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2010年6月17日木曜日

難しいってホント?

難しそうな肩書きの方に会うことがあるが、そこで今やろうとしていることを話すと、やたらと難しそうな話が戻ってくることがある。「○○と連携しないと難しそうだ。」だとか「実際に運用してみると難しいでしょうね。」だとか。

難しいかと言われれば、そりゃ難しいと思う。今までの決まりきった日常生活どおり過ごすことに比べれば。変化を起こすってことは少なからず新しい局面に出会うことになるし、新しいことであれば新しい対処方法を考える必要がある。

先に戦略を立てて走っていくことの正しさも理解できる。前もってリスク要因を把握して対策を立てることも大事だ。そこは十分に分かっているし、そういう考え方を否定するつもりは全くない。しかし、やはり私個人としては、気持ちが先立つことがいちばん大事なんじゃないかと思う。

新しいことを始めるのには必ずリスクが伴う。もう少し正確に書くと、毎日生きているだけで何らかのリスクが伴うものだ。外に一歩出れば何らかの事故に巻き込まれる可能性がある。だからといって外出しないのか?・・・と問われれば、多くの人はNoと言うだろう。

私がハケンを辞めて講師になろうと思ったときも、多くのご心配をいただいたし、自分自身、多くのリスクを自覚した。講師として生活できるかどうかも分からないし、私を講師として必要とする人が必ずいるとも保証の限りではなかった。すべてやってみないと分からないという状態だ。

結果として、無謀にも私はハケンをすっぱりと辞め、精神の当事者向けの「即戦力ITコース」の講師の道を選んだ。以前に比べると収入は低下したものの、とりあえず生活はできている。そして私の講義を楽しみにしてくれる受講生の方々もいる。

受講生の方々のリアクションやクレームなど、さまざまな課題を乗り越えて、手前味噌ながら、今ではかなり身のある講義ができるようになってきたと確信している。これらはすべて「実際にやってみてわかったこと」だ。最初から予想できていたとしたら苦労はない。

と書いたものの、実際のところ苦労はあまりしていなかったりもするのだが。なぜなら目の前の課題を自然体で楽しめたからだ。むしろ、実際に現場に飛び込まずに「事前にリスクを予測してくれ」と言われたとしたら、おそらくそちらの方が苦労するだろうし、そんな無駄なことに時間を使いたくない。

なにしろ人間相手のことだ。どれだけ芸術的なカリキュラムを組もうが、受講生のハートに届かない内容なら無駄になる。ついでにいえばどんな人が受講生になるかどうかなんて、実際に始めてみないと誰にも分からない。

「まずは初めてみる」以上に強いものはないような気がする。だから構想の時点で「難しいですよね。」といわれると、ちょっと萎えてしまう。基本的にリスクは大前提だ。というよりも、何か新しいことを始める際のリスクというのは、リスクを恐れること自体ではないだろうか。

起きてもいない未来についてご託を並べるくらいなら、いっそ始めてしまった方がいいんじゃないかと思う。リスクを想定するよりもずっと現実的な答えが自動的にやってくる。その現実に対して精一杯の対応を重ねていけばいい。

私は過去、「頭で考えて実行になかなか移せない」タイプの人間だった。今でもそういう要素は少なからずある。だが、やはりリスクを自覚しても「飛び込んだ先に道が開けていた」という経験は得がたいものだ。私の行動様式はそこを境に変わったような気がする。

もしも心が本当にやりたいことだったら、考え込む前に行動を起こすことだ。それしかないと思う。心が硬直して動けなくなる前に行動することだと思う。

2010年6月11日金曜日

先輩風と同族嫌悪

私はいわゆる「先輩風」というのが苦手だ。いつから苦手になったのか分からないが、とにかく現在のところすっかり苦手になっている。障碍者の就労支援などの飲み会に行ったりしても、たまにそういうタイプの方をお見受けする。

「オマエのダメなところをオレが教えてやるよ」「要するに今のオマエに足りないのは・・・」「今度オレが見本を見せてやるから、そこから何かを学べよ」・・・そんな説教を耳にしてしまうと、どうにも居心地が悪くなって逃げ出したくなるのだ。

できれば飲み会では説教を聞きたくないモノだ。面倒見がいいタイプと言えば、おそらく面倒見がいいタイプなんだろうと思う。だから適材適所というやつで、きっとそういう人が役に立つ領域はあるに違いないし、きっと感謝している人もいるんだろうと思う。

それなのになぜ、私は先輩風で説教をする人が苦手なのか。それはたぶん、私もそういうことが本質的に好きだからなんだろうと思う。自分の中で理性がなくなったら、いろんな人に説教して回るような気がする。いくらかしているかもしれないが、できればしたくない。

経験のある人の言葉は貴重だ。そして自分が体験したことを、未体験の人に伝えることもとても大事だ。しかし、無意識にとはいえ「上下関係」ができてしまうと、自分の判断を相手に押しつけてしまうことがあるのではないかと思う。

たとえば「オマエのダメなところをオレが教えてやるよ」という言葉には、「自分のやり方=正しい」ゆえに「自分のやり方以外=ダメ」という価値観の押しつけが含まれている。そして基本的に「上から目線」というのは本人にとって気持ちのいいものだ。実にイヤらしい話だが。

人はそれぞれ得意なことが違う。好きなことも違う。考え方も違う。しかし、そういう基本的かつ簡単なことをいとも簡単に忘れてしまいがちだ。私はその昔、自分の価値観を押しつけてしまった結果、有能な部下を失ってしまったことがある。その時の教訓は今も心にしみついている。

心地よい「上から目線」に慣れすぎてしまうと、それで誰かを縛り付けてしまっていることに気づかなくなってしまう。先輩として親切な気持ちから生まれた言動であっても、相手にとっては迷惑きわまりない圧力となっているかもしれない。

得意げに先輩風を吹かして説教をしている人を見ると、まるで過去の私をみているような気がしてしまう。なんともいえない気恥ずかしさで逃げ出したくなる。今さらガキ大将でもあるまいしと。そういう意味では同族嫌悪なのだ。

世の中はうまくできているような気がする。イヤなシーンに出会うからこそ思い出せることもある。きっと「人の振り見て我が振り直せ」ということなのだろう。そういう意味では私の役に立って頂いているわけだ。やはり感謝しなくてはいけない。