+1

2009年1月10日土曜日

上とか下とか

昔から「自分磨き」という言葉が嫌いだったな。今でもそうかも。
「自分探し」とか「自分をよく見つめる」なんて言葉とかもね。
なんだか内側にこもって、なかなか次の一歩を踏み出さない感じ。
先に進めない言い訳とかそういうイメージが先に立っちゃう。

もうちょっというと「高い意識を持つ」とかそういうのもかな。
自分を高みに置いちゃって、それ以外の価値観を見下す印象で。
何かを「高い」にしちゃうと、相対的に「低い」になるわけで。
なんだかイヤラシイ響きを感じちゃうんだ。感覚的な話だけど。

価値観に高いも低いもないんだろうなあと思う。共存社会では。
価値観が入り混じる社会で、資本主義と社会主義がひしめきあう。
ルーチンワークだけで最低限の仕事があれば満足な人達もいる。
新たな付加価値を創出して大きなリターンを得たい人達もいる。

どっちも日本には必要なんだと思う。資本主義も共産主義も。
日本人特有の「玉虫色」とか「中庸」とかでうまくやってきた。
「Yes」「No」がうまくいえない日本人だからやれたんだろうな。

船頭になりたい人もいれば、漕ぎ手でいたい人もいるのが社会。
船頭だけでは船は動かないし、漕ぎ手だけでも前に進めない。
相互にどちらもどちらを必要とするのが現実社会なんだと思う。
大勢の漕ぎ手の上に船頭が一人というヒエラルキーはあるけど。

船頭を目指していくのもいいが、漕ぎ手のままの人も大事だ。
全員が船頭になったら破綻する。これを「合成の誤謬」という。
漕ぎ手のままでいいという人を、無理に船頭にしなくていいよ。
幸せとか目指したいものはそれぞれ人達の個性なんだからさ。

今の日本では、沈みそうな船が漕ぎ手を海に放り出している。
単なる船の動力として考えたら、漕ぎ手は交換が利くからね。
でもやりすぎて漕ぎ手が滅びてしまったら、船はいつか止まる。

それを義理や人情でやらなかったのが昔の日本企業なんだよな。

「それはかわいそうじゃないか。」「それは応援してやろう。」

というアナログな温かさが、昭和にはあったんだろうなと思う。
それが最近の昭和を背景にした映画のヒットの理由なのかなと。

そういう意味で家族的な会社組織がそろそろ復活するといい。
「家族があとひとつできる」くらいのノリで。

そこへ上手に成果主義のふりかけをかける程度でいいと思う。
開き直って資本共産主義で行っちゃえばいいんじゃないか。

0 件のコメント:

コメントを投稿