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2013年2月10日日曜日

いつかなくなる日のために


◆今はない未来のイメージ

何度も今まで書いてきましたが、私は「障害者」に全然興味がありません。私が見ているのは「人間」だからです。私がこの領域の仕事をするようになって、より、その度合いが強くなってきていることを感じます。たとえば、私は最初の頃、「障害者」を「障碍者」と表記していました。今はそのまま「障害者」と書いています。

ひとつめの理由は「障害者」の書き方を変えたところで本質が変わらなければ意味がないからです。「障碍者」と表記を変えたら該当者が幸せになる……という状況だとしたら、私は徹底して表記を変えるでしょう。でも、実際はぜんぜん関係ない。ただ、「言葉狩り」をして「害」の文字を日常から黙殺しただけです。

ふたつめは「障碍者」という字を読めない人もいるという基本的な理由です。かといって「障がい者」とひらがなに開くのは「馬鹿にしている」ような印象がぬぐい去れません。だから、私はそのまま「ありのまま」の形として「障害者」と書いているんです。そもそもほとんどの行政が「障害者手帳」と記載しているのに、そこを「障碍者手帳」と書いてしまっては、困る人もいるということです。

でも、私は「障害者」という言葉そのものがいずれ「意味を持たない」言葉に成り下がってほしいと思っています。視力の悪い人、記憶力の悪い人、すぐに感情的になってしまう人。ほとんどの場合これは個性として認められることが多いのですが、そこに「障害」という医療的カテゴリが加わると、一気に遠い存在として追いやられてしまうわけです。

同じように、いずれなくなってしまってもいいと思っているのは、「法定雇用率」なるものです。また「就労移行支援事業」もなくなってしまえばいいし、もっといえば「障害者手帳」もなくなってしまえばいい。……うーん、さすがにこれは書きすぎかもしれないけれど、要するに世の中がすべての「人間」を、ただ「人間」として認識できる世の中になれば、やっぱりいらないものになるはずです。

◆第一歩なくしてゴールはない

しかし、今、「法定雇用率」、「就労移行支援事業」、「障害者手帳」がなくなってしまうと、現実的にものすごく困ってしまうわけです。つまり、過渡期においては必要なものです。前回のブログを書いてから数人から心配されました。

http://musekining.blogspot.jp/2013/01/blog-post_26.html
>企業に対して「法定雇用率を満たさないとマズイですよね?」とか
>「CSRという観点で御社にとってプラスになりますヨ?」とか……
>そういうアプローチじゃなくて、「本気で戦力にする」という観点で
>提案できればいいのですが、実際のところ、実運用例がないと
>企業側も無駄に冒険はできません。

「法定雇用率やCSRは嫌いなんですか?」……と。はい。ものすごく長い目で見ればそうです。でも、短いスパンでの現実をみると「法定雇用率」や「CSR」の存在は必須です。企業が障害者の中にもものすごくいい人材がいるということに気づき、「仕方ないから障害者を雇用してやる」という姿勢ではなく、「障害はどうでもいいから、いい人材ならぜひ雇いたい」という世界になるまでには、もうすこし時間がかかるでしょう。

そして、そういう社会にシフトしていくためには、やはり、現状の制度を上手に使っていく必要があると思うんですね。たとえば新製品がでると、多くの場合、試供品のようなものが配られます。しかし、ずっとそれをやっていては赤字が続いて企業は倒れてしまいます。だから、商品が有名になってくると試供品はその役割を終えて消えていきます。買ってもらえる流れになるためには「まず体験してもらわないといけない」ということです。

いい未来を目指すためには現状を無視することはできません。そしてその第一歩が目標と違うから全部を辞めるということは愚かなことです。たとえていえば、「真冬に暖かい南の島に旅行しようと思っている人」が「玄関のドアを開けたら寒かったから取りやめた」というくらいに愚かな話です。

◆最終目標を見続けること

しかし、目の前の現実だけを見ていると、どんどん「目指したかった自分」とか「もともとやりたかった夢」から遠ざかって行ってしまいます。いつしか「どうして自分はこんなことをやっているんだろう」という状況に陥ってしまうと思うんです。気がついたら、世の中全体のことを考えずに、「目の前の利益」だけにしがみつくという構造になってしまうかもしれません。

私は昔、ハケンをやっていたことがありますので、ハケンになぞらえてみます(「ハケン」=「アルバイト」と読み替えてもいいでしょう)。ハケンというのは「最終目標」を見失うと未来を失うリスクがものすごく高いと思っています。実際に、ハケンをしながら飛行機操縦の勉強をして、念願叶ってパイロットになってハケンを卒業していった人もいます。一方で、「当面は困っていないから」と、ただ、日銭を稼いで満足しているだけのハケンもたくさんいました。

私はハケンをやりながら、毎日、「ハケンをやめるイメージ」を膨らませていました。「やめる時に自分はどういう方向性をもっているのか?」「やめる時にはどういう手順で効率的にやめるのか?」「それに必要なスキルや準備はどうするべきなのか?」ということをずっとずっと考えていました。ハケンという立場上、不遇なこともありましたが、その「希望」こそが私にとって前進するための灯火だったのです。

新しい未来を作り上げて受け入れていくためには、常に今ある「場所」や「立場」が「壊れる」というイメージを持ち続けることが必要だと思っています。たとえば、「就労移行支援事業」がなくなってしまったとしたら、そこの職員はどうなっているのでしょうか?……私の中にはこういう未来のイメージがあります。

障害者に対して質のいいプログラムを提供できて、本当にすばらしい人材を輩出できる職員がいるならば、おそらくそれはユニバーサルなノウハウとして、企業内に迎え入れられるという未来もあるかもしれません。または、教育機関のひとつとして学校内で職業訓練などの授業を担当する職員になっているかもしれません。

◆生きることは現状を捨てること

もちろん現実性があるかどうかなんて検証した話ではありませんが、ただ、少なくともその世界においては「障害者」が意識されない社会になっています。これが大きなビジョン。そのビジョンを満たすための道は数多くあって、そのために動く人もたくさんいることでしょう。誰かが考えたビジョンが他の人と共有できた時点で、そのビジョンから違ったビジョンが生まれます。

未来を見つめることは、現状を捨てること。少なくともこの世界は、どんどん現状を捨てるしかないのです。生きているといろんな破壊が待っています。分かりやすいところでは「老い」もあるでしょう。黙っていても何もしていなくても、時間はひたすら進んでいきます。これを「老い」ではなく「成長」にしていけるかどうかが大事だと思います。そのためには、やはりゴールを意識する必要があると思うのです。

昔、私はものすごく怖い夢を見たことがあります。狭い部屋で私は死を迎えようとしている。裸電球が切なく光る部屋で、誰にも看取られることなく寂しくこの世を去ろうとしているのです。「ああ、あれもやっておけばよかった」「ああ、身体が動かない、まったく力が入らない」「誰もいないし、誰かがいても口すら動かない」「あのときに戻れたら必死で生きるのに」……という悪夢。

私の原動力はその悪夢から生まれています。今、動けるときに、考えられるときに、話せるときに、そして誰かをしあわせにできるときに、何かをしないといけないのです。これは義務じゃない。権利ともちょっとちがう。私にとって、リスクを取ってでも新しい変化を追い求めることは、何にも代えがたい「自由」なのです。

そして、目覚めたときに、私がいる場所は天国のような場所だと思いました。いつかは自分もいなくならなければいけない世界。そこでいろんなことを考え、そして動き、そして話ができ、そして未来の形を「小さくとも」「目立たなくとも」変えていくことができる世界。そんな素晴らしい世界で、私はボケっとしていられないのです。さあ、みんなで夢を本気で追いかけてみませんか!

きっと、私がこの世界で最後に見る光景は、悪夢とは変わっているはずです。そして願わくばすべての人が満足に最後を迎えられる世界にしたいと思っています。私はそういうきっかけを提供したくて、毎週、講義をしています。「障害者」相手ではなく「人間」相手にです。

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