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2009年9月29日火曜日

ブログとかサイトとか距離とか

ブログとかサイトとかって、どうやって距離を保ってますか?

ここしばらくブログを放っておいたおかげで、なんとなく距離感がつかめました。ブログとかサイト更新とか、基本は書きたいときに書くってコトですね。一時期はノルマのつもりで毎日・・・なんて思ったんだけど。毎日書けば文章力がついてくるぞ・・・とか。

でも、それって実は本末転倒なんじゃないのって思っちゃって。

作家じゃあるまいし、シロートがうんうん唸って無理矢理書いたところでねえ。無理矢理に書いていると当然、気持ちが文章にぜんぜん乗ってこないから思いついた単語を無駄に重ねて、はいおしまい。そんなのを読まされる方の気持ちになってみろっていうの・・・。

実際は「駄文は読まない」という権利を公使されるだけですけどね。
つまらない文章は読まない。無駄な時間は使わない・・・と。

そういう意味では、書く方も読む方も疲れないスタンスが一番かなと。作家でもなければ仕事でもないんだから。書く方は書きたいモノを書けばいいし、読む方は読みたいモノを読む。

ブログのネタそのものが、ロングテールな性質を持ってるんだと思うんですよ。だから、どんな駄文でも、おもしろがって読む人もいるかもしれないですねえ。
たとえば、こんな駄文とか・・・あ、すんません。

ところで唐突なんですが「自分の時間」って大事にしてますか?
なんとなく頭に「ぴーん」ときたので、ストレスを減らす「自分の時間」の過ごし方についての提案をサイトに書いてみました。

雑音で疲れない

雑音を抜いてみると、時間のすすみがゆっくりになったりします。
無音・・・が、すっかり最近のマイブームです(笑)。

2009年9月14日月曜日

人を鍛えるとは?

近所の飲み屋で「北海道の洋菓子店のスタッフを人材育成の講師が叩き直す」という企画のテレビ番組をみた。どこまで本気でどこまでヤラセなのか分からないけれど、いろんなコトを考えさせられる内容だった。

突然、店にやってきた女性講師が怒鳴りまくるという光景。それにとまどうのが店長をはじめとするスタッフ陣。研修では「笑顔が足りない!」と怒鳴り倒し、店長に対してもボッコボコに叱責を叩きつけるありさま。

最終的には店長を一対一の場所に連れ出して、「アンタならできる。それを信じてるから強くもいうんや。」と激励。ムチの後のアメは大変甘かろう。・・・というワケで、そのアメの言葉に奮起して店長の行動が変わっていくという「シナリオ」だ。

なるほど、激しい衝撃を与えて人は変わる。たしかにそういうコトはある。スポーツでもそうだろうし、多くの職場でもそういうコトはあるだろう。私の過去を振り返ってみても、厳しい条件に置かれた時に自分が成長できたという経験はある。

おそらくこの番組が終わってから、テレビ出演した講師に問い合わせが殺到したんじゃないかと思う。もちろん実績があるから講師業をやっているワケで、そういう実績を無視して批判したいとは思わない。ただ、研修風景にものすごい違和感を感じたのだ。(もちろん、テレビ放映された範囲に限られる話だが。)

「笑顔が足りない!もっと笑顔を作れ!こんな簡単なコトもできんのか!」と関西弁で叱り飛ばす女性講師。要するに「作り笑顔」をスパルタで教え込んでいるだけだ。

確かに接客業をやっていたら、承服できない状況で笑顔を作らなければならないシーンはあるだろう。それにしても、作り笑顔をスパルタで教え込む情景がちょっと下品に感じたのだ。笑顔はまごころが先じゃないのか?

もちろん、この女性講師にはそれなりの「思い」や「情熱」があって、そのような指導をしているのだろう。しかし、あのやり方がどこでも通用すると思ったら危険だと思う。

特に高度成長期を生きてきた人たちにとっては、ああいう厳しい教育シーンが心を打つようだ。しまいには「今の日本でも徴兵制度を実施すれば、もっとビシッとするはずだ!」と言い出す始末。

たいてい、そういうコトを声高に言う人は、自らが軍隊経験のない人だったりもするし、これから徴兵制度が始まっても徴兵されない人たちだ。なんだかズルイ話だね。

確かに理解に苦しむ若者も増えているような気がするけど、そもそもいつの時代も若者は理解されないものなのだ。だって、いつも若者を見ている世代は自分たちが生きてきた頃の「理想的な若者像」に縛られているからだ。

つい、わき道にそれた。

思うに、くだんの女性講師は自らの基本的性格を上手に活用して、ニッチビジネスを展開しているんだと思う。スパルタ式の教育現場が珍しくなってきている中で、それをあえてやることによってビジネスの差別化が図れているんだろう。そういう人が少ないから依頼もかなり集められるだろう。

でも、私はこの人の研修を受けたくないなあと思った。ああいう鬼教官が職場にいれば、いろんなコトが確かにピシっとすると思う。それなりのメリットがあるコトも間違いない。フワフワしていた人がキビキビと動けるようになる可能性もあるだろう。

でも、そこから何かが生まれるんだろうか。高圧的な鬼教官がいる環境で、想像力や発想力をのびのびと伸ばせるんだろうか。私なら無理だ。怒鳴られないようにすることだけに集中してしまうだろう。失敗を畏れて生きる日々になるだろう。

そんな毎日に何の意味があるのか分からない。やはり、私は高圧的でスパルタ的なやり方には賛成できない。

2009年9月13日日曜日

どうして甘いのか?

常識にこだわらないストレス対策方法を提案するサイト「すべらく!」の運営を本格的に開始してから4ヶ月ほどたった。まだまだこれから・・・という感もあって、全体的なナビゲーションや既存コンテンツの質なども含めて改善を進めていくつもりだ。

まぁ、それでも5月に比べてだいぶ形になってきたのかな・・・という気もする。RSSの自前生成とか、コンテンツ更新機能、コンテンツ検索機能、検索内容によって役に立ちそうな自動バナー選択、携帯サイトの同時運用化など、それなりに進化してきたように思う。

現在、構想を温めている事業についてもストレスの軽減が大きなファクターになるワケで、そのあたりのコトを自分なりに研究していくと、ストレスを受けやすい生き方とか環境が見えてくる。その経過で感じたことや、考えたことを記事にして更新しているワケだ。

でも「すべらく!」に書いてあるストレス対策の提案は、どれもこれも「誉められた」モノではない。実際に誉められたコトもそれほどないし、おそらく常識人から見れば「姑息」な方法ばかりを掲載しているように見えるかもしれない。

上役に注意されたら「ひとつひとつの言葉の意味を考えて反省しましょう」じゃなくて、「上役も哀れな人間だと思って大目に見てやりましょう」なんてコトを平気で書いたりしているワケで、おそらく社会人ルーキーには一番読ませたくないコンテンツかもしれない。

でも、あえて「甘い」コトを書いている。たぶん元気な人は、ストレスに関するコンテンツなんて読まなくてもいいと思うし、現実に読まないと思う。一番読んで欲しい層は「心が折れそうになっている人」なのだ。

悪意の有無に関わらず、ストレスを真正面から「バーン!」と食らっちゃう人がいるんだよね。そういう人に元気になって欲しいという願いを込めて更新を続けている。だって、たいていストレスを真正面から食らう人って、マジメで謙虚で我慢や反省をしすぎるせいで大きく傷つくんだから。

そんな人をつかまえて「我慢しろ」「マジメに聞け」「反省しろ」なんてメッセージを書きたくない。たぶんストレスを抱えている人は、我慢して、マジメに聞いて、反省して消耗しているかも知れない。

大して読まれているワケでもないサイトだけど、社会から一人でもストレスで自殺する人が減って欲しいと思う。多少、甘くっても、生きているコトの方が価値が高いと思う。生きてさえいれば、その後の生き方を自力で変えていくコトができる。少なくともそういう希望があると思う。

2009年9月4日金曜日

大きい会社の宿命?

いろんな立場にいる人が読める場で、こういうコトは書きづらいコトだが、私にとって「ハケン」を始めることは屈辱的なコトだった。正直なところ「ハケン」をやらずに済む方法があるのなら、それを選びたかった。でも、一方で正社員としての会社勤めをするつもりはなかった。もう、これ以上「やらされ仕事」をやりたくなかったから。

もちろん自分の中で上手に消化(「昇華」でもいい)することができれば、どんなコトでも「やらされ仕事」じゃなくなる。自分なりの意義を持って与えられた職務を果たすことも重要だ。しかしながら、中小企業とはいえどもトップの近くで仕事をした立場として、自分のやりたいコトと会社の方針が違う時に、何度もジレンマを抱えることになった。

もちろん、リスクを自らとった人の意見が強いのは当たり前だ。リスクを持たない人は文句や批判だけを口にして、いざとなれば他へ転職すればいいだけだ。しかし、リスクをとっている人はさまざまな責任を取らなくてはいけない。進言を受け入れるのも拒否するのも責任が伴うのが当然だ。

だから、自分で強くやりたいコトがあるのなら、他人のふんどしで相撲を取ってはいけないのだろうと思ったのだ。やりたいことについて社長とケンカする暇があるなら、自分がリスクを取ってやりたいコトをやる覚悟ができているかどうかを考えたほうがいい。

そんなコトを考えながら仕方なく選んだ選択肢が「ハケン」だった。もちろん、今にしてみれば大いに感謝している。なんだかんだと言ってみても2年近く私の生活を支えてくれた環境だったことに違いはない。それにいわゆる大企業と呼ばれる環境を体験できたのも幸いだった。大企業のパワーやリソースの豊富さも体験できたし、ネックになる部分もたくさん自分の目と耳で理解できた。

ただ、プロパーではない立場ゆえに仕方がないのかも知れないが、大企業という場所は私にとって居心地のいい場所ではなかった。語弊があるかも知れないが「たらたら」と「つつがなく」生きるにはこんなに快適な環境はないと思うし、プロパーならそんな環境でも大きなミスがなければ、これからも生き抜いていけるんだろうと思う。もちろんリストラがないとも言えないけれど。

「たらたら」と「つつがなく」ハケンを続けていくリスクについては、以前にも十分に書いたので詳細は割愛したい。今回は大企業が自分の肌に合わない理由を考えてみたいと思う。なぜなら、それを考えることで自分自身が目指したい方向が見えてくると思うからだ。

まず、「自分でなんとかしよう」という意志を持った人が比較的少ないような気がすること。もちろん大企業には豊富な人材リソースがあるのだから、そういう人脈や部署と密接に協力していくことは重要だと思う。だけど、ちょっとそういう次元の話とそれた感じの違和感。

「うちはうちのやるべきコトをやった。ボールは投げたんだから、後はあっちの仕事。うちには何も問題はない。」・・・確かに問題はないのかも知れないけど、この不思議な不安感はなんだろう。もちろん「上流工程」と呼ばれる職場においては、全体のスケジューリングやコーディネートを行うことが重要なんだけど、それ単体の技能で食っていける仕事なのかどうか分からない。

それから、これは仕方のないことなのかも知れないけど、何をするにもとにかく慎重。企業の看板を背負っていることも理由なのだろうけど、とにかく失敗を恐れる人が多い。見ればすぐに分かりそうなことでも、それを自分の判断にしないで専門の部署に確認してから進めていく。時にその「鈍さ」をウザったく感じることもあるが、それがその組織で生き抜いていく処世術なら仕方がない。

そういう仕事のやり方は、その組織で生きていくためには必要なルールなんだろうけど、その外側の人間にとっては窮屈かつ退屈なこと極まりない。とにかく後で自分の責任が追及されないように徹底的に保身しながら針をつつく感じ。

そういう環境下では常にガード状態でいることが基本になる。ちょっと見れば分かるようなことでも他の人に確認するようになる。だから私もそうする。郷に入れば郷に従えだ。我を張って自分の意見を通していては歩けない場所もある。ただ、本当は判断をお願いした「他の人」がどのような思考経路を辿って判断したのか・・・の方が重要なんだと思う。

ただ、そこは大企業。判断を任せた部署の担当者が間違った回答をした場合、その部署の責任にしてしまえば自分たちの部署には傷が付かない。たしかにその環境下での判断としては正しいんだろうけど、その感覚で起業したり中小企業に転職したとしたら苦労するだろうなと思う。まぁ、しないだろうけど。

逆に私は中小企業の経験が多いから大企業にハケンで来てみて驚いた。「ほとんどのことは自分でやらなくても大丈夫なんだ」と。技術職のつもりで来たんだけど、そんなに技術はいらない感じ。そりゃ最低限のことは知らなくちゃいけないけど、本当に最低限の知識でなんとかなっちゃう。

ひょっとしたら中小企業でガツガツやっているエンジニアの方がスキルは高いかもしれない。だって、他人に頼れないから自力でやるしかないんだもん・・・中小企業だと。たぶん、何百人という社員の中で数パーセントくらいの「ハイパーな頭脳」がいて、その残りが「忠実にルールを守る兵隊」という構造になっているのかも知れない。

大企業を体験したことのない中小企業の社長が、大企業の文化にアテられちゃって「うちも大企業を見習おう!」ってケースがけっこうあるような気がする。その思い込みが中小企業らしい機動性を奪った挙句、人材リソースに組織力がないものだから業務が回らなくなる・・・というパターンも多いんじゃないだろうか。

私がハケンを通して得られた価値ある経験は「入社が難しい大企業でも、ものすごい人材が溢れているワケじゃない。」という点。つまり大企業にあまり過大な夢とかイメージを持っていると、判断を誤ることがあるんじゃないか・・・というコト。そういう意味では正直なところガッカリした面もなくはないが、大企業に対して抱いていた幻想がなくなっただけでも貴重な発見だと思う。