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2009年2月4日水曜日

人生の師匠

世の中に苦しみがあることを、自覚しないで生きることはできる。もちろん、どんな人にも苦しみはあるし、逃げることはできない。だけど、その状況を上回る苦しみがあることを、我々は知らない。

いろんな苦しみが自分に近い距離にやってきた時、初めて見えてくる世界が確実にある。今に至るまでいろんな人に会ってきた。足が不自由な人たち、耳が聞こえない人、ある日、突然食事が不自由になった人。それから顔が大きく変形して生まれてきたおじさん。

みんなそれぞれ、私にとって大きな影響を与えてくれる人だけれども、私の人生の師匠は、先ほど最後に挙げた顔が変形したおじさんだ。母胎にいた際に、当時、検証が十分でなかった薬を母親が投与されたため、生まれた時から頭部が変形し片目は義眼。

やたら元気で人助けの好きな、自称・江戸っ子でね。まぁ、第二の故郷が台湾とかいいつつも、微妙な関西弁をよく使っていたから、そのあたりは追求しない。ただ、英語、ドイツ語、中国語が得意で、台湾とか中国とかともビジネスをこなしたりしていた。

タクシーに乗るたびに、「オレはよ、重度の一級障碍者だからよ、タクシー代なんか、国から金を出してもらって足代わりだ。どうだ、うらやましいだろ!うひひひ!」と自慢されてねえ。無邪気なくせにプライドが高い面もあって、なんとも食えないおっさん。

また、これがよく叱る叱る。20代中盤は、かなりいろんなことで叱られた。実に古風な人間で、「義理と人情、秤にかけりゃ・・・」なんて江戸っ子気取りのくせして浪花節。池袋や浅草あたりを肩で風きって歩いてたな。

インターネットが世の中に浸透した頃に、インターネット相談室みたいのに入り浸って、やたらと相談者を叱りまくってたね。片想いの相談には「お前さんには圧倒的に努力が足りないものと思われる。出直してくるのだ!この唐変木!」とか、不倫の相談をしてきた相談者には「この猿女め!小生には人間の言葉しか使えないので、まあ、貴君には理解できぬであろうが。」なんて。

ただ、厳しい文章ながら、半分以上は親身になって対応していたな。相談者からの手痛い反撃を食らいながらも、本音を引き出して、そこを手厚くフォローするというスタイルだった。

だから最後は仲良くなって、数多くの相談者を相談員に転向させるという、不思議なこともやっていた。まさに「ミイラ取りがミイラになる」といった状況。たしかゴーストライターもやっていたようで、彼にとっては、相談室そのものが文字を用いたエンターティメントの一部だったんだろうなあ。

私とおじさんの出会いもインターネット相談室からだった。青年期特有の悩みをインターネット相談室に書き込んだら、エライ勢いでボコボコにされた。その後の流れとしては、ずいぶん気に入ってもらえて、数週間後には初めてお会いすることになるのだけれど。

このおっさんの話なら、このまま何時間でもかける自信がある。たぶん「ホームレス中学生」と同じくらいのボリュームで書ける。まぁ、今回はとりあえず割愛したいと思う。とにかくバイタリティーにあふれて、ものすごく強靱な精神力の持ち主だった。

ともかく栃木の片田舎で東京進出をしたがっていた私に、「オレが部長をやっている会社があるんだが、オレの下で働かないか?」とお誘いをもらって、某インターネットプロバイダーに転職することになった。それで今の私がある。

そのおじさんが亡くなってから、もう10年くらいにはなるのか。社会に出てから、本当に私の育ての親だった。初めて会った時に衝撃がなかったかと言われれば、正直、かなりの衝撃を受けた。これは事実だ。でも、慣れた。若干、時間はかかったけど。

なんにしても、周囲を巻き込む剛直さと大胆さで、周りを引き込む何かがあったな。周りもおもしろいモノで、このおっさんの障碍について陰口をいう人はいなかったね。もちろん激しすぎる性格については、ミソクソに言う人もいたけれど。

亡くなってから、おっさんのご母堂にお会いする機会があった。小さい頃はいじめられ、「こんな体にどうして産んだ」と親を責める日もずいぶんあったそうだ。

しかし、私が知っているおっさんは、快活で前向きで、ブルドーザーみたいな人だった。生前はそんな話を聞いたことがなかったから、逆にそのことで教えられたような気がする。「男は心で泣いても表にゃ出すな。男はつらいよなあ。」なんて古風な人だったから。

自分がメソメソする代わりに、メソメソしている人を救うことで、自らも救われていたんだろうな。というか、そんなことを、サシで酒を飲んでいた時に本人から聞いたような気がする。

このおっさんに逢っていなければ、たぶん、障碍者とは縁がなかったかも知れない。でも、私の育ての親は障碍者だった。障碍者同士でつるんだところを一度も見たことのないおっさんだった。むしろ健常者に混じって叱咤激励するようなおっさんだった。そして、いまだに私の中では人生で一番の、絶対に忘れられない師匠だ。

このおっさんのペンネームは「岩井秀隆」という。本名よりも気に入っていたようなので、このペンネームを万感の思いを込めて書いておきたい。

とにかく私の育ての親はスーパー障碍者だった。だから障碍者に会うと、つい逆に、通常以上の期待をしてしまうことがある。悪いクセだ。人間それぞれなんだからそんなの関係ないよと知っちゃいるんだけど。

でも、そういう意味で、物理的、社会的な位置づけに関わらず、どんな境遇でもすごい人はいるもんだよということを、身をもって教わった気がする。

そのあたりの確信に基づいて、これから何かおもしろいことができないかなと思っています。世の中、見かけで決めると損するからね。

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