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2011年12月23日金曜日

私は差別をしている

私には基本的に「どんな人でも平等に幸せになってほしい」という理想がある。しかし、これから書くことは、およそその理想とはかけ離れたことだ。私にとって実に残念なことだが、私が目指す理想に近づくためにはどうしても越えなくてはならない現実だ。

私の仕事は、「障害」というレッテルのために、なかなか前に進もうとしてもハードルが厳しい人たちと一緒に、「本当の仕事」をしながら、仕事の楽しさを体験してもらうことだ。さらなる特徴として、「自主的な創造性」を形にしていく喜びを知ってもらうことだ。

たいてい、このふたつが十分に満たされていれば、スキルや仕事の効率性は上がっていくし、さらに仲間と協調して仕事を積み上げていくことも自然と身についてくる。ポイントは「楽しさ」と「喜び」だと思っている。だからこそ、私の周りで仕事体験している方々はモチベーションが非常に高いし、創造性も成長性も同じく高い。

しかし、残念なことに「誰でも」というわけにはいかない。確かに最初のうちは「誰でも」という方向性を狙っていた。しかし、様々な状況を経験していくにつれて、それは傲慢で安直な考え方だったと反省に至っている。

私がフォローして幸せになれそうな方々というのは、次の条件を満たした方だ。私が優先している条件の順番に書いてみた。

(1)素直であること
(2)真摯であること
(3)やる気があること
(4)目的意識があること
(5)覚悟ができていること
(6)好奇心が旺盛なこと

私が専門としているのは「IT関連の人材育成」だが、この条件の中には「IT技術に詳しいこと」という項目はない。技術云々は後からどれだけでもついてくる。しかし、それを受け入れるために「人間の器」が先になくては、何も得られるものはない。

先ほどの条件を考えるたびに、私は「障害者支援をしているわけではないのだ」という事実に直面する。なぜなら私が重要視している条件とは、「障害の有無に関わらず『成長できる人材』に必要不可欠な要素」であり、私はこれらの条件を満たしていない人をフォローしようなどとは全く思っていないからだ。

もっとはっきり書いてしまおう。私は「差別」をしている。それは障害の有無という意味での差別ではない。「本気でやる覚悟があるか」「それほどの覚悟がないか」という部分での差別だ。もっと分かりやすくいえば、「障害があろうがなかろうが、本気になれないヤツにかける時間はない」という意味だ。

だから、私と一緒に時間をかけて前を向いてスキルアップに励んでいる当事者のことを、私は「訓練生」ではなく「仲間」だと思っている。正直なところ私は彼らを「障害者」という枠で見ていない。ついでにいえば「メンタル」というところもあまり意識していない。むしろ、プロ意識の芽生えてきた彼らのことが誇らしくて仕方がないほどだ。

さて、私が先ほどの条件を挙げた理由を書いてみたいと思う。

(1)素直であること
→今までうまくいかなかったから、それを改善するために時間をかけていることを忘れないでほしい。つまり、「我を通す」ということは、今までと何も変わらないということなのだ。

(2)真摯であること
→「できる」「できない」というのは一過性の事実だ。そこで必要になるのは「できる」ことを増やすための「自己解決力」だ。それを身につけるには真摯さが必要だ。

(3)やる気があること
→最初から「満ちあふれたやる気」を期待しているわけではないが、多少なりとも「やる気」がなければ、そこから「大きなやる気」に成長させていくことはできない。

(4)目的意識があること
→自分が「何のために」時間をかけているのかを常に確認してほしい。自分が「改善すべき点はどこなのか」を意識しない人は、おそらくどれだけ時間をかけても解決できない。

(5)覚悟ができていること
→ゼロからプロに向かっていく過程において厳しい評価が下されることもある。これは「お勉強」でも「ままごと」でもなく、本当の仕事をやっていただくからこその厳しさだ。

(6)好奇心が旺盛なこと
→私は「指示待ち人間」に興味がない。自分で何かを考えて、そしてそのために何が必要なのかを考え、そして提案できる力を持った人材を育成したいと思っている。

これらは、およそ「就労移行支援事業所」に携わる立場として、ふさわしくない意思表明と思われるかもしれない。しかし、考えてもみてほしい。上記の条件を満たさなくても、大事に扱ってくれる就労移行支援の事業所は日本中のどこにでもあるではないか。

私のポリシーに賛同できなければ、無理に私と一緒にスキルアップを目指さなくてもいいと思うのだ。そういう意味で、私が逆に「お断り」させていただきたい条件も明確に書いておきたい。それは、「自分自身を就労移行支援サービスを受ける『お客様』だと思い込んでいる方」だ。

私は「モチベーションを上げてもらうのを待っているお客様」に時間をかけるつもりはない。そうではなく、「障害など関係なく、闇雲にチャレンジする仲間」と一緒に本気で高みを目指したいと考えている。申し訳ないが、障害というレッテルを覆して「本気で幸せになりたい」人だけを私は本気で応援したい。

ちなみに、私と一緒に前進している仲間たちに面白い現象が起きている。それは「できないこと=障害のせい」にする人が少ないことだ。楽しさと工夫があればたいていのことは乗り越えていける。そして、障害者手帳を持った仲間たちはそれを実践している。後から入ってきた方々もそういう先輩を見て「できない=障害」にはできないんだろうと思う。

こんな場を見学される方からは「本当にこの方々は障害者手帳をお持ちなんですか?」とよく聞かれる。それくらいに「障害」を忘れて仕事に没頭できる環境が日本中にできていけば、おそらく日本は変わっていくんだと思う。この国が障害の有無に関係なく仕事を楽しめる国になれるように、私は私なりのポリシーで尽力していきたいと思う。

2011年12月17日土曜日

何シテルンデスカ?

実はいろいろな人に聞かれていたのだけど、あんまり書かなかったことを書いてみようと思う。「具体的にどんな仕事をしてるんですか?」という質問に対して、私は「成長を見守っています。」と答えてきた。

実際のところ、下手に力を貸して、自力で解決する力を奪いたくない。だから、ある意味で成長を見守っているというのは正しい。だけど、そんな情報じゃ何も参考にならないので、今回は本質的な仕事の内容を書いてみる。

私が日常的にやっている仕事はとても地味だ。一例を挙げれば、利用者の方々が楽しく仕事ができるように、お客様からお預かりした仕事の分解や組み立てをしている。全体のスケジュールを立てたり、体調を見ながら進め方を変えたりしている。

そして、誰かの仕事が終わる前に、その人の成長を見込める仕事を間断なく提供していくわけだ。他にも納期の見積もりやクオリティチェックなどもあるが、実はこの見積もりとクオリティチェックが地味に難しい。

作業自体の工数はある程度読めるのだが、仕事をする担当者が体調を崩すことをある程度見越しておく必要がある。しかし、そこに甘えてしまうと、納期や品質面で「やはり障害者だから・・・。」という評価になってしまいかねない。

そうならないためには、最小の工数で疲労コストを徹底的に抑える作戦をたてなくてはならない。一昔前のIT屋さんでたまに見かけた「いざとなったら総掛かりの徹夜でやればいい。」などという判断はあり得ない。短期的に無理が利いても、長期的には人材の磨耗に繋がる。

特にメンタルでお困りの方の実力を引き出すためには、徹底的な「適材適所」と「効率化」が鍵になる。そのために、私が時間をかけて研究しているのが、低ストレスで実現可能なタスク管理や、効率的な業務ノウハウの実践だ。

私の仕事は「福祉」という観点からみれば、ちょっと特殊かも知れない。就労移行支援というと、マナー講座や身だしなみなど、基本的な社会人スキルを身につけていくことに注力することが多い。しかし私は軸足を「実務」に置いている。

そして「どうやったら、低ストレスで最大のパフォーマンスを発揮できるのだろうか?」という戦略を常に練っている。そして、それを考えることは私のライフワークでもある。だから、私は指導そのものよりも思考に時間を割いている。

その結果として、メンタルでお困りの方が幸せに「最高の仕事」をしていただければ、それは彼らの勝利でもあるし、同時に私自身の勝利でもある。そのためには、常にモチベーションが高まる展開をイメージして、アイデアを実践し、検証し、そして改善する。

従来の就労移行支援の仕事にも大きな価値がある。しかし、私はその方向性とは違うアプローチで、ハンディキャップを持った方々の夢を希望に繋げていきたいと思っている。私は障害者支援業界では異端者かも知れないが、異端者しかできないことが絶対にあるはずだと信じている。

今回、こんなことを書いたのには理由がある。私が私自身の仕事について、表層的な部分を話していたら「なんだ、簡単なんですね。じゃあ誰でもできそうですね。」という反応を受けることがあったからだ。それを聞いて、ちょっとマズイかなと思ったのだ。

地道なお膳立てがしっかりできていなければ、そのしわ寄せが利用者を直撃することになってしまう。そうなれば、せっかく就職に向けて高まったモチベーションや可能性を潰してしまうリスクが高まる。だから、重要なポイントについては開示すべきだと思ったのだ。

ただし、誤解していただきたくないのは、私がお膳立てをするからといっても、利用者の方々がしている仕事のほとんどは彼らの意志決定によっているということだ。ある程度のグランドデザインができたら、進め方は彼ら主導で進めていただいている。

そうなれば、後に続く私の仕事は「アシスタント」的なポジションに変わる。その上で、お客様の立場で賞賛を送ったりクレームをつけたりするし、業務の経験者として考え方のヒントを送ったりもする。

つまり、私がやっていることは、一般企業のプロジェクトリーダーがやっていることに近い。仕事の交通整理をして、仕事を任せてみて、モチベーションの高い仕事を楽しんでいただくということだ。仕事をする楽しさをかみしめてほしいのだ。

私の仕事は「本気で仕事を楽しむ経験を提供すること」だ。しかし、そういう仕事自体が楽しくて仕方がない私がいる。まあ、それでいいんだと思う。「仕事を楽しく」と口にする人が仕事を楽しめていなければ、それはウソなのだから。

2011年12月8日木曜日

自分が幸せでなくては

私には誤解を受けやすいが、絶対に譲れない大事なポリシーがある。それは「自分が最初に幸せになるべき」という考え方だ。自己犠牲をいとわない生き方は潔い。それはそれで大事な価値観だと思う。人間的にもそういう生き方のできる人は好きだ。

ただ、富を持たないものが多くの人を救うことができるだろうか。自分の生活だけでギリギリの人が他の人を救えるだろうか。たぶん、例外的に数えられるほどにはいるだろう。しかし、それでも「貧しさを共有する」というところが精一杯だろうと思う。

「身の丈を考えて現状に感謝して生きよ」という人もいるが、その発言者は裕福な経営者ということも少なくない。経営者がその言葉を使う時、私は「権力構造を安定的に維持したいだけなのではないか?」と、つい勘ぐってしまう。下から伸びてくる人がいなければピラミッドの上層部は安泰なのだから。給料を多めに上げるコストも減るだろうし。

ともかく、一人一人がもっともっと幸せになるために上を見なくてはいけないと思っている。そしてその幸せをもっと紹介して、夢のある世界を見上げている人を引き上げられる立場にならなくてはいけないと思うのだ。しかし、幸せを知っている人しか、その幸せを紹介することはできない。

もちろん、それは金銭的なことだけにとどまらない。精神的な幸せもそうだ。「金銭がなくても心が豊かなら大丈夫だ」というのは幻想だ。金銭的貧困は間違いなく諍(いさか)いを呼び起こすものだし、金銭で回避できる不幸を経験しなければならない。たとえば手術費用を払えなければ大事な人の命すら救えない。

ポジティブな話をしよう。結婚生活のすばらしさは結婚を体験した人にしか分からない(もちろん「苦労」もセットでついてくるが)。これを独身者だけで結婚を語っても、そこに事実や実感が伴わなければ全く意味がない。想像だけで話をすることほど時間の無駄遣いはない。

私の例について考えてみたい。私にはいろいろと能力が欠如している。記憶力も自慢できたものではないし、短時間での正確かつ迅速な判断力もそれほどない。もっと致命的なことでいえば、長時間集中力を持続させることも非常に難しい。

そういった弱点を補うために便利だったのがITという存在であり、その便利なツールを使って仕事をすることが許されているのがIT業界だった。おそらくITという領域がなかったとしたら、私が生きていく場所はなかったのではないかと思うくらいだ。

IT業界に身を置いていた頃、生身の頭脳だけで仕事していたとしたら、無理であっただろう収入を手にすることもできていたし、そういう仕事で長いこと生活を安定的に維持させることもできていた。つまり、私はITという手段によって幸せになった人間だといえるだろう。

だからこそ、(すべての人に・・・とまでは言わないものの)メンタルでお困りの方に「ITという選択肢」を紹介しているのだ。それは私がITという領域で幸せになったからであり、また、その世界で幸せになれるであろう人たちに希望の光を見てもらいたいからだ。

(私に周囲にいる人たちには例外を目指す人が多いが)福祉の業界では、「みんなギリギリで生活しているんだ」という価値観が当たり前になっている人が多いような気がする。「私も大変なんだから、あなたも耐えなさいよ。」的な感じだ。確かに国から税金をいただいている身だから、仕方がない部分もあるとは思う。

しかし、これで日本が浮かび上がれるのだろうか・・・と思うと、どうにも暗澹たる気分になってしまうのだ。特に、「戦力としてカウントされていない人たち」を「日本の生産力」として送り出す場所がギリギリの環境でいいのだろうかと思う。ある意味で「日本の人材活性化業界」なのに。

私には夢がある。ハンデがあっても夢と希望を持った人が、「絶対に自分で夢をつかんでやるんだ!」と前に進んで、それを現実化させることができる世の中にすることだ。もしくはそれを現実にしてしまった当事者と同じ視点で楽しく語り合うことだ。

そして、これから夢をつかもうとしている人たちに、希望の足跡を見せられるようになることだ。「あんな風になりたい」という希望になれる当事者と一緒に夢を果たしていきたいし、もちろん私自身もそういう存在でありたいと思う。

誤解を恐れずに書こう。ハンデを持っている人の多くは社会の底辺からスタートせざるを得ない人が多い。ついでに書くとそれを支援する人たちもその周辺にいることが多い。実際のところ、私もIT業界から、障害者支援業界に転身した瞬間に年収が驚くほどに激減した。

そんな場所で「身の程をわきまえて、分を超えない生活を・・・」なんて言葉を私は口が裂けても言いたくない。そういうところから夢を叶えて幸せになっていかなくてはいけないと思うからだ。前例がないほど幸せな生活にアップグレードできた人が増えなくてはいけない。

(たしかに私も偉大だと思うけれども)京セラの創業者を目指すような「清らか」で「裕福」な経営者が唱える「清貧」とか「身の丈」なんて言葉を真に受けてはいけないと思う。残念だけど住んでいる世界が違うのだから。底辺の現実が分かっていない人の言葉はアテにならない。

アメリカンドリームじゃないけど、底辺から幸せな領域に移っていかないといけないと思う。今、私の周りでは「福祉がいつまでも貧乏くさくちゃいけない」とか「社会に価値を生み出す人が適正な報酬を得るべきだ」という論調が強くなっている。ぜひそうなってほしい。

かつて日本が貧しかった時でも、人々から夢や希望だけは溢れていたと聞く。しかし、今はどうだろう。世の中が貧しくなった上に、夢や希望まで手放してしまってはいないだろうか。だからこそ底辺から上に伸びていかないといけないと思う。日本の幸せ平均値があがらなくてはいけない。

幸せにならなくちゃね。同じ幸せをより多くの人たち分かち合えるようになるためには、まずは自分から幸せにならなくちゃ。幸せになった人が正しく世の中に光を当てれば、世の中はもっと幸せになる人が増えるはずだから。貧困の中で傷をなめ合っていてはいけないのだ。

果たしてこれは暴論だろうか?

2011年12月5日月曜日

JJC(Joyful Job Coach)仕事を楽しむ

こないだ「お仕事の内容はなんですか?」と聞かれて、即答に困ったが、口をついて出た返答が、「JJC(Joyful Job Coach)」だった。よくある「ジョブコーチ」ではなくて、「仕事を楽しむためのコーチ」。

「仕事を続けさせるためのコーチ」ではなくて、「仕事を楽しむためのコーチ」だ。もちろん、その結果の副産物として「継続的な仕事ができる」という効果があるとは思う。

仕事には二種類あると思う。ひとつめは誰かに強制されて「やらされる仕事」。ふたつめは自発的に目的を持って「する仕事」。すべてが「やりたい仕事」ということにはならなくとも、「やらされ仕事」は継続が困難だ。

なぜなら「やらされ」にはモチベーションが少ないからだ。せいぜい給料日が楽しみだとか、その後に待っている買い物が楽しみだとか、仕事以外のところにモチベーションを持たざるを得なくなってしまう。

私はJJCとして、仕事をする楽しみを次のステップで知ってほしいと思っている。

ステップ1:
→遊びからスタートして仕事のスキルを身につける。
→「こんなに楽しくていいのかなあ?」

ステップ2:
→「自己解決力」で自分自身の「できること」を増やす。
→「自分の力だけでもどんどん前に進めるんだなあ」
→「誰かに頼らなくても新しいことを知ることができるんだなあ」
→「できることが分かってくると選択肢が増えてくるんだなあ」

ステップ3:
→仲間と一緒に仕事を成し遂げる喜びを知る。
→「苦手だと思っていたけどみんなでやると早いなあ」
→「時間がかかると思ったけど以外に簡単だったなあ」
→「すごい仲間と一緒に働くって楽しいなあ」
→「信頼できる仲間っていいものだなあ」

本質的に「仕事ができる人」というのは、「仕事を好きになれる人」なんだと思う。この世の中には好きでなくてはできない仕事がたくさんある。そういう意味でも「仕事を続ける」ことを目的にするよりも「仕事を好きになる」というスキルが必要なんだと思う。

「JJC」=「心地よく仕事をするためのコーチ」という言葉は、唐突に私の中で生まれた言葉だが、私が目指している仕事という意味ではけっこう気に入っている。

仕事をしている時間も実は自分自身の貴重な時間だ。単に時間の切り売りをするだけではもったいない。楽しく仕事をした方が人生の中の幸せな時間が増えるのだから。

2011年11月26日土曜日

「適当」に負けないために

発達障害の人でよく言われるのは、「明確な指示でないと判断に困る」ということだ。その困り感は私にもよく分かる。たとえば、「できれば適当に掃除しておいてください」という指示があったとして、その「適当」とは、どの適当なのか。

(1) 掃除の工程それぞれの時間を短く済ませるのか?
(2) 掃除の工程のいくつかを省いてしまってもいいのか?
(3) それぞれの工程を日数分割してやればいいのか?
(4) 時間に余裕がある場合だけ掃除をすればいいのか?
(5) (1)(2)(3)(4)(5)のどれかの組み合わせもしくは全て?

残念ながら、死ぬほど考えても正解はない。

なぜなら、頼んだ人の「価値観」によって、すべての選択肢が正解になり得るからだ。「曖昧な指示」は実のところ「指示」の形式をなしていない。こういうことが「発達障害の人は苦手」といわれるが、そんなことは私だって苦手だ。

さて、そういうことを踏まえた上で私はどうしているかというと・・・実はあえて「曖昧な指示」を出している。「おいおい、それじゃ全く意味がないじゃないか」と言われそうだが、それでも私はそうしている。

私も曖昧な指示を受けることは苦手だ。しかし実際の社会に出てみると、やはりある程度の柔軟性が必要だ。いくら苦手だからといって逃げ続けていると生きづらくなってくるのではないかと考えている。

だから、私は「曖昧な指示」をゲームのようにみんなと楽しもうと考えている。曖昧な指示は前提として「予測が外れる」ということが大前提だ。だからこそ、思惑が当たることは奇跡的なラッキーだ。当たること自体がすごいことだ。

そして、たとえ外れたとしても、どうして外れてしまったのかを一緒にたどって考える。すると、その過程がどのあたりまで惜しかったのかが分かる。どこで仕事を依頼した人の意図と外れてしまったのかが分かる。

一般的な企業で、このようなことを試みることは難しいだろう。時間のかかる無駄な遠回りをするよりも、マニュアルで正解を教え込んだ方がいい。しかし、それでは「気づき」を得るチャンスを失ってしまう。

私は、就労移行支援という枠組みの中で「気づき」を得られるチャンスを作りたいと思う。安全に失敗できる場所と時間がなくてはできないことなのだ。自分で考えることを放棄してはいけないと思う。

なぜなら、発達障害と呼ばれる人は非常に論理的な人が多いからだ。だからこそ「曖昧な指示」についても論理的に「処理」することができれば、ある種の「生きづらさ」も少なくなりそうな気がする。

しかし、これは本などから獲得できるものではなく、体験を重ねていく必要がある。理想をいえば、安全に失敗できる場所で数々のシミュレーションをして場数を踏むことが重要だ。

この「シミュレーション」という環境はとても大事な要素だと私は考えている。なぜなら、本番の仕事場で失敗を重ねることはそのまま自信の崩壊に繋がるからだ。そのような状況では「本来の才能」を活かすことなどできない。

当たり前のことだが、人間は怒られたり叱られることで自信を喪失する。その失敗体験をそのままにしたままで時間を過ごしていれば、そこに待っているのは「無能感」しかないだろう。そしてコミュニケーションが怖くなってしまう。

しかし、信頼感の中で自分の中の「思い込み」を修正するチャンスがあれば、変わっていける可能性は高い。これは何名かの発達障害の当事者と一緒に仕事をしていて、私がつくづく実感したことだ。

発達障害という「現象」(私は個人的に「障害」だと思っていない)を持っている人たちが、生きやすい方法論を生み出すことは、私にとって最大のテーマだ。なぜなら私自身もかなり不器用で痛い人生を歩んできたから。

私が様々な失敗をしながら、身につけてきたノウハウを、すこしでも他の人に役立ててほしいと思っている。おそらく、これは多くの失敗を味わってきた自分だからこそ、優秀ではない自分だからこそできることなのだと思う。

2011年11月20日日曜日

「できるかも?」で勝つ

私は、メンタルでお困りの方々を中心に、ITの世界へ手ほどきすることを仕事にしている。「IT」というと「難しいんでしょ?」と頭から決めつけられることが多い。もちろん、ITの世界の中には恐ろしく難解な領域もある。これは仕方がない。

しかし、それをいってしまうと料理の世界だって同じだ。たとえば日本各地で作られている家庭料理から、ミシュラン五つ星レベルの一品で数万円する料理だってある。王朝料理やら宮廷料理のように高レベルな料理があっても「料理=難しい」にはならない。

卵を割って焼くだけの目玉焼き。難易度はともかくとしても、少なくとも素材を加工して元の状態から変化させたという意味では、これも料理の種類に数えられるだろう。スクランブルエッグ、卵焼き・・・と少しずつ難易度が上がる前の基本料理だ。

実は、ITについてもそれに似ている。簡単なものから複雑なものまであるが、通常は「目玉焼き」程度のレベルから入っていけば難しいものではない。たとえば、基本的なパソコンの操作・・・というのもそうだろう。文字入力という部分もそうだ。

多くの場合「難しい」という言葉は「興味がない」とか「やりたくない」の同義語だ。そういう意味では私にとって料理は「難しい」ということになる。私は卵を割ることも、それをフライパンで焼くことも、調味料で味を付けることもできる。しかし興味がない。だから料理ができないのだ。

つまり、本質的に「向いている」というのは「興味がある」ということだと私は考えている。たとえば、日常生活で走る必要性に迫られた時、マラソンを趣味にしている人にとっては楽しい時間だが、運動が嫌いな人にとっては単なる苦行だ。

だから「興味がある」というだけで、一番重要なハードルを飛び越えたも同然だと思っている。たまに「ITコースを受けるために必要な準備や知識は必要ですか?」と聞かれるが、私はそのたびに「好奇心があれば合格です」と答えている。

もちろん最初から「未経験の領域」でうまくいくわけではない。それでも「苦行」ではなく「楽しみ」で進めていくことができれば、あとは単に時間の問題だ。「楽しい」ということは普通にやっていても集中力が上がっている状態だからだ。

最初から自信なんてあるはずもないし、逆に自信がないくらいがちょうどいいのだ。それでも「自分にもできるかも?」という気持ちを持ち続けること。そして楽しもうとするマインドがあれば確実にスキルは身についていく。これは確信を持っていえる。

そうやって私についてきてくれた人たちは伸び、そして実戦に投入できうるスキルが身についたのだから。私にとってそう確信を持てるようになったこの二年間は実に貴重な時期だった。このノウハウをさらに活かしていきたい。

2011年11月15日火曜日

シンフォニー型育成(後編)

前回のブログで書いたように、私はちょっと変わった人材育成方法をすすめている。それは「基本的に教えない」という方針だ。その代わり徹底的に「自己解決力」を身につけていただいて、分からないことは自力でクリアしてもらうことにしている。

私のやり方を「Web制作」の実例で説明しよう。通常はHTMLというコードの書き方の初歩を一斉に教えていく方式がポピュラーだ。しかし、私はできる限り本人の「好奇心」を最重要視している。それも個人個人がバラバラでも全くかまわない。

・HTMLというコードを作成してWebページを作りたい人
・PhotoshopやIllustratorを使って素材画像を作りたい人
・Webページに掲載するための文章を書きたい人
・プログラム言語を利用して動くWebページを作りたい人
・Webページのデザイン性を高めることに興味がある人

それぞれについて、それぞれが自分の課題として取り組んでいただく。基本的に自ら好奇心のある領域を担当してもらうため、比較的、ストレスも少なくて済む上に、それぞれの存在感が際立ってくることもポジティブな効果を生み出す。

相対的に「私は○○さんよりも劣っている」という考えではなく、担当している領域で「私はオンリーワンである」という自信に繋がるのだ。そしてチーム力も高まっていく。なぜなら、全員が協力しないと何もできないことが明確だからだ。

私はこれを「シンフォニー型育成」と呼んでいる。それぞれの楽器がそれぞれの役割を楽しみながら、結果として一つのシンフォニーになるのだから。お互いがお互いのスキルを尊重しながら、敬意によってチームがまとまる体験は強烈だ。

引きこもりや対人恐怖のような壁を乗り越えて、ひとつのチームで力を合わせ、それぞれが「自立的」に仕事をしている様をみると、まるで普通の「会社」のように見える。実際にご見学いただいた方々が驚かれることも珍しくない。

「私が思っていた福祉施設とは全然違います」
「まるで本当の会社みたいですね」
「この方々には本当に障害があるのですか?」

・・・得たり!

まさに私はそういうコメントがほしくて、そして本気で働いている人たちの本当の価値を分かってほしくて、この仕事をしてきたのだ。「かわいそうだから」でも「法定雇用率でこまっているから」でもなく、「戦力」として期待される人材になってほしいと思う。

2011年11月14日月曜日

シンフォニー型育成(前編)

資金稼ぎのハケン生活をやめ、障害で困っている人材の育成を本気で行う決断をしてから、もうすぐ2年になる。当初、人材育成なんて私にできるんだろうか?・・・という疑問もたくさんあった。しかし、現在、私の周辺には多くの「すごい人材」が育っている。

そのほとんどの人が「自己解決力」を身につけて、「自力」でそれぞれの分野のスキルを身につけている。一例として、Web制作、システム開発、Illustratorを利用したデザイン制作・・・。彼らはこれらをゼロから自力で身につけていったのだ。

私が「自己解決力」の重要性を説くのはいくつかの理由がある。

(1) 誰かに頼る依存心をなくすため
→思考を放棄しちゃいけない
(2) 自分でできる自信をつけるため
→自信は自らの行動で生まれる
(3) 先生のレベル以上に伸びるため
→先生の限界を超えることが好ましい
(4) 先生の時間的制約を超えるため
→先生がいない時に伸びることが大事
(5) 自分自身の判断力を鍛えるため
→正しい判断には情報収集力が必要
(6) 想像力や提案力を鍛えるため
→豊富な情報(引き出し)の多さが必要

自己解決力によって、次々と新しいスキルを身につけていく様は見ていて気持ちのいいものだ。現状において、IT系統の業務トレーニングは私一人で担当している。普通に「先生」として「知識を教える」というシステムではおよそ到達できない次元だ。

なぜなら、一斉にひとつのスキルを教える場合、その対象人数が多くなればなるほど、一人の担当者では対応が難しくなるからだ。この方法にはさらなる弊害がある。それは「一斉」に同じことをする場合、「できの優劣」を意識しやすくなってしまう。

この状況に加えて、複数の「技術スキル」を同時に「教えよう」と思った場合、当たり前だが複数の「先生」が必要になってしまう。それぞれの方面に詳しい「先生」を揃えようとすると、育成のためのコストが高くなってしまう。

私はこの方法ではなく、自分で様々な難題を解決するための「自己解決の方法」を「伝える」という方法をとっている。自分自身の「テーマを分析」して、「効率よく調査」して、「自分の知識として吸収」する方法をマスターしていただいて、それをベースに個人個人が独立して動くのだ。

次回、このブログに私の人材育成方法の実例を書いてみたいと思う。

2011年11月10日木曜日

育成にかける想い

私はメンタルで困っている人たちをメインにして「即戦力ITコース」という講座を開いている。このコースには私の想いを凝縮している。

今の時期は体験者も多いこともあり、改めてコースについての説明をさせていただいた。今回は趣を変えて、話をした内容をそのまま思い出して書いてみたいと思う。

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「初めまして」の方も多くいらっしゃいますので、簡単に即戦力ITコースについてお話しさせていただきたいと思います。私がこのコースを担当している松下です。よろしくお願いします。

即戦力ITコースでは「自己解決力」をキーワードにして、自ら問題点を「分析して」、それを効率的に「調査して」、それを自らの知識として「吸収する」という流れを徹底的にやっていこうと思っています。

最終的にこの講座を受けていただいて、最終的にITの業界に行くかどうか。それはあまり気にしなくてもいいのですが、「自己解決力」はどの業界に行くにしても必要な力だと思っています。

なぜなら「自己解決力」は「提案力」や「実行力」に直結することだからなんです。そして多くの企業は人材に「提案力」や「実行力」を求めています。少なくともそんな人材がいれば助かるんです。

もちろん、障害者枠ということで現実的にそこまで期待されていないかもしれません。でも「期待されないから」といって、本当は「できる」のに「できない」という常識ができあがったら悔しいじゃないですか!

仮に「実際に雇ってみたら思った以上に能力があった!」と企業に思ってもらえる人材になれば、そこから世の中が変わるかもしれません。みなさんの姿勢が社会を変えるかもしれないんです!

私はこの講座について特別な想いがあります。講師をさせていただくにあたって「メンタルの方々に講座を行うためのレクチャー」を受けました。そこで、私はどうしても納得しがたい話を聞いたんです。

「メンタルの方は自分で考えることが苦手ですので、指導員が分かりやすく準備しましょう。」
「考えなくてもいいように手順をシンプルに。複雑にならないようにしてあげてください。」

私はその方針を聞いた時に、とても頭にきたんです。やればできるかもしれないのに、どうして頭から「できない」と決めつけるのか。そんな環境を押しつけられたらできるものもできなくなりますよ!・・・って。

だから、私は絶対にそんなやりかたはしないことを心に誓ったんです。基本的に、今日、この講座を受けてくださっている方々は、本気でやろうとすれば「必ずできるようになる」と私は信じています。

人生は一度きりです。年を取って体が満足に動かなくなってから「もしかして、あの時に挑戦していれば」なんて後悔しても遅いんです。今からだって未来は変えられるんです!

自分の可能性を見限らないでください。まだ見つかっていない才能を信じてください。すこしでも心ときめく希望があれば、それを精一杯燃やしてみましょう。楽しくやっていきましょう。
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実際に話した内容はもっと長いのだが、客観的に読んでみるとちょっと・・・熱すぎる・・・かもしれない。

2011年11月7日月曜日

何か分からないけど・・・じゃ

私は就労移行支援の仕事として、ITを利用した業務を通じて、本人すら気づかなかった才能を見つけることに喜びを感じている。そうやって本人が持っている無限の可能性を活かしていきたいのだ。

そうはいっても、今までも書いてきたように、知識を安易に教えないのは私のポリシーだ。ちゃんと自分の頭を使って考えることには最大限のこだわりがある。

新しい知識を必要とするミッションを提示したら、あとは基本的にそっと見守ることが多い。大きく間違えた方向にいかない限りは、本人の力を信じて待っている。

と、こういう話をすると聞かれることがある。

「じゃあ、別にITを知らない人でも、ミッションのリストなりマニュアルさえあればIT方面の支援ができるってことですかね?」

なるほど、確かに見守るだけなら誰でもできる。しかし、私の結論としてはNoだ。一生懸命になって当事者がミッションを成功させた後が大事だし、本人の頑張りに反して失敗してしまった時が大事なのだ。

技術的なスキルを身に付けたときに、それがどれくらい素晴らしい価値があるのかを知らなくてはいけない。失敗してしまったとしても、そのための努力に隠された発見や、正しい糸口のヒントを伝えられなくてはいけない。

成功体験は正しい評価を与えることで輝きを増すのだ。「何か分からないけどすごいね!」という態度では、モチベーションを下げてしまうだけだ。仕事の本質を知り、その価値を心から讃えることが何より必要だ。

人は「自らの価値を認めてくれる人のために本気になれる」のだ。これは障害があろうがなかろうが、本質的に変わらない真実だと思う。

正しいモチベーションは、時間をかけて醸成した信頼感の上にこそ成立する。それだけに信頼を一度損ねてしまうと、取り返しのつかない状態になることも少なくない。

できたことに対して正しく評価しようとする真摯さと、信頼を大切にしようとする誠実さがなければ、人材育成に関わってはいけないのだと私は思う。

このことを自分自身に問いかけながら、人材が「自力」で伸びていく様子を見守っている日々だ。

どの程度実現できるか分からないが、私に出会った人たちの人生が、一人でも多く上昇気流に乗っていただきたいと願っている。

2011年10月12日水曜日

軽作業と一般事務

最初に書いておきたいことは、決して「軽作業や一般事務を馬鹿にしているわけではない」ということ。それでもあえて言いたいのは、私が関わっている当事者については「軽作業や一般事務の仕事の訓練はさせたくない」と私は思っている。

どうにもならないような事情があって、どうしても軽作業や一般事務に進むしかない人も確かにいる。しかし、私の中で「障害者は軽作業か一般事務」という「決めつけ」には抵抗があるのだ。「障害があるんだから軽作業でもやってみたら?」と言われてしまうのだとしたら、そんな人生はどこか寂しい。

何度でも書くが、「軽作業や一般事務がよくない」と言いたいわけではない。そうではなくて「選択肢」が最初から狭められていること自体が気に入らないのだ。適切な考え方かどうか分からないが、実は私は就労支援事業を自分視線で考えている。

もし、自分自身が当事者になってしまったとしたら、どのようなサポートを望むだろうかと、いつも考えている。そして訓練を受けるとしたらどんな内容がいいだろうかと。毎日、楽しい気持ちで訓練の場に通えるためには、どんな環境だと幸せだろうかと。

私は「自分が何もできないから軽作業や一般事務を・・・」という消極的な生き方をしたくない。「できないなら、できるようにしていこう!」という前向きな人生の走り方を伝えていきたいのだ。実際に私がセンター長をしているジョイワークセンターでは、そういう生き方に目覚めた当事者がたくさんいる。

「そんなことを言っても、メンタルの人にそれは過酷じゃないか?」という声もあるだろう。実際にそういう局面がないわけではない。しかし「メンタルだから・・・」という言い訳を背負い続けていくのだろうか。そんな人生の時間は無駄に長すぎると私は思う。

だから、私が担当している当事者については、一切、障害を言い訳にすることを許していない。厳しいと言われようが鬼と言われようが、障害を言い訳にしているうちは、本当の幸せや充実感は得られないのだと思う。本気で働くことのしあわせが分からなければ、自分の殻を捨てることなんてできない。

私が知っている限りにおいて、就労移行支援事業の多くは「教える」「やらせる」ということに重点をおいていて、「考える」ということには重点をおいていないような気がする。そして「軽作業」や「一般事務」の訓練をひたすら続ける機能の施設が多いと思う。

それで幸せになる人もいるのだから悪くないと思う。それが幸せになるならそういう資源を使うことは正しいと思う。しかし、もしも私が当事者になってしまったら、そんな訓練はやらされたくないのだ。他人から言われた仕事を唯々諾々とロボットのように行う仕事はやりたくない。

だから、私は私のような考え方を持っている当事者が幸せになれるような環境を構築している。障害者全体から考えれば、それはとても少ない層かもしれないが、働く意思のある障害者の1%でも需要があれば、私にとっては十分すぎる人数になる。「障害者は障害者らしく○○の仕事でもしていろ」なんて常識はぶちこわしてやりたい。

「できるだけラクな仕事をやりたい」というのは、たぶん「考える仕事の楽しさを知らない」からなんじゃないかと思う。そして「自分の才能と可能性を信じていない」からなんだと思う。試してみることもしないで、自分の可能性を安易に捨ててほしくないと思う。

2011年7月27日水曜日

教えない講座

ちょっとだけ過激なことを書きたくなってきたので書いてみる(笑)。

私は障碍を持っている人向けに「ITコース」の講座をいくつか持っている。
わりと運営者には嫌がられてしまうんだけど、受講者にはっきり言う。

「このコースではパソコンの使い方、Officeの使い方は一切教えません!」

運営者としては「そんなことを言ったら来なくなってしまう」と思うだろう。
それでも、私は最初にこれを受講生に伝えるようにしている。
別にびびらせようなんて思ってはいないんだけど、はっきりと伝える。

「私が伝えるのは、Officeなどを使えるように自己解決する方法です。」

ここで、2つの層に分かれる。

(1) 「なんだ教えてくれないのか」と下を向いたり退室してしまう人
(2) 「自力で解決できるスキルがついたら得じゃないか」と目を輝かせる人

本当に申し訳ないんだけど、私は(1)の人を相手にするつもりがない。
そういう人のために、街角にはたくさんパソコン教室がある。
私自身も「飽和している市場」に乗り出すつもりなんて毛頭ない。

私は「パソコン教室に通いたくない層」を徹底して伸ばしていきたい。
先生に依存せずに自力でなんとか前に伸びていきたい人を伸ばしたい。
これは私が世の中に対して提供できる価値でありサービスの差別化だ。
誰でもできることは他の誰かがやればいいんだから。

たしかに受講生の半分は来なくなってしまうかもしれない。
だけど、私は本気で前進しようと思っている人が伸びてくれればいい。
居眠りをしていても「頭数」が稼げればいいだなんて思っていない。

本気でパフォーマンスを上げるには、それくらいの覚悟が必要だと思う。

2011年7月19日火曜日

通過点

先月の15日に新しい命が産まれた。このブログを書き始めたときは一人きりだった。一人きりのお正月に決心して新しい人生を誓った。自分のすべきことをまっすぐに取り組むことを。

あれから年月は流れた。そして、今、家族がいる。なんとも不思議な気分だ。特に産まれたばかりの娘は、1年前にはこの世界のどこにもいなかった存在だったわけで。

私の少年時代は夢や希望を持って生きることができなかった。環境が特別に悪かったわけでもない。ただ、私が勝手に絶望した日々を送っていただけだった。

しかし、それから20年以上も経ってから「人生の景色」は自分自身で変えられることに気づいた。娘に伝えたいのは「この世界のすばらしさに早く気づこう」っていうこと。

生きている時間、全てが楽しく生きられたらなんてしあわせなことだろう。ただ、私は言葉でそれを伝えることはできないかもしれない。大事なことは言葉で伝わらないことが多い。

たぶん私ができることは、今、生きている私の幸福な人生を見せることだけかもしれない。私ができていないことを誰かに伝えることなんてできない。

さて、これからの人生、より輝かせていこう!

2011年7月6日水曜日

数字の実績としあわせ

現在のところ、まだ、ジョイワークセンターからの卒業生は出ていない。なぜなら、新しい可能性を見つけた人たちが、そのまま徹底的にスキルを磨いているからだ。

一方で他の事業者の支援員さんの中には「どこだっていいんだよ。長く働ける職場に入れれば。」と話す人もいる。これもその通りかも知れない。

実際にこの支援員さんは「数字」としての実績がある。そういう意味では、非常に大切なアドバイスだ。特に「どこでもいいから、入れるところに就職したい。」という人にはいい考え方だと思う。

速効性のある対応は多くの利用者を幸せにするだろう。しかし、自分なりに明確な方向性を持った人に「どこでもいいから入れる会社に入れてしまおう。」というのはどうなんだろうと思う。

失礼なたとえになるかもしれないが、動物園で「決まった時間に確実に食料をもらえりゃ幸せだろう」と言われる動物のような気がする。私が動物だったらそんな動物園の生活はいやだ。

私が考えている就労支援とは、今まで本人すら気づかなかった才能を発掘して、ワンランク上を狙うことだ。「ワンランク上」というとよく誤解されるが、職業の貴賤のことを言っているわけではない。

つまり、「自分の意向とは違うが就職できるところを目指す」という選択肢の上には、「自分自身のスキルを高めて自分の願う仕事があるところを目指す」という選択肢があるのだ。

私はここに徹底的にこだわりたい。「仕事に就く」だけではなく「自分のやりたい仕事に就く」ということだ。実はものすごく厳しいことを私は書いている。そのために必要とされる努力は並大抵ではないからだ。

ネガティブ思考を徹底的に叩きつぶしてポジティブにしていかないといけない。誰かに頼るのではなく自分で自己解決をする姿勢を私は強く要求する。自分の人生を変えるということは、つまりそういうことだ。

「入れそうな人をどんどん企業に入れていく」就労移行支援事業者はたくさんいる。そして日本には、まだまだ働きたくても働けない当事者の数は多い。だから、そういう支援員の方々の存在意義は大きい。

しかし、そういう方々が多いのであれば、なればこそ、私は「自分自身ですら気づかなかった夢を探し出し、その夢を成長させて人生を大きく変える」就労移行支援をしていきたいと真剣に考えている。

本気で生きる当事者が、本気の夢を追いかけて、その夢を成し遂げていく場所を作りたいのだ。「障碍者は仕事にありつけるだけでしあわせ」という構図を崩していかなくてはならないと思っている。

2011年5月22日日曜日

感情との戦い

ジョイワークセンターには、様々なことで困っている方が来てくれている。考えがまとまらなかったり、集中力の維持が難しかったり、人間関係がうまくいかなかったり。そのような事情から自信喪失になったりしていることも珍しくない。

しかし考えてみれば、私もずいぶんと不器用な人生を送ってきているし、ある意味では今でもそうだ。人間関係でもずいぶん苦労をしてきた。つまり失敗の多い人生を歩んでいる。そして未だに人間関係の正解を見つけられずにいる。

特に人間関係で苦労をするのが「発達障碍」と呼ばれる状態を体験している人たちだ。話を聞いていると、主張していることは合理的なことが多い。ただ残念なのは人間関係が合理性だけで動かないということだ。それに人によって合理性の考え方もまちまちだ。

ただ、大筋において、相手の感情を害するための方法は決まっている。次に書いたことをすべて忠実に実行していけば、ほぼ確実に第三者から嫌われることが可能だ。こういうのは逆から考えた方が早い。

 ・一方的な態度であること
 ・何かを相手に強要すること
 ・大きな怒声で当たり散らすこと
 ・相手の欠点をほじくり返すこと
 ・くどくどと弁解をすること
 ・曖昧な返事を続けること
 ・相手の話を聞かないこと
 ・相手を無視すること

逆に言えば、これらをしないようにしておけば、ほぼ大半の人たちの感情を害さないで済むだろう。このあたりのことをしてしまう人は結構多い。実のところ私もそうだ。十分に分かっていても「感情」の発散を求めて嫌われることをしてしまうことがある。

生きている限り感情との戦いは続く。これは自分以外の感情と戦うことだし、自分自身の感情と戦うことだ。誰かからの憎しみや蔑みの感情に耐えることも戦いだし、その結果として自分の中にわき上がる怒りや悲しみの感情に流されないことも戦いだ。

人間関係の選択肢というものは難しい。感情を一切隠して接すれば、自らの感情の起伏が原因でトラブルが発生することは少ないだろうが、逆に本音を見せないことで相手の怒りを買うこともある。何もかも丸く収めようとして、取るべき態度を取らなければ自分の意思に反する流れになることもある。

こういうトリッキーな側面のある人間関係は、発達障碍と診断された人にとっては(いや、実は全ての人に該当すると思う!)実に煩わしいものだと思う。常に同じ対処方法が正しいわけではないのだから。そこで私はとある解決方法を思いついた。

それは人間関係構築のためのルール作りだ。「感情論」より「理論」で人間関係を構築する方法を考えている。「人間の気持ちを論理で解決しようなんてムチャだ」と言われそうだが、もとよりムチャは承知だ。感情論でどうにもならないなら理論しかないではないか。

「発達障碍の人は他人の気持ちが分からない」とよく言われるが、そんなことは誰にだって当たり前なのだ。人間は基本的に他人の気持ちは分からない。分かったような気になるのが精一杯だ。相手を十分に理解したつもりで話していても、案外、相手はその調子に合わせてくれているだけのことだってある。

発達障碍の人は誤解されやすい。ものすごく正論を唱えていても相手の感情を逆撫でしてしまうことが多い。それはなぜなら正論だからだ。正論ほど相手の気持ちを逆なですることはない。そういう意味で、私は「発達障碍」ではなく「正直症」とでも名付けたくなる時がある。

そういう正直症の方々に向かって「相手の気持ちになって」という無理難題を押しつけるよりも、「ハズレもあるかもしれないが、外れにくい人間関係の法則性」を研究して、それを理解してもらった方がいいと思う。

たとえば第三者の経験などから、次のような仮説を立ててみて、それに従ってみると面白いかもしれない。

「太っている人に『太っているね』と言ったとしたら・・・」
 →50%の確率で気分を害するが表面上は平静を保つ
 →30%の確率で不快感をあらわにしてその場で怒り出す
 →20%の確率で冗談を返してくるが気分を害している
 →10%の確率で冗談を返してくる上に気にしていない

◆つまり、太っている人に『太っている』事実を伝えない方がいい。
 →【すなわち体格に関することはあまり触れない方がリスクが少ない】

◆太っていることを相手に伝えても、それは誰の得にもならない。
 →【むしろ相手から嫌われることを考えると、自分にとって損である】

このような推論を「頭で考えて」人間関係を決める方法もあるということだ。「そんなことは頭で考えるまでもないだろう」と思う人もいるかもしれないが、それを苦手としている人が現実にいる。そんな人たちに有効なメソッドを今、考えている。

2011年5月7日土曜日

『可能性』を『戦力』に!

このブログを始めた頃、私には夢があった。もちろん今でも夢はある。
でも、自ら独立しようとした頃、夢は限りなく遠くに見えていた。
あれからあっという間に2年半が過ぎようとしている。

「ラク」

を考えることは、私にとってのライフワークだ。

・楽しさを見つけて仕事をラクにする方法
 →長時間働いていることを忘れるほど楽しい仕事
・人間関係の難しい部分をラクにする方法
 →あえてロジカルな方法で人間関係を読み解く

これらを体得する場を日本に作りたくて、私は今の仕事をしている。
障碍を持った方々に、少し「夢」や「希望」が芽生えた実感がある。

2年半前には遙かに遠かった「夢」の日常に、今、私は生きている。

私自身、生き方が不器用でたくさんの失敗をしてきた。
仕事も要領が悪くていろんな苦労や、人間関係のいざこざも体験した。

決して前向きな生き方でなかったからこそ、私に見える世界がある。
優秀な生き方ではなかったからこそ、私には伝えたいことがある。

そんな想いを語る場をご提供いただいたので、紹介させていただく。

==============================▼引用▼
第1回多摩いきいき就労研究会
「『可能性』を『戦力』に!~弱者ではない生き方を創り出す~」

主催:多摩いきいき就労ネットワーク

 多摩いきいき就労ネットワークは、障がいをもっていきいき働いている方やサポートしている方の生の声を聞く、議論の場を設ける等々、盛り沢山に企画していくため、2011年5月1日に設立いたしました。

 第1回目の企画として、第1回多摩いきいき就労研究会を開催いたします。「『可能性』を『戦力』に!~弱者ではない生き方を創り出す~」をテーマに、松下傑(まつしたすぐる)さんにお越しいただき、お話を伺います。
 松下傑さんは、渋谷区で初の民間就労支援団体「ジョイワークセンター」の立ち上げに参画し、現在は当センターのセンター長としてご活躍をされています。今回は、「ジョイワークセンターでの就労移行支援事業」を丁寧に伺うことで、障がい者の就労支援に役立つものを、参加者全員で考え直していきたいと思います。

 ぜひ、障がい者の支援を日々考えている保護者の方、学校関係者の方、福祉施設の方、企業の方など、あらゆる分野の方のご参加をお待ちしております。また、当事者の方の参加も大歓迎です。ぜひお越しいただき、一緒に支援の方法について考えていきませんか。

■日 時:2011年6月26日(日)13:30~15:45(開場・受付13:15~)

     13:15    開場・受付開始
     13:30-13:50 参加者自己紹介
           (参加者は多い場合には、省略させていただきます)
     13:50-14:30 講演 松下傑(まつしたすぐる)さん
     14:30-14:40 休憩(名刺交換など)
     15:40-15:30 質疑応答・全体討議
     15:30-15:45 参加者のフリートーク

■場 所:東京都立多摩社会教育会館 302研修室
      東京都立川市錦町6-3-1(東京都多摩教育センター内)

http://www.jade.dti.ne.jp/~tamasha/annaizu.htm

■テーマ:「『可能性』を『戦力』に!~弱者ではない生き方を創り出す~」

■講 師:松下傑(まつしたすぐる)さん
     ジョイワークセンター センター長
     大学卒業後、木材加工会社、国立大学、大手プロバイダ等の
     多くの現場を経験。その後、千葉県の就労支援団体にて精神
     障碍者を主にしたIT啓発活動を開始。講師業のかたわらで、
     渋谷区で初の民間就労支援団体「ジョイワークセンター」の
     立ち上げに参画。就労訓練現場運営を担当。

■定 員:40名(定員になり次第締め切ります)

■参加費:1,000円 *当日お支払いください。

★お申込み方法
 以下のURLよりお申し込みください。
  http://kokucheese.com/event/index/10840/

★問い合せ先
 多摩いきいき就労ネットワーク 事務局 前田豊
 e-mail tama.shuro@gmail.com
URL:http://tamashuro.sitemix.jp/
facebook:http://www.facebook.com/tamaikiiki
==============================▲引用▲

ぜひ、私の想いをひとりでも多くの方々にお伝えできれば嬉しい。

2011年4月26日火曜日

ジョイコンサルティングと私

私は組織が嫌いだ。控えめに「苦手」と書こうかと思ったが、やはり正直に書いてみた。なぜなら組織というものは宿命的に組織の価値観を強要するものだからだ。社長がカリスマであればあるほど、残念ながらその傾向は強まる。

社長のポジションがあたかも「神」だったり「教祖」だったりする場合、その下で働くためには、その宗教に入信する他はない。残念ながらそこまで社長が神格化された会社では、その企業の価値観から外れるものは生き残れない。

私は今まで多くの現場を体験した。そして多くの経営者を見てきた。金の亡者のような経営者、誠実さの重要性を説きながら下請けを泣かせていた経営者。多くの経営者の下で私は働き、いつしか経営者に期待することをやめた。

そして、組織に所属することをやめて、私は独立した。私が理想とする空気感のある環境を構築するためには、私自身が環境を構築する立場にならない限り、自らが望む未来はやってこないからだ。

だから、私はこれからも組織を意識しない働き方をしていくだろうと思う。そういうスタイルが私には向いている。現在、私はジョイワークセンターというところで仕事をしている。このセンターの母体はジョイコンサルティング株式会社。つまり「組織」。

私が嫌いだと標榜してやまない「組織」に私がなぜ与しているのかというと、ジョイコンサルティングでは「仕事を邪魔されない」環境がある。「やりたいことが比較的ストレートに反映できる」環境がある。

ここの木村志義社長自ら「生きづらい会社員生活」を体験している。そのためか、「仕事をやりたい人には存分に裁量を与える」というスタイルで会社が運用されている。なんでもやらせてくれる環境はありがたいものだ。

そういう空気が私になじむのかもしれない。もちろん「強烈な管理体制」が何らかの要因で今後生まれるのだとしたら、そこに私の居場所はないかもしれないが、今は私の全力を尽くして貢献したいと思う。

ジョイワークセンターは「今までにない就労支援の場」だと、さまざまな方々から評価をいただいている。実際に会社のような運用でもあり、かなり自由度が高く自主性溢れる環境だ。

これらが実現しているのは、ひとえにジョイコンサルティングの自由度の高さによるものだ。それから、運営に関する役員のご協力も大きい。それから新しいことに果敢に楽しく取り組むメンバーのおかげでもある。

ジョイワークセンターは仕事だけを応援するわけではない。私生活を豊かにするためのものの考え方や、お金の使い方についての勉強会も開いている。「就職したらおしまい」だなんてもったいないと思うからだ。

せっかく貴重な人生の時間を割いているのだから、仕事も含めた人生の楽しみ方も発見できる場になりたいと考えている。メンバーの人生から失われた数年間の「元を取る場」になれたらステキじゃないか。

ちなみに意外と好評なのは、「お金の使い方」のプログラムだ。それで今まで無駄遣いをしていたことを反省したり、将来設計のために貯蓄を始めたり、いつか起業をしたいと考えるメンバーまで生まれる次第だ。

うん。「障害者は無難に生きろ」なんて押しつけなんてつまらない。もっともっといろんなことを知って、もっともっと自由に選択肢を選び取れるようになった方が面白いに違いない。

2011年4月24日日曜日

私は被災地に行かない!

悪夢のようなあの日から1ヶ月以上経った。それでも未だに原発問題、がれきの撤去、避難民の前途など、まだ先の見えない日々が続いている。このような状況の中で、日本人すべてが「自分にできること」を考えているようにみえる。

ジョイワークセンターのメンバーの中にも、ボランティアで被災地に行って何かの役に立ちたいと考えている人がいる。その気持ちはすばらしい。ただ、被災地に向かうとしたら怪我をせずに無事に帰ってきてほしい。

一方で、私は被災地に行かないことにしている。ごく私的なことでできない事情もあるが、それ以上に「自分にできること」を意識しているからでもある。この震災で多くの方々が亡くなった。復興には多くのマンパワーが必要だが、多くの可能性が失われた。

そんな中で、今、私にできることは、一人でも社会の戦力としてカウントされていない人たちにスキルと自信を身につけてもらい、少しでも優位な人材を社会に送り出すことだと思っている。これから日本は長期戦を迎える。

そして、今までは「生産>需要」だった社会が「生産<需要」の状況に突入する。これからは、より生産力を上げる工夫ができる人材が必要とされてくる。「障害者は黙って健常者の敷いたレールの上を走れ」というスタイルだけではいけない。

障害を持った人の中でもいろんな人たちがいる。自分から考えて解決策を考えられる「非・指示待ち人間」はたくさんいる。個性を無視して障害者というくくりで人材を判断すると、社会的ヒューマンリソースを見誤る。

誤解を恐れずに言えば、私がジョイワークセンターのメンバーに言いたいのは、「被災地にボランティアで行っている場合じゃないぞ!」ということだ。もちろん「素人が被災地に行っても役に立たない」なんていうつもりはない。誰だって最初は素人だ。

そういうことではなく、今、慣れない災害復興活動で貢献するよりも、長期にわたる人材不足に備えて「日本のマンパワー」になることに力を注いでほしいと思っているのだ。被災地に行って「なんとなく役に立った気分」になるよりも、将来を見据えた行動を取る方が難しい時期だと思う。

だから私は被災地に行かない。後方支援として日本の経済復興に役立てる行動をとっていく。正直なところ、状況が許せば私だって被災地に行きたい。そこで何かで役に立てれば嬉しいと思う。その誘惑よりも、これからの日本を考えて別の方法で役に立ちたいと思う。

2011年4月15日金曜日

もったいない人材

ジョイワークセンターにはさまざまなメンバーがいる。そしていつか社会で活躍する日々を研鑽しながら過ごしている。運がいいのか多くの才能を秘めた方々に集まってもらえたのだが、実はちょっとした悩みがある。

それぞれのメンバーにいくらかの課題はあるにせよ、基本的に有能な方々が多いのだ。就労移行支援事業でなければ、いつまでも一緒に働きたいと思えるほどだ。しかし残念ながら就労移行支援のために与えられた期限は二年間。

仕事に対する責任感、改善に関する柔軟な思考、何より自分自身でスキルを身につける姿勢。さまざまな点で仕事を一緒にする仲間として大きな魅力がある。何よりも前向きで「希望」に対して一生懸命だ。それがまた心地よいのだ。

ジョイワークセンターではお客様から本物の仕事を受注している。これらについて私はほとんど苦労をしていない。ほとんどの仕事はメンバーの中で完結している。業務を遂行するのみならず、課題点を検討して改善するところまでやってのける。

たとえば私の留守中に、業務速度を改善するためにメンバーによる自主的なミーティングが開催され、そこから導かれた解決策を実行することに適したメンバーを選出。そこから見事なチームプレイであっという間に解決する。

彼らは「得意技の連携で人数以上のパフォーマンスを出す」ことのメリットを自然と体得しているように見える。これまで多くの見学者にお越しいただいたが「まるで会社のようですね」といわれる。全員が「自主的に働くことを楽しんでいる」とも。

そして最も耳にするのは「本当に障碍のある方々なんですか?」と。正直なところ、私にもよく分からない時がある。もっと厳密に説明するならば「障碍者は仕事ができない」という世の中の思い込みが私には分からなくなっている。

もちろんそういう私の感覚が、私の経験を体感していない人たちからどのように見えているかは忘れずに意識しておきたいと思っている。もしかすると「ひいき目」ということかもしれないし、私自身の「環境適応」と見られている可能性も高い。

それでも、私には彼らが役に立つ人材であることに自信がある。いずれ彼らは就職して旅立っていく。ただ私は「彼らの才能を大事にしてくれる企業」のみに彼らの人生を託したいと思っている。障碍者雇用のポイント稼ぎだけの企業には絶対に託せない。

彼らは私にとって大切な仲間だ。貴重な人生の時間を一緒に歩む価値のある仲間だ。そんな大切な仲間、そして仕事においても貴重な戦力だ。これが就労訓練でなかったらどれだけいいかと思うほどだ。それほどの戦力を社会に送り出すのだから、やはり彼らを大切にしてほしい。

彼らがいつか運命の企業に出会え、今、開花しかけている可能性を社会の中で輝かせる日を、私は心待ちにしている。その時に感じるであろう一抹の寂しさを予感しながら。

2011年4月12日火曜日

就労継続支援不要論?

就労継続支援についてよく聞かれる。就労継続支援とは「仕事に行きたくない人をなんとかして仕事に行くように仕向ける」お仕事だ。正直、私は福祉畑からの人間ではないので、なんだかとっても違和感を感じてしまう。

本人は掃除が嫌いなのに「掃除の仕事ならできるから」と、掃除の仕事をむりやり押し当てて、なだめすかしてなんとか仕事を「継続」させるような実話がある。でも、こんなことを無理に続けたところで楽しいわけがない。誰にとっても幸せな流れじゃない。

就労移行支援事業に携わっている私がこんなことを言ってしまってはいけないのかもしれないが、それでもあえて言いたい。「やりたい仕事に就くことは人間の権利」だ。しかし、その一方で「やりたくない仕事を辞めることも人間の権利」だと思っている。

実際のところ、いわゆる「健常者」の中には転職をしながら理想の仕事に近づいている人もいる。ところが障碍を持っている人ということになると状況は一変する。どんなにつまらない仕事でも「次がないんだから」という理由で仕事にしがみつくしかなくなる。

これは二つの意味で不幸だと思う。まず精神的に「次がない」と追い詰められることが不幸だ。そして「仕方なく仕事をする」というスタンス自体も不幸だ。結果的にこのふたつの不幸を同時に体験すると、心と体がやられてしまう。

仕事が楽しくて楽しくて仕方がない。というのは「次を選ぶ選択肢がある」という状態で、自ら選んで「好きな仕事をする」ということだ。誰かに選ばされる限定的な人生に幸せなどない。「自ら仕事をする」という意識そのものが幸せではないか。

このように継続的な仕事人生を生きるために必要なことがふたつある。ひとつは「自分自身を信じて自らスキルを伸ばすこと」だ。この姿勢は「次を選ぶ選択肢」を増やしてくれる。そしてあとひとつは「仕事を楽しんだことのある成功体験」だ。

「自らのスキルを伸ばす姿勢」と「仕事を楽しむ姿勢」は、人生そのものを豊かにする。こういう人には「就労継続支援」そのものが不要だと思う。もちろん仕事をしていれば、イヤなことはあるだろう。これは間違いない。

では、イヤなことがあった時にどうすればいいかといえば、信頼できる人に相談すればいい。元気をなくした心にエネルギーを与えてくれる人と話をすればいい。これが「就労継続支援」と言われればそうとも言える。でも、これはいわゆる「健常者」といわれる人でも同様だ。

つまり、「仕事を楽しむために必要な二つの姿勢」と「ストレスを感じている時に適切な心のケア」があれば仕事は継続していける。前者は就労移行支援事業の中で利用者自らが身につける必要があるし、後者は特別に「就労継続支援」などと呼ぶまでもないと思っている。障碍の有無に関係なく必要なことだからだ。

「理想」と言われてしまえばそれまでだが、私にとって理想的な「就労継続支援」というのは、特別な「就労継続支援」を行わなくてもよいだけの「姿勢」が身についている状態だ。つまり、就職するための準備が終わった時点で勝負はすでについていると考えている。

もし、それでも「就労継続が無理」という状態になってしまったら?

その時には「次を選ぶ選択肢」を信じて、仕切り直すのがいいと私は思う。自己都合退職でかまわない。いったん「就労継続」が難しい事態になれば、当事者はつらいだけだし、企業にとってもメリットが薄いし、支援者は無駄な労力を使うことになるだけだ。

もちろん「ダメになったらすぐに辞めればいいじゃないか」と短絡的に考えているわけではないことは強調しておきたい。ただ、高い就労意識があったとしても「相性」というものは存在する。また、高い就労意識ゆえに上を目指したくなることもあるだろう。

基本的に本人の望みと仕事内容(質・量ともに)が一致していれば、「就労継続支援」は無用なのだ。全ての人には役割があり、輝ける居場所があるのだ。またそれを受け入れると幸せになれる人たちもいることだろうと思う。

そのためにも雇用側は「障碍者は戦力外」と頭から決めつけてはいけないし、当事者も「雇用側にナメられないスキル」を持つ方がいい。お互いにあきらめちゃいけない。がっちりと仕事を楽しむ仲間として手を組めば、きっと面白い仕事ができると思う。

そういう望ましい環境に「就労継続支援」の出る幕はない。

常識はずれの支援?

開設時に比べてジョイワークセンターのメンバーもだいぶ増えてきた。いろんな才能が芽の出る日を待っている今日この頃だ。メンバーの来所を決める面談で、私は常識とはすこし離れている内容を必ず質問する。

「ご趣味はなんですか?」とか「時間が空いている時は何をされていますか?」とか。まるでお見合いのように聞いていく。でも私にとってはとても大切な質問だ。何よりも大切な質問といっても過言ではない。

趣味というのは人間が喜びを求めて行う行為だ。誰からも強制されない自発的な行動を知れば、心の欲求がどこにあるのかを知ることができる。また、趣味の話は心の距離が短くなるのも嬉しい。

たとえば趣味が読書だったとする。すると気になるのはそのジャンルだ。ここで小説、技術書、哲学書、自己啓発書・・・などさまざまな内容に分かれる。これだけでもいろいろなことが分かってくる。

もし小説だとすると、ストーリーを追う能力があると思われるし、情緒的なものに対する興味や感性があると推測できる。技術書であれば論理的な思考に特性があると思われる。哲学書であれば生き方そのものに興味があると考えていい。

この趣味がたとえゲームだったとしても、困惑顔の保護者の方々を置いてきぼりでご本人から趣味の話を聞いていく。それはアクションゲームなのか?ロールプレイングゲームなのか?シミュレーションゲームなのか?・・・細かく聞いていく。

この質問だって無駄ではない。アクションゲームだったとしたら、比較的、条件反射的な素早い機器操作が要求される。ロールプレイングゲームやシミュレーションゲームの場合は少なからず戦略的な思考が要求される。

そしてそもそもゲームができるということは、パソコンを使う仕事ができる可能性が含まれているという事実がある。ゲームというと未だに軽視されがちだが、何よりもゲーム機はコンピュータの一種なのだ。

電車が好きな場合でも才能を細分化できる。写真を撮ることが好きであればクリエイティブな素養がありそうだし、時刻表を読むことが得意であれば論理性が高そうだ。電車の種類をよく知っていれば記憶力の強さが推測できる。

大好きなことは一生モノだ。その大好きな「要素」を仕事に求めることはできる。「趣味」=「仕事」という完全なイコールではないかもしれない。それでも、たとえば「趣味」=「クリエイティブ」=「仕事」という構図はアリなのだ。

これからも私は、未開拓な方々の大好きなモノから才能を掘り出していくつもりだ。

2011年3月30日水曜日

もっと「ラク」しようよ!

私はラクをすることに人生をかけている。このテーマは非常に深いと思う。まずひとつに、ラクをするためには「ラク」の反対側にある「苦労」を知る必要がある。苦労を知らないとラクになったとしても、実際に実感できる効果は限りなく小さい。効果があまりに小さすぎる場合はラクをする工夫自体がロスになる。このあたりは「ラク」のバランスをよく考える必要がある。

私にとって「ラクになる」とは、「面倒くさいことが減る」ということだ。つまり、どんなことも面倒がらない人にとっては「ラク」が存在しない可能性もある。ただ、世の中には効率性という概念がある。たとえば工場で部品を一日あたり50000個作らなきゃいけないとする。たとえ面倒がらない人であっても、ゆっくりとマイペースでやっていたら、必要とされる50000個をこなすことはできない。つまりそこには工夫が必要なのだ。

だから、効率化するのだ。「効率化」というと、すぐに「人間らしさの喪失」やら「大事な何かを忘れている」だのと言って、なんとなくヒューマニズムめいた論調になる人がいるが、そういう人は何も本質が分かっていないと思う。ヒューマニズムを追求するために効率化をするという視点もあるのだから。私には、単に「自分がついて行けない領域にケチをつけているだけ」のようにしか見えない。

私が考えている「ラク」の要素とは、

(1) 何度も不毛なやり直しをしない → 正確でミスが少ない
(2) 極力人間がやらずにすむことはしない → 無駄に疲れない
(3) 迅速に量をこなせるようにする → 生産性の拡大をする

ということだ。

何度も同じことのやり直しをしないためには、一回やったことをきっちりと整理して、二回目はできるだけ考えなくてもいいようにしておくことが大切。できるだけ人間がやらなくてもいい作業は機械にやってもらうのがいい。どれだけ効率化したところで機械が100%できるわけではない。その100%ではない部分、つまり人間にしかできない部分がどうしても残るのだから、それを人間がやればいいと思う。

こういう話をするとよく誤解される。「和菓子とか饅頭の製造を機械化すると、そんなものにぬくもりが感じられない。それでも効率化のためには機械化すべきだというのか?」なんて。いやいや、そんなことは一言も言っていない。人間が作らなきゃぬくもりが感じられない仕事があるとすれば、それはやはり人間がすべき仕事なのだから。ただ、大量の単純計算みたいなものがあったとすれば、そこに必要なのはぬくもりではなく正確さだ。そういう仕事は機械にやってもらった方がいい。

また、「効率化」と一言でくくっても、その意味には広がりがある。たとえば飲食店でいくら料理の生産性が高くても、お客さんが来なかったり、スタッフが頻繁に辞めてしまうような環境だとしたら意味がない。たまに聞く事例で、知的障害者をスタッフとして働いてもらったら、彼自体の作業的な生産性はそれほど高くなくても、お客様が増えたとか、スタッフの結束が高まって離職率が下がったという話がある。

でも、これはこれで「全体の効率が最適化されている」と考えていいはずだ。私が考えている「ラク」の行き先には必ず「人の幸せ」があるべきだと思っている。そして、私のノウハウをお伝えしている方々にも、そういうマインドを持って「ラク」を追求していってもらえれば嬉しいと思っている。普段の生活でも「ラク」になれる工夫はあるし、仕事の道具にしても工夫すればもっと「ラク」になれる。

※ちなみに心がラクになりたい方は「すべらく!」へ↓
すべらく!(http://suberaku.net/)


◆閑話休題◆
そういえば「ラク」といえば、せっかく機械を使いこなしているのに「ラクになっていない人」がいる。パソコンの処理が中途半端に遅いので、少し放っておくと処理が終わっていて時間が無駄になり、人が張り付いているとそれはそれで時間の無駄に思えてしまうケース。そういう場合は手っ取り早くパソコンの高速化を検討してみるのもいいと思う。

最近は便利なパソコンパーツが増えてきたが、その中でも従来のハードディスクを置き換える装置としてSSDがある。いくらかの知識が必要だが、自力で対処 できるか、作業を依頼できる友人や店があるなら、まずハードディスクをSSDに交換することをオススメする。これだけでパソコンは圧倒的にスピードアップ する。ほとんど特効薬といってもいい改善っぷりが期待できる。

それから、64ビット版のOSを使っている人なら少なくともメモリを4GBにするだけでも大きな効果がある。使っているパソコンのスペックが許すなら、さらにそれ以上のメモリを増設すると、さらに効果大だ。

人間が「ラク」をするための機械なのに、その処理の遅さに人間が振り回されるとしたら本末転倒だろう。

2011年3月23日水曜日

非常識なライブ講義

私が企画しているITコースの講義は何でもアリだ。むしろ、世の中に当たり前に存在している内容と同じことをするくらいなら、私は他のことに時間を費やしたい。だから、私は非常識と言われようが、いや、むしろ非常識と呼ばれるコースを企画している。

たとえば、ITコースなのに、具体的なサイト作成の方法は教えない。Excelを使うといっても関数や集計の方法などは教えない。やるとしたら、Excelでプレゼン資料を作って遊んだり、面倒くさいプログラミングをExcelでラクして生成するなんてことをしている。

基本的に「自分で調べて自分で身につけるべし」という姿勢を終始一貫しているからだ。本気で新しいことを覚えようとするなら「誰かに教えてもらおう」なんて思っている時点で失格だ。細々としたことは自力で調べて自己解決すべしだと思うからだ。

「自立のため」といいいながら、手取り足取り教えているところもあるが、個人的にそういうシステムは自立を妨げるだけだと思っている。真の自立とは「頼らずに前進する気持ち」から始まるのだ。自立への近道は「自己解決力」を身につけることに他ならない。

今日は就職サポートセンター「ビルド」でのITコースで全く新しい試みを実施した。その名も「ライブ講義」だ。基本的に私のITコースには筋書きがない。そういう意味では常に「ライブ」と言えなくもないが、今回の試みはそれ以上にライブだ。

実は私の今までの仕事の中で、パワーポイントでアニメーション機能を使う機会がなかった。パワーポイントで資料を作っても、基本的に印刷物配布を前提とするので、そもそもアニメーション機能を使う必要がなかったのだ。だから私にとっては未知の世界。完全なゼロ知識だ。

これを二時間という限られた時間で、ゼロからどのように知識を得て、どのような突破口を見いだし、どのように実用に展開させていくのか。これを実際に受講生に見てもらうことにしたのだ。受講生も私も未知の領域という意味では、ほぼ同じ視点で見えることだろう。

実は前日の時点で、念のために予習をしようかどうか迷った。私だって恥をかきたくないし、そもそも仕事なのだから万全を期したい。しかし、それをしてしまうと「ゼロ知識」ではなくなってしまう。心のどこかでできるだろうと思っていたが、準備を全くしないことへの不安はやっぱりあった。

結果的にはそれなりに有意義な内容になったと思っている。

(1) Google検索でのキーワード選定のコツ
(2) Google検索結果でのリンク先評価のコツ
(3) 検索結果からさらにピンポイントで絞り込むコツ
(4) 参考ページの使い方(完全に読み込まずに途中で遊ぶ)
(5) 遊びから応用的に業務レベルのテクニックに昇華させる

それぞれのポイント詳細は残念ながら企業秘密だ。いや、正直に言おう。ここでそのポイントを書くためには、自分自身のノウハウ自体を再分析する必要があるし、そのために多くの時間を割かざるを得ず、ここには書ききれないというのが実情だ。別に意地悪をしているわけではない。

ただ受講生にとっては大きな刺激になった様子だった。何よりもマジメな性質を持つ彼らにとって、私の「浅いアプローチ」は不思議に感じたかもしれない。「少しでも分からなければすぐに読解を断念して次に行く」という手法。しかしスピードのためには必須テクニックだ。

さらには、参考になるページが見つかっても、そのページの通りには「絶対に進まない」という点も不思議だったかもしれない。しかし、彼らに書いてもらった感想シートを読む限り、私が一番伝えたかった点が間違いなく伝わっていたことが分かり安心した。

「学習」ではなく「遊び」として「楽しみ」に変えてしまい「おもしろい」に変化させるまでの過程が伝わったというのだ。全くその通りで「おもしろい」に変わった瞬間にスキルのほとんどを手に入れたようなものなのだ。あとは「おもしろい」の勢いに身を任せればいい。

私は単純に何かを教えようというつもりは毛頭ない。しかし「おもしろさ」を伝えることには全力を傾けたいと思っている。これこそが私がこの仕事をやっているゆえんだ。小手先のテクニックではどうせ向かった先で詰まる。「本質的な力」=「好奇心」=「自己解決力」こそが重要なのだ。

私の頭の中には次の「非常識」がすでに準備されている。これからが楽しみでならない。

2011年3月2日水曜日

ハイブリッド型な人材

障碍者就労移行支援の現場にいると「条件に合う仕事がない」という悩みをしょっちゅう聞く。スキルはあるのに体調的な兼ね合いでうまくいかないこともあれば、特定の障碍に対して仕事の需要がまったくないということも少なくない。

仕事がみつからない場合、その状況を改善するための単純なアプローチとしては「職域を広げる」という方法がある。一般的すぎる職域であれば競争率の高さからマッチングが難しくなるだろうし、逆にニッチすぎる職域でも採用人数の少なさからマッチングが難しくなる。

だから、一般的すぎず、かつ、ニッチすぎない職域に進出するのがいいということになる。できれば「ちょっと難しそう」とか「ちょっと大変そう」と思われる領域を選んでみるといいんじゃないだろうか。人が躊躇する領域に極上の仕事があるのだから。

それから「器用貧乏」といわれようと、得意分野を複数用意しておくといいんだと思う。人を雇用する上で困るのが仕事の配分だ。どんな仕事でも少なからず波がある。仕事がなくなってしまった人を放置しておけば、働かない人にコストがかかり続けることになるし、そういう人に新しい仕事を作って割り当てることにもコストがかかるのだ。

しかし、たとえば「簿記経験」と「サイト更新経験」を持つ人材が、社員の少ない中小企業に入社したとしたらどうだろうか。普段は会計ソフトを使って経理の仕事をする前提だとしても、この人材には会社にとって大きなメリットがある。

経理の仕事が一段落しているタイミングで、手つかずになっていたサイトを更新してもらえるかもしれない。サイト更新部門のスタッフの退職などでサイトの更新ができなくなってしまった時も、サイト更新のできる人材がいれば急遽活用することができる。

そんなわけで何かメインの専門以外に、何かあとひとつくらいサブスキルを持っていると、いろいろと「使い勝手のいい人材」=「需要のある人材」になれる。営業活動をする人材にしても、何か他に得意分野を持っていれば、いつか仕事に活用できる可能性は高い。

今の時代「コラボレーション」で付加価値がついてくる事例は多い。一見、関係性が薄そうなモノとモノが絡み合って、新しい価値が構築されることも少なくない。個人の場合「興味」とか「趣味」という次元で「人材としての付加価値」がつくといえるだろう。

昔、「趣味をやるなら徹底的にやるべきだ」という訓話をなぜか就職セミナーなどで聞いたことがあるが、まさにこのことだったんだなあと最近思う。趣味とか好奇心を無駄にしちゃいけない。無駄だと思うことに何かのヒントが隠れているのだから。

そんなワケで「このスキルって本当に役に立つの?」と思ったとしても、それが自分にとって楽しいことだったとしたら、大いにやった方がいいと思う。なぜって楽しいと思えることの方が、比較的苦労しないで多くを吸収することができるのだから。

2011年2月1日火曜日

儲かってほしい

気持ち的に丁寧な言葉を使いたい気分なので、今日は丁寧に。

今の仕事柄、福祉関連の方々に関わることが多いのですが、本当にすばらしい方々の多いこと。まさに人生を賭けて活動している人が多いんですね。ある意味でとても豊かな生き方をしていると思うのです。ただ、残念だと思うのは「お金」に対するアレルギーのようなものをたまに感じることです。

私はこのブログでも何度も書いているんですが、福祉関連の方々はもうちょっと「お金」のことを考えた方がいいと思うのです。「無償」とか「ボランティア」という考え方も嫌いではありません。しかし、そこにこだわるあまり、自分たちが生み出すノウハウや情報に関する「価値」にも適正な評価ができていないようにも思うのです。

すると結局、そこからお金に繋げることができなくなっちゃうんです。お金がないからやりたいことを実現するのに、ものすごく時間がかかってしまったりハードルが高くなっちゃう。「拝金主義」というわけではないのですが、やっぱりお金は必要なものです。あえて大上段から構えて書くようなことでもないのですが。

で、こういうコトを書いちゃうと嫌われちゃうのかもしれません。「我々のきれいな世界を汚さないでくれ」と言われてしまったとしたら、私には返す言葉が正直なところありません。なぜなら私は障碍を持つ方々と一丸となって利益を稼ぎたいからです。障碍を持っている人と一緒に利益を出すことのどこが悪いのでしょう?

私にとって「障碍」→「純粋」→「美しい心」→「聖域」などという世界観はありません。そうじゃなくて、障碍があろうがなかろうが、人間としてやりたいことはやりたい。稼げるのなら稼ぎたい。それだけだと思います。そんなことを書くと「障碍者を食い物にしやがって」と言われそうですが、そんなことを言ったら、受験業界だって「受験生を食い物」にしています。

しかし「受験業界」について考えてみると、その業界も本質的には受験生をしあわせにするために存在しています。それが「障碍者」という世界になると急にタブー視する傾向が強くなってしまう。これは逆に大きな課題なんじゃないかと思うのです。私のこういう気質が損を招いてしまうのかもしれませんが、おかしいと思うことはおかしいと言いたい。

そういう意味で、ジョイワークセンターはある意味で健全な状況を保てているように思えます。なぜなら利用者の方々にも「コスト意識」を常々持っていただいているからです。どのような工程によって「お客様からの感謝」=「お金」が入ってくるのか。そして、どのような点に気をつけると稼ぎ出すお金が増えるのか。これを明確に意識していただいています。

ジョイワークセンターでは稼ぎ出した利益の中から「訓練支援金」として、業界では比較的多めの工賃を支給しています。もちろん最終的には就職が目的ですから、あまり多くなりすぎないようには気をつけています。たくさんお金を受け取るのが当たり前になると、逆に就職意欲がなくなってしまう可能性があるからです。でも、できるだけ多くお渡ししたいと思っています。

ただ、このコスト意識は必ず今後の就職に役に立つと思っています。私は「きれい事」をあまり好みません。なのではっきり書きますが、「会社はお金を稼ぐ」ということが最も大事です。どんな清く美しい理想を掲げようが、お金がなくなれば企業としての命運は尽きてしまいます。だから「最初に理想ありき」というよりも、「お金を稼ぐメソッドによりそう理想」が必要なのだと思います。

つまり、会社に就職するということは「お金を一緒に稼ぐために戦う仲間」になるということだと思うのです。だって、会社の中でみんながずっと遊んでいたらどんな社長だって怒りますよね。「ここは遊び場じゃない!」って。そうじゃなくて「一緒に戦う仲間」だからこそ、一緒に何かを真剣にやることが面白いんだと思うんです。

私は「障碍を持っている人が特別に美しい心を持っている」なんて幻想は持っていません。たまたま苦手なことやできないことを持っている仲間に過ぎません。そして私自身も「この業界にいるからには美しい心であれ」なんて特別に思っているわけではありません。「できることを普通にやろうぜ!」ということ。それだけです。

で、最終的に何が言いたいのかっていうと「稼ごう」とか「儲けよう」という気持ちって、誰にとっても自然なことなんじゃないかなってことなんです。それが「福祉」という枠組みの中に入ると「清貧こそ人間の本質だ」みたいな感じで価値観が標準化されちゃう。それって本当に関わる当事者が願っていることなんだろうか・・・って私は思っちゃうんです。

2011年1月23日日曜日

漢方薬のように

私と一緒に過ごしてきた方々の成長がすごい。気がつくと私が関知していること以上のことができるようになっている。私の願い通りに進化しているようで嬉しい。

なぜなら私の本質的な願いは「私がいなくてもスキルアップしていけること」だからだ。そのため私の講義では一貫して「自己解決力」の向上にこだわっている。

そういう環境下において、突出した才能を発揮する人を見いだしているのだが、よくこんな質問を受ける。「ここまでずいぶん苦労されたんでしょう?」と。

私としては「いえ、それが全然苦労していないんですよ」と答えるしかない。実際に苦労していないのだから。どちらかというと受講生の方々の努力の賜物だ。

私のやることは、わき上がってきた疑問を整理したり、それを自分で解決するためのものの考え方を伝えること。それから、できるようになった事実を認めて、高いモチベーションを持続してもらうこと。これだけだ。

私の力だけで受講生を引っ張り上げる・・・ということなら、とてつもない苦労を強いられるだろうと思う。しかし、実際のところは受講生が持っているエネルギーによって「自発的に」動いていただいているだけなのだ。

西洋の医薬品が化学作用で状況を好転させるのに対し、漢方薬は人体がもともと持っている抵抗力を増進させることで状況を好転させる。そういう意味で、私は「漢方薬」でありたいと思っている。

正直なところ、私のもとでめざましい進化を遂げた方々は、もともと「そうなるべき人だった」だけなんだと思う。ただ、「障碍」とか「あきらめ」とか「環境」によって見えなかっただけなのかもしれない。

いずれにせよ、私は漢方薬として、これからも「埋もれた輝き」を発掘する仕事を楽しんでいくつもりだ。

2011年1月4日火曜日

2011年、無理を砕く!

私が考えている「障碍を持つITスキルなき層」に「ITスキルを実装する」という夢は「時間がかかるし無理だろう」と言われたことだ。無理だ無理だと言われるほど私は燃える。誰もが無理だと思うことは、誰もができると思えることよりも価値がある。誰もができるのなら上手にできる誰かがやればいいのだから。そういう仕事ができるようになった去年は充実した年だった。

私は今、代々木のジョイコンサルティング株式会社において、障碍者の就労移行支援センター「ジョイワークセンター」の運営に携わっている。私も含んだ多くの夢の結晶として去年の10月から稼働しているセンターで、日に日に利用希望者が増えている。私はこのセンターを通して「夢を持った働き方」を経験して欲しいし、そこから巣立つ人材には社会の夢を作ってもらいたい。

「そんなこと無理だ、障碍のない人でも難しいのにデタラメもほどほどにしろ!」とお叱りを受けそうだが、この点において私はド真剣だ。「障碍者なんだから就職できるだけでもラッキーだと思わないと」などと妥協したくない。夢を持って仕事をする権利は誰にだってある。障碍を持っていたら夢を持って働いてはいけないとは誰が決めたのか?

これは私の個人的な思い入れだが、「ジョイワークセンター」という名称は、単に「ジョイコンサルティング株式会社」から「ジョイ」の文字をもらっただけではない。「Joy=喜び」「Work=働く」「Center=中心」。まさに「喜びを働きの中心に」という願いがこもっている。決してワーカホリックを推奨するわけではないが、やはり仕事は楽しい方がいい。

就労移行支援というのは表面的には「就職がゴール地点」だ。しかし、所詮は「表面的なゴール」に過ぎない。実際のところ「就職はスタート地点」にすぎないし、さらに言えば「人生の経過点」にしか過ぎない。地点の位置はともかくとして、長く働いていくためには「楽しい」または「心地よい」と思えることが非常に重要だと思う。

私は「仕事を趣味にするくらい」に仕事を好きになれるという体験をしてほしいと思っている。もちろん強制ではない。しかし、それくらいに仕事が面白くなったら「サザエさん症候群」なんてものは世の中から消える。土日を過ごしていると平日が待ち遠しくなる。そんな人生の一時期があってもいいんじゃないだろうか。

仕事が好きになるというのは、ある意味で才能だ。どんな仕事についてもやはり「イヤなこと」もあったりする。しかしそれを上回る「喜び」を感じることができるのなら、その仕事は続けていける。そういうマインドで仕事ができるのならば、もはや就労を継続させるための支援に頼らなくてもよくなる。私はそういうマインドをこそ獲得して欲しいと思う。

もちろん仕事だから厳しい状況もストレスも体験するはずだ。なぜなら当然ながら納期もあるし、品質によってはイヤになるほどのやり直しもある。それでも好きな仕事というのが天職なんだと思う。そしてその天職を見つけたり、逆に天職を自ら作り出すのもひとつの才能と言ってもいい。

これからジョイワークセンターを巣立とうとしている方々が、最終的にどのような道を選ぶかは分からない。しかし、人生の中で「きつかったけど、楽しいと思える仕事を体験した」と思えること自体が大きな財産だと思う。本気で自分で考えて、本気で仕事を楽しんだという「自信」や「実績」はウソをつかない。場所は違えども「仕事を楽しむスキル」は活きると信じている。

ちなみに、ジョイワークセンターはいろんな連携を積極的にしていく。一般企業とも、福祉施設とも、そして同業者とも。私はジョイワークセンターの可能性に自信を持っている。と、同時に、ジョイワークセンターだけではすべてのパーソナリティにご満足いただけないという自覚もあるからだ。

ジョイワークセンターでは、個人個人がなるべくマニュアルに依存しない方向性を推し進めている。むしろマニュアルの本質を掴んだ上で、マニュアルの改善ができる方向性を指向している。これはものすごく忍耐力がいるし時間もかかる。しかし、個人個人の発想を社会に活かすための創造性と自己解決力を最大の柱にしている。

一方、マニュアル通りの作業を厳しくたたき込んで、立派な社会人を形成する方法論もある。個人的には、これはこれで大きな価値があると思っている。いわゆる昔の「戸塚ヨットスクール」方式だ。おそらくこの方式でなければうまくいかない人もたくさんいるだろうと思う。だからその価値を最大限に認めた上で、ジョイワークセンターとしては別の路線を歩みたいと思っている。

個人個人の個性が違うことを認めるのと同じレベルで、支援するさまざまな団体のポリシーの違いも認めて讃え合える関係がいいと思っている。ジョイワークセンターはジョイワークセンターの色でやっていく。しかし、横の連携を密にすることでお互いの特色を補完しあう関係になれる。つまり障碍を持つ人が就職を考えたときに、広い選択肢を持つことができるようになるのだ。

ジョイワークセンターは今年もガンガン飛ばしていくつもりだ。そして、あえて誤解を恐れずに書きたい。「障碍者マーケット」自体の発展の一部となることを。もはやタブーではなく「受験生マーケット」や「育児マーケット」と同列に普通に語られるようになることを。そして、次のフェーズでは「障碍者」という区分で語られなくなる日を目指したい。

今は、障碍を持っている人のスペックを社会にアピールするフェーズだと思っている。これが浸透しないと、人材の本質的価値が社会に伝わらない。しかし、そのフェーズが十分な形で社会に広まったら、すでに「障碍」区分は関係なくなる。どんな人でも本質的な能力によって適正な社会貢献ができるようになるだろう。

これからそんな世の中を作るつもりだ。どうぞご期待いただきたい!

参考:ジョイワークセンター