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2012年8月21日火曜日

苦手を克服するという常識


基本的に「苦手なことを克服する」ということは大切なことです。しかし、私はそこに社会がこだわりすぎて不幸な局面を作り出しているように思えることが多くあります。精神障害者の就労移行支援事業の仕事に関わるうちに、私にはひとつの仮説が湧き上がってきました。

「苦手なことに時間と労力をかけて『マイナスからゼロに向かって努力する』のではなく『適性のあることに徹底的にフォーカス』した仕事環境があったとしたら、現状の世の中で活躍できない人たちが本気で戦えるのではないか」というものです。どれだけがんばっても、そこが他の人にとっての「スタートライン」というのは虚しいものです。

これは未だに舵切りが難しく正解が見えません。「適性にフォーカスする」ということは、本人と話しながら「なるべく」苦手な領域に踏み込まないようにナビゲーションする必要があるからです。しかし、このことは「本人の新たな可能性」の芽を摘んでしまうリスクもあります。また、「ストレスへの耐性」を弱めてしまうリスクもあります。

それでも、やってみる価値は十分にあると思うのです。もちろん、「適性強化」と「甘やかし」という線引きも明確でなければなりません。ここで私が考える線引きとは、

(1)「苦手なこと」は極力避けて「得意領域」の仕事をしてもらう
(2)「得意領域」の仕事の品質については一切の妥協を許さない

ということです。

つまり、自分がやりたくない仕事からは遠ざける代わりに、そこでの甘えは一切許さないというやり方です。世の中、「適材適所」という言葉を好んで使うわりに、なかなかそれができていないのは「平均点」や「総合点」のスコアを気にしているからだと思うんです。

私はこの「当たり前」を崩せないかと考えています。この世の中で生きづらい人たちを「一方的な価値観で改造する」のではなく、仕事環境側も「自ら歩み寄る」チャレンジが必要だと思うのです。平たく言えば、雇用側の「上から目線」をやめるということです。

私にとって、この考え方は「憐れみ」ではありません。「平均点が高いが全体的に平凡な人材」と、「平均点は低くバランスが悪いがエッジの効いた才能を持つ人材」の活躍領域って、自ずと違ってくるのではないんじゃないか……っていうことなんです。誤解を恐れずにいえば、企業在籍のオリンピック選手に似ています。

オリンピック選手といえども、企業に在籍している以上は仕事をしなければなりません。スポーツで生計を立ててしまうと「アマ」ではなく「プロ」という扱いになってしまうので、主たる生計は労働によって得ている必要があるためです。しかし、企業としては本気で「正規の労働力としての貢献」を期待しているわけではないでしょう。

もちろん、「労働力としてアテにならない」という意味ではありません。そうではなく、そもそも役割が違うのです。あえて極端な例でいえば、業務が切迫した時でも、オリンピック選手に徹夜作業をさせたりはしないでしょう。徹夜作業で体調を崩してしまっては、「企業イメージ向上要員としての貢献」の期待ができなくなってしまいます。

甘やかしに思えてしまうかもしれませんが、電話が苦手な人には無理に電話の仕事をしてもらわない。極端な人見知りの人には知らない人との関係が煩雑な仕事をしてもらわない。身体を使うと体力不足でへたりやすい人には力仕事はしてもらわない。でも、その代わりに一芸で勝負してもらえればいいと思うんです。

精神障害者の就労移行支援という観点では、どうしても「この程度ならできるだろう」、「この程度の仕事もできるんじゃないか?」、「あれができたんならこれもできるんじゃないか」と、ひたすら低めのハードルを多くこなさせてしまう傾向があるように思います。本人が望まないことでも「就職に有利ならなんでも」という形で。

単純に「できることを増やす」という意味においては、私もそれほど否定的でもありません。ただ、私の印象では、もっと一芸を切り開ければ「好きなこと」を仕事にできる可能性を持った人でも、「できること」の裾野に引っかかった就労先を紹介することが多いような気がしてならないのです。もちろん、それも人生の選択肢のひとつです。

ただ、「ここなら簡単に行けそうだから」という理由で、高い専門領域の可能性を切り捨てて、平凡かつ本人がそれほど強く望まない就職を勧めてしまっていいものかとも思うわけです。私自身が抱いている危惧としては、「誰でもできそうな領域で平凡なスキル」の人を多く送り込んでいたら、社会はこう思うかもしれません。

「やっぱり精神障害者って、平凡で、誰でもできる仕事しかないよなあ。」

……と。

そうならないためにも、ちゃんと才能のある人の芽を丁寧に育てていかないといけないし、そういう人に安易な就職先を勧めてはいけないような気がするんです。私は就労移行支援事業周辺の仕事をしていて、「支援員のスキル限界が職業選択の限界」であってはいけないと常々思います。

支援員自らが専門性のない分野に対して対応することは難しいと思います。だからこそ、専門性のあるスキルのある人が、もっと就労移行支援の現場に来た方がいいんです。そして、「上から目線」&「自分の限界」で語らない支援員が必要なんだと思います。

あえて自戒の意味も込めていえば、基本的に支援員って「上から目線」が多いと思います。自分よりも高い才能に敬意を払えない人が多い。「だって就職できてないんでしょ?……ってことは、私よりも能力が低いに違いない」って思ってしまうと、支援員よりも高い能力があったとしても、無駄な能力として切り捨てられるリスクはとても高いのです。

そんな現状をなんとかしたいと私は思っています。そして、もっと専門性のある人が精神障害者の就労移行支援の場に流出してくるといいとも思います。ITだけでなく、財務とか、企画とか、その他多くのプロフェッショナルが。日本の人口が減っているのだから、そういう才能の掘り出しは本気でやらないといけないように私は思います。

現実問題として、これはなかなかハードルが高い話です。就労移行支援事業の使命は少しでも早く就労できていない人が就労できるようにすることです。だから、就労移行支援事業所は社会の流れに沿った形での対応を余儀なくされます。まさか「社会に変革を起こす」という視点でものを語ることは難しいでしょう。

それでも、私はあきらめきれないのです。今の社会がこうであるならば、たとえ困難が予測されるにせよ、その先の未来にくる社会をイメージしないといけないような気がするんです。

2012年8月14日火曜日

Facebookで文章力アップ?


Facebookで、いろいろな文章を拝見していて、たまに「あーあ」と思うことがあります。最近は「ネット上で文章力を鍛えてビジネスに結びつかせましょう」という流れがあって、そういう人たちを応援するサイトでは、しきりに「文章力を鍛えるために毎日ブログやSNSを更新しましょう」と書かれていたりします。

……ええ?……マジですか!?

私自身、文章力に自信がある人間ではないので、いささか書きづらい内容ではあるんですけど、「毎日文章を書くということだけに力点を置いてしまっていいのかなあ」と思うことがあるんです。確かに毎日文章を書いていれば、必然的に文章作成の速度や構成力などがスキルアップする可能性が高いと思います。

ただ、最近、「日課を目標にしすぎているんじゃないかなあ?」としか思えない文章を読む機会が増えたような気がします。「とにかく毎日書く」というノルマ臭が漂う文章は、だいたい次のような印象があります。

・いつも同じような書き出し(定型的な文章なので引きつけられない)
・結論がなんなのか分からない(ひどい場合は尻切れトンボの文章)
・得られる「気づき」がなんにもない(単なる個人日記で終わっている)

ここまで書くと「自分はどうなんだよ」と自問自答してしまうわけで、他人のことを言えるのかよ……という葛藤もそれなりにあるわけですが、それでも、「とにかく毎日書けばいい」という考えでやっつけ文章を増産するのは、コスト的にもったいないと思うんです。それはなぜかというと、

(1)「ひとつの文章を磨き上げよう」という意欲をなくしてしまう。
  →結論は何か?伝えたいことはなんなのか?……という意識は大事そうです。
(2)「失敗しても次があるさ」という心理状態になってしまう。
  →残念ながら私の場合、ノルマ臭が漂う文章が数日続くと購読を解除します。

特に私は、Facebookで、テレビやラジオのパーソナリティもどきみたいな『前置き』のある文章が、なんとなく定型文っぽくて好きになれません。でも、「なんとなく嫌い」というだけでは思考放棄をするみたいでイヤなので、その原因をすこし考えてみたら、簡単に理由が分かりました。

Facebookを読むためのツールのほとんどは、書き出しから数行ほどをダイジェスト表示するようになっています。つまり、書き出しの部分がいつも似通っていると、ぱっと読めるダイジェスト部分は似たような文章になってしまいます。たとえば、次のような文例です。(あくまでも「やや極端な例文」なのでご了承ください)

【地元の天気情報から必ず入る人】
◆宮崎は今日も暑い日が続いています。午後からは激しい雨が降るようですが、こうも暑いと雨がありがたく感じますね。さて、今年も高校野球が…[続きを読む]

 ↑遠方の天気に興味がない上、近ければなおさら「見れば分かる」程度の情報。
 ↑ありきたりな内容では[続きを読む]をクリックしたいという欲求が生まれない。
 ↑そして、「高校野球」の話題に無関心な私は完全に興味を失ってしまいます(笑)。

【キャッチフレーズを入れずにいられない人】
◆おはようございます♪~『いつも元気』が合い言葉の私、○○くんが、今日も元気に山梨のど真ん中からメッセージをお送りします。さて、やっと…[続きを読む]

 ↑あくまでも個人的感想ではありますが、極めて「イタい」印象を受けます。
 ↑定型文を毎日少しずついじっているだけで本文には興味をそそられません。
 ↑というか、定型文で「元気元気」を連呼されても空々しい気分になります。
 ↑「植え付けられたポジティブシンキング」みたいな臭いが警戒心を抱かせます。

「文章を読んでいただく」ということは、少なからず読み手の「貴重な時間を奪う行為」です。もちろん、駄文であれば「最後まで読まない権利」を行使してもいいわけですが、正直、最後まで読まれない可能性のある文章を「無反省」に書き続けることに、「修行」としてどれほどの価値があるのか私には分かりません。

ただ、私が思うのは、
 「継続は力なり」
かもしれないが、
 「無反省な継続は力の無駄遣いなり」
じゃないのかねえ?……ということです。

実際のところ、Facebookでの文章に対する批判……みたいなものって、書くの、勇気いるんですよね。基本的に「友達」ということにもなっているんで。実際のところ、「完全に繋がりのない人」ではなくて、たぶん、遠く思えても、そこそこ近いところで繋がっている可能性が強い人たちですから。

でも、だからこそ、駄文を書いていたとしても、誰かから指摘されることは皆無だと思われます。もちろん、精神的距離が近い人になら、冗談交じりに本音を伝えてしまうのでいいんですが、中途半端に距離があったり、そもそもお目にかかったこともない「誰かの友達」だったりすると、まぁ、とにかく困ってしまうわけです。

もちろん、私が「読み手」として不適格である可能性もあり、さらにいえば、その執筆者と同じクラスタ(意識的集合体?)にいないという証拠ともいえるので、ここで「意識のズレを修正してやろう」などという不遜な気持ちは毛頭ありません。私の方が大きくズレまくっている可能性も大いにありますから。

でも、「自分の文章スタイルで、こういう風に思う人もいるんだな」程度で思っていただけると、何かのきっかけでお役に立てることがあるかもしれません。と、そんなワケで、この文章自体もネット空間に浮遊する根無し草ではありますが、どなたかの思考のきっかけになればいいなあと願っております。

2012年8月1日水曜日

生きがい

私は千葉の就労移行支援事業所でITコースの講師をしています。受講者の中には認知機能が大幅に低下していて、パソコンに触れること、コミュニケーションをとること、気持ちを表現すること……が難しくなっている人たちもいます。正直、「教えたって無理だろう」といわれたこともあります。

でも、私は続けてきました。気がついてみると、始めてから2年を過ぎています。そんな中で「私の実績ってどの程度なのだろう」と自問自答することも少なくはありません。うまくいくことばかりではありませんでした。冒険的かつ挑戦的な試みの末に、受講生の大半から総スカンの嵐を食ったこともあります。

私は『IT』を通じて、(1)どんな仕事であってもITを利用して効率的にラクになれるように。(2)就職先としてのITという選択肢を増やせるように。……という可能性を開きたいと考えていました。つまり、ITを目指さない場合でも、何かひとつ、人生を楽しく生きていけるものを発見してほしいと思っていました。

すべての人たちが(2)に進むわけではなく、(1)の段階で去って行く人も多くいます。「去って行く」というのは、就職が決まって去って行く人もいますし、「ITは無理なんだな」と感じて去って行く人もいます。冷たいと思われそうですが、私は基本的に「去る者を追わず」というポリシーを持っています。

なぜかというと、あくまでも「選択するのは本人であるべき」という信念を持っているからです。続けることも去って行くことも「自分の意志で決める」という価値観に重きを置いているからです。そうは言っても、やはりふとした時に思うことがあります。「私を信じて時間を費やした人を失望させたかもしれない」と。

最近、千葉の乗降駅で、たまたまかつての受講者に会うことがありました。彼はYさん。たしか、受講してくれていた当時はかなり具合が悪く、会話もとてもゆっくりで、ひとつずつ時間をかけるタイプの人でした。分かりやすく表現すれば、徹夜を二日続けて疲労困憊した時のコンディションと言えば伝わるでしょうか。

「ああ!松下先生!お久しぶりです!」

ところが、駅でばったり出会ったYさんは、当時の彼とは見分けがつかないくらいに認知機能がはっきりとしていました。いや、過去を知らなければどこにでもいる若者です。不調に苦しんだことのある人だとは思えないほどです。Yさんの活発な声を聞いたのは実は初めてでした。

私は、そこで、私自身が抱えていたモヤモヤに対する答えのひとつを聞いたような気がします。

「松下先生のおかげで今の自分があると思っています。」
「諦めそうになっていた自分たちに本気で情熱をかけてくれました。」
「松下先生に認めてもらえるほどITはできませんでしたが勇気をもらいました。」
「自分たちの可能性をあそこまで信じてくれたのは本当に嬉しかったです。」

かつてのYさんでは考えられないほど、矢継ぎ早に「当時の思い」を語ってくれました。家路を急ぐ人たちが行き交う暮れなずむ駅前、私は感謝の気持ちでいっぱいでした。当時のYさんは、コミュニケーションを取るだけでも大変な体調だったこともあり、私はYさんの気持ちを聞けないままだったのです。

正直なところ、私は長いこと不安を抱えていました。私の言葉は認知機能の低下で困っている人たちに、どこまで届いているのだろうか……。ただ、ツライだけのことをやっているのではないか……。ITに進まなかった人たちは「切り捨てられた」ように思っているのではないか……と。

私が彼らに投げかけた言葉の返事を一年後にやっと聞くことができました。まるでタイムカプセルを開けたような不思議な感覚です。「私の言葉は確実にしっかりと心に届いていたんだ!」と思うと嬉しくて仕方がありません。そして、Yさんからいただいた言葉は私の心に火をつけました。

「これからも『即戦力ITコース』で希望をなくした人に勇気を与え続けてください!」

……そうか。ITだけじゃなくて、そういうことも伝わっていたんだ。むしろ、IT以上に大事なことなのかもしれないなあ……と思いつつ、私自身、希望を捨てずにチャレンジしてよかったと思える、ある日の夕方でした。