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2011年12月23日金曜日

私は差別をしている

私には基本的に「どんな人でも平等に幸せになってほしい」という理想がある。しかし、これから書くことは、およそその理想とはかけ離れたことだ。私にとって実に残念なことだが、私が目指す理想に近づくためにはどうしても越えなくてはならない現実だ。

私の仕事は、「障害」というレッテルのために、なかなか前に進もうとしてもハードルが厳しい人たちと一緒に、「本当の仕事」をしながら、仕事の楽しさを体験してもらうことだ。さらなる特徴として、「自主的な創造性」を形にしていく喜びを知ってもらうことだ。

たいてい、このふたつが十分に満たされていれば、スキルや仕事の効率性は上がっていくし、さらに仲間と協調して仕事を積み上げていくことも自然と身についてくる。ポイントは「楽しさ」と「喜び」だと思っている。だからこそ、私の周りで仕事体験している方々はモチベーションが非常に高いし、創造性も成長性も同じく高い。

しかし、残念なことに「誰でも」というわけにはいかない。確かに最初のうちは「誰でも」という方向性を狙っていた。しかし、様々な状況を経験していくにつれて、それは傲慢で安直な考え方だったと反省に至っている。

私がフォローして幸せになれそうな方々というのは、次の条件を満たした方だ。私が優先している条件の順番に書いてみた。

(1)素直であること
(2)真摯であること
(3)やる気があること
(4)目的意識があること
(5)覚悟ができていること
(6)好奇心が旺盛なこと

私が専門としているのは「IT関連の人材育成」だが、この条件の中には「IT技術に詳しいこと」という項目はない。技術云々は後からどれだけでもついてくる。しかし、それを受け入れるために「人間の器」が先になくては、何も得られるものはない。

先ほどの条件を考えるたびに、私は「障害者支援をしているわけではないのだ」という事実に直面する。なぜなら私が重要視している条件とは、「障害の有無に関わらず『成長できる人材』に必要不可欠な要素」であり、私はこれらの条件を満たしていない人をフォローしようなどとは全く思っていないからだ。

もっとはっきり書いてしまおう。私は「差別」をしている。それは障害の有無という意味での差別ではない。「本気でやる覚悟があるか」「それほどの覚悟がないか」という部分での差別だ。もっと分かりやすくいえば、「障害があろうがなかろうが、本気になれないヤツにかける時間はない」という意味だ。

だから、私と一緒に時間をかけて前を向いてスキルアップに励んでいる当事者のことを、私は「訓練生」ではなく「仲間」だと思っている。正直なところ私は彼らを「障害者」という枠で見ていない。ついでにいえば「メンタル」というところもあまり意識していない。むしろ、プロ意識の芽生えてきた彼らのことが誇らしくて仕方がないほどだ。

さて、私が先ほどの条件を挙げた理由を書いてみたいと思う。

(1)素直であること
→今までうまくいかなかったから、それを改善するために時間をかけていることを忘れないでほしい。つまり、「我を通す」ということは、今までと何も変わらないということなのだ。

(2)真摯であること
→「できる」「できない」というのは一過性の事実だ。そこで必要になるのは「できる」ことを増やすための「自己解決力」だ。それを身につけるには真摯さが必要だ。

(3)やる気があること
→最初から「満ちあふれたやる気」を期待しているわけではないが、多少なりとも「やる気」がなければ、そこから「大きなやる気」に成長させていくことはできない。

(4)目的意識があること
→自分が「何のために」時間をかけているのかを常に確認してほしい。自分が「改善すべき点はどこなのか」を意識しない人は、おそらくどれだけ時間をかけても解決できない。

(5)覚悟ができていること
→ゼロからプロに向かっていく過程において厳しい評価が下されることもある。これは「お勉強」でも「ままごと」でもなく、本当の仕事をやっていただくからこその厳しさだ。

(6)好奇心が旺盛なこと
→私は「指示待ち人間」に興味がない。自分で何かを考えて、そしてそのために何が必要なのかを考え、そして提案できる力を持った人材を育成したいと思っている。

これらは、およそ「就労移行支援事業所」に携わる立場として、ふさわしくない意思表明と思われるかもしれない。しかし、考えてもみてほしい。上記の条件を満たさなくても、大事に扱ってくれる就労移行支援の事業所は日本中のどこにでもあるではないか。

私のポリシーに賛同できなければ、無理に私と一緒にスキルアップを目指さなくてもいいと思うのだ。そういう意味で、私が逆に「お断り」させていただきたい条件も明確に書いておきたい。それは、「自分自身を就労移行支援サービスを受ける『お客様』だと思い込んでいる方」だ。

私は「モチベーションを上げてもらうのを待っているお客様」に時間をかけるつもりはない。そうではなく、「障害など関係なく、闇雲にチャレンジする仲間」と一緒に本気で高みを目指したいと考えている。申し訳ないが、障害というレッテルを覆して「本気で幸せになりたい」人だけを私は本気で応援したい。

ちなみに、私と一緒に前進している仲間たちに面白い現象が起きている。それは「できないこと=障害のせい」にする人が少ないことだ。楽しさと工夫があればたいていのことは乗り越えていける。そして、障害者手帳を持った仲間たちはそれを実践している。後から入ってきた方々もそういう先輩を見て「できない=障害」にはできないんだろうと思う。

こんな場を見学される方からは「本当にこの方々は障害者手帳をお持ちなんですか?」とよく聞かれる。それくらいに「障害」を忘れて仕事に没頭できる環境が日本中にできていけば、おそらく日本は変わっていくんだと思う。この国が障害の有無に関係なく仕事を楽しめる国になれるように、私は私なりのポリシーで尽力していきたいと思う。

2011年12月17日土曜日

何シテルンデスカ?

実はいろいろな人に聞かれていたのだけど、あんまり書かなかったことを書いてみようと思う。「具体的にどんな仕事をしてるんですか?」という質問に対して、私は「成長を見守っています。」と答えてきた。

実際のところ、下手に力を貸して、自力で解決する力を奪いたくない。だから、ある意味で成長を見守っているというのは正しい。だけど、そんな情報じゃ何も参考にならないので、今回は本質的な仕事の内容を書いてみる。

私が日常的にやっている仕事はとても地味だ。一例を挙げれば、利用者の方々が楽しく仕事ができるように、お客様からお預かりした仕事の分解や組み立てをしている。全体のスケジュールを立てたり、体調を見ながら進め方を変えたりしている。

そして、誰かの仕事が終わる前に、その人の成長を見込める仕事を間断なく提供していくわけだ。他にも納期の見積もりやクオリティチェックなどもあるが、実はこの見積もりとクオリティチェックが地味に難しい。

作業自体の工数はある程度読めるのだが、仕事をする担当者が体調を崩すことをある程度見越しておく必要がある。しかし、そこに甘えてしまうと、納期や品質面で「やはり障害者だから・・・。」という評価になってしまいかねない。

そうならないためには、最小の工数で疲労コストを徹底的に抑える作戦をたてなくてはならない。一昔前のIT屋さんでたまに見かけた「いざとなったら総掛かりの徹夜でやればいい。」などという判断はあり得ない。短期的に無理が利いても、長期的には人材の磨耗に繋がる。

特にメンタルでお困りの方の実力を引き出すためには、徹底的な「適材適所」と「効率化」が鍵になる。そのために、私が時間をかけて研究しているのが、低ストレスで実現可能なタスク管理や、効率的な業務ノウハウの実践だ。

私の仕事は「福祉」という観点からみれば、ちょっと特殊かも知れない。就労移行支援というと、マナー講座や身だしなみなど、基本的な社会人スキルを身につけていくことに注力することが多い。しかし私は軸足を「実務」に置いている。

そして「どうやったら、低ストレスで最大のパフォーマンスを発揮できるのだろうか?」という戦略を常に練っている。そして、それを考えることは私のライフワークでもある。だから、私は指導そのものよりも思考に時間を割いている。

その結果として、メンタルでお困りの方が幸せに「最高の仕事」をしていただければ、それは彼らの勝利でもあるし、同時に私自身の勝利でもある。そのためには、常にモチベーションが高まる展開をイメージして、アイデアを実践し、検証し、そして改善する。

従来の就労移行支援の仕事にも大きな価値がある。しかし、私はその方向性とは違うアプローチで、ハンディキャップを持った方々の夢を希望に繋げていきたいと思っている。私は障害者支援業界では異端者かも知れないが、異端者しかできないことが絶対にあるはずだと信じている。

今回、こんなことを書いたのには理由がある。私が私自身の仕事について、表層的な部分を話していたら「なんだ、簡単なんですね。じゃあ誰でもできそうですね。」という反応を受けることがあったからだ。それを聞いて、ちょっとマズイかなと思ったのだ。

地道なお膳立てがしっかりできていなければ、そのしわ寄せが利用者を直撃することになってしまう。そうなれば、せっかく就職に向けて高まったモチベーションや可能性を潰してしまうリスクが高まる。だから、重要なポイントについては開示すべきだと思ったのだ。

ただし、誤解していただきたくないのは、私がお膳立てをするからといっても、利用者の方々がしている仕事のほとんどは彼らの意志決定によっているということだ。ある程度のグランドデザインができたら、進め方は彼ら主導で進めていただいている。

そうなれば、後に続く私の仕事は「アシスタント」的なポジションに変わる。その上で、お客様の立場で賞賛を送ったりクレームをつけたりするし、業務の経験者として考え方のヒントを送ったりもする。

つまり、私がやっていることは、一般企業のプロジェクトリーダーがやっていることに近い。仕事の交通整理をして、仕事を任せてみて、モチベーションの高い仕事を楽しんでいただくということだ。仕事をする楽しさをかみしめてほしいのだ。

私の仕事は「本気で仕事を楽しむ経験を提供すること」だ。しかし、そういう仕事自体が楽しくて仕方がない私がいる。まあ、それでいいんだと思う。「仕事を楽しく」と口にする人が仕事を楽しめていなければ、それはウソなのだから。

2011年12月8日木曜日

自分が幸せでなくては

私には誤解を受けやすいが、絶対に譲れない大事なポリシーがある。それは「自分が最初に幸せになるべき」という考え方だ。自己犠牲をいとわない生き方は潔い。それはそれで大事な価値観だと思う。人間的にもそういう生き方のできる人は好きだ。

ただ、富を持たないものが多くの人を救うことができるだろうか。自分の生活だけでギリギリの人が他の人を救えるだろうか。たぶん、例外的に数えられるほどにはいるだろう。しかし、それでも「貧しさを共有する」というところが精一杯だろうと思う。

「身の丈を考えて現状に感謝して生きよ」という人もいるが、その発言者は裕福な経営者ということも少なくない。経営者がその言葉を使う時、私は「権力構造を安定的に維持したいだけなのではないか?」と、つい勘ぐってしまう。下から伸びてくる人がいなければピラミッドの上層部は安泰なのだから。給料を多めに上げるコストも減るだろうし。

ともかく、一人一人がもっともっと幸せになるために上を見なくてはいけないと思っている。そしてその幸せをもっと紹介して、夢のある世界を見上げている人を引き上げられる立場にならなくてはいけないと思うのだ。しかし、幸せを知っている人しか、その幸せを紹介することはできない。

もちろん、それは金銭的なことだけにとどまらない。精神的な幸せもそうだ。「金銭がなくても心が豊かなら大丈夫だ」というのは幻想だ。金銭的貧困は間違いなく諍(いさか)いを呼び起こすものだし、金銭で回避できる不幸を経験しなければならない。たとえば手術費用を払えなければ大事な人の命すら救えない。

ポジティブな話をしよう。結婚生活のすばらしさは結婚を体験した人にしか分からない(もちろん「苦労」もセットでついてくるが)。これを独身者だけで結婚を語っても、そこに事実や実感が伴わなければ全く意味がない。想像だけで話をすることほど時間の無駄遣いはない。

私の例について考えてみたい。私にはいろいろと能力が欠如している。記憶力も自慢できたものではないし、短時間での正確かつ迅速な判断力もそれほどない。もっと致命的なことでいえば、長時間集中力を持続させることも非常に難しい。

そういった弱点を補うために便利だったのがITという存在であり、その便利なツールを使って仕事をすることが許されているのがIT業界だった。おそらくITという領域がなかったとしたら、私が生きていく場所はなかったのではないかと思うくらいだ。

IT業界に身を置いていた頃、生身の頭脳だけで仕事していたとしたら、無理であっただろう収入を手にすることもできていたし、そういう仕事で長いこと生活を安定的に維持させることもできていた。つまり、私はITという手段によって幸せになった人間だといえるだろう。

だからこそ、(すべての人に・・・とまでは言わないものの)メンタルでお困りの方に「ITという選択肢」を紹介しているのだ。それは私がITという領域で幸せになったからであり、また、その世界で幸せになれるであろう人たちに希望の光を見てもらいたいからだ。

(私に周囲にいる人たちには例外を目指す人が多いが)福祉の業界では、「みんなギリギリで生活しているんだ」という価値観が当たり前になっている人が多いような気がする。「私も大変なんだから、あなたも耐えなさいよ。」的な感じだ。確かに国から税金をいただいている身だから、仕方がない部分もあるとは思う。

しかし、これで日本が浮かび上がれるのだろうか・・・と思うと、どうにも暗澹たる気分になってしまうのだ。特に、「戦力としてカウントされていない人たち」を「日本の生産力」として送り出す場所がギリギリの環境でいいのだろうかと思う。ある意味で「日本の人材活性化業界」なのに。

私には夢がある。ハンデがあっても夢と希望を持った人が、「絶対に自分で夢をつかんでやるんだ!」と前に進んで、それを現実化させることができる世の中にすることだ。もしくはそれを現実にしてしまった当事者と同じ視点で楽しく語り合うことだ。

そして、これから夢をつかもうとしている人たちに、希望の足跡を見せられるようになることだ。「あんな風になりたい」という希望になれる当事者と一緒に夢を果たしていきたいし、もちろん私自身もそういう存在でありたいと思う。

誤解を恐れずに書こう。ハンデを持っている人の多くは社会の底辺からスタートせざるを得ない人が多い。ついでに書くとそれを支援する人たちもその周辺にいることが多い。実際のところ、私もIT業界から、障害者支援業界に転身した瞬間に年収が驚くほどに激減した。

そんな場所で「身の程をわきまえて、分を超えない生活を・・・」なんて言葉を私は口が裂けても言いたくない。そういうところから夢を叶えて幸せになっていかなくてはいけないと思うからだ。前例がないほど幸せな生活にアップグレードできた人が増えなくてはいけない。

(たしかに私も偉大だと思うけれども)京セラの創業者を目指すような「清らか」で「裕福」な経営者が唱える「清貧」とか「身の丈」なんて言葉を真に受けてはいけないと思う。残念だけど住んでいる世界が違うのだから。底辺の現実が分かっていない人の言葉はアテにならない。

アメリカンドリームじゃないけど、底辺から幸せな領域に移っていかないといけないと思う。今、私の周りでは「福祉がいつまでも貧乏くさくちゃいけない」とか「社会に価値を生み出す人が適正な報酬を得るべきだ」という論調が強くなっている。ぜひそうなってほしい。

かつて日本が貧しかった時でも、人々から夢や希望だけは溢れていたと聞く。しかし、今はどうだろう。世の中が貧しくなった上に、夢や希望まで手放してしまってはいないだろうか。だからこそ底辺から上に伸びていかないといけないと思う。日本の幸せ平均値があがらなくてはいけない。

幸せにならなくちゃね。同じ幸せをより多くの人たち分かち合えるようになるためには、まずは自分から幸せにならなくちゃ。幸せになった人が正しく世の中に光を当てれば、世の中はもっと幸せになる人が増えるはずだから。貧困の中で傷をなめ合っていてはいけないのだ。

果たしてこれは暴論だろうか?

2011年12月5日月曜日

JJC(Joyful Job Coach)仕事を楽しむ

こないだ「お仕事の内容はなんですか?」と聞かれて、即答に困ったが、口をついて出た返答が、「JJC(Joyful Job Coach)」だった。よくある「ジョブコーチ」ではなくて、「仕事を楽しむためのコーチ」。

「仕事を続けさせるためのコーチ」ではなくて、「仕事を楽しむためのコーチ」だ。もちろん、その結果の副産物として「継続的な仕事ができる」という効果があるとは思う。

仕事には二種類あると思う。ひとつめは誰かに強制されて「やらされる仕事」。ふたつめは自発的に目的を持って「する仕事」。すべてが「やりたい仕事」ということにはならなくとも、「やらされ仕事」は継続が困難だ。

なぜなら「やらされ」にはモチベーションが少ないからだ。せいぜい給料日が楽しみだとか、その後に待っている買い物が楽しみだとか、仕事以外のところにモチベーションを持たざるを得なくなってしまう。

私はJJCとして、仕事をする楽しみを次のステップで知ってほしいと思っている。

ステップ1:
→遊びからスタートして仕事のスキルを身につける。
→「こんなに楽しくていいのかなあ?」

ステップ2:
→「自己解決力」で自分自身の「できること」を増やす。
→「自分の力だけでもどんどん前に進めるんだなあ」
→「誰かに頼らなくても新しいことを知ることができるんだなあ」
→「できることが分かってくると選択肢が増えてくるんだなあ」

ステップ3:
→仲間と一緒に仕事を成し遂げる喜びを知る。
→「苦手だと思っていたけどみんなでやると早いなあ」
→「時間がかかると思ったけど以外に簡単だったなあ」
→「すごい仲間と一緒に働くって楽しいなあ」
→「信頼できる仲間っていいものだなあ」

本質的に「仕事ができる人」というのは、「仕事を好きになれる人」なんだと思う。この世の中には好きでなくてはできない仕事がたくさんある。そういう意味でも「仕事を続ける」ことを目的にするよりも「仕事を好きになる」というスキルが必要なんだと思う。

「JJC」=「心地よく仕事をするためのコーチ」という言葉は、唐突に私の中で生まれた言葉だが、私が目指している仕事という意味ではけっこう気に入っている。

仕事をしている時間も実は自分自身の貴重な時間だ。単に時間の切り売りをするだけではもったいない。楽しく仕事をした方が人生の中の幸せな時間が増えるのだから。