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2012年2月29日水曜日

効率化と優しさの両立


私は効率化が好きだ。なぜなら「誰にでも公平に流れているはずの有限の時間」の密度が変わるからだ。今の時代、時間の使い方の上手い人が強いのだ。今の時代に限ったことではないかもしれないが、少なくともその傾向が顕著であることは間違いない。

仕事の書類を飛脚に運んでもらうのか、電子メールで送るのと、どちらが有利なのか・・・という比較はもはや必要ないだろう。「昔はのどかでよかった」という議論には賛成だが、残念ながら今はそういう時代ではない。その時代の善し悪しはともかくとして、今、時代の流れにそぐわない選択をすると、結果的に自分だけが取り残されることになってしまう。

すこし脱線してしまったが、私が「効率化」を推し進めたい仕事の領域は非常にセンシティブな分野だ。メンタルで困っている方々が職業に就くにあたって、いかに行動の効率性を高めて余計に疲れないようにするか・・・という点が重要になる。

ただ、効率性を極限にまで高めてしまうと、深く集中するためにコミュニケーションの頻度が激減してしまう傾向がある。たとえば「気軽に声をかける」ということが難しい環境になりやすい。なぜなら効率性を最優先する場合、「割り込み」の要素をいかに減らしていくかということが重要になるからだ。

「効率化」を徹底していない状態においては、声をかけられたらすぐに仕事を中断して、呼ばれたところに気軽に移動していた。そこでは仕事の進め方についての相談を受けるわけだが、仕事の話だけではなくそのまま雑談になってしまうこともあった。しかし、その結果として利用者のモチベーションが高まることも少なくなかった。

現在、メンタルな現場で仕事の効率性を高める実験的な試み(ToodledoとTogglというツールを使った作業ベンチマーク)をしているが、反応は芳しくないようだ。むしろ、利用者がストレスをためているようにすら見える。「効率化」に対する考え方のベクトルがある程度同じ方向を向いていない人にとっては、単に「つらい環境」になってしまうだろう。

効率化の究極形は「集中力を途切れさせない時間」と、「コミュニケーションの時間」を分離してまとめてしまうことなのかもしれない。つまり「相談窓口受付時間」を決めておいて、指定した時間に待ち行列を作ってもらうというやり方だ。しかし、コミュニケーションの敷居は一気に高くなってしまう。

そこで、今一度、私がやっている仕事のあり方を見直してみた。私が怠ってはならないポイントは「利用者の不安」に対して「迅速に気づき」「必要なメンタルケアをする」ということであり、私ひとりの効率を高めるということではない。「効率化」を求めるあまり、メンタルケアを怠ることになれば、それは結果的に「私の仕事の品質が低下した」ということになる。

つまり、単純にコミュニケーション密度を下げた「効率化」は、逆に私の仕事の品質を損なう恐れがある。しかし、私はこれくらいのことで「効率化」をあきらめてはいない。「間断なく割込みが入る」という環境を受容した上で、その前提でいかに必要な業務が進捗していくか・・・という運用を含めた環境構築が必要になるのだと思う。

具体的な方向性としては、

 ・タスクの単位を最小単位まで細分化する【細かい割込を前提とする】
 ・タスクの進捗を一目で把握できる表現を身につける【本線への復帰速度】
 ・作業の切り分けと委譲をしやすい環境を構築する【本質的な負荷分散】

ということだと思っている。

ただ、そうはいっても、私がいくつかの小さい企業で目にした「効率化に目覚めた社長」がやらかす失敗を再現しないようにしたいとも思う。たとえば「12分毎に作業ログを取る」とか「相談受付窓口時間を設ける」などのルールを、いきなり社員全体に徹底させようとすることだ。

個人的にこれらの方法論は正しいと思っている。実際に私自身も業務ログを詳細に取っているし、極力、無意味な会話に時間をかけるようなことはしたくない。集中力の凝縮と解放のタイミングはまとめてしまいたいと考えているので、集中力がいらない時間帯にまとめてコミュニケーションしてしまいたいという気持ちもある。

しかし、これらは効率化に対する価値観が合致してこその効果だ。作業ログを取る行為も、「そのログを『自分の視点』で分析する」というモチベーションがあって初めて機能するものだ。作業ログをを第三者による監視と指導のために運用しようとすれば、当然、虚偽の報告も発生するかもしれない。そもそも改善意欲よりも反発心が表に立ってしまうだろう。

効率化はあくまでも「全体効率」を考える必要がある。誰か一人だけが徹底して仕事が早くても、組織としての強さにはならない。ある点において「部分効率」が全体の品質を高めたとしても、その人材がいなくなれば、組織としてのポテンシャルは急激に低下してしまう。このこと自体も大きなリスク要因だ。

そのためには焦って効率化を急進的に進めるよりも、「幸せの同意事項」のような形で、緩やかで薄くても、少しずつ「効率化」=「しあわせ」という価値観を組織に浸透させる必要があるのだと思う。GTDなどの技術的な方法論は私にとって魅力的であることは変わらないし、今後も極めていきたいと思っている。

しかし、私は「メンタルの現場」というセンシティブな領域において、無駄なストレスを利用者にかけることなく、「幸せな効率化」を追求してみたいと思っている。これが私が未来に構築したい「メンタルユニバーサル環境」だ。さあ、明日もそんな「しあわせ」を追いかけてみたいと思う。さあ、明日は何するか!

2012年2月22日水曜日

これって私に向いてますか?


私はメンタルで実務経験の少ない方々と一緒に仕事をしている。一応は「支援」という形式ではあるが、彼らの潜在能力、そして実際に見せる高いスキルとモチベーションには目を見張るものがあるし、私は彼らと一緒に働けることを心から感謝している。数年前、この仕事を始めた頃の予測を遥かに超えているといっていい。

私は彼らとずっといつまででも仕事をしていたいと切に願っている。「彼らの才能を無駄遣いする企業には入社させたくない」と本気で思うほどに、私は彼らの将来性を信じている。彼らの今後の現実については、私にとって大きな課題でもあるし、いくつかの未来図を頭の中に描いている。

しかし、今回のエントリに書きたいことは逆のことだ。私が構築した環境で新しい才能が開花した人もいるが、その一方で大勢の利用者をがっかりさせてしまった事実から目を背けることはできない。そして今後もその比率を大幅に変えることは難しいかもしれない。

なぜなら、私が指し示しているITという領域は「狭い道」であり、さらに「簡単ではないこと」だからだ。もっと正確に表現するならば、【心の底からわき上がるほどの興味がなければ】「簡単ではないこと」ということになるだろうか。逆にいうと「あまり興味がなければ無理」という現実がある。

つまり、最終的にはその人の本質的な才能に依存しているのだ。「ちょっとITが気になって・・・」という入り口から「おもしろい」にいくのか「わからなくて怖い」にいくのか・・・それは残念ながら本人の資質に関わってくる。これは「頭の良さ」という次元とは別の話だ。

たとえば、私にはミュージカルを楽しむという習慣はないし、美術館で芸術鑑賞をするという趣味もない。興味のベクトルがそこに向いていないのだから仕方がない。おそらく「努力」すれば、いくつかのミュージカルや絵画の概要を覚えることはできるだろう。

それでも、心からそれらを愛している人ほどに熱のこもった解説はできない。ましてや私はそれを仕事にする意思もない。だから私にはミュージカル関連の仕事や、芸術関連の仕事は向いていないのだ。そもそも興味のないミュージカルや芸術鑑賞に時間をかけること自体が苦痛なのだから。

私が考える「向いている」といえる条件は、たった2つ。

・第三者から見れば「努力」しているように見える
・本人からすれば「遊び」の延長上にすぎない

これなら無理に集中力を注ぎこむ必要はない。その集中力は強制されたものではなく、映画や小説を読みふけるのと同じ「快」に属する集中力だからだ。それにもかかわらず第三者から見れば「努力に余念がない」ように見えてしまうのは、その集中力がもたらす結果が実用的だからだろう。

よく利用者の方から「私はITに向いているでしょうか?」と聞かれることがある。意地悪のつもりではないのだが、つい、こう言いたくなってしまう。「向いているかどうかを気にして、他人に適性を聞いているうちは向いていないんじゃないでしょうか?」と。

よく、「『小説家になりたいといっているだけの人』は小説家になれない。本当に小説家になる人は『もう書き始めている人』だ。」という話を耳にするが、まさにその通りだろう。ITに向いている人は「向いているかどうか」なんて気にする暇がない。そんなことで悩む暇があったらPCに向かって何かをするだろう。

そして、たまに「体系的な勉強をしてから挑戦したいです」という人にもお目にかかることがあるが、たぶん、それもやめた方がいい。本当に向いている人は「勉強」なんてしないのだから。

詳細な説明はまた別の機会にしたい。

2012年2月16日木曜日

障害分析マニア


今となっては「なんだかなあ」なのだけれど、数年前の私は「障害特性」という言葉に惹かれていた。「障害特性」にあわせた対処法を数値化なり見える化なりして、その結果を計測すれば理論体系を確立できるのではないかと思っていた。

正直なところ、今の私は障害特性という言葉に何も感じない。統合失調症だろうが、発達障害だろうが、障害分類名に興味はないし、それによって扱いを大きく変えることもない。単に「本気でやりたいか、やりたくないか」の軸だけで区別をしている。

ただし、「ずっと他人に依存しようとする人」や「言い訳をする人」には、そっと「さよなら」している。それは「自己解決型自立」ができる見込みがないからだ。「できる人だけを集めているのだから、できることは当たり前じゃないか」といわれても私はかまわない。

逆に「『できる人ができない人として扱われている現実』を打開して何が悪いのか」と逆に問いたい。逆に「やる気のある人」を「やる気のない人」と同列に、ある意味で「公平」に扱おうとすることは、著しい「不公平」だと私は思う。

まずは「モチベーションが高い人」が社会参加を果たせる環境を整備することが先決で、その結果、「モチベーションが高いのに社会で活躍できない人」が世の中から消えてしまったら、その時にはじめて「モチベーションがゼロの人」の炎を燃やす方法を考えればいいのだと思う。

それまでは、冷たい人間だと思われる覚悟の上で、はっきり態度を決めている。モチベーションの低い人を押し上げる努力はしない。依存心にもたれかかっている人に手をさしのべたりしない。その代わり、頼りなくても一歩踏み出そうとしている人にはトコトン付き合いたい。

2012年2月3日金曜日

言い訳できない環境

繰り返しになってしまうが、私がやっている仕事は障害者の就労移行支援関連の仕事だが、ただ単に就職できればどうでもいいというものではない。「状況に流されるのではなく」「自分の意思で生きていく」スタイルを身につけてもらいたいと思っている。

そして、その過程で当事者の方々には「障害者であること」を捨ててもらいたいと思っている。もちろん「障害者手帳を便利に使っていく」ことには賛成だ。国で保全された制度を使う権利を有しているからだ。便利な制度は使っていくべきだ。

しかし、心で負けちゃいけない部分はあると思う。それは「自分が障害を持っているから○○できない」と、障害を理由にあきらめてしまうことだ。そういう点については「障害者であること」を忘れてほしいと思うのだ。

私が一年あまりをかけて代々木に構築してきた環境では、一切、障害についての愚痴がでてこない。出てきたとしても、それはシリアスなものではなく、笑い話に変えてしまうような領域の話だ。そもそもが私自身、彼らを障害者だとは思っていない。

いや、これはいささか乱暴なので、もうすこし適切に表現すると、「彼らが障害者認定を受けている」ことは事実として認識している。しかし「彼らにとって仕事における『障害』は一切ない」という認識も、私は事実として受け取っている。

もちろん、常識の範囲を越えた過大な負担を彼らに課すことはないが、忍耐力が試されるシチュエーションは体験してもらっている。一生懸命やったことでも、方向性が違っていればはっきりとそのことを本人達に伝える。なぜならそれは彼らが認識すべき「クオリティ」だからだ。

私と当事者の方々が織りなしている仕事環境の空気は穏やかだ。しかし、クオリティについての妥協を許さない空気も同居している。そして、その環境において「自分は障害を持っているから○○ができない」という「言い訳」を私は聞いたことがない。

なぜならそこの仲間ができているからだ。仕事を楽しみながら、自然とそのクオリティを高めている人たちが普通にいる。今、そういう得意な環境は日本の中に少ないかもしれない。しかし、私にとってはそれが当たり前になっている。

いずれ、このような形が日本の「当たり前」になれたらいいと思ってやまない。