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2012年12月14日金曜日

遠慮しない

あいかわらず、発達障害でお悩みの方に特化した就労に役立ちそうなスキルを伝授する日々。その中でちょっと悩んだり考えたり迷ったりしていたことがあった。それは「利用者に配慮するレベル」について。

障害特性によっては、当事者が抗しがたいシチュエーションがある。いわゆる「地雷」というやつで、それは「状況」だったり「キーワード」だったりと種類は様々。そういう「地雷」に対してどういう姿勢で挑むかというのは支援におけるひとつのテーマかもしれない。

私は基本的に「無駄な地雷は踏まないに越したことはない」と考えている。「激しく嫌がられる」ようなことなんてしないほうがいいに決まっている。でも、特定の地雷は「どこに埋まっているか分からない」ということがある。たいていは「このあたりは危なそうだ」という精神的嗅覚に頼ることになる。

しかし、いずれにしてもいつか地雷は炸裂するもの。そのまま放置しておけば誰かがどこかで踏むわけだ。地雷を踏まないように注意している就労移行支援環境でうまくいったとしても、その先の就職先で誰かが地雷を踏んで、派手に爆発してしまえばそこで終わり。

とっかかりの部分についてはやむを得ないが、発達障害の就労移行支援で「腫れ物を触る」対応をし続けることは、最終的に当事者の利益に繋がらないことだと思う。医療にたとえれば、お腹の中に切り取るべき病巣があるのに、お腹の外側に塗り薬を塗ってごまかすようなものだ。

もちろん対応のひとつとして、「こういう状況は避けていただきたい」という「人材活用個別マニュアル」のようなものを作って企業に渡すのも有効だとは思う。当事者を多く採用すればするほど制限事項がひたすら増えていくだけになってしまう。そして企業はそれを嫌う。

だって面倒くさいじゃないか。だって、考えてもみよう。たとえばNGワードを事前通知するルールにしたとする。Aさんは「努力」「障害」「遅い」がNGワード、Bさんは「回復」「常識」「努力」「丁寧に」がNGワード、Cさんは「結果」「早く」「甘い」。……これが増えていったらNGワードだらけになる。

一人だけならなんとかなるかもしれないが、このルールが複数人で、かつ一人あたりのNGワードが複数に及べば把握しきれる範囲を超えてしまう。NGワードを設定することは、「職場の言葉狩り」を意味する。ましてや「NGワード」だけでなく「NG状況」も加われば混乱必至だろう。

基本的にこういう地雷を放っておいてはいけないのだ。もちろん障害特性も相まって、完全に撤去することは難しいかもしれない。でも、双方に歩み寄ることはできる。当事者は「地雷」を踏まれても爆発しない努力、企業側は当事者が「イヤな顔」を隠しきれなかったとしても大目に見る努力。

……現実的に考えるとすれば、このあたりが落としどころなのではないだろうか?

いずれにしても、それもこれも「地雷」が分かっていないとできないことで、「地雷」が分からないのであれば、もう、それは踏むしかないのだ。踏んでみて「カチッ」といったら、その場で安全に撤去するしかない。もしかすると爆発して縁切りコースかもしれないが、それでも踏むしかない。

なるべく事前に多くの地雷を発見して安全に解除する。解除できなかったとしても被害(当事者にとっても就職先にとっても)を最小限にするべきなのだ。影響範囲を最少にする努力をしたあとに、その内容について企業に説明できるといいんだろうと思う。

2012年11月24日土曜日

ブログらしく活動ログとして


ブログとの向き合い方を間違ってたなあと。そういうわけで、このブログのスタイルを変えてみる。

私の生き様はもちろん完成されたモノではないし、志半ばで完成していても困るわけだ。完成してしまったらあとは死を待つしかないわけだし。そういう意味では死ぬ直前まで私の生き様は完成していない。

つまり、何が書きたいかというと、「完成」とか「完璧」にこだわるのはやめようと。少なくともこのブログについてはそういう姿勢でいたいと思う。正直なところ私以外の人が読んでいる可能性は結構低い。

であるならば、無駄にかっこつけても仕方ないじゃないか。仮に読んでくれている人がいるとするならば、その人には私の本音が伝わってしまってもいいと思う。私はもちろん夢の光に向かっているつもりだけど、それがどこだか分からない。

夢の光を決めるのは私ってことだ。で、もって、私も日々成長というか変化をしていくので、時間と共に変わっていくかもしれない。いや、たぶん変わる。いつか、夢の光にたどり着いたとき、その経過点の気持ちが分からなくなるかもしれない。

夢の光にたどり着いて、そこで一波乱あって、また夢から遠ざかってしまったとき、過去にどういう気持ちで這い上がろうとしていたか……という記録は自分の支えになるんだと思う。だから、書きたいことを書く。

あとから読んでみて読むに堪えないモノが残っていくかもしれない。文体とか、起承転結とか、文章の量とか気にしないで、とにかく今の思いをそのまま残していこうと思う。

ブログがかけなくなったのは、たぶん、柄にもなくかっこつけようと思ったから。意味のある情報しか書かないでおこうと身構えてしまったから。そもそも後にならないと意味があったかなんて分からないこともあるし、その時に当時の気持ちを思い出そうとしても遅いんだ。

50円貯金みたいに着実に累積させておけば必ずお金は貯まる。でも、たかが50円だから適当にしとこう……なんて思ったら、お金は絶対に貯まらない。アイデアとか気持ちとかも同じかもしれない。

2012年10月26日金曜日

発達障害を「障害」にしない


■発達障害とトラウマ

最近、にわかに「発達障害」にスポットライトが当たってきているような気がします。で、仕事柄、なんだかんだと、私は発達障害でお困りの方に出会う機会に恵まれています。一言で「発達障害」といっても、ハンコで押したように同じような状況で苦しんでいるわけではなくて、まさに人それぞれ。

実のところ、これまで発達障害でお悩みの方に就労移行の手伝いをさせていただいたんですけど、正直なところ「失敗例」もたくさんあります。具体的には「理解し合えずに空中分解(支援中止)」という経験です。だから、おそらく私が貢献できる方々は「ごく一部の方々だろうな」という認識はあります。

だから、私が「すべてを知った風」なことを書けるわけでもないのですが、多くの発達障害でお悩みの方々と関わって感じるのは、「ずいぶんと心に傷を抱えて生きているんだなあ」ということです。そして、常に「不安と恐れ」に満たされているような感じがします。

自分が何かのアクションを起こすと、高確率で「他人の価値観と反することをしてしまう」という事態は、自信の喪失にもつながりますし、「何をやれば正解なんだ?」という恐怖を生み出すんだと思います。自分の価値観で行動するたびに、それを否定され続けるのはトラウマになりえます。

「自分は人と違うので生きているだけで迷惑をかけてしまうんです」と、トラウマで深く傷ついている人を支援することがありますが、そんな時、私はいつもこう伝えるようにしています。

 ◆『平均的な人々と違う』ことは『優れた武器』なんだと思います
 ◆『平均的な人々と違う』ことで困る点は『小手先』で対応しましょう

そう、「発達障害」の対極にあるのは「健常者」とかじゃなくて「平均的な人々」というのが、私の中では一番しっくりとくる言葉なんです。「平均的」というのは「多数派」によって形成されている価値観でしかないわけですから、「平均的な人々」という表現には十分な妥当性があると思います。


■独創的であるということ

話が飛躍していることを認識しながらも私が思うことは、「iPhoneやiPadは平均的な人々には作れない」ということです。iPhone、iPadの生みの親、スティーブジョブズは相当な変人だったと聞きます。ある日、エレベーターに乗っていた時に、途中から乗ってきた社員を見るなり「お前クビな!」と解雇してしまったという逸話はあまりに有名です。

参考URL: http://goo.gl/YX8lT

スティーブジョブズだけでなく、Windowsを世に送り出したビルゲイツにしても奇行は目立ちます。それでも、それまで「平均的な人々」にはなしえなかった独創的なサービスを世の中に送り出すことに成功しました。それは「満ちあふれる独創性」による才能のおかげなんだと私は思うのです。

「平均的な人々」にとって、「独創的すぎる人々」は「変人」に思えるかもしれませんが、それだけに「常識」に囚われない新たな価値観を生み出してくれる可能性を持っています。だから、そういう人々は「平均的になる」なんてことに心血を注ぐよりも「才能」を活用する方法を磨いた方がいいと私は考えています。

そして、「特異な才能を覚醒させる」ためには「平均的な方法」では困難だろうというのが私なりの結論です。そういう思想のもと、私がプロデュースする就労移行訓練メニューは「一風変わったモノ」に仕立てています。「訓練」というよりも「遊び?」と思われるものも多いです。

もちろん最低限のコミュニケーションは必要なのですが、そういう部分を補うのは、マニュアルなりガイドラインで「平均的な人々」を「装えば」どうとでもなります。具体的には、(1)自分の行動を分析して、(2)確率的な方法で、(3)正解と思われる選択肢を選び取るようにします。


■発達障害に特化した就労移行事業所が千葉の市川にオープン

最近、私は千葉で10月から新しく認可された就労移行支援事業所で、発達障害に悩む方々に特化した個別支援プログラムの開発に従事しています。特に私が担当するのはITエンジニアとしての経験を活用し、IT業界の「仕事体験」を通した業種選択のチャンスを広げるコースです。

本来、仕事というモノは「好き」=「向いている」というところからスタートすべきだと思います。もちろん、現実的に困難が伴うことも多いのですが、芸術家は芸術を愛する人、音楽家は音楽を愛する人、文筆家は文章を愛する人がめざしていく……これは極めて当たり前のことだと思うでしょう。

しかし、企業への「就職」となると、急にその「当たり前」を忘れてしまいがちです。好きか嫌いか……よりも「入れるところに入ろう」としてしまうんですね。うまく就職できたとしても、好きでもなんでもない領域だったとしたら、仕事を続けていくことは難しいだろうと思います。

私のコースではまず「楽しい」を体験してもらいたいと思っています。「楽しい」と思えるようになれば、その後にはチャンスがいくらでも待っていると本気で考えています。そしていわゆる「独創的すぎる人々」は才能が開花した後、天才的な結果をだす可能性が高いことも経験的に分かってきました。

そもそも「独創的すぎる人々」は、集中力が飛び抜けて高い人も珍しくありません。ただし、そのエネルギーは「自分が好きだと思えることに対してのみ」に発揮されるので、それなりにターゲットを絞り込んでいく必要がありますが、これがピタリとはまると「奇跡的な強さ」を発揮します。

これは「誰かから聞いたり読んだりしたこと」ではなく、私自身の経験から学んだことです。私はこの経験をより多くの人に体験していただきたいと思っています。もしも内容について気になられた方がいらっしゃったら、まずは、私、まつしたまでお問い合わせください。

Facebook  https://www.facebook.com/suguru.matsushita
ユースキャリアセンター フラッグ 047-711-3368(まつした)

まだ、10月にオープンしたばかりなので利用者の数が多くなく、今の時期が特にオススメといえるかもしれません。私が二年かけて開発したメソッドで、「自分自身も気づかなかった可能性」を磨いていただきたいと考えています。

必要な資質は「好奇心」と「素直さ」、それから「自分を信じる気持ち」です。いくら才能があっても「自分の才能」を自分から見捨ててしまっては輝くことはないでしょう。ただ、今の時点でそれほど自信がなくても大丈夫です。楽しみながら「やること」をやっていれば自然に自信はついてきます。

なお、私は主にIT系統を担当していますが、ユースキャリアセンターフラッグでは、ITだけに限らず幅広い職種にトライできるプログラムを多数用意しています。「ITをやってみたいけれど自信がない」という方は、「ITにもチャレンジしながら他の可能性も模索しよう」という方法がオススメです。

もし、これを読んでくださっている方で、ご縁がありましたら、ぜひとも千葉の市川でお会いしましょう。

2012年9月18日火曜日

仕事は引き継ぎをしながら


「引き継ぎ業務」というと、仕事を辞める時に多く聞かれる言葉ですが、私はどんな職場に行っても、お世話になり始めた初日から「引き継ぎ業務」を開始します。念のために補足すると、当然ながら「引き継ぎを受ける」のではなく、あくまでも「引き継ぎをする」仕事を初日からするのです。

どういうことかというと、「引き継ぎ業務」に一番適している時期は「最初」と「最後」だからです。「最後」の理由は分かりやすいでしょう。様々なノウハウが身について、「○○を実現するためには□□をすればいい」ということが深く理解できているからですね。

では、「最初」から引き継ぎを始めるのは、なぜでしょうか?……結論から書くと、その環境に初めてやってきた人が「何を知りたいか?」、「何を知るべきか?」という部分について誰よりも把握しているからです。おそらく、「仕事を辞める時の自分」以上に熟知している状態です。

「『新人が知りたい質問』を考えなくても分かる時期」を放置しておく手はありません。なぜなら、「分からないこと」、「分かりたいこと」、「不思議に思うこと」を徹底的にリストアップしていきます。できれば、デジタルデータとして保存しながら蓄積していくといいでしょう。

そして、それらの項目が「解決」したタイミングで、その内容をアップデートしていくのです。すると、「分からないこと」→「分かったこと」という「引き継ぎ資料」が時間をかけて育っていくので、いろいろとバタバタしがちな「最後」の時期に焦って「引き継ぎ資料」を作らなくても済むのです。

ある程度、その職場に適応してきて、様々なノウハウが身についてきたとしたら、さらにいい方法があります。「引き継ぎ資料」の作成に比重をかける代わりに、「常に自分の仕事を他の人と分け合う」ということを意識すると、「引き継ぎ業務」はさらにラクになります。

組織内のポジションにもよるのですが、ある程度、自分の判断で人を動かせる状況であれば、積極的に自分の仕事を委譲していくのです。意外とこれを嫌がる人は多いんですけどね。「自分だけしかできない仕事を抱えておかないと、仕事をクビになるリスクが増えちゃうじゃないですか!」……って。

でも、次の理由で、私は「引き継ぎ業務」を初日から意識することは重要なのです。

・クビになる時にはクビになります
→「仕事がなくなるからクビになる」という可能性も事実としてありますが、組織がクビを言い渡す時には、「仕事をどれだけ抱えていようが、引き継ぎ業務を要求する」という終わりを迎えるものです。

・人が育つと休みやすくなれます
→自分の代わりにできる人が増えるということは、その分、仕事の呪縛から解放されるということです。「その日はどうしても自分がいなければ」という状況が減ります。

・たいした引き継ぎ時間が不要です
→引き継ぎをやっていないで、突然、最終日が近づいてくると、マニュアル作成やデータの整理など猛烈に忙しくなることはわりとあります。でも、普段から引き継ぎしておけばそういうプレッシャーと無縁でいられます。

・長期休暇後の自分のためになります
→年末年始や夏期休暇など、長期の休みを取得すると、いわゆる「休みぼけ」にかかってしまって、休暇前に自分がどうやって仕事をしていたのか忘れることがありますが、そんな時に役に立ちます。

私自身、何度か転職を体験していますが、転職のたびに苦痛だったのは「引き継ぎ作業」だったのです。特に、状況によっては、退職前というのはモチベーションが下がっていることもあるもので、そんな状況の中で引き継ぎ作業をすることは大きな苦痛を伴うこともあります。

そういうケースも踏まえて、モチベーションの高いうちに「引き継ぎ作業」を継続しておくことは、オススメだと思っています。あ、当然のことですが、間違っても「初日から引き継ぎ作業を頑張っています」なんて口に出してはいけませんよ(笑)。

2012年9月11日火曜日

正直でいるための「趣味」

前にも書いたんですが、私は「ボランティア」って言葉が苦手です。何よりも語感が好きじゃありません。「してあげています」という恩着せがましさと、「押しつけられた自己犠牲」という匂いを感じてしまうからです。そして無償の「奉仕」という行動……「奉って仕えて」しまうんですよ。なんだ、相手は神様か仏様か?……と。

私の単なる「言葉のこだわり」であることは重々承知しているのですが、私はあくまでも「無償」で行うことは「趣味」にしておきたいのです。「奉仕」でもなく「趣味」です。私は後になって「□□してあげたのに……」なんてことは言いたくないし、そんな気持ちにもなりたくないわけです。

私の癖なんだろうとは思うのですが「□□のために……」という気持ちから何かをしてしまうと、ほぼ無意識に「見返りを求める」マインドになってしまいます。私はこの「善意の裏に隠れた無意識の見返り欲求」がイヤなんです。だったら最初から「趣味」と割り切って挑んだ方がいくらかマシだと思えるんです。

「趣味」というのは「□□のため」というよりも前に「自分が□□をしたいから」という欲求からスタートします。つまり、そこに「恩着せがましさ」が入り込む余地はありません。また、「見返り」は「自分の欲求を実行した」時点で満たされているので、自分の中ではよほどすがすがしく、偽善的にならずにいられるのです。

さらにいえば「趣味と実益を兼ねる」という言葉があるように、誰かの役に立つことで、それが利益を生むことがあれば、遠慮なく対価を受け取ればいいんだと思っています。でも、これが「ボランティア」でスタートしていると「変節した」だの「結局はお金のために?」という背信的な気持ちになってしまいそうです。

また、自分自身が蓄えてきた「ノウハウに対する敬意も持っていたい」ということも「ボランティア」を嫌う理由のひとつです。自分が今まで蓄えてきた経験なりノウハウを「無料で提供する」ということは、「プロとしてのスキルにお金を払ってくれている方々」に対してとても失礼な気がするんです。

しかし、普段は対価をいただいているスキルを「自分のやりたいこと」に使うのであれば、そういう葛藤とも無縁でいられます。なぜなら、「自分のために使う」という行為は、「あの人には有料」←→「あの人には無料」という枠組みの外側にあるからです。ある程度、自分にウソをつかずに公平性を保ちたいんですよね。

人によっては「本気でやっている人助け」を「趣味」と言われることは不快感を感じるかもしれません。まぁ、確かにそうかもしれません。また、「趣味」ではなく「マジメ」にやってほしいと思うかもしれません。でもね、私の価値観で考えれば、本気度は「ボランティア<仕事<趣味(遊び)」という大小関係だったりします。

なぜなら「趣味(遊び)」こそ、本気でやる価値のある行動だと思うからです。「仕事」の場合、「この報酬額なら、この程度のコストで妥協するしかないな」という判断をしなければならないことがあります。いただく報酬よりもコスト(原価)の方が高くなってしまえば「赤字」になってしまうからです。生きるためには当たり前の判断です。

しかし、趣味であれば、ある程度は原価計算を度外視できる可能性が高くなります。そもそも、「無償奉仕」に「仕事」の価値観を持ち込んだ場合、明らかに「収入<原価」という関係になります。つまり、普通に考えると「仕事品質を求めるなら、タダでは提供できませんよ」ということになっちゃうわけです。

 ×「誰かのために何かをしてあげたい」→○「趣味で誰かに何かをしたい」

もっとも、作業に「マジメ」を求めるのであれば、そもそも「無償」ではなく「有償」でお願いしてくださいよ……という話になるんでしょうが。

2012年9月4日火曜日

「情報発信」だけの限界

最近はなんでもかんでもネットを利用して、積極的に情報発信しようという機運が高まっているけど、情報発信だけに偏ってはいけないんじゃないかな。特に、ベンチャーであったり、個人事業主の場合、「自分の存在を認識してもらわないといけない」わけだけど、それでも「情報発信だけ」じゃ厳しいよね……と最近思うんです。

どういうことかといえば、「中身が伴っていなければ言葉の無駄撃ち」に過ぎないっていうこと。たとえば、「○○であるべきだ」という主張があったとして、それを訴え続けることも重要ではあるものの、いつまでたっても「訴え続けるだけ」では、ちっとも前に進みやしないわけですね。

「主張は分かったけど、それで実際に試したの?」

ってこと。主張してばかりじゃなくて、早く実行しろよ、早く検証しろよ、そしてその結果を報告しろよ……ってことなんですよね。そうでなくてはタダの屁理屈になっちゃうわけです。そんなことをしていては、自分自身の時間ももったいないし、そんな状況で書いた文章を読まされる方も等しく時間がもったいないわけです。

ちょっと話がそれますが、昔、ハマらないように十分に注意しながら「自己啓発系セミナー」に足を運んだことがありました。いくつか種類の違うセミナーに参加してみたんですが、おもしろい現象が見られるんですよね。講演が終わって、交流会みたいな時間になると顔見知りの常連さん同士が挨拶してるんです。

「いや、またお会いしましたね」
「先日はどうも、○○さんも勉強熱心ですねえ」
「いえいえ、まだまだ。今度は□□先生が講演されるセミナーに参加するんです」
「へえ、□□先生ですか、また私も聞いてみたいですね」
「ええ、なんか、最近、モチベーションが上がるセミナーが多くて忙しいですよー」

セミナーに参加したてのころ、私はそういう人たちを見て、「意識の高い人たちはやっぱり違うんだなー」なんて平和的な勘違いをしていたわけですが、何種類かのセミナーでそういうシーンを見ている内にものすごい違和感が湧きだしてきたんです。

「なんで、この人たち、こんなにセミナーに参加ばっかりしていられるんだろ?」
……って。

いや、もちろん、モチベーションが高くなるのはいいことですよ。ですけど、高いモチベーションを仕事に活かすんじゃなくて、その高いモチベーションをセミナー参加に使っているわけです。つまり、「セミナーを受ける」ということ自体で満足しているようにも思えます。

知り合いで「自己啓発セミナーマニア」がいるわけですが、その人を知ってから数年。セミナーへの参加は相変わらずのようですが、未だに何もアクションを起こしていないようです。セミナーに参加すればするほど、自分の未熟さが見えてきて、さらに他のセミナーを受けないと……という気持ちになるんだそうな。

いくら講師が「この講演を聞いて満足していたらいけませんよ。大事なことはとにかく実行するということです!」と熱弁をふるっていても、「そうか、実行が大切なんだよな。よし、それじゃ、とにかく熱が冷めないうちに他のセミナーの参加申し込みをしよう!」と残念な方向に転がっちゃうようです。

ネット上での持論展開もこれと同じで、「実行」と「検証」を伴わずに、ただ主張しているじゃダメなんだと思います。自分自身にノルマを課して、たいした成果もないのに内容のない文章で空白を埋めることには意味がないと思うのです。情報発信に躍起になるのではなく、たまには『黙って成果を出す』ことが大事なのでしょう。

2012年8月21日火曜日

苦手を克服するという常識


基本的に「苦手なことを克服する」ということは大切なことです。しかし、私はそこに社会がこだわりすぎて不幸な局面を作り出しているように思えることが多くあります。精神障害者の就労移行支援事業の仕事に関わるうちに、私にはひとつの仮説が湧き上がってきました。

「苦手なことに時間と労力をかけて『マイナスからゼロに向かって努力する』のではなく『適性のあることに徹底的にフォーカス』した仕事環境があったとしたら、現状の世の中で活躍できない人たちが本気で戦えるのではないか」というものです。どれだけがんばっても、そこが他の人にとっての「スタートライン」というのは虚しいものです。

これは未だに舵切りが難しく正解が見えません。「適性にフォーカスする」ということは、本人と話しながら「なるべく」苦手な領域に踏み込まないようにナビゲーションする必要があるからです。しかし、このことは「本人の新たな可能性」の芽を摘んでしまうリスクもあります。また、「ストレスへの耐性」を弱めてしまうリスクもあります。

それでも、やってみる価値は十分にあると思うのです。もちろん、「適性強化」と「甘やかし」という線引きも明確でなければなりません。ここで私が考える線引きとは、

(1)「苦手なこと」は極力避けて「得意領域」の仕事をしてもらう
(2)「得意領域」の仕事の品質については一切の妥協を許さない

ということです。

つまり、自分がやりたくない仕事からは遠ざける代わりに、そこでの甘えは一切許さないというやり方です。世の中、「適材適所」という言葉を好んで使うわりに、なかなかそれができていないのは「平均点」や「総合点」のスコアを気にしているからだと思うんです。

私はこの「当たり前」を崩せないかと考えています。この世の中で生きづらい人たちを「一方的な価値観で改造する」のではなく、仕事環境側も「自ら歩み寄る」チャレンジが必要だと思うのです。平たく言えば、雇用側の「上から目線」をやめるということです。

私にとって、この考え方は「憐れみ」ではありません。「平均点が高いが全体的に平凡な人材」と、「平均点は低くバランスが悪いがエッジの効いた才能を持つ人材」の活躍領域って、自ずと違ってくるのではないんじゃないか……っていうことなんです。誤解を恐れずにいえば、企業在籍のオリンピック選手に似ています。

オリンピック選手といえども、企業に在籍している以上は仕事をしなければなりません。スポーツで生計を立ててしまうと「アマ」ではなく「プロ」という扱いになってしまうので、主たる生計は労働によって得ている必要があるためです。しかし、企業としては本気で「正規の労働力としての貢献」を期待しているわけではないでしょう。

もちろん、「労働力としてアテにならない」という意味ではありません。そうではなく、そもそも役割が違うのです。あえて極端な例でいえば、業務が切迫した時でも、オリンピック選手に徹夜作業をさせたりはしないでしょう。徹夜作業で体調を崩してしまっては、「企業イメージ向上要員としての貢献」の期待ができなくなってしまいます。

甘やかしに思えてしまうかもしれませんが、電話が苦手な人には無理に電話の仕事をしてもらわない。極端な人見知りの人には知らない人との関係が煩雑な仕事をしてもらわない。身体を使うと体力不足でへたりやすい人には力仕事はしてもらわない。でも、その代わりに一芸で勝負してもらえればいいと思うんです。

精神障害者の就労移行支援という観点では、どうしても「この程度ならできるだろう」、「この程度の仕事もできるんじゃないか?」、「あれができたんならこれもできるんじゃないか」と、ひたすら低めのハードルを多くこなさせてしまう傾向があるように思います。本人が望まないことでも「就職に有利ならなんでも」という形で。

単純に「できることを増やす」という意味においては、私もそれほど否定的でもありません。ただ、私の印象では、もっと一芸を切り開ければ「好きなこと」を仕事にできる可能性を持った人でも、「できること」の裾野に引っかかった就労先を紹介することが多いような気がしてならないのです。もちろん、それも人生の選択肢のひとつです。

ただ、「ここなら簡単に行けそうだから」という理由で、高い専門領域の可能性を切り捨てて、平凡かつ本人がそれほど強く望まない就職を勧めてしまっていいものかとも思うわけです。私自身が抱いている危惧としては、「誰でもできそうな領域で平凡なスキル」の人を多く送り込んでいたら、社会はこう思うかもしれません。

「やっぱり精神障害者って、平凡で、誰でもできる仕事しかないよなあ。」

……と。

そうならないためにも、ちゃんと才能のある人の芽を丁寧に育てていかないといけないし、そういう人に安易な就職先を勧めてはいけないような気がするんです。私は就労移行支援事業周辺の仕事をしていて、「支援員のスキル限界が職業選択の限界」であってはいけないと常々思います。

支援員自らが専門性のない分野に対して対応することは難しいと思います。だからこそ、専門性のあるスキルのある人が、もっと就労移行支援の現場に来た方がいいんです。そして、「上から目線」&「自分の限界」で語らない支援員が必要なんだと思います。

あえて自戒の意味も込めていえば、基本的に支援員って「上から目線」が多いと思います。自分よりも高い才能に敬意を払えない人が多い。「だって就職できてないんでしょ?……ってことは、私よりも能力が低いに違いない」って思ってしまうと、支援員よりも高い能力があったとしても、無駄な能力として切り捨てられるリスクはとても高いのです。

そんな現状をなんとかしたいと私は思っています。そして、もっと専門性のある人が精神障害者の就労移行支援の場に流出してくるといいとも思います。ITだけでなく、財務とか、企画とか、その他多くのプロフェッショナルが。日本の人口が減っているのだから、そういう才能の掘り出しは本気でやらないといけないように私は思います。

現実問題として、これはなかなかハードルが高い話です。就労移行支援事業の使命は少しでも早く就労できていない人が就労できるようにすることです。だから、就労移行支援事業所は社会の流れに沿った形での対応を余儀なくされます。まさか「社会に変革を起こす」という視点でものを語ることは難しいでしょう。

それでも、私はあきらめきれないのです。今の社会がこうであるならば、たとえ困難が予測されるにせよ、その先の未来にくる社会をイメージしないといけないような気がするんです。

2012年8月14日火曜日

Facebookで文章力アップ?


Facebookで、いろいろな文章を拝見していて、たまに「あーあ」と思うことがあります。最近は「ネット上で文章力を鍛えてビジネスに結びつかせましょう」という流れがあって、そういう人たちを応援するサイトでは、しきりに「文章力を鍛えるために毎日ブログやSNSを更新しましょう」と書かれていたりします。

……ええ?……マジですか!?

私自身、文章力に自信がある人間ではないので、いささか書きづらい内容ではあるんですけど、「毎日文章を書くということだけに力点を置いてしまっていいのかなあ」と思うことがあるんです。確かに毎日文章を書いていれば、必然的に文章作成の速度や構成力などがスキルアップする可能性が高いと思います。

ただ、最近、「日課を目標にしすぎているんじゃないかなあ?」としか思えない文章を読む機会が増えたような気がします。「とにかく毎日書く」というノルマ臭が漂う文章は、だいたい次のような印象があります。

・いつも同じような書き出し(定型的な文章なので引きつけられない)
・結論がなんなのか分からない(ひどい場合は尻切れトンボの文章)
・得られる「気づき」がなんにもない(単なる個人日記で終わっている)

ここまで書くと「自分はどうなんだよ」と自問自答してしまうわけで、他人のことを言えるのかよ……という葛藤もそれなりにあるわけですが、それでも、「とにかく毎日書けばいい」という考えでやっつけ文章を増産するのは、コスト的にもったいないと思うんです。それはなぜかというと、

(1)「ひとつの文章を磨き上げよう」という意欲をなくしてしまう。
  →結論は何か?伝えたいことはなんなのか?……という意識は大事そうです。
(2)「失敗しても次があるさ」という心理状態になってしまう。
  →残念ながら私の場合、ノルマ臭が漂う文章が数日続くと購読を解除します。

特に私は、Facebookで、テレビやラジオのパーソナリティもどきみたいな『前置き』のある文章が、なんとなく定型文っぽくて好きになれません。でも、「なんとなく嫌い」というだけでは思考放棄をするみたいでイヤなので、その原因をすこし考えてみたら、簡単に理由が分かりました。

Facebookを読むためのツールのほとんどは、書き出しから数行ほどをダイジェスト表示するようになっています。つまり、書き出しの部分がいつも似通っていると、ぱっと読めるダイジェスト部分は似たような文章になってしまいます。たとえば、次のような文例です。(あくまでも「やや極端な例文」なのでご了承ください)

【地元の天気情報から必ず入る人】
◆宮崎は今日も暑い日が続いています。午後からは激しい雨が降るようですが、こうも暑いと雨がありがたく感じますね。さて、今年も高校野球が…[続きを読む]

 ↑遠方の天気に興味がない上、近ければなおさら「見れば分かる」程度の情報。
 ↑ありきたりな内容では[続きを読む]をクリックしたいという欲求が生まれない。
 ↑そして、「高校野球」の話題に無関心な私は完全に興味を失ってしまいます(笑)。

【キャッチフレーズを入れずにいられない人】
◆おはようございます♪~『いつも元気』が合い言葉の私、○○くんが、今日も元気に山梨のど真ん中からメッセージをお送りします。さて、やっと…[続きを読む]

 ↑あくまでも個人的感想ではありますが、極めて「イタい」印象を受けます。
 ↑定型文を毎日少しずついじっているだけで本文には興味をそそられません。
 ↑というか、定型文で「元気元気」を連呼されても空々しい気分になります。
 ↑「植え付けられたポジティブシンキング」みたいな臭いが警戒心を抱かせます。

「文章を読んでいただく」ということは、少なからず読み手の「貴重な時間を奪う行為」です。もちろん、駄文であれば「最後まで読まない権利」を行使してもいいわけですが、正直、最後まで読まれない可能性のある文章を「無反省」に書き続けることに、「修行」としてどれほどの価値があるのか私には分かりません。

ただ、私が思うのは、
 「継続は力なり」
かもしれないが、
 「無反省な継続は力の無駄遣いなり」
じゃないのかねえ?……ということです。

実際のところ、Facebookでの文章に対する批判……みたいなものって、書くの、勇気いるんですよね。基本的に「友達」ということにもなっているんで。実際のところ、「完全に繋がりのない人」ではなくて、たぶん、遠く思えても、そこそこ近いところで繋がっている可能性が強い人たちですから。

でも、だからこそ、駄文を書いていたとしても、誰かから指摘されることは皆無だと思われます。もちろん、精神的距離が近い人になら、冗談交じりに本音を伝えてしまうのでいいんですが、中途半端に距離があったり、そもそもお目にかかったこともない「誰かの友達」だったりすると、まぁ、とにかく困ってしまうわけです。

もちろん、私が「読み手」として不適格である可能性もあり、さらにいえば、その執筆者と同じクラスタ(意識的集合体?)にいないという証拠ともいえるので、ここで「意識のズレを修正してやろう」などという不遜な気持ちは毛頭ありません。私の方が大きくズレまくっている可能性も大いにありますから。

でも、「自分の文章スタイルで、こういう風に思う人もいるんだな」程度で思っていただけると、何かのきっかけでお役に立てることがあるかもしれません。と、そんなワケで、この文章自体もネット空間に浮遊する根無し草ではありますが、どなたかの思考のきっかけになればいいなあと願っております。

2012年8月1日水曜日

生きがい

私は千葉の就労移行支援事業所でITコースの講師をしています。受講者の中には認知機能が大幅に低下していて、パソコンに触れること、コミュニケーションをとること、気持ちを表現すること……が難しくなっている人たちもいます。正直、「教えたって無理だろう」といわれたこともあります。

でも、私は続けてきました。気がついてみると、始めてから2年を過ぎています。そんな中で「私の実績ってどの程度なのだろう」と自問自答することも少なくはありません。うまくいくことばかりではありませんでした。冒険的かつ挑戦的な試みの末に、受講生の大半から総スカンの嵐を食ったこともあります。

私は『IT』を通じて、(1)どんな仕事であってもITを利用して効率的にラクになれるように。(2)就職先としてのITという選択肢を増やせるように。……という可能性を開きたいと考えていました。つまり、ITを目指さない場合でも、何かひとつ、人生を楽しく生きていけるものを発見してほしいと思っていました。

すべての人たちが(2)に進むわけではなく、(1)の段階で去って行く人も多くいます。「去って行く」というのは、就職が決まって去って行く人もいますし、「ITは無理なんだな」と感じて去って行く人もいます。冷たいと思われそうですが、私は基本的に「去る者を追わず」というポリシーを持っています。

なぜかというと、あくまでも「選択するのは本人であるべき」という信念を持っているからです。続けることも去って行くことも「自分の意志で決める」という価値観に重きを置いているからです。そうは言っても、やはりふとした時に思うことがあります。「私を信じて時間を費やした人を失望させたかもしれない」と。

最近、千葉の乗降駅で、たまたまかつての受講者に会うことがありました。彼はYさん。たしか、受講してくれていた当時はかなり具合が悪く、会話もとてもゆっくりで、ひとつずつ時間をかけるタイプの人でした。分かりやすく表現すれば、徹夜を二日続けて疲労困憊した時のコンディションと言えば伝わるでしょうか。

「ああ!松下先生!お久しぶりです!」

ところが、駅でばったり出会ったYさんは、当時の彼とは見分けがつかないくらいに認知機能がはっきりとしていました。いや、過去を知らなければどこにでもいる若者です。不調に苦しんだことのある人だとは思えないほどです。Yさんの活発な声を聞いたのは実は初めてでした。

私は、そこで、私自身が抱えていたモヤモヤに対する答えのひとつを聞いたような気がします。

「松下先生のおかげで今の自分があると思っています。」
「諦めそうになっていた自分たちに本気で情熱をかけてくれました。」
「松下先生に認めてもらえるほどITはできませんでしたが勇気をもらいました。」
「自分たちの可能性をあそこまで信じてくれたのは本当に嬉しかったです。」

かつてのYさんでは考えられないほど、矢継ぎ早に「当時の思い」を語ってくれました。家路を急ぐ人たちが行き交う暮れなずむ駅前、私は感謝の気持ちでいっぱいでした。当時のYさんは、コミュニケーションを取るだけでも大変な体調だったこともあり、私はYさんの気持ちを聞けないままだったのです。

正直なところ、私は長いこと不安を抱えていました。私の言葉は認知機能の低下で困っている人たちに、どこまで届いているのだろうか……。ただ、ツライだけのことをやっているのではないか……。ITに進まなかった人たちは「切り捨てられた」ように思っているのではないか……と。

私が彼らに投げかけた言葉の返事を一年後にやっと聞くことができました。まるでタイムカプセルを開けたような不思議な感覚です。「私の言葉は確実にしっかりと心に届いていたんだ!」と思うと嬉しくて仕方がありません。そして、Yさんからいただいた言葉は私の心に火をつけました。

「これからも『即戦力ITコース』で希望をなくした人に勇気を与え続けてください!」

……そうか。ITだけじゃなくて、そういうことも伝わっていたんだ。むしろ、IT以上に大事なことなのかもしれないなあ……と思いつつ、私自身、希望を捨てずにチャレンジしてよかったと思える、ある日の夕方でした。

2012年7月25日水曜日

子供から学ぶこと

私には1歳になる娘がいます。子供がいる人なら、ああそうだよね……と思うかもしれませんが、寝付く前に思いっきりグズることが多いです。特に、今まで遊んでいて、急にグズるようになってきたなと思うと、眠たくなって暴れたり泣いた挙げ句に寝てしまいます。「なんで静かに眠れないんだ?」と大人はつい思いがちですが、ちょっと考えてみました。

眠くなってくると……
(1) なんだか急に楽しくなくなってくる
(2) 体がだるくなったり頭が働かなくなる
(3) 意識が遠くなって周囲の声が聞こえなくなる

(1)と(2)は大人になっても実感できそうです。

最初の(1)は「モチベーション」の持続に関連します。本質的に人間は「強制されること」よりも「自分がやりたいこと」の方が能率的で疲れにくいものです。なぜなら「楽しい」という感覚がエネルギーになるからです。「三度の飯よりも○○が好き」というのもそういうことですね。それにも関わらず、ひどく疲れてくるとどんなに好きなことでも楽しくなくなってしまいます。つまりモチベーションを持続するためには休息が必要だということです。

次に(2)ですが、その人の身体に合わせた休息って大切だなってことです。だんだん成長してくるといろんな感覚が摩耗してきます。疲れてくるといろんな変調を感じるはずなのに、「がんばれそうだ!」なんて朝まで徹夜をしてしまい、挙げ句、「このまま一日いけそうだ!」なんて体験をすることが人生の中で何度かありますが、本質的にはスペックが著しく低下していることに間違いありません。スペック低下の違和感に気づくことは大切です。

最後の(3)については、大人になると意識しにくくなる感覚かもしれません。眠くなるとだんだん他の人の声が意識に届かなくなりますね。しごく当たり前のことです。でも、生まれてからあまりたっていない子供にとっては「眠る」ということは恐怖の対象ではないでしょうか。なぜなら「自分がいなくなってしまう不安」や「ひとりぼっちになってしまう不安」と戦わなくてはいけないからです。

成長するに従って、「しばらく眠ると目が覚める」という事実に慣れていくものですが、そういう経験が十分に蓄積されるまでは毎晩が不安との戦いです。疲れて急速に寝てしまえばいいんですが、中途半端に意識がある状態で徐々に眠りに落ちていく感覚は、とてつもなく怖いものでしょう。基本的に「眠りに落ちていくこと」と「死んでしまうこと」の恐怖は同一線上にあるような気がします。

しかし、ここにも大人が学ぶ点はいくつかあると思います。それは、「自分に与えられた時間は有限であること」なんです。生きていると、ついつい惰性で「明日があるさ」と思ってしまいます。ほとんどの場合は「明日」がやってくるでしょう。しかし、そう思っている人の中で数パーセントは毎日どこかで命を失っています。一度、眠ってしまったら、次に目覚める保証って「実はどこにもない」のです。

子供の頃に「眠るのが怖かった」ことを思い出してみましょう。または「余命宣告をされた自分」を想像してみましょう。ほとんどの人は眠ることが怖くなるんじゃないでしょうか。もちろん悟りを開いた人なら別ですが、やはり「自分がいなくなる」という感覚は大きな不安を伴うと思います。そこで、とても平凡な結論に行き着くのですが、「一日一日を悔いが残らないように生きていきましょう」ということなんです。

自分でも思います。「そんなことは改めて気づかなくても、最初から知っているレベルの話だ」って。でも、知っていても「毎日、人生を味わい尽くして生きていますか?」といわれるとそんなことはないんですよね。「まぁ、味わうほどの人生じゃない」と思ってしまっていたりしませんか。「毎日がイベント……なんて人生はどこに存在しない。日々は平凡なものだ」とか思ってしまっていませんか。

きっと、それは「知っている」けれど「できている」ことではないということです。本質的に命はお金で買えません。気が遠くなるほどのお金を持っていたスティーブ・ジョブスも世を去りました。仮に天寿を全うできるほどの健康な人でも、ある日突然に災害の犠牲になることだってあるんです。さまざまな瞬間で「悔いが残らない」生き方をしていきたいものです。

2012年7月11日水曜日

離職者を生みにくい環境

「仕事にはつまらないことがある」というのは正しくて、そしてその一方では間違っていると思います。人間にとって「意味があるのか分からない行為」というものは、比較的、つまらない仕事になりがちです。しかし、意味が見いだせれば面白い仕事にもなりえます。

そんな中で、メンバーを引っ張る人間は「仕事の楽しさ」を伝えることも重要な仕事のひとつなのではないかと、最近考えています。自分が行っている仕事がどのような位置づけにあって、どのように貢献できるのか……というナビゲーションは重要だと思うんですね。

もちろん、状況によって「なんでもいいからやってほしい」という事態もあるわけですが、それでもきちんとフォローをすることは、思いのほか重要なのかもしれません。こう書くと「それは過保護だろう」と思われるかもしれません。

確かに私が送ってきた社会人生活でも、そんな手厚いケアはありませんでしたから、おそらく現状の世の中において「過保護」なんですよね。それでも私は「仕事の楽しさを伝えること」を試してみる価値はあると思うんです。

もしかすると、こういう逸話を聞いたことがあると思います。ある石工職人の話です。

◆三人の石工職人が石を積んでいる仕事場にて……

仕事場を通りかかった旅人が、一体何をしているのか職人に尋ねました。「どうしてあなたは石を積んでいるのですか?」と。

1人目はこう答えました。
「石を積むと親方からご褒美がもらえるんです」

2人目はこう答えました。
「この石を積んで美しい壁を作っているんです」

3人目はこう答えました。
「ここに立派な大聖堂を建てているんです!」

多少オリジナルのストーリーとは違うかもしれませんが、この話はそれぞれの「仕事に対する視点」の違いを表現したものです。視点の広がりという意味では3人目の答えが望ましいことは書くまでもありませんね。

なぜって、「ご褒美<美しい壁<大聖堂」というケースを考える場合、大きい方が、小さい方の要素を全て包含しているからです。つまり「美しい壁を作る」ことには「ご褒美を得る」という理屈が含まれていて、「大聖堂を建てる」には、残りの二つが含まれています。

このように、「視野が広がる」ということは、そこまでのレベルのものをすべて内包しながら、さまざまな判断基準を持つことになるんです。

 ・ご褒美をたくさんもらうためには → 壁を素早く美しく作ること
 ・歴史に残る大聖堂を建てるためには → イメージに合う壁を作ること

つまり、仕事の最終形に意識が近づけば近づくほど、仕事の品質が高まる傾向があると私は考えています。逆に「単にお金だけ」だけが目的で、仕事に対する興味や美学がなければ、仕事自体に魅力がないわけですから、すぐに他の仕事に移ってしまうでしょう。

だから、より仕事の最終形を意識するような「3人目の石工」を育てた方がいいのですが、そのためには、メンバーを引っ張る人間が仕事の最終形を意識していないといけませんし、その最終形を伝える努力を怠ってはいけないわけです。

たとえば、そこの親方がちゃらんぽらんだったとしたら、次のようになるでしょう。

石工:
「一体、この仕事は最終的にどうなっていくんですか?」

親方:
「生意気なやつめ、お前にこの仕事を理解するには10年早い。お前は黙って石を積んでいいんだ。ご褒美をくれてやるから、お前のようなヤツは何も考えないでとっとと働け!」

あーあ、これで、前途有望だった石工は「3人目の石工」になるチャンスを失いました(笑)。このように、仕事先のリーダーの意識がそれ以上に成長する人材の可能性の芽を摘むことがあるわけです。残念ですが、けっこうそういうこと、多いですね。

もちろん、その一方では「経験を積まないとできないこと」があるのも事実で、そうなると、どうしても時間をかけなくてはならないこともあります。しかし、その場合はその場合で、「現在の状況」と「今後期待できる状況」を伝える価値はあるんだと私は思っています。

と、思っていながらも、「実際に経営者の経験も雇用をした経験もしたことのないヤツに、一体、何が分かるっていうんだ!」と言われてしまうとぐうの音も出ません。いやいや、悔しいから書いておきます。「ぐう!」(笑)。

私にとって「多くの経営者」がどう思っているかってのはあまり意味がないのです。むしろ、常識と思われているところを熟慮の上でひっくり返すことにこそ意義があると思っています。それが「経営者にとっての常識」であればあるほど「経営者にとっての盲点」である可能性は高いわけで。

私はこれからの数ヶ月でその答えを出していくつもりです。

2012年7月4日水曜日

いつか記念碑が置かれる日


7月から新天地での「新しい試み」が始まりました。でも、まだ、全容は誰にも分からないのです。なぜなら、これから関係者全員で「ステキな環境」を構築していくからなんです。基本的に「すべてはこれから」と書きつつも、私が理想とする経由地やゴールは頭の中にできあがっています。

じゃあ、ここに書こうよ……というところなのですが、書きません(笑)。なぜなら、私が考えていることが、

(1) 実際に試してみてニーズや効果がありそうなのか?
(2) その内容が仲間に認めてもらえることなのか?

を、「独善的」にならず、慎重かつ大胆に検証しながら進めていきたいからです。時に「革新的なこと」をやろうとすると、「独善的に突っ走る」という行動が必要です。これは間違いありません。しかし、なぜ、私があえて「慎重」を選べるのかといえば、今回の関係者全員が「フロンティア精神」の持ち主だからです。

今でこそ、私の中では安定してきた「即戦力ITコース」という講座も、最初のうちは危険運転の連続でした。私の決断によって受講生を一気に失ったこともありました。実験的な試みの失敗は、そのまま運営組織にご迷惑をかけることにもなりました。それでも、私を信じて講座を継続させてくれました。

そして、まだ道半ばではあるものの、その講座を通じて精神の当事者が「本気で戦える」可能性を心の底から確信するに至りました。そういうきっかけを与えてくれた仲間と新天地を開拓できるということは、逆に自分自身の行動をよく考える必要があると思えるのです。

具体的に今後のことは何も書いていませんが、今回のプロジェクトにおける私の行動指針は明らかにしておきたいと思います。

(1) 当事者に渇望されていながら誰もやらなかったことを試す。
(2) 当事者の限界をこちらから決めるようなことはしない。
(3) 「つらい」ではなく「楽しい」という感覚を呼び覚ましていく。
(4) 「自分で動く」ことの価値と喜びを体験していただく。
(5) 「訓練のための訓練」ではなく「リアルの体験」を重視する。
(6) これらすべてが雇用する企業にとって「価値」となる形にする。

こうやって書いている中でも頭の中で、いろんなアイデアが発泡酒の泡のように湧いてきます。そして、「それを現実化するまでの距離の近さ」を思うとわくわくします。「法定雇用率のためになんとなく雇用する人材」ではなく「本当に期待せざるを得ない人材」を輩出できる環境を目指したいと思います。

人間はね、飼い犬じゃないんだから。「命令を聞いて、餌をもらえて、生きてさえいればそれで幸せだろ?」なんてことはないんですよ。どんな人でも生まれた時に、いろんな人との違いを持つんだけど、それがたまたま「障害」と呼ばれる違いだったりすることがあるんですよね。

じゃ、その「障害」があるからといって「残りの人生全部をあきらめろ」なんていわれたら、生きている価値がないじゃないですか。下を向いて生き続けるには、残りの人生は長すぎます。でも、現実のところ、「社会から期待すらされていない当事者」ってすごく多いんですよ。残りの人生、社会からアテにされない……というのは、考えてみたらむちゃくちゃ苦痛ですよ。

でも、そういうのを変えていくには「理不尽だ!」と不満をぶちまけるだけじゃいかんと思うのです。実際にどれくらいの力があるのか、社会に見せつけていかなきゃならんのです。不満を言っている暇があるなら、その時間を使って「何か一つでもすごいこと」をやってみろ……と思うわけです。で、キツイコトいいますけど、「自力でやってみろ!」とか思うんです。

でも、ま、そういう「何か一つでもすごいこと」を試すステージすらないというのもまた現実。で、たまたま、こういう領域に踏み入れた私に「できること」がたくさん待っているような気がするんですね。なんで、私は「本気で戦える環境」を必死で構築したいと思っています。でも、甘いことはいいません。本気でやらない人には無理な環境にしたいとも思っています。

と、いうのは、あくまでも私の個人的な思いです(笑)。いろいろと検討を重ねた結果、どういう内容になるのかは未定な部分もありますが、願わくば、これからの日々が「『あの日』が変革が始まった日だった」と振りかえれるような歴史にしていきたいと思っています。

2012年6月27日水曜日

軽作業系は足りている


いろんな事情を抱えている人がいて、また住んでいる地域によっても違いがあることを理解した上で書きたいんですけど、比較的、軽作業とかの仕事って、支援したり仕事を開拓するための人材比率が高いような気がするんですよ。

たとえばね、「障害者が仕事するための作業所を運営しています。」って話を聞くと、知的障害の人たちが単調作業をして生活していくための施設だってことが多いんです。もちろん、これは私の知っている範囲で「たまたま」なのかもしれないけど。

この領域の話って、すごくよく聞くんですよねえ。有名どころではパン作り。他にも伝統工芸品作り、清掃業務、洗濯業務、洗浄業務、シュレッダー、バックヤードのピッキング。いや、今まで何度も書いているけど、これらの仕事がダメだとか言うつもりはないんですよ。

でも、細かいところでポリシーや手法の違いはあるものの、そういう系統の作業を支援する人はとっても多いような気がしています。まだまだそういうところに人材が必要だということも分かっているけど、私はその分野をあまり積極的にしたいなんて思いません。

なぜって、その分野の適性が私にはないから(苦笑)。単調作業は数分で眠くなっちゃう。それ以外にも「難しい顔で挑まないといけない会議」とか、実は精神的に大きな負担なんですよね。話題が頭に入らないのに眠気と戦う……って、一体なんの罰ゲームだと思うくらいです(笑)。

……と、そういう話も含めて、正直な気持ちを白状してみると、だいたい次の通りです。

・私が興味のもてないことに人生の時間を費やす意味を見いだせない。
・私が今まで蓄積してきたノウハウを活用しないことはもったいない。
・そもそも他の人がやらない領域にこそさまざまなチャンスが転がっている。

だから、「メンタル」+「ストレス対応」+「ITスキル」というハイブリッド技ができる領域を私は志向しています。力自慢の人たちがたくさんいるところに力自慢が入っても、そこでの価値は薄められるだけです。大多数が向かわないところに異端者が行くから価値が高まるんだと思います。

私は小さい頃から「人と同じことをやりたがる」ふりをしながら、「必ず人と違うことをしたい」という気持ちが強かったり、「気がついたら人と違っていた」という天然な結果が多くありましたが、まぁ、それも個性さ……ということで、今はけっこう助かっています。

そんなわけで、私は「積極的に頭を使わなくてもよさそうな領域」ではなくて、「とびっきり頭を使わなくちゃいけない領域」を全力で開拓していこうと思っています。それも「ラクをして」という要素は絶対に外せません。メンタルな人が快適に頭を使って幸せな生活が送れたらなと。

ホント、こういうことを考えているとワクワクします。もしかすると、今、私が携われている仕事というのは私にとって天職なのかもしれません。

2012年6月20日水曜日

職業選択の自由のために

メンタルでお悩みの障害者周辺の就職事情で、大きな課題は「実質的に職業選択の自由」が限られているということ。これには課題がふたつあると思っています。(「身体障害」だったりすると、比較的障害者手帳を持っていない人と同等のクオリティの職業に就きやすかったりします。)

(1) メンタルというだけで企業側が「軽作業」「事務作業」「清掃」に職域を絞ってしまう
(2) そもそも支援者に専門職(IT、経理、法務など)の経験者がおらず選択肢を知らない

私が考えている「職業選択の自由」に関する課題はこのふたつです。

まず、(1)から考えると、必要なスキルを持っていたとしても、オープン(障害手帳を持っているよ……ということを企業にカミングアウトすること)で就職を狙ってみても、求人票をみると「コピー機使えますか?」「シュレッダー使えますか?」というリクエストが多かったりします。なんとも残念な現実です。

ただ、その一方で、(2)の課題も残念だと思うんですよね。「選択肢をしらない」ということは、本来であれば「適性」があったかもしれないのに、知らないせいで「人生レベルの機会損失」をしている可能性があるということですね。この課題を何とかしたい……というのが、私が「即戦力ITコース」をやっている理由だったりします。

現実的に(1)の課題は重いものです。で、「がんばってみても『出口』がないのでは、どうしようもないではないか」といわれてしまうと、現時点においては確かにそうかもしれません。しかし、それでも(2)から始めなくてはいけないのです。なぜかといえば、(2)から解決しないと、(1)の課題にアプローチできないからです。

企業に「『軽作業』『事務作業』『清掃』以外の人材を雇ってください」とお願いしたところで、現実的にそれに該当する人材が少ない状況では、それまでなんですよね。また当事者が「社会環境が整ったら○○の仕事をしたい」と思っていても、おそらく受け身のままの姿勢では百年たたないと状況が整わないかもしれません。

しかし、たいていの人生は百年も生きられません。そしてまた、「生まれ変わって次の人生を体験できる」保証なんてどこにもありません。ほぼ、「そんなことは現実にない」と思っておいた方が一般的には無難でしょう。だから、今の人生を無駄にするなんてことはもったいないんです。幸せに生きる可能性に賭けた方がいいんです。

そうならば、社会を積極的に変えることに力を使った方がいいというのが私の考え方です。しかし、私が考える方向性は「障害者の権利擁護」とは全く関係のないものです。むしろ、本気で「職業選択の自由」を勝ち取るためには「障害者の権利擁護」からスタートすべきでないというのが私のスタンスです。

「被害者意識」から得られるモノは少ないことを知っておくべきだと個人的に思います。基本的に「被害者」が「かわいそう」という理由で企業は動いたりしません。障害者の雇用に熱心な企業でも、本質的には銭勘定で動いています。そうでなければ、企業が厳しい社会情勢の中で生き残るわけがないのです。

すると、企業を動かす本質的な力はなんなのか?……ありていに書けば「その企業にとっての利用価値が高いかどうか」に尽きます。これは障害者手帳の有無に関係なくそうでしょう。障害者を雇用すると国から様々な助成金が企業に支払われます。つまり雇用そのものについては障害者の方が企業にとって有利といえると思います。

あと、必要なもの。それは、「障害者手帳を持っていない人と渡り合える人材」という条件です。「障害者手帳を持っていない人と同等」で、「雇用コストが障害者手帳を持っていない人よりも低い」ということが事実として常識になれば企業の意識は間違いなく変わるでしょう。障害者手帳オーナーの方々、これを聞いて「無理だ」とあきらめますか?

私はこの可能性を大まじめに追いかけてみようと思っています。私は7月から今とは異なる新しい道を歩き始めることにしました。社会を変える可能性のある人たちと本気の冒険に出るんです。冒険の記録はブログに書いていきたいと思っています。ついてきてくれる勇気のある仲間が「勇者様」になれる日まで私は走り続けます!

2012年6月13日水曜日

「ボランティア=無償」を考える


このブログではほとんど枕詞になりつつありますが、私は就労移行支援の仕事をしています。でも、「慈悲」とか「ボランティア」という言葉にはあまり興味がありません。まず、「語感」が苦手です。もちろん「ボランティア」って大事なコトですよ。でも、苦手なんです。

なぜ、こんなに「ボランティア」という響きが嫌いなのかというと、どことなく「自分はいいヤツだ」とか「わざわざやってやってあげている」という言外の含みを感じるからです。はい、たぶん私のヤッカミなんだと思います。けっこう私は心が狭いですから。ヤッカミの理由は後ほど。

……と書くと、「じゃあ、お前はお金のためにしか動かないのか?」と聞かれるとそうでもありません。むしろ、お金のことを度外視してやったこともたくさんあります。ただ、それでも、私は「ボランティアをしました」とはいいたくないんです。

それをなんと呼ぶかといえば、あえていうなら「道楽」です。「ボランティアでゴミ拾いをしました」といわれると、「すばらしいですねえ」っていわないといけない気持ちになるけれど、「道楽でゴミ拾いをしました」なら、冗談まじりに「暇なんですか?」くらいで返せますからね。

つまり、「ボランティア」という言葉には「暗黙の賛辞の要求」がセットになっているような気がするんです。あえて「ボランティア」という言葉で自分の善行をアピールする必要なんてどこにもないんじゃないかと。善行はさりげなく、誰にも気づかれないのがたぶんかっこいいです。

それから、「ボランティア=無償」というイメージがつきまとうのも、私としては微妙な気分になるんです。最初から「無償」であることを暗黙の内に期待されてしまうと、ついつい「衣食足りて礼節を知る」という言葉を思い知らされるわけですよ。ホントにいやおうなしに。

だって、「無償」という旗印を堂々と掲げられてしまうと、私の価値観では「ボランティア=金持ちの道楽」という定義になってしまうんです。家族を食べさせていくだけでいっぱいいっぱいの自分が「道楽」どころではないだろうと。そんなことをしている暇があったら働け、自分。

たまに家庭の困窮も顧みず、ボランティアに身を投じる方の話を聞きます。そういう場合、その周囲の人たちも賛辞を送るのが普通です。でも、私の価値観では「アホか!もっと先にすべきことがあるだろう!」と思ってしまうのです。現実から逃げているようにしか見えません。

そもそも、ボランティアの価値を最上級に考えない方がいいと思います。たとえば、医療研究者がボランティアで、難病の子供達のために「千羽鶴」を折るようなことがあってはいけないと思うんです。そんな暇があったら「医療研究」に打ち込んでくれた方がいいわけで。

何度も書いておきますが「ボランティア」を否定しているわけではないです。できる余裕のある人はどんどんやるといいと思うんです。世の中との接点が少ない学生さんとか、老後の時間とお金があり余っている方々とか。私もそんな立場ならやってみてもいいと思います。

その上で私は宣言しておきたいと思います。私は「無償」を前提とする活動には、「私の夢」を果たすまでは一切参加しないつもりです。私の夢は、「障害手帳を持った人が全力で勝負できる環境を切り開くこと」と「家族に経済的な苦労をかけずにすむようになること」です。

私には描いた夢を現実に叶えるため、時間とお金が必要なのです。夢を現実化させるために家族との時間を少なくせざるを得ませんが、その貴重な時間を「お金にならないこと」には使えないのです。自分が心から目指していきたい夢そのものにもお金がかかるからです。

ずっと考えていましたが、私は「お金にならないボランティアなんて一切やらない」と宣言する勇気を得ました。普通に考えたら「なんて公共心に欠けた人だろう」と批判されても文句は言えません。それでも、選択と集中をしていくために「綺麗事」はやめることにしました。

しつこくなりますが、「ボランティア」が悪いというつもりはありません。でも、考えるべきだと思うのです。その「ボランティア」の先に「本当の自分の夢」があるのかどうか。あるのならいいんです。しかし、「かっこつけ」とか「断れなくて」だったとしたら、やらない方がいいと思うのです。

私は「ボランティア」の感覚ではなしえない、「私にしかできないであろうこと」に全力を傾けていこうと思います。公共心がないと思われるかもしれませんが、いつか、私の行動が「大きな回り道」をした後に、社会変革の一要因になれれば嬉しいと思います。

2012年5月30日水曜日

臨機応変が苦手


一部の発達障害オーナーの人は理解してくれやすいかもしれませんけど、私は「臨機応変」という言葉が苦手です。ハッキリ言えば嫌い。「臨機応変=判断は任せる」という意味だと思いますが、実際のところ「判断しがたい状況」って割とあると思うんですよね。

「臨機応変に対応してください」という言葉が期待している内容を叶えるためには、「依頼人にとってのベストな判断」が何であるのかを知らないといけないんですね。で、その期待を外した行動をとれば、「なんでそんな判断をしたんだ」と文句をつけられます。理不尽この上ない!

また、能力的なハードルもあります。たとえば、完全なメカオンチな人に「機械が異常動作をしたら臨機応変に対応してください」といったとしても、お願いされた人には判断のしようがないんですよ。つまり、「仕組みをしらない人」に「臨機応変」は通用しないんですよね。

そこまで極端でなくても、「臨機応変」には広範な前提知識が必要になることがあります。たとえば、揚げ物の鍋に引火して炎が上がったとき、何も知らなければ水をかけて消そうとする人がいると思います。もちろん、この行動は間違っていて非常に危険です。(逆に火が燃え広がります)

この二つの例はいずれも「臨機応変」を指示した側に大きな問題があります。ひとつには「臨機応変」な対応をする適性がない人に判断責任を委ねてしまっていることで、ふたつには「臨機応変」になるまでの危機管理のガイドラインがないことです。

なんでも「臨機応変」という「魔法の言葉」で安易に片付けてしまっちゃいけないんです。もちろん、全てのケースを列挙することは無理です。どれだけ時間をかけてもそういうマニュアルを作れないし、作れたとしても、読み切った上で全てを暗記することは無理ですよ。だから基礎力が必要なんです。

「臨機応変」とは「基礎的な知識を駆使して」「その状況でベストだと思われる行動」を考えなくてはならないという、極めて高度な仕事を要求しているということなんですね。「臨機応変」という言葉を多用することは、「その人の価値観を予測しろ」ということに他ならないわけで。やはり苦手です。

エスパーではない(そして他人の期待から外れたところに着地しやすい)私としては、「臨機応変」などという「魔法の言葉」よりも、ちゃんとした「ルールブック」が欲しいわけです。ルールブックが無理だとしても、私なりの「臨機応変」に文句をつけるんじゃねー!……と、訴えたいのであります(笑)。

「臨機応変」という言葉を使うとき、よーく心してください。その結果、何が起こっても、それは「臨機応変」といった人に責任があるんですよ。幼稚園の子に「たき火番」をさせて、大火事になったとしても、普通に考えたら子供に責任はないですよね。この場合、もちろん悪いのは大人の判断能力です。

ここまでは誰にでも分かるのに、「臨機応変」という言葉を使うときには忘れてしまうことが多いのは不思議なことです。ええ、本当に不思議です。私もたまにそうですから。「臨機応変」といわれて困った自分の気持ちを忘れず、なるべく「臨機応変」を誰かに押しつけないように気をつけたいと思います。

2012年5月23日水曜日

わが闘争(という妄想)

私はポジティブな人間だと間違われることもあるのだけれど、実は超がつくほどのネガティブ人間という一面もあるんです。だから私がいろんなことに「否定」から入っていくことも少なくないです。そして、だからゆえに、「誰にでも刃向かう」とか「波風を立てる人間」という評価を受けることだらけです。

実際のところ、私はどうにも扱いにくい人間だと思います。特に「支配」という上からの圧力、「常識」という世間の大多数を盾にした力。私はどうもそういう力には逆流するタイプで、いろんなところで毒づいたり、勝手に苦労していたりします。客観的に見れば自業自得としかいえないわけですが。

ただ、私が噛みついて戦っているのは「力」そのものではありません。その先にある人間でもありません。ありきたりな表現になってしまうのですが、行き着く先は「自分自身」なんじゃないかと最近思うんです。「当たり前というあきらめ」に流されやすい自分に対してなのかなと。

だから、刃向かいます。そして批判します。否定します。でも、本質的には自分自身が相手なので、ひたすら自分の中で立場を変えながらディベートします。そのうちに最初に否定していた物事が、自分にとっても受け入れやすかったり、それでも違和感がどこかにあることに気づくことも多かったりします。

もう少し本音で書くと、そりゃ、直接的な相手に「カチン」とくることってあります。その瞬間はあまり理性めいたものはありません(苦笑)。最初の出発点はそこから始まるんですが、徐々に検証に入っていくんです。「相手が立たされた状況は?」とか「本当に自分自身に選択肢はないのか?」とか。

誤解を恐れずに書くと、世の中、たいていのことはお互いに「ずるい」ことをやっていたりします。自分では「私はずるいことや恥ずかしいことは一切やっていない」と認識していても無駄というものです。それは「ずるい」と感じた相手側の立場からしか見えないことだから。

そうやって「ちょっと変だよね?」というポイントに気づく感度を高めていくことは、無駄にはならないと私は思っています。それによって不快に感じる人がでてしまう点は、今後の課題としていずれは改善しなくてはいけないわけですが。それでも立った波風はどこかに役立つような気がします。

ちなみに、私は「自分は清廉潔白だ」と思っている人を信用しないことにしています。そういう人は、自分が犯した過ちや、犠牲にしている人たちの現実を直視できない人だと思うからです。私はというと、泥臭い失敗をたくさんしました。汚れればいいというモノではないのですが、決してきれいな人間ではないんです。でも、だからこそできることがあると思っています。

2012年5月16日水曜日

健常者だとどれくらいでOKですか?


何度も書いてますが、私は障害者の就労移行支援の仕事をしています。でも、私は「就職させて、はい、おしまい」というタイプの支援をしたいとは思いません。たまたま障害を持っていたということで、才能や適性があるにも関わらず「本当にやりたかった仕事」を選べない人たちが、普通に職業選択ができる流れを作っていけたらいいなあと思います。

で、その一環として、健常者と互角に渡り合えるエンジニアを養成しています。養成といっても「手取り足取り」ではなくて、「自己解決」しながら自力でスキルを身につける環境を準備するだけです。それで、気がつけばDB連携したWebシステムを構築できるようになっていたり、センスのいいWebデザインができるようになった人も育ちました。

ここで「健常者」という言葉を使うのは無粋の極みなんですが、あえて書くと、当事者には「健常者のシロウトが追いつけないレベル」を目指してもらいました。むしろそうじゃないといけないと思ったんですよ。「健常者>当事者」という枠組みで語るのではなく「熟練者>シロウト」という枠組みで立ち位置を定めた方がいいだろうなと。

でも、たまたまだと思うんですが、最近、立て続けに違う人から聞かれました。

「彼らがやっているWebページの更新って1日くらいでレクチャー受けられますか?」
「健常者に説明してほしいのですが、健常者だとどれくらいでOKそうですかね?」

……もうね、残念すぎるんです。特に福祉関連の人からそういう話を聞くと心の底からブルーになるんですよ。「結局、障害者よりも健常者の方が優れているという先入観があるのかな」って。そうじゃなくて、彼らがWeb関連の技術を獲得したのは「時間」と「モチベーション」と「気合い」を投資した結果であって、そこに能力差はあまり関係ないわけですよね。

健常者だろうがそうでなかろうが、こと、技術分野の領域の話では「時間」+「モチベーション」+「気力」=「経験値」になるわけで、健常者であれば「時間」も「モチベーション」も「気力」も不要で経験値を蓄積できるなんてことはないんですよ。もちろん、その周辺技術をあらかじめ知っている人にレクチャーするのであれば、いくらでもショートカットは可能なんですけど。

彼らが数ヶ月ほどの時間をかけて「自力」で獲得してきた技術や経験を「健常者に1日程度でレクチャーしてほしい」なんていわれるのは非常に残念なんです。そして、たいていの場合は「無償」であることが前提だったりします。当事者の努力に対しても、獲得した技術そのものに対しても圧倒的に敬意が払われていないような気がしてならんわけです。ただなら便利に使ってやろうと。

だからこそ、もっとがんばらないといけないなと思います。私もそうだし、当事者もそうなんです。表現として美しくないかもしれないけれど「ナメられないレベル」を目指していかないといかんのだと思うのです。「彼らの技術を1日で、それも無償でレクチャーしろだなんてとてもいえない」レベルになっていかないといけないのです。ぱっと見でわかるレベルでないといかんのです。

そういう意味で、前述の言葉を発せられた方々を恨むつもりは毛頭ありません。私と当事者が置かれた現実を正確に把握させてもらったという意味で感謝しているんです。自分の中では「そこそこいい結果が出始めているんじゃないだろうか」と思い始めていたことも事実です。そのあたりは甘ったれていたわけですね。そこは率直に反省でございます。

そんなわけで、心を入れ替えて、楽しみながら結果を出していくぞう!

2012年5月2日水曜日

マナーなんて教えない

深い意味はないのですが。今回は「ですます調」です。いや、もっとくだけて「口語調」。

さて、私のクセというか、どうしても刺激的なタイトルを付けてしまうのですが、たぶん、それくらいでちょうど私が考えていることが伝わるのかな……と思い、やっぱりこのタイトルです。先に謝っておきます。ごめんなさい。

さて、就労移行支援事業というと、すぐに「プログラム」とか「マナー」とか、そっちの方に行きがちですよね。でも、私は違うアプローチで社会性を身につけてくれたら嬉しいなあと思っているのです。そもそもね、発達障害とか、そのあたりって、社会に溶け込むのが体質に合わないから困っているわけです。

そこに「まずは挨拶の仕方ができないと就職なんてさっぱりダメだ!」とやっちゃっても、個人的には意味がないかなと思うんです。だって、もともとあまり働きたくなかった人が、なんとか「働く選択肢もなくはない」というステージに来たわけですよ。ま、もちろん、挨拶が社会人の基本というのは正しいんですが、いきなりそこから入って萎えちゃったらもったいないよなあと。

だから、挨拶とかマナーとか、そこから始めちゃうのってどうなんだろう……って思うんです。もちろん個人差があるので「全ての人がそうすべき」だなんて思ってはいないんだけど、苦手なところから出発するんじゃなくて、「自分ってこういうことをやってると楽しいらしい」とか「こういう仕事だったらやっていけそう」とか、そっちが先だと思うんですよ。はい。

つまり、本質的に「仕事」とか「仕事を構成するスキル」を楽しんでもらって、「この楽しいことを生活の中心にしていくためにはどうすればいいんだろう?」……という、逆説的なアプローチで社会性を身につけていくというのはアリなんじゃないかなと。実際に私が運営している仕事シミュレート環境では、社会性についてのプログラムは一切用意していません。少なくとも私はやりません。

じゃあ、システム開発とかWeb制作とか、デザイン制作とかができるようになってきた人たちは社会性がないの?……っていうと、決してそんなことはないんです。実はスキルを身につけていくうちに、その過程で普通に身につけていくんです。たとえば「質問する時の態度が悪い」場合には「そういう聴き方をする人には何も言わないよ」と言っちゃいます。

つまり、座学じゃなくて、本当に「社会性スキル」が必要になるシーンを、仕事シミュレート環境の中にたくさん転がしておくんです。あくまでも個人的な意見なのですが、たとえば「名刺の渡し方」なんてことを講義でやっても、名刺を渡す機会がそもそもない人にやっても意味がないと思うんです。それは名刺を持ってからでしょう。さらにいえば名刺を持つ仕事を選んでからのことでしょう。

挨拶にしてもね、挨拶の仕方をやる前に「人と協力しあう仕事をする」というステップが先にあって、「そのステップをどうやったら円滑にできるようになるんだろう?」っていう、「本人からの需要」があって初めて本気で取り組めることなんだと思うんです。「本人からの需要」がないのに、施設側からいろんなプログラムを押しつけるのってどうなのかなと。

たとえば英会話教室のことを考えてみるといいかなと。

(1) 暇つぶしに何か新しいことをやってみたい人。
(2) なんとなく英語が話せるようになりたい人。
(3) 4週間後にアメリカにいく用事ができてしまった人。

たぶん、一番たらたらとやるのが(1)。そもそもが暇つぶしだから、ちょっとイヤなことがあると、「やめよっかなー」って思ってる(笑)。(2)の人は(1)よりはずっとがんばれちゃうんだけど、「まぁ、焦らなくても時間をかけてなんとかなればいいかなー」と希望的観測をしていたりする。当然だけど、誰よりも必死になるのは(3)の人。だって、たらたらやっていたら後がないんだから(苦笑)。

需要レベルが(1)<(2)<(3)という形になっているんだけど、たぶん同じ講義を受けていたとしても、密度は全然ちがうと思いますよ。就労移行支援事業にしたって、そのあたりの本質は同じだと私は思ってます。でね、言いたいのは「無駄なことにお互いに時間をかけるのはやめよう」ってことなんです。「聞きたくもない話を聞かされる人」→無駄。「聞きたくない人に話を聞かせる人」→無駄……ってことです。

これは私だけがそうなのかもしれないけど「自分と関係なさすぎる話」を聞くというのは、もうね、ものすごい苦痛なんですよ。さらにその上に睡魔と戦わないといけないという状況は地獄ですよ。そもそも「戦わなくてもいい睡魔」と戦っている時間って生産性ゼロですからね。睡魔と戦っている時間があるならもっと「自発的」に使った方がいいと思うんです。

もちろん「社会人になったら睡魔と戦うのも仕事のうち」って言いたくなっちゃうのは分かります。私だってそう思うから。そう言っちゃいたくなるから。でも、何のインセンティブもないうちに「ツライところから体験してもらう」っていうことの価値について、実のところ私はよく分からないです。

私だったら「そんなツライだけの社会人なんて、誰が好きこのんでなるか?」って思っちゃうもの。仕事そのものの「楽しさ」がまず先にあって、そこに相反する「イヤなこと」というのが出てくる。「楽しさ」の恩恵を享受するためには「イヤなこと」をなんとかしなくちゃいけない。そういう関係性があって初めていろんなノウハウが必要になると思うんですよ。ノウハウに需要ができるんです。

そんなわけで、私はね「フォーマット」としてのプログラムを先にやるんじゃなくて、「需要」だとか「モチベーション」とか「自己改善のきっかけ」みたいなものを、本人の中から掘り起こすところからはじめていきたいなあと思ってます。同じことをやっていても「楽しさ」があれば、体感時間は半分以下になります。ということは相対的に密度は2倍なんです。私の仕事シミュレート環境では、週末によくこんな言葉を聞きます。

「ああ、もう、こんな時間か。早いなあ。なんで明日は休日なんだろう?」

なんて。
これが数年前に自宅に引きこもっていた人のセリフとは思えません(笑)。
本当に嬉しい変化です。

2012年4月25日水曜日

発達障害はある意味で幸せな生き方


発達障害ってね、ある意味で幸せな生き方だと思う。自分の好きなことに全力を出しやすい特性なのだから。そういう意味でも「これぞ」と思える道探しは重要だと思う。逆に得意分野以外では圧倒的にアウェイなのだから。


先日、ツイッターでこうつぶやいたら、「簡単に言っちゃいけない……」と控えめなご意見をいただいた。「たしかに簡単でもないんだよなあ」 と思うとともに、「だからこそ『簡単』に言わないといけないんだろうな」とも思った。その理由については後述するが、まず、その前に訂正しておきたいことがある。

訂正したい点は「発達障害はある意味で幸せな生き方」という表現がちょっと乱暴だったということだ。もうすこし私が伝えたい意味にそって正確に書き直すと「発達障害と呼ばれる人の中には、特性を活かして幸せに生き方ができる人もいる」というところだろうか。

私自身は医師から発達障害という診断を受けたことはないが、実際に診断を受けてみたらどんな結果が出るものやら……と思っている。実際に社会の中で活躍している人たちの中にも、病院に行ったら「発達障害」という診断を下される人はたくさんいると思う。

ただ、それが直ちに「障害者認定」に結びつかないのは、「生活に著しい不具合が生じていない」というケースが多いからだろうと思う。私にしてもそうだ。ただ、人付き合いがヘタクソで、過去に不穏な空気をたくさん作ってしまった自覚はある。なぜそうなったのか理由が分からないケースすらある。

私は本質的に「人付き合い」が苦手だ。私が人付き合いできているのは、ひとえに相手になってくださる方々が寛容さに依存しているかもしれない。一日中、誰とも会話することなく、一人の世界に没頭することも苦痛ではないし、できればそうしていたいという気持ちもどこかにはある。

子供の頃、「そういうことをしたら、普通、人はどんな気持ちになると思う?」と聞かれて、「人の本当の気持ちは分からない」、「人によって違うと思う」と答えることが多かったように記憶している。むしろ、他人の気持ちを「想像」するよりも、常に「真実」を口にすべきだ……と思っていた。

そして、実際に私が通ってきた道は対立の連続だった。いろいろなところで「波風」を立ててきたし、「真実を貫くためにはやむを得ないこと」くらいの気持ちでいた。「ちょっと世の中から浮く存在」という私にとって、発達障害と呼ばれる診断を受けた人たちの考え方には深く共感できるところが多い。

さて、トラブルの多かった私がそれなりに快適に生きてきた方法は、次の二点に集約される。

・自分が苦手とする領域になるべくいかないこと
・人間関係は事実の確率に基づいた「論理」で解決すること

それぞれの詳細についてはいずれ触れてみたいと思うが、世の中が自分にとって生きづらい環境であるならば、少なくとも、自分の半径50センチ程度の範囲だけでも改善していくことから始めるといいんだと思う。オフィスで働くのがイヤならノマドワーカーになるのも有効な手段だと思う。(実際にやってみると、地味にトイレや電源の確保が悩みの種になるのだが)

もちろん、これも「全ての発達障害の人に有効」という方法論ではない。なぜなら「全ての人に有効な○○」というものは存在しないからだ。「発達障害」というくくりで話を始める前に「人間」という大前提を認識しておくことが当然で、そこには実に奥深い多様性があることは忘れてはいけない。

そういう前提においても、発達障害と診断された方のだいたい3割くらいは、一緒に可能性を磨いていきたいと思わせる人がいる。そして、その中のさらに何割かは実際に「自力」でスキルを身につけていく人がいる。その環境下で、実際にWebデザイン制作やWebシステムの構築ができる人もいる。

確かに発達障害を取り巻く環境が、素晴らしく幸せなものではないことは百も承知だ。それに乗り越えていかなくてはならなさそうなハードルもある。たとえスキルを身につけたからといって、そのスキルを活用できる形で採用してくれる企業は少ない。

どれだけシステム開発ができようと、素敵なデザインができようと「シュレッダーとコピー機を使う簡単な仕事です」という求人票に直面してしまう。法定雇用率(企業において1.8%以上の障害者を雇用するように国から指導されているルール)を満たすために「無難」な障害者を欲しがる企業は多い。

それでも「未来は明るい」ことを信じていた方がいいと思う。なぜなら「簡単ではない」=「難しい」と思った瞬間に、自己暗示にかかってしまうからだ。確かに現状においては、あまりいい材料はない。しかし、だからこそ「ハラミやホルモン」を目指す人が現れないといけないと思う。

今でこそ人気のハラミやホルモンは、かつては、お客様に提供できない部位として捨てられていたらしい。諸説あるが「ホルモン」=「ほうるもん(捨てるもの)」というところから由来しているという話もある。その真偽はともかくとして、社会全体がついてくるより前に、時代の先を歩くと認められないことは多い。

しかし、「現状の企業に認められないから」といって、可能性を持った人たちが簡単にあきらめてしまっては、いつか企業に「発達障害といわれている人の中には有益な人材がいる」と気づいてもらう機会を永遠に失ってしまうことにつながりかねない。それではいつまでたっても世の中は変わっていかない。

発達障害……私が関わってきた人たちの範囲でいえば、非常に論理的な人が多いような気がする。もちろん、特定の「こだわり」領域が強すぎる場合、その領域に関する部分だけ論理性が弱まることもあるが、それでも論理的な仕事に向いている人は多かったような気がする。

そういう特性が全ての人にプラスに働くとは言い切れないが、少なくともそういう傾向がある人は、そういう傾向を「メリット」として活用した方がいいと私は思う。私はそういう人の底力を信じていて、本来の能力を磨くことに時間を費やしている。

もちろん私は単なる人間だし、私が全ての人を幸せにできるなんて妄想などは抱いていない。そもそもそんなことは無理だ。ただ、私が目指している方向性を信じてくれる人が何名かいてくれて、そういう人たちと「まっとうな形」で社会進出していけたら幸せだなあと思っている。

2012年4月18日水曜日

二番煎じが効率的だから

諸説あるようだが、「二番煎じがもっとも効率性を追求できるビジネス手法である」という考え方がある。一番手は「多くのリスク」をかかこんでしまう。さりとて最後列に並んでしまうと利益はほとんど残っていない。だから「革新的な一番手が通った直後を通れば、少ないリスク(=コスト)で利益を享受できる」という考え方だ。

「ビジネス」として考えた場合、私もほとんど同意する。もちろん、「働くことに関する幸せ」ではなく「利益の効率性」を最優先するわけだが、それはそれでありだと思う。しかし、「就労移行支援事業」として考えたとき、私はビジネス的な考え方を貫き通すことに大きな疑問を感じる。自分たちの利益のために利用者の人生を「犠牲」にすることになってはいけないと思うからだ。

賛否両論あるだろうが、私は障害の有無にかかわらず「自ら考えて働くことの幸せ」を体験できる場を必死になって作ってきた。その結果として、「高いモチベーション」が先行して「体調」を牽引するというケースをたくさん見ることができた。「自分が必要とされていること」そして「自分が持っているイメージが実現する楽しさ」は、人生の起爆剤になる。

この環境を作り上げることができたのは、「既存の価値観」をできる限り意識せず、「前向きに生きることに何が必要なのか?」という一点のみに集中させていただいた環境のおかげだ。そういう意味では私一人の力で達成しえたものではなく、多くの方々に無言のご支援をいただいたからこそ実現できた。

私が作り上げた仕事環境は、「自分たちで考える」、「自分たちで解決する」という一貫した理念のもとで急成長している。私にとってそのルーツとなる考え方は「NPO法人NECST」が運営する、メンタルの方が集うクラブハウス「ForUs」のマディソンモデル活用事業に学んだもので、当然ながら私はこの考え方に大きく同意している。

ここで逆説的に考えてみよう。私が構築してきた「自律的職業訓練環境」を壊す方法は非常にシンプルだ。それは「職員が考えたルール」を利用者に一方的に押しつけてしまえば、すぐに崩壊する。彼らを「幼児」のごとく扱い、尊厳を傷つけるようなルールを導入すれば、1年近くかけて構築した環境は1ヶ月ともたないだろう。

だからこそ、私は感謝している。今まで二番煎じ的な発想で他の事業所のマネをせず、リスクがあっても独走させてくれたことに対する感謝だ。私のもとで仕事をしてくれている利用者の方がこんなことをいってくれた。「もし、ここが他の作業所と同じように管理型のルールを押しつけるような場所だったら、私はここにもいられなかったと思います。」と。

その時に私は気づいた。「ビジネスの基本は『質のよい模倣』にあるが、彼らに必要な環境は模倣性を高くして得られるというものではない。」ということだ。就労移行支援事業者が「右にならえ」をしてしまえば、社会の中に居心地の悪さを感じている彼らから選択肢を奪い取ってしまうだけになってしまう。

もちろん、私が目指している仕事環境は万人に適しているものではない。だからこそ、私とは違う価値観の人間が他にも就労移行支援事業を立ち上げるべきなのだと思う。そのようにして、バラエティ豊かな環境が選択肢の幅を広げていくことになれば、もうすこし世の中が明るくなるのではないかと思っている。二番煎じではない独自性の高い就労移行支援事業が増えてくるといいと願っている。

2012年4月11日水曜日

「ありがとう」が「働く」こと

「働きたいと本気で思ったことはありますか?」という質問は、就労移行支援をやっていると、どうしても聞いておかないといけない質問だと思っていた。そもそも「やる気」がなければ「スキル」を身につけても社会に出て行くことなどできないからだ。だから、まずは「気持ち」が大事だろうと。

しかし、最近、そればかりじゃないんだなと思うことがある。たとえば、私が運営している仕事訓練環境では、「業務ありき」という状況になっている。そして、その業務を遂行するための方法も教えない。ただし、「自分で考える」ということに対するヒントは出していく。それでも、基本的には仲間と相談して解決策を考えてもらうようにしている。

そういう環境において、「不思議な人材」が生まれてくるのだ。業務を遂行するための方法論、そしてどのような仲間とどのようなチームを組むと先に進めるか……ということを考えるのが得意な人、全体のモチベーションを高めるのに活躍する人、それぞれの長所を繋ぎ合って弱点を補い合う人……など、きっちりと連携して、そして自分たちで業務を完結していく。

それでも、「働きたいと本気で思ったことはありますか?」という質問に対して、「正直なところ、ありません」と答える人がいるのだ。十分に仕事をやっていけるし、こういう人が会社に入ったら助かるだろうな……と思えるような動きをする人でも、「働く」ということに対して「違和感」を感じている人は意外にいる。

気になって本人に聞いてみたところ、「なるほど」と思える事実が分かった。その人にとって「仕事」とは、「命令された『指示』どおりに一日中動く」ということが「働く」という認識だったということだ。そして、「働く」=「時間の牢獄に入れられる」というイメージで捉えていたのだ。確かに仕事にはそういう面があることは否めない。

実は、私が大学を卒業したばかりの時に「仕事」に対して抱いていたイメージと同じだ。社会人になるということは「自分の人生を捨てることだ」とまで考えていたことがある。まさか、それから十数年後に「楽しく仕事をしている自分」がいることを全く想像できなかった。「仕事」=「楽しい」という側面もあることに若かりし頃の自分は気づけなかった。

今にして思えば、「仕事」を楽しくするか、ツライものにするかは自分自身の心の在りようにかかっている。自分自身で「仕事」を作り上げようとすればするほど、「仕事」は限りなく「趣味」に近づく。逆に、「仕事」を命令としてこなそうとすればするほど、「仕事」は限りなく「労役」に近づく。一日に指定された時間で「趣味」をするか、それとも「労役」をするか。その違いは大きい。

今、私が運営している仕事訓練の場所では、自分たちの責任において、よりよい品質の業務を進めていこうとするモチベーションがとても高い。多少、時間がかかったとしても、私はその気持ちこそ大事にしてほしいと思っている。なぜなら「お客様が喜んでくれること」を価値観の中心に据えてくれているからだ。お客様が喜ぶことが目的にさえなればいいのだ。

どんな仕事も「お客様」がいる。想いを込めた仕事には、お客様が満足して「ありがとう」と思ってくれる。その気持ちを最上級の形にしたものが「お金」なんだと思う。全てのことが「感謝の言葉だけ」で済ませられるのならお金はできるだけ払いたくない。そのお金を払ってでも感謝したい……と思ってくれるだけの仕事をしなくてはウソなのだ。だから仕事は面白いのだ。

かつて、仕事に対して拒絶感があった私がたどり着いた考え方。ここに一人でも多くの方がたどり着いてくれたらうれしい。

2012年4月4日水曜日

「やらせる」ではだめなんだ

世の中には実にさまざまな考え方がある。「ゴールデンルール」、「GTD」、「7つの習慣」……など、仕事の効率を高める方法には私自身も非常に深い興味を持っている。しかし、こういう仕事術には注意をしなくてはならないと思っている。就労移行支援事業に関わる立場として、特に私は注意を払っている。

それは「自分に役に立ったからといって『やらせてみる』ではダメだ」ということだ。組織を動かすプロに多いような気がするが、「やらせればなんとかなる」と勘違いしてはいけない。なぜなら、そこにいたるプロセスの方がずっと大切だからだ。逆説的にいえば、「やらせる」という形ではうまくいかない確率のほうが高いと思う。

私は個人的に「どの仕事にどれくらい時間を使ったか」という記録をとっている。ひとつのタスクごとに記録しているので、一日が終わってみて「何も終わらなかったけれど、一体、何に時間をとられたのか分からない。」ということは一切なくなった。さらに一週間毎にレビューを実施すると、「何をやめるべき」で「何をすべきか」という点が明確になってくる。

しかし、実は、この行動記録を数年前に「やらされた」ことがある。とある社長の業務命令に仕方なく従ったわけだが、実はまともに業務記録などやっていなかった。ありそうな時間記録をして、ある意味では「でっちあげ」で報告していた。なぜなら記録をとること自体が「時間の無駄」だと思っていたからだ。だから当然、何の役にも立たなかった。

つまり、「自分で自分を改善しよう」という明確な目的がなければ、どれだけメソッドが優秀であっても意味がないのだ。「目的に達するためのメソッド」という考え方が重要で、「メソッドを実行することが目的」になることは全くナンセンスだ。本質的には「メソッドに近づきたくなるモチベーション」を身につけることの方が大事だ。

たとえば就労移行支援の現場にいると、「MOS検定試験に通る」という目的を持つ利用者をよく見かける。たしかにMOS検定に合格すれば、「マイクロソフトのOfficeがどの程度使えるのか?」という指標にはなる。しかし、これにしても同じことだと私は思っている。「MOSに通ること」が目的ではなく「どういう仕事にどういう機能が使えるか?」という観点こそが必要なのではないだろうか。

ビジネス関連のメソッドは、その根底に「自主性」があって初めて成立するものだ。必要に迫られなくては何も機能しないのだ。まったく忙しくない人に機能的なシステム手帳をプレゼントするようなものだ。忙しくもない人にシステム手帳を渡すのは「ゴミを渡される」ようなもので、それは「迷惑」でしかない。そこに気づかず「一方的にメソッドを押しつける」というやり方は百害あって一利なしだ。

私自身、ビジネスを加速させるメソッドを試してみることは楽しいことだ。それで、今まで見えなかった発見や、仕事の効率が高まることに至上の幸せを感じる。しかし、それでも「押しつけない」ようにしなければと自戒している。こういうメソッドが好きな人には陥りがちな罠があるからだ。「進んだメソッドを積極的に取り入れている自分は賢い」という勘違いだ。上から目線では誰も育たないことを知らなければいけないと思う。

2012年3月29日木曜日

均一性と職人芸

私は「みんなが同じことをできる必要はない」と思っている。就労移行の場において、一般的に「均一的に社会に出て行ける人材を育成しましょう」というだろう。もちろん、それはそれでひとつの価値観だ。しかし、結局のところ、それは学校教育の域を出ない発想だと思う。

私は長いことIT業界に身を置いてきたが、学生の頃は数学、物理が好きではなかった。世界史、音楽の授業もうんざりした。なにしろ私にとって全くときめく内容ではなかったからだ。その逆に、国語は好きだった。授業中に本(教科書)を読んでも怒られないからだ。同様に絵を描いていても怒られない美術も好きだった。

「好きなことだけやって生きていけると思うな!」とか「好きな仕事に就けている人間は一握りだ!」とはよくいわれることだ。確かに一理ある。しかし、大人がこんなことをいっているから、子供が仕事に夢を持たなくなるのだと思う。「自分が好きな仕事に就けなかった経験をもとに、子供に偉そうに説教する」ということが無自覚に行われていないだろうか。

話を本筋に戻そう。私は好きな科目だけは成績がよく、逆にそれ以外は軒並み成績が悪かった。私にとっては成績というものは興味の範疇になかったのだが、結果として「平凡よりやや下」という評価をもらっていたと思う。しかし、大人になってからもそういう価値観が必要だとは思わない。

「すべての教科がオール5」……というのも、私にとってはいささか奇跡のように思えるが、社会人になってから「全ての仕事が完璧」という話はそれ以上に聞かない。八百屋としての目利き、漁師としての腕前、建築家としての才能、手際のよいプログラム開発、俳優としての卓越した演技力……これらを一人で完璧にこなせる人がいるだろうか?

いない。
仮にいたとして、それぞれの仕事を職人芸の領域まで高められるだろうか?

無理だ。
職人芸の領域に達するためには、一心不乱にその仕事だけに打ち込む時間が必要だ。

社会にある膨大な種類の仕事は、それぞれに適した人が力を合わせて運営している。品質の高い仕事ともなると、それぞれの領域でのエキスパートが力を合わせる。それぞれのエキスパートは自らの領分で高いクオリティを保証できればいいのではないか。

そういう点で、「好きなこと」や「やっていて疲れないこと」を探ることはとても重要だと思う。私が運用に携わっている就労移行支援で心がけていることは「楽しさを見つける」ということだ。心から仕事を楽しんでもらいたいと思っている。楽しさの中から「こういう仕事だったら続けていいかな?」が生まれてくるのではないか。

そして、私の個人的な意見としては、スキルの「均一性」よりも「特異性」を伸ばしてもらえたら……と思っている。「みんなと一緒になりましょう!」というのは正論だが、「均質性」を武器にして戦っていくことは彼らにとっては不利だと思う。

あえて理由をはっきり書こう。「社会に参加する時期が遅れてしまっていること」自体が、就労移行支援を受ける彼らにとって逆風なのだ。障害を持たずに「均質性」に優れた人は社会にいくらでもいる。そういう土俵で「均質性」を売りにしていけば、結果的に買い叩かれるしかない。

現状としては、「買い叩かれてでも就職させたい」というのが、それぞれの就労移行支援事業者の本音だと思うし、それを否定することもできない。「少しでも幸せになるためには」という方向性で現実を模索すると、どうしてもそこに行き着かざるを得ない。

しかし、私はここで葛藤している。素晴らしい「特異性」を秘めた人材を安売りしていては、いつまで経っても状況は好転しないとも思うのだ。政界や経済界が「そういう優れた人がいるのなら積極的に活用しないと損だ」と思わせる実例を作らなくてはならない。

もちろん、今はそういう世の中ではない。ただ、何の根拠もないが、私は「才能がありながら社会に受け入れられない人の真価が理解される社会」の礎になる「何か」を作り出せるような気がしている。かなり本気でそう思っている。

なぜなら、私は知ってしまっているからだ。障害者手帳を持ちながら、輝かしい才能を持っている人たちを。

2012年3月21日水曜日

ネスカフェ・ゴールドブレンドの詰め替えの謎


昔はそれほど好きでもなかったコーヒーを最近はよく飲んでいる。毎日飲んでいるので「愛飲家」という呼ばれ方をしても差し支えないレベルだ。自宅でも朝はコーヒーを飲むし、仕事中でも3杯以上は飲む。特別にこだわりはなかったはずだが、気がつくと「ネスカフェ・ゴールドブレンド」(以下、「NGB」)に落ち着いている。「違いが分かる男」というわけではないが、他のコーヒーよりも香りが気に入っている。

さて、世の中の不思議を眺めていると、思わぬ発想のヒントをもらえることがある。ひとつひとつはたいしたことがないのだが、突き詰めて考えてみると、いろいろな思考のトレーニングになるような気がする。そんな「ちょっとしたこと」として、NGBの「詰め替え」について考えてみた。実はNGBには不思議な現象がある。どうもスーパーで安売りされる時の価格設定がおかしいのだ。

(1) NGBには「ビン入り」と「詰め替え」がある。
(2) 「ビン入り」よりも「詰め替え」の方が内容量が少ない。
(3) たいていのスーパーでは「ビン入り」より「ビン入り」の方が安い。

つまり、

【量】 「ビン入り」>「詰め替え」
【価格】「ビン入り」<「詰め替え」

ということなのだ。正直なところ、あらゆる点で「詰め替え」は負けている。あえて弁護すれば「環境配慮」という点で優れているだけだ。いや、しかし、ガラスもプラスチックのふたもリサイクルされるのではないか?……確かに加工時のCo2排出量は少なくなりそうだが、どの程度効果があるのかよく分からない。

当然、他にも同じことを思った人がいたらしく、たまたまネスカフェのサイトを覗いてみたら、ネスカフェの掲示板に「詰め替えの方がビン入りよりも量が少ないのに、価格が高いのはおかしい」と書き込んでいる人がいた。

……しばらくして、何かが起こったのか知らないが、スーパーでの価格設定が「ビン入り」は「詰め替え」よりも高い価格設定になるようになってしまった。なんとも「ヤブヘビ」的な感じで残念な状況になってしまったのだが、なぜ、このような状況になったのだろう。なんとなく考えてみた。

(1) おそらく製造の原料コストは「ビン入り」>「詰め替え」だろう。
(2) しかし「詰め替え」の製造ラインの開発コストは回収しきっていないだろう。
(3) また「詰め替え」機構に特許料が発生しているならそこもコスト増だろう。
(4) ただし「詰め替え」は「ビン入り」より軽量なので輸送コストでは有利だろう。

長期的には洗剤の詰め替えパックと同じように、製造コストが安くなるであろう「詰め替え」製造に主軸を映してよさそうなものだが、なかなかそうはならないと思う。その理由をいくつか想像してみた。

(1) 洗剤と違って風味を封印する仕組みにガラス以上の管理コストがかかるのでは?
(2) 洗剤と違って出先で購入される可能性があり「詰め替え」では機会損失があるのでは?

以前、紙パックの飲み物に「薬品臭」が外部から移ってしまい問題になったことがあった。そういう意味で(1)を考えた。液体と固体の差はあるが、外からの臭いが紙を通過しないようにしないといけないし、また内部からの香りを逃がさないようにする必要がある。このあたりの技術開発には相応のコストがかかっているような気がする。出荷量が上がれば解決できるかもしれないが、現状では難しいのかもしれない。

それから、インスタントコーヒーが職場の近くのコンビニなどで購入される可能性を考えると(2)も想像できる。おそらく「詰め替え」を主力商品にするのは企業として勇気がいるだろう。洗剤は生活必需品なので、ある程度、定期的な需要が見込まれる。また定番化すれば使われる場所も限定されるので「詰め替え」の売れ行きも想定できる。しかし、コーヒーは嗜好品なので、他社製品からNGBに買い換えようと思った時に「ビン入り」がなければ、そのまま機会損失になってしまう。

機会損失を防ごうとすると、やはり「ビン入り」が主体で、製造コストの回収も考えなくてはならない「詰め替え」には、あまり力が入らないということなのかもしれない。ただ、そこで手をこまねいていたら、どう考えても消費者にとって嬉しくないことづくめの「詰め替え」は受け入れられないだろう。つまり「詰め替え」は、作れば作るほど赤字になる「お荷物商品」になってしまう可能性がある。

そうしないための経営戦略としては、「ビン入り」の価格は下げさせず、その代わり「詰め替え」を価格優遇する方法があると思う。つまり、「一度『ビン入り』を買ってしまえば『詰め替え』でランニングコストが安くなる」という刷り込みをすればいいのだ。こうすれば、消費者にとってNGBが定番化しやすくなるし、「詰め替え」の売り上げも安定してくると思うのだ。独禁法を恐れなくても仕入れ値の設定で何とかなると思うのだが……。

と、まあ、私は小売業でも製造業でもないのだけれど、ちょっとしたことでいろいろな経営シミュレーションを楽しむことができる。もちろん、優秀なブレーンが結集している大企業がやらないのだから、きっと現実には複雑な理由がいろいろとあるんだろう。それでも、いろいろと考えてみることで、自分が普段やっている仕事の今後の展開を考えるときに、こういう積み重ねが思考に深みを与えてくれるのではないだろうか。

妄想に近いのだが、こういうことを考えている時間はなんとなく楽しい。


◆Amazonで調べてみた……

すると、ある意味で驚きの事実が。

コンビニ価格ですら700円台のNGB(ビン入り)の新品価格って1469円だったらしい。普通に半額ってことか。たまに500円以下の時もあるので、正価から考えると3分の1も値引きされることがあるのか……。

それに対してNGB(詰め替え=エコ&システムパック)は新品価格が868円という表示。これが値引きされても700円台ということは、20分の1程度の値引き。ビン入り150グラム用の詰め替えは120グラムなので、実質的な値引き率はもっと悪いということになる。

◆というか方向性がそもそも違う

ただ、もっと調べてみると違う方向性が見えた。
どうやら、「ビン入り」の詰め替えというよりも「ネスカフェバリスタ」というコーヒーメーカーで使うカートリッジという位置づけなんだろう。確かにこの機械に詰め替えるとなれば、ビン入りは逆に不便だ。

逆に「詰め替え」を使えば手元が狂ってNGBをぶちまける心配もない。コーヒーメーカーの周辺にNGBをぶちまけたら相当掃除が面倒くさいと思う。掃除機で吸い取っても、その後に水拭きしたらそのままコーヒー色の汚れになってしまうのだから。

単に価格で勝負するためのラインナップというよりも、コーヒーメーカーへの詰め替え機能に特化した商品で、「ついでに『ビン入り』にも使えるよ」……という販売戦略なんじゃないかと思う。

「詰め替え」の価格設定がおかしいと思っていた人は、ネスカフェバリスタを購入してみると「機能性への対価」が分かるかもしれない。

2012年3月14日水曜日

軸を持った生き方


現在、私は複数の収入源を持っている。これは多くの方々に支えていただいた結果、現在に至っている。このブログを始めた時点で願っていた状況になっているのはありがたいことだ。もっとも、最終的にはふたつにとどまらず、あといくつかは増やしていきたい。

複数の収入源を持ちたかった理由はいくつかある。ひとつには「自分の軸でブレずに仕事をする」というスタイルを貫きたかったからだ。会社員という肩書きで生きていた時期もあったが、組織の構成員として生きるためには、時として「自分の思い」を噛みつぶす経験をしなければならない。

生き方のポイントとして「意に沿わない状況をどうやって上手に納得するか」というテクニックは必要だ。目の前の「イヤなこと」を「前向きな機会」に変換する能力は人生全般にとって有益なスキルだと思っている。しかし、「上手に自分をごまかす」ことが慢性化してもいけないと思うのだ。

そこで私は、ひとつの収入源に依存する生き方をやめようと考えた。そうでなくては「一つの収入源=一つの価値観」に縛られなければならないからだ。つまり、自分の軸と大きく外れる価値観を「収入源」が要求してきた時に、その「収入源=価値観」と決別できるようにしたかったのだ。

残念なことに、人間は食っていかないと生きていけない。食うために必要な収入をひとつに絞ってしまうことは、自分の「軸」を重視するよりも「収入源=支配」に屈服せざるを得ない状況を増やしてしまう。もっとも、だからといって、今の私も「やりたい放題」というわけではない。

しかし、魂を売り渡さなければならないほどに大きく異なる価値観にぶつかったとき、自分が自分であるために決断しなければならないこともあるだろう。私は自分の収入源を守るためだけに、魂を売り渡すようなことはしたくない。そのためにも収入から自由でありたいと願っている。

今のところ、まだまだ道半ばだ。複数の収入といっても安定したものではない。守るべき家族がいる中で、ある意味でリスキーな選択をしているかもしれない。しかし、「軸を持った生き方」が価値を持ってくるのはこれからなのだと信じている。

ふらふらした価値観で、何かを積み上げていくことは難しいと思う。特に人材を磨いて社会を変革していくという目標は、他の人の人生にも影響を及ぼすことだ。だからこそ、自分の中の「正しさ」を信じて歩んでいくしかないのだと思う。



2012年3月7日水曜日

ラクなことの是非

実は、このブログのエントリは書き上がるまでに数日をかけているものがある。「いい内容にならないから毎日ずっと考え続けている」……というわけではなく、ぱっと書き始めてから「下書き」の状態で保存して、そのままになってしまっているものがあるというだけのことだ。

シロウトという気楽な立場ということもあり、書いていてあまりテンションが上がらなかった原稿はそのまま放置してしまうことが多い。そして、もっとテンションが上がりそうな原稿に取りかかる。だから、このブログの原稿置き場には「未公開」のエントリが並んでいたりする。

そして、一度テンションが落ちてしまった下書きも、時間をおいておくとテンションが回復していて、ずっと筆(キーボード?)が進むことがある。テンションの下がった状態を無理に続けることは、精神的にも時間的にも無駄なことだと思っているので、私にとっては現時点で最適解なのだ。

さて、久しぶりに古い「下書き」を覗いてみたら、なんとハケンをやっていたときの未公開原稿を見つけた。ちょっと加筆してみようかと思ったが、驚くべきことに一年以上前に書いた原稿は、今の自分が読んでも納得する内容だったので、そのまま公開してみようと思う

▼▼▼==========【ラクなことの是非】==========▼▼▼

「すべらく!」というサイトを運営していることからも分かるように、私はラクをすることが大好きだ。ラクをするための仕組みを考えることが大好きだ。そういうコトを書くと「最近の若いヤツは汗水たらさないで、ラクするコトばっかり考えやがる!」とか「ラクばかりして、汗水をたらさない仕事なんて仕事じゃない!」なんて白眼視される傾向が強いんじゃないだろうか。

汗水たらして働くコトはそれはそれで素晴らしいことだと思う。しかし「ラクするコトばっかり考えやがる!」という批判についてはいささか腹立ちを覚える。私の感覚からすればまったく時代錯誤で前時代的なトンチンカンな批判だと思う。少なくとも自分の生きてきた世界の価値観だけを見ていて、これからの未来をまったく見ていないと個人的に思っている。

汗水たらしてラクをしないことが美徳だと主張する人は、車にも電車にも乗らないほうがいいだろう。ラクするコトを考えずに汗水たらして歩けばいいじゃないかと思う。人と話がある時は携帯電話どころか電話も使わず、直接、相手のところまで汗水たらして出向いていけばいいんだと思う。

わざわざそんな面倒なコトをしたくない「ラクをしたい」人がいたからこそ、車や電車が存在するし、電話が存在するし、さらに便利な携帯電話が存在する。自分を取り巻く世界が受けている恩恵は「ラクをしたい」という願望から生まれていることが多いと思う。

自らがそういう便利なモノの恩恵を受けていながら「ラク」を批判することは明らかな矛盾だ。みんなが汗水たらして働く仕事をするようになったら、間違いなく今までにいたる文明は崩壊するよ。「ラクをすることを考えず、つらくても必死で汗を流すことがいい。」というのは、完全に旧時代的なファンタジーだと思う。現代社会には「肉体労働」だけじゃなく「頭脳労働」も必要なのだ。どちらかだけではダメだと思う。

ただ「ラクをする」というのが大好きな私も、「ラク」をする「ラク」の種類にはこだわりがある。

「何も考えなくても、ずっと同じコトだけ続けていればいいからラクだ。」

というのは、私にとっての「ラク」じゃない。ラクになったことをずっと続けるだけというのは苦痛だ。私にとっての「ラク」とは、今まで「ラクじゃなかった」ものが「ラクになった」と実感できるコトだ。だから、何かひとつをラクにしたら、何か他の「ラクじゃない」ものを探し歩くことになるんだろうと思う。

そういう意味では、私自身も矛盾を抱えて生きている。ラクを実感するにはその真逆を知らなければ、決してラクをできないということだ。ラクをするコトが大好きな人にとって、もしもラクしかない世界が実現してしまったら、何もするコトがない世界になってしまう。

ちなみに、今、ハケンをしているが、これもまた「ラク」な環境と言えるだろう。仕事の根本を考えなくとも仕事が与えられ、それを解決さえしていればお金がもらえる世界なのだから。その代償としてプライドを売り渡さなければならない場面はあるが、仕事を必死に考えなくても生きていける環境だ。自分で仕事を考えて、仕事を引っ張ることを考えたらどこまでもラクな世界だと思う。少なくとも短期的には。

ただ、長期的に今の環境を眺めてみると、私にとっては決して「ラク」な環境でないことを知っている。ハケンだけでやっていくという選択は、自分で自分自身の生き方をコントロールできない生き方だからだ。仕事の根本を考えなくてもいい環境は、仕事の根本を考える力が鍛えられない環境なのだ。大した技術力がなくとも回ってしまう環境にいれば、それ以上の技術力を身につけられない環境なのだ。これほど危険な環境があるだろうか。

また、時間の経過に従って自らの体力も経年変化することだろうし、時間を重ねれば重ねるほど契約の打ち切りリスクも増大するだろう。そして10年続いたとしても、時給はいつまでたっても据え置きだろう。もっと現実的に考えれば減少方向に移行することも想像に難くない。10年前に同じ現場にいたプロパーとは驚くくらいに収入に格差ができているだろう。その時にハケン以外の生き方をしようとしても、その時点で選べる選択肢はほとんど枯れ果てているはずだ。

これがハケンをずっと続けていった先に見える悲劇のシナリオだ。どうしてここまで最悪のパターンを考えるかといえば、自分でコントロールできない力に寄りかかって生きる場合、その力が影響を示す範囲でしか生きていけないことを意味しているからだ。中途半端な飼い犬は捨てられた後がミジメだ。エサをもらうことに慣れてしまい、自分でエサを確保できなければ死んでいくしかない。

このように、短期的に「ラク」そうに見えることには大きな危険が潜んでいることがある。さりとて、長期的な「ラク」だけを追っていると、苦労した経験だけを残して早死にしてしまう可能性もある。だから「ラク」をするにしても、「近い未来」と「遠い未来」の両方をバランスよく追いかけることが必要なんだと思う。
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今もハケンをしている人にメッセージを送るとしたら、「夢を持ってハケンをしてほしいな」ということ。ただ、明確な夢がないなら、なるべく早くハケンを辞めて正社員になった方がいいと思う。「それができないからハケンなんだ!」という方は、遊ぶ時間を削ってでも新しいスキルを身につけた方がいい。「ハケンは『いつか切り捨てられる宿命』なんだ」ということを忘れちゃいけないと思う。




2012年2月29日水曜日

効率化と優しさの両立


私は効率化が好きだ。なぜなら「誰にでも公平に流れているはずの有限の時間」の密度が変わるからだ。今の時代、時間の使い方の上手い人が強いのだ。今の時代に限ったことではないかもしれないが、少なくともその傾向が顕著であることは間違いない。

仕事の書類を飛脚に運んでもらうのか、電子メールで送るのと、どちらが有利なのか・・・という比較はもはや必要ないだろう。「昔はのどかでよかった」という議論には賛成だが、残念ながら今はそういう時代ではない。その時代の善し悪しはともかくとして、今、時代の流れにそぐわない選択をすると、結果的に自分だけが取り残されることになってしまう。

すこし脱線してしまったが、私が「効率化」を推し進めたい仕事の領域は非常にセンシティブな分野だ。メンタルで困っている方々が職業に就くにあたって、いかに行動の効率性を高めて余計に疲れないようにするか・・・という点が重要になる。

ただ、効率性を極限にまで高めてしまうと、深く集中するためにコミュニケーションの頻度が激減してしまう傾向がある。たとえば「気軽に声をかける」ということが難しい環境になりやすい。なぜなら効率性を最優先する場合、「割り込み」の要素をいかに減らしていくかということが重要になるからだ。

「効率化」を徹底していない状態においては、声をかけられたらすぐに仕事を中断して、呼ばれたところに気軽に移動していた。そこでは仕事の進め方についての相談を受けるわけだが、仕事の話だけではなくそのまま雑談になってしまうこともあった。しかし、その結果として利用者のモチベーションが高まることも少なくなかった。

現在、メンタルな現場で仕事の効率性を高める実験的な試み(ToodledoとTogglというツールを使った作業ベンチマーク)をしているが、反応は芳しくないようだ。むしろ、利用者がストレスをためているようにすら見える。「効率化」に対する考え方のベクトルがある程度同じ方向を向いていない人にとっては、単に「つらい環境」になってしまうだろう。

効率化の究極形は「集中力を途切れさせない時間」と、「コミュニケーションの時間」を分離してまとめてしまうことなのかもしれない。つまり「相談窓口受付時間」を決めておいて、指定した時間に待ち行列を作ってもらうというやり方だ。しかし、コミュニケーションの敷居は一気に高くなってしまう。

そこで、今一度、私がやっている仕事のあり方を見直してみた。私が怠ってはならないポイントは「利用者の不安」に対して「迅速に気づき」「必要なメンタルケアをする」ということであり、私ひとりの効率を高めるということではない。「効率化」を求めるあまり、メンタルケアを怠ることになれば、それは結果的に「私の仕事の品質が低下した」ということになる。

つまり、単純にコミュニケーション密度を下げた「効率化」は、逆に私の仕事の品質を損なう恐れがある。しかし、私はこれくらいのことで「効率化」をあきらめてはいない。「間断なく割込みが入る」という環境を受容した上で、その前提でいかに必要な業務が進捗していくか・・・という運用を含めた環境構築が必要になるのだと思う。

具体的な方向性としては、

 ・タスクの単位を最小単位まで細分化する【細かい割込を前提とする】
 ・タスクの進捗を一目で把握できる表現を身につける【本線への復帰速度】
 ・作業の切り分けと委譲をしやすい環境を構築する【本質的な負荷分散】

ということだと思っている。

ただ、そうはいっても、私がいくつかの小さい企業で目にした「効率化に目覚めた社長」がやらかす失敗を再現しないようにしたいとも思う。たとえば「12分毎に作業ログを取る」とか「相談受付窓口時間を設ける」などのルールを、いきなり社員全体に徹底させようとすることだ。

個人的にこれらの方法論は正しいと思っている。実際に私自身も業務ログを詳細に取っているし、極力、無意味な会話に時間をかけるようなことはしたくない。集中力の凝縮と解放のタイミングはまとめてしまいたいと考えているので、集中力がいらない時間帯にまとめてコミュニケーションしてしまいたいという気持ちもある。

しかし、これらは効率化に対する価値観が合致してこその効果だ。作業ログを取る行為も、「そのログを『自分の視点』で分析する」というモチベーションがあって初めて機能するものだ。作業ログをを第三者による監視と指導のために運用しようとすれば、当然、虚偽の報告も発生するかもしれない。そもそも改善意欲よりも反発心が表に立ってしまうだろう。

効率化はあくまでも「全体効率」を考える必要がある。誰か一人だけが徹底して仕事が早くても、組織としての強さにはならない。ある点において「部分効率」が全体の品質を高めたとしても、その人材がいなくなれば、組織としてのポテンシャルは急激に低下してしまう。このこと自体も大きなリスク要因だ。

そのためには焦って効率化を急進的に進めるよりも、「幸せの同意事項」のような形で、緩やかで薄くても、少しずつ「効率化」=「しあわせ」という価値観を組織に浸透させる必要があるのだと思う。GTDなどの技術的な方法論は私にとって魅力的であることは変わらないし、今後も極めていきたいと思っている。

しかし、私は「メンタルの現場」というセンシティブな領域において、無駄なストレスを利用者にかけることなく、「幸せな効率化」を追求してみたいと思っている。これが私が未来に構築したい「メンタルユニバーサル環境」だ。さあ、明日もそんな「しあわせ」を追いかけてみたいと思う。さあ、明日は何するか!

2012年2月22日水曜日

これって私に向いてますか?


私はメンタルで実務経験の少ない方々と一緒に仕事をしている。一応は「支援」という形式ではあるが、彼らの潜在能力、そして実際に見せる高いスキルとモチベーションには目を見張るものがあるし、私は彼らと一緒に働けることを心から感謝している。数年前、この仕事を始めた頃の予測を遥かに超えているといっていい。

私は彼らとずっといつまででも仕事をしていたいと切に願っている。「彼らの才能を無駄遣いする企業には入社させたくない」と本気で思うほどに、私は彼らの将来性を信じている。彼らの今後の現実については、私にとって大きな課題でもあるし、いくつかの未来図を頭の中に描いている。

しかし、今回のエントリに書きたいことは逆のことだ。私が構築した環境で新しい才能が開花した人もいるが、その一方で大勢の利用者をがっかりさせてしまった事実から目を背けることはできない。そして今後もその比率を大幅に変えることは難しいかもしれない。

なぜなら、私が指し示しているITという領域は「狭い道」であり、さらに「簡単ではないこと」だからだ。もっと正確に表現するならば、【心の底からわき上がるほどの興味がなければ】「簡単ではないこと」ということになるだろうか。逆にいうと「あまり興味がなければ無理」という現実がある。

つまり、最終的にはその人の本質的な才能に依存しているのだ。「ちょっとITが気になって・・・」という入り口から「おもしろい」にいくのか「わからなくて怖い」にいくのか・・・それは残念ながら本人の資質に関わってくる。これは「頭の良さ」という次元とは別の話だ。

たとえば、私にはミュージカルを楽しむという習慣はないし、美術館で芸術鑑賞をするという趣味もない。興味のベクトルがそこに向いていないのだから仕方がない。おそらく「努力」すれば、いくつかのミュージカルや絵画の概要を覚えることはできるだろう。

それでも、心からそれらを愛している人ほどに熱のこもった解説はできない。ましてや私はそれを仕事にする意思もない。だから私にはミュージカル関連の仕事や、芸術関連の仕事は向いていないのだ。そもそも興味のないミュージカルや芸術鑑賞に時間をかけること自体が苦痛なのだから。

私が考える「向いている」といえる条件は、たった2つ。

・第三者から見れば「努力」しているように見える
・本人からすれば「遊び」の延長上にすぎない

これなら無理に集中力を注ぎこむ必要はない。その集中力は強制されたものではなく、映画や小説を読みふけるのと同じ「快」に属する集中力だからだ。それにもかかわらず第三者から見れば「努力に余念がない」ように見えてしまうのは、その集中力がもたらす結果が実用的だからだろう。

よく利用者の方から「私はITに向いているでしょうか?」と聞かれることがある。意地悪のつもりではないのだが、つい、こう言いたくなってしまう。「向いているかどうかを気にして、他人に適性を聞いているうちは向いていないんじゃないでしょうか?」と。

よく、「『小説家になりたいといっているだけの人』は小説家になれない。本当に小説家になる人は『もう書き始めている人』だ。」という話を耳にするが、まさにその通りだろう。ITに向いている人は「向いているかどうか」なんて気にする暇がない。そんなことで悩む暇があったらPCに向かって何かをするだろう。

そして、たまに「体系的な勉強をしてから挑戦したいです」という人にもお目にかかることがあるが、たぶん、それもやめた方がいい。本当に向いている人は「勉強」なんてしないのだから。

詳細な説明はまた別の機会にしたい。

2012年2月16日木曜日

障害分析マニア


今となっては「なんだかなあ」なのだけれど、数年前の私は「障害特性」という言葉に惹かれていた。「障害特性」にあわせた対処法を数値化なり見える化なりして、その結果を計測すれば理論体系を確立できるのではないかと思っていた。

正直なところ、今の私は障害特性という言葉に何も感じない。統合失調症だろうが、発達障害だろうが、障害分類名に興味はないし、それによって扱いを大きく変えることもない。単に「本気でやりたいか、やりたくないか」の軸だけで区別をしている。

ただし、「ずっと他人に依存しようとする人」や「言い訳をする人」には、そっと「さよなら」している。それは「自己解決型自立」ができる見込みがないからだ。「できる人だけを集めているのだから、できることは当たり前じゃないか」といわれても私はかまわない。

逆に「『できる人ができない人として扱われている現実』を打開して何が悪いのか」と逆に問いたい。逆に「やる気のある人」を「やる気のない人」と同列に、ある意味で「公平」に扱おうとすることは、著しい「不公平」だと私は思う。

まずは「モチベーションが高い人」が社会参加を果たせる環境を整備することが先決で、その結果、「モチベーションが高いのに社会で活躍できない人」が世の中から消えてしまったら、その時にはじめて「モチベーションがゼロの人」の炎を燃やす方法を考えればいいのだと思う。

それまでは、冷たい人間だと思われる覚悟の上で、はっきり態度を決めている。モチベーションの低い人を押し上げる努力はしない。依存心にもたれかかっている人に手をさしのべたりしない。その代わり、頼りなくても一歩踏み出そうとしている人にはトコトン付き合いたい。

2012年2月3日金曜日

言い訳できない環境

繰り返しになってしまうが、私がやっている仕事は障害者の就労移行支援関連の仕事だが、ただ単に就職できればどうでもいいというものではない。「状況に流されるのではなく」「自分の意思で生きていく」スタイルを身につけてもらいたいと思っている。

そして、その過程で当事者の方々には「障害者であること」を捨ててもらいたいと思っている。もちろん「障害者手帳を便利に使っていく」ことには賛成だ。国で保全された制度を使う権利を有しているからだ。便利な制度は使っていくべきだ。

しかし、心で負けちゃいけない部分はあると思う。それは「自分が障害を持っているから○○できない」と、障害を理由にあきらめてしまうことだ。そういう点については「障害者であること」を忘れてほしいと思うのだ。

私が一年あまりをかけて代々木に構築してきた環境では、一切、障害についての愚痴がでてこない。出てきたとしても、それはシリアスなものではなく、笑い話に変えてしまうような領域の話だ。そもそもが私自身、彼らを障害者だとは思っていない。

いや、これはいささか乱暴なので、もうすこし適切に表現すると、「彼らが障害者認定を受けている」ことは事実として認識している。しかし「彼らにとって仕事における『障害』は一切ない」という認識も、私は事実として受け取っている。

もちろん、常識の範囲を越えた過大な負担を彼らに課すことはないが、忍耐力が試されるシチュエーションは体験してもらっている。一生懸命やったことでも、方向性が違っていればはっきりとそのことを本人達に伝える。なぜならそれは彼らが認識すべき「クオリティ」だからだ。

私と当事者の方々が織りなしている仕事環境の空気は穏やかだ。しかし、クオリティについての妥協を許さない空気も同居している。そして、その環境において「自分は障害を持っているから○○ができない」という「言い訳」を私は聞いたことがない。

なぜならそこの仲間ができているからだ。仕事を楽しみながら、自然とそのクオリティを高めている人たちが普通にいる。今、そういう得意な環境は日本の中に少ないかもしれない。しかし、私にとってはそれが当たり前になっている。

いずれ、このような形が日本の「当たり前」になれたらいいと思ってやまない。

2012年1月22日日曜日

旅立ちを見送る


訓練生は私と一緒に就労訓練の日々を過ごし、そしていずれは卒業していく。「寂しくないか?」と聞かれれば、正直なところ否定できない。しかし、やはりそれ以上に卒業してもらえるのは嬉しいものだ。その先には自由に生きられる人生が広がっている。今まで体験したことのない厳しさと楽しさを体験することだろう。

今まで一緒に日々を積み重ねてきた仲間たちと、卒業後、どのようなスタンスで付き合っていくのか・・・という考え方は人によってさまざまだ。私の場合は、卒業して離れていった人たちとは一定の距離をおくことにしている。「卒業しても遊びに来なよ!」と、本音では言いたいところだが、私はあえてそれを言わない。むしろ、「来るな!」・・・という感じだろうか。

・・・と、書くと、「自分の影響力が及ばなくなった人に対しては冷たくなるのか?」と思われてしまいそうだが、実はその逆だ。むしろ、私は「私自身が与えてきた影響力」を彼らから取り去ってしまいたいと思っている。私と一緒に過ごした日々は「過去の日々」だ。卒業したらそこからが「現在の日々」を生き続けることになる。

私自身、実際のところ大層な人物ではないのだが、少なくとも、「人生を賭けている人たち」から見れば、私のことを「目の前にぶら下がっている、たった一本の蜘蛛の糸」のように見ている可能性を自覚している。その自覚こそが、「本当に世の中に役に立つ人材になってもらわなければ!」という私自身の使命感につながっている点でもある。

私の使命感はさておいても、初期の頃は「影響力」はある程度は必要だと思っている。「この人についていったら未来が開けるかもしれない!」という希望が必要だ。人間にとって「前が見えない時」が一番つらいわけだが。そんな、何を信じていいか分からない時期に「盲信的」になれる対象が目の前にいることは重要だと考えている。

どれだけ頭で考えても未来は見えない。すると、考えれば考えるほど不安になっていってしまうものだ。しかし、「とにかく目の前のことを一生懸命やってみよう!」という精神状態にあれば、どんな不安に対してもある程度は立ち向かっていける。誤解を恐れずに白状すると、私は、私の価値観に共感してくれる人だけを支援することにしている。

私の価値観と真逆を向きすぎている人は相手にしない。「勉強」にたとえて言えば、私は「勉強したくない人」に「勉強をしたくなるように仕向ける」という労力を割くつもりはないということだ。基本的に、私は「自分から勉強したい」というスタート地点に立っている人にしか時間を使う気がない。私の価値観と真逆の方向に向かいたい人は、きっとその人に合った支援者が日本のどこかにいるはずだ。そして、私にはできないことをやってくれるだろう。

別に私は教祖のようになりたいわけではない。ただ、「信じてもらえないと、そこからどうにも進めない」というのも事実なので、結果的には「少なからぬ影響力」を獲得することになってしまう。しかし、私があえて影響力を行使するのは、「訓練の場」という狭い空間においてだけだ。うぬぼれも多少は混じっているが、私は訓練生の人生における「カタパルト」のような存在だと思っている。

「カタパルト」というのは、地上の滑走路に比べて滑走距離の短い洋上の空母から、戦闘機が飛び立つために勢いをつけて後ろから戦闘機を押し出すための仕組みだ。カタパルトが戦闘機を押し出す時に、戦闘機がその勢いに逆らってしまうと上昇に必要なだけの速度を確保できない。素直に加速しなければ墜落してしまう。人間も飛翔するときには「素直さ」が必要だ。

しかし、飛翔することに成功したら、そこから先は飛ばされた方向に一直線に飛ぶのではなく、自力で方向を決めて飛ぶべき方向に向かって操縦できなくてはいけない。カタパルトは「勢いをつける」ところまでが仕事なのだ。確かに私が「人生のきっかけ」になることはあるかもしれない。しかし、さらにその先にまで影響したいとは思っていない。

なぜなら、飛び立っていった彼らには、「私の価値観」ではなく「自分自身の価値観」で飛行してほしいからだ。そのためには、卒業後はなるべく私の価値観が影響しないようにしたいのだ。もちろん、私と一緒に過ごした日々の中で体得した価値観もあるだろう。しかし、それは、すでに彼らが獲得した彼ら自身の価値観なのだから、それは大事にしていってほしいと願っている。

#「来るな!」と書いたものの、それでもたまには会いに来てくれて、元気な顔を見せてくれたら嬉しいんだろうな・・・と思う。

#「卒業」を見送るだけじゃなく、「仲間」として一緒に仕事をしていく方向性も本気で考えている。これからもずっと仲間として。