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2012年6月13日水曜日

「ボランティア=無償」を考える


このブログではほとんど枕詞になりつつありますが、私は就労移行支援の仕事をしています。でも、「慈悲」とか「ボランティア」という言葉にはあまり興味がありません。まず、「語感」が苦手です。もちろん「ボランティア」って大事なコトですよ。でも、苦手なんです。

なぜ、こんなに「ボランティア」という響きが嫌いなのかというと、どことなく「自分はいいヤツだ」とか「わざわざやってやってあげている」という言外の含みを感じるからです。はい、たぶん私のヤッカミなんだと思います。けっこう私は心が狭いですから。ヤッカミの理由は後ほど。

……と書くと、「じゃあ、お前はお金のためにしか動かないのか?」と聞かれるとそうでもありません。むしろ、お金のことを度外視してやったこともたくさんあります。ただ、それでも、私は「ボランティアをしました」とはいいたくないんです。

それをなんと呼ぶかといえば、あえていうなら「道楽」です。「ボランティアでゴミ拾いをしました」といわれると、「すばらしいですねえ」っていわないといけない気持ちになるけれど、「道楽でゴミ拾いをしました」なら、冗談まじりに「暇なんですか?」くらいで返せますからね。

つまり、「ボランティア」という言葉には「暗黙の賛辞の要求」がセットになっているような気がするんです。あえて「ボランティア」という言葉で自分の善行をアピールする必要なんてどこにもないんじゃないかと。善行はさりげなく、誰にも気づかれないのがたぶんかっこいいです。

それから、「ボランティア=無償」というイメージがつきまとうのも、私としては微妙な気分になるんです。最初から「無償」であることを暗黙の内に期待されてしまうと、ついつい「衣食足りて礼節を知る」という言葉を思い知らされるわけですよ。ホントにいやおうなしに。

だって、「無償」という旗印を堂々と掲げられてしまうと、私の価値観では「ボランティア=金持ちの道楽」という定義になってしまうんです。家族を食べさせていくだけでいっぱいいっぱいの自分が「道楽」どころではないだろうと。そんなことをしている暇があったら働け、自分。

たまに家庭の困窮も顧みず、ボランティアに身を投じる方の話を聞きます。そういう場合、その周囲の人たちも賛辞を送るのが普通です。でも、私の価値観では「アホか!もっと先にすべきことがあるだろう!」と思ってしまうのです。現実から逃げているようにしか見えません。

そもそも、ボランティアの価値を最上級に考えない方がいいと思います。たとえば、医療研究者がボランティアで、難病の子供達のために「千羽鶴」を折るようなことがあってはいけないと思うんです。そんな暇があったら「医療研究」に打ち込んでくれた方がいいわけで。

何度も書いておきますが「ボランティア」を否定しているわけではないです。できる余裕のある人はどんどんやるといいと思うんです。世の中との接点が少ない学生さんとか、老後の時間とお金があり余っている方々とか。私もそんな立場ならやってみてもいいと思います。

その上で私は宣言しておきたいと思います。私は「無償」を前提とする活動には、「私の夢」を果たすまでは一切参加しないつもりです。私の夢は、「障害手帳を持った人が全力で勝負できる環境を切り開くこと」と「家族に経済的な苦労をかけずにすむようになること」です。

私には描いた夢を現実に叶えるため、時間とお金が必要なのです。夢を現実化させるために家族との時間を少なくせざるを得ませんが、その貴重な時間を「お金にならないこと」には使えないのです。自分が心から目指していきたい夢そのものにもお金がかかるからです。

ずっと考えていましたが、私は「お金にならないボランティアなんて一切やらない」と宣言する勇気を得ました。普通に考えたら「なんて公共心に欠けた人だろう」と批判されても文句は言えません。それでも、選択と集中をしていくために「綺麗事」はやめることにしました。

しつこくなりますが、「ボランティア」が悪いというつもりはありません。でも、考えるべきだと思うのです。その「ボランティア」の先に「本当の自分の夢」があるのかどうか。あるのならいいんです。しかし、「かっこつけ」とか「断れなくて」だったとしたら、やらない方がいいと思うのです。

私は「ボランティア」の感覚ではなしえない、「私にしかできないであろうこと」に全力を傾けていこうと思います。公共心がないと思われるかもしれませんが、いつか、私の行動が「大きな回り道」をした後に、社会変革の一要因になれれば嬉しいと思います。

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