+1

2010年12月5日日曜日

障碍者とスタートレック

SF好きな人なら知っている作品かもしれないが、私は「スタートレック」というSFドラマが好きだ。緻密に練り上げられた世界観も魅力的なのだが、「SF」という舞台を使ってタブーになりそうな社会風刺もきっちり押さえているところが特に好きだ。

聞くところによると「架空の惑星の話だから」という建前で、アメリカ国内に存在する深刻な問題もさらっと描写できているのだとか。そういえば「裁判前に死刑が確定している惑星」なんていうのもあったが、実際に地球上に存在する某国を彷彿とさせる。

私にとって「スタートレック」は人間関係の教科書のようでもある。

時に理論を飛び抜けて感情を優先してしまう地球人と、感情を持たずにどんな時でも理論を優先させようとする異星人が、同じ宇宙船に乗って長い時間を過ごす。他にも、戦闘が最優先の異星人もいるし、商売が最優先で男尊女卑を文化として持つ異星人もいたりする。

当然、いろんな対立が起こる。たとえば「感情vs理論」という構図。仮にここでは「理論星人」と呼ぶ。この「理論星人」はとにかく空気を読まない。ただ、その時に正しいと感じたことをそのまま口にする。クルーの仲間が死んでも埋葬よりも現実的な対応を優先する。

当然、感情的になった地球人クルーは彼のことを、「君の『理論』は聞き飽きた!」と責め立てる。しかし落ち着いてストーリーを見ていれば、実は「理論星人」の方が正しかったりする。「感情を持つことが恥とされている文化」を持つだけに、感情を持つ地球人の間では浮いてしまうことも多い。

しかし、感情に流されない彼の存在によって地球人クルー達も何度か命拾いをする。だから、感情的なものがあまり通じないとはいえ、理論を優先する彼の居場所はちゃんと確保されている。他の異星人についても、最初は衝突が強調され、そこから融和し、存在価値に気づいていく過程がストーリーに描かれている。

スタートレックを見ていて不意にいつもの仕事と脳内で結びついた。「理論星人」というのは、ある種の発達障碍の人たちを描いているんじゃないかと。たまに感情を害することを言うかもしれないが、それは事実から目をそらすことを防止してくれる。感情に流されずに現実的な方向性を示唆してくれる。

スタートレックの面白いところは、既存の常識の外側にいるからといって、多くの場合、すぐにその存在性を排斥しないことだ。もちろん決定的な文化の違いにイライラしたりもする。そのあたり、たっぷりと異星人とのストレスを描写している。しかし長い時間をかけて融和していく。そしてお互いの長所を認め合っていく。

「たかがSF」といえば「たかがSF」なのだが、スタートレックを見ているとユニバーサルな気分になってくる。誰にも存在意義があるんだよなあと。私が生きている時代に宇宙旅行は無理かもしれないが、それでも人生の宇宙船ではたくさんのクルーと出会うだろう。できるだけ多くのクルーと人生を豊かに旅行したいと思う。

2010年10月6日水曜日

不完全を楽しむ

世の中にはいろんな偶然があって、いろんな人生を辿る人がいる。生まれつきの顔や体の違いももちろんのこと、走る速さや持久力などの身体能力。記憶力や頭の回転の早さなど、さまざまな違いがある。その違いの中には、視力の悪さや記憶力の悪さなども含まれている。

正直なところ、私自身も記憶力のよい部類ではない。人の名前はよくど忘れしてしまうし、わりとうっかりをやらかしてしまいやすい。

会ってから日の浅い人を誰かに紹介しようとして、名字をど忘れしてしまうと、とんでもなく気まずい。というか最近ではさっさと謝ってしまう。それから初めて会った人の顔を忘れてしまって、名前と顔が一致しないこともままある。

最近では顔を忘れてしまわないように、先方のお許しを得て顔写真を撮らせていただくこともある。顔写真にお名前を添えて、たまの休日に出会った方々の顔写真と名前を眺める。これでだいたいの場合は解決する。いつも会っているような気になってくるからだ。

こんなことも障碍といえば障碍なのかもしれない。が、実際には自らのアイデアによるアシストで致命的に破綻をきたすことはない。私にとって自分の足りないところをアイデアによって補うことは、視力の悪い人が眼鏡やコンタクトレンズを使うのと同じ感覚だ。

私は連続する単調作業が大の苦手だが、これについてもIT関連の手段を活用することによって、作業の遅さや正確性を補うためのシステムを開発して解決することが多い。

私はあらゆる意味において完璧ではない。ただ、その不完全さをアイデアで補うことを楽しんでいるフシがある。たとえばスケジュール管理が苦手であれば、それを補完するためのツールやシステムによって解決しようとする。

異論を唱える人もいるかもしれないが、記憶力などの基礎能力を鍛えようとする前にアイデアに走る。なぜなら苦手なことを一生懸命に克服しようとする時間などないからだ。ものすごい訓練をして能力的な不完全を克服したとしても、いずれにせよそれはマイナスからの出発だ。

もちろん訓練によって不完全を克服することを否定しているわけではない。苦手なことを克服しようとすることには大きな意義があるし、努力するということ自体すばらしいことだ。

ただ、私の場合はそれを「楽しく」「違う方向から」解決したいという欲求があるだけだ。私が「不完全」にぶつかった時は常にこう考える。「もしも、この不完全が一生どうにもならないと仮定したら、どのような方法で状況を改善することができるのだろうか?」と。

アイデアを考えるためにいろんな不完全パターンを検証しているうちに、幸いにもそれがトレーニングになってしまい不完全が緩和されてしまうこともある。しかし、世の中には「障碍」という名の物理的な要因で状況が改善できないケースもある。

そう考えると、やはり私はアイデアによる解決がしたくなる。自分の不完全をシステムによって改善することができるのだとしたら、私と同じ状態で悩む人にとっても面白いことができるからだ。

おそらく私が記憶力と頭の回転力に困っていなければ、おそらくさまざまなアイデアを考える必要もなかっただろう。しかし、実際には私自身にはさまざまな不完全がある。さらに拡張して考えてみれば、社会全体が抱える不完全というものもある。

そういうものを知ると私はどうにもウズウズしてしまう。どうやったらその状況をラクにできるのだろうか。私はラクをするためにどんな苦労もいとわない。もちろんそこには労力コストと効果を天秤にかけることを忘れない。苦労しまくって効果が薄ければ全体として失敗だから。

いろんな不完全がいろんな人にある。身体的なものであったり人格的なものであったりさまざまだ。「当事者の気持ちになってみろ!」と怒りたくなる種類の不完全を抱えている人もいるだろう。

それでも私はその環境を改善するための「楽しみ」を見いだせたら幸せだと主張したい。それは「あきらめないこと」だから。あきらめない限り必ず心の中の炎は燃え続けるのだから。心の中の炎が燃えているということは、それだけで幸せなんだと思う。

人間である限り、健康だろうが、病気だろうが、なんだろうが、いずれは人生に終わりがくる。「未来に夢を持て」なんていわれても、遠すぎる未来を見つめたら「死」が待っているだけだ。

人間、せいぜい、明日、明後日、一週間後、一ヶ月後、半年後、一年後・・・程度の未来を見つめながら、今を全速力で燃えながら生きていくのがいいような気がしている。過去にこだわることも、未来にこだわることも意味がない。今、生きているのだから、とにかく燃えて生きる幸せを感じた方がいい。

そんなことを思いつつ、私は、今を燃えながら生きている。
もちろん、ほどほどに手を抜きながら。
ラクができない人は、人をラクにすることもできないだろうから。

私はいろんな人をラクにしたい。
すこしずつでいいから。

2010年9月29日水曜日

忘れたくない初心

私がこの業界に属するようになってから、今も忘れたくない初心がある。

それは「弱者を守る」という意識を持ちたないこと。「弱者を守る」なんて意識そのものが傲慢な気がする。しまいには「わざわざ○○に○○をしてやってるんだ!」なんて勘違いをしそうだ。

弱者は弱者として認識するからこそ「弱者」。弱者を助けるという発想には「上下関係」がある。弱者だと思われている人の中に眠る「強さ」を掘り起こすことが重要ではないか。そうでなくては「弱者」はいつまでたっても弱者のままだから。

たまに障碍者に対して「あの人は○○ができないから、○○の業種はあきらめてもらいましょう」とか「まだ高望みしているから就職は無理だ。もう少し希望を下げてもらわないと困る」なんて会話を聞くとさびしい気分になる。

夢を持つことやチャレンジする気持ちは何よりも大事だと思う。でも、障碍を持っているというだけで「夢を見るなんてとんでもない」という空気感があるような気がする。そして「掃除・軽作業・事務」のトライアングルをオススメされる。

それ以外の分野に進もうとすると、医者に止められたり、福祉関係の職員に止められたりもする。夢を完全に失っていたり、自分に自信がなかったり、そして素直だったりすると、いとも簡単に自分の夢を捨ててしまうことになる。

「○○の仕事だったら、あなたにもできると思いますよ。」という「上から目線」のアドバイスには問題があると思う。「『この人よりも上』の自分のアドバイスはすべて正しいはずだ。」という思いが見え隠れしてしまう。

人、それぞれ違う。障碍を持っていようがいまいが同じことだ。誰だって初めてのことに挑戦するにはリスクがあるし、その道で成功するという根拠も保証もない。障碍者で難しいのは周囲の影響力が大きいことだ。

周囲にいる影響力のある人の価値観の上限でしか生きられない人生は息苦しい。今、私は障碍を持っている人の人生に伴走する立場だ。もしかすると彼らの生き方に対して一定の影響力を持っている可能性が高いと思う。

だからこそ自分の価値観を押しつけることにならないように注意していたい。えげつない書き方になってしまうが、『自分よりも弱い立場』の人間を自分の周りに集めると、相対的にいとも簡単に『権力のある王様』になれる。

それじゃいけない。

もちろん障碍の程度というのはあるが、基本的には挑戦する気持ちを捨ててはいけないし捨てさせてはいけない。挑戦する前にあきらめさせてもいけないとも思う。もちろん壁にぶつかればショックを受けるだろう。

ショックを受けたら二度と立ち上がれない・・・と考えてしまうかもしれない。精神の障碍を持つ人に精神的なショックを与えてはいけない。たしかにそういう一面もあるかもしれない。ただ一方で人生から完全にショックを取り除くことはできない。

ショックとなる要因を社会から軽減させることも重要だが、ショックに対する耐性を養っていくことも一方で重要だ。「配慮」と「過保護」は本質的に異なる。人生に必要なショックというのは確実に存在する。ショックを受けながら人は成長していくのだから。

多くのショックを乗り越えて「弱者」は弱者でなくなっていくと思うのだ。だから、私は弱者を守らない。弱者とならないように「心の芯」を見守りながら育てていく立場でありたいと思っている。

考えてみれば誰にだって「弱さ」があるではないか。だからこそ、自分の中の「強さ」に気づくことだってある。「弱いところだけ」をクローズアップするから「弱者」という言葉が生まれる。たぶん弱い分だけ強さがあるんだと思う。

2010年8月24日火曜日

WRAPでストレスフリーな就労環境

WRAPというメソッドがある。アメリカで精神障碍の現場で編み出されたもので、「元気回復行動プラン」とも呼ばれている。ITエンジニア的な視点で表現すると「高度に洗練された自己回復のための危機管理技法」といえそうだ。

端的に表現してしまうと語弊があるかもしれないが、「自分自身の攻略本」を自分で作るスキルという感じだ。誰でも持っている「ダークな自分」をどうやってやっつけるか・・・ということを「あらかじめ考えておく」ということが大きなポイントだ。

私自身を例にとって考えてみる。スペースと時間の制約上、それぞれの例を2点に絞って紹介したい。

(1)良い状態の時の自分【自分にとっての標準状態を知る】
 →すべてのことが「うまくいく」ような気分になる。
 →関わるすべての人に感謝できるようになっている。

(2)毎日するといいこと【いい状態になれる行動を知る】
 →少なくとも5時間以上は睡眠を取ること。
 →ポジティブな話題で明るく誰かと盛り上がる。

(3)気分が悪くなる引き金【状態が悪くなるきっかけを知る】
 →「常識」を旗印にして頭ごなしに否定されること。
 →選択の自由がなく強要されていると感じたとき。

(4)引き金による注意サイン【危機発生の兆しを知る】
 →注意が特定のことに偏ってしまい視野が狭くなる。
 →脳内の血流が高まり「めまい」に近い感覚がある。

(5)調子が悪くなっているサイン【危機発生後の状況検知】
 →引き金となったシーンを何度も思い出してしまう。
 →他の人たちも自分から離れていくような被害妄想を抱く。

(6)第三者に「普段の自分」を伝える【通常ステータスの通知】
 →あまり感情的にならないか、ポジティブな感情を示す。
 →できうる限りすべてのことをポジティブにとらえようとする。

(6)第三者に「異変後の自分」を伝える【異常ステータスの通知】
 →会話中は声のトーンが大きく高くなり表情が引きつってくる
 →会話しない時は表情が無表情に近くなり極端に無口になる

(7)第三者に「してほしいこと」を伝える【異常対処方法の通知】
 →「ちょっと休憩にしませんか?」とインターバルをいれてもらう。
 →「意見を強要しているわけでない」という意図を伝えてもらう。

(8)必要な投薬や主治医に関する情報【危機管理情報の通知】
 ★私は投薬も通院もしていないので例示できない
 望む処置方法や病院などを通知可能。
 逆に望まない処置方法や病院なども通知可能。

WRAPについてはまだまだ研究中のため、解釈が正しくない可能性もある。それでも「第三者を意識した危機管理マニュアル」になっている点は非常に興味深い。特に自分が制御不能になった時のシミュレーションは有効だろう。

今のところ、一般的な職場でWRAPを取り入れている例をあまり知らないが、障碍の有無に関わらず積極的に就労環境に取り入れていけば、何かしらの変化が見られるようになると考えている。

なお、今回のエントリーを書くにあたっては、千葉「らっぴん」で入手させていただいた、「元気回復行動プラン WRAP」(道具箱・刊)という赤い本を参考にした。

※一般書店で販売されていないので、ここから注文するとよいだろう。

この赤い本だけでも十分にWRAPの魅力を知ることができるが、本当に実践しようと思ったらWRAPのイベントに参加するのがいいかもしれない。私もいずれ参加するつもりだ。

このメソッドが企業活動にどのようなメリットを与えるのか。興味は尽きない。

2010年8月20日金曜日

甘く見ない

障碍のある人たちを対象にITコースを開講している。しかし、「パソコンを教えてやってくれよ」とか「パソコンの先生でしょ?」といわれると心底ガッカリする。そのたびに私は頑なに訂正している。私はパソコンの先生などではない。パソコンの先生は街を探せば掃いて捨てるほどいる。

パソコンは使えて当たり前だ。そして習うものでもない。というよりも「習ってなんとかしよう」なんていうのは間違っていると思う。そう書いてしまうと、また誤解されて不要な溝が深まってしまうので、もうちょっと丁寧に書く。

パソコンというのは「自力でよりよく使いたい」という意欲がなければ使いこなすことなどできない。つまり技術というよりも、それ以上に「パソコンを使いたい」という想いが必要なのだ。だから、「パソコンを教える」のではなく「パソコンを使って広がる可能性を伝える」ということが正しいのだと私は思う。

使いこなす人は「誰かに教えてもらおう」なんて思わない。思ったとしても、その前提として自分でいろいろと情報を集めて、自分なりにバリエーションを増やしていっているはずだ。「先生に教えてもらおう」なんて頼る癖がつけば、先生がいなくなったら成長が止まってしまう可能性は高い。

私もいろいろなエンジニアに出会ってきたが、「技術を教えてもらった」というエンジニアにはお目にかかったことがない。たいていは自分で地道に身につけてきたか、現場で技術習得を余儀なくされて死ぬ気で習得した人がほとんどだ。要するにそれなりのスキルを身につけるためには自分自身の意欲が必要だ。

だから実は「教えてほしい」と思っている時点で負けだ。だから私の即戦力ITコースでは「好奇心」「探求心」「遊び心」を大事にしてきた。残念ながらそれがない人や「やらされ感」がある人にとってはあまり役に立たない。だから私のコースは厳しいことで悪評が立つこともあるし、それなりに嫌われたりもした。

しかし、私がそうするには理由がある。たしかに障碍による体力的・精神的なハードルは認める。しかし、障碍のない人が乗り越えるところはできる限りチャレンジしてほしいし、障碍をいいわけにしないで這い上がってほしいのだ。「障碍」を理由にしてあきらめることは簡単だ。

この境界線はものすごく難しい。「本当に無理」という境界線もあるからだ。だから、私にはその境界線を知るための判断基準がある。それはただひとつ。「楽しそうかどうか」という点。楽しくなさそうなら「楽しさ」を見つけることが何よりも先にすべきことだと思う。楽しくなくて何が身につくというのだろう。

自分ですすんで「新しい何かを調べる」というところまで行かなければ本物にならない。「パソコン教室」だとか「パソコンの先生」は日本中にいる。しかし、そのほとんどは「ここをクリックして、ここをクリックして・・・」という教え方だろう。私はそういうことはしたくない。私が伝えたいのは、「なぜそこをクリックして、どうして次にここをクリックするべきなのか?」という、自分自身で考える力だ。

そういうことをいうと、どこからともなく必ずあがる言葉がある。
「そんなことを言っても相手は障碍者ですよ。レベルとか現実とかそういうのをもっと考えてくださいよ!」と。
・・・フザケンナ!

私はそういう意見から真っ正面から対決したい。実際に投薬によってだいぶ状況がよくなっている人もいる。そういう人も全部ひっくるめて「そうはいっても障碍者だから無理でしょう」と言われてしまうと、心の奥底から怒りがわき上がるのだ。なぜ、未知の世界にチャレンジすることを第三者から「抑制」されなくてはならないのか。

比較的ごく少数ではあるものの、支援者を見ていると当事者のことを「幼稚園児」のように目下扱いしているフシが見え隠れする人もいる。

そもそも「障碍者だから無理でしょう」とは何様のつもりか。障碍者の側に立ったつもりで当事者の将来の選択肢を除去する輩もいる。無難な支援者はどうしても無難な人生にしか導けない。当事者にせよ支援者にせよ、リスクを取ってこそたどり着けるゴールが見えてくるケースもあるのではないか。

たまたま障碍のない人だってそうだ。「無難な人生を過ごしたい」という人もいる。逆に「リスクを取ってでも楽しい人生を過ごしたい」という人もいる。しかし、障碍があるとなると一様に「障碍があるんだから無難な人生を過ごせばいい」という論調になるように思えてならない。でもそれは違うだろう。

彼らの生き方とか望みは最大限活かされるべきだ。私は彼らの「野心」をどうやって現実のものにするのか。そこを考えている。人が生きるということは必死で願いを追いかけ続けることなのだと思う。たまたま障碍をもっただけで、その権利を第三者から剥奪されていいものではない。

私はある程度、「望み」とか「夢」とか「野心」を持った当事者の夢を叶える仕事がしたい。「なんとなく人並みでいいです」とか「仕事ならなんでもいいです。」という人には、受け入れてくれる支援組織がいくらでもある。そうでなく「これがしたい!」という強い願いを持つ当事者の夢を一緒に追いかけたいのだ。私は彼らを甘く見ていない。

そこまで可能性を信じなくて、何ができるというのか。

そんな気持ちを胸に、私はITの「おもしろさ」を伝える講義を続けている。私は「パソコンの先生」ではなく、「好奇心の育て方」を伝えている人間だ。それに「先生」と呼ばれるほど偉くもない。だから何度も書きたい。私のことを「パソコンの先生」だなんて呼ばないでほしい。

2010年8月7日土曜日

いいこいいこ・・・できない

精神の障碍のある人の就職サポートの現場にいるが、その中ではなんともスッキリしないこともある。

精神的に上がり調子にならない人を応援して調子を上げていく。このこと自体は問題はない。ただ、それが行き過ぎた時に、本人の人生がどうなるのだろうかと心配になることがある。

たとえば、履歴書や職歴報告書を全部書いてあげたり、企業とのやりとりをすべて福祉スタッフが本人の肩代わりをすること。これらは就職支援の場では日常茶飯事だ。「いいこいいこ」しながら、なんとかなだめすかして就職させている状況も多く見てきた。

でも、私の気持ちは少し違う。どこまでも「肩代わり」ではなく「支援」であるべきなんじゃないかと思うのだ。過保護な親が大学の卒業式にまでついていく・・・と、そんなイメージが頭をよぎってしまう。

たまに私がIT系の作品作りをサポートすることもあったが、まるで私が就職試験を受けるような気分になったものだ。

そしてそこから葛藤が始まるのだ。「彼が無事に就職できたとして、その後、ちゃんとひとりでやっていけるだろうか?」と。いくらフォローするといっても24時間体制で食いつくわけにはいかない。仮に納期が遅れそうだからといって、私が彼の仕事に張り付くこともできないのだ。

私の「即戦力ITコース」では、比較的厳しい姿勢をとっている。いや、実際のところ、「厳しい姿勢をとろうとしている」が正しいかもしれない。もちろん、病気は病気として認めたい。

しかし、私は「病気」を認めるギリギリ端っこの部分に位置していたいと考えている。「『病気』をいいわけにしない」ギリギリのところで、いろんなことを楽しみながら身につけてほしいのだ。

自分自身についてもそうなのだが、高いモチベーションを維持していくためには、自分でできたことに対して適正な評価をしていく必要がある。

だから、受講生が自力で何かを成し遂げた時には、そのすばらしさを言葉で本人に伝えるようにしている。もちろん私だってうれしいのだから。

しかし、そこからが難しいところだ。

人によってはそのレベルで満足してしまい、先に進もうとしなくなってしまうことがある。もちろん、「昨日の自分にできなかったことができるようになった」ということは、間違いなくすばらしいことだ。

だが、肝心なのは「その先」が必ずあるということだ。挑戦しようとする限り、頂上まで続く道は続いている。それを自覚するだけで姿勢が変わってくると思う。

だから、「いいこいいこ」だけでは、現実的な就職に結びつくところまで行きつくまでに、とても時間がかかってしまう。向かうべき最終的な到達点までの距離を見誤ってしまうからだ。

私が担当しているコースには「甘口」と「辛口」がある。「辛口」は受講生自身の力で這い上がってもらうため、私はそのためのヒントを伝えたり、モチベーションを高くするためのコーチングに専念するゼミ形式だ。

一方、「甘口」は自力で這い上がっていくために必要な練習をする場で、私が全員の前で講義をする形式だ。より自主性が必要とされるのは「辛口」であることは書くまでもない。

しかし、実際には「甘口」の方が受講生から高評価をもらうことが多い。それも、簡単にすればするほど高評価になる傾向がある。正直なところ心中複雑だ。

甘くすれば甘くしただけ、現実的な就職への道が遠のくばかりなのだから。だから「辛口」の受講生にはそれなりのストレスがかかるようにしている。それは「やや高いハードル」だったりもすれば「期待感のプレッシャー」だったりもする。

当たり前のことだが、「お金をもらう」=「プロ」ということだろう。すると「就職してお金をもらう」=「プロになる」ということだ。当然ながらプロにはプロなりの姿勢や考え方が要求される。

たとえば画像修正(レタッチ)であれば、誰が見ても画像修正を施したと分からないレベルにまで仕上げることだ。特に自己満足ではなく客観的に見られるようになることが重要だ。

よく受講生から「これで完璧です」と作品を見せられることがあるが、画像であれば目立つところにノイズがのっていたり、Webページであれば誤字脱字があったりすることがある。このあたりの「詰め」の部分の厳しさを持つことは大事だ。

そういう作品については遠慮なく突き返している。せっかくできるようになってきたのだから、中途半端ではもったいないのだ。できない人には要求しない。できる可能性があるからこそ厳しくする。

よくできたところは最大限に賛辞を送る。しかし、中途半端だと思うところについては遠慮なく辛口コメントを飛ばしている。なぜなら、いずれ「ひとりだち」をしなくてはならないからだ。

自分の人生には自分自身で責任を持つ必要がある。だから、私は本人のためにならないと判断したときは絶対に「いいこいいこ」なんてしない。

2010年7月17日土曜日

精神疾患就労をめぐる温度差

精神疾患を巡る職場環境のあり方については、人によってさまざまな見解がある。

(1) 「非当事者」と肩を並べて「仕事」ができるようにしていく。
(2) 精神的に無菌状態の作業所で、できる「作業」をずっとしてもらう。
(3) そもそも無理をしてまで社会参画なんてさせても意味がない。

実は私がよく聞く意見は、
 (3) そもそも無理をしてまで社会参画なんてさせても意味がない。
だ。

要するに「200%で働く人の足を引っ張るから、できれば一緒に仕事をしたくない。」という意見だ。私は(無自覚ではあるものの)第三者的に見れば「福祉」の側の人間なのかもしれない。だからこそ、あえて私はそこで声高に反論しない。否定したい人の前で反論すれば火に油を注ぐだけだから。くやしいけれど他に説明するいい方法がきっとある。

ところで、(3)を主張する人に多いのが、「僕は絶対に精神疾患にかからない自信がある。」と断言する人。そして、その次の言葉には、「日本には徹夜してがんばれる人が必要なのだ。」という主張がやってくる。

調子よくがんばっていた人が、突然、精神疾患でダウンしてしまう。精神的に追い詰められて自殺を選んでしまう。そんなことは当たり前に起きている。だから、「僕は絶対に精神疾患にかからない自信がある。」という言葉ほどアテにならないものはないと思っている。その言葉は精神論的なもので、未来を保証するモノでもなんでもない。

個人的に、「気合いで徹夜すれば世の中はもっとよくなる!」と信じている人は、やはりどこか時代遅れなのではないかと私は考えている。疲労を抱えて仕事をすることは明らかにポテンシャル低下を招く。逆に徹夜をしなければならないのは「効率の悪い仕事をしている」可能性もあるかもしれない。

もちろん時としてそうなるし、私も経験したことがある。そこには知識や経験が足りないゆえの「非効率」も存在するし、単に人員が少ないところを「気合い」で補っているケースもある。これらの要因は完全に排除することはできないだろう。しかし、問題要因を減らそうとする努力は必要なのではないか。気合いは無限ではない。それを忘れたときに人間は再起が困難なレベルまで消耗する。

高度急成長を過ぎて、バブルを迎え、それがはじけた後の世界に、今、生きている。いつまでも高度急成長のような「モーレツ社員」だけで世の中は持続できない。ましてや、少子高齢化の状況下で、精神疾患や自殺などで社会資源としての人材が消失していくことは大きな社会的損失だ。だからこそ、できるだけリソースを消耗させず、最大限に活用する戦い方が必要だ。

そういう観点から、精神疾患の当事者も積極的に社会に参画することが望ましいと私は思う。逆に彼らが活躍できる場が増えることは、社会にとっても大きな価値をもたらすと考えている。もちろん不自然でない形での社会参画だ。

そして、基本的には、
 (1) 「非当事者」と肩を並べて「仕事」ができるようにしていく。
というのがフェアな考え方だ。

しかしながら、環境が苛烈であればすぐに精神的に消耗してしまうだろう。それは精神疾患の当事者の側だけが課題を抱えているわけではない。「キツイ」ことをそのまま放置している職場環境にも課題がある。もちろん、どんな職場ににも「キツイ局面」というのは存在するし、それを100%排除することは不可能だ。

しかし、気合いを必要とする局面はすでに負けている状態なのだろうと思う。だからこそ、本来は気合いを必要としない戦い方をプランニングする必要がある。そういう意味では、精神疾患の当事者を受け入れられる職場を構築することは、非常に大きな意義を持つと考えている。そろそろ「メンタル・スロープ」を取り入れてみてはどうだろうか。

階段の脇によく設けられている「スロープ」。身体障碍者にとって有効な設備だが、足を怪我してしまったとき、重い荷物を持っているとき、疲れているときに使うとありがたさが分かる。障碍者に優しい設備は障碍を持っていない人にとっても便利なものだ。(もちろん長距離を歩かずに、短距離で上れる階段もそれはそれで便利だが。)

それになぞらえて、私は「メンタル・スロープ」のある職場環境を構築したいと考えている。障碍者だけではない。たとえば高齢者でもあってもいいし、時間的制約の厳しい主婦の方でもいい。誰にとっても無駄なストレスがかからない職場環境を構築したい。精神疾患の方だけを対象にした精神的なスロープのある職場環境だ。

ただし、それは、
 (2) 精神的に無菌状態の作業所で、できる「作業」をずっとしてもらう。
を意味しているワケではない。

精神的に「無菌状態」というのは不自然な状態だと思うからだ。たとえば、無菌状態で育った生物は、ちょっとした菌に対しても抵抗力を持てなくなってしまう。ほどほどの菌に触れてこそ健全に生きていける。ストレスも同じことだと考えている。適切なストレスが人間を成長させてくれる。

しかし、明らかに不要なストレスはあるはずだ。たとえば、私が体験した職場では、月曜日の朝イチに会議を行う会社があった。先週のミスを徹底的に掘り出して、誰に問題があったのかを割り出すための会議だ。あたかも「東京裁判」のようだった。その結果、月曜日に休暇を取る人が増えてしまった。

週の初め、もっともモチベーションを高めたい時に、無駄なストレスをためてモチベーションを乱降下させる会議の意味が、私にはついに最後まで理解できなかった。このようなものはやらない方がよっぽどいい。沈黙だけが続いて先に進まない、ただ眠気をかみ殺すだけの会議。こういうものもやる価値は低いと思う。こういう無駄なストレスを削ることは大事な課題だと思う。

おそらく、精神疾患の当事者が楽しく働ける環境は、誰にとっても楽しく働ける環境なのではないか。その基本環境をベースにして、さらにがんばりたい人は、組織全体でバックアップできる環境。「馬鹿だね、そんなのはただの『理想』だよ」と笑われるかもしれないが、私はそういう職場環境を構築したいと考えている。

馬鹿で結構。馬鹿にしかできない社会参画もあるはずだ。理解してくれる人は少ないかもしれないが、あえて愚鈍に理想を追いかけてみたいと思う。

※2010/07/15現在、「google」を検索する限りでは「メンタル・スロープ」または「メンタルスロープ」という言葉は1件もヒットしない。しかし、いつの日か「メンタル・スロープ」という言葉が使われるようになるといいなと思う。

2010年7月15日木曜日

人生の残り時間

私は精神疾患の当事者対象にITコースの講師をしている。それは、IT業界の経験者が少ない福祉業界にあって、IT関連への職業選択の可能性を広げたいからだ。そして私はITエンジニアになりたい当事者に「知識」ではなく「経験」を提供している。自分自身で解決したという「経験」ほど強いものはない。

このコースを始める前にはいろいろと検討要素もあったが、実際にやってみると、それなりに効果が上がっているような実感がある。それはひとえに受講してくださっている方の気持ちに支えられている部分が強いと感じている。

それでも、考えさせられることも多々ある。たとえば「就職支援」の前段階である「生活支援」が必要な人が、「講義に出席すること自体に意味がある」と考えたり、周囲に教えられたりしている場合だ。まったくモチベーションがないのに、とりあえず机に座っているケースがある。もっと正確に書いてしまうと机に突っ伏してしまう方もいる。

「休憩なら隣のお部屋でどうぞ。」

このあたりのさじ加減が難しいところなのだが、私はそういう方にはやんわりと退室をお願いしている。本当に難しい。本来であれば、モチベーションを高めることが私が行うべきミッションだ。自分の中では「職務放棄ではないか」と重く受け止めている面もある。しかし、実際問題としては退室をお願いしなければならない境界線がある。

私は「前に進みたいと願っている人」を絶対に応援したい。理解に時間がかかる人もいるし、実際のところ私もどちらかというと理解に時間のかかるタイプの人間だ。気合いと結果というものは、しばしば理想と乖離することがある。だからそこを責めても仕方がない。どれだけ時間がかかってもモチベーションさえあれば、なんとかなる。

しかし、最初からモチベーションがマイナスを向いている方は難しい。おそらく参加しても何もする意欲がないのだから眠いだけだろう。眠いことを我慢するということは、現実的に大切な場面も存在するが、それでも基本的に無駄な苦痛だと思う。貴重な人生の時間を無駄な苦痛に割くくらいなら退室いただいた方がいいだろうと思う。

福祉的な観点から、「座っているだけでいいから参加させてあげてほしい。そこから何かに気づくかもしれない。」と注意なり勧告されることも少なくない。私もそういうご意見については理解している。しかし、私はあえて厳しく対応したいと考えている。なぜなら「前に進みたい」と考えて参加してくださっている他の受講生の方に失礼にあたるからだ。

ただ、「腐ったみかん」と考えているのかというと、それも違う。そうではない。そういう場に入るタイミングがまだきていないだけなのだと思う。そしてそういう場に入る前の姿勢作りはとても大事だ。だから、そのうち個別でモチベーションの発掘をしたいと考えている。それが終わってから講義に参加していただければよいのだろう。

ITコースを受講してくださっている方に力がついてきていることを最近特に感じる。「何もできなかった」と語っている方が、今では動きのあるWebページを作れるようになってきている。そして自分たちで新しいことを始めようとしている。私はそういう流れに希望の光を見ている。モチベーションこそが自分の人生を自走するためのエネルギーだ。

今はモチベーションのエネルギーが不足している人もいる。しかし、いつかは自分が持つエネルギーに気づける日が来るといいと願う。人生の時間には必ず限りがある。だからすこしでもエネルギーを燃やして有意義な時間を送ってほしいと思うのだ。ブルーな日々よりもハッピーな日々を送った方がいいように思う。

2010年6月17日木曜日

難しいってホント?

難しそうな肩書きの方に会うことがあるが、そこで今やろうとしていることを話すと、やたらと難しそうな話が戻ってくることがある。「○○と連携しないと難しそうだ。」だとか「実際に運用してみると難しいでしょうね。」だとか。

難しいかと言われれば、そりゃ難しいと思う。今までの決まりきった日常生活どおり過ごすことに比べれば。変化を起こすってことは少なからず新しい局面に出会うことになるし、新しいことであれば新しい対処方法を考える必要がある。

先に戦略を立てて走っていくことの正しさも理解できる。前もってリスク要因を把握して対策を立てることも大事だ。そこは十分に分かっているし、そういう考え方を否定するつもりは全くない。しかし、やはり私個人としては、気持ちが先立つことがいちばん大事なんじゃないかと思う。

新しいことを始めるのには必ずリスクが伴う。もう少し正確に書くと、毎日生きているだけで何らかのリスクが伴うものだ。外に一歩出れば何らかの事故に巻き込まれる可能性がある。だからといって外出しないのか?・・・と問われれば、多くの人はNoと言うだろう。

私がハケンを辞めて講師になろうと思ったときも、多くのご心配をいただいたし、自分自身、多くのリスクを自覚した。講師として生活できるかどうかも分からないし、私を講師として必要とする人が必ずいるとも保証の限りではなかった。すべてやってみないと分からないという状態だ。

結果として、無謀にも私はハケンをすっぱりと辞め、精神の当事者向けの「即戦力ITコース」の講師の道を選んだ。以前に比べると収入は低下したものの、とりあえず生活はできている。そして私の講義を楽しみにしてくれる受講生の方々もいる。

受講生の方々のリアクションやクレームなど、さまざまな課題を乗り越えて、手前味噌ながら、今ではかなり身のある講義ができるようになってきたと確信している。これらはすべて「実際にやってみてわかったこと」だ。最初から予想できていたとしたら苦労はない。

と書いたものの、実際のところ苦労はあまりしていなかったりもするのだが。なぜなら目の前の課題を自然体で楽しめたからだ。むしろ、実際に現場に飛び込まずに「事前にリスクを予測してくれ」と言われたとしたら、おそらくそちらの方が苦労するだろうし、そんな無駄なことに時間を使いたくない。

なにしろ人間相手のことだ。どれだけ芸術的なカリキュラムを組もうが、受講生のハートに届かない内容なら無駄になる。ついでにいえばどんな人が受講生になるかどうかなんて、実際に始めてみないと誰にも分からない。

「まずは初めてみる」以上に強いものはないような気がする。だから構想の時点で「難しいですよね。」といわれると、ちょっと萎えてしまう。基本的にリスクは大前提だ。というよりも、何か新しいことを始める際のリスクというのは、リスクを恐れること自体ではないだろうか。

起きてもいない未来についてご託を並べるくらいなら、いっそ始めてしまった方がいいんじゃないかと思う。リスクを想定するよりもずっと現実的な答えが自動的にやってくる。その現実に対して精一杯の対応を重ねていけばいい。

私は過去、「頭で考えて実行になかなか移せない」タイプの人間だった。今でもそういう要素は少なからずある。だが、やはりリスクを自覚しても「飛び込んだ先に道が開けていた」という経験は得がたいものだ。私の行動様式はそこを境に変わったような気がする。

もしも心が本当にやりたいことだったら、考え込む前に行動を起こすことだ。それしかないと思う。心が硬直して動けなくなる前に行動することだと思う。

2010年6月11日金曜日

先輩風と同族嫌悪

私はいわゆる「先輩風」というのが苦手だ。いつから苦手になったのか分からないが、とにかく現在のところすっかり苦手になっている。障碍者の就労支援などの飲み会に行ったりしても、たまにそういうタイプの方をお見受けする。

「オマエのダメなところをオレが教えてやるよ」「要するに今のオマエに足りないのは・・・」「今度オレが見本を見せてやるから、そこから何かを学べよ」・・・そんな説教を耳にしてしまうと、どうにも居心地が悪くなって逃げ出したくなるのだ。

できれば飲み会では説教を聞きたくないモノだ。面倒見がいいタイプと言えば、おそらく面倒見がいいタイプなんだろうと思う。だから適材適所というやつで、きっとそういう人が役に立つ領域はあるに違いないし、きっと感謝している人もいるんだろうと思う。

それなのになぜ、私は先輩風で説教をする人が苦手なのか。それはたぶん、私もそういうことが本質的に好きだからなんだろうと思う。自分の中で理性がなくなったら、いろんな人に説教して回るような気がする。いくらかしているかもしれないが、できればしたくない。

経験のある人の言葉は貴重だ。そして自分が体験したことを、未体験の人に伝えることもとても大事だ。しかし、無意識にとはいえ「上下関係」ができてしまうと、自分の判断を相手に押しつけてしまうことがあるのではないかと思う。

たとえば「オマエのダメなところをオレが教えてやるよ」という言葉には、「自分のやり方=正しい」ゆえに「自分のやり方以外=ダメ」という価値観の押しつけが含まれている。そして基本的に「上から目線」というのは本人にとって気持ちのいいものだ。実にイヤらしい話だが。

人はそれぞれ得意なことが違う。好きなことも違う。考え方も違う。しかし、そういう基本的かつ簡単なことをいとも簡単に忘れてしまいがちだ。私はその昔、自分の価値観を押しつけてしまった結果、有能な部下を失ってしまったことがある。その時の教訓は今も心にしみついている。

心地よい「上から目線」に慣れすぎてしまうと、それで誰かを縛り付けてしまっていることに気づかなくなってしまう。先輩として親切な気持ちから生まれた言動であっても、相手にとっては迷惑きわまりない圧力となっているかもしれない。

得意げに先輩風を吹かして説教をしている人を見ると、まるで過去の私をみているような気がしてしまう。なんともいえない気恥ずかしさで逃げ出したくなる。今さらガキ大将でもあるまいしと。そういう意味では同族嫌悪なのだ。

世の中はうまくできているような気がする。イヤなシーンに出会うからこそ思い出せることもある。きっと「人の振り見て我が振り直せ」ということなのだろう。そういう意味では私の役に立って頂いているわけだ。やはり感謝しなくてはいけない。

2010年5月25日火曜日

ハンディキャップを楽しむ

障碍者、健常者。この「健常者」という言葉がよく分からない。学校やら会社やらを見渡してみると、メガネとかコンタクトレンズを着用している人は多い。その中には視力0.04とか、ほとんど見えてないんじゃないかという人もいるくらいだ。それでも健常者というくくりで生活している人は多い。

他にも、外見から分からないことも多い。たとえば聴覚。おおむねのことが把握できれば、多少聞こえづらいな・・・ということがあっても、日常生活は十分にやっていける。他にも肝臓がよくない人もいれば、心臓に疾患を持っている人もいる。そして精神疾患などもそうだ。

新宿の交差点を忙しく行き交う人々は、一見、健常者ばかりに見える。なぜなら、外見からわかりやすい目印をつけた人があまりいないからだ。目印というのは、たとえば杖だったり、車いすだったり、盲導犬だとか。でも、目印のない人の中にも健常者ではない人も実は多い。ただ単に自分から言う必要がないから言わないだけだ。

それにしても、メガネやコンタクトレンズという矯正具を装着している「プチ視覚障碍者」は多いのに、社会的な区別を受けづらいのが不思議だ。いや、むしろ世の中に多いからこそ区別されづらいのか。

逆に仮にこの世界の9割以上が全盲の人々だったとしたら、社会は普通に点字文化になるのだろう。そしておそらく「視覚障碍」という言葉は存在しないはずだ。逆に目が見える少数派の人々は「霊能者」のように異端者扱いされていても不思議ではない。その世界では見えない人の方が当たり前なのだから。

つまり、「少数派=障碍者」という乱暴な結論もありえるのかもしれない。

厳密に調べたわけではないが「障碍者」を定義するとき、
 ・特定の身体機能における検査結果が標準領域外だった場合
 ・身体機能により日常生活または就業において支障をきたす場合

という条件があるように思う。

私自身について考えてみる。まず左目の視力が弱い。小学生の時、左目の視力を矯正させるために、右目にアイパッチというバンドエイドみたいなモノを貼り付けて生活をしていた。視力のいい右目だけを使わないようにという矯正訓練だったわけだが、これは純粋かつ残酷な子供だった同級生からイジメられる原因にもなった。

視力以外となると、たとえば若いときに比べて肝臓の数値がかなり高くなってしまっていること、さらに内臓脂肪が増大していて生活習慣病すら疑われること。

他にも、たいしたことのないシーンにおいても極度の緊張状態に追い込まれやすく、話をしているだけで息が詰まってきてしまい、うまく話せなくなってくることもある。さらに話が熱を帯びてくると、話の前後のつながりとかが不明になってしまい、最終的に何が言いたいのか忘れてしまったりもすることもある。

それ以外だと、人の顔を覚えることが極端に苦手だ。一度や二度くらい会っただけでは名前と顔が一致しない。街中で以前お会いしていた方に声をかけられても、誰だか思い出せないことの方が多い。必死にその場を取り繕いながら思い出そうとすることもたびたびあった。

ここまでざっと考えついただけでも「健常」ではない。ただ、だからといって「障碍」の領域で生活をしているわけでもない。なぜなら「日常生活または就業において」支障が出ないような工夫をしているからだ。これは社会人として、ITエンジニアとして生きるための工夫でもあった。

たとえば、名刺交換をした人の顔を覚えられないとき、あとでこっそりと名刺に似顔絵や顔の特徴を書いたりした。最近では事情を打ち明けて携帯カメラで写真を撮らせていただくこともある。実際、週に1~2回しか会えない「即戦力ITコース」の受講生の何人かにも写真を撮らせていただいた。

この顔写真と名前を一緒にして、1週間に何度かそれを眺めていれば、さすがに顔と名前は覚えてくるものだ。ちなみに顔写真を撮らなかった受講生の方は、やはり顔と名前がなかなか一致しなかった。だから、この記憶に関する工夫は私にとって絶大な効果があったことになる。

それ以外にも記憶力の弱さや、精神的な揺らぎをコントロールするために数多く工夫をして生きてきた。私にとって自分に一番合った改善手段を考えることは楽しいことだ。自分の欠点を工夫によって苦労を減らすことができるからだ。特に私はITを利用して自分の機能不足を補ってきた。

世の中にはいろいろな障碍がある。そんな中で私なりに認識している機能不足を「ハンディキャップ」と呼んでいいかどうか正直なところ分からない。しかし、私はその機能不足を補うためのアイデアを考えるたびにワクワクしている。なぜなら、まるで自分自身をバージョンアップして機能向上しているような気がするからだ。

障碍であるかどうかはともかくとして、自分の機能不足を補うアイデアは生きる知恵だ。それを考えることを楽しむ生き方ができれば、人生はもっと実りのある豊かなものになるんじゃないかと思う。機能不足を嘆いていても前には進まないのだから。

2010年4月16日金曜日

動いて見えたこと

今さらの内容ではあるのだけど、2010年2月23日、個人事業主として開業届を提出した。あっけないほど簡単に受理された。どうやったら受理してもらえるのか・・・なんていろいろ考えたものだったけれど、とりあえずとんでもない内容でない限り受理されるものらしい。

「ハケンをやめて、やりたいことを始めるんだ!」と決心してから、実際に辞めるまでには勇気も必要だったし、それなりに時間もかかった。まぁ、そうはいってもこのブログを始めたのが2009年の1月。そういう意味では「有言不実行」にならずによかったなあ・・・と思う。

個人的にはいろいろと怖い思いをしながらも独立したわけで、本当にやっていけるのかどうかも分からなかった。実際のところ今でもどうだか分からない部分はある。ただ、自分の気のせいかもしれないが「絵に描いた餅」をリアルに語れるようになってきたなあと思う。

ひとつには、リスクをとって「やってみないと分からないこと」って、けっこうあるということなのだろう。実際にやったことのない話には「体験」がない。だから、それに対して語ろうとしても、どこかがウソになってしまう。

でも、今は違う。実際に行動してみて、その経験からいろんなことを語ることができる。今の経験を基にして「実際にやってみると○○という感じだ。だから、その延長上として○○になるんじゃないだろうか?」と考えることができる。

自分自身が体験している「リアル」の上に積み重ねた「イメージ」には重みが宿るのかもしれない。その重みのおかげで自信を持ってイメージを語ることができる。自信があるからこそ堂々としていられる。

2009の1月にハケン生活にピリオドを打つ決心をして16ヶ月。意外に時間がかかった印象はある。でも、そのときに比べて未来がだいぶ開けてきたような気がする。夢に協力してくれる人にもたくさん出会えた。

我ながら冒険的な生き方を選んでしまったものだと思う。ハケンの頃は、ハケン契約が継続する限りは出社すれば確実に収入が保証されていた。別に仕事を探さなくても、どこからか勝手に仕事が降ってくる職場だったので、あらゆる意味で楽だったといえたと思う。

でも、かなり早い時期にそれは飽きた。魅力も大して感じなかった。もちろんそこそこ安定した収入というのは嬉しかったのだけど、ハケンという時点で「まやかしの安定」ということも分かっていたし、何よりも生きている実感がなかった。

餌のように仕事を与えられ、餌のように給料をもらう。でもその餌がなぜ貰えるのか理由が分かりづらい生活は嬉しくなかった。もちろんそうは言っても生活はしなくてはならないので、それはそれで感謝しているけれど。

今は収入はともかくとしても(かなり状況は改善されてきた!)、自分がやりたいこと、目指すこと、頭に思い描いた夢を追いかける日々は充実している。何よりも生きている実感を感じられる点で大きな幸せだ。

生きていてよかった!
そんなふうに思える日々を送れることに感謝!

2010年3月3日水曜日

実は優しくない

「精神障碍の当事者向けにITコースの講義をしています」とか言うと「優しいんですね」なんて言われる。でも、本当はけっして優しくない。基本的に「自分から何かを学ぼうと思ってなさそうな人」をすくい上げようとする気はない。だから、どれだけやる気がなさそうでも私は決して怒らない。怒っても無駄だし。

とはいえ、基本的にそんな受講生は私のコースに一人もいない。なぜなら講義に参加してくれているだけで「やる気あり」と私は考えているからだ。特に今の時期はずいぶんと冷え込んできている。講義のために外出するだけでも十分にすばらしいことだと思っている。

誰にだって「気分的に乗らない」ということはある。でも、そこを怒っちゃダメだ。そもそも私自身もけっして聖人君子ではないわけで、「気分的に乗らない」という状況をたくさん経験してきた。そして実はそういう時が一番ツライということも知っている。

「やったほうがいいに決まっている」と頭で思いながらも、気持ちがついてこないのって正直シンドイ。体力も気力も時間も無駄に消耗してしまう。でも、そういう時のために私がいるのだと思う。なぜなら私もそういう状況に陥る自分自身にずいぶん手を焼いてきたからだ。

だからこそ、私にしか私の講義はできないという自信がある。欠点だらけでコンプレックスの塊と言ってもいいくらいの私が、なんとかITエンジニアとして生き延びてこられたのだから。メンタルを維持したり誤魔化したりする技術というものはやはり必要だ。

メンタル面の維持のノウハウも含めて、私の「即戦力ITコース」ではとことんフォローしていく。ただし、講義に来なくなってしまった人を呼び戻す努力は一切しないことに決めている。そこが私の講義の厳しい面といえるだろう。

なぜならこちらも本気なのだ。申し訳ないのだが、本気で参加している受講生以外に使う無駄な時間はない。「来る者を拒まず、去る者を追わず」というポリシーは守っていきたい。だから、その一方で「一度は挫折しちゃったけど、もう一度がんばってみたい」という人も拒まない。

挫折なんて気にしなくていいのだから。挫折してもあきらめなければチャレンジの機会は何度でもある。私自身、挫折の多い人生を歩んできた。実際のところ、私という人間は「中途半端」で「いい加減」で「根性なし」と思えることをたくさんやってきた。

数多くの自己嫌悪を乗り越えたり、踏みつぶしたり、誤魔化したりして生きてきた側面もたくさんある。でも、そういう点を飲み込めるようになって、「うまいこと」生きていけることもあるんだと思う。いきなり100点を取ろうと考えちゃうから生きるのが辛くなっちゃう人もいるんだろうと思う。生きるためには「自分に甘く考える」スキルが必要だ。

でも、そういうのはある程度の「厳しさ」の中でないと身につけられない。必要だからこそ身につくのだ。厳しさの中で自分のココロを守るため非常手段としてのスキルだと思う。だから、厳しくもない状態なのにいつも「自分に甘く考える」のは単なる世間知らずの馬鹿者だ。

福祉的な就労支援って、どうしても必要以上に当事者を「いいこいいこ」してしまいやすい。でも、社会の厳しさに無防備で送り出してはいけないと私は思う。社会に出してから厳しさを初めて体験させるのは残酷だと思う。

2010年2月17日水曜日

幸せになれる人

なんだか各駅停車が苦手だ。状況が許すならできる限り特急に乗りたい。それがダメなら急行。それもダメなら準急。それもダメなら快速。もちろん中央線なら特快だ。エレベーターでも次から次へと人が乗り込んでくると、各駅停車状態になってしまい残念な気分になる。

なんでかなあ・・・と考え続けて数年。ふと謎が解けた。ここまでの人生(これからもかもしれないけれど)が回り道ばかりだったからだと思う。各駅停車の人生というか、一足飛びの局面がほとんどないまま地味に生きてきた。だから、せめて移動手段くらいは派手にすっ飛ばしていきたいのだと思う。

移動手段と言えば、遠くに行くために昔は夜行列車があり、その後、新幹線ができた。十数年後にはリニアモーターカーが営業運転にこぎ着けるかもしれない。ただ、リニアモーターカーにまでなると走行区間のほとんどが地中なんだそうだ。できるだけ直線を多くするためには仕方のないことなんだろう。

東京駅を出て、車窓のない空間で数十分を過ごすとすぐに大阪。スピード的にはものすごいことだけど、車窓が見えないということは速度を視覚的に体感できないということか。途中の景色を楽しむことなく目的地に着いてしまうわけだ。それはそれで残念な気がする。

これを人生に置き換えるとどうなるんだろう。たとえばよくある夢。生活を回すためだけに必死に働くのではなく、生活するだけなら十分に余裕のある資金を持ちながら、充実のために社会の役に立つ事業を継続していく人生。豊かな人間関係を保ちながら、余暇をのびのびと送る人生。

これが人生の目標だったとして、一瞬で夢が叶ってしまったらどうするんだろう・・・と考えてみた。「各駅停車で苦労してこそ夢実現のありがたみが分かるものだ」なんて、つい、きれい事を言ってしまいたくなる自分がいる。・・・が、そんなことはない。夢が叶うスピードは早ければ早いほどいいと思っている。

しかし、夢が叶うスピードが自分自身の実力を越えてしまうと、きっと人生が破綻しちゃうだろうな・・・とも思う。正しい方向性を持たない「権力」「財力」「腕力」「知力」は凶器になる。宝くじで何億円当たると不幸になるという話も、実力以上の財力が転がり込んできた結果なのかもしれない。

私は人生肯定派だ。昔は違ったが、今は自分の人生をできる限り肯定して生きていたいと考えている。否定したところで幸せな気分になれないからだ。そういう意味で「各駅停車人生」は自分にとって歯がゆくもあるが、自分にとって最適なペースで進んでいるのではないかと考えることにしている。

きっと、今の自分が10億円をつかんだとしても、正しい使い道なんて分からないだろうと思う。いきなり社会を変えるくらいの権力を持ったとしても、脳みそが空転して何もできないか、不勉強によって世の中を乱すだけかもしれない。苦労を知らない2世議員もそんなところだろう。きっと地道に自分の器を大きく育てていくしかないのだ。

ただ、自分の器を育てるなんて書きつつも、私は社会のために戦おうなんてこれっぽっちも思っちゃいない。器が小さいと思われようが、少なくとも今の私が欲するスタイルではない。「社会起業家」だなんて気恥ずかしくて絶対に名乗りたくないし、そもそもそんなことをやりたいとも思わない。

私がやりたいこと。それは、せいぜい私が知っている人たちが、幸せな日々を実感できるように手伝いたいくらいのことだ。昔の自分は人生を後ろ向きにしか考えられなかった。自分の未来は暗いモノになると心から信じ込んでいた。あばら屋で寂しく孤独に死んでいくストーリーだけを頭に描いていた。

医者の診断を受けたことがないので何ともいえないが、もしかすると私は鬱病だったのかもしれない。安易に自分自身で判断してはいけないのかもしれないが、少なくとも今の自分は限りなくニュートラルな状態だと思う。いろんな心の嵐を乗り越えて今の私にたどり着いている。

幸せに舞い上がることもないが、身を削るような不幸に沈み込むこともない。もちろん感情を捨てたわけではないわけで、喜ぶことも悲しむことも人並みにある。ただ、昔に比べて感情の制御ができるようになったような気がする。悲しいことがあっても、どこかのタイミングで「はい、悲しいのはここまで!」と区切れる感じだ。

・・・と書くと聞こえはいいが、「どこかのタイミング」までひたすらウジウジすることだってある。ただ、「悲しみ」の感情をずっと持ち続けていて何かが好転することって基本的にない。むしろ自分の中で「悲しみスパイラル」の中にはまり込んでしまって脱出が難しくなるばかりだ。勇気を持って自分自身を蹴飛ばさないといけない。

一度、マイナスの淵に落ち込んでしまうと、そこから這い上がるために必要なエネルギーは並大抵ではない。自分自身で早めの対策が必要なのだ。大人になれば自分を助けてくれるのは自分しかいない。他の誰かが支えてくれるにしても、立ち直るために必要な本質的な要素は「自分自身」以外にない。

もう、繰り返したくないのだ。自分の不幸な未来を妄想するために無駄な時間を費やしたくないのだ。そうであるなら、深く落ち込む前に自分自身を立て直すノウハウは特に重要だ。深くはまりこんでしまった時に、どうやって回復していくのかという自分なりの技術も非常に大事だ。

私は特別に能力が高いわけではない。むしろ記憶力について言えばかなり低めだと思う。人の顔なんて三回くらい会わないと覚えられない。その上、長いこと悲観的主義で生きてきた。そんな私がどうにかITエンジニアとしてやってこられたのは、一言で言うと運がよかったんだろう。

そうは言っても、おそらく運以外の要素として、私自身が必要に迫られて編み出した「工夫」がきいた部分もあったんじゃないかなと思う。もしそうならば、たとえば一次的または二次的に鬱病を発症している人たちに、その「工夫」を伝えることができたらどうなるんだろうと考えた。

そして、私がたどってきた道筋や考え方を伝えることができたなら、少なくとも今の私が立っている場所くらいまでに導けるんじゃないかな・・・というところに行き着いた。今の私の立っている場所が「すごい」などと自慢するつもりはないが、少なくとも悲観的だった時期に比べれば間違いなく天国だ。

医療的なアプローチももちろん重要だが、ただ一点、医療的アプローチだけでは「精神疾患という自己定義」という罠にはまってしまう怖さも感じる。明らかに私が低調だった時期、もしも医者に「精神疾患」と判定されていたとしたら、今とは違う人生を歩んでいたかもしれない。「病気だからいろいろ無理」という人生に落ち着いていたかもしれない。

もちろん、別にすべての当事者がそうだとは思っていない。しかし医師だって人間だし、ましてや「目に見えない心」を診断するのだ。「正確に診断してくれ」と頼んだところで、それはたぶん無理な注文だろう。ただ、かつての私と同じ状態で「精神疾患」と診断された人がいるのだとすれば、そこに人生を変えていけるチャンスが十分にあると信じている。

私は精神疾患の知識については素人だ。むしろ素人でいいと思っている。玄人が「現在までに分かっているノウハウの範囲内で活動する」とするならば、私はそのノウハウの外側を攻めていきたい。病気だどうだ・・・という前に、単なる一人の人間として全力を尽くしたいのだ。

そして、これだけは断言できる。「もしかすると自分にもできるかもしれない!」とか「これから自分は変わっていけるかもしれない!」という実感、もしくは予感を体験すること。これこそが闇に閉ざされた世界に蒔くことができる希望の種だと思う。私は精神疾患の病名にあまりこだわらず、希望の種をばらまくことだけに専念するつもりだ。

「ま、自分だけ鼻息荒くしてがんばってもさ。やっぱりアレでしょ?」

・・・と、侮るなかれ。講義を始めてからまだ3ヶ月。目に見える変化が出てきた人も数名ほどちらほら。無表情だった受講生の顔に活気ある笑顔が見えるようになってきた。言葉にも少しずつ積極性が浮き上がってきた。何より「自分で何かを成し遂げよう」という意識が明らかに生まれてきた。

それだけじゃない。仲間で力を合わせて困難に立ち向かおうと組織的に動くようにもなってきた。たぶん、彼らは彼らなりの「幸せ」にたどり着くはずだ。幸せは歩いてこないが、自分から動き始めた人は確実に幸せに近づいているのだから。あきらめずに勇気を出して動いてさえいれば大丈夫だ。

せっかくだから、みんなで楽しく生きていこう!

2010年2月11日木曜日

差別禁止反対?

書くべきかどうか迷ったのだが、実は私は「差別感」の多い人間だ。これは間違いなく自覚している。私はいろんなことを差別している。「差別」ではなく「区別」でもいい。どっちでもいい。

そして、「差別禁止」という言葉に違和感を感じてもいる。国によっては「差別禁止法」なるものもあるのだとか。しかし「差別」があるから「差別禁止」なわけで、逆に「差別禁止」と言っている間は「差別」が存在するわけだ。

それはさておき、私は区別やら差別をしてしまう人間だ。それは私の選んできた道が「理系」ということもひとつの要因だと思うし、子供の頃にイジメにあった経験があることも要因だと思う。

理系は「定量的に何かがどのように違うから、得られる結果がこのように変わる」という習慣の上で生活している。また実際にイジメに遭ってみれば「みんな平等」という言葉は白々しいだけで、心に響かなくもなる。

「ほんとうに『みんな平等』だとするならば、僕はいじめられないはずだ。おそらく何かが違っているからこそ、こんな目に遭っているんじゃないか?」・・・とイジメられっ子が発想することは許されないことだろうか。

「イジメられる人とイジメられない人の『差』ってなんだろう?」と幼少期に考え続けて成長すると、「区別」とか「差別」をベースとする推論方法が、知らず知らずのうちに思考の一部になってしまうような気がする。

「差別」やら「区別」やらをされた経験がある人ほど「区別」やら「差別」やらという言葉が心に刺さっているように思う。そして過剰反応もしやすいような気がする。

しかし、「区別」とか「差別」というのは本質的に消えないものではないかと思う。言葉遊びに見えるかもしれないが、「区分け」とか「差」というのは必ずあるのだから。

たとえば「自分は男だ」という場合、そこには必ず「女」という対象を暗黙的に意識しているはずだ。自分以外の「その他」という概念があってはじめて、自分を認識することができるのだから。

その上で「女は平均的に男よりも力持ちが少ない」という事実があるわけで、これが私にとっての「区別」だったり「差別」だったりする。その延長線上に「だから力仕事で男は女を気遣いましょう」という自然な流れができたりする。

ただ、そこで間違って「だから女は男より劣っている」という優劣論に向かうと、いわゆる一般的な「男女差別」とか「女性蔑視」になってしまう。本当は事実としての「区別」や「差別」があって、そこからどう考えるかが大切なだけだと思う。男女のどちらも必要なのだから。

焦点が優劣論の次元に発展さえしなければ、ありのままの「区別」や「差別」は存在していいのではないか。そこに無理な圧力をかけて「差別禁止」と押さえつける動きはかえってよくないと私は思う。

差別を禁止するのではなく、「差」だとか「違い」を受け入れること。その上でどのように良好な関係性を築いていくのか・・・という観点があってもいいのではないだろうか。「差」というとマイナスイメージで、「個性」というとプラスイメージになるのだから、言葉遊びというのはまったくもって不思議だ。

ともかく、やみくもに「差別禁止!」と叫んで、相手を思考停止状態に陥らせてはつまらないと思う。そんなことでは「どこがどう違うんだろう。どうしてなんだろう。どうすればいいんだろう。」という発展的な方向に進めない。

「差別禁止」という一言には、「臭いものにはふた」という側面があるような気がしてならない。「差別禁止」と拳を振り上げれば振り上げるほど、見えざる溝は深く離れていくのではないか。

相手を真っ正面から見ないで相手を認めることって実は難しい。「差別しちゃいけない」という強迫観念を感じながら、窮屈な姿勢で接するのはどこかウソくさい。そうかといって無視をするのもどうかと思う。

そういう息苦しさが漂ってしまうと、むしろその相手から心理的距離を遠ざける原因になったりもする。だからこそ相手をちゃんと見て、障碍部分もひっくるめて人格を認める段階が必要なのだと思う。少なくとも私はそう思う。

障碍を持っていて、むちゃくちゃ楽しい人を私はたくさん知っている。たいていそういう人は障碍についても開けっぴろげだ。そこには「障碍を見て見ぬふりをする」息苦しさはない。「差」を理解した上でつきあえれば逆に気楽につきあえるものだと、つくづく思う。

で、私は楽しくつきあえる人たちと、そうでない人たちを「差別」している。健常者であろうが、障碍者であろうが関係ない。私が「差別」といっているのは、私にとっての「カテゴライズ」に過ぎないのだから。

みんな、「差別」ってやってると思うよ。「友達になれる人」と「友達になれない人」・・・みたいに。他にも「あの人は信用できない」とか「この人は信用できる」とか・・・それなりにみんな「差別」とか「区別」をしていると思う。

もうちょっと踏み込んでみれば、「人類みな平等」なんて言いながらも恋人やら伴侶はお一人様限定だ。告白されても断らなきゃいけない人もいる。これだって「区別」とか「差別」だ。(これを断らないでトラブルを起こす人もいるわけだけど!)

きれい事を排除するなら、誰しも「差別」やら「区別」をしている中で、「差別禁止」ありきのアプローチは個人的には好きじゃない。なんだかわざとらしくて。

ただ、そうはいっても世の中広い。法律で縛らなければ分からない人もいる。そういう人には「差別禁止法」のような強制力はやはり必要なのだろう。理想と現実にはこういうところに溝がある。

2010年2月3日水曜日

決断とか責任とか

そりゃやっぱり、かっこいいコトばかりじゃないなと。私が気合いを入れまくっている「即戦力ITコース」でついにクレームが発生。スピードが速すぎるということ、そしてプレッシャーが強すぎるという理由で、受講生の精神的な負荷がついに限界を超えてしまったようだ。

そんなわけで向精神薬の量が増えたり、アルバイトを休んでしまう受講生が続出。この事態を受け急遽、先週の講義では展開をスピードダウンさせた上に、なぜ、そこまで講義の展開が早かったのかを説明した。今までは実習による「実践」に重きをおいていたが、この日は「座学」にシフト。

私には二つの想いがある。ひとつは精神疾患の当事者に歩み寄ったストレスの少ない環境の構築。一方では「お花畑」ではない「本気モード」を当事者に知ってもらうことだ。つまり、職場環境を彼らに近づける方向性と、彼らを既存の職場環境に近づける方向性。

その二つの方向性は、既存の職場環境にとっては「ハードルをギリギリまで下げる」ということであり、当事者にとっては「ハードルをギリギリまで上げる」ということでもある。見極めはとても難しいことだが、この「ギリギリ」の境界線を「さらに少しだけ下げたところ」がこれからの低ストレス環境の領域になるんだと思う。

ある種の福祉業界(もちろん全てとはいわない)はこのあたりのさじ加減がへたくそだと思う。つい「いいこいいこ」ばっかりしてしまいがちな気がする。本当はもっと上にいけるのに「ここが限界」と周囲が勝手に決めつけて、レベルを固定してしまう傾向があるような気がする。

私は違うと思う。多少のリスクを負ってもその人の限界を見極めるべきだ。どんな人の人生にも一度くらい「一か八かの大ピンチ」という局面があるはずだ。もちろんピンチは少ない方がいいだろうが、ピンチを乗り越えた時に対応力が成長することも多い。

私はこの「即戦力ITコース」を開講した時、覚悟したことがある。それは「当事者の可能性を真剣に信じよう」ということだ。可能性を信じるということは、場合によっては限界を確認するためにリスクを冒すことも辞さないという覚悟が必要だと思う。

それにしても前回の講義で実施した試みは、あまりにドラスティックすぎてインパクトが強かったようだ。何を実施したのかという話は、適切な着地点が見つかるまではリスクが高いこともあって、まだ具体的にここには書けない。いつかここに書きたいと思う。

ともかく反響が強すぎたこともあり、1/29の講義はかなり人数が減るだろうと考えていた。実際にいつもの皆勤組の中でも不参加者が目立った。それでもパソコンが足りなくなる程度の受講生が集まってくれた。あれだけ大変な目にあったにも関わらず、それでもまだ私を信じてくれている。

集まってくれた受講生たちに本気で感謝した。そして大きな不安もあるだろう中で、私の講義に送り出してくれたご親族の方々にも感謝するばかりだ。私にできる限りの何もかもを出し尽くすくらいの気持ちで、今後も「即戦力ITコース」を続けていきたい。

私は彼らと「一緒に幸せのゴールを目指す同志」という対等な立場として、彼らには大きな借りがあると思っている。彼らが苦しんだ分だけ、私には彼らを幸せな結論に導く義務と責任がある。

まあ、「幸せのゴール」なんていったって、私は宗教家でも教祖でもない。「幸せ」なんてのは、ひとりひとりが自分の責任でしっかり持っておくべきだ。そのために「夢」を描いてもらったわけで、私にできることは、その「夢」を叶えるために何をすべきかを考え、それを伝え、一緒に伴走することだけだ。

よく、私の講義は「無茶だ」と言われる。「無茶」を承知でやっているのだから仕方がない。あのね・・・今まで常識の中でやってきて、それでも就労状況が好転していないのだ。

そうであるならば常識に縛られる必要なんぞどこにもない。非常識でもいいから前に進むことだ。まずはそれが大事だと思う。

2010年1月21日木曜日

スキルとコスト

今年に入ってからいろいろと忙しく、すっかりブログの更新をご無沙汰してしまった。特に2月中旬以降からは自分でお金を引っ張らなくては生きていけない。そのために試験的な業務を請け負ったり、人に会うための時間に充てたりしていて、例年よりもいくらかバタバタ気味だ。

幸いにも私が持っているスキルは、IT関連一般の広範な知識と経験だ。もちろんその中でも特定のスキルに特化した人にはかなわない。これは認識している。しかし、ごく少人数から何かを始めようとした時、広範な知識と経験は何よりも力になる。自分のできないことのために第三者を探さなくてもいいからだ。

もちろん、規模を大きくするためには第三者の力は必要不可欠だし、自分とは異なる視点を持つ第三者が加われば相乗効果で広がる可能性があることも十分承知だ。しかし、資金がない時に人を集めることに腐心するよりも、まずは自分で事業のプロトタイプを作れることは大きなアドバンテージになる。

たとえば、私は「自動化」という分野に人並みならぬ思い入れがある。人間が何かの作業をする時の思考をトレースし、それをロジック化してマシンに埋め込む。もちろん人間が行う作業のすべてをマシンに委ねることはできないが、かなりの部分をアシストできる。そのシステム構築を私はひとりでできる。

そのために必要なものはロジックを走らせるマシン、そしてそれらを稼働させるための電力やネットワークなどのインフラがあれば済む。在庫ととして必要なのは新たな知識くらいのものだ。それすら最近ではネットワーク経由でいくらでも獲得することができる。

つまり元手がほとんどかからずに何かを作り上げることができるスキルなのだ。そして、個人情報や秘匿情報のように削除の責任が伴うもの以外は、基本的に電子データだから何もなくならない。ただただ蓄積されていくのみだ。蓄積された成果物は、さらに次の成果物を生み出すためのコストを下げる。

私が精神障碍の世界でITエンジニアを育てようと思うのは、そこに理由がある。システム構築とかロジック実装というのは、上手にやれば本来はどんどんラクになっていく仕事のはずだ。精神障碍は「一般的に」長時間の就労が難しいと言われている。確かにそういう一面はあるかもしれない。

ただ、私だって「勤労時間8時間」と言われれば、できればそれ以上働きたくないタイプの人間だ。ましてや30半ばを越えたハケン仕事なんぞに時間をかけたくはない。どれだけがんばろうが上が見えてこないのだから。ご褒美といえば「契約期間の継続」くらいのものだ。

もちろんそのご褒美の恩恵は計り知れないが、だからといって「65歳までハケンができるのか?」と考えてみれば自明の理だろう。ハケンというのはよっぽどの事情がない限りは、いつか自分から降りなくてはいけないレールだと思う。長く走れば走るほど降りるのが難しくなり、同時に、突然レールを外されるリスクも増えていくのだから。

勤労時間の話に戻そう。私だってハケンなら8時間以上は働きたくない。いや、ハケンだけでなく正社員であっても8時間以上は働きたくない人間だ。しかし、ロジックをマシンに上手に載せるスキルがあれば、実質8時間も働かなくていいのだ。

たいてい最近の仕事はパソコンを使う内容が多いが、パソコンに向かって仕事をしている時の比率を考えてみるといい。単なる入力業務だけであれば話は別かもしれないが、工夫すれば操作時間を大幅に省力化することができる。つまり「人間操作:マシン動作」の稼働比率をマシン側にシフトできる。

さらに可能なら、人間の操作とマシンの動作を切り分けるといい。人間が上手にマシンにオーダーを与え、マシンは一晩中かけて働き続ける。人間の数百倍以上の早さで忍耐力が必要とされる作業を文句も言わずにやってくれる。導入コストとインフラ等のランニングコストを考慮しても、時給換算で人間より遙かに安く働いてくれる。

不思議なもので、パソコンを操作している時間は勤労時間として認められやすい。たとえば、パソコンに向かって何かの操作をして、パソコンが処理している間のちょっとの待ち時間がそうだ。「今、ちょっと処理が終わるのを待っているんです。」という言い訳(?)だって成立しそうなものだ。

この作業の一日平均を分析調査して、人間の操作が60秒で機械の応答が30秒だったとしよう。つまり3分の1がパソコンの仕事で、それ以外が人間の仕事だ。しかし、もし人間側の作業とパソコン側の作業をきれいに切り分けることができたとしたらどうなるだろう?

8時間の作業時間で同じペースを維持した場合、およそ2.7時間はパソコンが働き続けることになる。つまり人間はおよそ5.3時間しか働いていない計算になる。これが人間とパソコンが交互に働いていれば「勤務時間」とみなされ、パソコンが動いている間ずっと休憩をしていると「サボり」と判断されがちだ。

もちろん雇用する立場からすれば「空いた時間は働いてくれよ!」になるかもしれない。しかし非効率に働いている方はトータルで2.7時間休憩することができてしまうのに。これでは効率損だ。非効率な人が得してしまうことになれば、組織内の効率化は促進されなくなる可能性もある。

もちろん実際のところ、マシンが稼働している時間をそのまま勤務時間として認めるのは現実的ではない。マシンが徹夜した分を残業扱いにできるわけがない。しかし効率化を進めた分のご褒美はあってもいいと思う。計算比率は検討の余地があるものの、作業の効率化が実現できた場合はフルタイム就労扱いで帰宅してもよい・・・とか。

もしこのルールが適用できるならば、効率化できればできるほど短時間労働になっていける。ある作業の「出来高払い」というルールにしてもいい。決まった金額について非効率に働けば働く分だけ時給単価が下がっていくという仕組みだ。長時間の勤労ができないという特性が決定的であれば、このルールは最適解になるだろう。

「長時間の勤労ができないという特性が決定的であれば」と書いたのは、環境によっては精神障碍でも長時間勤労が十分可能だと思っているからだ。たとえば、精神障碍の当事者で6時間以上もぶっ続けでカラオケで歌い続けられる人を私は知っている。

カラオケで6時間といえばそれなりに長時間だ。仕事とカラオケの限界時間の違いは、心の中に「快」があるかどうかではないだろうか。つまり心の中が「快」になる環境を構築することでも、仕事の航続時間を長くすることができるだろうと考えているのだ。

実際のところ、8時間以上は働きたくない私にしても、ハケン以外の仕事を掛け持ちしているので、一日のトータルで言えば18時間くらい働いているかもしれない。ただ、ハケン以外の仕事はどちらかというと私の好奇心が原動力になっている。

だから、こう書いてしまうと怒られそうだが、かなり趣味性に近い時間を過ごしているので苦痛ではない。これがお金を生み出すので「仕事」扱いになっているだけの話だ。もちろんクオリティを高く保つということすらも私にとっては趣味の一部だ。

いかに「自分自身が長時間働かずに、正確な仕事ができるようになるか?」・・・というテーマは、長時間勤労が難しいといわれている層に実は向いているんだと思う。