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2010年9月29日水曜日

忘れたくない初心

私がこの業界に属するようになってから、今も忘れたくない初心がある。

それは「弱者を守る」という意識を持ちたないこと。「弱者を守る」なんて意識そのものが傲慢な気がする。しまいには「わざわざ○○に○○をしてやってるんだ!」なんて勘違いをしそうだ。

弱者は弱者として認識するからこそ「弱者」。弱者を助けるという発想には「上下関係」がある。弱者だと思われている人の中に眠る「強さ」を掘り起こすことが重要ではないか。そうでなくては「弱者」はいつまでたっても弱者のままだから。

たまに障碍者に対して「あの人は○○ができないから、○○の業種はあきらめてもらいましょう」とか「まだ高望みしているから就職は無理だ。もう少し希望を下げてもらわないと困る」なんて会話を聞くとさびしい気分になる。

夢を持つことやチャレンジする気持ちは何よりも大事だと思う。でも、障碍を持っているというだけで「夢を見るなんてとんでもない」という空気感があるような気がする。そして「掃除・軽作業・事務」のトライアングルをオススメされる。

それ以外の分野に進もうとすると、医者に止められたり、福祉関係の職員に止められたりもする。夢を完全に失っていたり、自分に自信がなかったり、そして素直だったりすると、いとも簡単に自分の夢を捨ててしまうことになる。

「○○の仕事だったら、あなたにもできると思いますよ。」という「上から目線」のアドバイスには問題があると思う。「『この人よりも上』の自分のアドバイスはすべて正しいはずだ。」という思いが見え隠れしてしまう。

人、それぞれ違う。障碍を持っていようがいまいが同じことだ。誰だって初めてのことに挑戦するにはリスクがあるし、その道で成功するという根拠も保証もない。障碍者で難しいのは周囲の影響力が大きいことだ。

周囲にいる影響力のある人の価値観の上限でしか生きられない人生は息苦しい。今、私は障碍を持っている人の人生に伴走する立場だ。もしかすると彼らの生き方に対して一定の影響力を持っている可能性が高いと思う。

だからこそ自分の価値観を押しつけることにならないように注意していたい。えげつない書き方になってしまうが、『自分よりも弱い立場』の人間を自分の周りに集めると、相対的にいとも簡単に『権力のある王様』になれる。

それじゃいけない。

もちろん障碍の程度というのはあるが、基本的には挑戦する気持ちを捨ててはいけないし捨てさせてはいけない。挑戦する前にあきらめさせてもいけないとも思う。もちろん壁にぶつかればショックを受けるだろう。

ショックを受けたら二度と立ち上がれない・・・と考えてしまうかもしれない。精神の障碍を持つ人に精神的なショックを与えてはいけない。たしかにそういう一面もあるかもしれない。ただ一方で人生から完全にショックを取り除くことはできない。

ショックとなる要因を社会から軽減させることも重要だが、ショックに対する耐性を養っていくことも一方で重要だ。「配慮」と「過保護」は本質的に異なる。人生に必要なショックというのは確実に存在する。ショックを受けながら人は成長していくのだから。

多くのショックを乗り越えて「弱者」は弱者でなくなっていくと思うのだ。だから、私は弱者を守らない。弱者とならないように「心の芯」を見守りながら育てていく立場でありたいと思っている。

考えてみれば誰にだって「弱さ」があるではないか。だからこそ、自分の中の「強さ」に気づくことだってある。「弱いところだけ」をクローズアップするから「弱者」という言葉が生まれる。たぶん弱い分だけ強さがあるんだと思う。