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2010年5月25日火曜日

ハンディキャップを楽しむ

障碍者、健常者。この「健常者」という言葉がよく分からない。学校やら会社やらを見渡してみると、メガネとかコンタクトレンズを着用している人は多い。その中には視力0.04とか、ほとんど見えてないんじゃないかという人もいるくらいだ。それでも健常者というくくりで生活している人は多い。

他にも、外見から分からないことも多い。たとえば聴覚。おおむねのことが把握できれば、多少聞こえづらいな・・・ということがあっても、日常生活は十分にやっていける。他にも肝臓がよくない人もいれば、心臓に疾患を持っている人もいる。そして精神疾患などもそうだ。

新宿の交差点を忙しく行き交う人々は、一見、健常者ばかりに見える。なぜなら、外見からわかりやすい目印をつけた人があまりいないからだ。目印というのは、たとえば杖だったり、車いすだったり、盲導犬だとか。でも、目印のない人の中にも健常者ではない人も実は多い。ただ単に自分から言う必要がないから言わないだけだ。

それにしても、メガネやコンタクトレンズという矯正具を装着している「プチ視覚障碍者」は多いのに、社会的な区別を受けづらいのが不思議だ。いや、むしろ世の中に多いからこそ区別されづらいのか。

逆に仮にこの世界の9割以上が全盲の人々だったとしたら、社会は普通に点字文化になるのだろう。そしておそらく「視覚障碍」という言葉は存在しないはずだ。逆に目が見える少数派の人々は「霊能者」のように異端者扱いされていても不思議ではない。その世界では見えない人の方が当たり前なのだから。

つまり、「少数派=障碍者」という乱暴な結論もありえるのかもしれない。

厳密に調べたわけではないが「障碍者」を定義するとき、
 ・特定の身体機能における検査結果が標準領域外だった場合
 ・身体機能により日常生活または就業において支障をきたす場合

という条件があるように思う。

私自身について考えてみる。まず左目の視力が弱い。小学生の時、左目の視力を矯正させるために、右目にアイパッチというバンドエイドみたいなモノを貼り付けて生活をしていた。視力のいい右目だけを使わないようにという矯正訓練だったわけだが、これは純粋かつ残酷な子供だった同級生からイジメられる原因にもなった。

視力以外となると、たとえば若いときに比べて肝臓の数値がかなり高くなってしまっていること、さらに内臓脂肪が増大していて生活習慣病すら疑われること。

他にも、たいしたことのないシーンにおいても極度の緊張状態に追い込まれやすく、話をしているだけで息が詰まってきてしまい、うまく話せなくなってくることもある。さらに話が熱を帯びてくると、話の前後のつながりとかが不明になってしまい、最終的に何が言いたいのか忘れてしまったりもすることもある。

それ以外だと、人の顔を覚えることが極端に苦手だ。一度や二度くらい会っただけでは名前と顔が一致しない。街中で以前お会いしていた方に声をかけられても、誰だか思い出せないことの方が多い。必死にその場を取り繕いながら思い出そうとすることもたびたびあった。

ここまでざっと考えついただけでも「健常」ではない。ただ、だからといって「障碍」の領域で生活をしているわけでもない。なぜなら「日常生活または就業において」支障が出ないような工夫をしているからだ。これは社会人として、ITエンジニアとして生きるための工夫でもあった。

たとえば、名刺交換をした人の顔を覚えられないとき、あとでこっそりと名刺に似顔絵や顔の特徴を書いたりした。最近では事情を打ち明けて携帯カメラで写真を撮らせていただくこともある。実際、週に1~2回しか会えない「即戦力ITコース」の受講生の何人かにも写真を撮らせていただいた。

この顔写真と名前を一緒にして、1週間に何度かそれを眺めていれば、さすがに顔と名前は覚えてくるものだ。ちなみに顔写真を撮らなかった受講生の方は、やはり顔と名前がなかなか一致しなかった。だから、この記憶に関する工夫は私にとって絶大な効果があったことになる。

それ以外にも記憶力の弱さや、精神的な揺らぎをコントロールするために数多く工夫をして生きてきた。私にとって自分に一番合った改善手段を考えることは楽しいことだ。自分の欠点を工夫によって苦労を減らすことができるからだ。特に私はITを利用して自分の機能不足を補ってきた。

世の中にはいろいろな障碍がある。そんな中で私なりに認識している機能不足を「ハンディキャップ」と呼んでいいかどうか正直なところ分からない。しかし、私はその機能不足を補うためのアイデアを考えるたびにワクワクしている。なぜなら、まるで自分自身をバージョンアップして機能向上しているような気がするからだ。

障碍であるかどうかはともかくとして、自分の機能不足を補うアイデアは生きる知恵だ。それを考えることを楽しむ生き方ができれば、人生はもっと実りのある豊かなものになるんじゃないかと思う。機能不足を嘆いていても前には進まないのだから。