受講者の顔ぶれをみて、その場で「テーマ」を決めています。もう少し具体的にいえば、「どういうことを知りたいか」という話を簡単に聞いてから、その日の内容を決めています。

しかし、毎回、受講者の顔ぶれは変わってしまいます。だから、私は、カリキュラムを作りません。作ったところで無駄だからです。さらに言えば「発達支援が必要な方々」という対象を考えたら、まさにそういうレールを苦手とする人も多いともいえます。つまり、従来と同じアプローチではいけないということにそろそろ気がつかなければならないと思うのです。

◆問題は「楽しさ」に火がつくか

世の中の管理者は「○月頃にはこれくらいできていて……」というレールをどうしても引きたがるように思います。もちろん、行政から税金をいただいて運営する以上、行政が安心できる計画案を持つことは重要かもしれません。しかし、所詮、それすらも、「他人が決めた目的」で「他人が決めた納期」に過ぎません。

私は思うのです。今までの学校教育の中でもずっと、こういうことが繰り返してこられたはずです。学校教育の指導要領の中で、期間を決めて、その期間内に学びきらなければ「落ちこぼれ」という烙印を押す仕組み。私は、そういうレールに乗ることが苦手な人に対して、そのレール以外の方法を提供したいのです。

すると、通り一遍の「同じ目標と納期」……いわゆる、シラバスとかカリキュラムは意味をなさなくなってしまうのです。「同じ品質の人材を、量産的に養成する」という軍隊式ではだめで、その人の「長所」とか「ピーク」をひたすら磨いた方がいいのです。この「長所」や「ピーク」というのは「楽しいこと」ということに他なりません。

実は今までお目にかかった受講者の中にも、才能がありそうに見えた人がいました。その方はIT関連の技術を猛烈な速さで吸収していきました。しかし、それだけではダメだったのです。いつまでたっても「楽しさ」につながらないまま、ただただ消耗していきました。「できる=楽しさ」でなければ、まったくその人の人生にはプラスにならないことを知りました。

つまり、逆にいえば「楽しさ」を掘り出せることが、どれくらい重要かということなのです。ただ、よく勘違いされるのは、「『趣味』を『仕事』にすればうまくいくだろう」という考えです。これは、正しいように見えて、実は違うことが少なくないようです。

私自身、そのことに気づくまでには、この就労移行支援関連に携わってから数年を要しました。「知らないうちに仕事が趣味になっていることが人生のしあわせ」というポリシーは今でも正しいと信じていますが、その逆が短絡的に正しいわけでもないのです。

◆「趣味=本当の楽しさ」ではないことがある

たとえば、「マンガを描きたい」とか「小説家になりたい」という人がいますが、それが本当の「楽しさ」ではないことがあります。あえて酷評をしますが、そういう人の作品を見せてもらうと、素人目に見てもどうにもならないほどの低いクオリティであることがほとんどです。そして、たいして作品の量も多くありません。問題はその駄作を見て「駄作だ!」と伝える勇気、伝えられる勇気がないことです。

本当にプロになろうとする覚悟があれば、「見せるべき人に見せて、言われるべき酷評をされる」はずのところですが、そこをそうしないのです。つまり、「正しくクオリティを上げていこう」と思えるほどのものでなくては「本当の楽しさ」ではありません。つまり、まったくクオリティの上がらない「趣味」は、残念ながら「仕事」ではなく「時間つぶし」にしかならないのです。

なぜ、「好きなこと」が「時間つぶし」になってしまうのかといえば、本当に夢中になれるほどの「何か」をみつけるための選択肢が少なかったからだろうと思います。そこで、私が提供する講座では、とにかく、「楽しいこと」の種類をたくさん見ていただけるように心がけています。すると、「生半可な夢」よりも、本気で追いかけてみたい「本当の夢」が見つかることがあるのです。

だから、私は「ひとつではなく、いろんな可能性を見つけて欲しい」と思っています。「自分でも知らなかったような才能」に気づくきっかけはたくさんあった方がいいのです。人間は本能的に賢い生き物です。「未来に繋がらない無駄なこと」だと心のどこかで信じていることには、本気で向かえないようにできています。

「生半可な夢」というのは、人生にとって有益ではなく、深刻なダメージを与えることがあります。なぜならば、(一生懸命)「がんばっているつもり」なのに、(あんまり)「芽が出てこない」ということ事実が、じわりじわりと自信を喪失させていくからです。しかも、厳しいことを書けば、(一生懸命)→(なんとなく)で、(あんまり)→(まったく)という形で事実がねじ曲がっていることもたびたびです。

◆「その人」のしあわせは「その人」にしか作れない

私の講座にカリキュラムやシラバスはありません。「いつまでに○○」という目標設定もありません。基本的には受講者が自分の力で決めることだと思っています。だから、私は受講生の悩みや希望に直結した講座をしたいと思っています。たとえば、目標を見失ってしまったときに、どういう探し方をすればいいのか……自分の経験をもとに「考え方」を伝えます。

私は特段優秀な人生を歩んできたわけではありません。対人関係についても仕事能力についても、人一倍、挫折と孤独を多く味わってきました。挫折をして、自分自身を責め続けながら生きてきました。そんな人間が編み出した「生きていくための技術」はたくさんあります。どん底でなければ理解できないノウハウがたくさんあります。

だから、当事者からどんなテーマを投げかけられても、たいていのことは経験しています。そこから脱却する術を知っています。勉強が大の苦手で記憶力も足りない私が、どのようにしてIT業界で生き抜いていったかを伝えることもできます。優秀な人生でなかったからこそ、どん底でのたうち回っている人たちの気持ちが分かるし、そこからの光明の見つけ方を知っているのです。

ただし、その光明の位置を私が知っていたからといって、私が見つけてはいけないと思っています。その光明を探し当てるのは本人でなければならないのです。なぜなら「他人に用意された人生」なんて、たとえ輝かしいものであったとしても、所詮は自分の人生ではないからです。自分で見つけて、自分で心を燃え上がらせなくてはいけないのです。

「気合いを入れろ!」と、誰かに突き動かされる気合いよりも、「ようし、気合い入れていくぞ!」と、自分の心の中からわき起こる気合いの方が遙かに力強いのです。私は気合いを注入したりしません。しかし、自分の中から気合いがわき上がるきっかけをたくさん振りかけたいと思います。

そんなことを考えながら、また月曜日を迎えます。受講生に今週はどんな世界をみてもらおうか、そしてどんな可能性を探してもらおうか……そう考えていると、力がみなぎってくるのです。ここ数年間、私の辞書に「サザエさん症候群」という文字はありません。とっくの昔に抹消済みです。

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