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2009年2月19日木曜日

冷徹かも?

最近、自分って冷徹な人間かもしれないなあとマジで思う。別にへりくだりとかそんなんじゃなくて、本当にそうなんじゃないかと思うんだ。

たとえば身内や近しい人に関する心配事があったとする。心配事というくらいだから心配はするんだけど、「ま、心配しても仕方ないか」で済ませることが多い。それが本人にとって大変なことであったとしても。

まず、自分に何ができるのか選択肢を考えて、最良と思われる方針を立てる。以上。・・・という感じ。

方針を立てたら具体的にそれを実現するための方策を考えるだけで、心配事というか「悩み」にはそれ以上参加しない。たぶん、こういう人、冷たいと思われるんだと思うよ。客観的に考えてみると。

「確かに理屈では分かるけど、なんだか心がなさ過ぎるよね?冷たくない?」と言われたら、とりあえず心情的な部分で反論ができない。論理的には筋の通った説明ができても、たぶん心には響かないだろうな。

でもねえ、心配事ってどれくらい心配しても、心配する時間や気力でなんとかなるってもんじゃないんだよね。血が出るほど心配すると、何かすごい不思議な力が発生して必ず解決できる・・・っていうのなら、がんばって心配しまくってみてもよいのだけれどね。

家族のために土日も返上して働いて稼いでいたら、それが原因で家族の気持ちが離れちゃって家庭崩壊・・・みたいな感じに近いんだろうか。

そりゃ、家族が無事に生きていくためにはお金が必要で、そのためには必死で働くしかないという結論は誰にでも分かる。それでも、やっぱり家庭は崩壊しちゃったという、ありがちで皮肉なストーリーもよく聞く。

冷徹に見えるかもしれないけど、そうじゃないんだよなぁ。ロジカルに考えて最短経路を考えると、感情に流されて時間を無駄にするよりも、目的に向かって走り出さないといけないんだよと。

「現実から逃げてるだけじゃないの?」と言われても、これまた適切な返事が見つからない。自分が見ている現実と第三者が見ている現実は違うことがままある。主観的な現実を追い求めると、一方で第三者視点の現実から逃げることになるかも知れない。少なくともそのように見えることはあると思うんだよね。

初めて出逢った人に親切にされても、

・この人はステキな人だ
・見返りを期待しそうな人だ
・この人にはどうも裏があるようだ
・しばらく様子をみるべき状況だ

のように受け取る現実感はさまざま。

たとえば「ゴール」と言っただけでも、「ゴール」に関するイメージは人それぞれだし、そこに到達する経路もまちまちだと思う。

「ゴール」を最終地点だと思う人もいれば、経過点だと思う人もいる。ゴールに至る経過で必ず通らなければならない経路を決めると、それ以外の経路を思いつけない人もいたりする。「ここの段取りを踏めないなら、この話は終わりだ!」とかね。

とにかく人の数だけ幻想と妄想と思いこみがある。それらはある時には「価値観」と呼ばれたり「夢」と呼ばれたり「こだわり」と呼ばれたりすることがある。これらは時にとても大事なことだけど、人によって大きな幅と揺らぎがあることは忘れずにおきたいね。

私が最近会った人の中で、悪意に満ちている人は誰もいない。それは私の色眼鏡かも知れないけど、まぁ、それでいいと思う。

だから、考え方が違ったり、もっと端的に言うと「カチン」とくるような物言いの人でも、基本的にプラス指向であることを信じていきたい。その目指す方向や、方法論に個人差があるだけだとしたら、そこに対立の必要はないんだもの。

もちろん、ずっと一緒に走っていくべきかどうかは、ちゃんと立ち止まって考えた方がいいと思うけどね。あまりにベクトルが正反対すぎると、どれだけお互いに頑張ってもスカラーがゼロになっちゃうから。

人生、ビジネス、その他、もろもろ。

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