昔から「自分磨き」という言葉が嫌いだったな。今でもそうかも。
「自分探し」とか「自分をよく見つめる」なんて言葉とかもね。
なんだか内側にこもって、なかなか次の一歩を踏み出さない感じ。
先に進めない言い訳とかそういうイメージが先に立っちゃう。
もうちょっというと「高い意識を持つ」とかそういうのもかな。
自分を高みに置いちゃって、それ以外の価値観を見下す印象で。
何かを「高い」にしちゃうと、相対的に「低い」になるわけで。
なんだかイヤラシイ響きを感じちゃうんだ。感覚的な話だけど。
価値観に高いも低いもないんだろうなあと思う。共存社会では。
価値観が入り混じる社会で、資本主義と社会主義がひしめきあう。
ルーチンワークだけで最低限の仕事があれば満足な人達もいる。
新たな付加価値を創出して大きなリターンを得たい人達もいる。
どっちも日本には必要なんだと思う。資本主義も共産主義も。
日本人特有の「玉虫色」とか「中庸」とかでうまくやってきた。
「Yes」「No」がうまくいえない日本人だからやれたんだろうな。
船頭になりたい人もいれば、漕ぎ手でいたい人もいるのが社会。
船頭だけでは船は動かないし、漕ぎ手だけでも前に進めない。
相互にどちらもどちらを必要とするのが現実社会なんだと思う。
大勢の漕ぎ手の上に船頭が一人というヒエラルキーはあるけど。
船頭を目指していくのもいいが、漕ぎ手のままの人も大事だ。
全員が船頭になったら破綻する。これを「合成の誤謬」という。
漕ぎ手のままでいいという人を、無理に船頭にしなくていいよ。
幸せとか目指したいものはそれぞれ人達の個性なんだからさ。
今の日本では、沈みそうな船が漕ぎ手を海に放り出している。
単なる船の動力として考えたら、漕ぎ手は交換が利くからね。
でもやりすぎて漕ぎ手が滅びてしまったら、船はいつか止まる。
それを義理や人情でやらなかったのが昔の日本企業なんだよな。
「それはかわいそうじゃないか。」「それは応援してやろう。」
というアナログな温かさが、昭和にはあったんだろうなと思う。
それが最近の昭和を背景にした映画のヒットの理由なのかなと。
そういう意味で家族的な会社組織がそろそろ復活するといい。
「家族があとひとつできる」くらいのノリで。
そこへ上手に成果主義のふりかけをかける程度でいいと思う。
開き直って資本共産主義で行っちゃえばいいんじゃないか。
0 件のコメント:
コメントを投稿