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2012年3月29日木曜日

均一性と職人芸

私は「みんなが同じことをできる必要はない」と思っている。就労移行の場において、一般的に「均一的に社会に出て行ける人材を育成しましょう」というだろう。もちろん、それはそれでひとつの価値観だ。しかし、結局のところ、それは学校教育の域を出ない発想だと思う。

私は長いことIT業界に身を置いてきたが、学生の頃は数学、物理が好きではなかった。世界史、音楽の授業もうんざりした。なにしろ私にとって全くときめく内容ではなかったからだ。その逆に、国語は好きだった。授業中に本(教科書)を読んでも怒られないからだ。同様に絵を描いていても怒られない美術も好きだった。

「好きなことだけやって生きていけると思うな!」とか「好きな仕事に就けている人間は一握りだ!」とはよくいわれることだ。確かに一理ある。しかし、大人がこんなことをいっているから、子供が仕事に夢を持たなくなるのだと思う。「自分が好きな仕事に就けなかった経験をもとに、子供に偉そうに説教する」ということが無自覚に行われていないだろうか。

話を本筋に戻そう。私は好きな科目だけは成績がよく、逆にそれ以外は軒並み成績が悪かった。私にとっては成績というものは興味の範疇になかったのだが、結果として「平凡よりやや下」という評価をもらっていたと思う。しかし、大人になってからもそういう価値観が必要だとは思わない。

「すべての教科がオール5」……というのも、私にとってはいささか奇跡のように思えるが、社会人になってから「全ての仕事が完璧」という話はそれ以上に聞かない。八百屋としての目利き、漁師としての腕前、建築家としての才能、手際のよいプログラム開発、俳優としての卓越した演技力……これらを一人で完璧にこなせる人がいるだろうか?

いない。
仮にいたとして、それぞれの仕事を職人芸の領域まで高められるだろうか?

無理だ。
職人芸の領域に達するためには、一心不乱にその仕事だけに打ち込む時間が必要だ。

社会にある膨大な種類の仕事は、それぞれに適した人が力を合わせて運営している。品質の高い仕事ともなると、それぞれの領域でのエキスパートが力を合わせる。それぞれのエキスパートは自らの領分で高いクオリティを保証できればいいのではないか。

そういう点で、「好きなこと」や「やっていて疲れないこと」を探ることはとても重要だと思う。私が運用に携わっている就労移行支援で心がけていることは「楽しさを見つける」ということだ。心から仕事を楽しんでもらいたいと思っている。楽しさの中から「こういう仕事だったら続けていいかな?」が生まれてくるのではないか。

そして、私の個人的な意見としては、スキルの「均一性」よりも「特異性」を伸ばしてもらえたら……と思っている。「みんなと一緒になりましょう!」というのは正論だが、「均質性」を武器にして戦っていくことは彼らにとっては不利だと思う。

あえて理由をはっきり書こう。「社会に参加する時期が遅れてしまっていること」自体が、就労移行支援を受ける彼らにとって逆風なのだ。障害を持たずに「均質性」に優れた人は社会にいくらでもいる。そういう土俵で「均質性」を売りにしていけば、結果的に買い叩かれるしかない。

現状としては、「買い叩かれてでも就職させたい」というのが、それぞれの就労移行支援事業者の本音だと思うし、それを否定することもできない。「少しでも幸せになるためには」という方向性で現実を模索すると、どうしてもそこに行き着かざるを得ない。

しかし、私はここで葛藤している。素晴らしい「特異性」を秘めた人材を安売りしていては、いつまで経っても状況は好転しないとも思うのだ。政界や経済界が「そういう優れた人がいるのなら積極的に活用しないと損だ」と思わせる実例を作らなくてはならない。

もちろん、今はそういう世の中ではない。ただ、何の根拠もないが、私は「才能がありながら社会に受け入れられない人の真価が理解される社会」の礎になる「何か」を作り出せるような気がしている。かなり本気でそう思っている。

なぜなら、私は知ってしまっているからだ。障害者手帳を持ちながら、輝かしい才能を持っている人たちを。

2012年3月21日水曜日

ネスカフェ・ゴールドブレンドの詰め替えの謎


昔はそれほど好きでもなかったコーヒーを最近はよく飲んでいる。毎日飲んでいるので「愛飲家」という呼ばれ方をしても差し支えないレベルだ。自宅でも朝はコーヒーを飲むし、仕事中でも3杯以上は飲む。特別にこだわりはなかったはずだが、気がつくと「ネスカフェ・ゴールドブレンド」(以下、「NGB」)に落ち着いている。「違いが分かる男」というわけではないが、他のコーヒーよりも香りが気に入っている。

さて、世の中の不思議を眺めていると、思わぬ発想のヒントをもらえることがある。ひとつひとつはたいしたことがないのだが、突き詰めて考えてみると、いろいろな思考のトレーニングになるような気がする。そんな「ちょっとしたこと」として、NGBの「詰め替え」について考えてみた。実はNGBには不思議な現象がある。どうもスーパーで安売りされる時の価格設定がおかしいのだ。

(1) NGBには「ビン入り」と「詰め替え」がある。
(2) 「ビン入り」よりも「詰め替え」の方が内容量が少ない。
(3) たいていのスーパーでは「ビン入り」より「ビン入り」の方が安い。

つまり、

【量】 「ビン入り」>「詰め替え」
【価格】「ビン入り」<「詰め替え」

ということなのだ。正直なところ、あらゆる点で「詰め替え」は負けている。あえて弁護すれば「環境配慮」という点で優れているだけだ。いや、しかし、ガラスもプラスチックのふたもリサイクルされるのではないか?……確かに加工時のCo2排出量は少なくなりそうだが、どの程度効果があるのかよく分からない。

当然、他にも同じことを思った人がいたらしく、たまたまネスカフェのサイトを覗いてみたら、ネスカフェの掲示板に「詰め替えの方がビン入りよりも量が少ないのに、価格が高いのはおかしい」と書き込んでいる人がいた。

……しばらくして、何かが起こったのか知らないが、スーパーでの価格設定が「ビン入り」は「詰め替え」よりも高い価格設定になるようになってしまった。なんとも「ヤブヘビ」的な感じで残念な状況になってしまったのだが、なぜ、このような状況になったのだろう。なんとなく考えてみた。

(1) おそらく製造の原料コストは「ビン入り」>「詰め替え」だろう。
(2) しかし「詰め替え」の製造ラインの開発コストは回収しきっていないだろう。
(3) また「詰め替え」機構に特許料が発生しているならそこもコスト増だろう。
(4) ただし「詰め替え」は「ビン入り」より軽量なので輸送コストでは有利だろう。

長期的には洗剤の詰め替えパックと同じように、製造コストが安くなるであろう「詰め替え」製造に主軸を映してよさそうなものだが、なかなかそうはならないと思う。その理由をいくつか想像してみた。

(1) 洗剤と違って風味を封印する仕組みにガラス以上の管理コストがかかるのでは?
(2) 洗剤と違って出先で購入される可能性があり「詰め替え」では機会損失があるのでは?

以前、紙パックの飲み物に「薬品臭」が外部から移ってしまい問題になったことがあった。そういう意味で(1)を考えた。液体と固体の差はあるが、外からの臭いが紙を通過しないようにしないといけないし、また内部からの香りを逃がさないようにする必要がある。このあたりの技術開発には相応のコストがかかっているような気がする。出荷量が上がれば解決できるかもしれないが、現状では難しいのかもしれない。

それから、インスタントコーヒーが職場の近くのコンビニなどで購入される可能性を考えると(2)も想像できる。おそらく「詰め替え」を主力商品にするのは企業として勇気がいるだろう。洗剤は生活必需品なので、ある程度、定期的な需要が見込まれる。また定番化すれば使われる場所も限定されるので「詰め替え」の売れ行きも想定できる。しかし、コーヒーは嗜好品なので、他社製品からNGBに買い換えようと思った時に「ビン入り」がなければ、そのまま機会損失になってしまう。

機会損失を防ごうとすると、やはり「ビン入り」が主体で、製造コストの回収も考えなくてはならない「詰め替え」には、あまり力が入らないということなのかもしれない。ただ、そこで手をこまねいていたら、どう考えても消費者にとって嬉しくないことづくめの「詰め替え」は受け入れられないだろう。つまり「詰め替え」は、作れば作るほど赤字になる「お荷物商品」になってしまう可能性がある。

そうしないための経営戦略としては、「ビン入り」の価格は下げさせず、その代わり「詰め替え」を価格優遇する方法があると思う。つまり、「一度『ビン入り』を買ってしまえば『詰め替え』でランニングコストが安くなる」という刷り込みをすればいいのだ。こうすれば、消費者にとってNGBが定番化しやすくなるし、「詰め替え」の売り上げも安定してくると思うのだ。独禁法を恐れなくても仕入れ値の設定で何とかなると思うのだが……。

と、まあ、私は小売業でも製造業でもないのだけれど、ちょっとしたことでいろいろな経営シミュレーションを楽しむことができる。もちろん、優秀なブレーンが結集している大企業がやらないのだから、きっと現実には複雑な理由がいろいろとあるんだろう。それでも、いろいろと考えてみることで、自分が普段やっている仕事の今後の展開を考えるときに、こういう積み重ねが思考に深みを与えてくれるのではないだろうか。

妄想に近いのだが、こういうことを考えている時間はなんとなく楽しい。


◆Amazonで調べてみた……

すると、ある意味で驚きの事実が。

コンビニ価格ですら700円台のNGB(ビン入り)の新品価格って1469円だったらしい。普通に半額ってことか。たまに500円以下の時もあるので、正価から考えると3分の1も値引きされることがあるのか……。

それに対してNGB(詰め替え=エコ&システムパック)は新品価格が868円という表示。これが値引きされても700円台ということは、20分の1程度の値引き。ビン入り150グラム用の詰め替えは120グラムなので、実質的な値引き率はもっと悪いということになる。

◆というか方向性がそもそも違う

ただ、もっと調べてみると違う方向性が見えた。
どうやら、「ビン入り」の詰め替えというよりも「ネスカフェバリスタ」というコーヒーメーカーで使うカートリッジという位置づけなんだろう。確かにこの機械に詰め替えるとなれば、ビン入りは逆に不便だ。

逆に「詰め替え」を使えば手元が狂ってNGBをぶちまける心配もない。コーヒーメーカーの周辺にNGBをぶちまけたら相当掃除が面倒くさいと思う。掃除機で吸い取っても、その後に水拭きしたらそのままコーヒー色の汚れになってしまうのだから。

単に価格で勝負するためのラインナップというよりも、コーヒーメーカーへの詰め替え機能に特化した商品で、「ついでに『ビン入り』にも使えるよ」……という販売戦略なんじゃないかと思う。

「詰め替え」の価格設定がおかしいと思っていた人は、ネスカフェバリスタを購入してみると「機能性への対価」が分かるかもしれない。

2012年3月14日水曜日

軸を持った生き方


現在、私は複数の収入源を持っている。これは多くの方々に支えていただいた結果、現在に至っている。このブログを始めた時点で願っていた状況になっているのはありがたいことだ。もっとも、最終的にはふたつにとどまらず、あといくつかは増やしていきたい。

複数の収入源を持ちたかった理由はいくつかある。ひとつには「自分の軸でブレずに仕事をする」というスタイルを貫きたかったからだ。会社員という肩書きで生きていた時期もあったが、組織の構成員として生きるためには、時として「自分の思い」を噛みつぶす経験をしなければならない。

生き方のポイントとして「意に沿わない状況をどうやって上手に納得するか」というテクニックは必要だ。目の前の「イヤなこと」を「前向きな機会」に変換する能力は人生全般にとって有益なスキルだと思っている。しかし、「上手に自分をごまかす」ことが慢性化してもいけないと思うのだ。

そこで私は、ひとつの収入源に依存する生き方をやめようと考えた。そうでなくては「一つの収入源=一つの価値観」に縛られなければならないからだ。つまり、自分の軸と大きく外れる価値観を「収入源」が要求してきた時に、その「収入源=価値観」と決別できるようにしたかったのだ。

残念なことに、人間は食っていかないと生きていけない。食うために必要な収入をひとつに絞ってしまうことは、自分の「軸」を重視するよりも「収入源=支配」に屈服せざるを得ない状況を増やしてしまう。もっとも、だからといって、今の私も「やりたい放題」というわけではない。

しかし、魂を売り渡さなければならないほどに大きく異なる価値観にぶつかったとき、自分が自分であるために決断しなければならないこともあるだろう。私は自分の収入源を守るためだけに、魂を売り渡すようなことはしたくない。そのためにも収入から自由でありたいと願っている。

今のところ、まだまだ道半ばだ。複数の収入といっても安定したものではない。守るべき家族がいる中で、ある意味でリスキーな選択をしているかもしれない。しかし、「軸を持った生き方」が価値を持ってくるのはこれからなのだと信じている。

ふらふらした価値観で、何かを積み上げていくことは難しいと思う。特に人材を磨いて社会を変革していくという目標は、他の人の人生にも影響を及ぼすことだ。だからこそ、自分の中の「正しさ」を信じて歩んでいくしかないのだと思う。



2012年3月7日水曜日

ラクなことの是非

実は、このブログのエントリは書き上がるまでに数日をかけているものがある。「いい内容にならないから毎日ずっと考え続けている」……というわけではなく、ぱっと書き始めてから「下書き」の状態で保存して、そのままになってしまっているものがあるというだけのことだ。

シロウトという気楽な立場ということもあり、書いていてあまりテンションが上がらなかった原稿はそのまま放置してしまうことが多い。そして、もっとテンションが上がりそうな原稿に取りかかる。だから、このブログの原稿置き場には「未公開」のエントリが並んでいたりする。

そして、一度テンションが落ちてしまった下書きも、時間をおいておくとテンションが回復していて、ずっと筆(キーボード?)が進むことがある。テンションの下がった状態を無理に続けることは、精神的にも時間的にも無駄なことだと思っているので、私にとっては現時点で最適解なのだ。

さて、久しぶりに古い「下書き」を覗いてみたら、なんとハケンをやっていたときの未公開原稿を見つけた。ちょっと加筆してみようかと思ったが、驚くべきことに一年以上前に書いた原稿は、今の自分が読んでも納得する内容だったので、そのまま公開してみようと思う

▼▼▼==========【ラクなことの是非】==========▼▼▼

「すべらく!」というサイトを運営していることからも分かるように、私はラクをすることが大好きだ。ラクをするための仕組みを考えることが大好きだ。そういうコトを書くと「最近の若いヤツは汗水たらさないで、ラクするコトばっかり考えやがる!」とか「ラクばかりして、汗水をたらさない仕事なんて仕事じゃない!」なんて白眼視される傾向が強いんじゃないだろうか。

汗水たらして働くコトはそれはそれで素晴らしいことだと思う。しかし「ラクするコトばっかり考えやがる!」という批判についてはいささか腹立ちを覚える。私の感覚からすればまったく時代錯誤で前時代的なトンチンカンな批判だと思う。少なくとも自分の生きてきた世界の価値観だけを見ていて、これからの未来をまったく見ていないと個人的に思っている。

汗水たらしてラクをしないことが美徳だと主張する人は、車にも電車にも乗らないほうがいいだろう。ラクするコトを考えずに汗水たらして歩けばいいじゃないかと思う。人と話がある時は携帯電話どころか電話も使わず、直接、相手のところまで汗水たらして出向いていけばいいんだと思う。

わざわざそんな面倒なコトをしたくない「ラクをしたい」人がいたからこそ、車や電車が存在するし、電話が存在するし、さらに便利な携帯電話が存在する。自分を取り巻く世界が受けている恩恵は「ラクをしたい」という願望から生まれていることが多いと思う。

自らがそういう便利なモノの恩恵を受けていながら「ラク」を批判することは明らかな矛盾だ。みんなが汗水たらして働く仕事をするようになったら、間違いなく今までにいたる文明は崩壊するよ。「ラクをすることを考えず、つらくても必死で汗を流すことがいい。」というのは、完全に旧時代的なファンタジーだと思う。現代社会には「肉体労働」だけじゃなく「頭脳労働」も必要なのだ。どちらかだけではダメだと思う。

ただ「ラクをする」というのが大好きな私も、「ラク」をする「ラク」の種類にはこだわりがある。

「何も考えなくても、ずっと同じコトだけ続けていればいいからラクだ。」

というのは、私にとっての「ラク」じゃない。ラクになったことをずっと続けるだけというのは苦痛だ。私にとっての「ラク」とは、今まで「ラクじゃなかった」ものが「ラクになった」と実感できるコトだ。だから、何かひとつをラクにしたら、何か他の「ラクじゃない」ものを探し歩くことになるんだろうと思う。

そういう意味では、私自身も矛盾を抱えて生きている。ラクを実感するにはその真逆を知らなければ、決してラクをできないということだ。ラクをするコトが大好きな人にとって、もしもラクしかない世界が実現してしまったら、何もするコトがない世界になってしまう。

ちなみに、今、ハケンをしているが、これもまた「ラク」な環境と言えるだろう。仕事の根本を考えなくとも仕事が与えられ、それを解決さえしていればお金がもらえる世界なのだから。その代償としてプライドを売り渡さなければならない場面はあるが、仕事を必死に考えなくても生きていける環境だ。自分で仕事を考えて、仕事を引っ張ることを考えたらどこまでもラクな世界だと思う。少なくとも短期的には。

ただ、長期的に今の環境を眺めてみると、私にとっては決して「ラク」な環境でないことを知っている。ハケンだけでやっていくという選択は、自分で自分自身の生き方をコントロールできない生き方だからだ。仕事の根本を考えなくてもいい環境は、仕事の根本を考える力が鍛えられない環境なのだ。大した技術力がなくとも回ってしまう環境にいれば、それ以上の技術力を身につけられない環境なのだ。これほど危険な環境があるだろうか。

また、時間の経過に従って自らの体力も経年変化することだろうし、時間を重ねれば重ねるほど契約の打ち切りリスクも増大するだろう。そして10年続いたとしても、時給はいつまでたっても据え置きだろう。もっと現実的に考えれば減少方向に移行することも想像に難くない。10年前に同じ現場にいたプロパーとは驚くくらいに収入に格差ができているだろう。その時にハケン以外の生き方をしようとしても、その時点で選べる選択肢はほとんど枯れ果てているはずだ。

これがハケンをずっと続けていった先に見える悲劇のシナリオだ。どうしてここまで最悪のパターンを考えるかといえば、自分でコントロールできない力に寄りかかって生きる場合、その力が影響を示す範囲でしか生きていけないことを意味しているからだ。中途半端な飼い犬は捨てられた後がミジメだ。エサをもらうことに慣れてしまい、自分でエサを確保できなければ死んでいくしかない。

このように、短期的に「ラク」そうに見えることには大きな危険が潜んでいることがある。さりとて、長期的な「ラク」だけを追っていると、苦労した経験だけを残して早死にしてしまう可能性もある。だから「ラク」をするにしても、「近い未来」と「遠い未来」の両方をバランスよく追いかけることが必要なんだと思う。
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今もハケンをしている人にメッセージを送るとしたら、「夢を持ってハケンをしてほしいな」ということ。ただ、明確な夢がないなら、なるべく早くハケンを辞めて正社員になった方がいいと思う。「それができないからハケンなんだ!」という方は、遊ぶ時間を削ってでも新しいスキルを身につけた方がいい。「ハケンは『いつか切り捨てられる宿命』なんだ」ということを忘れちゃいけないと思う。