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2010年7月17日土曜日

精神疾患就労をめぐる温度差

精神疾患を巡る職場環境のあり方については、人によってさまざまな見解がある。

(1) 「非当事者」と肩を並べて「仕事」ができるようにしていく。
(2) 精神的に無菌状態の作業所で、できる「作業」をずっとしてもらう。
(3) そもそも無理をしてまで社会参画なんてさせても意味がない。

実は私がよく聞く意見は、
 (3) そもそも無理をしてまで社会参画なんてさせても意味がない。
だ。

要するに「200%で働く人の足を引っ張るから、できれば一緒に仕事をしたくない。」という意見だ。私は(無自覚ではあるものの)第三者的に見れば「福祉」の側の人間なのかもしれない。だからこそ、あえて私はそこで声高に反論しない。否定したい人の前で反論すれば火に油を注ぐだけだから。くやしいけれど他に説明するいい方法がきっとある。

ところで、(3)を主張する人に多いのが、「僕は絶対に精神疾患にかからない自信がある。」と断言する人。そして、その次の言葉には、「日本には徹夜してがんばれる人が必要なのだ。」という主張がやってくる。

調子よくがんばっていた人が、突然、精神疾患でダウンしてしまう。精神的に追い詰められて自殺を選んでしまう。そんなことは当たり前に起きている。だから、「僕は絶対に精神疾患にかからない自信がある。」という言葉ほどアテにならないものはないと思っている。その言葉は精神論的なもので、未来を保証するモノでもなんでもない。

個人的に、「気合いで徹夜すれば世の中はもっとよくなる!」と信じている人は、やはりどこか時代遅れなのではないかと私は考えている。疲労を抱えて仕事をすることは明らかにポテンシャル低下を招く。逆に徹夜をしなければならないのは「効率の悪い仕事をしている」可能性もあるかもしれない。

もちろん時としてそうなるし、私も経験したことがある。そこには知識や経験が足りないゆえの「非効率」も存在するし、単に人員が少ないところを「気合い」で補っているケースもある。これらの要因は完全に排除することはできないだろう。しかし、問題要因を減らそうとする努力は必要なのではないか。気合いは無限ではない。それを忘れたときに人間は再起が困難なレベルまで消耗する。

高度急成長を過ぎて、バブルを迎え、それがはじけた後の世界に、今、生きている。いつまでも高度急成長のような「モーレツ社員」だけで世の中は持続できない。ましてや、少子高齢化の状況下で、精神疾患や自殺などで社会資源としての人材が消失していくことは大きな社会的損失だ。だからこそ、できるだけリソースを消耗させず、最大限に活用する戦い方が必要だ。

そういう観点から、精神疾患の当事者も積極的に社会に参画することが望ましいと私は思う。逆に彼らが活躍できる場が増えることは、社会にとっても大きな価値をもたらすと考えている。もちろん不自然でない形での社会参画だ。

そして、基本的には、
 (1) 「非当事者」と肩を並べて「仕事」ができるようにしていく。
というのがフェアな考え方だ。

しかしながら、環境が苛烈であればすぐに精神的に消耗してしまうだろう。それは精神疾患の当事者の側だけが課題を抱えているわけではない。「キツイ」ことをそのまま放置している職場環境にも課題がある。もちろん、どんな職場ににも「キツイ局面」というのは存在するし、それを100%排除することは不可能だ。

しかし、気合いを必要とする局面はすでに負けている状態なのだろうと思う。だからこそ、本来は気合いを必要としない戦い方をプランニングする必要がある。そういう意味では、精神疾患の当事者を受け入れられる職場を構築することは、非常に大きな意義を持つと考えている。そろそろ「メンタル・スロープ」を取り入れてみてはどうだろうか。

階段の脇によく設けられている「スロープ」。身体障碍者にとって有効な設備だが、足を怪我してしまったとき、重い荷物を持っているとき、疲れているときに使うとありがたさが分かる。障碍者に優しい設備は障碍を持っていない人にとっても便利なものだ。(もちろん長距離を歩かずに、短距離で上れる階段もそれはそれで便利だが。)

それになぞらえて、私は「メンタル・スロープ」のある職場環境を構築したいと考えている。障碍者だけではない。たとえば高齢者でもあってもいいし、時間的制約の厳しい主婦の方でもいい。誰にとっても無駄なストレスがかからない職場環境を構築したい。精神疾患の方だけを対象にした精神的なスロープのある職場環境だ。

ただし、それは、
 (2) 精神的に無菌状態の作業所で、できる「作業」をずっとしてもらう。
を意味しているワケではない。

精神的に「無菌状態」というのは不自然な状態だと思うからだ。たとえば、無菌状態で育った生物は、ちょっとした菌に対しても抵抗力を持てなくなってしまう。ほどほどの菌に触れてこそ健全に生きていける。ストレスも同じことだと考えている。適切なストレスが人間を成長させてくれる。

しかし、明らかに不要なストレスはあるはずだ。たとえば、私が体験した職場では、月曜日の朝イチに会議を行う会社があった。先週のミスを徹底的に掘り出して、誰に問題があったのかを割り出すための会議だ。あたかも「東京裁判」のようだった。その結果、月曜日に休暇を取る人が増えてしまった。

週の初め、もっともモチベーションを高めたい時に、無駄なストレスをためてモチベーションを乱降下させる会議の意味が、私にはついに最後まで理解できなかった。このようなものはやらない方がよっぽどいい。沈黙だけが続いて先に進まない、ただ眠気をかみ殺すだけの会議。こういうものもやる価値は低いと思う。こういう無駄なストレスを削ることは大事な課題だと思う。

おそらく、精神疾患の当事者が楽しく働ける環境は、誰にとっても楽しく働ける環境なのではないか。その基本環境をベースにして、さらにがんばりたい人は、組織全体でバックアップできる環境。「馬鹿だね、そんなのはただの『理想』だよ」と笑われるかもしれないが、私はそういう職場環境を構築したいと考えている。

馬鹿で結構。馬鹿にしかできない社会参画もあるはずだ。理解してくれる人は少ないかもしれないが、あえて愚鈍に理想を追いかけてみたいと思う。

※2010/07/15現在、「google」を検索する限りでは「メンタル・スロープ」または「メンタルスロープ」という言葉は1件もヒットしない。しかし、いつの日か「メンタル・スロープ」という言葉が使われるようになるといいなと思う。

2010年7月15日木曜日

人生の残り時間

私は精神疾患の当事者対象にITコースの講師をしている。それは、IT業界の経験者が少ない福祉業界にあって、IT関連への職業選択の可能性を広げたいからだ。そして私はITエンジニアになりたい当事者に「知識」ではなく「経験」を提供している。自分自身で解決したという「経験」ほど強いものはない。

このコースを始める前にはいろいろと検討要素もあったが、実際にやってみると、それなりに効果が上がっているような実感がある。それはひとえに受講してくださっている方の気持ちに支えられている部分が強いと感じている。

それでも、考えさせられることも多々ある。たとえば「就職支援」の前段階である「生活支援」が必要な人が、「講義に出席すること自体に意味がある」と考えたり、周囲に教えられたりしている場合だ。まったくモチベーションがないのに、とりあえず机に座っているケースがある。もっと正確に書いてしまうと机に突っ伏してしまう方もいる。

「休憩なら隣のお部屋でどうぞ。」

このあたりのさじ加減が難しいところなのだが、私はそういう方にはやんわりと退室をお願いしている。本当に難しい。本来であれば、モチベーションを高めることが私が行うべきミッションだ。自分の中では「職務放棄ではないか」と重く受け止めている面もある。しかし、実際問題としては退室をお願いしなければならない境界線がある。

私は「前に進みたいと願っている人」を絶対に応援したい。理解に時間がかかる人もいるし、実際のところ私もどちらかというと理解に時間のかかるタイプの人間だ。気合いと結果というものは、しばしば理想と乖離することがある。だからそこを責めても仕方がない。どれだけ時間がかかってもモチベーションさえあれば、なんとかなる。

しかし、最初からモチベーションがマイナスを向いている方は難しい。おそらく参加しても何もする意欲がないのだから眠いだけだろう。眠いことを我慢するということは、現実的に大切な場面も存在するが、それでも基本的に無駄な苦痛だと思う。貴重な人生の時間を無駄な苦痛に割くくらいなら退室いただいた方がいいだろうと思う。

福祉的な観点から、「座っているだけでいいから参加させてあげてほしい。そこから何かに気づくかもしれない。」と注意なり勧告されることも少なくない。私もそういうご意見については理解している。しかし、私はあえて厳しく対応したいと考えている。なぜなら「前に進みたい」と考えて参加してくださっている他の受講生の方に失礼にあたるからだ。

ただ、「腐ったみかん」と考えているのかというと、それも違う。そうではない。そういう場に入るタイミングがまだきていないだけなのだと思う。そしてそういう場に入る前の姿勢作りはとても大事だ。だから、そのうち個別でモチベーションの発掘をしたいと考えている。それが終わってから講義に参加していただければよいのだろう。

ITコースを受講してくださっている方に力がついてきていることを最近特に感じる。「何もできなかった」と語っている方が、今では動きのあるWebページを作れるようになってきている。そして自分たちで新しいことを始めようとしている。私はそういう流れに希望の光を見ている。モチベーションこそが自分の人生を自走するためのエネルギーだ。

今はモチベーションのエネルギーが不足している人もいる。しかし、いつかは自分が持つエネルギーに気づける日が来るといいと願う。人生の時間には必ず限りがある。だからすこしでもエネルギーを燃やして有意義な時間を送ってほしいと思うのだ。ブルーな日々よりもハッピーな日々を送った方がいいように思う。