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2013年6月16日日曜日

起業家に最も必要な管理とは

◆タスクよりモチベーション

デジタル文化の発達により、時間内に処理しなければならない行動の密度が凝縮されている昨今、タスク管理に関するコンテンツは増え続けています。タスクの細分化、タスクの優先順位、タスクの納期管理……さまざまなツールがあり、さまざまな運用法がありますが、それだけで解決しない課題もあります。

タスク管理の方法をどれだけ知っても、知識だけでタスク管理が機能するというわけではありません。タスク管理の最も基本的な側面は「タスクリスト」の作成です。しかし、これを作成して並べるだけでなんとかなるのかといえば、そうはなりません。「実行したい」というエネルギーが必要不可欠なのです。

多くの「タスク管理」はモチベーションが十分にあることが前提になっています。やりたくない人に無理矢理やらせても無駄が多いので、それは当然のことなのですが、同じ人でも体調の波によってモチベーションの不調はやってきます。そういう時に乗り越えるノウハウを知っておくことは重要だと思います。


◆その願望はリアルなのか

比較的「雇われ仕事」で発生するタスクのモチベーションはシンプルです。なぜならば、やらなければ必ず何らかのペナルティがあり、後で困ってしまうことになるのでやらざるを得ないのです。問題は、自分で何かのプロジェクトを推進する時などで、どの選択肢も同じ程度に実現性に乏しい気がする時です。

どのタスクをやっても大した成果が出なさそうに感じる時、脳は何かの決断や選択を拒絶するようです。「やっても無駄かも」と思えるタスクに気持ちよく着手することは案外難しいのです。もちろん悩まずに、その「やっても無駄かも」をひとつひとつ根気強く潰すのが合理的なのですが、そうもいきません。

よく、起業に関する本を読んでいると、たいていはこのフレーズがでてきます。「成功したときのイメージを心に描こう」と。結局「夢」が大切なんですか……と軽視しがちですが、エネルギーが低下してきた時、最後にモノをいうのは自分の中にある「理想」をどれくらい本気でイメージできるかに尽きます。


◆非現実イメージが邪魔をする

非現実化イメージというのは恐ろしいモノです。何かを始める時には周囲から「できるわけないさ」といわれる言葉を背にして奮起するのですが、長期戦になってきて成果が上がっていないと、無意識が「簡単にできるわけないよなあ」に変わってしまいます。信じていない目標に向かって惰性で進むだけです。

自分自身が「現実化を信じていない夢」に向かって歩き続けるのは、ただツライだけです。開業当時の自分自身の気持ちに背を向けて歩き続けられるわけがないのです。事業を動かしていく人に必要なことは、自分の計画をできるだけ多くの人に宣言することだと思います。厳しい相手ほど効果があるでしょう。

中小企業の経営者が組織するコミュニティが存在する理由が、実は私にはよく分かっていなかったのですが、最近になって価値が分かってきたような気がします。それは自分自身の心のあり方を「自分自身に監視させる」モチベーションを得るためではないでしょうか。ごまかして生きていてはいけないのです。

2013年3月24日日曜日

障がい者……利用者様……


◆障害を巡るいろんな呼び方

私は、過去に何度か「障害者」、「障がい者」、「障碍者」の表記について思うところを書きました。私は「障害者」派(?)です。言葉狩りをしても本質的には何も変わらないし、同じ意味なのに表記をコロコロ変えてしまうと、障害者自身が困ってしまうことも少なくないことが分かっているからです。

文字の認識について障害を持っている人から見れば、パンフレットに「当日は障碍者手帳を忘れずお持ちください」と書いてあっても、目の前にある手帳には「障害者手帳」と書いてあるわけです。「……あれ?……この手帳じゃないのかな?……ええと、そもそもこれ、なんて読むのかな?……しょう……ぎ?……とく?……てちょう?」と。

まあ、このあたりはいつも微妙なところで、結局、議論をしたところで「誰に合わせるのか」というところで結論はでないのですけどね。だって、私が「障がい者」という文字を読むと、なんとなく馬鹿にされてるのかな……って思ってしまいます。どうせ、「害」の字が読めないのだろうと思っているのだろう……と。

それでも、「障害」以外の表記の方が無難といえば無難なのかもしれませんけどね。なぜなら、そもそも「障害」の「害」の字を外せと言い始めたのは障害者の一部という説もありますから。もちろん当事者によっては「そんなもん興味ねーよ」と思っている人もいます。気にする人もいれば気にしない人もいるよ……というそういう次元の話です。

答えの出ない「障害者」表記問題はおいておくとして、最近、個人的に気になっている表記があります。近年、急速に障害者を対象とした就労移行支援事業所が増えてきているわけですが、ここで利用者を呼ぶ場合の表記が事業所によって微妙に違うことに気づきました。「利用者のみなさん」、「利用者」、「利用者様」……と。

◆「働く」=「お客様」?

この中で私が一番気になったのは「利用者様」です。これ、とても理由は分かるけど、その一方で個人的には違和感があります。たぶん、その事業所は「第一のお客様」を「利用者」と定義づけているんだろうなと思います。もしくは、へりくだった立ち位置で「自分たちは、自分たち以外の方々のためにあるのです」的な。だから企業に対しては「企業様」と呼んでいるのかもしれません。

話を進める前に書いておきたいのですが、私は「利用者様」と表現している事業所を馬鹿にしているわけではありません。ただ、どうして「様」を付けているのかな……と、その理由が知りたいというか、あくまでも個人的好奇心を刺激されただけなんです。その先にどういう価値観があるのかなあとか、そのあたりが知りたくて知りたくて仕方がないだけなんです。

さて、私が考える就労移行支援事業とは、「利用者」が「自立心」を持って「社会の一員」になれるための手伝いをすることです。社会の一員ということは、細かい形態はどうあれ「職場」で活動することになると思います。職場からの立場で考えて一番困る人は「何にもできないことを当たり前のことのように振る舞い続ける人」です。

いろんな職場で障害の有無に関係なく、こういう人によくかけられる言葉があると思います。「君ね、いつまでもお客さん気分じゃ困るんだよ」……と。働くということは「サービスを提供する側」に回ることです。サービスを提供される側がお客様です。つまり、働くための訓練や支援は「お客様」から脱却するためのステージだと思うんです。

で、いつかは「お客様」を脱却した「社会の一員」になっていこうと思っているはずなのですが、それをトレーニングするための場所で「利用者様」と「お客様」扱いを受けていると「脱皮」が難しくなったりしないのかな……と思ったりもします。きっとここらあたりの戦略が違うから、あえて「様」付けしているんだろうと思うのですが、やっぱり私には分かりません。

◆お客様には極上の居場所を……

ものすごーくシビアに現実的に考えれば「利用者」は就労移行支援事業所から見れば「一番のお客様」です。なぜなら、利用者が事業所を利用してくれることによって、貴重な税金の中から助成金として事業所は収入を得られるからです。そんな利用者を「絶対にしあわせにしたい!」と思う気持ちは私も同じです。でも、だからといって「お客様」……は違う……かな。

誤解を恐れずに書けば、「利用者は成長してとっとと社会へ出て行け!」というやり方が正しいのかなと思っています。もちろん分野によっては時間をかけてスキルアップしていくことが大事です。むしろ私が行っているいくつかの講座や試みは「長期的育成」に関するものです。それでも、基本的には「できるようになったら、とっとと社会に出て行け」というスタンスが正しいと思うのです。

利用者を「お客様」扱いして、とても居心地のいい「居場所」を提供するのは就労移行支援事業所のミッションではないんじゃないかなと思うのですね。むしろそのあたりは、地域活動センターとかデイケアとかそのあたりのお仕事なのかなと。それよりは「今よりは居心地が悪くなるであろう」職場に耐えうるためにも、早期にシミュレーションが必要なんじゃないのかなと。

それから、過去に私が関わった就労移行支援の現場で過去にこういう事例もありました。確か発達障害でお困りの方だったと思います。ものすごく頭が切れて回転もいい方だったことを記憶していますが、その人が利用者を結集して「自分たちの思い通りにさせろ」という抗議活動を始めようとしました。就労移行支援事業所の中で自治権を持たせろというのです。

「最終目標はすこしでも早く就職して、ここから出て行くことですよね。要求は最終目標からズレているし、ここの方針がイヤなら、他にたくさん就労移行支援事業所はありますよ。」と伝えたときに、彼の口からこぼれた言葉があります。「私たちのおかげであなた方は給料をもらっているのでしょう?だから私たちの要求を聞くべきです!」と。

◆権利主張は大切だが……

彼との話し合いは平行線を辿り続け、結果的には就労移行支援事業所の利用を中断していただくことになりました。最後まで「労働者は労働環境を変える権利がある」と訴え続けていました。「ここは職場なのではなく、職場で活躍するために必要なトレーニングの場ですから」……という言葉は最後まで理解されなかったかもしれません。

しかし、その時、自分の中で無意識に行っていたことを反省しました。「個性から生まれそうな可能性」を大切にしようとするあまりに、私は当時、利用者を「お客様」扱いしていたのです。嫌われないように、嫌われないように。いつでも気持ちよく通えるように。そして、創造性豊かな発想力にはなるべくブレーキをかけず、まずはとにかく成功体験と自信を持ってもらおう……と。

これは障害者手帳の有無に関係のないことですが、あまりに根拠のない自信が蓄積し続けると、人は時として「自分の価値観が絶対的に正しい」と思い始めます。そのエネルギーは洗脳的ですらあります。「こんなに努力をしているのに」、「こんなに貢献をしているのに」、「認めないのはアイツに能力がないせいだ」、「社会が悪いから自分は報われないのだ」……と。

権利主張は大切なことです。大切だと重要性を十分に理解した上で書きますが、私は権利主張が大嫌いです。権利主張は「頭を使わなくてもできる」ことだからです。そして「自分の責任を果たさなくてもできる」ことでもあるからです。その時から私はできるだけ、利用者に対して「お客様」扱いしないように心がけるようになりました。

権利主張というのは「戦い」です。相手から妥協を引き出すための戦いです。自分の非を認めると戦いが不利になるので、基本的には自分の非を認めません。「当然の権利」を手にするために戦うのです。しかし、最初から対決姿勢を好む人間を雇用したいと思う企業があるでしょうか。おそらく多くはありません。だから権利主張を我慢することも大事なトレーニングの一環なのです。

◆なぜ「利用者様」なのだろう?

そういう意味で「いやならいつでも『自分の意思』でやめてもいいんだよ」というスタンスを持つ事業所の方が私は好きです。変にお客様扱いをして、結果的に「職場とのズレ」で苦しませる結果になるのも気の毒ですし、「権利主張」を振り回しすぎて社会から煙たがられる存在になっても、やはり気の毒だと思うのです。

物事の「呼称」には「ポリシー」が宿ります。どのような何気ない言葉だったとしても、そのひとことの端々には理念が宿ります。私は、「利用者様」という言葉を使う事業所のポリシーというか理念を知りたいなあと本気で思います。なぜなら私が理解することの難しい価値観だからです。それを説明してくれる人がいたらじっくりお話ししてみたいです。

2013年3月17日日曜日

弱さを認めることと甘えること


◆「弱さ」と「甘える」こと

最初に書いておきます。私は強い人間じゃありません。どちらかというと弱いです。いや、圧倒的に弱い。どれくらいに弱いかと言えば、お金をつい使ってしまいそうな誘惑に負けがちなため、必要のないときには財布に多くのお金を入れないようにしているくらい弱い人間です(苦笑)。だから予想外のタイミングで飲みに誘われると思わずコンビニATMを探す有様です。

あと、行動力もだいぶ弱いです。だから、いつも行動予定をある程度たてて、それに沿って進まないとつい怠けたり、遊んだり、そして無駄に休憩してしまったりもします。「自分の弱さを認めていてよく知っている」からこそ、その対応策を立てることがとりあえずできています。そうしないと私はひたすら怠惰な道に流されていくことでしょう。

「弱さ」と「甘え」をセットで考えている人が、わりと多いような気がします。「弱さを認めること」=「甘え」の図式で生きること、それは自分の足で立とうとする意志を否定していることになると思うんです。だから「弱さを認めること」=「甘え」=「仕方ないじゃないか」じゃダメなんです。

あ、もうちょっと正確に書きましょう。「ダメ」じゃないです。今のままでも十分にしあわせで、これから先も今のままで十分にしあわせだとするなら、そのままでいいのです。今、私が話をしている相手は「今よりももうちょっとしあわせな未来を生きたい」と思っている方々です。

◆情に訴える生き方をやめよう

基本的に「弱さを認めること」は重要だと思います。さらに踏み込めば、それを公開することも重要でしょう。私なりに理由を考えるとふたつあります。ひとつめは「自分の弱点を知る」ことによって対策が考えられるからです。ふたつめは「弱点を公開する」ことで精神的に堂々とできるからです。ある意味で「脱皮」ができるのです。

しかし、この「弱点を公開する」という意味をはき違えると、結局、「変化のない人生」が続くだけなのだと思います。「私には弱点があるのだから仕方がないよね?」という正当化の盾にしてしまえば、そこからの成長はほとんどないからです。「ありのままのあなたでいい」というのは、何もしない人にかけていい言葉ではないと思うのです。

私は、自分の弱点を盾にして情に訴えようとする生き方が好きではありません。なぜかといえば、それが30歳までの私の生き方と同じだからです。うまくいかないことを、自分のハードウェアと環境の責任にしていました。「身体が強くない」だの「頭が良くない」だの「顔が良くない」だの、その理由を旗印にして前進を怠っていたような気がしてなりません。

誰かに「自分の才能のなさ」や「運のなさ」を嘆いてみては、慰めの言葉を心地よく受け止めつつも、それを決して受け入れようとしない。私はその当時の私の生き方が大嫌いです。ただ、その一方で感謝もしています。私の「現在」というのは、そういう「過去」の上に成り立っているからです。だから、同じ思考に逃げてしまう人の弱さと気持ちがよく分かるのです。

◆自分の人生を掴めるのは自分だけ

結局、当時の私に温かい言葉をかけてくださった方々にはずいぶん迷惑をかけてしまったと思います。一体どれだけの精神力と時間を費やしていただいたのでしょうか。結局のところ、そのスパイラルから抜け出すのは「自分で変わろう!」という自分の決意以外になかったのです。これには「大きな痛み」を伴います。生半可な痛みではありません。

今まで自分が寄りかかっていた「価値観」を捨てることは、自分の身体の半分を捨てるにも等しい痛みを伴うのです。だから、「自分から変わろう」という話をしたときに、「それでは、本当に自分ではなくなってしまう」という人がいますが、その気持ちも痛いほど分かります。「自分を守ってくれる言い訳」を捨てることはそれほど容易ではありません。

「自分はダメな人間」である……その理由は、「自分はダメな人間」であるからだ。これは、まったく論理性も客観性も欠いており、ただそう思い込みたいという「負の信仰」です。正しかろうが、間違っていようが、自分を定義づける「信仰」を変えることは「本当の自分ではなくなってしまう」という危機感を伴います。本当の信仰とそれほど変わりません。

しあわせならそれでかまいません。今のままでかまいません。今の人生が輝いていて、どこにも一点の悔いもないのならそのままでいいのです。しかし、もし、「このままではいけない」と心のどこかで考えているのなら、痛みを受け入れる覚悟が少しでもあるのなら、私はあえてハッキリ伝えたいと思います。

◆「本当の自分」なんて捨ててしまえ!

今の自分が「しあわせな人生を送っていない」のだとしたら、半分以上は「自分自身の責任」です。自分自身が愛してやまない「本当の自分」などという存在です。その「本当の自分」とやらのおかげで、納得のいかない人生を送らされているのです。「人生を送らされている」って、誰に?……それもまた「現状の自分自身」だったりするのです。

本当の自分なんて捨ててしまえ……と聞くと、物騒なことをいう人もいます。「それって死ねってこと?」……もちろん違います。「自分を変えることは、死ぬことと同じだ。だから死ねってことなんでしょう!」……という気持ちは分かります。ええ、分かります。その気持ちは分かりますが、残念ながらそれは正解じゃありません。

ゲームだと思って、だまされたと思って一度やってみてほしいのです。「自分自身は死んでしまった」というつもりで、「しあわせそうな自分を演じる」ということを。「自分自身の弱さを、まるで他人事のように笑い飛ばす自分」を演じてみてほしいのです。「弱さの公開」とはそういうことだと私は思います。その瞬間に弱さは「自分自身」と切り離されるのです。

そう、今、大事に守ってやろうとしてやっている「本当の自分」こそが本当の敵なのです。そいつは「自分が何もしなくてもいい理由を探し出すプロ」です。「本当の」などというたいそうな肩書きでごまかしていますが、たいしたヤツではありません。「自分の弱さ」を「甘え」に変えてくる「本当の自分」なんて捨ててやればいいのです。その結果、やってくるのは「本当の自分」ではないかもしれませんが「大好きな自分」かもしれません。

2013年3月11日月曜日

ユニバーサルな説明


◆基本的にはユニバーサルがいい

世の中はユニバーサルであった方がいいと思っています。特別に「障害に配慮する」というのではなく「誰にとっても配慮されている」ということが理想です。しかし、これで何でも解決するのかといえば、そんなことはありません。本質的に「完全」なユニバーサルは困難だと思っています。

一例をあげれば、私は技術的なことを説明しなければならない時に、いろんな「たとえ話」を活用します。個人的な理想としては「子供でも理解できる説明」ができることです。しかし、それすらも「ユニバーサル」ではありません。なぜなら発達支援が必要な方々の中には「たとえ話」を理解すること自体が困難な方々もいるからです。

私は千葉の市川市で、発達支援が必要な方々が幸せな就職をできるようにする仕事をしていますが、その説明会で親御さんから苦言をいただくことがありました。「発達障害に特化していると聞いて来たのですが、うちの子にあった説明でなかったのが残念でした」と。

せっかく足を運んでくださったのに、率直に申し訳ないと思います。ただ、発達障害というのは人の数だけ違います。いくらかの「傾向」はあっても、その強度や方向性、それから複数の「傾向」の重なり方から何から何まで違います。発達障害の特性は「ひとこと」で語れず、「うちの子」が抱える課題も多様すぎる事象の一個性なのです。

理想を言えば、それぞれ個別に説明できるのが一番いいのでしょうが、説明会という「一対多」という状況での伝達手段には限界があるのかもしれません。どこかにターゲットを定めてしまうと、どこかに支障が発生してしまうのです。誰かに対して「わかりやすく」伝えようとすると、そこにはまらない誰かにとって「分かりづらく」なってしまうのです。

さらに言えば、本当に来てほしいと思っている層にまっすぐメッセージを伝えたいのに、そこを下手に情報保障してしまうと、肝心な「来てほしい」層を獲得できず、「想定していない」層を取り込んでしまい、講師と利用者の双方が身動きできない状況を生み出してしまうかもしれません。

◆まずは「想定する層」に呼びかける

そこで「冷徹」な考え方についても検証してみたいと思います。それは「どんな人でも限りなく受け入れられるわけではない」ということです。たとえば障害特性というよりも人格的な部分で施設利用が困難な人もいるでしょうし、理解力という部分で職員のフォローが追いつかない人もいるでしょう。

これは実はものすごく大事なことで、「支援者としてお役に立てそうな対象者」を選別する必要があるのです。「選別」というと非常に刺激的な意味を伴って伝わってしまうかもしれませんが、要するに「当事者の利益が確保できないことはしたくない」ということなのです。貴重な人生の時間と受給期間を無駄遣いさせてしまってはいけないのです。

ここに松下が書くことは「就労移行支援事業所としての公式見解ではありません」が、少なくとも私が担当するコースにおいては、「何かひとつでも発見を持って帰ろう」という人だけに集まっていて欲しいのです。もっといえば「後ろ向きな気持ちを前向きにする」というところにエネルギーを割きたいとは考えていません。

そして「最低限の線引き」というのを分かりやすく説明しておく必要があるとも考えています。すなわち、説明会の時点で「この話が理解できない人は対象者ではありませんよ」という意図を伝えることです。もちろん無駄にハードルをあげるつもりはありませんが、最大限平易な表現で伝えてみて「理解されなかったら仕方がない」というスタンスです。

分かりやすい話をしましょう。たとえば私のコースを受けるための最低条件は「日本語が分かること」です。ここで「どんな国の人にでも機会は均等に提供すべきだ」と主張されたとしても、私にはどうしようもありません。私の意思をある程度誤解なく伝えるために、私が使える言語は日本語だけだからです。

つまり、私が想定している範囲を大幅に超えてしまっている方々に対して、有効に「お役に立つことができない」のです。この想定の種類は、言語だけにとどまらず、興味特性、最低限の知識……など多岐にわたります。

◆理解できないけれど興味のある人をすくう

そういう意味で個人的な本音を書くと、第一においでいただきたいのは「私がお役に立てる可能性の高い方々」だということです。つまり、私が説明会で話した内容を理解することができて、それを聞いて魅力を感じていただける方なのです。逆にそうでないと、せっかくおいでいただいても続けることがツライと思うのです。

先ほど、「来てほしい」層と「想定していない」層の話がありましたが、これも言い換えると「お役に立てそう」な層と「お役に立てなさそう」な層ということです。「それなら、どうして最初から条件を明らかにしないのか?」という質問が出そうですが、これについては理由があります。

それは、「理解はできないけどおもしろそう」と思ってくれた方には、一生懸命ご案内しようと思っているからです。だから、私は最初から条件を明確にしないのです。たまたまその条件の内容が理解できないために、その後の可能性の芽まで摘み取るようなことはしたくないのです。

ただし、残念ながら「まったく興味がない」という人まで引っ張る余力が私にはありません。時間ももったいないですし、本人が興味を持っていないのに無理に引っ張り上げようとするのはお互いに不毛なことです。「才能や能力がない」わけではなく「たまたまご縁がなかった」だけに過ぎません。

私はなるべく多くの人の可能性を信じたいと思っています。そして、それが伸びるきっかけになれればいいと願っています。だからこそ、そこに全力を注ぎ込みたいと思っています。逆にいえば、そこに乗れない方々については、お互いの利益のためにも慎重な対応が必要だとも思っています。

私がもっとも誠実ではないと思っていることは、「お役に立てなさそう」という予測があるにも関わらず、あたかも希望があるかのような対応をすることです。そして、お互いの時間と気力を無駄に浪費させることです。だから「本物の情け」として「お断り」という選択もあると思うのです。

なお、これは単なる「個人的な考え方の中のひとつ」に過ぎません。これをもって私の結論というわけではなく、私の中にはこれと異なる他の考え方もあります。つまり、私は思考にいくつかの選択肢を持っているのです。その中から「こういう考え方もある」ということを紹介させていただきました。

2013年3月3日日曜日

内面から燃え上がるような講座


◆カリキュラムありきではない

たまたま「発達支援が必要な人たちに『自己解決力』を伝える仕事」をしていますが、何度も書いているように、これは別に何かのハードルを持っている人たちだけに必要というものではなく、どんな人にも必要なスキルなんですよね。だから、私にとっては対象者が「たまたま発達支援」という印象が強いのです。

それはともかくとして、私がどのようにして受講者の「自立心」を磨いていくのか……という技法について興味を持っていただく方がいらっしゃいますが、実のところ、そんなにテクニカルなスキルはあまり持っていないような気がします。私が講義をするにいたって、一貫しているポリシーは「自分自身も楽しめること」だったりします。

ぜんぜんテクニカルな話ではなくて、ぶっちゃけ「欲望」に忠実なだけという感じですかね。私はまず「楽しむ」ということをスタート地点にしたいのです。難しそうに眉間に縦ジワを作って、当たり前に難しい話をしたところであまり意味がないと思うんですよ。そういう人は探せばいくらだっているわけですから。

私にとって「楽しむ」というのは、来てくれている受講者の「いいところ」が表面に出てくる時間を過ごすことです。だから、私はいつも受講者の顔ぶれをみて、その場で「テーマ」を決めています。もう少し具体的にいえば、「どういうことを知りたいか」という話を簡単に聞いてから、その日の内容を決めています。

しかし、毎回、受講者の顔ぶれは変わってしまいます。だから、私は、カリキュラムを作りません。作ったところで無駄だからです。さらに言えば「発達支援が必要な方々」という対象を考えたら、まさにそういうレールを苦手とする人も多いともいえます。つまり、従来と同じアプローチではいけないということにそろそろ気がつかなければならないと思うのです。

◆問題は「楽しさ」に火がつくか

世の中の管理者は「○月頃にはこれくらいできていて……」というレールをどうしても引きたがるように思います。もちろん、行政から税金をいただいて運営する以上、行政が安心できる計画案を持つことは重要かもしれません。しかし、所詮、それすらも、「他人が決めた目的」で「他人が決めた納期」に過ぎません。

私は思うのです。今までの学校教育の中でもずっと、こういうことが繰り返してこられたはずです。学校教育の指導要領の中で、期間を決めて、その期間内に学びきらなければ「落ちこぼれ」という烙印を押す仕組み。私は、そういうレールに乗ることが苦手な人に対して、そのレール以外の方法を提供したいのです。

すると、通り一遍の「同じ目標と納期」……いわゆる、シラバスとかカリキュラムは意味をなさなくなってしまうのです。「同じ品質の人材を、量産的に養成する」という軍隊式ではだめで、その人の「長所」とか「ピーク」をひたすら磨いた方がいいのです。この「長所」や「ピーク」というのは「楽しいこと」ということに他なりません。

実は今までお目にかかった受講者の中にも、才能がありそうに見えた人がいました。その方はIT関連の技術を猛烈な速さで吸収していきました。しかし、それだけではダメだったのです。いつまでたっても「楽しさ」につながらないまま、ただただ消耗していきました。「できる=楽しさ」でなければ、まったくその人の人生にはプラスにならないことを知りました。

つまり、逆にいえば「楽しさ」を掘り出せることが、どれくらい重要かということなのです。ただ、よく勘違いされるのは、「『趣味』を『仕事』にすればうまくいくだろう」という考えです。これは、正しいように見えて、実は違うことが少なくないようです。

私自身、そのことに気づくまでには、この就労移行支援関連に携わってから数年を要しました。「知らないうちに仕事が趣味になっていることが人生のしあわせ」というポリシーは今でも正しいと信じていますが、その逆が短絡的に正しいわけでもないのです。

◆「趣味=本当の楽しさ」ではないことがある

たとえば、「マンガを描きたい」とか「小説家になりたい」という人がいますが、それが本当の「楽しさ」ではないことがあります。あえて酷評をしますが、そういう人の作品を見せてもらうと、素人目に見てもどうにもならないほどの低いクオリティであることがほとんどです。そして、たいして作品の量も多くありません。問題はその駄作を見て「駄作だ!」と伝える勇気、伝えられる勇気がないことです。

本当にプロになろうとする覚悟があれば、「見せるべき人に見せて、言われるべき酷評をされる」はずのところですが、そこをそうしないのです。つまり、「正しくクオリティを上げていこう」と思えるほどのものでなくては「本当の楽しさ」ではありません。つまり、まったくクオリティの上がらない「趣味」は、残念ながら「仕事」ではなく「時間つぶし」にしかならないのです。

なぜ、「好きなこと」が「時間つぶし」になってしまうのかといえば、本当に夢中になれるほどの「何か」をみつけるための選択肢が少なかったからだろうと思います。そこで、私が提供する講座では、とにかく、「楽しいこと」の種類をたくさん見ていただけるように心がけています。すると、「生半可な夢」よりも、本気で追いかけてみたい「本当の夢」が見つかることがあるのです。

だから、私は「ひとつではなく、いろんな可能性を見つけて欲しい」と思っています。「自分でも知らなかったような才能」に気づくきっかけはたくさんあった方がいいのです。人間は本能的に賢い生き物です。「未来に繋がらない無駄なこと」だと心のどこかで信じていることには、本気で向かえないようにできています。

「生半可な夢」というのは、人生にとって有益ではなく、深刻なダメージを与えることがあります。なぜならば、(一生懸命)「がんばっているつもり」なのに、(あんまり)「芽が出てこない」ということ事実が、じわりじわりと自信を喪失させていくからです。しかも、厳しいことを書けば、(一生懸命)→(なんとなく)で、(あんまり)→(まったく)という形で事実がねじ曲がっていることもたびたびです。

◆「その人」のしあわせは「その人」にしか作れない

私の講座にカリキュラムやシラバスはありません。「いつまでに○○」という目標設定もありません。基本的には受講者が自分の力で決めることだと思っています。だから、私は受講生の悩みや希望に直結した講座をしたいと思っています。たとえば、目標を見失ってしまったときに、どういう探し方をすればいいのか……自分の経験をもとに「考え方」を伝えます。

私は特段優秀な人生を歩んできたわけではありません。対人関係についても仕事能力についても、人一倍、挫折と孤独を多く味わってきました。挫折をして、自分自身を責め続けながら生きてきました。そんな人間が編み出した「生きていくための技術」はたくさんあります。どん底でなければ理解できないノウハウがたくさんあります。

だから、当事者からどんなテーマを投げかけられても、たいていのことは経験しています。そこから脱却する術を知っています。勉強が大の苦手で記憶力も足りない私が、どのようにしてIT業界で生き抜いていったかを伝えることもできます。優秀な人生でなかったからこそ、どん底でのたうち回っている人たちの気持ちが分かるし、そこからの光明の見つけ方を知っているのです。

ただし、その光明の位置を私が知っていたからといって、私が見つけてはいけないと思っています。その光明を探し当てるのは本人でなければならないのです。なぜなら「他人に用意された人生」なんて、たとえ輝かしいものであったとしても、所詮は自分の人生ではないからです。自分で見つけて、自分で心を燃え上がらせなくてはいけないのです。

「気合いを入れろ!」と、誰かに突き動かされる気合いよりも、「ようし、気合い入れていくぞ!」と、自分の心の中からわき起こる気合いの方が遙かに力強いのです。私は気合いを注入したりしません。しかし、自分の中から気合いがわき上がるきっかけをたくさん振りかけたいと思います。

そんなことを考えながら、また月曜日を迎えます。受講生に今週はどんな世界をみてもらおうか、そしてどんな可能性を探してもらおうか……そう考えていると、力がみなぎってくるのです。ここ数年間、私の辞書に「サザエさん症候群」という文字はありません。とっくの昔に抹消済みです。

2013年2月24日日曜日

経験知の伝え方


◆やってみて分かった経験知

私はややニッチな領域でニッチな経歴を生かして、ニッチなアイデアを形にしようとしています。「います」と現在進行形にしつつも、すでに始めてから3年以上がたっています。私にとってエキサイティングな3年でした。

私がやっていることを、もうすこし具体的に言い直すと、何らかのハードルを持った人が就労できるように支援する業界に私はいます。かつて、IT業界でエンジニアをしていた経歴を生かして、「エンジニアが自己解決してスキルを身につける過程」を体験していただいています。

別に必ずしもIT業界に就職する必要はないのですが、どんな業界に行くにしても「クリエイティブな素養がある人」が、「仕事だから」とあきらめてマニュアル通りに生き続けて行くには、人生は長すぎると思うのです。だから、自分の頭を使って考えて先に進む体験をしてもらっています。

「たった3年で何が分かる?」と言われそうですが、私はそれでも多くのことを知りました。「なんだ、『障害者だ』と思うからおかしくなるんじゃないか」ということ。もちろん状況にもよるのだろうけれど、「働きたい」と思える状況になった時点で、かなり戦える状態になっているということ。

さらにいえば「メンタルの方は自分で考えることが苦手」という常識(?)が大きく間違っているということ。いや、中には自分で考えることが苦手な人もいる。そんなことは障害者手帳を持っていない人だって同じこと。つまり、自分で考えるということがものすごく得意な人もいるという事実。

そして私が持っている経験知は、そういう人たちの才能を効率よく楽しく引き出すための方法です。私は比較的そのあたりの経験知を簡単に他の人に伝えてしまいます。なぜなら、いくら私が効果的な方法を知っていても、私一人ではさらに多くの人たちの役に立てないからです。身体と時間が足りません。

◆自分のメッセージがどこに届くか

そういうことをやっていると、私がやっている「自己解決力コース」の内容について、いろんな人に質問されます。中には私が伝えた経験知を試してみて、その先で行き詰まってしまって、また質問に来られたりもします。また、当事者とのつきあい方(?)について相談されることも増えています。

私が誰かのためにお役に立てるということはうれしいのですが、私の中にはわずかに恐れに似た感情がわき上がることもあります。その心配というのは、

(1)私の伝えたい真意が十分に伝わっているだろうか?
(2)私の関与でオリジナリティを壊していないだろうか?

ということです。そして、この(1)と(2)は真逆の矛盾を抱えています。

まず、(1)について。たとえば、「当事者に対しての配慮はしていますか?」と聞かれた場合、私は「特にありません」と答えています。実際にその通りだからです。場合によってはタブー視されていそうなことでも普通に話したり聞いたりもします。空気を読まないくらいにです。

でも、この言葉をざっくりと切り取られて「配慮なんて必要ないんだ」なんて思われたとしたら、それは困るんです。「当事者」に対しての配慮をしていないだけで、「人間」に対しての配慮は当然必要なわけです。だって、障害者手帳を持っていてもいなくても、人間扱いされなかったら誰でもイヤじゃないですか。

私の場合は、全ての人に対して「ハードルの低い配慮」ということを心がけています。甘すぎず、厳しすぎず……という、かなり微妙なさじ加減だったりもします。これは「適当に」というわけではなく、ある程度の判断基準があるわけですが、こういうことをマニュアル化してもあまりよろしくないんですね。

◆カリスマよりもオリジナルを……

なぜかというと、目の前の人間を「パターン化」することは難しい……というか、無理だからです。「人の数だけ違いがある」という当たり前のことを無視して話を進めるとロクなことになりません。そもそも数値化できないパラメータが人間には数限りなく存在しているのです。

なので、どちらかというと「マニュアル」というよりも、「行動規範」というか、「クレド」のようなものが必要だと思っています。で、相談してくださる方にはなんでもかんでも伝えたいのですが、1時間程度の短い時間でぱっと伝えることには、いささかの不安があることも事実なのです。

これについては、すでにご興味を持ってお申し出いただいた方々と一緒に、企業研修のような形でのパッケージ化を検討しています。やはり、ある程度責任を持った形でのフォローができればと考えているからです。私が行っている「自己解決」のコースに関してもそうです。

しかしながら、ここまで書いたことと真逆なマインドもあります。それが(2)なのですが、私が獲得した経験知が「ルールブック」になって欲しくないという思いもあります。たとえば、ベンチャー企業の社長などは「カリスマ」になってしまうことが多くあります。そんな会社の朝礼は「神の神託」であるかのようです。私はああいうことがあまり好きではありません。

ひとつの事業を進めるにおいて、メンバーが同じ方向性を向いて進んでいくことは大事なのですが、自分のコピーをたくさん作ってもあまり意味がないとも思っているのです。だから、私はこう思います。もし、私の経験知がお役に立てそうなら、まずは核心部分まで理解していただきたいです。しかし、「理解する」ことと「染まる」ことは違うと思います。

◆「劣化コピー」ではなく「多様な進化形」に

理解していただいた先にある、各人のオリジナリティと融合しなければ、経験知をお伝えする意味がまったくないと思うのです。誰かの言ったことをまっすぐに実行するだけなら、それは洗脳教育と大して変わりません。

「こうでなければならない」というルールは思考を硬直化させるだけです。そして、それが各人の誤解を経由して経年劣化していくのです。そうではなく、「常に考える」ということがコアになっていた方がいいと思うのです。

常にその場所や時の中で活躍している人が、盲目的に誰かが決めたマニュアルを遵守するのではなく、最適な解決を目指して「考える」ということ。これを満たすユニバーサルなパッケージにしていきたいと思います。

無批判にルールを引き継ぐ過程で、細かい誤解の蓄積によって変わっていくものを「劣化コピー」と私は呼んでいます。しかし、明確な意図が介在する中で、必要性に従って変化していくことは「多様な進化形」なのだと思うのです。私はこちらの方がワクワクします。だって、時代を超えてどんどん発展しそうじゃないですか。

そして、私が作りたいのは、そういう「ワクワク」なのです。

「企業研修」=「ワクワクしない」なんてつまらないと思います。むしろ、「企業研修」=「ワクワクするもの」でなくちゃいけないと私は思うのです。だって、「企業」って「人の夢が形になって世の中に出ていく場所」ですよ。そこを洗練させる企業研修がつまらなくていいわけがないのです。

2013年1月26日土曜日

同意を得られないところがおいしい


なんというか、「あまのじゃく」というか、ある程度、我ながらあきれるところもあるのですが、私は「あまり同意されない意見」というのが好きです。確かにマーケティング的にいえば、多くの人が同意してくれる考えを推進していった方がいいに決まっています。

しかし、私は誰もが「いいね!」ボタンを押さないような考え方を大事にしたいと思っています。理由はいくつかあります。

(1) 誰もが「いいね!」と思うアイデアは自分でなくても誰かができる
(2) 誰もが「いいね!」と思うアイデアはブルーオーシャンになりづらい
(3) 声を出せない人たちや声の小さい人たちが救われるアイデアがある
(4) 「いいね!」と思われない方が開拓精神が刺激されて楽しい(笑)

私が位置している領域は「メンタル的なハードルがあるけれど、実は隠れた才能がある人たちに活躍してもらう」という仕事です。メンタル的なハードルっていろいろあって、幼児体験からの囚われもあれば、人間関係の距離感が分からずに痛い思いばかりしたせいで人間が怖くなっちゃったりとかいろいろ。

概して、そういう人たちを仕事に就かせようとすると、「すこしでも社会に適応するように」というアプローチで挑むことになります。もちろんそれは正しいアプローチの一つだと思います。しかし、もう片方からのアプローチ。つまり社会からの歩み寄りというところを私はもっと考えていきたいのです。

最近では、メンタルで障害者手帳を持つ人の雇用環境はだいぶ充実してきたように思います。しかし、「ここくらいまでなら適応できるんじゃない?」という健常者目線の環境が依然として多いと思います。障害を「穴埋め」して健常者に近づいてください……的なアプローチというか。

私はもうちょっと先に進んだ就労環境を考えています。それは障害を「穴埋め」するのではなく、障害そのものが持っている「メリットを前面に押し出す」アプローチです。ある意味、既存の社会のルールをある程度崩壊させても、その人にとっての最適解を導き出すような就労環境はないかと考えているのです。

企業に対して「法定雇用率を満たさないとマズイですよね?」とか「CSRという観点で御社にとってプラスになりますヨ?」とか……そういうアプローチじゃなくて、「本気で戦力にする」という観点で提案できればいいのですが、実際のところ、実運用例がないと企業側も無駄に冒険はできません。

今、MovingShop株式会社ではそういう視点を持ちながら、手帳の有無に関わらず、かつ、既成の概念にも囚われず、どうやったら「個性が強烈すぎる人(笑)」の良さを引き出す就労環境があるのかを模索しています。そして成功事例を社会に還元していこうという試みを始めています。

今はまだ私たちが行っている試みが、まだ社会から同意を得られないかもしれません。しかし、社会から同意を受ける前に、「ユニークな個性」を持った人だけにでも「いいね!」されるような環境作りを最優先に、まだ一般社会から「いいね!」されないアイデアを大事にしていこうと思います。

2013年1月13日日曜日

あとはやるだけ


意外とブログが書けない。あれもできたらいいな、これもできたらいいな……という状況だと夢をタップリ書けるんだけれど、もう、やるべきことが目の前にあって、あとはひたすら現実化させていくだけ……という状況だと難しいものですね。

いろんな人が関わってくれているから、内緒なことを勝手に書いてしまって迷惑をかけてしまっちゃあいけない。すると「内緒は内緒のままで」というわけで、一番書きたいことが何も書けないと。そうかといって、じゃあ暇つぶしの何かを書こう……というのも何か違う。だって暇じゃないんだよ(笑)。

まぁ、自分の記録のために現状について書いてみたいと思います。独立して業務委託やら何やらで生きてきたのだけど、ここんところ状況がちょっと違ってきています。まず、業務委託として受けていた就労移行支援の仕事は、2012年7月あたりから、千葉県市川市にある就労移行支援事業「ユースキャリアセンターフラッグ」で職員として頑張ってます。

そして、主たるビジネスとして準備しているのがMovingShop株式会社の新プロダクト。で、これの詳細はまだ書けないわけだけど、私が今まで数年間熟成させてきたノウハウをパッケージ化させたものになる予定です。もしかすると、就労移行支援事業所の方々が喜んでくれるんじゃないかな。だって、中の人が中の人のために作ったものだもの(笑)。

一応、MovingShop株式会社では社長ってことになっているんだけど、まぁ、ひとり部長とか、ひとり課長とか、そういうイメージで捉えてもらえれば今のところは間違いない感じです(苦笑)。こちらの方も毎月僅かながらの収入を得ています。こちらは就労移行支援事業のお仕事というよりも開発系のお仕事が主体です。

で、もって、わざわざ屋号までとった個人事業主としての「PPJワークス」はどうなっているのかというと、就労移行支援コンサルタントとしての委託業務がなくなってしまい、その代わりに職員としてのお給料に切り替わっているので「PPJワークス」としての収益は激減ですよ。

じゃあ、「PPJワークス」としての活動はやめてしまっているのかというと、そんなことはないんです。目下、ストレス対策のポータルサイト「すべらく!」を整備しているところです。こちら、更新が2012年5月11日で止まってしまっています。実はそのあたりから、新しい就労移行支援事業所の職員になるという話が進み始めていて、まー、どうにも忙しさがピークでしたねえ。

ところで、実は、今日、久々にすべらくを更新しようと思ったんですが、先月あたりにレンタルサーバを新しくしたら更新機能に異常が発生しちゃっていたんですね。すみません。表示機能に異常がなかったからということで、とりあえずそれで安心しちゃっていたんですが、更新ができないって、もー、どういうことっすか……って感じです。

もっとも採算業務がごっそりとお給料仕事に移転してしまったので、なかなか非採算業務に時間をかけることができなくてごにょごにょ……という状況だったのもあるんですけどね。ただ、以前開発した更新機能の使い勝手が悪かったのと、新しいサーバになっていくらか仕様が素敵になったので、ここらでいっちょ新調しようと新機能を開発中です。

今まで、「PPJワークス」の中では採算性の高い業務が光っていたので、どうにも採算性の低い業務が埋もれがちになっていたのですが、後者しか残らない状況になった今、いよいよ本気で手をつけなくてはならないなと……時間を見つけてはせっせと「すべらく!」の開発にいそしんでおります。

こんな感じで、独立してから紆余曲折ありますが、現状は、三足のわらじを履く状況になっていて、その中でも、やや個人事業主としての比率が減っているかな……いや、激減?……という状況です。ただ、これも2013年中に改善させる気まんまんです。

以上、状況記録も含めて報告でした。いやね、本当に書いておかないと忘れちゃうし、PCの中に書いても、どこにいっちゃったか分からなくなる……というリスクを避けるという意味で。偶然にもお読みになられた方がいたら、全力でごめんなさいです。すみません。すみません。

いずれにしても、やることがいっぱいという状況には感謝ですね。右を向いても左を向いてもやりたいことだらけです。いや、マジで。

2013年1月4日金曜日

2013年をどう生きるか


半ば自分の備忘録という体裁になりつつあるので仕方ないのだが、最近は更新頻度が下がっているものの、ブログをずっと続けていると、どうしても開始時からの年月を意識せざるを得ない。未だ道半ばながら、ブログ開始当初のような「がっついた」雰囲気がないのはいいのか悪いのか考えてしまう。

当初は何も具体的な方向性が決まっていなかった。夢の方向はあるにしても、現実的なアクションが何も思いつかなかった。書けることと言えば「とりあえずできることを全力でやってみよう!」ということが精一杯。そして「自分に何ができるのか」という棚卸しくらい。

あれから年月がたち、早く成果を結実させなくてはならないという焦りはあるものの、当初はなかったいくつかの要素が今はある。当初の自分では想像もできなかったような変化がいくつかあった。

 (1) 具体的なビジネスの方向性とアクションが確定している
 (2) 実現するための必要な協力者と人材が十分に揃っている
 (3) 家に帰ると妻と子供が待っていて家庭人としての立場が増えた

最初の(1)は大きい。「何をしようか」という白紙のキャンバスはどこまでも自由だが、いつまでもどこまでも自由というわけにはいかない。白紙に立派な絵を描こうとすればするほど準備時間だけが過ぎていくことも珍しいことではないわけで。

そして、(2)もとてもありがたい。「○○さえあれば」とか「○○さえいてくれれば」とか「○○ができれば」という条件をほとんどクリアできている状態だからだ。つまり、「私がやるかやらないか」という一点に集約されている。逆にいえば何も言い逃れができないほどに環境整備ができている。

最後に(3)については、「ビジネス」とか「プライベート」という範疇で語る内容ではなく、それらひとつ上の層の「人生」というくくりで私に大きな影響力を与えている。そして、正直なところ、この影響力の範囲に私自身が驚いている。

かつての私は「社会や世の中というものは一時的な道具に過ぎない」と思っていた。つまり、自分が生きている間だけお世話になる一時的な環境にすぎないという意味だ。死んでしまえばそれまで。だから、世の中に対して何かをしようという思いは希薄だった。

もちろん、今でも本質的には「死んでしまえばそれまで」という現実は変わっていないかもしれないが、しかし、もし何かの原因で私がいなくなった後も、私の大切な人たちはこの世の中にお世話になっていくのだ。少なからずいろいろと私ができないことでご迷惑をかけることもあるだろう。

そう考えると、世の中は少しでも生きやすい環境であってほしいと思うし、優しい気持ちに満ちあふれた環境であってほしいと思わざるを得ない。ある意味で「人生が枯れてしまった」と思われてしまうかもしれないが、「なにか次の世代に残せるものは?」……ということはつい考えてしまう。

そういうことも踏まえて、2013年は次の目標をたててみた。2013年が無事に終わったら自己確認してみたいと思う。

 (1) 再利用可能なノウハウの構築と提供
 (2) 「伝える力」についての継続的努力
 (3) 伝える機会の「交流活動」を重要視
 (4) 「傾聴」のスキルと「忍耐力」向上

まず、私自身が保有しているノウハウを体系化して多くの方々に使っていただけるツールを作るのが(1)。そして、そのツールも含めて、自分自身が考えていることを文章や言葉で「正確」に伝えることが(2)。さらには、そのための場所に積極的に赴いて共有機会を増やすことが(3)。

そして、私は伝えることが得意ではないせいか、一方的に話をしてしまって反省することも多い。特に議論の場になると「なんとか勝とう」としてしまう傾向があり、結果的に第三者の言葉に耳を傾けることができないときがある。小さな勝敗にこだわるのではなく、本質的な「コミュニケーション」が必要なのだ。そのために心がけることが(4)。

このような方針で2013年を生き延び、そして世の中に私の人生を還元していきたいと思う。

2012年12月14日金曜日

遠慮しない

あいかわらず、発達障害でお悩みの方に特化した就労に役立ちそうなスキルを伝授する日々。その中でちょっと悩んだり考えたり迷ったりしていたことがあった。それは「利用者に配慮するレベル」について。

障害特性によっては、当事者が抗しがたいシチュエーションがある。いわゆる「地雷」というやつで、それは「状況」だったり「キーワード」だったりと種類は様々。そういう「地雷」に対してどういう姿勢で挑むかというのは支援におけるひとつのテーマかもしれない。

私は基本的に「無駄な地雷は踏まないに越したことはない」と考えている。「激しく嫌がられる」ようなことなんてしないほうがいいに決まっている。でも、特定の地雷は「どこに埋まっているか分からない」ということがある。たいていは「このあたりは危なそうだ」という精神的嗅覚に頼ることになる。

しかし、いずれにしてもいつか地雷は炸裂するもの。そのまま放置しておけば誰かがどこかで踏むわけだ。地雷を踏まないように注意している就労移行支援環境でうまくいったとしても、その先の就職先で誰かが地雷を踏んで、派手に爆発してしまえばそこで終わり。

とっかかりの部分についてはやむを得ないが、発達障害の就労移行支援で「腫れ物を触る」対応をし続けることは、最終的に当事者の利益に繋がらないことだと思う。医療にたとえれば、お腹の中に切り取るべき病巣があるのに、お腹の外側に塗り薬を塗ってごまかすようなものだ。

もちろん対応のひとつとして、「こういう状況は避けていただきたい」という「人材活用個別マニュアル」のようなものを作って企業に渡すのも有効だとは思う。当事者を多く採用すればするほど制限事項がひたすら増えていくだけになってしまう。そして企業はそれを嫌う。

だって面倒くさいじゃないか。だって、考えてもみよう。たとえばNGワードを事前通知するルールにしたとする。Aさんは「努力」「障害」「遅い」がNGワード、Bさんは「回復」「常識」「努力」「丁寧に」がNGワード、Cさんは「結果」「早く」「甘い」。……これが増えていったらNGワードだらけになる。

一人だけならなんとかなるかもしれないが、このルールが複数人で、かつ一人あたりのNGワードが複数に及べば把握しきれる範囲を超えてしまう。NGワードを設定することは、「職場の言葉狩り」を意味する。ましてや「NGワード」だけでなく「NG状況」も加われば混乱必至だろう。

基本的にこういう地雷を放っておいてはいけないのだ。もちろん障害特性も相まって、完全に撤去することは難しいかもしれない。でも、双方に歩み寄ることはできる。当事者は「地雷」を踏まれても爆発しない努力、企業側は当事者が「イヤな顔」を隠しきれなかったとしても大目に見る努力。

……現実的に考えるとすれば、このあたりが落としどころなのではないだろうか?

いずれにしても、それもこれも「地雷」が分かっていないとできないことで、「地雷」が分からないのであれば、もう、それは踏むしかないのだ。踏んでみて「カチッ」といったら、その場で安全に撤去するしかない。もしかすると爆発して縁切りコースかもしれないが、それでも踏むしかない。

なるべく事前に多くの地雷を発見して安全に解除する。解除できなかったとしても被害(当事者にとっても就職先にとっても)を最小限にするべきなのだ。影響範囲を最少にする努力をしたあとに、その内容について企業に説明できるといいんだろうと思う。

2012年10月26日金曜日

発達障害を「障害」にしない


■発達障害とトラウマ

最近、にわかに「発達障害」にスポットライトが当たってきているような気がします。で、仕事柄、なんだかんだと、私は発達障害でお困りの方に出会う機会に恵まれています。一言で「発達障害」といっても、ハンコで押したように同じような状況で苦しんでいるわけではなくて、まさに人それぞれ。

実のところ、これまで発達障害でお悩みの方に就労移行の手伝いをさせていただいたんですけど、正直なところ「失敗例」もたくさんあります。具体的には「理解し合えずに空中分解(支援中止)」という経験です。だから、おそらく私が貢献できる方々は「ごく一部の方々だろうな」という認識はあります。

だから、私が「すべてを知った風」なことを書けるわけでもないのですが、多くの発達障害でお悩みの方々と関わって感じるのは、「ずいぶんと心に傷を抱えて生きているんだなあ」ということです。そして、常に「不安と恐れ」に満たされているような感じがします。

自分が何かのアクションを起こすと、高確率で「他人の価値観と反することをしてしまう」という事態は、自信の喪失にもつながりますし、「何をやれば正解なんだ?」という恐怖を生み出すんだと思います。自分の価値観で行動するたびに、それを否定され続けるのはトラウマになりえます。

「自分は人と違うので生きているだけで迷惑をかけてしまうんです」と、トラウマで深く傷ついている人を支援することがありますが、そんな時、私はいつもこう伝えるようにしています。

 ◆『平均的な人々と違う』ことは『優れた武器』なんだと思います
 ◆『平均的な人々と違う』ことで困る点は『小手先』で対応しましょう

そう、「発達障害」の対極にあるのは「健常者」とかじゃなくて「平均的な人々」というのが、私の中では一番しっくりとくる言葉なんです。「平均的」というのは「多数派」によって形成されている価値観でしかないわけですから、「平均的な人々」という表現には十分な妥当性があると思います。


■独創的であるということ

話が飛躍していることを認識しながらも私が思うことは、「iPhoneやiPadは平均的な人々には作れない」ということです。iPhone、iPadの生みの親、スティーブジョブズは相当な変人だったと聞きます。ある日、エレベーターに乗っていた時に、途中から乗ってきた社員を見るなり「お前クビな!」と解雇してしまったという逸話はあまりに有名です。

参考URL: http://goo.gl/YX8lT

スティーブジョブズだけでなく、Windowsを世に送り出したビルゲイツにしても奇行は目立ちます。それでも、それまで「平均的な人々」にはなしえなかった独創的なサービスを世の中に送り出すことに成功しました。それは「満ちあふれる独創性」による才能のおかげなんだと私は思うのです。

「平均的な人々」にとって、「独創的すぎる人々」は「変人」に思えるかもしれませんが、それだけに「常識」に囚われない新たな価値観を生み出してくれる可能性を持っています。だから、そういう人々は「平均的になる」なんてことに心血を注ぐよりも「才能」を活用する方法を磨いた方がいいと私は考えています。

そして、「特異な才能を覚醒させる」ためには「平均的な方法」では困難だろうというのが私なりの結論です。そういう思想のもと、私がプロデュースする就労移行訓練メニューは「一風変わったモノ」に仕立てています。「訓練」というよりも「遊び?」と思われるものも多いです。

もちろん最低限のコミュニケーションは必要なのですが、そういう部分を補うのは、マニュアルなりガイドラインで「平均的な人々」を「装えば」どうとでもなります。具体的には、(1)自分の行動を分析して、(2)確率的な方法で、(3)正解と思われる選択肢を選び取るようにします。


■発達障害に特化した就労移行事業所が千葉の市川にオープン

最近、私は千葉で10月から新しく認可された就労移行支援事業所で、発達障害に悩む方々に特化した個別支援プログラムの開発に従事しています。特に私が担当するのはITエンジニアとしての経験を活用し、IT業界の「仕事体験」を通した業種選択のチャンスを広げるコースです。

本来、仕事というモノは「好き」=「向いている」というところからスタートすべきだと思います。もちろん、現実的に困難が伴うことも多いのですが、芸術家は芸術を愛する人、音楽家は音楽を愛する人、文筆家は文章を愛する人がめざしていく……これは極めて当たり前のことだと思うでしょう。

しかし、企業への「就職」となると、急にその「当たり前」を忘れてしまいがちです。好きか嫌いか……よりも「入れるところに入ろう」としてしまうんですね。うまく就職できたとしても、好きでもなんでもない領域だったとしたら、仕事を続けていくことは難しいだろうと思います。

私のコースではまず「楽しい」を体験してもらいたいと思っています。「楽しい」と思えるようになれば、その後にはチャンスがいくらでも待っていると本気で考えています。そしていわゆる「独創的すぎる人々」は才能が開花した後、天才的な結果をだす可能性が高いことも経験的に分かってきました。

そもそも「独創的すぎる人々」は、集中力が飛び抜けて高い人も珍しくありません。ただし、そのエネルギーは「自分が好きだと思えることに対してのみ」に発揮されるので、それなりにターゲットを絞り込んでいく必要がありますが、これがピタリとはまると「奇跡的な強さ」を発揮します。

これは「誰かから聞いたり読んだりしたこと」ではなく、私自身の経験から学んだことです。私はこの経験をより多くの人に体験していただきたいと思っています。もしも内容について気になられた方がいらっしゃったら、まずは、私、まつしたまでお問い合わせください。

Facebook  https://www.facebook.com/suguru.matsushita
ユースキャリアセンター フラッグ 047-711-3368(まつした)

まだ、10月にオープンしたばかりなので利用者の数が多くなく、今の時期が特にオススメといえるかもしれません。私が二年かけて開発したメソッドで、「自分自身も気づかなかった可能性」を磨いていただきたいと考えています。

必要な資質は「好奇心」と「素直さ」、それから「自分を信じる気持ち」です。いくら才能があっても「自分の才能」を自分から見捨ててしまっては輝くことはないでしょう。ただ、今の時点でそれほど自信がなくても大丈夫です。楽しみながら「やること」をやっていれば自然に自信はついてきます。

なお、私は主にIT系統を担当していますが、ユースキャリアセンターフラッグでは、ITだけに限らず幅広い職種にトライできるプログラムを多数用意しています。「ITをやってみたいけれど自信がない」という方は、「ITにもチャレンジしながら他の可能性も模索しよう」という方法がオススメです。

もし、これを読んでくださっている方で、ご縁がありましたら、ぜひとも千葉の市川でお会いしましょう。

2012年9月18日火曜日

仕事は引き継ぎをしながら


「引き継ぎ業務」というと、仕事を辞める時に多く聞かれる言葉ですが、私はどんな職場に行っても、お世話になり始めた初日から「引き継ぎ業務」を開始します。念のために補足すると、当然ながら「引き継ぎを受ける」のではなく、あくまでも「引き継ぎをする」仕事を初日からするのです。

どういうことかというと、「引き継ぎ業務」に一番適している時期は「最初」と「最後」だからです。「最後」の理由は分かりやすいでしょう。様々なノウハウが身について、「○○を実現するためには□□をすればいい」ということが深く理解できているからですね。

では、「最初」から引き継ぎを始めるのは、なぜでしょうか?……結論から書くと、その環境に初めてやってきた人が「何を知りたいか?」、「何を知るべきか?」という部分について誰よりも把握しているからです。おそらく、「仕事を辞める時の自分」以上に熟知している状態です。

「『新人が知りたい質問』を考えなくても分かる時期」を放置しておく手はありません。なぜなら、「分からないこと」、「分かりたいこと」、「不思議に思うこと」を徹底的にリストアップしていきます。できれば、デジタルデータとして保存しながら蓄積していくといいでしょう。

そして、それらの項目が「解決」したタイミングで、その内容をアップデートしていくのです。すると、「分からないこと」→「分かったこと」という「引き継ぎ資料」が時間をかけて育っていくので、いろいろとバタバタしがちな「最後」の時期に焦って「引き継ぎ資料」を作らなくても済むのです。

ある程度、その職場に適応してきて、様々なノウハウが身についてきたとしたら、さらにいい方法があります。「引き継ぎ資料」の作成に比重をかける代わりに、「常に自分の仕事を他の人と分け合う」ということを意識すると、「引き継ぎ業務」はさらにラクになります。

組織内のポジションにもよるのですが、ある程度、自分の判断で人を動かせる状況であれば、積極的に自分の仕事を委譲していくのです。意外とこれを嫌がる人は多いんですけどね。「自分だけしかできない仕事を抱えておかないと、仕事をクビになるリスクが増えちゃうじゃないですか!」……って。

でも、次の理由で、私は「引き継ぎ業務」を初日から意識することは重要なのです。

・クビになる時にはクビになります
→「仕事がなくなるからクビになる」という可能性も事実としてありますが、組織がクビを言い渡す時には、「仕事をどれだけ抱えていようが、引き継ぎ業務を要求する」という終わりを迎えるものです。

・人が育つと休みやすくなれます
→自分の代わりにできる人が増えるということは、その分、仕事の呪縛から解放されるということです。「その日はどうしても自分がいなければ」という状況が減ります。

・たいした引き継ぎ時間が不要です
→引き継ぎをやっていないで、突然、最終日が近づいてくると、マニュアル作成やデータの整理など猛烈に忙しくなることはわりとあります。でも、普段から引き継ぎしておけばそういうプレッシャーと無縁でいられます。

・長期休暇後の自分のためになります
→年末年始や夏期休暇など、長期の休みを取得すると、いわゆる「休みぼけ」にかかってしまって、休暇前に自分がどうやって仕事をしていたのか忘れることがありますが、そんな時に役に立ちます。

私自身、何度か転職を体験していますが、転職のたびに苦痛だったのは「引き継ぎ作業」だったのです。特に、状況によっては、退職前というのはモチベーションが下がっていることもあるもので、そんな状況の中で引き継ぎ作業をすることは大きな苦痛を伴うこともあります。

そういうケースも踏まえて、モチベーションの高いうちに「引き継ぎ作業」を継続しておくことは、オススメだと思っています。あ、当然のことですが、間違っても「初日から引き継ぎ作業を頑張っています」なんて口に出してはいけませんよ(笑)。

2012年7月11日水曜日

離職者を生みにくい環境

「仕事にはつまらないことがある」というのは正しくて、そしてその一方では間違っていると思います。人間にとって「意味があるのか分からない行為」というものは、比較的、つまらない仕事になりがちです。しかし、意味が見いだせれば面白い仕事にもなりえます。

そんな中で、メンバーを引っ張る人間は「仕事の楽しさ」を伝えることも重要な仕事のひとつなのではないかと、最近考えています。自分が行っている仕事がどのような位置づけにあって、どのように貢献できるのか……というナビゲーションは重要だと思うんですね。

もちろん、状況によって「なんでもいいからやってほしい」という事態もあるわけですが、それでもきちんとフォローをすることは、思いのほか重要なのかもしれません。こう書くと「それは過保護だろう」と思われるかもしれません。

確かに私が送ってきた社会人生活でも、そんな手厚いケアはありませんでしたから、おそらく現状の世の中において「過保護」なんですよね。それでも私は「仕事の楽しさを伝えること」を試してみる価値はあると思うんです。

もしかすると、こういう逸話を聞いたことがあると思います。ある石工職人の話です。

◆三人の石工職人が石を積んでいる仕事場にて……

仕事場を通りかかった旅人が、一体何をしているのか職人に尋ねました。「どうしてあなたは石を積んでいるのですか?」と。

1人目はこう答えました。
「石を積むと親方からご褒美がもらえるんです」

2人目はこう答えました。
「この石を積んで美しい壁を作っているんです」

3人目はこう答えました。
「ここに立派な大聖堂を建てているんです!」

多少オリジナルのストーリーとは違うかもしれませんが、この話はそれぞれの「仕事に対する視点」の違いを表現したものです。視点の広がりという意味では3人目の答えが望ましいことは書くまでもありませんね。

なぜって、「ご褒美<美しい壁<大聖堂」というケースを考える場合、大きい方が、小さい方の要素を全て包含しているからです。つまり「美しい壁を作る」ことには「ご褒美を得る」という理屈が含まれていて、「大聖堂を建てる」には、残りの二つが含まれています。

このように、「視野が広がる」ということは、そこまでのレベルのものをすべて内包しながら、さまざまな判断基準を持つことになるんです。

 ・ご褒美をたくさんもらうためには → 壁を素早く美しく作ること
 ・歴史に残る大聖堂を建てるためには → イメージに合う壁を作ること

つまり、仕事の最終形に意識が近づけば近づくほど、仕事の品質が高まる傾向があると私は考えています。逆に「単にお金だけ」だけが目的で、仕事に対する興味や美学がなければ、仕事自体に魅力がないわけですから、すぐに他の仕事に移ってしまうでしょう。

だから、より仕事の最終形を意識するような「3人目の石工」を育てた方がいいのですが、そのためには、メンバーを引っ張る人間が仕事の最終形を意識していないといけませんし、その最終形を伝える努力を怠ってはいけないわけです。

たとえば、そこの親方がちゃらんぽらんだったとしたら、次のようになるでしょう。

石工:
「一体、この仕事は最終的にどうなっていくんですか?」

親方:
「生意気なやつめ、お前にこの仕事を理解するには10年早い。お前は黙って石を積んでいいんだ。ご褒美をくれてやるから、お前のようなヤツは何も考えないでとっとと働け!」

あーあ、これで、前途有望だった石工は「3人目の石工」になるチャンスを失いました(笑)。このように、仕事先のリーダーの意識がそれ以上に成長する人材の可能性の芽を摘むことがあるわけです。残念ですが、けっこうそういうこと、多いですね。

もちろん、その一方では「経験を積まないとできないこと」があるのも事実で、そうなると、どうしても時間をかけなくてはならないこともあります。しかし、その場合はその場合で、「現在の状況」と「今後期待できる状況」を伝える価値はあるんだと私は思っています。

と、思っていながらも、「実際に経営者の経験も雇用をした経験もしたことのないヤツに、一体、何が分かるっていうんだ!」と言われてしまうとぐうの音も出ません。いやいや、悔しいから書いておきます。「ぐう!」(笑)。

私にとって「多くの経営者」がどう思っているかってのはあまり意味がないのです。むしろ、常識と思われているところを熟慮の上でひっくり返すことにこそ意義があると思っています。それが「経営者にとっての常識」であればあるほど「経営者にとっての盲点」である可能性は高いわけで。

私はこれからの数ヶ月でその答えを出していくつもりです。

2012年7月4日水曜日

いつか記念碑が置かれる日


7月から新天地での「新しい試み」が始まりました。でも、まだ、全容は誰にも分からないのです。なぜなら、これから関係者全員で「ステキな環境」を構築していくからなんです。基本的に「すべてはこれから」と書きつつも、私が理想とする経由地やゴールは頭の中にできあがっています。

じゃあ、ここに書こうよ……というところなのですが、書きません(笑)。なぜなら、私が考えていることが、

(1) 実際に試してみてニーズや効果がありそうなのか?
(2) その内容が仲間に認めてもらえることなのか?

を、「独善的」にならず、慎重かつ大胆に検証しながら進めていきたいからです。時に「革新的なこと」をやろうとすると、「独善的に突っ走る」という行動が必要です。これは間違いありません。しかし、なぜ、私があえて「慎重」を選べるのかといえば、今回の関係者全員が「フロンティア精神」の持ち主だからです。

今でこそ、私の中では安定してきた「即戦力ITコース」という講座も、最初のうちは危険運転の連続でした。私の決断によって受講生を一気に失ったこともありました。実験的な試みの失敗は、そのまま運営組織にご迷惑をかけることにもなりました。それでも、私を信じて講座を継続させてくれました。

そして、まだ道半ばではあるものの、その講座を通じて精神の当事者が「本気で戦える」可能性を心の底から確信するに至りました。そういうきっかけを与えてくれた仲間と新天地を開拓できるということは、逆に自分自身の行動をよく考える必要があると思えるのです。

具体的に今後のことは何も書いていませんが、今回のプロジェクトにおける私の行動指針は明らかにしておきたいと思います。

(1) 当事者に渇望されていながら誰もやらなかったことを試す。
(2) 当事者の限界をこちらから決めるようなことはしない。
(3) 「つらい」ではなく「楽しい」という感覚を呼び覚ましていく。
(4) 「自分で動く」ことの価値と喜びを体験していただく。
(5) 「訓練のための訓練」ではなく「リアルの体験」を重視する。
(6) これらすべてが雇用する企業にとって「価値」となる形にする。

こうやって書いている中でも頭の中で、いろんなアイデアが発泡酒の泡のように湧いてきます。そして、「それを現実化するまでの距離の近さ」を思うとわくわくします。「法定雇用率のためになんとなく雇用する人材」ではなく「本当に期待せざるを得ない人材」を輩出できる環境を目指したいと思います。

人間はね、飼い犬じゃないんだから。「命令を聞いて、餌をもらえて、生きてさえいればそれで幸せだろ?」なんてことはないんですよ。どんな人でも生まれた時に、いろんな人との違いを持つんだけど、それがたまたま「障害」と呼ばれる違いだったりすることがあるんですよね。

じゃ、その「障害」があるからといって「残りの人生全部をあきらめろ」なんていわれたら、生きている価値がないじゃないですか。下を向いて生き続けるには、残りの人生は長すぎます。でも、現実のところ、「社会から期待すらされていない当事者」ってすごく多いんですよ。残りの人生、社会からアテにされない……というのは、考えてみたらむちゃくちゃ苦痛ですよ。

でも、そういうのを変えていくには「理不尽だ!」と不満をぶちまけるだけじゃいかんと思うのです。実際にどれくらいの力があるのか、社会に見せつけていかなきゃならんのです。不満を言っている暇があるなら、その時間を使って「何か一つでもすごいこと」をやってみろ……と思うわけです。で、キツイコトいいますけど、「自力でやってみろ!」とか思うんです。

でも、ま、そういう「何か一つでもすごいこと」を試すステージすらないというのもまた現実。で、たまたま、こういう領域に踏み入れた私に「できること」がたくさん待っているような気がするんですね。なんで、私は「本気で戦える環境」を必死で構築したいと思っています。でも、甘いことはいいません。本気でやらない人には無理な環境にしたいとも思っています。

と、いうのは、あくまでも私の個人的な思いです(笑)。いろいろと検討を重ねた結果、どういう内容になるのかは未定な部分もありますが、願わくば、これからの日々が「『あの日』が変革が始まった日だった」と振りかえれるような歴史にしていきたいと思っています。

2012年6月27日水曜日

軽作業系は足りている


いろんな事情を抱えている人がいて、また住んでいる地域によっても違いがあることを理解した上で書きたいんですけど、比較的、軽作業とかの仕事って、支援したり仕事を開拓するための人材比率が高いような気がするんですよ。

たとえばね、「障害者が仕事するための作業所を運営しています。」って話を聞くと、知的障害の人たちが単調作業をして生活していくための施設だってことが多いんです。もちろん、これは私の知っている範囲で「たまたま」なのかもしれないけど。

この領域の話って、すごくよく聞くんですよねえ。有名どころではパン作り。他にも伝統工芸品作り、清掃業務、洗濯業務、洗浄業務、シュレッダー、バックヤードのピッキング。いや、今まで何度も書いているけど、これらの仕事がダメだとか言うつもりはないんですよ。

でも、細かいところでポリシーや手法の違いはあるものの、そういう系統の作業を支援する人はとっても多いような気がしています。まだまだそういうところに人材が必要だということも分かっているけど、私はその分野をあまり積極的にしたいなんて思いません。

なぜって、その分野の適性が私にはないから(苦笑)。単調作業は数分で眠くなっちゃう。それ以外にも「難しい顔で挑まないといけない会議」とか、実は精神的に大きな負担なんですよね。話題が頭に入らないのに眠気と戦う……って、一体なんの罰ゲームだと思うくらいです(笑)。

……と、そういう話も含めて、正直な気持ちを白状してみると、だいたい次の通りです。

・私が興味のもてないことに人生の時間を費やす意味を見いだせない。
・私が今まで蓄積してきたノウハウを活用しないことはもったいない。
・そもそも他の人がやらない領域にこそさまざまなチャンスが転がっている。

だから、「メンタル」+「ストレス対応」+「ITスキル」というハイブリッド技ができる領域を私は志向しています。力自慢の人たちがたくさんいるところに力自慢が入っても、そこでの価値は薄められるだけです。大多数が向かわないところに異端者が行くから価値が高まるんだと思います。

私は小さい頃から「人と同じことをやりたがる」ふりをしながら、「必ず人と違うことをしたい」という気持ちが強かったり、「気がついたら人と違っていた」という天然な結果が多くありましたが、まぁ、それも個性さ……ということで、今はけっこう助かっています。

そんなわけで、私は「積極的に頭を使わなくてもよさそうな領域」ではなくて、「とびっきり頭を使わなくちゃいけない領域」を全力で開拓していこうと思っています。それも「ラクをして」という要素は絶対に外せません。メンタルな人が快適に頭を使って幸せな生活が送れたらなと。

ホント、こういうことを考えているとワクワクします。もしかすると、今、私が携われている仕事というのは私にとって天職なのかもしれません。

2012年6月20日水曜日

職業選択の自由のために

メンタルでお悩みの障害者周辺の就職事情で、大きな課題は「実質的に職業選択の自由」が限られているということ。これには課題がふたつあると思っています。(「身体障害」だったりすると、比較的障害者手帳を持っていない人と同等のクオリティの職業に就きやすかったりします。)

(1) メンタルというだけで企業側が「軽作業」「事務作業」「清掃」に職域を絞ってしまう
(2) そもそも支援者に専門職(IT、経理、法務など)の経験者がおらず選択肢を知らない

私が考えている「職業選択の自由」に関する課題はこのふたつです。

まず、(1)から考えると、必要なスキルを持っていたとしても、オープン(障害手帳を持っているよ……ということを企業にカミングアウトすること)で就職を狙ってみても、求人票をみると「コピー機使えますか?」「シュレッダー使えますか?」というリクエストが多かったりします。なんとも残念な現実です。

ただ、その一方で、(2)の課題も残念だと思うんですよね。「選択肢をしらない」ということは、本来であれば「適性」があったかもしれないのに、知らないせいで「人生レベルの機会損失」をしている可能性があるということですね。この課題を何とかしたい……というのが、私が「即戦力ITコース」をやっている理由だったりします。

現実的に(1)の課題は重いものです。で、「がんばってみても『出口』がないのでは、どうしようもないではないか」といわれてしまうと、現時点においては確かにそうかもしれません。しかし、それでも(2)から始めなくてはいけないのです。なぜかといえば、(2)から解決しないと、(1)の課題にアプローチできないからです。

企業に「『軽作業』『事務作業』『清掃』以外の人材を雇ってください」とお願いしたところで、現実的にそれに該当する人材が少ない状況では、それまでなんですよね。また当事者が「社会環境が整ったら○○の仕事をしたい」と思っていても、おそらく受け身のままの姿勢では百年たたないと状況が整わないかもしれません。

しかし、たいていの人生は百年も生きられません。そしてまた、「生まれ変わって次の人生を体験できる」保証なんてどこにもありません。ほぼ、「そんなことは現実にない」と思っておいた方が一般的には無難でしょう。だから、今の人生を無駄にするなんてことはもったいないんです。幸せに生きる可能性に賭けた方がいいんです。

そうならば、社会を積極的に変えることに力を使った方がいいというのが私の考え方です。しかし、私が考える方向性は「障害者の権利擁護」とは全く関係のないものです。むしろ、本気で「職業選択の自由」を勝ち取るためには「障害者の権利擁護」からスタートすべきでないというのが私のスタンスです。

「被害者意識」から得られるモノは少ないことを知っておくべきだと個人的に思います。基本的に「被害者」が「かわいそう」という理由で企業は動いたりしません。障害者の雇用に熱心な企業でも、本質的には銭勘定で動いています。そうでなければ、企業が厳しい社会情勢の中で生き残るわけがないのです。

すると、企業を動かす本質的な力はなんなのか?……ありていに書けば「その企業にとっての利用価値が高いかどうか」に尽きます。これは障害者手帳の有無に関係なくそうでしょう。障害者を雇用すると国から様々な助成金が企業に支払われます。つまり雇用そのものについては障害者の方が企業にとって有利といえると思います。

あと、必要なもの。それは、「障害者手帳を持っていない人と渡り合える人材」という条件です。「障害者手帳を持っていない人と同等」で、「雇用コストが障害者手帳を持っていない人よりも低い」ということが事実として常識になれば企業の意識は間違いなく変わるでしょう。障害者手帳オーナーの方々、これを聞いて「無理だ」とあきらめますか?

私はこの可能性を大まじめに追いかけてみようと思っています。私は7月から今とは異なる新しい道を歩き始めることにしました。社会を変える可能性のある人たちと本気の冒険に出るんです。冒険の記録はブログに書いていきたいと思っています。ついてきてくれる勇気のある仲間が「勇者様」になれる日まで私は走り続けます!

2012年6月13日水曜日

「ボランティア=無償」を考える


このブログではほとんど枕詞になりつつありますが、私は就労移行支援の仕事をしています。でも、「慈悲」とか「ボランティア」という言葉にはあまり興味がありません。まず、「語感」が苦手です。もちろん「ボランティア」って大事なコトですよ。でも、苦手なんです。

なぜ、こんなに「ボランティア」という響きが嫌いなのかというと、どことなく「自分はいいヤツだ」とか「わざわざやってやってあげている」という言外の含みを感じるからです。はい、たぶん私のヤッカミなんだと思います。けっこう私は心が狭いですから。ヤッカミの理由は後ほど。

……と書くと、「じゃあ、お前はお金のためにしか動かないのか?」と聞かれるとそうでもありません。むしろ、お金のことを度外視してやったこともたくさんあります。ただ、それでも、私は「ボランティアをしました」とはいいたくないんです。

それをなんと呼ぶかといえば、あえていうなら「道楽」です。「ボランティアでゴミ拾いをしました」といわれると、「すばらしいですねえ」っていわないといけない気持ちになるけれど、「道楽でゴミ拾いをしました」なら、冗談まじりに「暇なんですか?」くらいで返せますからね。

つまり、「ボランティア」という言葉には「暗黙の賛辞の要求」がセットになっているような気がするんです。あえて「ボランティア」という言葉で自分の善行をアピールする必要なんてどこにもないんじゃないかと。善行はさりげなく、誰にも気づかれないのがたぶんかっこいいです。

それから、「ボランティア=無償」というイメージがつきまとうのも、私としては微妙な気分になるんです。最初から「無償」であることを暗黙の内に期待されてしまうと、ついつい「衣食足りて礼節を知る」という言葉を思い知らされるわけですよ。ホントにいやおうなしに。

だって、「無償」という旗印を堂々と掲げられてしまうと、私の価値観では「ボランティア=金持ちの道楽」という定義になってしまうんです。家族を食べさせていくだけでいっぱいいっぱいの自分が「道楽」どころではないだろうと。そんなことをしている暇があったら働け、自分。

たまに家庭の困窮も顧みず、ボランティアに身を投じる方の話を聞きます。そういう場合、その周囲の人たちも賛辞を送るのが普通です。でも、私の価値観では「アホか!もっと先にすべきことがあるだろう!」と思ってしまうのです。現実から逃げているようにしか見えません。

そもそも、ボランティアの価値を最上級に考えない方がいいと思います。たとえば、医療研究者がボランティアで、難病の子供達のために「千羽鶴」を折るようなことがあってはいけないと思うんです。そんな暇があったら「医療研究」に打ち込んでくれた方がいいわけで。

何度も書いておきますが「ボランティア」を否定しているわけではないです。できる余裕のある人はどんどんやるといいと思うんです。世の中との接点が少ない学生さんとか、老後の時間とお金があり余っている方々とか。私もそんな立場ならやってみてもいいと思います。

その上で私は宣言しておきたいと思います。私は「無償」を前提とする活動には、「私の夢」を果たすまでは一切参加しないつもりです。私の夢は、「障害手帳を持った人が全力で勝負できる環境を切り開くこと」と「家族に経済的な苦労をかけずにすむようになること」です。

私には描いた夢を現実に叶えるため、時間とお金が必要なのです。夢を現実化させるために家族との時間を少なくせざるを得ませんが、その貴重な時間を「お金にならないこと」には使えないのです。自分が心から目指していきたい夢そのものにもお金がかかるからです。

ずっと考えていましたが、私は「お金にならないボランティアなんて一切やらない」と宣言する勇気を得ました。普通に考えたら「なんて公共心に欠けた人だろう」と批判されても文句は言えません。それでも、選択と集中をしていくために「綺麗事」はやめることにしました。

しつこくなりますが、「ボランティア」が悪いというつもりはありません。でも、考えるべきだと思うのです。その「ボランティア」の先に「本当の自分の夢」があるのかどうか。あるのならいいんです。しかし、「かっこつけ」とか「断れなくて」だったとしたら、やらない方がいいと思うのです。

私は「ボランティア」の感覚ではなしえない、「私にしかできないであろうこと」に全力を傾けていこうと思います。公共心がないと思われるかもしれませんが、いつか、私の行動が「大きな回り道」をした後に、社会変革の一要因になれれば嬉しいと思います。

2012年5月30日水曜日

臨機応変が苦手


一部の発達障害オーナーの人は理解してくれやすいかもしれませんけど、私は「臨機応変」という言葉が苦手です。ハッキリ言えば嫌い。「臨機応変=判断は任せる」という意味だと思いますが、実際のところ「判断しがたい状況」って割とあると思うんですよね。

「臨機応変に対応してください」という言葉が期待している内容を叶えるためには、「依頼人にとってのベストな判断」が何であるのかを知らないといけないんですね。で、その期待を外した行動をとれば、「なんでそんな判断をしたんだ」と文句をつけられます。理不尽この上ない!

また、能力的なハードルもあります。たとえば、完全なメカオンチな人に「機械が異常動作をしたら臨機応変に対応してください」といったとしても、お願いされた人には判断のしようがないんですよ。つまり、「仕組みをしらない人」に「臨機応変」は通用しないんですよね。

そこまで極端でなくても、「臨機応変」には広範な前提知識が必要になることがあります。たとえば、揚げ物の鍋に引火して炎が上がったとき、何も知らなければ水をかけて消そうとする人がいると思います。もちろん、この行動は間違っていて非常に危険です。(逆に火が燃え広がります)

この二つの例はいずれも「臨機応変」を指示した側に大きな問題があります。ひとつには「臨機応変」な対応をする適性がない人に判断責任を委ねてしまっていることで、ふたつには「臨機応変」になるまでの危機管理のガイドラインがないことです。

なんでも「臨機応変」という「魔法の言葉」で安易に片付けてしまっちゃいけないんです。もちろん、全てのケースを列挙することは無理です。どれだけ時間をかけてもそういうマニュアルを作れないし、作れたとしても、読み切った上で全てを暗記することは無理ですよ。だから基礎力が必要なんです。

「臨機応変」とは「基礎的な知識を駆使して」「その状況でベストだと思われる行動」を考えなくてはならないという、極めて高度な仕事を要求しているということなんですね。「臨機応変」という言葉を多用することは、「その人の価値観を予測しろ」ということに他ならないわけで。やはり苦手です。

エスパーではない(そして他人の期待から外れたところに着地しやすい)私としては、「臨機応変」などという「魔法の言葉」よりも、ちゃんとした「ルールブック」が欲しいわけです。ルールブックが無理だとしても、私なりの「臨機応変」に文句をつけるんじゃねー!……と、訴えたいのであります(笑)。

「臨機応変」という言葉を使うとき、よーく心してください。その結果、何が起こっても、それは「臨機応変」といった人に責任があるんですよ。幼稚園の子に「たき火番」をさせて、大火事になったとしても、普通に考えたら子供に責任はないですよね。この場合、もちろん悪いのは大人の判断能力です。

ここまでは誰にでも分かるのに、「臨機応変」という言葉を使うときには忘れてしまうことが多いのは不思議なことです。ええ、本当に不思議です。私もたまにそうですから。「臨機応変」といわれて困った自分の気持ちを忘れず、なるべく「臨機応変」を誰かに押しつけないように気をつけたいと思います。

2012年5月16日水曜日

健常者だとどれくらいでOKですか?


何度も書いてますが、私は障害者の就労移行支援の仕事をしています。でも、私は「就職させて、はい、おしまい」というタイプの支援をしたいとは思いません。たまたま障害を持っていたということで、才能や適性があるにも関わらず「本当にやりたかった仕事」を選べない人たちが、普通に職業選択ができる流れを作っていけたらいいなあと思います。

で、その一環として、健常者と互角に渡り合えるエンジニアを養成しています。養成といっても「手取り足取り」ではなくて、「自己解決」しながら自力でスキルを身につける環境を準備するだけです。それで、気がつけばDB連携したWebシステムを構築できるようになっていたり、センスのいいWebデザインができるようになった人も育ちました。

ここで「健常者」という言葉を使うのは無粋の極みなんですが、あえて書くと、当事者には「健常者のシロウトが追いつけないレベル」を目指してもらいました。むしろそうじゃないといけないと思ったんですよ。「健常者>当事者」という枠組みで語るのではなく「熟練者>シロウト」という枠組みで立ち位置を定めた方がいいだろうなと。

でも、たまたまだと思うんですが、最近、立て続けに違う人から聞かれました。

「彼らがやっているWebページの更新って1日くらいでレクチャー受けられますか?」
「健常者に説明してほしいのですが、健常者だとどれくらいでOKそうですかね?」

……もうね、残念すぎるんです。特に福祉関連の人からそういう話を聞くと心の底からブルーになるんですよ。「結局、障害者よりも健常者の方が優れているという先入観があるのかな」って。そうじゃなくて、彼らがWeb関連の技術を獲得したのは「時間」と「モチベーション」と「気合い」を投資した結果であって、そこに能力差はあまり関係ないわけですよね。

健常者だろうがそうでなかろうが、こと、技術分野の領域の話では「時間」+「モチベーション」+「気力」=「経験値」になるわけで、健常者であれば「時間」も「モチベーション」も「気力」も不要で経験値を蓄積できるなんてことはないんですよ。もちろん、その周辺技術をあらかじめ知っている人にレクチャーするのであれば、いくらでもショートカットは可能なんですけど。

彼らが数ヶ月ほどの時間をかけて「自力」で獲得してきた技術や経験を「健常者に1日程度でレクチャーしてほしい」なんていわれるのは非常に残念なんです。そして、たいていの場合は「無償」であることが前提だったりします。当事者の努力に対しても、獲得した技術そのものに対しても圧倒的に敬意が払われていないような気がしてならんわけです。ただなら便利に使ってやろうと。

だからこそ、もっとがんばらないといけないなと思います。私もそうだし、当事者もそうなんです。表現として美しくないかもしれないけれど「ナメられないレベル」を目指していかないといかんのだと思うのです。「彼らの技術を1日で、それも無償でレクチャーしろだなんてとてもいえない」レベルになっていかないといけないのです。ぱっと見でわかるレベルでないといかんのです。

そういう意味で、前述の言葉を発せられた方々を恨むつもりは毛頭ありません。私と当事者が置かれた現実を正確に把握させてもらったという意味で感謝しているんです。自分の中では「そこそこいい結果が出始めているんじゃないだろうか」と思い始めていたことも事実です。そのあたりは甘ったれていたわけですね。そこは率直に反省でございます。

そんなわけで、心を入れ替えて、楽しみながら結果を出していくぞう!

2012年5月2日水曜日

マナーなんて教えない

深い意味はないのですが。今回は「ですます調」です。いや、もっとくだけて「口語調」。

さて、私のクセというか、どうしても刺激的なタイトルを付けてしまうのですが、たぶん、それくらいでちょうど私が考えていることが伝わるのかな……と思い、やっぱりこのタイトルです。先に謝っておきます。ごめんなさい。

さて、就労移行支援事業というと、すぐに「プログラム」とか「マナー」とか、そっちの方に行きがちですよね。でも、私は違うアプローチで社会性を身につけてくれたら嬉しいなあと思っているのです。そもそもね、発達障害とか、そのあたりって、社会に溶け込むのが体質に合わないから困っているわけです。

そこに「まずは挨拶の仕方ができないと就職なんてさっぱりダメだ!」とやっちゃっても、個人的には意味がないかなと思うんです。だって、もともとあまり働きたくなかった人が、なんとか「働く選択肢もなくはない」というステージに来たわけですよ。ま、もちろん、挨拶が社会人の基本というのは正しいんですが、いきなりそこから入って萎えちゃったらもったいないよなあと。

だから、挨拶とかマナーとか、そこから始めちゃうのってどうなんだろう……って思うんです。もちろん個人差があるので「全ての人がそうすべき」だなんて思ってはいないんだけど、苦手なところから出発するんじゃなくて、「自分ってこういうことをやってると楽しいらしい」とか「こういう仕事だったらやっていけそう」とか、そっちが先だと思うんですよ。はい。

つまり、本質的に「仕事」とか「仕事を構成するスキル」を楽しんでもらって、「この楽しいことを生活の中心にしていくためにはどうすればいいんだろう?」……という、逆説的なアプローチで社会性を身につけていくというのはアリなんじゃないかなと。実際に私が運営している仕事シミュレート環境では、社会性についてのプログラムは一切用意していません。少なくとも私はやりません。

じゃあ、システム開発とかWeb制作とか、デザイン制作とかができるようになってきた人たちは社会性がないの?……っていうと、決してそんなことはないんです。実はスキルを身につけていくうちに、その過程で普通に身につけていくんです。たとえば「質問する時の態度が悪い」場合には「そういう聴き方をする人には何も言わないよ」と言っちゃいます。

つまり、座学じゃなくて、本当に「社会性スキル」が必要になるシーンを、仕事シミュレート環境の中にたくさん転がしておくんです。あくまでも個人的な意見なのですが、たとえば「名刺の渡し方」なんてことを講義でやっても、名刺を渡す機会がそもそもない人にやっても意味がないと思うんです。それは名刺を持ってからでしょう。さらにいえば名刺を持つ仕事を選んでからのことでしょう。

挨拶にしてもね、挨拶の仕方をやる前に「人と協力しあう仕事をする」というステップが先にあって、「そのステップをどうやったら円滑にできるようになるんだろう?」っていう、「本人からの需要」があって初めて本気で取り組めることなんだと思うんです。「本人からの需要」がないのに、施設側からいろんなプログラムを押しつけるのってどうなのかなと。

たとえば英会話教室のことを考えてみるといいかなと。

(1) 暇つぶしに何か新しいことをやってみたい人。
(2) なんとなく英語が話せるようになりたい人。
(3) 4週間後にアメリカにいく用事ができてしまった人。

たぶん、一番たらたらとやるのが(1)。そもそもが暇つぶしだから、ちょっとイヤなことがあると、「やめよっかなー」って思ってる(笑)。(2)の人は(1)よりはずっとがんばれちゃうんだけど、「まぁ、焦らなくても時間をかけてなんとかなればいいかなー」と希望的観測をしていたりする。当然だけど、誰よりも必死になるのは(3)の人。だって、たらたらやっていたら後がないんだから(苦笑)。

需要レベルが(1)<(2)<(3)という形になっているんだけど、たぶん同じ講義を受けていたとしても、密度は全然ちがうと思いますよ。就労移行支援事業にしたって、そのあたりの本質は同じだと私は思ってます。でね、言いたいのは「無駄なことにお互いに時間をかけるのはやめよう」ってことなんです。「聞きたくもない話を聞かされる人」→無駄。「聞きたくない人に話を聞かせる人」→無駄……ってことです。

これは私だけがそうなのかもしれないけど「自分と関係なさすぎる話」を聞くというのは、もうね、ものすごい苦痛なんですよ。さらにその上に睡魔と戦わないといけないという状況は地獄ですよ。そもそも「戦わなくてもいい睡魔」と戦っている時間って生産性ゼロですからね。睡魔と戦っている時間があるならもっと「自発的」に使った方がいいと思うんです。

もちろん「社会人になったら睡魔と戦うのも仕事のうち」って言いたくなっちゃうのは分かります。私だってそう思うから。そう言っちゃいたくなるから。でも、何のインセンティブもないうちに「ツライところから体験してもらう」っていうことの価値について、実のところ私はよく分からないです。

私だったら「そんなツライだけの社会人なんて、誰が好きこのんでなるか?」って思っちゃうもの。仕事そのものの「楽しさ」がまず先にあって、そこに相反する「イヤなこと」というのが出てくる。「楽しさ」の恩恵を享受するためには「イヤなこと」をなんとかしなくちゃいけない。そういう関係性があって初めていろんなノウハウが必要になると思うんですよ。ノウハウに需要ができるんです。

そんなわけで、私はね「フォーマット」としてのプログラムを先にやるんじゃなくて、「需要」だとか「モチベーション」とか「自己改善のきっかけ」みたいなものを、本人の中から掘り起こすところからはじめていきたいなあと思ってます。同じことをやっていても「楽しさ」があれば、体感時間は半分以下になります。ということは相対的に密度は2倍なんです。私の仕事シミュレート環境では、週末によくこんな言葉を聞きます。

「ああ、もう、こんな時間か。早いなあ。なんで明日は休日なんだろう?」

なんて。
これが数年前に自宅に引きこもっていた人のセリフとは思えません(笑)。
本当に嬉しい変化です。