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2009年7月12日日曜日

誰もが精神障碍を体験する

精神障碍者というのは「特別」とか、もうちょっと誤解を恐れずに言えば「特殊」とか、そういう範疇で考えている人は多いと思う。ぶっちゃけたところ、大昔は私もそう思っていたかもしれない。

私がいろいろと当事者をとりまく雇用状況に興味を持った当初、私が聞き回っていたのは「精神障碍者の人って平均的にどういう傾向があるんですか?」という質問だった。

これは「男性って平均するとどんな傾向があるんですか?」とか「愛知県出身の人って平均するとどんな傾向があるんですか?」っていう質問と同じぐらいの愚問だ。

それらに対する答えは「一概に言えない。人によって違う。」というのが答えだ。障碍という焦点で答えるならば、「一概に言えない。障碍の程度によっても、人によっても違う。」としか答えられない。

ただ、精神障碍を持つ人たちに向けられる視線の傾向・・・というコトであれば、私は答えられる。当事者と無縁な人たちであるほど無理解で無慈悲な評価を下してしまいやすいということだ。

もちろん評価を下した人に悪気があるわけではない。要するにそういう障碍を持つ当事者との向き合い方を知らないだけなのだろう。精神障碍の当事者は、身体障碍とか知的障碍とかと同じ対応をされやすい。

身体障碍・知的障害の場合は、ある程度の「根性」とやらで、なんとかなる点が往々にして多い。だから「良識ある健常者」側からの立場で口を開くと、

「物理的に対応可能なハンデは支援する。ただし泣き言なんか許さない。特別扱いなんかしないから同じ土俵で勝負しろ。それがオレなりの公平な態度だ。根性で戦え!」

・・・となってしまう。

確かに、この意見はユニバーサルな姿勢が持つ一面として正しいと思う。障碍以外の部分については、健常者と同じ条件として厳然と扱う姿勢に正しさもある。変に障碍を意識されて過保護な姿勢をとられるよりは、厳しさも対等である方がむしろ救われる障碍者も多いだろうと思う。誰かに「かわいそう」と憐れまれる状況の方がミジメなのだから。

ただ、精神障碍というのは「根性」と相性が合わない領域だから、ある意味、身体障害や知的障害よりも理解を得ることが難しいかもしれない。精神障碍の疾患の中には、常に幻聴が聞こえる状態で仕事に集中できない症状や、一切の気力が失われて何もできない状態が続く症状もある。

・・・と書いてはいるが実際のところ、私自身がこのような症状を体験したことがないから実はよく分からない。だから、「どうせいい加減なコトを理由にして現実逃避しているんだろう?」と思う人もいるだろう。自分が体験できないことは信じない。ついそう考えてしまうことは別に珍しくない。かくして「幻聴が聞こえるなんてウソばっかりついてやがる!」とか「何もやる気力が起きないなんて気合いが足りないだけだ!」という、感情的な主観論になってしまいがちだ。

ただ、私もIT業界に身を置いた体験の中で、連日の徹夜による疲労のピークで幻聴を聞いたことがある。おそらく幻聴自体は誰もが体験したことがあると思う。もっともわかりやすいのは「夢」だ。誰もが夢の中で誰かの声を聞き、何かの音を聞いているはずだ。しかし、現実ではなんの音も出ておらず、夢の中で聞いた音は脳が勝手に作り出した幻聴だ。

疲労の極みで睡眠を我慢していると半覚醒状態になるのか、起きていながら「夢」で聞くような声が聞こえることがある。俗な言葉で表現すると「寝ぼけている」状態だ。おそらく幻視についても「夢」で人や風景が見えることを考えたら、まったくありえないことではないことが分かる。これが現実とオーバーラップして発生するのがいわゆる白昼夢ではないか。

白昼夢もまた、誰もが経験していることだと私は考えている。「脳」がパニックを起こして、現実と過去の区別がつかなくなる体験をしたことがないだろうか。いわゆる「デジャブ(既視感)」という現象だ。今、起きていることが過去の夢で予知していたかのように、脳がパニックを起こしている状況だ。

寝ている間に勝手に「夢」として音や映像を作り出してしまう「脳」。そして「現実」と「夢」の境界線が認知できなくなる「デジャブ」を引き起こす「脳」。この二つの状態が「脳」で同時に起こってしまったとしたら、普通に生活をしている中で、幻聴や幻視が見えることは可能性として十分にあり得ると思う。

もちろん「幻聴が聞こえた」「幻視が見えた」と言っても、誰もそれが真実であるかどうかを確認することはできない。あなたが実際に体験した夢について「○○という夢を見た」と、他の誰かに本当のことを主張したとしても、それが真実であることを証明する方法が存在しないことに似ている。

心とか精神というものは、他の誰にも触れることのできない領域ゆえに、適正な方法でその正しさを証明することができない。精神障碍という症状と向き合う難しさというのは「無条件に信じる」しか出発点がないことなのだろう。つまり精神障碍の症状を聞くときには、相手の「夢」のように思える話を真実として認める覚悟が必要になる。「それは気のせいだろう!」とか「それは精神がたるんでいるからだろう!」・・・などと否定したって何も前には進まないのだ。

仮に夢の中で写真を撮っていても録音していたとしても、現実世界にはそれを持ってくることはできない。それを信じてもらうためには「無条件に」信じてもらうしか方法がないのだ。もちろん夢の話では簡単にウソをつけることも歴然たる事実だ。

あえて性悪説で精神障碍を考えた場合、「ニセ」の症状を語る人も数パーセント含まれているかもしれない。実際にありもしないことを真実のように語っている人もいるかも知れない。またはちょっとしたことを大げさに申告している人もいるかも知れない。しかし、そのことが精神障碍の症状すべてを頭から否定する理由にはなりえない。

本人がそういうなら「真実」なのだ。がんばろうと思ってもがんばれない。これも真実なのだ。そこに精神論とか根性論を持ってくることはナンセンスだと思う。事実を事実として受け止めた上でその先を考えていくしかないのだ。

誰もが夢をみるし誰もがデジャブ(既視感)を体験する。感情の感度も人によって違う。価値観も人によって違う。誰もがそれぞれ違う世界を持っている中で、脳のメカニズムの失調(伝達物質や電気信号の不調)により、そこにさらなる違いが発生する。

精神障碍というのは、いわゆる「健常者」にとって遙か遠くの現象でありながら、その一方で実はものすごく近い現象なのだと思う。精神障碍という現象は、あらゆる意味で紙一重の世界なのではないかと最近考えさせられている。

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