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2012年7月25日水曜日

子供から学ぶこと

私には1歳になる娘がいます。子供がいる人なら、ああそうだよね……と思うかもしれませんが、寝付く前に思いっきりグズることが多いです。特に、今まで遊んでいて、急にグズるようになってきたなと思うと、眠たくなって暴れたり泣いた挙げ句に寝てしまいます。「なんで静かに眠れないんだ?」と大人はつい思いがちですが、ちょっと考えてみました。

眠くなってくると……
(1) なんだか急に楽しくなくなってくる
(2) 体がだるくなったり頭が働かなくなる
(3) 意識が遠くなって周囲の声が聞こえなくなる

(1)と(2)は大人になっても実感できそうです。

最初の(1)は「モチベーション」の持続に関連します。本質的に人間は「強制されること」よりも「自分がやりたいこと」の方が能率的で疲れにくいものです。なぜなら「楽しい」という感覚がエネルギーになるからです。「三度の飯よりも○○が好き」というのもそういうことですね。それにも関わらず、ひどく疲れてくるとどんなに好きなことでも楽しくなくなってしまいます。つまりモチベーションを持続するためには休息が必要だということです。

次に(2)ですが、その人の身体に合わせた休息って大切だなってことです。だんだん成長してくるといろんな感覚が摩耗してきます。疲れてくるといろんな変調を感じるはずなのに、「がんばれそうだ!」なんて朝まで徹夜をしてしまい、挙げ句、「このまま一日いけそうだ!」なんて体験をすることが人生の中で何度かありますが、本質的にはスペックが著しく低下していることに間違いありません。スペック低下の違和感に気づくことは大切です。

最後の(3)については、大人になると意識しにくくなる感覚かもしれません。眠くなるとだんだん他の人の声が意識に届かなくなりますね。しごく当たり前のことです。でも、生まれてからあまりたっていない子供にとっては「眠る」ということは恐怖の対象ではないでしょうか。なぜなら「自分がいなくなってしまう不安」や「ひとりぼっちになってしまう不安」と戦わなくてはいけないからです。

成長するに従って、「しばらく眠ると目が覚める」という事実に慣れていくものですが、そういう経験が十分に蓄積されるまでは毎晩が不安との戦いです。疲れて急速に寝てしまえばいいんですが、中途半端に意識がある状態で徐々に眠りに落ちていく感覚は、とてつもなく怖いものでしょう。基本的に「眠りに落ちていくこと」と「死んでしまうこと」の恐怖は同一線上にあるような気がします。

しかし、ここにも大人が学ぶ点はいくつかあると思います。それは、「自分に与えられた時間は有限であること」なんです。生きていると、ついつい惰性で「明日があるさ」と思ってしまいます。ほとんどの場合は「明日」がやってくるでしょう。しかし、そう思っている人の中で数パーセントは毎日どこかで命を失っています。一度、眠ってしまったら、次に目覚める保証って「実はどこにもない」のです。

子供の頃に「眠るのが怖かった」ことを思い出してみましょう。または「余命宣告をされた自分」を想像してみましょう。ほとんどの人は眠ることが怖くなるんじゃないでしょうか。もちろん悟りを開いた人なら別ですが、やはり「自分がいなくなる」という感覚は大きな不安を伴うと思います。そこで、とても平凡な結論に行き着くのですが、「一日一日を悔いが残らないように生きていきましょう」ということなんです。

自分でも思います。「そんなことは改めて気づかなくても、最初から知っているレベルの話だ」って。でも、知っていても「毎日、人生を味わい尽くして生きていますか?」といわれるとそんなことはないんですよね。「まぁ、味わうほどの人生じゃない」と思ってしまっていたりしませんか。「毎日がイベント……なんて人生はどこに存在しない。日々は平凡なものだ」とか思ってしまっていませんか。

きっと、それは「知っている」けれど「できている」ことではないということです。本質的に命はお金で買えません。気が遠くなるほどのお金を持っていたスティーブ・ジョブスも世を去りました。仮に天寿を全うできるほどの健康な人でも、ある日突然に災害の犠牲になることだってあるんです。さまざまな瞬間で「悔いが残らない」生き方をしていきたいものです。

2012年7月11日水曜日

離職者を生みにくい環境

「仕事にはつまらないことがある」というのは正しくて、そしてその一方では間違っていると思います。人間にとって「意味があるのか分からない行為」というものは、比較的、つまらない仕事になりがちです。しかし、意味が見いだせれば面白い仕事にもなりえます。

そんな中で、メンバーを引っ張る人間は「仕事の楽しさ」を伝えることも重要な仕事のひとつなのではないかと、最近考えています。自分が行っている仕事がどのような位置づけにあって、どのように貢献できるのか……というナビゲーションは重要だと思うんですね。

もちろん、状況によって「なんでもいいからやってほしい」という事態もあるわけですが、それでもきちんとフォローをすることは、思いのほか重要なのかもしれません。こう書くと「それは過保護だろう」と思われるかもしれません。

確かに私が送ってきた社会人生活でも、そんな手厚いケアはありませんでしたから、おそらく現状の世の中において「過保護」なんですよね。それでも私は「仕事の楽しさを伝えること」を試してみる価値はあると思うんです。

もしかすると、こういう逸話を聞いたことがあると思います。ある石工職人の話です。

◆三人の石工職人が石を積んでいる仕事場にて……

仕事場を通りかかった旅人が、一体何をしているのか職人に尋ねました。「どうしてあなたは石を積んでいるのですか?」と。

1人目はこう答えました。
「石を積むと親方からご褒美がもらえるんです」

2人目はこう答えました。
「この石を積んで美しい壁を作っているんです」

3人目はこう答えました。
「ここに立派な大聖堂を建てているんです!」

多少オリジナルのストーリーとは違うかもしれませんが、この話はそれぞれの「仕事に対する視点」の違いを表現したものです。視点の広がりという意味では3人目の答えが望ましいことは書くまでもありませんね。

なぜって、「ご褒美<美しい壁<大聖堂」というケースを考える場合、大きい方が、小さい方の要素を全て包含しているからです。つまり「美しい壁を作る」ことには「ご褒美を得る」という理屈が含まれていて、「大聖堂を建てる」には、残りの二つが含まれています。

このように、「視野が広がる」ということは、そこまでのレベルのものをすべて内包しながら、さまざまな判断基準を持つことになるんです。

 ・ご褒美をたくさんもらうためには → 壁を素早く美しく作ること
 ・歴史に残る大聖堂を建てるためには → イメージに合う壁を作ること

つまり、仕事の最終形に意識が近づけば近づくほど、仕事の品質が高まる傾向があると私は考えています。逆に「単にお金だけ」だけが目的で、仕事に対する興味や美学がなければ、仕事自体に魅力がないわけですから、すぐに他の仕事に移ってしまうでしょう。

だから、より仕事の最終形を意識するような「3人目の石工」を育てた方がいいのですが、そのためには、メンバーを引っ張る人間が仕事の最終形を意識していないといけませんし、その最終形を伝える努力を怠ってはいけないわけです。

たとえば、そこの親方がちゃらんぽらんだったとしたら、次のようになるでしょう。

石工:
「一体、この仕事は最終的にどうなっていくんですか?」

親方:
「生意気なやつめ、お前にこの仕事を理解するには10年早い。お前は黙って石を積んでいいんだ。ご褒美をくれてやるから、お前のようなヤツは何も考えないでとっとと働け!」

あーあ、これで、前途有望だった石工は「3人目の石工」になるチャンスを失いました(笑)。このように、仕事先のリーダーの意識がそれ以上に成長する人材の可能性の芽を摘むことがあるわけです。残念ですが、けっこうそういうこと、多いですね。

もちろん、その一方では「経験を積まないとできないこと」があるのも事実で、そうなると、どうしても時間をかけなくてはならないこともあります。しかし、その場合はその場合で、「現在の状況」と「今後期待できる状況」を伝える価値はあるんだと私は思っています。

と、思っていながらも、「実際に経営者の経験も雇用をした経験もしたことのないヤツに、一体、何が分かるっていうんだ!」と言われてしまうとぐうの音も出ません。いやいや、悔しいから書いておきます。「ぐう!」(笑)。

私にとって「多くの経営者」がどう思っているかってのはあまり意味がないのです。むしろ、常識と思われているところを熟慮の上でひっくり返すことにこそ意義があると思っています。それが「経営者にとっての常識」であればあるほど「経営者にとっての盲点」である可能性は高いわけで。

私はこれからの数ヶ月でその答えを出していくつもりです。

2012年7月4日水曜日

いつか記念碑が置かれる日


7月から新天地での「新しい試み」が始まりました。でも、まだ、全容は誰にも分からないのです。なぜなら、これから関係者全員で「ステキな環境」を構築していくからなんです。基本的に「すべてはこれから」と書きつつも、私が理想とする経由地やゴールは頭の中にできあがっています。

じゃあ、ここに書こうよ……というところなのですが、書きません(笑)。なぜなら、私が考えていることが、

(1) 実際に試してみてニーズや効果がありそうなのか?
(2) その内容が仲間に認めてもらえることなのか?

を、「独善的」にならず、慎重かつ大胆に検証しながら進めていきたいからです。時に「革新的なこと」をやろうとすると、「独善的に突っ走る」という行動が必要です。これは間違いありません。しかし、なぜ、私があえて「慎重」を選べるのかといえば、今回の関係者全員が「フロンティア精神」の持ち主だからです。

今でこそ、私の中では安定してきた「即戦力ITコース」という講座も、最初のうちは危険運転の連続でした。私の決断によって受講生を一気に失ったこともありました。実験的な試みの失敗は、そのまま運営組織にご迷惑をかけることにもなりました。それでも、私を信じて講座を継続させてくれました。

そして、まだ道半ばではあるものの、その講座を通じて精神の当事者が「本気で戦える」可能性を心の底から確信するに至りました。そういうきっかけを与えてくれた仲間と新天地を開拓できるということは、逆に自分自身の行動をよく考える必要があると思えるのです。

具体的に今後のことは何も書いていませんが、今回のプロジェクトにおける私の行動指針は明らかにしておきたいと思います。

(1) 当事者に渇望されていながら誰もやらなかったことを試す。
(2) 当事者の限界をこちらから決めるようなことはしない。
(3) 「つらい」ではなく「楽しい」という感覚を呼び覚ましていく。
(4) 「自分で動く」ことの価値と喜びを体験していただく。
(5) 「訓練のための訓練」ではなく「リアルの体験」を重視する。
(6) これらすべてが雇用する企業にとって「価値」となる形にする。

こうやって書いている中でも頭の中で、いろんなアイデアが発泡酒の泡のように湧いてきます。そして、「それを現実化するまでの距離の近さ」を思うとわくわくします。「法定雇用率のためになんとなく雇用する人材」ではなく「本当に期待せざるを得ない人材」を輩出できる環境を目指したいと思います。

人間はね、飼い犬じゃないんだから。「命令を聞いて、餌をもらえて、生きてさえいればそれで幸せだろ?」なんてことはないんですよ。どんな人でも生まれた時に、いろんな人との違いを持つんだけど、それがたまたま「障害」と呼ばれる違いだったりすることがあるんですよね。

じゃ、その「障害」があるからといって「残りの人生全部をあきらめろ」なんていわれたら、生きている価値がないじゃないですか。下を向いて生き続けるには、残りの人生は長すぎます。でも、現実のところ、「社会から期待すらされていない当事者」ってすごく多いんですよ。残りの人生、社会からアテにされない……というのは、考えてみたらむちゃくちゃ苦痛ですよ。

でも、そういうのを変えていくには「理不尽だ!」と不満をぶちまけるだけじゃいかんと思うのです。実際にどれくらいの力があるのか、社会に見せつけていかなきゃならんのです。不満を言っている暇があるなら、その時間を使って「何か一つでもすごいこと」をやってみろ……と思うわけです。で、キツイコトいいますけど、「自力でやってみろ!」とか思うんです。

でも、ま、そういう「何か一つでもすごいこと」を試すステージすらないというのもまた現実。で、たまたま、こういう領域に踏み入れた私に「できること」がたくさん待っているような気がするんですね。なんで、私は「本気で戦える環境」を必死で構築したいと思っています。でも、甘いことはいいません。本気でやらない人には無理な環境にしたいとも思っています。

と、いうのは、あくまでも私の個人的な思いです(笑)。いろいろと検討を重ねた結果、どういう内容になるのかは未定な部分もありますが、願わくば、これからの日々が「『あの日』が変革が始まった日だった」と振りかえれるような歴史にしていきたいと思っています。