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2009年8月29日土曜日

動きがない?

このところハケンの仕事が大忙しです・・・と、いってもハケン人生に身を捧げるつもりがないのは書くまでもありませんが。

事業計画書を書かなきゃなあと思いつつ、なかなか書けていないのは、今のハケン仕事にかなりの比重を注いでいるからだったりします。と、書いても言い訳っぽいなぁ・・・という自覚はあるわけですけど。

ただ、正直な話、これからはじめようとしている事業と密接につながっている業務を遂行中なので、実際に人を雇用した時のプラクティスケースというかシミュレーションとして考えています。実際に人を雇用した時点で固定費がかかっちゃいますからね。

人件費をかけずにハケン現場で業務効率化の実験ができるのは、今の私にとってはかなり魅力的な状況なんですね。どうやったら快適に業務を遂行できる環境を提供できるのか。そこで働く人材のパフォーマンスはどのくらい向上するのか。今、自分の中では完全に「研究モード」です。

これで事業化に踏み切るための実績と経験がついてきている実感があります。細かい業務のチューニングで2時間かかっていた作業が30分になったり、効率化によってモチベーション向上につながるなど、なかなかに手ごたえアリです。メンタルストレスを最小限にする仕事・・・これは本格的にやってみたいですね。

重くて多い作業量に暗い顔をしていた人が、楽しそうに軽快に作業をすすめていくのを見ると、こちらまで嬉しくなります。

私は徹底的にラクをしたい人です。そしてみんなと一緒にラクをしたい人です。周りを見回してみると、意外にも非効率に力技で仕事を進めている人が割といるんですね。面倒くさいのも仕事のうちとあきらめてしまっている人がけっこういます。

でも、非効率なことに時間を割くことは、ストレスを受けることを甘受してしまっているような気がします。「効率を良くする」ことは「手を抜く」という意味ではありません。考える時間を分散させるのではなく、考える時間を一度にまとめて集中するという意味です。

非効率なことを効率的にするためには、多岐にわたる知識や経験が必要ですが、非効率なことを効率的にして空いた時間には、さらに効率化を推進するための知識や経験を身につけるためのブラッシュアップをするといいと思うんです。

「ああ、面倒くさい」というのが、私にとっては仕事の源だと思います。だから、面倒なことをやっている人が近くにいるとワクワクするんです。「ああ、こんなにラクになる方法があるんだ。」・・・って実感してもらえるのが快感で(笑)。

今、そういう「面倒くさい」がより固まっている業務(すみません!まだ公開できません!)を中心にして、面白い事業ができないかどうか真剣に考えています。

2009年8月27日木曜日

景気の悪化を望む人々?

「本当はまだ底が深い不況」「今後の最悪シナリオ」などという読み物がメールマガジンで大活躍している。そういうタイトルをさっと見ると「ばかだなあ」と思う。こうまでして執筆料を稼ぎたいのかと思う。書きたいなら読者から見放されるまでネガティブな記事を書いていればいい。

昔、「1999年を迎える前に恐怖の大王が降ってきて地球は滅亡する」なんてデマが蔓延していた。もちろんまったくのウソっぱちだった。「実は世界の裏側では秘密裏にエージェントが暗躍していたのである。」などという三文SFのような話はあっさりと無視するとしても、人間を動かすのに「不安」という要素は相当に大きなものらしい。

ここぞとばかりに不安商法よろしく執筆料を稼ぎたいネガティブ記事が増えているが、その予言が当たるとしても我々はただ黙々と日々を続けるしかないのだ。あの時、1999年に地球が滅亡すると予言されていたにも関わらず、我々は日々をパニックを起こすこともなく、ただ淡々と2000年を迎えてきた。

予言なのではなく「事実に基づいたデータ」と主張したいアナリストもいるだろうが、そのアナリストなる人間は今回の世界同時株安を「事実に基づいたデータ」から予想できていたのか。

起こってしまってから「だからあの時言ったのだ」と言っても遅いわけだし、そもそも「言った」ことが事実だとして、それを防ぐことができなければ全く意味も価値もない。ネガティブな事実が起こる前にネガティブな予想をして、世の中にネガティブな種を余分に振りまいただけだ。火が十分に回ってから「火事だ!」と叫ぶマヌケぶりだ。

そもそも「百年に一度の大不況」なんてコトを強調している時点で、どれだけ彼らの「カン」がアテにならないか分かる。

自分たちの推論が当たれば「データ分析の成果」などと公言し、外れれば「百年に一度の例外」なる謎のおまじないで切り抜けることができるとは、なんと都合のいい世界に生きているんだろうか。さらにはその「百年に一度の不況祭り」を利用して儲けたい輩が徘徊しているのだから油断ならない。

私だけかも知れないが、もう「まだまだ止まらない不況シナリオ」とか「そこまできている○○危機」などという読み物には心底ウンザリしているのだ。今、必要な読み物はそれじゃないだろう。

「○○するためにはどうすべきか?」「○○を防ぐにはどうすべきか?」という話なのだ。百年の○○に酔っ払って、そこから視線を外すことにできない思考停止した輩の読み物に時間を浪費するのは無駄だ。

そもそも、たとえば「地球がもうすぐ滅亡します」と予言されたとしても「ああそうですか」と、途方に暮れるしかないのだ。それが事実だとした場合、本当に必要な情報とは「滅亡を回避するために我々にできることはあるのか?」なのだろう。

よっぽど最悪なシナリオは、ネガティブな予言を本気で信じて大パニックが起こることだ。ネガティブな予言の歌につられて踊るとネガティブな予言は現実化する。ネガティブな予言を真に受けて悪意の予言を的中させてあげる必要はない。

「不況だ不況だ」「不幸だ不幸だ」と書き立てている人間は、不況や不幸のお陰でメシを食えている寄生虫だという事実を忘れちゃいけないと思う。それにしても不況ブームを作って一番トクをしている人は誰なのだろう。

ともかく不況が終わるにせよ続くにせよ、不況の大波がまだ来るのだとしても、我々は日々を生きていかなきゃいけない。実際に何が起こるにしても、今の生活からかけ離れたアクションを起こすことは大多数にとって困難なのだ。

どんなにネガティブな記事が世の中を席巻しても、我々はささやかな希望を信じて日々の生活を粛々とすごしていくしかないのだ。そういう生活の中にネガティブなメールマガジンが届くと、なんとも残念な気持ちになる。

2009年8月22日土曜日

ナアナア

今日、床屋を変えた。

「いきつけ」にベッタリになりがちな私にとっては、以前の店には二度と行かないということだ。今までは自宅から20秒以内かつ完全予約制ということもあって、4年間ほど、けっこう便利に通っていた。店にはオヤジがひとりだけいて、基本的に一対一で他の客はその時間は入ってこない。

しかし、前回、いきつけの床屋の予約時間を寝過ごしてしまったのだ。まぁ、これは完全に私が悪い。前日の疲れがたたってしまったことはあるのだが、まぁ、それにしても言い訳にはならない。これが仕事だったら相手先に怒られても仕方がないことだ。

予約から20分くらい過ぎてしまっている状態で、寝ぼけた頭であわてて床屋に電話をかけた。とりあえず、カット時間は短くなるが来店してくれということで、30秒以内で店に到着した。店に入ってから苦情を言われ続けた。まぁ、仕方がない。予約でやっているわけだからね。ドタキャンされたらその時間は収入ゼロなんだし。

ただ、そんな状況でカットしてもらうのは実に気まずいながらも、細かいいろいろな工程をショートカットしてもらいながら、短時間で散髪が終わった。

その時、ふと思った。

・確かに予約の時間に遅れたのは私が悪い。これは主観的にでも分かる。
・しかしここまでブルーな気分にされる必要はあるのか?
 →「予約の時間をずらされるとうちの利益に響くんですよ。」
・というか無駄な工程を省いたら早くてむしろいいじゃないか。
 →眉毛とか、顔の表面とか、髭とか特に剃ってもらわなくていい。
 →家に帰ってからどうせ頭を洗うんだから洗髪はいらない。
・そこの店主はネガティブ思考で、過去にもそんな話題に耐えてきた。
 →「不景気で今の時代、何をやってもダメですよ。」
 →「しばらくはこの不況は続くだろうし、未来はないですね。」
 →「予約が埋まらなくなってきたら、こんな店やめちゃいますよ。」
 →「うちの店がイヤなら、無理して来てもらわなくていいです。」
・結構、予約って足かせになってきちゃってるな。
 →常連客の予約がそこそこ入っていて予定を組まないと散髪できない。
 →予約して、また同じようなことになったらと思うと気が重い。
・別に技術的にビックリするくらいウデがいいワケでもなかった。
 →たまに帰ってから鏡を見ると切り残しの長い毛がいっぱいあった。
 →基本的にバリカンで短くするだけなのになんで切り残しがあるんだ?
 →たまに細かい傷跡があったりして、明らかに出血していたりもした。

客商売って難しい。明らかに客の方が悪くても、店主が客に怒りを見せたら最後だ。誰がそんな気まずくなった場所に足を運ぼうとするだろうか。サービス業は客にイヤな思いをさせる場所ではないはずだ。

店の利益の話をされた時、つい「ははぁ、このオヤジにはオレの顔が5千円札に見えるらしい。」と思った。だいたい、そこでの散髪料がそれくらいだから。そんな風に思わせた時点で、私はその店にお金を落とすのがバカバカしくなった。

もし、この時に「ああ、お疲れだったんですね。そういうこともありますよ。とりあえず次回からは気をつけてくださいよー。」と声をかけてもらっていたら、確実に今日も以前の床屋に行っていたはずだ。「申し訳なさ」という借りがあったとすれば、私は何が何でもそれを返そうとする性格なのだ。

もちろん原因は私にある。飲み屋で宴会コースを頼んでおいて、ドタキャンしたり激しく時間が遅れてしまったりしたら、当然タダでは済まないだろう。飲食しなくてもその分の料金を支払う必要があるし、それを払わなければ法的な対応があっても不思議ではない。床屋の予約にしても基本的にそういうものだろう。

しかし、どんな固定客(4年も通えば半ば固定客といえないだろうか?)でも、そこの店から離れる可能性を持っているのだ。時間がかかりすぎるとか、会話がネガティブでウザイとか・・・そういう感想が多少あっても「まぁ、長いつきあいだから」と大目に見ているものなのだ。

そこに冷や水をぶっかければ当然ながら目が覚める。「この店は私のいきつけとして向いていないな」と。相手がこちらを大目に見られないなら、やはりこちらも店を大目にみられなくなるのだ。相互作用としてそういう点はあると思う。そもそも店の空気が主客転倒している。

そういう意味ではお互いに「ナアナア」だったんだろうなあと思う。私は予約の時間に遅刻していったワケだし、店の方は切り残しがあっても気づかなかったり、怪我をさせてしまっても何も言わなかったり、ネガティブな話題ばかりだったり、自分の利益優先で客の気分を落ち込ましたり。

そんなワケで、最近、自宅から5分くらいのところにできたカット屋に行ってきた。

・お値段は1100円で今までの5分の1から4分の1!
・洗髪はなしで吸引器(掃除機?)で髪の毛を吸い取る。
・顔剃り、髭剃り、眉剃りはないからスピーディ。
・一人あたり10分くらいだから待ち時間もほとんどなし。
・当日ふらっと行ってもさくっと切れるのはお気軽。
・会話にも気を遣わずにカットしてくれるのがうれしい。

今までの行きつけのオヤジには感謝している。目を覚まさせてくれたおかげで、値段が安くて、時間も短くて、そして気も遣わなくていい店を知るきっかけができたからだ。心から「ありがとう」と言いたい。もうオヤジの店にはいかないけれど。

ラクなことの是非

すべらく!」というサイトを運営していることからも分かるように、私はラクをすることが大好きだ。ラクをするための仕組みを考えることが大好きだ。そういうコトを書くと「最近の若いヤツは汗水たらさないで、ラクするコトばっかり考えやがる!」とか「ラクばかりして、汗水をたらさない仕事なんて仕事じゃない!」なんて白眼視される傾向が強いんじゃないだろうか。

汗水たらして働くコトはそれはそれで素晴らしいことだと思う。しかし「ラクするコトばっかり考えやがる!」という批判についてはいささか腹立ちを覚える。私の感覚からすればまったく時代錯誤で前時代的なトンチンカンな批判だと思う。少なくとも自分の生きてきた世界の価値観だけを見ていて、これからの未来をまったく見ていないと個人的に思っている。

汗水たらしてラクをしないことが美徳だと主張する人は、車にも電車にも乗らないほうがいいだろう。ラクするコトを考えずに汗水たらして歩けばいいじゃないかと思う。人と話がある時は携帯電話どころか電話も使わず、直接、相手のところまで汗水たらして出向いていけばいいんだと思う。

わざわざそんな面倒なコトをしたくない「ラクをしたい」人がいたからこそ、車や電車が存在するし、電話が存在するし、さらに便利な携帯電話が存在する。自分を取り巻く世界が受けている恩恵は「ラクをしたい」という願望から生まれていることが多いと思う。

自らがそういう便利なモノの恩恵を受けていながら「ラク」を批判することは明らかな矛盾だ。みんなが汗水たらして働く仕事をするようになったら、間違いなく今までにいたる文明は崩壊するよ。「ラクをすることを考えず、つらくても必死で汗を流すことがいい。」というのは、完全に旧時代的なファンタジーだと思う。現代社会には「肉体労働」だけじゃなく「頭脳労働」の両輪が必要なのだ。どちらかだけではダメだと思う。

ただ「ラクをする」というのが大好きな私も、「ラク」をする「ラク」の種類にはこだわりがある。

「何も考えなくても、ずっと同じコトだけ続けていればいいからラクだ。」

というのは、私にとっての「ラク」じゃない。ラクになったことをずっと続けるだけというのは苦痛だ。私にとっての「ラク」とは、今まで「ラクじゃなかった」ものが「ラクになった」と実感できるコトだ。だから、何かひとつをラクにしたら、何か他の「ラクじゃない」ものを探し歩くことになるんだろうと思う。

そういう意味では、私自身も矛盾を抱えて生きている。ラクを実感するにはその真逆を知らなければ、決してラクをできないということだ。ラクをするコトが大好きな人にとって、もしもラクしかない世界が実現してしまったら、何もするコトがない世界になってしまう。

ちなみに、今、ハケンをしているが、これもまた「ラク」な環境と言えるだろう。仕事の根本を考えなくとも仕事が与えられ、それを解決さえしていればお金がもらえる世界なのだから。その代償としてプライドを売り渡さなければならない場面はあるが、仕事を必死に考えなくても生きていける環境だ。自分で仕事を考えて、仕事を引っ張ることを考えたらどこまでもラクな世界だと思う。少なくとも短期的には。

ただ、長期的に今の環境を眺めてみると、私にとっては決して「ラク」な環境でないことを知っている。ハケンだけでやっていくという選択は、自分で自分自身の生き方をコントロールできない生き方だからだ。仕事の根本を考えなくてもいい環境は、仕事の根本を考える力が鍛えられない環境なのだ。大した技術力がなくとも回ってしまう環境にいれば、それ以上の技術力を身につけられない環境なのだ。これほど危険な環境があるだろうか。

また、時間の経過に従って自らの体力も経年変化することだろうし、時間を重ねれば重ねるほど契約の打ち切りリスクも増大するだろう。そして10年続いたとしても、時給はいつまでたっても据え置きだろう。もっと現実的に考えれば減少方向に移行することも想像に難くない。10年前に同じ現場にいたプロパーとは驚くくらいに収入に格差ができているだろう。その時にハケン以外の生き方をしようとしても、その時点で選べる選択肢はほとんど枯れ果てているはずだ。

これがハケンをずっと続けていった先に見える悲劇のシナリオだ。どうしてここまで最悪のパターンを考えるかといえば、自分でコントロールできない力に寄りかかって生きる場合、その力が影響を示す範囲でしか生きていけないことを意味しているからだ。中途半端な飼い犬は捨てられた後がミジメだ。エサをもらうことに慣れてしまい、自分でエサを確保できなければ死んでいくしかない。

このように、短期的に「ラク」そうに見えることには大きな危険が潜んでいることがある。さりとて、長期的な「ラク」だけを追っていると、苦労した経験だけを残して早死にしてしまう可能性もある。だから「ラク」をするにしても、「近い未来」と「遠い未来」の両方をバランスよく追いかけることが必要なんだと思う。

2009年8月19日水曜日

プロパーとハケン

ハケン暮らしももうすぐ2年半。こんなに長く続けるつもりなんてサラサラなかったのに、思ったよりも長くウダウダしてしまったかなとも思う。まぁ、とりあえず、今、着実にできることをやっていこう。いずれにしてもハケン生活も今年中までかな・・・と考えているし。で、ハケン暮らし真っ最中のうちに思ったことを書き残しておこうと思う。

私自身はプロパーとしてハケンの人と関わった経験もあるし、今はその正反対の立場を経験している。これだけ視点が真逆になってみると面白い発見がたくさんある。

まぁ、どちらも「私のプロパー体験」と「私のハケン体験」という視点ではあるので、それが「世間一般のプロパー像はこうだ」とか「世間一般のハケン像はこうだ」ってことにはならないと思う。それにIT系の業界に限定した見え方に過ぎないんだけどね。

プロパーだった頃、「なんでハケンって仕事を一生懸命やらないんだろう」・・・って思ったことがある。定時になったらさっさと帰宅しちゃうし、なんだか仕事に対する一体感というか連携感が薄い。

そして「結局、あの人たちは一生懸命仕事をやらないからハケン止まりなんだろうなー」とも思っていた。基本的に人生に対する認識が甘っちょろいヤツラなんじゃねーかと。「ハケンって社会をナメてるよねー」って真顔で思っていたからね。

うーん、なるほど。立場が変わってみても、たしかにそう思えるフシもある。まぁ、そう思われても仕方ないかな。ひるがえって、ハケンになってみると見える世界がまったく変わる。当時、ハケンの人たちに聞けなかった答えらしいモノが分かってくる。

基本的にIT技術系のハケンの人々というのは半ば「個人事業主」みたいな立場なんだと思う。だからそこの職場だけで通用することに時間を削ることを好まない。どこの現場でもやっていけるスキルアップを行動の軸にしやすいような気がする。

昇進なんてないから社内のウェットな人間関係には全く興味がない。上司を一生懸命ヨイショしてみたり、会社のためにこんなにがんばっているんだ・・・なんていうアピールも必要がない。というより無駄だ。オリの外からそういうのを見ると「はいはい、どうもお疲れ様」という感覚になっちゃう。

だから仕事に対する一体感が希薄・・・と言われても仕方がない。「実際に『一体』じゃないんだから、それで『一体感』を見せろなんて言われても、そもそもそれは無理でしょ?」ってなっちゃう。一体感を得られた「つもりになっちゃった」ハケンは悲しい。

「パーツとして使えない」と思われたらそこまでだ・・・という覚悟をするのがハケンの宿命なんだから、それなりに仕事に対してもクールにならざるを得ない。「家族同然の関係になっておけばクビは切られないだろう」なんて考えるハケンは認識が甘いと思う。

ハケンの側に立って、プロパーだった時の使命感とか、そこから派生する残業やらを眺めてみると、「組織の中で生き残るためにがんばってるなあ」とか「会社のオリをちゃんと一生懸命に守ってるなあ」という冷静な感想に行き着く。まぁ、ハケンなんてオリの外側の人間だからね。オリの中の権威とか序列とかどーでもいいことに見える・・・いや、実際にどーでもいいんだけど。

こういう簡単なコトがプロパーの立場の時には想像もできなかった。自分の価値観と異なる生き方があるっていうだけの簡単な話なんだけどね。プロパーの立場でいることが世の中で唯一の正解くらいに考えていたこともあるくらいだもの。たぶん自分の価値観を絶対視しちゃうと、異質の存在を永遠に理解できないかもしれない。

ま、プロパー的には「別に知りたいとも思わないけどね」という感想だろうし、それはそれでいいと思う。ただ、異なる価値観とか生き方があることくらいは、現実として知っておいた方がいいと思う。別に理解までしなくていいから。

一方でハケンの人は社会的待遇に文句を言っちゃいけないと思う。少なくともそういう生き方を選択したのだから。選択せざるを得なくて仕方なくハケンになった人は、本来選択したかったポジションに移るために努力したほうがいいんじゃないかなあ。技術を極めて職人になるのもいいし、プロパーを目指しているのならプロパーを目指せばいいじゃないかって思う。

ともかくプロパーとハケンのどちらも経験した立場から考えてみると、この両者がどうもしっくり来ない場合の原因は、

「一生ここでがんばるぞ!」 vs 「まさか一生そこにいるの?」
「この会社のことなら任せろ!」 vs 「その会社だけで通用すればいいの?」

という価値観のすれ違いとか意気込みの温度差があるからで、それがプロパーとハケンの間に感情的な対立構造を生んでいるんじゃないかなと思う。

2009年8月12日水曜日

小学生の自分に

小学生の頃の自分というのは、まぁ、できないことが多かった。

今となっては恥ずかしい話だけど、一人でバスに乗ることもできなかった。
街の中にいる大人に話しかけるだけでも、ものすごく勇気が要った。
当然だけど、働いてお金を稼ぐなんてこともだって考えもできなかった。

それが歳をとるにしたがって、いろんなコトができるようになってきた。
たぶん大人なら誰でもできることには違いないけど、できるようになった。
いったんできるようになったコトって、そんなに難しくはなかったりする。
補助輪をなくした自転車に乗るのに苦労していた頃なんてウソのようだ。

できないことをやるには勇気がいるし、また根気もいるんだろうと思う。
でも、いつか「今にして思えば普通だね」と言えるようにしたい。

2009年8月5日水曜日

期限が近づいてきた

今、千葉県内の精神障碍就労支援で面白い動きが立ち上がろうとしています。半ば自作自演という趣もなくはないのですが、そこに私が関わっていく予定にもなっています。この動き自体が私が立ち上げる事業の本体ではないわけですが、密接に関係する動きではあります。

すると、ハケン仕事をやっている時間がなくなってきます。というか、まぁ、ハケン契約打ち切りも視野に入れた行動をとっていかないと、ひょっとすると年越しができなくなるかもしれません(苦笑)。

事業立ち上げの準備ってのは難しいところがあって、安定した(まぁ、所詮ハケンだから「安定」とは言わないような気がするけど)収入を手放すのがすごく怖かったりします。

だから、「ある程度、生活資金なりが貯まったら始めよう。」とか思うんだけど、じゃあ、それはどのくらい貯めれば安心できるの?・・・ってところで答えが出なくなる。基本的に成功させるつもりで事業を立ち上げるにしても、「約束」なんてのはどこにもないんですね。

事業化に向けてのビジネスモデルのアウトラインはできていて、関係各所との打ち合わせもできてはいるんだけど、事業単体での収益化プランのところがまだまだ甘い。ここを急ピッチで作り込まないといけない。しかも、たぶん9月末には誰もが納得するものができていなければ危ない。

そういう意味では、千葉県内の就労支援のグループが先に動いてくれたおかげで、腹をくくるまでの「期限」が明確になったような気がします。残業規制とやらで、時給単価は据え置きながらも、ハケン収入が去年よりも大きく下がっていて、月々に貯蓄できる額も縮小傾向になっているわけで。

このまま「ある程度貯蓄できたら」という姿勢を続けていたら、いつまでたっても何もできやしません。腹をくくって来年から始められるように準備をしなくてはなりません。

正念場です。

2009年8月2日日曜日

死ぬのが怖くない!?

なに言っちゃってんの?・・・と思われるかもしれないが。
正直なところ、私は死ぬことが怖い。いつか死ななきゃいけないんだけど。

「死ぬ準備ができた人から死んでいく」なんて話をよく聞く。
ついでに「いい人から先に死んでいく」なんて話もよく聞く。
ひょっとして人間性を磨くことが死ぬ準備なのかなあ。

で、あるならば、人間性を磨かないで長生きしたいなあ・・・って?
まさか、人に嫌われてまで長生きはしたくないけど、長生きしたい。
なぜって、世の中がどんどん面白くなっていくのを見たいからね。

こんな時代だけど、まだ、私は未来に期待感を抱いてます。

昨日、新しく始める事業の主要メンバーと一緒に飲んでました。
ビジョンとかそのあたりのことを、ざっくばらんに話し合いました。
一人は福祉系の人。一人は障碍者支援の事業をしている社長さん。

何かで話が脱線して「死ぬことって怖いんですよね」なんて話に。
その時に聞いた社長さんの話が、ちょっと響きました。

「自分で会社を立ち上げた時から死ぬことが怖くなくなったんだよね。
まず会社を立ち上げる時って、死ぬくらいに怖かったし勇気が要った。
だけど、腹をくくって自分のやりたいことにまっすぐ進んだわけ。
死ぬことが怖いのは、やりたいことができなくなるからなんだよね。
だったらさ、常にやりたいことをやり尽くすくらいやればいいんだよ。
いつも全力だからさ、いつ死んじゃっても悔いは残らないんだよね。」

・・・なるほど。そう言える領域に行けるようになんとか前に進もう。
昨日はいい話を聞けました。

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最近、ブログ日記を書くとなると長文になりがち。
とりあえず、初心を思い出して短文で書いていこうと思う。