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2012年5月30日水曜日
臨機応変が苦手
一部の発達障害オーナーの人は理解してくれやすいかもしれませんけど、私は「臨機応変」という言葉が苦手です。ハッキリ言えば嫌い。「臨機応変=判断は任せる」という意味だと思いますが、実際のところ「判断しがたい状況」って割とあると思うんですよね。
「臨機応変に対応してください」という言葉が期待している内容を叶えるためには、「依頼人にとってのベストな判断」が何であるのかを知らないといけないんですね。で、その期待を外した行動をとれば、「なんでそんな判断をしたんだ」と文句をつけられます。理不尽この上ない!
また、能力的なハードルもあります。たとえば、完全なメカオンチな人に「機械が異常動作をしたら臨機応変に対応してください」といったとしても、お願いされた人には判断のしようがないんですよ。つまり、「仕組みをしらない人」に「臨機応変」は通用しないんですよね。
そこまで極端でなくても、「臨機応変」には広範な前提知識が必要になることがあります。たとえば、揚げ物の鍋に引火して炎が上がったとき、何も知らなければ水をかけて消そうとする人がいると思います。もちろん、この行動は間違っていて非常に危険です。(逆に火が燃え広がります)
この二つの例はいずれも「臨機応変」を指示した側に大きな問題があります。ひとつには「臨機応変」な対応をする適性がない人に判断責任を委ねてしまっていることで、ふたつには「臨機応変」になるまでの危機管理のガイドラインがないことです。
なんでも「臨機応変」という「魔法の言葉」で安易に片付けてしまっちゃいけないんです。もちろん、全てのケースを列挙することは無理です。どれだけ時間をかけてもそういうマニュアルを作れないし、作れたとしても、読み切った上で全てを暗記することは無理ですよ。だから基礎力が必要なんです。
「臨機応変」とは「基礎的な知識を駆使して」「その状況でベストだと思われる行動」を考えなくてはならないという、極めて高度な仕事を要求しているということなんですね。「臨機応変」という言葉を多用することは、「その人の価値観を予測しろ」ということに他ならないわけで。やはり苦手です。
エスパーではない(そして他人の期待から外れたところに着地しやすい)私としては、「臨機応変」などという「魔法の言葉」よりも、ちゃんとした「ルールブック」が欲しいわけです。ルールブックが無理だとしても、私なりの「臨機応変」に文句をつけるんじゃねー!……と、訴えたいのであります(笑)。
「臨機応変」という言葉を使うとき、よーく心してください。その結果、何が起こっても、それは「臨機応変」といった人に責任があるんですよ。幼稚園の子に「たき火番」をさせて、大火事になったとしても、普通に考えたら子供に責任はないですよね。この場合、もちろん悪いのは大人の判断能力です。
ここまでは誰にでも分かるのに、「臨機応変」という言葉を使うときには忘れてしまうことが多いのは不思議なことです。ええ、本当に不思議です。私もたまにそうですから。「臨機応変」といわれて困った自分の気持ちを忘れず、なるべく「臨機応変」を誰かに押しつけないように気をつけたいと思います。
2012年5月23日水曜日
わが闘争(という妄想)
私はポジティブな人間だと間違われることもあるのだけれど、実は超がつくほどのネガティブ人間という一面もあるんです。だから私がいろんなことに「否定」から入っていくことも少なくないです。そして、だからゆえに、「誰にでも刃向かう」とか「波風を立てる人間」という評価を受けることだらけです。
実際のところ、私はどうにも扱いにくい人間だと思います。特に「支配」という上からの圧力、「常識」という世間の大多数を盾にした力。私はどうもそういう力には逆流するタイプで、いろんなところで毒づいたり、勝手に苦労していたりします。客観的に見れば自業自得としかいえないわけですが。
ただ、私が噛みついて戦っているのは「力」そのものではありません。その先にある人間でもありません。ありきたりな表現になってしまうのですが、行き着く先は「自分自身」なんじゃないかと最近思うんです。「当たり前というあきらめ」に流されやすい自分に対してなのかなと。
だから、刃向かいます。そして批判します。否定します。でも、本質的には自分自身が相手なので、ひたすら自分の中で立場を変えながらディベートします。そのうちに最初に否定していた物事が、自分にとっても受け入れやすかったり、それでも違和感がどこかにあることに気づくことも多かったりします。
もう少し本音で書くと、そりゃ、直接的な相手に「カチン」とくることってあります。その瞬間はあまり理性めいたものはありません(苦笑)。最初の出発点はそこから始まるんですが、徐々に検証に入っていくんです。「相手が立たされた状況は?」とか「本当に自分自身に選択肢はないのか?」とか。
誤解を恐れずに書くと、世の中、たいていのことはお互いに「ずるい」ことをやっていたりします。自分では「私はずるいことや恥ずかしいことは一切やっていない」と認識していても無駄というものです。それは「ずるい」と感じた相手側の立場からしか見えないことだから。
そうやって「ちょっと変だよね?」というポイントに気づく感度を高めていくことは、無駄にはならないと私は思っています。それによって不快に感じる人がでてしまう点は、今後の課題としていずれは改善しなくてはいけないわけですが。それでも立った波風はどこかに役立つような気がします。
ちなみに、私は「自分は清廉潔白だ」と思っている人を信用しないことにしています。そういう人は、自分が犯した過ちや、犠牲にしている人たちの現実を直視できない人だと思うからです。私はというと、泥臭い失敗をたくさんしました。汚れればいいというモノではないのですが、決してきれいな人間ではないんです。でも、だからこそできることがあると思っています。
実際のところ、私はどうにも扱いにくい人間だと思います。特に「支配」という上からの圧力、「常識」という世間の大多数を盾にした力。私はどうもそういう力には逆流するタイプで、いろんなところで毒づいたり、勝手に苦労していたりします。客観的に見れば自業自得としかいえないわけですが。
ただ、私が噛みついて戦っているのは「力」そのものではありません。その先にある人間でもありません。ありきたりな表現になってしまうのですが、行き着く先は「自分自身」なんじゃないかと最近思うんです。「当たり前というあきらめ」に流されやすい自分に対してなのかなと。
だから、刃向かいます。そして批判します。否定します。でも、本質的には自分自身が相手なので、ひたすら自分の中で立場を変えながらディベートします。そのうちに最初に否定していた物事が、自分にとっても受け入れやすかったり、それでも違和感がどこかにあることに気づくことも多かったりします。
もう少し本音で書くと、そりゃ、直接的な相手に「カチン」とくることってあります。その瞬間はあまり理性めいたものはありません(苦笑)。最初の出発点はそこから始まるんですが、徐々に検証に入っていくんです。「相手が立たされた状況は?」とか「本当に自分自身に選択肢はないのか?」とか。
誤解を恐れずに書くと、世の中、たいていのことはお互いに「ずるい」ことをやっていたりします。自分では「私はずるいことや恥ずかしいことは一切やっていない」と認識していても無駄というものです。それは「ずるい」と感じた相手側の立場からしか見えないことだから。
そうやって「ちょっと変だよね?」というポイントに気づく感度を高めていくことは、無駄にはならないと私は思っています。それによって不快に感じる人がでてしまう点は、今後の課題としていずれは改善しなくてはいけないわけですが。それでも立った波風はどこかに役立つような気がします。
ちなみに、私は「自分は清廉潔白だ」と思っている人を信用しないことにしています。そういう人は、自分が犯した過ちや、犠牲にしている人たちの現実を直視できない人だと思うからです。私はというと、泥臭い失敗をたくさんしました。汚れればいいというモノではないのですが、決してきれいな人間ではないんです。でも、だからこそできることがあると思っています。
2012年5月16日水曜日
健常者だとどれくらいでOKですか?
何度も書いてますが、私は障害者の就労移行支援の仕事をしています。でも、私は「就職させて、はい、おしまい」というタイプの支援をしたいとは思いません。たまたま障害を持っていたということで、才能や適性があるにも関わらず「本当にやりたかった仕事」を選べない人たちが、普通に職業選択ができる流れを作っていけたらいいなあと思います。
で、その一環として、健常者と互角に渡り合えるエンジニアを養成しています。養成といっても「手取り足取り」ではなくて、「自己解決」しながら自力でスキルを身につける環境を準備するだけです。それで、気がつけばDB連携したWebシステムを構築できるようになっていたり、センスのいいWebデザインができるようになった人も育ちました。
ここで「健常者」という言葉を使うのは無粋の極みなんですが、あえて書くと、当事者には「健常者のシロウトが追いつけないレベル」を目指してもらいました。むしろそうじゃないといけないと思ったんですよ。「健常者>当事者」という枠組みで語るのではなく「熟練者>シロウト」という枠組みで立ち位置を定めた方がいいだろうなと。
でも、たまたまだと思うんですが、最近、立て続けに違う人から聞かれました。
「彼らがやっているWebページの更新って1日くらいでレクチャー受けられますか?」
「健常者に説明してほしいのですが、健常者だとどれくらいでOKそうですかね?」
……もうね、残念すぎるんです。特に福祉関連の人からそういう話を聞くと心の底からブルーになるんですよ。「結局、障害者よりも健常者の方が優れているという先入観があるのかな」って。そうじゃなくて、彼らがWeb関連の技術を獲得したのは「時間」と「モチベーション」と「気合い」を投資した結果であって、そこに能力差はあまり関係ないわけですよね。
健常者だろうがそうでなかろうが、こと、技術分野の領域の話では「時間」+「モチベーション」+「気力」=「経験値」になるわけで、健常者であれば「時間」も「モチベーション」も「気力」も不要で経験値を蓄積できるなんてことはないんですよ。もちろん、その周辺技術をあらかじめ知っている人にレクチャーするのであれば、いくらでもショートカットは可能なんですけど。
彼らが数ヶ月ほどの時間をかけて「自力」で獲得してきた技術や経験を「健常者に1日程度でレクチャーしてほしい」なんていわれるのは非常に残念なんです。そして、たいていの場合は「無償」であることが前提だったりします。当事者の努力に対しても、獲得した技術そのものに対しても圧倒的に敬意が払われていないような気がしてならんわけです。ただなら便利に使ってやろうと。
だからこそ、もっとがんばらないといけないなと思います。私もそうだし、当事者もそうなんです。表現として美しくないかもしれないけれど「ナメられないレベル」を目指していかないといかんのだと思うのです。「彼らの技術を1日で、それも無償でレクチャーしろだなんてとてもいえない」レベルになっていかないといけないのです。ぱっと見でわかるレベルでないといかんのです。
そういう意味で、前述の言葉を発せられた方々を恨むつもりは毛頭ありません。私と当事者が置かれた現実を正確に把握させてもらったという意味で感謝しているんです。自分の中では「そこそこいい結果が出始めているんじゃないだろうか」と思い始めていたことも事実です。そのあたりは甘ったれていたわけですね。そこは率直に反省でございます。
そんなわけで、心を入れ替えて、楽しみながら結果を出していくぞう!
2012年5月2日水曜日
マナーなんて教えない
深い意味はないのですが。今回は「ですます調」です。いや、もっとくだけて「口語調」。
さて、私のクセというか、どうしても刺激的なタイトルを付けてしまうのですが、たぶん、それくらいでちょうど私が考えていることが伝わるのかな……と思い、やっぱりこのタイトルです。先に謝っておきます。ごめんなさい。
さて、就労移行支援事業というと、すぐに「プログラム」とか「マナー」とか、そっちの方に行きがちですよね。でも、私は違うアプローチで社会性を身につけてくれたら嬉しいなあと思っているのです。そもそもね、発達障害とか、そのあたりって、社会に溶け込むのが体質に合わないから困っているわけです。
そこに「まずは挨拶の仕方ができないと就職なんてさっぱりダメだ!」とやっちゃっても、個人的には意味がないかなと思うんです。だって、もともとあまり働きたくなかった人が、なんとか「働く選択肢もなくはない」というステージに来たわけですよ。ま、もちろん、挨拶が社会人の基本というのは正しいんですが、いきなりそこから入って萎えちゃったらもったいないよなあと。
だから、挨拶とかマナーとか、そこから始めちゃうのってどうなんだろう……って思うんです。もちろん個人差があるので「全ての人がそうすべき」だなんて思ってはいないんだけど、苦手なところから出発するんじゃなくて、「自分ってこういうことをやってると楽しいらしい」とか「こういう仕事だったらやっていけそう」とか、そっちが先だと思うんですよ。はい。
つまり、本質的に「仕事」とか「仕事を構成するスキル」を楽しんでもらって、「この楽しいことを生活の中心にしていくためにはどうすればいいんだろう?」……という、逆説的なアプローチで社会性を身につけていくというのはアリなんじゃないかなと。実際に私が運営している仕事シミュレート環境では、社会性についてのプログラムは一切用意していません。少なくとも私はやりません。
じゃあ、システム開発とかWeb制作とか、デザイン制作とかができるようになってきた人たちは社会性がないの?……っていうと、決してそんなことはないんです。実はスキルを身につけていくうちに、その過程で普通に身につけていくんです。たとえば「質問する時の態度が悪い」場合には「そういう聴き方をする人には何も言わないよ」と言っちゃいます。
つまり、座学じゃなくて、本当に「社会性スキル」が必要になるシーンを、仕事シミュレート環境の中にたくさん転がしておくんです。あくまでも個人的な意見なのですが、たとえば「名刺の渡し方」なんてことを講義でやっても、名刺を渡す機会がそもそもない人にやっても意味がないと思うんです。それは名刺を持ってからでしょう。さらにいえば名刺を持つ仕事を選んでからのことでしょう。
挨拶にしてもね、挨拶の仕方をやる前に「人と協力しあう仕事をする」というステップが先にあって、「そのステップをどうやったら円滑にできるようになるんだろう?」っていう、「本人からの需要」があって初めて本気で取り組めることなんだと思うんです。「本人からの需要」がないのに、施設側からいろんなプログラムを押しつけるのってどうなのかなと。
たとえば英会話教室のことを考えてみるといいかなと。
(1) 暇つぶしに何か新しいことをやってみたい人。
(2) なんとなく英語が話せるようになりたい人。
(3) 4週間後にアメリカにいく用事ができてしまった人。
たぶん、一番たらたらとやるのが(1)。そもそもが暇つぶしだから、ちょっとイヤなことがあると、「やめよっかなー」って思ってる(笑)。(2)の人は(1)よりはずっとがんばれちゃうんだけど、「まぁ、焦らなくても時間をかけてなんとかなればいいかなー」と希望的観測をしていたりする。当然だけど、誰よりも必死になるのは(3)の人。だって、たらたらやっていたら後がないんだから(苦笑)。
需要レベルが(1)<(2)<(3)という形になっているんだけど、たぶん同じ講義を受けていたとしても、密度は全然ちがうと思いますよ。就労移行支援事業にしたって、そのあたりの本質は同じだと私は思ってます。でね、言いたいのは「無駄なことにお互いに時間をかけるのはやめよう」ってことなんです。「聞きたくもない話を聞かされる人」→無駄。「聞きたくない人に話を聞かせる人」→無駄……ってことです。
これは私だけがそうなのかもしれないけど「自分と関係なさすぎる話」を聞くというのは、もうね、ものすごい苦痛なんですよ。さらにその上に睡魔と戦わないといけないという状況は地獄ですよ。そもそも「戦わなくてもいい睡魔」と戦っている時間って生産性ゼロですからね。睡魔と戦っている時間があるならもっと「自発的」に使った方がいいと思うんです。
もちろん「社会人になったら睡魔と戦うのも仕事のうち」って言いたくなっちゃうのは分かります。私だってそう思うから。そう言っちゃいたくなるから。でも、何のインセンティブもないうちに「ツライところから体験してもらう」っていうことの価値について、実のところ私はよく分からないです。
私だったら「そんなツライだけの社会人なんて、誰が好きこのんでなるか?」って思っちゃうもの。仕事そのものの「楽しさ」がまず先にあって、そこに相反する「イヤなこと」というのが出てくる。「楽しさ」の恩恵を享受するためには「イヤなこと」をなんとかしなくちゃいけない。そういう関係性があって初めていろんなノウハウが必要になると思うんですよ。ノウハウに需要ができるんです。
そんなわけで、私はね「フォーマット」としてのプログラムを先にやるんじゃなくて、「需要」だとか「モチベーション」とか「自己改善のきっかけ」みたいなものを、本人の中から掘り起こすところからはじめていきたいなあと思ってます。同じことをやっていても「楽しさ」があれば、体感時間は半分以下になります。ということは相対的に密度は2倍なんです。私の仕事シミュレート環境では、週末によくこんな言葉を聞きます。
「ああ、もう、こんな時間か。早いなあ。なんで明日は休日なんだろう?」
なんて。
これが数年前に自宅に引きこもっていた人のセリフとは思えません(笑)。
本当に嬉しい変化です。
さて、私のクセというか、どうしても刺激的なタイトルを付けてしまうのですが、たぶん、それくらいでちょうど私が考えていることが伝わるのかな……と思い、やっぱりこのタイトルです。先に謝っておきます。ごめんなさい。
さて、就労移行支援事業というと、すぐに「プログラム」とか「マナー」とか、そっちの方に行きがちですよね。でも、私は違うアプローチで社会性を身につけてくれたら嬉しいなあと思っているのです。そもそもね、発達障害とか、そのあたりって、社会に溶け込むのが体質に合わないから困っているわけです。
そこに「まずは挨拶の仕方ができないと就職なんてさっぱりダメだ!」とやっちゃっても、個人的には意味がないかなと思うんです。だって、もともとあまり働きたくなかった人が、なんとか「働く選択肢もなくはない」というステージに来たわけですよ。ま、もちろん、挨拶が社会人の基本というのは正しいんですが、いきなりそこから入って萎えちゃったらもったいないよなあと。
だから、挨拶とかマナーとか、そこから始めちゃうのってどうなんだろう……って思うんです。もちろん個人差があるので「全ての人がそうすべき」だなんて思ってはいないんだけど、苦手なところから出発するんじゃなくて、「自分ってこういうことをやってると楽しいらしい」とか「こういう仕事だったらやっていけそう」とか、そっちが先だと思うんですよ。はい。
つまり、本質的に「仕事」とか「仕事を構成するスキル」を楽しんでもらって、「この楽しいことを生活の中心にしていくためにはどうすればいいんだろう?」……という、逆説的なアプローチで社会性を身につけていくというのはアリなんじゃないかなと。実際に私が運営している仕事シミュレート環境では、社会性についてのプログラムは一切用意していません。少なくとも私はやりません。
じゃあ、システム開発とかWeb制作とか、デザイン制作とかができるようになってきた人たちは社会性がないの?……っていうと、決してそんなことはないんです。実はスキルを身につけていくうちに、その過程で普通に身につけていくんです。たとえば「質問する時の態度が悪い」場合には「そういう聴き方をする人には何も言わないよ」と言っちゃいます。
つまり、座学じゃなくて、本当に「社会性スキル」が必要になるシーンを、仕事シミュレート環境の中にたくさん転がしておくんです。あくまでも個人的な意見なのですが、たとえば「名刺の渡し方」なんてことを講義でやっても、名刺を渡す機会がそもそもない人にやっても意味がないと思うんです。それは名刺を持ってからでしょう。さらにいえば名刺を持つ仕事を選んでからのことでしょう。
挨拶にしてもね、挨拶の仕方をやる前に「人と協力しあう仕事をする」というステップが先にあって、「そのステップをどうやったら円滑にできるようになるんだろう?」っていう、「本人からの需要」があって初めて本気で取り組めることなんだと思うんです。「本人からの需要」がないのに、施設側からいろんなプログラムを押しつけるのってどうなのかなと。
たとえば英会話教室のことを考えてみるといいかなと。
(1) 暇つぶしに何か新しいことをやってみたい人。
(2) なんとなく英語が話せるようになりたい人。
(3) 4週間後にアメリカにいく用事ができてしまった人。
たぶん、一番たらたらとやるのが(1)。そもそもが暇つぶしだから、ちょっとイヤなことがあると、「やめよっかなー」って思ってる(笑)。(2)の人は(1)よりはずっとがんばれちゃうんだけど、「まぁ、焦らなくても時間をかけてなんとかなればいいかなー」と希望的観測をしていたりする。当然だけど、誰よりも必死になるのは(3)の人。だって、たらたらやっていたら後がないんだから(苦笑)。
需要レベルが(1)<(2)<(3)という形になっているんだけど、たぶん同じ講義を受けていたとしても、密度は全然ちがうと思いますよ。就労移行支援事業にしたって、そのあたりの本質は同じだと私は思ってます。でね、言いたいのは「無駄なことにお互いに時間をかけるのはやめよう」ってことなんです。「聞きたくもない話を聞かされる人」→無駄。「聞きたくない人に話を聞かせる人」→無駄……ってことです。
これは私だけがそうなのかもしれないけど「自分と関係なさすぎる話」を聞くというのは、もうね、ものすごい苦痛なんですよ。さらにその上に睡魔と戦わないといけないという状況は地獄ですよ。そもそも「戦わなくてもいい睡魔」と戦っている時間って生産性ゼロですからね。睡魔と戦っている時間があるならもっと「自発的」に使った方がいいと思うんです。
もちろん「社会人になったら睡魔と戦うのも仕事のうち」って言いたくなっちゃうのは分かります。私だってそう思うから。そう言っちゃいたくなるから。でも、何のインセンティブもないうちに「ツライところから体験してもらう」っていうことの価値について、実のところ私はよく分からないです。
私だったら「そんなツライだけの社会人なんて、誰が好きこのんでなるか?」って思っちゃうもの。仕事そのものの「楽しさ」がまず先にあって、そこに相反する「イヤなこと」というのが出てくる。「楽しさ」の恩恵を享受するためには「イヤなこと」をなんとかしなくちゃいけない。そういう関係性があって初めていろんなノウハウが必要になると思うんですよ。ノウハウに需要ができるんです。
そんなわけで、私はね「フォーマット」としてのプログラムを先にやるんじゃなくて、「需要」だとか「モチベーション」とか「自己改善のきっかけ」みたいなものを、本人の中から掘り起こすところからはじめていきたいなあと思ってます。同じことをやっていても「楽しさ」があれば、体感時間は半分以下になります。ということは相対的に密度は2倍なんです。私の仕事シミュレート環境では、週末によくこんな言葉を聞きます。
「ああ、もう、こんな時間か。早いなあ。なんで明日は休日なんだろう?」
なんて。
これが数年前に自宅に引きこもっていた人のセリフとは思えません(笑)。
本当に嬉しい変化です。
2012年4月25日水曜日
発達障害はある意味で幸せな生き方
発達障害ってね、ある意味で幸せな生き方だと思う。自分の好きなことに全力を出しやすい特性なのだから。そういう意味でも「これぞ」と思える道探しは重要だと思う。逆に得意分野以外では圧倒的にアウェイなのだから。
先日、ツイッターでこうつぶやいたら、「簡単に言っちゃいけない……」と控えめなご意見をいただいた。「たしかに簡単でもないんだよなあ」 と思うとともに、「だからこそ『簡単』に言わないといけないんだろうな」とも思った。その理由については後述するが、まず、その前に訂正しておきたいことがある。
訂正したい点は「発達障害はある意味で幸せな生き方」という表現がちょっと乱暴だったということだ。もうすこし私が伝えたい意味にそって正確に書き直すと「発達障害と呼ばれる人の中には、特性を活かして幸せに生き方ができる人もいる」というところだろうか。
私自身は医師から発達障害という診断を受けたことはないが、実際に診断を受けてみたらどんな結果が出るものやら……と思っている。実際に社会の中で活躍している人たちの中にも、病院に行ったら「発達障害」という診断を下される人はたくさんいると思う。
ただ、それが直ちに「障害者認定」に結びつかないのは、「生活に著しい不具合が生じていない」というケースが多いからだろうと思う。私にしてもそうだ。ただ、人付き合いがヘタクソで、過去に不穏な空気をたくさん作ってしまった自覚はある。なぜそうなったのか理由が分からないケースすらある。
私は本質的に「人付き合い」が苦手だ。私が人付き合いできているのは、ひとえに相手になってくださる方々が寛容さに依存しているかもしれない。一日中、誰とも会話することなく、一人の世界に没頭することも苦痛ではないし、できればそうしていたいという気持ちもどこかにはある。
子供の頃、「そういうことをしたら、普通、人はどんな気持ちになると思う?」と聞かれて、「人の本当の気持ちは分からない」、「人によって違うと思う」と答えることが多かったように記憶している。むしろ、他人の気持ちを「想像」するよりも、常に「真実」を口にすべきだ……と思っていた。
そして、実際に私が通ってきた道は対立の連続だった。いろいろなところで「波風」を立ててきたし、「真実を貫くためにはやむを得ないこと」くらいの気持ちでいた。「ちょっと世の中から浮く存在」という私にとって、発達障害と呼ばれる診断を受けた人たちの考え方には深く共感できるところが多い。
さて、トラブルの多かった私がそれなりに快適に生きてきた方法は、次の二点に集約される。
・自分が苦手とする領域になるべくいかないこと
・人間関係は事実の確率に基づいた「論理」で解決すること
それぞれの詳細についてはいずれ触れてみたいと思うが、世の中が自分にとって生きづらい環境であるならば、少なくとも、自分の半径50センチ程度の範囲だけでも改善していくことから始めるといいんだと思う。オフィスで働くのがイヤならノマドワーカーになるのも有効な手段だと思う。(実際にやってみると、地味にトイレや電源の確保が悩みの種になるのだが)
もちろん、これも「全ての発達障害の人に有効」という方法論ではない。なぜなら「全ての人に有効な○○」というものは存在しないからだ。「発達障害」というくくりで話を始める前に「人間」という大前提を認識しておくことが当然で、そこには実に奥深い多様性があることは忘れてはいけない。
そういう前提においても、発達障害と診断された方のだいたい3割くらいは、一緒に可能性を磨いていきたいと思わせる人がいる。そして、その中のさらに何割かは実際に「自力」でスキルを身につけていく人がいる。その環境下で、実際にWebデザイン制作やWebシステムの構築ができる人もいる。
確かに発達障害を取り巻く環境が、素晴らしく幸せなものではないことは百も承知だ。それに乗り越えていかなくてはならなさそうなハードルもある。たとえスキルを身につけたからといって、そのスキルを活用できる形で採用してくれる企業は少ない。
どれだけシステム開発ができようと、素敵なデザインができようと「シュレッダーとコピー機を使う簡単な仕事です」という求人票に直面してしまう。法定雇用率(企業において1.8%以上の障害者を雇用するように国から指導されているルール)を満たすために「無難」な障害者を欲しがる企業は多い。
それでも「未来は明るい」ことを信じていた方がいいと思う。なぜなら「簡単ではない」=「難しい」と思った瞬間に、自己暗示にかかってしまうからだ。確かに現状においては、あまりいい材料はない。しかし、だからこそ「ハラミやホルモン」を目指す人が現れないといけないと思う。
今でこそ人気のハラミやホルモンは、かつては、お客様に提供できない部位として捨てられていたらしい。諸説あるが「ホルモン」=「ほうるもん(捨てるもの)」というところから由来しているという話もある。その真偽はともかくとして、社会全体がついてくるより前に、時代の先を歩くと認められないことは多い。
しかし、「現状の企業に認められないから」といって、可能性を持った人たちが簡単にあきらめてしまっては、いつか企業に「発達障害といわれている人の中には有益な人材がいる」と気づいてもらう機会を永遠に失ってしまうことにつながりかねない。それではいつまでたっても世の中は変わっていかない。
発達障害……私が関わってきた人たちの範囲でいえば、非常に論理的な人が多いような気がする。もちろん、特定の「こだわり」領域が強すぎる場合、その領域に関する部分だけ論理性が弱まることもあるが、それでも論理的な仕事に向いている人は多かったような気がする。
そういう特性が全ての人にプラスに働くとは言い切れないが、少なくともそういう傾向がある人は、そういう傾向を「メリット」として活用した方がいいと私は思う。私はそういう人の底力を信じていて、本来の能力を磨くことに時間を費やしている。
もちろん私は単なる人間だし、私が全ての人を幸せにできるなんて妄想などは抱いていない。そもそもそんなことは無理だ。ただ、私が目指している方向性を信じてくれる人が何名かいてくれて、そういう人たちと「まっとうな形」で社会進出していけたら幸せだなあと思っている。
2012年4月18日水曜日
二番煎じが効率的だから
諸説あるようだが、「二番煎じがもっとも効率性を追求できるビジネス手法である」という考え方がある。一番手は「多くのリスク」をかかこんでしまう。さりとて最後列に並んでしまうと利益はほとんど残っていない。だから「革新的な一番手が通った直後を通れば、少ないリスク(=コスト)で利益を享受できる」という考え方だ。
「ビジネス」として考えた場合、私もほとんど同意する。もちろん、「働くことに関する幸せ」ではなく「利益の効率性」を最優先するわけだが、それはそれでありだと思う。しかし、「就労移行支援事業」として考えたとき、私はビジネス的な考え方を貫き通すことに大きな疑問を感じる。自分たちの利益のために利用者の人生を「犠牲」にすることになってはいけないと思うからだ。
賛否両論あるだろうが、私は障害の有無にかかわらず「自ら考えて働くことの幸せ」を体験できる場を必死になって作ってきた。その結果として、「高いモチベーション」が先行して「体調」を牽引するというケースをたくさん見ることができた。「自分が必要とされていること」そして「自分が持っているイメージが実現する楽しさ」は、人生の起爆剤になる。
この環境を作り上げることができたのは、「既存の価値観」をできる限り意識せず、「前向きに生きることに何が必要なのか?」という一点のみに集中させていただいた環境のおかげだ。そういう意味では私一人の力で達成しえたものではなく、多くの方々に無言のご支援をいただいたからこそ実現できた。
私が作り上げた仕事環境は、「自分たちで考える」、「自分たちで解決する」という一貫した理念のもとで急成長している。私にとってそのルーツとなる考え方は「NPO法人NECST」が運営する、メンタルの方が集うクラブハウス「ForUs」のマディソンモデル活用事業に学んだもので、当然ながら私はこの考え方に大きく同意している。
ここで逆説的に考えてみよう。私が構築してきた「自律的職業訓練環境」を壊す方法は非常にシンプルだ。それは「職員が考えたルール」を利用者に一方的に押しつけてしまえば、すぐに崩壊する。彼らを「幼児」のごとく扱い、尊厳を傷つけるようなルールを導入すれば、1年近くかけて構築した環境は1ヶ月ともたないだろう。
だからこそ、私は感謝している。今まで二番煎じ的な発想で他の事業所のマネをせず、リスクがあっても独走させてくれたことに対する感謝だ。私のもとで仕事をしてくれている利用者の方がこんなことをいってくれた。「もし、ここが他の作業所と同じように管理型のルールを押しつけるような場所だったら、私はここにもいられなかったと思います。」と。
その時に私は気づいた。「ビジネスの基本は『質のよい模倣』にあるが、彼らに必要な環境は模倣性を高くして得られるというものではない。」ということだ。就労移行支援事業者が「右にならえ」をしてしまえば、社会の中に居心地の悪さを感じている彼らから選択肢を奪い取ってしまうだけになってしまう。
もちろん、私が目指している仕事環境は万人に適しているものではない。だからこそ、私とは違う価値観の人間が他にも就労移行支援事業を立ち上げるべきなのだと思う。そのようにして、バラエティ豊かな環境が選択肢の幅を広げていくことになれば、もうすこし世の中が明るくなるのではないかと思っている。二番煎じではない独自性の高い就労移行支援事業が増えてくるといいと願っている。
「ビジネス」として考えた場合、私もほとんど同意する。もちろん、「働くことに関する幸せ」ではなく「利益の効率性」を最優先するわけだが、それはそれでありだと思う。しかし、「就労移行支援事業」として考えたとき、私はビジネス的な考え方を貫き通すことに大きな疑問を感じる。自分たちの利益のために利用者の人生を「犠牲」にすることになってはいけないと思うからだ。
賛否両論あるだろうが、私は障害の有無にかかわらず「自ら考えて働くことの幸せ」を体験できる場を必死になって作ってきた。その結果として、「高いモチベーション」が先行して「体調」を牽引するというケースをたくさん見ることができた。「自分が必要とされていること」そして「自分が持っているイメージが実現する楽しさ」は、人生の起爆剤になる。
この環境を作り上げることができたのは、「既存の価値観」をできる限り意識せず、「前向きに生きることに何が必要なのか?」という一点のみに集中させていただいた環境のおかげだ。そういう意味では私一人の力で達成しえたものではなく、多くの方々に無言のご支援をいただいたからこそ実現できた。
私が作り上げた仕事環境は、「自分たちで考える」、「自分たちで解決する」という一貫した理念のもとで急成長している。私にとってそのルーツとなる考え方は「NPO法人NECST」が運営する、メンタルの方が集うクラブハウス「ForUs」のマディソンモデル活用事業に学んだもので、当然ながら私はこの考え方に大きく同意している。
ここで逆説的に考えてみよう。私が構築してきた「自律的職業訓練環境」を壊す方法は非常にシンプルだ。それは「職員が考えたルール」を利用者に一方的に押しつけてしまえば、すぐに崩壊する。彼らを「幼児」のごとく扱い、尊厳を傷つけるようなルールを導入すれば、1年近くかけて構築した環境は1ヶ月ともたないだろう。
だからこそ、私は感謝している。今まで二番煎じ的な発想で他の事業所のマネをせず、リスクがあっても独走させてくれたことに対する感謝だ。私のもとで仕事をしてくれている利用者の方がこんなことをいってくれた。「もし、ここが他の作業所と同じように管理型のルールを押しつけるような場所だったら、私はここにもいられなかったと思います。」と。
その時に私は気づいた。「ビジネスの基本は『質のよい模倣』にあるが、彼らに必要な環境は模倣性を高くして得られるというものではない。」ということだ。就労移行支援事業者が「右にならえ」をしてしまえば、社会の中に居心地の悪さを感じている彼らから選択肢を奪い取ってしまうだけになってしまう。
もちろん、私が目指している仕事環境は万人に適しているものではない。だからこそ、私とは違う価値観の人間が他にも就労移行支援事業を立ち上げるべきなのだと思う。そのようにして、バラエティ豊かな環境が選択肢の幅を広げていくことになれば、もうすこし世の中が明るくなるのではないかと思っている。二番煎じではない独自性の高い就労移行支援事業が増えてくるといいと願っている。
2012年4月11日水曜日
「ありがとう」が「働く」こと
「働きたいと本気で思ったことはありますか?」という質問は、就労移行支援をやっていると、どうしても聞いておかないといけない質問だと思っていた。そもそも「やる気」がなければ「スキル」を身につけても社会に出て行くことなどできないからだ。だから、まずは「気持ち」が大事だろうと。
しかし、最近、そればかりじゃないんだなと思うことがある。たとえば、私が運営している仕事訓練環境では、「業務ありき」という状況になっている。そして、その業務を遂行するための方法も教えない。ただし、「自分で考える」ということに対するヒントは出していく。それでも、基本的には仲間と相談して解決策を考えてもらうようにしている。
そういう環境において、「不思議な人材」が生まれてくるのだ。業務を遂行するための方法論、そしてどのような仲間とどのようなチームを組むと先に進めるか……ということを考えるのが得意な人、全体のモチベーションを高めるのに活躍する人、それぞれの長所を繋ぎ合って弱点を補い合う人……など、きっちりと連携して、そして自分たちで業務を完結していく。
それでも、「働きたいと本気で思ったことはありますか?」という質問に対して、「正直なところ、ありません」と答える人がいるのだ。十分に仕事をやっていけるし、こういう人が会社に入ったら助かるだろうな……と思えるような動きをする人でも、「働く」ということに対して「違和感」を感じている人は意外にいる。
気になって本人に聞いてみたところ、「なるほど」と思える事実が分かった。その人にとって「仕事」とは、「命令された『指示』どおりに一日中動く」ということが「働く」という認識だったということだ。そして、「働く」=「時間の牢獄に入れられる」というイメージで捉えていたのだ。確かに仕事にはそういう面があることは否めない。
実は、私が大学を卒業したばかりの時に「仕事」に対して抱いていたイメージと同じだ。社会人になるということは「自分の人生を捨てることだ」とまで考えていたことがある。まさか、それから十数年後に「楽しく仕事をしている自分」がいることを全く想像できなかった。「仕事」=「楽しい」という側面もあることに若かりし頃の自分は気づけなかった。
今にして思えば、「仕事」を楽しくするか、ツライものにするかは自分自身の心の在りようにかかっている。自分自身で「仕事」を作り上げようとすればするほど、「仕事」は限りなく「趣味」に近づく。逆に、「仕事」を命令としてこなそうとすればするほど、「仕事」は限りなく「労役」に近づく。一日に指定された時間で「趣味」をするか、それとも「労役」をするか。その違いは大きい。
今、私が運営している仕事訓練の場所では、自分たちの責任において、よりよい品質の業務を進めていこうとするモチベーションがとても高い。多少、時間がかかったとしても、私はその気持ちこそ大事にしてほしいと思っている。なぜなら「お客様が喜んでくれること」を価値観の中心に据えてくれているからだ。お客様が喜ぶことが目的にさえなればいいのだ。
どんな仕事も「お客様」がいる。想いを込めた仕事には、お客様が満足して「ありがとう」と思ってくれる。その気持ちを最上級の形にしたものが「お金」なんだと思う。全てのことが「感謝の言葉だけ」で済ませられるのならお金はできるだけ払いたくない。そのお金を払ってでも感謝したい……と思ってくれるだけの仕事をしなくてはウソなのだ。だから仕事は面白いのだ。
かつて、仕事に対して拒絶感があった私がたどり着いた考え方。ここに一人でも多くの方がたどり着いてくれたらうれしい。
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