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2009年7月22日水曜日

正常と異常の境界線

たまに受ける質問について書いてみたいと思います。

(1) どうして「障碍者」と表記するのか?
「害」じゃなくて「碍」。

(2) どうして「健常者」という表現が嫌いなのか?

まず、(1)について。

ひとつには「害」というイメージに拘りたくないということがあります。特に漢字というのは一文字ずつに意味が込められているので、イメージの刷り込みされやすいような気がするから。これは当事者にとっても周囲にとってもあんまり幸せじゃない。

他の表記方法としては「がい」というのもあります。いわゆる「障がい者」。これは極めて個人的な理由で好きではありません。日本には(大元は中国ですが)表現豊かな漢字があるのに、最近はどんどん「ひらがな」化されているのがなんだか残念なんです。

市町村が「ひらがな」化されたり、ニュースのテロップに「ひらがな」が増えてくるのを見ると、文化水準として大丈夫なんだろうか・・・なんて思ってしまいます。特にマスコミに誤字や誤読が多いのも問題だと思います。テレビを見ていると頭が悪くなるんじゃなかろうかと心配になるくらいです。

それで「碍」なんです。読みは「がい」で、意味は「さわる」という意味ですね。繋げて読むと「障碍=しょうがい」。「障=さわる」+「碍=さわる」→「障碍=さわりまくり?」

個人的には「得」の時に似ていて好きなんですよ。「石を得る」と覚えて「碍」。その昔、大きな功績をあげた武将に与えられるご褒美は領地で、その単位は「石(ごく)」。だから、百万石大名・・・なんていいますよね。まぁ、無理矢理感もありながら、なんとなくポジティブなイメージがあります。

ただ、そうはいっても、公的な名称についてはそのまま表記しています。たとえば「精神障害者保健福祉手帳」なんかはそのままです。このキーワードを必要としている人が、それを調べようとした時、無駄に遠回りさせてしまう可能性があるから。

次に、(2)について。
どうして「健常者」という表現が嫌いなのか?

やたらと区別することが、本質を見えにくくしているんじゃないかと思うからです。たとえば事前に「○○障碍」と聴いた場合、どうしても実際に会う前に頭の中に何らかのイメージが刻み込まれるケースが多いように感じます。

それから「健常者」という響きの中に「障碍を持っている人間とは違う」とか「自分たちは社会のスタンダードだ」というニュアンスを感じます。たまたま医療的な障碍を認知していないだけで「健常者」って、別にそんな偉いワケじゃありません。あまり「上から目線」で人を見ない方が幸せになれそうな気がします。

健常者として生活している人の中にも、いわゆる「○○という疾患で代表的な症例は△△という行動である。」という話があれば、それにあてはまる人なんていくらでもいます。一般社会の中でこんなセリフをよく聴いたりしませんか?

「あの人、変わり者だけど、仕事はものすごくできるよね?」とか。

ひょっとすると病理的には何らかの診断が下される可能性もあるし、実は本人も知っていて言わないだけなのかもしれない。でも、そこに何らかの規定をすることには全く意味がないんだと思うんですよ。「人間」を見る前に「病気」を見てしまっては・・・ね。

それから、「狂気」・・・と書いてしまっていいのか分かりませんが、誰もがそういう性質を隠し持っているものだと思っています。たとえば、最も分かりやすい分野で言えば「性行動」かも知れません。おそらく普段は行わないようなことがたくさんあると思います。

「健常者」・・・なんて言ったって、紙一重なんだと思います。

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