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2012年8月14日火曜日

Facebookで文章力アップ?


Facebookで、いろいろな文章を拝見していて、たまに「あーあ」と思うことがあります。最近は「ネット上で文章力を鍛えてビジネスに結びつかせましょう」という流れがあって、そういう人たちを応援するサイトでは、しきりに「文章力を鍛えるために毎日ブログやSNSを更新しましょう」と書かれていたりします。

……ええ?……マジですか!?

私自身、文章力に自信がある人間ではないので、いささか書きづらい内容ではあるんですけど、「毎日文章を書くということだけに力点を置いてしまっていいのかなあ」と思うことがあるんです。確かに毎日文章を書いていれば、必然的に文章作成の速度や構成力などがスキルアップする可能性が高いと思います。

ただ、最近、「日課を目標にしすぎているんじゃないかなあ?」としか思えない文章を読む機会が増えたような気がします。「とにかく毎日書く」というノルマ臭が漂う文章は、だいたい次のような印象があります。

・いつも同じような書き出し(定型的な文章なので引きつけられない)
・結論がなんなのか分からない(ひどい場合は尻切れトンボの文章)
・得られる「気づき」がなんにもない(単なる個人日記で終わっている)

ここまで書くと「自分はどうなんだよ」と自問自答してしまうわけで、他人のことを言えるのかよ……という葛藤もそれなりにあるわけですが、それでも、「とにかく毎日書けばいい」という考えでやっつけ文章を増産するのは、コスト的にもったいないと思うんです。それはなぜかというと、

(1)「ひとつの文章を磨き上げよう」という意欲をなくしてしまう。
  →結論は何か?伝えたいことはなんなのか?……という意識は大事そうです。
(2)「失敗しても次があるさ」という心理状態になってしまう。
  →残念ながら私の場合、ノルマ臭が漂う文章が数日続くと購読を解除します。

特に私は、Facebookで、テレビやラジオのパーソナリティもどきみたいな『前置き』のある文章が、なんとなく定型文っぽくて好きになれません。でも、「なんとなく嫌い」というだけでは思考放棄をするみたいでイヤなので、その原因をすこし考えてみたら、簡単に理由が分かりました。

Facebookを読むためのツールのほとんどは、書き出しから数行ほどをダイジェスト表示するようになっています。つまり、書き出しの部分がいつも似通っていると、ぱっと読めるダイジェスト部分は似たような文章になってしまいます。たとえば、次のような文例です。(あくまでも「やや極端な例文」なのでご了承ください)

【地元の天気情報から必ず入る人】
◆宮崎は今日も暑い日が続いています。午後からは激しい雨が降るようですが、こうも暑いと雨がありがたく感じますね。さて、今年も高校野球が…[続きを読む]

 ↑遠方の天気に興味がない上、近ければなおさら「見れば分かる」程度の情報。
 ↑ありきたりな内容では[続きを読む]をクリックしたいという欲求が生まれない。
 ↑そして、「高校野球」の話題に無関心な私は完全に興味を失ってしまいます(笑)。

【キャッチフレーズを入れずにいられない人】
◆おはようございます♪~『いつも元気』が合い言葉の私、○○くんが、今日も元気に山梨のど真ん中からメッセージをお送りします。さて、やっと…[続きを読む]

 ↑あくまでも個人的感想ではありますが、極めて「イタい」印象を受けます。
 ↑定型文を毎日少しずついじっているだけで本文には興味をそそられません。
 ↑というか、定型文で「元気元気」を連呼されても空々しい気分になります。
 ↑「植え付けられたポジティブシンキング」みたいな臭いが警戒心を抱かせます。

「文章を読んでいただく」ということは、少なからず読み手の「貴重な時間を奪う行為」です。もちろん、駄文であれば「最後まで読まない権利」を行使してもいいわけですが、正直、最後まで読まれない可能性のある文章を「無反省」に書き続けることに、「修行」としてどれほどの価値があるのか私には分かりません。

ただ、私が思うのは、
 「継続は力なり」
かもしれないが、
 「無反省な継続は力の無駄遣いなり」
じゃないのかねえ?……ということです。

実際のところ、Facebookでの文章に対する批判……みたいなものって、書くの、勇気いるんですよね。基本的に「友達」ということにもなっているんで。実際のところ、「完全に繋がりのない人」ではなくて、たぶん、遠く思えても、そこそこ近いところで繋がっている可能性が強い人たちですから。

でも、だからこそ、駄文を書いていたとしても、誰かから指摘されることは皆無だと思われます。もちろん、精神的距離が近い人になら、冗談交じりに本音を伝えてしまうのでいいんですが、中途半端に距離があったり、そもそもお目にかかったこともない「誰かの友達」だったりすると、まぁ、とにかく困ってしまうわけです。

もちろん、私が「読み手」として不適格である可能性もあり、さらにいえば、その執筆者と同じクラスタ(意識的集合体?)にいないという証拠ともいえるので、ここで「意識のズレを修正してやろう」などという不遜な気持ちは毛頭ありません。私の方が大きくズレまくっている可能性も大いにありますから。

でも、「自分の文章スタイルで、こういう風に思う人もいるんだな」程度で思っていただけると、何かのきっかけでお役に立てることがあるかもしれません。と、そんなワケで、この文章自体もネット空間に浮遊する根無し草ではありますが、どなたかの思考のきっかけになればいいなあと願っております。

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