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2012年9月11日火曜日

正直でいるための「趣味」

前にも書いたんですが、私は「ボランティア」って言葉が苦手です。何よりも語感が好きじゃありません。「してあげています」という恩着せがましさと、「押しつけられた自己犠牲」という匂いを感じてしまうからです。そして無償の「奉仕」という行動……「奉って仕えて」しまうんですよ。なんだ、相手は神様か仏様か?……と。

私の単なる「言葉のこだわり」であることは重々承知しているのですが、私はあくまでも「無償」で行うことは「趣味」にしておきたいのです。「奉仕」でもなく「趣味」です。私は後になって「□□してあげたのに……」なんてことは言いたくないし、そんな気持ちにもなりたくないわけです。

私の癖なんだろうとは思うのですが「□□のために……」という気持ちから何かをしてしまうと、ほぼ無意識に「見返りを求める」マインドになってしまいます。私はこの「善意の裏に隠れた無意識の見返り欲求」がイヤなんです。だったら最初から「趣味」と割り切って挑んだ方がいくらかマシだと思えるんです。

「趣味」というのは「□□のため」というよりも前に「自分が□□をしたいから」という欲求からスタートします。つまり、そこに「恩着せがましさ」が入り込む余地はありません。また、「見返り」は「自分の欲求を実行した」時点で満たされているので、自分の中ではよほどすがすがしく、偽善的にならずにいられるのです。

さらにいえば「趣味と実益を兼ねる」という言葉があるように、誰かの役に立つことで、それが利益を生むことがあれば、遠慮なく対価を受け取ればいいんだと思っています。でも、これが「ボランティア」でスタートしていると「変節した」だの「結局はお金のために?」という背信的な気持ちになってしまいそうです。

また、自分自身が蓄えてきた「ノウハウに対する敬意も持っていたい」ということも「ボランティア」を嫌う理由のひとつです。自分が今まで蓄えてきた経験なりノウハウを「無料で提供する」ということは、「プロとしてのスキルにお金を払ってくれている方々」に対してとても失礼な気がするんです。

しかし、普段は対価をいただいているスキルを「自分のやりたいこと」に使うのであれば、そういう葛藤とも無縁でいられます。なぜなら、「自分のために使う」という行為は、「あの人には有料」←→「あの人には無料」という枠組みの外側にあるからです。ある程度、自分にウソをつかずに公平性を保ちたいんですよね。

人によっては「本気でやっている人助け」を「趣味」と言われることは不快感を感じるかもしれません。まぁ、確かにそうかもしれません。また、「趣味」ではなく「マジメ」にやってほしいと思うかもしれません。でもね、私の価値観で考えれば、本気度は「ボランティア<仕事<趣味(遊び)」という大小関係だったりします。

なぜなら「趣味(遊び)」こそ、本気でやる価値のある行動だと思うからです。「仕事」の場合、「この報酬額なら、この程度のコストで妥協するしかないな」という判断をしなければならないことがあります。いただく報酬よりもコスト(原価)の方が高くなってしまえば「赤字」になってしまうからです。生きるためには当たり前の判断です。

しかし、趣味であれば、ある程度は原価計算を度外視できる可能性が高くなります。そもそも、「無償奉仕」に「仕事」の価値観を持ち込んだ場合、明らかに「収入<原価」という関係になります。つまり、普通に考えると「仕事品質を求めるなら、タダでは提供できませんよ」ということになっちゃうわけです。

 ×「誰かのために何かをしてあげたい」→○「趣味で誰かに何かをしたい」

もっとも、作業に「マジメ」を求めるのであれば、そもそも「無償」ではなく「有償」でお願いしてくださいよ……という話になるんでしょうが。

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