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2009年7月27日月曜日

たったそれだけの

「たったそれだけのことができない」なんて言葉に打ちのめされている人はいないだろうか。そして打ちのめしている人はいないだろうか?

私はその「たったそれだけ」のことを、けっこう本気で考えてみたいと思っている。「たったそれだけ」というのは、工夫をする余地がたくさん残されていると思う。

「たったそれだけ」は小石のような存在で、やってみると簡単なコトだらけだ。たとえば駅で切符を買うというのもそうだし、コンビニでお金を出して商品とお釣りを受け取るのもそうだ。

切符を買うという「たったそれだけ」のこと。
初めての駅なら券売機を探さないといけない。そして行き先までの料金を調べたり小銭を用意したりもする。単純だが面倒だ。

こういう「たったそれだけ」のことをマジメに考えた人がいたからこそ、さまざまな電子マネーの仕組みができてきた。これで、駅でわざわざ並んで切符を買わなくてもよくなったり、コンビニでの支払いが5秒以内に終わるようになった。

私がハケンでやっている仕事の中には、人力で数時間かかるようなモノもある。ひとつひとつは些細で単純な作業だが、それが重なるとかなりの労働量になってしまう。私はこういう「作業」の指示をそのまま受けて「作業」したりはしない。

こういう「作業」からどうやって人力部分を省いて、数分でできるようにするのかを必死で考える。もちろん正確性などの品質も人力以上に高めることも含めて考える。これこそが私にとっての「仕事」だと考えている。

私が行うべき定例作業のほとんどは手間のかかるものだが、何も考えずにやっていたら数時間かかるような作業も、実は自動化の仕組みを作ったりして数分で終わってしまっている。その空いた時間を有意義に利用して、さらに他の「作業」の効率化を考えるのだ。私はこれを個人的に「時間を耕す」と呼んでいる。

私はこういうちょこちょこっとしたシステム化が好きだ。特に作ったシステムが有効に稼動していることを、空いた時間で実感することが仕事における最上の喜びだ。別に大規模なシステムじゃなくていい。むしろ小手先から順番に少しずつ便利になっていけばいいんだと思う。

で、私が最終的に構築してみたいのは人間そのものを巻き込んだシステム化だ。別に人間をコンピュータに組み込もうなんて話をしたいわけではない。人間は人間らしく生きた方が幸せだと思っている。本人の幸せを追求するために無関心な領域を省力化するシステム組織だ。

たとえば、苦手に思っていたり関心のない分野については、他のシステム(コンピュータ資源も人的資源も含まれている)によって補い、そのシステムを利用する人が最も興味を示す点だけに没頭できる組織を作れないかな・・・ということだ。そもそも人間社会自体が相互依存システムなのだが、どうもその恩恵を受けられていない層がいると考えている。

精神障碍周辺の勉強会なり研究会なりに参加していると、「○○の特徴として、興味のある分野に関しては特異的な能力を示すが、それ以外の点についてはまったく関心を示さないため、社会的コミュニケーションに支障をきたしやすい。」という話をよく聞く。

個人的には、別に他の人に迷惑をかけないなら、それでいいんじゃないかな・・・と思う。一体、誰が「人間として総合得点とか平均点が高くないといけない」と決めたのだろう。むしろ、興味のある分野に傾倒することが本人の幸せなら、安心して好きな分野に傾倒できる環境を作ることが大事だと思う。

そもそもそんなことを言ったら、私だってよく指摘されることがあったような気がする。「興味のあることにはムチャクチャ食いつきがいいのに、それ以外になるとテンションが目に見えて落ちるよね。」とか。

そりゃそうだ。人生に与えられた時間は有限なのだ。しかもその終焉がいつなのか分からないことを考えれば、できれば関心の強いところに時間を注ぎ込みたいじゃないかと思う。(寿命や病気だけが人生の終焉ではない上に、誰もが明日の生命を保証されていないのだから。)

たとえば、私は美術に全く関心がない。車や建造物などのかっこいいデザインなどは気になっても、名画のために美術館に足を運ぶ習慣はない。その時間やお金を自分の興味のある対象に注ぎ込んだ方がいいと思うからだ。

そういえば中学生だった時、歴史の先生に詰め寄ったことがある。「本当に授業で教えている歴史というのはホンモノである証拠はあるんですか。そんな不確かなものに時間をかけることに意味を見出せません。」と。

実際に、あれから数年たった今でも日本を取り巻く近代史については歴史観が分かれているし、昔、覚えた「いい国つくろう鎌倉幕府」もイイクニ(1192年)ではない説が有力になってきているらしい。(と、書きつつ、今では歴史認識の重要性は理解しているつもりだが。)

ともかく当時の私は、頑なにまで歴史を学ぶことに激しい抵抗を覚えていた。歴史の先生から見れば私は単なる問題生徒だったかも知れない。ただ、その行動特性が○○病の兆候だろうが△△症を表すものだろうが、私はまったく問題ないと思っている。

なぜなら私はそれなりに無事に生き延びているわけで、何かと欠点やら弱点やらを抱えていながらも、いろいろと工夫をしてそれなりに快適に日々を生きている。私が考えるユニバーサル環境とは、そういう仕組みだ。何かの障壁があっても、それを意識させないシステムが世の中に浸透することだ。

ユニバーサル環境というのは特別なことではない。たとえば、インターネットのメール、掲示板、ブログなども十分にある種のユニバーサル環境だと思う。インターネットを通したメディアで交換されるやりとりの先にいる人が、聴覚障害を抱えていようが言語障害を抱えていたとしても、たぶん自己申告でもしない限りは分からないし、そこには相互に何の不便もない。

私はフィジカルな分野ではなく、メンタルな領域でのユニバーサル環境について、何か発展的なシステムを構築できないかと考えている。幸せな仕組みをはやく実現させたい。もちろん、賛否両論あるだろうことは想像に難くない。それでも今よりも幸せになる人がいるのなら、やってみる価値はあると思う。

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