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2009年6月28日日曜日

精神障碍者をナメるな!?

精神障碍(しょうがい)者のイメージって、一般的にどういうモノなんだろう。就労支援の研究会にいくつか参加してみたけれど、総じて身体障碍者よりも企業から敬遠されることが多いみたいです。

もちろん、この表現はいささか乱暴で「障碍」と一言で言っても千差万別。身体障碍者といっても重いモノから軽いモノまであるし、精神障碍についてもまた同じ。風邪と同じで、放っておいたら死に至る「風邪」もあれば、一晩寝るだけで治ってしまう「風邪」もあります。だから、障碍と一言でくくってしまうのは乱暴といえば乱暴なんですね。

で、精神障碍者のイメージなんですが、居酒屋でたまに会う人にさらっと聞いてみました。どんなイメージですかね・・・と。

「精神障碍者は怠け者で、圧倒的に努力が足りない人だ。」
「俺たちだって辛いことがあるけど乗り越えてるんだよ。」

・・・。

まぁ、自分の考えに同調する意見ばっかり集めても、それはあまり有益な意見じゃないワケで、こういう反応もアリでしょう。要するに「精神障碍だって働けるじゃないか。社会貢献できるじゃないか。」と思える人だけで社会が構成されていれば、精神障碍者の就労支援なんていらないんです。でも、そうじゃないからなんとかしなきゃいけない。

だから、気分はあまりよくないかも知れないけれども、もし精神障碍者ならびに身体障碍者が普通に働ける社会を目指すのであれば、ネガティブな意見にこそ耳を傾けないといけないと思うんですね。ネガティブな意見や思いこみは実績でひとつずつ崩していくしかないんだと思うんですよ。とっても地道だけど。

ネガティブな意見って言うのは、正直なところあんまり聞きたくないモノだけれど、場合によってはポジティブな意見よりも対応に直結できる場合が多いと思うんです。ポジティブな意見ばかりもらえて、どこからも評判がいいんだけど、どうにも結果に結びつかない場合って「みんな、いいって言ってくれるんだけど、どうしてだめなんだろう?」なんて迷走しちゃう。

一方、ネガティブな意見というのは、逆に解釈すれば「ここが改善されればいい!」という直接的なアドバイスにもつながっているわけですね。だから、ぱっと聞いたところ、誹謗中傷や偏見に満ちているように感じても、その中から得られるモノは多いんです。検討すべきポイントが分かりやすいし。

ただ、ネガティブな意見に対して、いくら言葉で「精神障碍者は怠け者なんじゃなくて、物理的に脳内の伝達物質が・・・」とか「彼らの中にもキッチリと議論して物事を前向きに進める力があって・・・」とか、数百回繰り返してみてもあまり意味がないと思います。そんな無駄なことに力を入れるよりも、実際にその姿を世の中に見せていくしかないんです。百の言葉よりも一回の体験で変わることはたくさんあります。

私は定期的に千葉県の就労支援組織の就労ミーティングにお邪魔しています。当事者の方が主体となって、社会に参画した上で困った点に対する相互アドバイスをするミーティングです。およそ半数以上はすでに就労をしている人々。そして未就労の後輩たちに社会へ参画するための、よりよい方法について自律的に伝えていく集まりです。

私が、ここの集まりで感銘を受けるのは、当事者の一人として「自分は精神障碍だからどうせ○○なんだ!」なんて言い出す人がいないこと。よくありがちな「我々は不当な扱いを受けている。悪いのは社会の方だ!・・・従って社会が先に変わるべきだ!」などという意見などまったく出ないんです。逆に、もしそんな場だったとしたら、私は何回も足を運んだりはしなかったと思います。(私にとって居心地がよくないからね。)

それどころか、仲間が悩みを相談した時に、同じ状況を抱えた他の仲間が、「そんなことは健常者だって同じ苦しみがあるでしょうよ。そこは仕事として乗り越える必要があるんじゃないですか?」など、まっとうな意見が飛び出す場所でもあります。誤解を畏れずに言えば、「本当にこれって当事者の集まりなの?」・・・と不思議に思えるくらいなんですね。常に現実に対して自分たちがどう歩み寄るべきか、どう表現すべきか・・・というのを真摯に考えている人たちです。

よく精神の方について言われることとして、「彼らは根性がないから集中力が続かない」なんていう話も聞きますが、そうじゃない人も大勢います。何せ、ぶっ続けのプロジェクト会議に集中して挑める人たちですよ。彼らのこういう姿勢がもっと世の中に認知されれば、今、社会で活用されずに眠らせている潜在的な戦力が日本の中に潜んでいることが分かるんだと思います。

私はこういう人を掘り起こしていきたい。ここでは詳細を書けないけれど、ある特定の分野で脚光を浴びるような存在にできていけたらいいなあ・・・と思っています。そのための構想・・・だいぶ固まってきました。さぁ、こっちもがんばらなくては!

あと一歩踏み出すための準備に全力で取り組んでいきますヨ!
↑その一歩が一番こわいというか、勇気がいるんですけどね(苦笑)。
↑今もハケンゆえ「安定」ではないけど、月収を手放すことになるんだから。

2009年6月21日日曜日

希望月収12万円以上

「精神の方(かた)」・・・というのは、いわゆる「精神的疾患を抱えた方」という意味でよく使う言葉です。・・・なんとなく隠語っぽい響きがありますけどね。ちなみに、もうちょっと中に入って話をする時には「当事者の方」になります。

それはともかく、私はこの領域の就労環境について興味を持っています。で、当事者の方々にお会いして就労状況などをヒアリングして回っているワケですが、なかなか光が当たらない世界だけに、新しい情報に触れるたびに未知の驚きを経験します。

まず、明らかになっているのは一般的に「精神の方」は、身体の障碍(しょうがい)と比較して企業から敬遠される可能性が非常に高いということ。(もちろん、そうでない企業もたくさんありますが。)

次に、救急救命士、美容師、指圧師などの資格制限のある職業に関して、そのほとんどが精神的疾患は制限対象になっているということ。職業の自由という観点から、完全に制限されているわけではありませんが、あえて望む場合は相当の厳しい審査が予想されます。

それから賃金が安くて、月収が手取り数万円ということも珍しくないらしいということ。もちろん障碍者の場合、障害年金を受け取れる可能性もあります。・・・あくまでも可能性ですが。

3級に認定されると、だいたい60万円を切るくらいの年額です。・・・何もしないで、さすがにこれだけでは生きてはいけない。月5万円たらず。ただし、これにしても会社勤めなどをして、厚生年金を支払っている必要があります。

「障碍者は障害年金を受けているから、何もしなくても食っていける。」・・・という思い込みが世の中で幅を利かせているような気もしますが、詳しく調べてみるとかなりの誤解ということが分かります。障碍者でも障害年金を受給できないケースも多いし、もらえたとしても、その年金では生きていくだけで精一杯という状況です。

ちなみに、2級に認定されると受給できる年額は上がるのですが、障害等級が2級となると就労どころか日常生活レベルで著しい制限があることが条件となります。そこでここでは3級もしくは受給を受けていない人について考えてみます。

で、独自に就労している当事者の方にヒアリングしてみました。

「いくら月収があれば納得できますか?」
→「最低限ですが手取りで12万円はあると助かりますね。」

えぇ?・・・すごく少ない・・・と正直なところ思いました。でも、さらにそこから深く考えると、この給与水準をとりまく事情がよく見えてきます。

その方の場合、精神疾患の事情で1日5時間の週3日=週22時間に労働時間を制限していました。仮に週15時間働ける人が、4週間(1ヶ月)ペースを崩さずに働いたとしましょう。すると月60時間ですね。

月60時間の就労で最低提示額の12万円を稼ぐために必要な時給を計算すると、120,000/60=2,000円となります。この時給で残業なしのフルタイムで働いたとすれば、1日8時間の週5日で4週間=月160時間で32万円になります。

・2008年度3月の派遣社員の平均時給が1,619円(エン・ジャパン調べ)。
・2009年度4月のアルバイト平均時給が955円(インテリジェンス調べ)

ちょっと同時期の調査結果を探しきれなかったのですが、こういう情勢を考慮した上で冷静にソロバンをはじくと、少ない就労時間で最低賃金12万円というのは、かなり浮世離れした願望ということになってしまうわけです。

さらに、職種別で最も高いシステム開発などの「IT関連」でも時給水準が2,059円(インテリジェンス調べ)。要するにハケンで最高値の業種についたとしても、最低賃金の12万円にやっと届くくらい。アルバイトの平均時給955円で考えたら月60時間で57,300円。残業なしのフルタイムなら152,800円。

つまり、就労時間数が大きく状況を左右するんですね。これを少しずつ増やさないことには、相当スキルが高くないと最低賃金の12万円に達することは困難だということですね。不幸なパターンとして考えられるのは、「企業側は努力して高額で雇用している」と思っているのに「雇用される側は月に12万円に達しなくて不満」という状況です。

雇用したい側の理解が今後も必要なことは書くまでもないワケですが、逆に雇用されたい側にも世の中をもっと知ろうとする姿勢が求められると思います。

企業側は障碍に関する理解を深めてよりよい環境を用意する工夫をするといいかもしれません。障碍者の側としては一歩だけ社会情勢と自分との関係を考えてみるといいかもしれません。

双方ともに背景や前提を理解して歩み寄っていく姿勢が必要なんだと思います。

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一部、記載に不正確な点がありましたので訂正しました。
ご指摘ありがとうございます。(2009/06/23)

2009年6月18日木曜日

一般論を裏返す

会社は仲良しクラブじゃない → 会社は仲良しクラブだ

いいんじゃないですかね。ある程度までは仲良しクラブで。もちろん、それが目的だ・・・とまではさすがにいえませんが。でも、昔の会社では社内運動会や社内旅行があったと聞きます。今の風潮から考えると、よっぽど仲良しクラブ的な空気感があったんじゃないかなと思いますよ。

能力主義だなんだかんだというのも否定はしないし、長所も多いとは思うんですけどね。でも、能力主義に徹して個人競争が激しくなった時に、ひとりぼっちになっちゃう人が増えちゃったんじゃないのかな。そして組織の中に愛がなくなっちゃった。

仕事でご一緒したことのある人事のオジサンが言ってました。

「昔はね、落ち込んでいるヤツが会社の中にいたらさ、誰ともなく飲みに誘い合ってさ、会社のメンバーぐるみで一緒に考えたり悩んだりしたもんだけど、今はそういう時代でもないのかなぁ。会社が仕事だけをする場所っていうのは寂しいねぇ。昔が全部いいってワケじゃないけどさ、最近の若いヤツはすぐに孤立しちゃうから見ててかわいそうだね。」

「この会社をやめちゃったら、大好きな仲間に会えなくなっちゃう。」って論理はビジネス的に正解じゃないかもしれないんだけど、離職率を下げたり、自分の方向性を見失っちゃったり・・・ってコトは少なくなるんじゃないのかな。

今は会社が個人の能力を交換可能なモノとして、簡単に売り買いするようになっちゃった。そして個人のほうも会社が交換可能になっちゃった。本当は、そこに信頼だの愛だのなんだのが残っていれば簡単に交換できる存在にはならないんじゃないのかな。

もちろんね、仕事をする集団だから厳しい状況もあったりするんだけど、ただ厳しいだけだったら、そのうち、仕事辞めちゃうと思うんだよね。厳しい状況でも信頼関係で結ばれているから、なんとか乗り越えようっていうモチベーションにつながるんじゃないかなと。

どれだけ理詰めで「ビジネス」を語ってみたところで、仕事を構成するのはひとりひとりの人間で、その人間には人生があって、感情があって、価値観がある。そもそも個性によって隔てられた別種の存在が手を組んで仕事をするためには、なんらかの接着剤が必要なんじゃないかな。

もちろん理想論なのは百も承知で、日々、会社の運営に苦心している経営者からしてみると、一笑に付される程度の話かも知れません。が、このままでは、何かマズイような気がしています。

理想と現実がかけ離れていることって珍しくなくて、だからこそ現実を理想に近づけていく価値があるんだと思います。馬鹿馬鹿しくても、まずは理想がないと走れないんじゃないだろうかとも思う今日この頃です。

2009年6月11日木曜日

ストレスを本気で考える

2008年度、仕事上のストレスが原因で精神疾患にかかり、労災認定された人が269人で過去最多だったというニュース記事をいろんな場所で目にします。

今、ハケンに言っている現場にも鬱病を抱えている人が働いています。まぁ、薬を飲めばある程度カバーができるという点と、IT業界自体がそういう人材がいても珍しくない現場なので、特に問題にはならないようです。まぁ、本人を見ていても自己申告しない限り、そうとは分からなかったくらいですけどね。むしろやり手に見えるくらい。

そうはいっても、そろそろ職場環境のストレスに関して、そろそろ真剣に考えるべき時期が来ているように思います。近年は不況で、右を向いても左を向いても人減らし人減らし・・・という傾向がずっと続いていましたが、基本的に日本は相変わらず少子高齢化という問題を抱えているわけです。

これから、どれだけ頑張って子供の数を増やしても、ヒューマンリソースの増加という意味でその効果が現れてくるのは、十数年待たなくてはいけないワケです。安易に外国人を呼んでくる・・・というのも、やや慎重になった方がいいと思っています。外国人を排斥しているワケではなく、日本という国家が外国人に対してどの程度責任を果たせるのか分からないから。いつか、社会情勢が変わってきた時期に、日本の無責任な対応で彼らに迷惑をかけそうな気がしています。

そういうところまで考えて、あえて日本国内の現存戦力で戦うことを想定してみます。となると、今まで戦力として見られていなかった層を掘り起こす必要が出てくると思います。ニートにしてもそうだし、高年齢層にしてもそう。また、障碍者と呼ばれている層についても貴重なリソースとして捉えていく必要があると思います。

さらに言えば、主婦層や若年層の社会参画をもっと考えてもいいと考えています。もちろん学業自体も専念するに値する大切なことだと思いますが、「学業」と「社会参画」は切り離さなければならないものとは思えません。自分が社会に直接触れることによって、社会を変えていくために必要な学業や未来設計について真剣に考えることができて有益だと思います。多感な時期に社会のコトを本気で考えることは、高い投票率にも繋がるんじゃないでしょうか。

そして、ここからが大切なところで、今、しっかり働けている人を損なってはならないということ。消耗品のように人材を切り捨てていたら社会が消耗するということです。自殺者を出してもいけないし、精神疾患に追い込んで社会から吹き飛ばしてもいけない。

そういう意味でも、今後、ストレス周りも含めた効率化が特に重要になってくると私は思っています。私に何かできるだろうか・・・と考える日々です。今、未来に向けて考えている事業もそこに密接にリンクしています。それはちょっと時間がかかるかも知れませんが、前を向いて歩いていくつもりです。

・・・という方向性を持ちながらも、今、自分にできる取り組みとして「すべらく!」というサイトを運営しています。意識の変革によって、少しでも幸せな方向に歩いていけることを願って作ったサイトです。

すべてはラクをするために・・・「すべらく!」
http://respect.arrow.jp/suberaku/

ビジネスパーソンが高みに登っていけるような自己啓発・・・というような高いレベルはぜんぜん目指していません。むしろ、今、どん底で苦しんでいる人たちになんとかいろんな選択肢を提供できないだろうか。ちょっとでも気分をラクにしてもらって、生きていくエネルギー源になれないだろうか・・・という思いでこれからも続けていこうと思います。

気が向いたら見てやってください。

2009年6月9日火曜日

自分の言葉

いろんな言葉が世の中にはあふれていて、それらを無意識または意識的に自分の体とか心に取り込んでいくわけだけど、「本当の自分の意見を持っているだろうか?」と気になる時がある。

テレビで見聞きする評論家の意見。特に政治評論家の言うことや経済評論家の言うことはもっともで、特に知識として自分の中で層が薄いと、自分の意見がそのまま評論家の受け売りになりやすいと思う。

たとえば現在の政治について思うこと。これを自分の知っている政治背景を元に話すことができるだろうか。たぶんできない。政治背景に関する知識の引き出しがあまりにも少ないからだ。政治家の誰かをこき下ろすにしても、テレビで報道された一部分の発言に振り回される有様だ。その人のことを何も知ってさえいない。

その人のことを何も知らない・・・といえば、ホリエモンこと堀江氏。マスコミが散々に悪い悪いというから、何となく悪いヤツだ・・・と思っている人が多いと思う。私もそう思っていたし、堀江氏の立場を擁護する意見などを言った日には、たいていエライ目に遭う。社会の敵を擁護するとは何事か・・・的な勢いで攻撃を受ける羽目になる。

私は頻繁に堀江氏のブログには目を通している。彼には彼なりの正義があって、それを勇気をもって実行しただけのようにも見える。そして私が読む限りではスジが通っているような気もしている。もちろん、私は彼のブログを読むことしか彼を知る方法を選択していないのだから、ブログだけを信じるのも危険なのかも知れないが。

ただ、マスコミのように声の大きい方だけを向いていてはいけないと思う。それぞれの人間の人生は一度きり(たぶん)と思われるし、その人生の中で、自らの意見の正しさを信じてほとんどの人は生きている。そうであるなら、その人が信じている意見にも耳や目を貸すべきじゃないかと思う。批判的な世論に対して無批判になってしまうのは危険なことかも知れない。

ともかく、一つのことをまっとうに自分の言葉で論じるためには、その背景に潜むモノをしっかりと知る必要があると思う。それは誰かから伝え聞いた話でなく、自分が実際に体験したことをベースにするのがよいのだと思う。

自分の信念・・・を語る時に、それは本当に自分の信念なのか、自らに問いかけたい。自分のモノだと思っていて、実は借り物だったということはあるものだから。

2009年6月5日金曜日

趣味≠仕事?

「趣味は仕事にしたくない」って話をよく聞く。これは田舎で「東京は人が住むところじゃない」という話と同じくらいによく聞くような気がする。

これ、ホントかよ?・・・って思う。

プロゴルファーになる人はゴルフ嫌いなのか?
プロ野球選手になる人は野球が嫌いなのか?
プロテニスプレイヤーはテニスが嫌いなのか?

そんなことないだろうと思う。

もちろん、純粋な趣味のように勝ち負けなんてどうでもいい・・・というわけにはいかない。負ければ収入を失うことになるから、プレイそのものを楽しみたい人という人には向かないと思う。

でも、やるからには勝ちたいじゃないか。負けてもいいや・・・なんて思うスポーツはやらない方がいい。だって最初からメンタルで負けているんだから。負けたら死ぬほど悔しいところまで本気でやるからいいんだと思う。

陶芸職人は本心では陶芸が嫌いなのか?
プロミュージシャンは音楽が嫌いなのか?
ジャーナリストは真実の追求が嫌いなのか?

・・・リスクを背負ってまで動いている人は、そんなことないような気がする。

ハケン現場では頻繁に人事異動が行われている。いろんな部署を体験させるという名目で、やや適材適所を度外視した形でプロパーさんがいろんな部署を回遊している。

前にお世話になったプロパーさんが、先日、ボソリとつぶやいた。

「配属になった部署でやりたい仕事がまったくみつからない。」

すごいなあと思った。それでもずっと働き続けるんだから。

たぶん世の中にはこういう辛抱強い人が多いんだろうなあと思う。特に入社が難しい企業に一度入ってしまったら、よっぽど勇気か独立心が強くなければ辞められないんだろうなあとか。だって普通に考えたらもったいない。

でも、無事にいけば定年までずっと自分をごまかしながら、本心では面白くもなんともないことをずっと続けていくことを想像すると、個人的には気が遠くなってしまう。無論、余計なお世話なんだけど。

確かに「趣味≠仕事」のケースは多いと思う。
でも「趣味≒楽しい≒仕事」であってもいいと思う。

「楽しくないことが仕事だ」という人は吐いて捨てるほどいる。

昔、自分たちで会社をやっていた時、ちょっとセレブっぽいスポーツクラブに通っていたことがある。そこにはビジネスオーナーや投資家、不動産屋、芸能人などがウヨウヨしていた。

たまに会員同士の話を聞いていると「ビジネス」の話を楽しそうにしていた。会社の「仕事」ではなくて、自分の意思で動かしている「ビジネス」。「仕事が趣味」っていう人が居酒屋なんかによくいるけど、それとはちょっと違う次元でビジネスを楽しんでいる人がいる事実に驚いた記憶がある。

今はそのスポーツクラブをやめてしまったけれど、その時の記憶は脳裏を離れない。
あの世界で生きていきたい。

2009年6月4日木曜日

やらされ仕事

「やらされ仕事」というのは、自分の考え方を変えることによって「やりたい仕事」に変えることができます。すごく前向きに考えると。場合によってはものすごく前向きに考える必要があるけれど。

そういう意味では、ハケンの現場にも仕事として面白かったり、興味を持てる部分というのはけっこうあります。いろんな学びができます。ただ、私にとって「ハケン」という立場は、多くの「大学生」に通じるポジションだと思っています。

・学ぶことは大事だけど、卒業するためにいるということ。
・どれだけ馴染んだとしても、ずっといられないということ。

たとえどれだけその現場が好きになったとしても、登用されることはないはずで、万一、登用されたとしても社内政治で生き抜いていく・・・そういう人生は私には向いていません。私にとっては楽しくないから。

そもそも、私は会社員ではない生き方をしたくて、そのために資金をためたくて、それでハケンをやっているんです。

どうして、こんなコトを今さら書いているのか。

気がついたら私は2年以上もハケンをやっています。3ヶ月ずつ契約を更新をしながら、季節の変わり目を何度も見てきました。

どういう仕事でも「やらされ仕事」から「やりたい仕事」にすることはできます。でも、本当に「やりたい仕事」ではないことをしっかり自覚しないとね。

最近、そんな気持ちでハケン、やってます。

2009年6月1日月曜日

ヒューマンスキル

ハケンの現場にスゴイヤツがいる。

どんな人にもほとんどタメ口で、やたら馴れ馴れしく声を掛けてくる。
丁寧語も最低限。ちょっと間違えれば「失礼なヤツ」で終わりそうな感じ。
ものすごく開けっぴろげで、感情表現もストレート。

でも、憎めないキャラなんだ。しかも仕事はシッカリしている。
どんな気むずかしそうな相手にも、気後れすることなく声を掛けている。

ただ、よく観察していると、実はかなり距離感を読んでいるように見える。
天然なのか、才能なのか、つかず離れずの絶妙の空気感覚だ。

私にとってハケンは通過点だと思っている。
そうでなくては、ハケンをやっている意味がないと思っているから。
未来への夢があるから、ハケンをやっているんだから。

通過点・・・。
確かに通過点に過ぎないのだけれど、こういう才能に出逢うと嬉しい。
もしかして何かが吸収できるんじゃないかと思うと、ワクワクする。

自分の特性を大事にしながら、学べることを学んでいきたい。