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2013年2月24日日曜日

経験知の伝え方


◆やってみて分かった経験知

私はややニッチな領域でニッチな経歴を生かして、ニッチなアイデアを形にしようとしています。「います」と現在進行形にしつつも、すでに始めてから3年以上がたっています。私にとってエキサイティングな3年でした。

私がやっていることを、もうすこし具体的に言い直すと、何らかのハードルを持った人が就労できるように支援する業界に私はいます。かつて、IT業界でエンジニアをしていた経歴を生かして、「エンジニアが自己解決してスキルを身につける過程」を体験していただいています。

別に必ずしもIT業界に就職する必要はないのですが、どんな業界に行くにしても「クリエイティブな素養がある人」が、「仕事だから」とあきらめてマニュアル通りに生き続けて行くには、人生は長すぎると思うのです。だから、自分の頭を使って考えて先に進む体験をしてもらっています。

「たった3年で何が分かる?」と言われそうですが、私はそれでも多くのことを知りました。「なんだ、『障害者だ』と思うからおかしくなるんじゃないか」ということ。もちろん状況にもよるのだろうけれど、「働きたい」と思える状況になった時点で、かなり戦える状態になっているということ。

さらにいえば「メンタルの方は自分で考えることが苦手」という常識(?)が大きく間違っているということ。いや、中には自分で考えることが苦手な人もいる。そんなことは障害者手帳を持っていない人だって同じこと。つまり、自分で考えるということがものすごく得意な人もいるという事実。

そして私が持っている経験知は、そういう人たちの才能を効率よく楽しく引き出すための方法です。私は比較的そのあたりの経験知を簡単に他の人に伝えてしまいます。なぜなら、いくら私が効果的な方法を知っていても、私一人ではさらに多くの人たちの役に立てないからです。身体と時間が足りません。

◆自分のメッセージがどこに届くか

そういうことをやっていると、私がやっている「自己解決力コース」の内容について、いろんな人に質問されます。中には私が伝えた経験知を試してみて、その先で行き詰まってしまって、また質問に来られたりもします。また、当事者とのつきあい方(?)について相談されることも増えています。

私が誰かのためにお役に立てるということはうれしいのですが、私の中にはわずかに恐れに似た感情がわき上がることもあります。その心配というのは、

(1)私の伝えたい真意が十分に伝わっているだろうか?
(2)私の関与でオリジナリティを壊していないだろうか?

ということです。そして、この(1)と(2)は真逆の矛盾を抱えています。

まず、(1)について。たとえば、「当事者に対しての配慮はしていますか?」と聞かれた場合、私は「特にありません」と答えています。実際にその通りだからです。場合によってはタブー視されていそうなことでも普通に話したり聞いたりもします。空気を読まないくらいにです。

でも、この言葉をざっくりと切り取られて「配慮なんて必要ないんだ」なんて思われたとしたら、それは困るんです。「当事者」に対しての配慮をしていないだけで、「人間」に対しての配慮は当然必要なわけです。だって、障害者手帳を持っていてもいなくても、人間扱いされなかったら誰でもイヤじゃないですか。

私の場合は、全ての人に対して「ハードルの低い配慮」ということを心がけています。甘すぎず、厳しすぎず……という、かなり微妙なさじ加減だったりもします。これは「適当に」というわけではなく、ある程度の判断基準があるわけですが、こういうことをマニュアル化してもあまりよろしくないんですね。

◆カリスマよりもオリジナルを……

なぜかというと、目の前の人間を「パターン化」することは難しい……というか、無理だからです。「人の数だけ違いがある」という当たり前のことを無視して話を進めるとロクなことになりません。そもそも数値化できないパラメータが人間には数限りなく存在しているのです。

なので、どちらかというと「マニュアル」というよりも、「行動規範」というか、「クレド」のようなものが必要だと思っています。で、相談してくださる方にはなんでもかんでも伝えたいのですが、1時間程度の短い時間でぱっと伝えることには、いささかの不安があることも事実なのです。

これについては、すでにご興味を持ってお申し出いただいた方々と一緒に、企業研修のような形でのパッケージ化を検討しています。やはり、ある程度責任を持った形でのフォローができればと考えているからです。私が行っている「自己解決」のコースに関してもそうです。

しかしながら、ここまで書いたことと真逆なマインドもあります。それが(2)なのですが、私が獲得した経験知が「ルールブック」になって欲しくないという思いもあります。たとえば、ベンチャー企業の社長などは「カリスマ」になってしまうことが多くあります。そんな会社の朝礼は「神の神託」であるかのようです。私はああいうことがあまり好きではありません。

ひとつの事業を進めるにおいて、メンバーが同じ方向性を向いて進んでいくことは大事なのですが、自分のコピーをたくさん作ってもあまり意味がないとも思っているのです。だから、私はこう思います。もし、私の経験知がお役に立てそうなら、まずは核心部分まで理解していただきたいです。しかし、「理解する」ことと「染まる」ことは違うと思います。

◆「劣化コピー」ではなく「多様な進化形」に

理解していただいた先にある、各人のオリジナリティと融合しなければ、経験知をお伝えする意味がまったくないと思うのです。誰かの言ったことをまっすぐに実行するだけなら、それは洗脳教育と大して変わりません。

「こうでなければならない」というルールは思考を硬直化させるだけです。そして、それが各人の誤解を経由して経年劣化していくのです。そうではなく、「常に考える」ということがコアになっていた方がいいと思うのです。

常にその場所や時の中で活躍している人が、盲目的に誰かが決めたマニュアルを遵守するのではなく、最適な解決を目指して「考える」ということ。これを満たすユニバーサルなパッケージにしていきたいと思います。

無批判にルールを引き継ぐ過程で、細かい誤解の蓄積によって変わっていくものを「劣化コピー」と私は呼んでいます。しかし、明確な意図が介在する中で、必要性に従って変化していくことは「多様な進化形」なのだと思うのです。私はこちらの方がワクワクします。だって、時代を超えてどんどん発展しそうじゃないですか。

そして、私が作りたいのは、そういう「ワクワク」なのです。

「企業研修」=「ワクワクしない」なんてつまらないと思います。むしろ、「企業研修」=「ワクワクするもの」でなくちゃいけないと私は思うのです。だって、「企業」って「人の夢が形になって世の中に出ていく場所」ですよ。そこを洗練させる企業研修がつまらなくていいわけがないのです。

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