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2011年4月26日火曜日

ジョイコンサルティングと私

私は組織が嫌いだ。控えめに「苦手」と書こうかと思ったが、やはり正直に書いてみた。なぜなら組織というものは宿命的に組織の価値観を強要するものだからだ。社長がカリスマであればあるほど、残念ながらその傾向は強まる。

社長のポジションがあたかも「神」だったり「教祖」だったりする場合、その下で働くためには、その宗教に入信する他はない。残念ながらそこまで社長が神格化された会社では、その企業の価値観から外れるものは生き残れない。

私は今まで多くの現場を体験した。そして多くの経営者を見てきた。金の亡者のような経営者、誠実さの重要性を説きながら下請けを泣かせていた経営者。多くの経営者の下で私は働き、いつしか経営者に期待することをやめた。

そして、組織に所属することをやめて、私は独立した。私が理想とする空気感のある環境を構築するためには、私自身が環境を構築する立場にならない限り、自らが望む未来はやってこないからだ。

だから、私はこれからも組織を意識しない働き方をしていくだろうと思う。そういうスタイルが私には向いている。現在、私はジョイワークセンターというところで仕事をしている。このセンターの母体はジョイコンサルティング株式会社。つまり「組織」。

私が嫌いだと標榜してやまない「組織」に私がなぜ与しているのかというと、ジョイコンサルティングでは「仕事を邪魔されない」環境がある。「やりたいことが比較的ストレートに反映できる」環境がある。

ここの木村志義社長自ら「生きづらい会社員生活」を体験している。そのためか、「仕事をやりたい人には存分に裁量を与える」というスタイルで会社が運用されている。なんでもやらせてくれる環境はありがたいものだ。

そういう空気が私になじむのかもしれない。もちろん「強烈な管理体制」が何らかの要因で今後生まれるのだとしたら、そこに私の居場所はないかもしれないが、今は私の全力を尽くして貢献したいと思う。

ジョイワークセンターは「今までにない就労支援の場」だと、さまざまな方々から評価をいただいている。実際に会社のような運用でもあり、かなり自由度が高く自主性溢れる環境だ。

これらが実現しているのは、ひとえにジョイコンサルティングの自由度の高さによるものだ。それから、運営に関する役員のご協力も大きい。それから新しいことに果敢に楽しく取り組むメンバーのおかげでもある。

ジョイワークセンターは仕事だけを応援するわけではない。私生活を豊かにするためのものの考え方や、お金の使い方についての勉強会も開いている。「就職したらおしまい」だなんてもったいないと思うからだ。

せっかく貴重な人生の時間を割いているのだから、仕事も含めた人生の楽しみ方も発見できる場になりたいと考えている。メンバーの人生から失われた数年間の「元を取る場」になれたらステキじゃないか。

ちなみに意外と好評なのは、「お金の使い方」のプログラムだ。それで今まで無駄遣いをしていたことを反省したり、将来設計のために貯蓄を始めたり、いつか起業をしたいと考えるメンバーまで生まれる次第だ。

うん。「障害者は無難に生きろ」なんて押しつけなんてつまらない。もっともっといろんなことを知って、もっともっと自由に選択肢を選び取れるようになった方が面白いに違いない。

2011年4月24日日曜日

私は被災地に行かない!

悪夢のようなあの日から1ヶ月以上経った。それでも未だに原発問題、がれきの撤去、避難民の前途など、まだ先の見えない日々が続いている。このような状況の中で、日本人すべてが「自分にできること」を考えているようにみえる。

ジョイワークセンターのメンバーの中にも、ボランティアで被災地に行って何かの役に立ちたいと考えている人がいる。その気持ちはすばらしい。ただ、被災地に向かうとしたら怪我をせずに無事に帰ってきてほしい。

一方で、私は被災地に行かないことにしている。ごく私的なことでできない事情もあるが、それ以上に「自分にできること」を意識しているからでもある。この震災で多くの方々が亡くなった。復興には多くのマンパワーが必要だが、多くの可能性が失われた。

そんな中で、今、私にできることは、一人でも社会の戦力としてカウントされていない人たちにスキルと自信を身につけてもらい、少しでも優位な人材を社会に送り出すことだと思っている。これから日本は長期戦を迎える。

そして、今までは「生産>需要」だった社会が「生産<需要」の状況に突入する。これからは、より生産力を上げる工夫ができる人材が必要とされてくる。「障害者は黙って健常者の敷いたレールの上を走れ」というスタイルだけではいけない。

障害を持った人の中でもいろんな人たちがいる。自分から考えて解決策を考えられる「非・指示待ち人間」はたくさんいる。個性を無視して障害者というくくりで人材を判断すると、社会的ヒューマンリソースを見誤る。

誤解を恐れずに言えば、私がジョイワークセンターのメンバーに言いたいのは、「被災地にボランティアで行っている場合じゃないぞ!」ということだ。もちろん「素人が被災地に行っても役に立たない」なんていうつもりはない。誰だって最初は素人だ。

そういうことではなく、今、慣れない災害復興活動で貢献するよりも、長期にわたる人材不足に備えて「日本のマンパワー」になることに力を注いでほしいと思っているのだ。被災地に行って「なんとなく役に立った気分」になるよりも、将来を見据えた行動を取る方が難しい時期だと思う。

だから私は被災地に行かない。後方支援として日本の経済復興に役立てる行動をとっていく。正直なところ、状況が許せば私だって被災地に行きたい。そこで何かで役に立てれば嬉しいと思う。その誘惑よりも、これからの日本を考えて別の方法で役に立ちたいと思う。

2011年4月15日金曜日

もったいない人材

ジョイワークセンターにはさまざまなメンバーがいる。そしていつか社会で活躍する日々を研鑽しながら過ごしている。運がいいのか多くの才能を秘めた方々に集まってもらえたのだが、実はちょっとした悩みがある。

それぞれのメンバーにいくらかの課題はあるにせよ、基本的に有能な方々が多いのだ。就労移行支援事業でなければ、いつまでも一緒に働きたいと思えるほどだ。しかし残念ながら就労移行支援のために与えられた期限は二年間。

仕事に対する責任感、改善に関する柔軟な思考、何より自分自身でスキルを身につける姿勢。さまざまな点で仕事を一緒にする仲間として大きな魅力がある。何よりも前向きで「希望」に対して一生懸命だ。それがまた心地よいのだ。

ジョイワークセンターではお客様から本物の仕事を受注している。これらについて私はほとんど苦労をしていない。ほとんどの仕事はメンバーの中で完結している。業務を遂行するのみならず、課題点を検討して改善するところまでやってのける。

たとえば私の留守中に、業務速度を改善するためにメンバーによる自主的なミーティングが開催され、そこから導かれた解決策を実行することに適したメンバーを選出。そこから見事なチームプレイであっという間に解決する。

彼らは「得意技の連携で人数以上のパフォーマンスを出す」ことのメリットを自然と体得しているように見える。これまで多くの見学者にお越しいただいたが「まるで会社のようですね」といわれる。全員が「自主的に働くことを楽しんでいる」とも。

そして最も耳にするのは「本当に障碍のある方々なんですか?」と。正直なところ、私にもよく分からない時がある。もっと厳密に説明するならば「障碍者は仕事ができない」という世の中の思い込みが私には分からなくなっている。

もちろんそういう私の感覚が、私の経験を体感していない人たちからどのように見えているかは忘れずに意識しておきたいと思っている。もしかすると「ひいき目」ということかもしれないし、私自身の「環境適応」と見られている可能性も高い。

それでも、私には彼らが役に立つ人材であることに自信がある。いずれ彼らは就職して旅立っていく。ただ私は「彼らの才能を大事にしてくれる企業」のみに彼らの人生を託したいと思っている。障碍者雇用のポイント稼ぎだけの企業には絶対に託せない。

彼らは私にとって大切な仲間だ。貴重な人生の時間を一緒に歩む価値のある仲間だ。そんな大切な仲間、そして仕事においても貴重な戦力だ。これが就労訓練でなかったらどれだけいいかと思うほどだ。それほどの戦力を社会に送り出すのだから、やはり彼らを大切にしてほしい。

彼らがいつか運命の企業に出会え、今、開花しかけている可能性を社会の中で輝かせる日を、私は心待ちにしている。その時に感じるであろう一抹の寂しさを予感しながら。

2011年4月12日火曜日

就労継続支援不要論?

就労継続支援についてよく聞かれる。就労継続支援とは「仕事に行きたくない人をなんとかして仕事に行くように仕向ける」お仕事だ。正直、私は福祉畑からの人間ではないので、なんだかとっても違和感を感じてしまう。

本人は掃除が嫌いなのに「掃除の仕事ならできるから」と、掃除の仕事をむりやり押し当てて、なだめすかしてなんとか仕事を「継続」させるような実話がある。でも、こんなことを無理に続けたところで楽しいわけがない。誰にとっても幸せな流れじゃない。

就労移行支援事業に携わっている私がこんなことを言ってしまってはいけないのかもしれないが、それでもあえて言いたい。「やりたい仕事に就くことは人間の権利」だ。しかし、その一方で「やりたくない仕事を辞めることも人間の権利」だと思っている。

実際のところ、いわゆる「健常者」の中には転職をしながら理想の仕事に近づいている人もいる。ところが障碍を持っている人ということになると状況は一変する。どんなにつまらない仕事でも「次がないんだから」という理由で仕事にしがみつくしかなくなる。

これは二つの意味で不幸だと思う。まず精神的に「次がない」と追い詰められることが不幸だ。そして「仕方なく仕事をする」というスタンス自体も不幸だ。結果的にこのふたつの不幸を同時に体験すると、心と体がやられてしまう。

仕事が楽しくて楽しくて仕方がない。というのは「次を選ぶ選択肢がある」という状態で、自ら選んで「好きな仕事をする」ということだ。誰かに選ばされる限定的な人生に幸せなどない。「自ら仕事をする」という意識そのものが幸せではないか。

このように継続的な仕事人生を生きるために必要なことがふたつある。ひとつは「自分自身を信じて自らスキルを伸ばすこと」だ。この姿勢は「次を選ぶ選択肢」を増やしてくれる。そしてあとひとつは「仕事を楽しんだことのある成功体験」だ。

「自らのスキルを伸ばす姿勢」と「仕事を楽しむ姿勢」は、人生そのものを豊かにする。こういう人には「就労継続支援」そのものが不要だと思う。もちろん仕事をしていれば、イヤなことはあるだろう。これは間違いない。

では、イヤなことがあった時にどうすればいいかといえば、信頼できる人に相談すればいい。元気をなくした心にエネルギーを与えてくれる人と話をすればいい。これが「就労継続支援」と言われればそうとも言える。でも、これはいわゆる「健常者」といわれる人でも同様だ。

つまり、「仕事を楽しむために必要な二つの姿勢」と「ストレスを感じている時に適切な心のケア」があれば仕事は継続していける。前者は就労移行支援事業の中で利用者自らが身につける必要があるし、後者は特別に「就労継続支援」などと呼ぶまでもないと思っている。障碍の有無に関係なく必要なことだからだ。

「理想」と言われてしまえばそれまでだが、私にとって理想的な「就労継続支援」というのは、特別な「就労継続支援」を行わなくてもよいだけの「姿勢」が身についている状態だ。つまり、就職するための準備が終わった時点で勝負はすでについていると考えている。

もし、それでも「就労継続が無理」という状態になってしまったら?

その時には「次を選ぶ選択肢」を信じて、仕切り直すのがいいと私は思う。自己都合退職でかまわない。いったん「就労継続」が難しい事態になれば、当事者はつらいだけだし、企業にとってもメリットが薄いし、支援者は無駄な労力を使うことになるだけだ。

もちろん「ダメになったらすぐに辞めればいいじゃないか」と短絡的に考えているわけではないことは強調しておきたい。ただ、高い就労意識があったとしても「相性」というものは存在する。また、高い就労意識ゆえに上を目指したくなることもあるだろう。

基本的に本人の望みと仕事内容(質・量ともに)が一致していれば、「就労継続支援」は無用なのだ。全ての人には役割があり、輝ける居場所があるのだ。またそれを受け入れると幸せになれる人たちもいることだろうと思う。

そのためにも雇用側は「障碍者は戦力外」と頭から決めつけてはいけないし、当事者も「雇用側にナメられないスキル」を持つ方がいい。お互いにあきらめちゃいけない。がっちりと仕事を楽しむ仲間として手を組めば、きっと面白い仕事ができると思う。

そういう望ましい環境に「就労継続支援」の出る幕はない。

常識はずれの支援?

開設時に比べてジョイワークセンターのメンバーもだいぶ増えてきた。いろんな才能が芽の出る日を待っている今日この頃だ。メンバーの来所を決める面談で、私は常識とはすこし離れている内容を必ず質問する。

「ご趣味はなんですか?」とか「時間が空いている時は何をされていますか?」とか。まるでお見合いのように聞いていく。でも私にとってはとても大切な質問だ。何よりも大切な質問といっても過言ではない。

趣味というのは人間が喜びを求めて行う行為だ。誰からも強制されない自発的な行動を知れば、心の欲求がどこにあるのかを知ることができる。また、趣味の話は心の距離が短くなるのも嬉しい。

たとえば趣味が読書だったとする。すると気になるのはそのジャンルだ。ここで小説、技術書、哲学書、自己啓発書・・・などさまざまな内容に分かれる。これだけでもいろいろなことが分かってくる。

もし小説だとすると、ストーリーを追う能力があると思われるし、情緒的なものに対する興味や感性があると推測できる。技術書であれば論理的な思考に特性があると思われる。哲学書であれば生き方そのものに興味があると考えていい。

この趣味がたとえゲームだったとしても、困惑顔の保護者の方々を置いてきぼりでご本人から趣味の話を聞いていく。それはアクションゲームなのか?ロールプレイングゲームなのか?シミュレーションゲームなのか?・・・細かく聞いていく。

この質問だって無駄ではない。アクションゲームだったとしたら、比較的、条件反射的な素早い機器操作が要求される。ロールプレイングゲームやシミュレーションゲームの場合は少なからず戦略的な思考が要求される。

そしてそもそもゲームができるということは、パソコンを使う仕事ができる可能性が含まれているという事実がある。ゲームというと未だに軽視されがちだが、何よりもゲーム機はコンピュータの一種なのだ。

電車が好きな場合でも才能を細分化できる。写真を撮ることが好きであればクリエイティブな素養がありそうだし、時刻表を読むことが得意であれば論理性が高そうだ。電車の種類をよく知っていれば記憶力の強さが推測できる。

大好きなことは一生モノだ。その大好きな「要素」を仕事に求めることはできる。「趣味」=「仕事」という完全なイコールではないかもしれない。それでも、たとえば「趣味」=「クリエイティブ」=「仕事」という構図はアリなのだ。

これからも私は、未開拓な方々の大好きなモノから才能を掘り出していくつもりだ。