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2009年2月22日日曜日

挫折を思い出す

昔、最初の就職に失敗して、心ならずも栃木の木材加工会社に入ったことがあった。折しも未曾有の就職難で「氷河期」という言葉が使われ出した時期だったと思う。

でも、次々に就職試験を受けてみても、舞い込むのは不採用通知の嵐。だんだん、条件を掲げている余裕がなくなってきて、職種を少しずらしたり、勤務地の条件をずらしたりしているうちに、行くところまで行ってしまった・・・という感じ。この会社には同じ大学出身のK先輩がすでに入社していて、いわゆるOB紹介だった。

情報系卒ということで、ゆくゆくはCADで活躍する予定として採用が内定した。でも、本当はコンピュータを中心にした業界で働きたかったんだけどね。そして最新の情報が活発に流通する東京で働きたかったんだ。

内定が決まると、CADに触る前に研修として工場の方で働くことになった。4年次の授業がなくなった2月頃からだったと思う。学生時代を過ごしたアパートを引き払ってマンションに引っ越したんだ。栃木の山すそにあったその工場は本当に寒かったな。

工場は高齢化社会そのものだった。80%くらいが50~60歳くらいの工員で、5%が30~49歳の工員。5%が地元の工業高校や職業訓練校を出た18~29歳の工員。あとの10%は20~50代の事務・技術職。

ふきっさらしの寒風が吹きすさぶ中じゃ、多くの高齢者たちが働いていた。簡単な屋根があるとはいえ、雪や雨が降ると強い風に煽られて水浸しになってね。10%の事務職は暖房の効いた部屋でぬくぬくと仕事ができるんだけどさ。

手がかじかむほどの寒さの中で、のこぎりで板を切ったり、タッカーと呼ばれる圧縮空気式釘打ちで釘を打ったりする。バスンバスン!と音を立てて木材に打ち込まれていく釘。これ、斜めに打ち込んじゃうと派手に釘が飛んでいくこともあって、注意しないと非常に危険だ。

でも、あれ?・・・たしか数ヶ月前まで情報系大学の研究室にいて端末を操作していたはずだ。なんで、今、ここにいるんだろう?・・・今の自分の状況がたまに把握できなくなることが多かったな。ただ、この情景はこの工場に来る前に何かで見たような気がするんだ。

8時頃から始業して、お昼になるとサイレンが鳴る。すると休憩所と呼ばれるプレハブに入ることが許される。さすがにそこにはストーブがあって、暖かかったな。そこでは「給食」と呼ばれる弁当が配られる。一日500円の給与天引きで配られるお弁当。そういえば、朝のうちに弁当を希望するかどうかの確認があったんだっけな。

8時から単調作業をしていると、正午までの時間は果てしなく続くように思われた。心待ちにしていたはずの休憩時間なのに、まったく嬉しくなかったね。そこにいるほとんどは老人。若者と呼べそうな人は片手の指で数えられるくらいだ。

休憩時間の何が苦痛だったかというと、なんにしても会話だった。若い同士で集まっても何も話すことがなかった。専門学校卒、工業高校卒、職業訓練校卒、そして大卒という線を引いたつもりはなかったつもりだったんだけど、心の中ではそういう壁があったのかも知れないなぁ。

せっかく多額の教育費を投入してもらって大学まで出たのに・・・と、両親に対する申し訳なさ。職業訓練校の人を悪く言うつもりはないけれど、同じ仕事をするんなら大学まで行かなくてよかったんじゃないかという情けなさ。自分はいったい何やってるんだろう・・・ってね。

とにかく若い人間で集まっても、お互いに何も話すことはなかったな。だから集まってもみんな黙々と食べていた。そして食事が終わるとバツが悪そうにみんな解散するんだ。

仕方がないので、そのうち高齢者の輪に少しずつ入ってみた。先方からすれば私は孫みたいなもんだ。気さくに話しかけてきてくれて、さすがに変な気まずさはなかった。しかし昼食の回数を重ねるうちに心がすっかり暗くなってしまった。

多くの高齢者の話をまとめると、つまりこういうことだ。
・自分たちには学がないからこんな仕事しかない。(本人談)
・働いたお金を孫世代に使って、絶対に同じ想いはさせたくない。
・作業中に怪我をしても「勤務外での怪我」扱いにされる。

そこは、自分自身の人生を諦めた高齢者の吹きだまりだった。明らかに理不尽な扱いを受けても、唯々諾々と従うしかない人生の黄昏の場所。ただただ、気が遠くなるほどの時間を、自分の人生とは関係のない作業で埋めていく。

・・・この光景・・・この光景・・・どこかで・・・?

思い出した!
この光景はテレビの特番かなんかで見たんだ。
希望の光を遮られた場所で、後悔をしながら作業する日々。

「潜入!全国刑務所24時!」

ちなみに、K先輩とその仲間たちは車で街まで出かけて外食をしてたっけな。あんまりお金がなかったから、ほとんどご一緒できなかったけど、たまに一緒に食べに行ったような気がする。今にして思うと、刑務所の昼食みたいな食事がイヤだったのかも知れない。

あまり昼食には行かなかったけど、K先輩とその仲間たちはよく飲みに誘ってくれた。よっぽどヤバイ状態に見えたのかも知れないね。今、考えれば恥ずかしいけど、むちゃくちゃ泥酔するまで飲んだよ。仕事の夢を語ろうとすれば、先輩方からは「そういう夢を持たない方がいいよ。」とか「いいたいことは分かるけど、ここの会社は親族経営だから無理だよ。」とか。

「要するに人生を諦めろってことですか!?」「先輩たちはもう完全に人生を捨てちゃってるんですか?」なんて、ずいぶん、先輩方に絡みましたよ。なんだか悪いことしちゃったよな。でも、こんな日が続いているウチに決心が着いた。自分の素直な気持ちを殺そうとするのはやめようって。

・・・会社を辞めると決めた数日前から、休憩時間は自分の車の中に閉じこもって音楽を聴きながら。シートを倒して青空ばかり見てたな。心は晴れていなくても栃木の晴れた青空はきれいだったんだよ。

同期で卒業した仲間たちは今頃どうしているんだろう。やはり同じようにツライ日々を過ごしているんだろうか。無駄なことだと知りながらも、楽しかったあの時期に戻りたい・・・なんてことばかりを考えてたな。

そして正式な入社日がくる前に辞めた。たぶん、こらえ性がないとか言う人もいたんだろうと思う。精神的な耐久力がなかったなんて思われたかもしれない。でも、そういう他人の評価なんてどうでもよかったんだよね。自分の心が死んでしまう危険をずっと感じていたから。

希望のない日常って牢獄に似ているんじゃないかな。そしていつまで続くか分からないその刑期は、人から目の輝きを奪ってしまうんだと思う。私が初めて就職した会社はそんな場所だった。

不本意だと思い続ける日々は、それだけで人生の損失だと思う。人生の時間には限りがある。他人からなんと言われようと、たとえ反対されようとも、自分の人生は自分自身でしっかり選択した方がいい。

その結果として自分の命を縮めたとしても、大切なことは自分の信じた道を歩き通せたかということだと思うんだ。いつか人は死んじゃうんだから。誰にも間違いなく訪れる最期、「これはこれで幸せな人生だった」と、一点の曇りなく心から思えるために、すこしでも毎日を燃えながら生きた方がいい。青臭かろうがなんだろうが。

人生で一番情けなかったと思う時期は、今、考えてみてもその木材加工会社で働いていた時だと思う。今、たいていのツライことがあっても、その当時のことを思い出せば、たいていのことは乗り越えていける。

今、ハケンとして自分よりも若い主任さんに頭を下げたり、外見上ヘイコラしているけど、そんなことは比較的苦痛じゃない。仕事自体は自分自身が関与していたい職種なんだから。

必ず夢を実現させてハケンを絶対に卒業してやるからな!・・・って心の奥に秘めつつも、職務上は、平身低頭ヘイコラしておいた方がハケンはうまく回るんだからさ。プライドは大切に心の中にしまっておけばいいさね。

プライドは普段から振り回すようなモノじゃない。本当に自分の大切な決断を下すときにだけ見つめればいいんだと思うよ。「クソみたいなプライドは捨てろ」なんて台詞があるけど、そういうのは、たぶん普段から振り回せるような安物のプライドのことなんじゃないかと思う。

まぁ、つくづく腰掛けハケンで申し訳ないけどね。あ、でも、ハケンというのはそもそもそういう前提だよな。ハケンに居座られちゃって困ってる会社が多いみたいだしさ。

それにしても大学卒業後に大きな挫折があって、今では本当によかったと思うよ。多少の屈辱や理不尽なことがあっても、「アレよりはマシ」で済んじゃうからね。

なんにしても、これから自分がやろうとしている仕事で、ひとりでも精神的牢獄から希望の光がある世界を案内できればいいなと思う。もちろん、私にできることは案内だけ。そこから先の人生を変えていくのは本人の気持ち以外にないからね。

こんな言葉を知っておくといいかも知れない。

『天は自ら助くる者を助く』
(三笠書房刊・サミュエルスマイルズ著「自助論」より)

・・・最後にK先輩にお会いした時、勧めてもらった本に書かれた言葉。
K先輩の自宅に謝罪に行った時だったと思う。入社式を迎える前に入社を辞退することになり、先輩の顔に泥を塗ってしまったのだから。でも、彼はそんな私を気持ちよく応援してくれた。

「鳥かごの狭さに気づいた鳥は、空に戻って飛ぶべきだと思う。」
って言いながら。

先輩は今も元気にしているだろうか。

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