+1

2012年2月22日水曜日

これって私に向いてますか?


私はメンタルで実務経験の少ない方々と一緒に仕事をしている。一応は「支援」という形式ではあるが、彼らの潜在能力、そして実際に見せる高いスキルとモチベーションには目を見張るものがあるし、私は彼らと一緒に働けることを心から感謝している。数年前、この仕事を始めた頃の予測を遥かに超えているといっていい。

私は彼らとずっといつまででも仕事をしていたいと切に願っている。「彼らの才能を無駄遣いする企業には入社させたくない」と本気で思うほどに、私は彼らの将来性を信じている。彼らの今後の現実については、私にとって大きな課題でもあるし、いくつかの未来図を頭の中に描いている。

しかし、今回のエントリに書きたいことは逆のことだ。私が構築した環境で新しい才能が開花した人もいるが、その一方で大勢の利用者をがっかりさせてしまった事実から目を背けることはできない。そして今後もその比率を大幅に変えることは難しいかもしれない。

なぜなら、私が指し示しているITという領域は「狭い道」であり、さらに「簡単ではないこと」だからだ。もっと正確に表現するならば、【心の底からわき上がるほどの興味がなければ】「簡単ではないこと」ということになるだろうか。逆にいうと「あまり興味がなければ無理」という現実がある。

つまり、最終的にはその人の本質的な才能に依存しているのだ。「ちょっとITが気になって・・・」という入り口から「おもしろい」にいくのか「わからなくて怖い」にいくのか・・・それは残念ながら本人の資質に関わってくる。これは「頭の良さ」という次元とは別の話だ。

たとえば、私にはミュージカルを楽しむという習慣はないし、美術館で芸術鑑賞をするという趣味もない。興味のベクトルがそこに向いていないのだから仕方がない。おそらく「努力」すれば、いくつかのミュージカルや絵画の概要を覚えることはできるだろう。

それでも、心からそれらを愛している人ほどに熱のこもった解説はできない。ましてや私はそれを仕事にする意思もない。だから私にはミュージカル関連の仕事や、芸術関連の仕事は向いていないのだ。そもそも興味のないミュージカルや芸術鑑賞に時間をかけること自体が苦痛なのだから。

私が考える「向いている」といえる条件は、たった2つ。

・第三者から見れば「努力」しているように見える
・本人からすれば「遊び」の延長上にすぎない

これなら無理に集中力を注ぎこむ必要はない。その集中力は強制されたものではなく、映画や小説を読みふけるのと同じ「快」に属する集中力だからだ。それにもかかわらず第三者から見れば「努力に余念がない」ように見えてしまうのは、その集中力がもたらす結果が実用的だからだろう。

よく利用者の方から「私はITに向いているでしょうか?」と聞かれることがある。意地悪のつもりではないのだが、つい、こう言いたくなってしまう。「向いているかどうかを気にして、他人に適性を聞いているうちは向いていないんじゃないでしょうか?」と。

よく、「『小説家になりたいといっているだけの人』は小説家になれない。本当に小説家になる人は『もう書き始めている人』だ。」という話を耳にするが、まさにその通りだろう。ITに向いている人は「向いているかどうか」なんて気にする暇がない。そんなことで悩む暇があったらPCに向かって何かをするだろう。

そして、たまに「体系的な勉強をしてから挑戦したいです」という人にもお目にかかることがあるが、たぶん、それもやめた方がいい。本当に向いている人は「勉強」なんてしないのだから。

詳細な説明はまた別の機会にしたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿