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2010年8月24日火曜日

WRAPでストレスフリーな就労環境

WRAPというメソッドがある。アメリカで精神障碍の現場で編み出されたもので、「元気回復行動プラン」とも呼ばれている。ITエンジニア的な視点で表現すると「高度に洗練された自己回復のための危機管理技法」といえそうだ。

端的に表現してしまうと語弊があるかもしれないが、「自分自身の攻略本」を自分で作るスキルという感じだ。誰でも持っている「ダークな自分」をどうやってやっつけるか・・・ということを「あらかじめ考えておく」ということが大きなポイントだ。

私自身を例にとって考えてみる。スペースと時間の制約上、それぞれの例を2点に絞って紹介したい。

(1)良い状態の時の自分【自分にとっての標準状態を知る】
 →すべてのことが「うまくいく」ような気分になる。
 →関わるすべての人に感謝できるようになっている。

(2)毎日するといいこと【いい状態になれる行動を知る】
 →少なくとも5時間以上は睡眠を取ること。
 →ポジティブな話題で明るく誰かと盛り上がる。

(3)気分が悪くなる引き金【状態が悪くなるきっかけを知る】
 →「常識」を旗印にして頭ごなしに否定されること。
 →選択の自由がなく強要されていると感じたとき。

(4)引き金による注意サイン【危機発生の兆しを知る】
 →注意が特定のことに偏ってしまい視野が狭くなる。
 →脳内の血流が高まり「めまい」に近い感覚がある。

(5)調子が悪くなっているサイン【危機発生後の状況検知】
 →引き金となったシーンを何度も思い出してしまう。
 →他の人たちも自分から離れていくような被害妄想を抱く。

(6)第三者に「普段の自分」を伝える【通常ステータスの通知】
 →あまり感情的にならないか、ポジティブな感情を示す。
 →できうる限りすべてのことをポジティブにとらえようとする。

(6)第三者に「異変後の自分」を伝える【異常ステータスの通知】
 →会話中は声のトーンが大きく高くなり表情が引きつってくる
 →会話しない時は表情が無表情に近くなり極端に無口になる

(7)第三者に「してほしいこと」を伝える【異常対処方法の通知】
 →「ちょっと休憩にしませんか?」とインターバルをいれてもらう。
 →「意見を強要しているわけでない」という意図を伝えてもらう。

(8)必要な投薬や主治医に関する情報【危機管理情報の通知】
 ★私は投薬も通院もしていないので例示できない
 望む処置方法や病院などを通知可能。
 逆に望まない処置方法や病院なども通知可能。

WRAPについてはまだまだ研究中のため、解釈が正しくない可能性もある。それでも「第三者を意識した危機管理マニュアル」になっている点は非常に興味深い。特に自分が制御不能になった時のシミュレーションは有効だろう。

今のところ、一般的な職場でWRAPを取り入れている例をあまり知らないが、障碍の有無に関わらず積極的に就労環境に取り入れていけば、何かしらの変化が見られるようになると考えている。

なお、今回のエントリーを書くにあたっては、千葉「らっぴん」で入手させていただいた、「元気回復行動プラン WRAP」(道具箱・刊)という赤い本を参考にした。

※一般書店で販売されていないので、ここから注文するとよいだろう。

この赤い本だけでも十分にWRAPの魅力を知ることができるが、本当に実践しようと思ったらWRAPのイベントに参加するのがいいかもしれない。私もいずれ参加するつもりだ。

このメソッドが企業活動にどのようなメリットを与えるのか。興味は尽きない。

2010年8月20日金曜日

甘く見ない

障碍のある人たちを対象にITコースを開講している。しかし、「パソコンを教えてやってくれよ」とか「パソコンの先生でしょ?」といわれると心底ガッカリする。そのたびに私は頑なに訂正している。私はパソコンの先生などではない。パソコンの先生は街を探せば掃いて捨てるほどいる。

パソコンは使えて当たり前だ。そして習うものでもない。というよりも「習ってなんとかしよう」なんていうのは間違っていると思う。そう書いてしまうと、また誤解されて不要な溝が深まってしまうので、もうちょっと丁寧に書く。

パソコンというのは「自力でよりよく使いたい」という意欲がなければ使いこなすことなどできない。つまり技術というよりも、それ以上に「パソコンを使いたい」という想いが必要なのだ。だから、「パソコンを教える」のではなく「パソコンを使って広がる可能性を伝える」ということが正しいのだと私は思う。

使いこなす人は「誰かに教えてもらおう」なんて思わない。思ったとしても、その前提として自分でいろいろと情報を集めて、自分なりにバリエーションを増やしていっているはずだ。「先生に教えてもらおう」なんて頼る癖がつけば、先生がいなくなったら成長が止まってしまう可能性は高い。

私もいろいろなエンジニアに出会ってきたが、「技術を教えてもらった」というエンジニアにはお目にかかったことがない。たいていは自分で地道に身につけてきたか、現場で技術習得を余儀なくされて死ぬ気で習得した人がほとんどだ。要するにそれなりのスキルを身につけるためには自分自身の意欲が必要だ。

だから実は「教えてほしい」と思っている時点で負けだ。だから私の即戦力ITコースでは「好奇心」「探求心」「遊び心」を大事にしてきた。残念ながらそれがない人や「やらされ感」がある人にとってはあまり役に立たない。だから私のコースは厳しいことで悪評が立つこともあるし、それなりに嫌われたりもした。

しかし、私がそうするには理由がある。たしかに障碍による体力的・精神的なハードルは認める。しかし、障碍のない人が乗り越えるところはできる限りチャレンジしてほしいし、障碍をいいわけにしないで這い上がってほしいのだ。「障碍」を理由にしてあきらめることは簡単だ。

この境界線はものすごく難しい。「本当に無理」という境界線もあるからだ。だから、私にはその境界線を知るための判断基準がある。それはただひとつ。「楽しそうかどうか」という点。楽しくなさそうなら「楽しさ」を見つけることが何よりも先にすべきことだと思う。楽しくなくて何が身につくというのだろう。

自分ですすんで「新しい何かを調べる」というところまで行かなければ本物にならない。「パソコン教室」だとか「パソコンの先生」は日本中にいる。しかし、そのほとんどは「ここをクリックして、ここをクリックして・・・」という教え方だろう。私はそういうことはしたくない。私が伝えたいのは、「なぜそこをクリックして、どうして次にここをクリックするべきなのか?」という、自分自身で考える力だ。

そういうことをいうと、どこからともなく必ずあがる言葉がある。
「そんなことを言っても相手は障碍者ですよ。レベルとか現実とかそういうのをもっと考えてくださいよ!」と。
・・・フザケンナ!

私はそういう意見から真っ正面から対決したい。実際に投薬によってだいぶ状況がよくなっている人もいる。そういう人も全部ひっくるめて「そうはいっても障碍者だから無理でしょう」と言われてしまうと、心の奥底から怒りがわき上がるのだ。なぜ、未知の世界にチャレンジすることを第三者から「抑制」されなくてはならないのか。

比較的ごく少数ではあるものの、支援者を見ていると当事者のことを「幼稚園児」のように目下扱いしているフシが見え隠れする人もいる。

そもそも「障碍者だから無理でしょう」とは何様のつもりか。障碍者の側に立ったつもりで当事者の将来の選択肢を除去する輩もいる。無難な支援者はどうしても無難な人生にしか導けない。当事者にせよ支援者にせよ、リスクを取ってこそたどり着けるゴールが見えてくるケースもあるのではないか。

たまたま障碍のない人だってそうだ。「無難な人生を過ごしたい」という人もいる。逆に「リスクを取ってでも楽しい人生を過ごしたい」という人もいる。しかし、障碍があるとなると一様に「障碍があるんだから無難な人生を過ごせばいい」という論調になるように思えてならない。でもそれは違うだろう。

彼らの生き方とか望みは最大限活かされるべきだ。私は彼らの「野心」をどうやって現実のものにするのか。そこを考えている。人が生きるということは必死で願いを追いかけ続けることなのだと思う。たまたま障碍をもっただけで、その権利を第三者から剥奪されていいものではない。

私はある程度、「望み」とか「夢」とか「野心」を持った当事者の夢を叶える仕事がしたい。「なんとなく人並みでいいです」とか「仕事ならなんでもいいです。」という人には、受け入れてくれる支援組織がいくらでもある。そうでなく「これがしたい!」という強い願いを持つ当事者の夢を一緒に追いかけたいのだ。私は彼らを甘く見ていない。

そこまで可能性を信じなくて、何ができるというのか。

そんな気持ちを胸に、私はITの「おもしろさ」を伝える講義を続けている。私は「パソコンの先生」ではなく、「好奇心の育て方」を伝えている人間だ。それに「先生」と呼ばれるほど偉くもない。だから何度も書きたい。私のことを「パソコンの先生」だなんて呼ばないでほしい。

2010年8月7日土曜日

いいこいいこ・・・できない

精神の障碍のある人の就職サポートの現場にいるが、その中ではなんともスッキリしないこともある。

精神的に上がり調子にならない人を応援して調子を上げていく。このこと自体は問題はない。ただ、それが行き過ぎた時に、本人の人生がどうなるのだろうかと心配になることがある。

たとえば、履歴書や職歴報告書を全部書いてあげたり、企業とのやりとりをすべて福祉スタッフが本人の肩代わりをすること。これらは就職支援の場では日常茶飯事だ。「いいこいいこ」しながら、なんとかなだめすかして就職させている状況も多く見てきた。

でも、私の気持ちは少し違う。どこまでも「肩代わり」ではなく「支援」であるべきなんじゃないかと思うのだ。過保護な親が大学の卒業式にまでついていく・・・と、そんなイメージが頭をよぎってしまう。

たまに私がIT系の作品作りをサポートすることもあったが、まるで私が就職試験を受けるような気分になったものだ。

そしてそこから葛藤が始まるのだ。「彼が無事に就職できたとして、その後、ちゃんとひとりでやっていけるだろうか?」と。いくらフォローするといっても24時間体制で食いつくわけにはいかない。仮に納期が遅れそうだからといって、私が彼の仕事に張り付くこともできないのだ。

私の「即戦力ITコース」では、比較的厳しい姿勢をとっている。いや、実際のところ、「厳しい姿勢をとろうとしている」が正しいかもしれない。もちろん、病気は病気として認めたい。

しかし、私は「病気」を認めるギリギリ端っこの部分に位置していたいと考えている。「『病気』をいいわけにしない」ギリギリのところで、いろんなことを楽しみながら身につけてほしいのだ。

自分自身についてもそうなのだが、高いモチベーションを維持していくためには、自分でできたことに対して適正な評価をしていく必要がある。

だから、受講生が自力で何かを成し遂げた時には、そのすばらしさを言葉で本人に伝えるようにしている。もちろん私だってうれしいのだから。

しかし、そこからが難しいところだ。

人によってはそのレベルで満足してしまい、先に進もうとしなくなってしまうことがある。もちろん、「昨日の自分にできなかったことができるようになった」ということは、間違いなくすばらしいことだ。

だが、肝心なのは「その先」が必ずあるということだ。挑戦しようとする限り、頂上まで続く道は続いている。それを自覚するだけで姿勢が変わってくると思う。

だから、「いいこいいこ」だけでは、現実的な就職に結びつくところまで行きつくまでに、とても時間がかかってしまう。向かうべき最終的な到達点までの距離を見誤ってしまうからだ。

私が担当しているコースには「甘口」と「辛口」がある。「辛口」は受講生自身の力で這い上がってもらうため、私はそのためのヒントを伝えたり、モチベーションを高くするためのコーチングに専念するゼミ形式だ。

一方、「甘口」は自力で這い上がっていくために必要な練習をする場で、私が全員の前で講義をする形式だ。より自主性が必要とされるのは「辛口」であることは書くまでもない。

しかし、実際には「甘口」の方が受講生から高評価をもらうことが多い。それも、簡単にすればするほど高評価になる傾向がある。正直なところ心中複雑だ。

甘くすれば甘くしただけ、現実的な就職への道が遠のくばかりなのだから。だから「辛口」の受講生にはそれなりのストレスがかかるようにしている。それは「やや高いハードル」だったりもすれば「期待感のプレッシャー」だったりもする。

当たり前のことだが、「お金をもらう」=「プロ」ということだろう。すると「就職してお金をもらう」=「プロになる」ということだ。当然ながらプロにはプロなりの姿勢や考え方が要求される。

たとえば画像修正(レタッチ)であれば、誰が見ても画像修正を施したと分からないレベルにまで仕上げることだ。特に自己満足ではなく客観的に見られるようになることが重要だ。

よく受講生から「これで完璧です」と作品を見せられることがあるが、画像であれば目立つところにノイズがのっていたり、Webページであれば誤字脱字があったりすることがある。このあたりの「詰め」の部分の厳しさを持つことは大事だ。

そういう作品については遠慮なく突き返している。せっかくできるようになってきたのだから、中途半端ではもったいないのだ。できない人には要求しない。できる可能性があるからこそ厳しくする。

よくできたところは最大限に賛辞を送る。しかし、中途半端だと思うところについては遠慮なく辛口コメントを飛ばしている。なぜなら、いずれ「ひとりだち」をしなくてはならないからだ。

自分の人生には自分自身で責任を持つ必要がある。だから、私は本人のためにならないと判断したときは絶対に「いいこいいこ」なんてしない。