精神疾患を巡る職場環境のあり方については、人によってさまざまな見解がある。
(1) 「非当事者」と肩を並べて「仕事」ができるようにしていく。
(2) 精神的に無菌状態の作業所で、できる「作業」をずっとしてもらう。
(3) そもそも無理をしてまで社会参画なんてさせても意味がない。
実は私がよく聞く意見は、
(3) そもそも無理をしてまで社会参画なんてさせても意味がない。
だ。
要するに「200%で働く人の足を引っ張るから、できれば一緒に仕事をしたくない。」という意見だ。私は(無自覚ではあるものの)第三者的に見れば「福祉」の側の人間なのかもしれない。だからこそ、あえて私はそこで声高に反論しない。否定したい人の前で反論すれば火に油を注ぐだけだから。くやしいけれど他に説明するいい方法がきっとある。
ところで、(3)を主張する人に多いのが、「僕は絶対に精神疾患にかからない自信がある。」と断言する人。そして、その次の言葉には、「日本には徹夜してがんばれる人が必要なのだ。」という主張がやってくる。
調子よくがんばっていた人が、突然、精神疾患でダウンしてしまう。精神的に追い詰められて自殺を選んでしまう。そんなことは当たり前に起きている。だから、「僕は絶対に精神疾患にかからない自信がある。」という言葉ほどアテにならないものはないと思っている。その言葉は精神論的なもので、未来を保証するモノでもなんでもない。
個人的に、「気合いで徹夜すれば世の中はもっとよくなる!」と信じている人は、やはりどこか時代遅れなのではないかと私は考えている。疲労を抱えて仕事をすることは明らかにポテンシャル低下を招く。逆に徹夜をしなければならないのは「効率の悪い仕事をしている」可能性もあるかもしれない。
もちろん時としてそうなるし、私も経験したことがある。そこには知識や経験が足りないゆえの「非効率」も存在するし、単に人員が少ないところを「気合い」で補っているケースもある。これらの要因は完全に排除することはできないだろう。しかし、問題要因を減らそうとする努力は必要なのではないか。気合いは無限ではない。それを忘れたときに人間は再起が困難なレベルまで消耗する。
高度急成長を過ぎて、バブルを迎え、それがはじけた後の世界に、今、生きている。いつまでも高度急成長のような「モーレツ社員」だけで世の中は持続できない。ましてや、少子高齢化の状況下で、精神疾患や自殺などで社会資源としての人材が消失していくことは大きな社会的損失だ。だからこそ、できるだけリソースを消耗させず、最大限に活用する戦い方が必要だ。
そういう観点から、精神疾患の当事者も積極的に社会に参画することが望ましいと私は思う。逆に彼らが活躍できる場が増えることは、社会にとっても大きな価値をもたらすと考えている。もちろん不自然でない形での社会参画だ。
そして、基本的には、
(1) 「非当事者」と肩を並べて「仕事」ができるようにしていく。
というのがフェアな考え方だ。
しかしながら、環境が苛烈であればすぐに精神的に消耗してしまうだろう。それは精神疾患の当事者の側だけが課題を抱えているわけではない。「キツイ」ことをそのまま放置している職場環境にも課題がある。もちろん、どんな職場ににも「キツイ局面」というのは存在するし、それを100%排除することは不可能だ。
しかし、気合いを必要とする局面はすでに負けている状態なのだろうと思う。だからこそ、本来は気合いを必要としない戦い方をプランニングする必要がある。そういう意味では、精神疾患の当事者を受け入れられる職場を構築することは、非常に大きな意義を持つと考えている。そろそろ「メンタル・スロープ」を取り入れてみてはどうだろうか。
階段の脇によく設けられている「スロープ」。身体障碍者にとって有効な設備だが、足を怪我してしまったとき、重い荷物を持っているとき、疲れているときに使うとありがたさが分かる。障碍者に優しい設備は障碍を持っていない人にとっても便利なものだ。(もちろん長距離を歩かずに、短距離で上れる階段もそれはそれで便利だが。)
それになぞらえて、私は「メンタル・スロープ」のある職場環境を構築したいと考えている。障碍者だけではない。たとえば高齢者でもあってもいいし、時間的制約の厳しい主婦の方でもいい。誰にとっても無駄なストレスがかからない職場環境を構築したい。精神疾患の方だけを対象にした精神的なスロープのある職場環境だ。
ただし、それは、
(2) 精神的に無菌状態の作業所で、できる「作業」をずっとしてもらう。
を意味しているワケではない。
精神的に「無菌状態」というのは不自然な状態だと思うからだ。たとえば、無菌状態で育った生物は、ちょっとした菌に対しても抵抗力を持てなくなってしまう。ほどほどの菌に触れてこそ健全に生きていける。ストレスも同じことだと考えている。適切なストレスが人間を成長させてくれる。
しかし、明らかに不要なストレスはあるはずだ。たとえば、私が体験した職場では、月曜日の朝イチに会議を行う会社があった。先週のミスを徹底的に掘り出して、誰に問題があったのかを割り出すための会議だ。あたかも「東京裁判」のようだった。その結果、月曜日に休暇を取る人が増えてしまった。
週の初め、もっともモチベーションを高めたい時に、無駄なストレスをためてモチベーションを乱降下させる会議の意味が、私にはついに最後まで理解できなかった。このようなものはやらない方がよっぽどいい。沈黙だけが続いて先に進まない、ただ眠気をかみ殺すだけの会議。こういうものもやる価値は低いと思う。こういう無駄なストレスを削ることは大事な課題だと思う。
おそらく、精神疾患の当事者が楽しく働ける環境は、誰にとっても楽しく働ける環境なのではないか。その基本環境をベースにして、さらにがんばりたい人は、組織全体でバックアップできる環境。「馬鹿だね、そんなのはただの『理想』だよ」と笑われるかもしれないが、私はそういう職場環境を構築したいと考えている。
馬鹿で結構。馬鹿にしかできない社会参画もあるはずだ。理解してくれる人は少ないかもしれないが、あえて愚鈍に理想を追いかけてみたいと思う。
※2010/07/15現在、「google」を検索する限りでは「メンタル・スロープ」または「メンタルスロープ」という言葉は1件もヒットしない。しかし、いつの日か「メンタル・スロープ」という言葉が使われるようになるといいなと思う。
+1
2010年7月15日木曜日
人生の残り時間
私は精神疾患の当事者対象にITコースの講師をしている。それは、IT業界の経験者が少ない福祉業界にあって、IT関連への職業選択の可能性を広げたいからだ。そして私はITエンジニアになりたい当事者に「知識」ではなく「経験」を提供している。自分自身で解決したという「経験」ほど強いものはない。
このコースを始める前にはいろいろと検討要素もあったが、実際にやってみると、それなりに効果が上がっているような実感がある。それはひとえに受講してくださっている方の気持ちに支えられている部分が強いと感じている。
それでも、考えさせられることも多々ある。たとえば「就職支援」の前段階である「生活支援」が必要な人が、「講義に出席すること自体に意味がある」と考えたり、周囲に教えられたりしている場合だ。まったくモチベーションがないのに、とりあえず机に座っているケースがある。もっと正確に書いてしまうと机に突っ伏してしまう方もいる。
「休憩なら隣のお部屋でどうぞ。」
このあたりのさじ加減が難しいところなのだが、私はそういう方にはやんわりと退室をお願いしている。本当に難しい。本来であれば、モチベーションを高めることが私が行うべきミッションだ。自分の中では「職務放棄ではないか」と重く受け止めている面もある。しかし、実際問題としては退室をお願いしなければならない境界線がある。
私は「前に進みたいと願っている人」を絶対に応援したい。理解に時間がかかる人もいるし、実際のところ私もどちらかというと理解に時間のかかるタイプの人間だ。気合いと結果というものは、しばしば理想と乖離することがある。だからそこを責めても仕方がない。どれだけ時間がかかってもモチベーションさえあれば、なんとかなる。
しかし、最初からモチベーションがマイナスを向いている方は難しい。おそらく参加しても何もする意欲がないのだから眠いだけだろう。眠いことを我慢するということは、現実的に大切な場面も存在するが、それでも基本的に無駄な苦痛だと思う。貴重な人生の時間を無駄な苦痛に割くくらいなら退室いただいた方がいいだろうと思う。
福祉的な観点から、「座っているだけでいいから参加させてあげてほしい。そこから何かに気づくかもしれない。」と注意なり勧告されることも少なくない。私もそういうご意見については理解している。しかし、私はあえて厳しく対応したいと考えている。なぜなら「前に進みたい」と考えて参加してくださっている他の受講生の方に失礼にあたるからだ。
ただ、「腐ったみかん」と考えているのかというと、それも違う。そうではない。そういう場に入るタイミングがまだきていないだけなのだと思う。そしてそういう場に入る前の姿勢作りはとても大事だ。だから、そのうち個別でモチベーションの発掘をしたいと考えている。それが終わってから講義に参加していただければよいのだろう。
ITコースを受講してくださっている方に力がついてきていることを最近特に感じる。「何もできなかった」と語っている方が、今では動きのあるWebページを作れるようになってきている。そして自分たちで新しいことを始めようとしている。私はそういう流れに希望の光を見ている。モチベーションこそが自分の人生を自走するためのエネルギーだ。
今はモチベーションのエネルギーが不足している人もいる。しかし、いつかは自分が持つエネルギーに気づける日が来るといいと願う。人生の時間には必ず限りがある。だからすこしでもエネルギーを燃やして有意義な時間を送ってほしいと思うのだ。ブルーな日々よりもハッピーな日々を送った方がいいように思う。
このコースを始める前にはいろいろと検討要素もあったが、実際にやってみると、それなりに効果が上がっているような実感がある。それはひとえに受講してくださっている方の気持ちに支えられている部分が強いと感じている。
それでも、考えさせられることも多々ある。たとえば「就職支援」の前段階である「生活支援」が必要な人が、「講義に出席すること自体に意味がある」と考えたり、周囲に教えられたりしている場合だ。まったくモチベーションがないのに、とりあえず机に座っているケースがある。もっと正確に書いてしまうと机に突っ伏してしまう方もいる。
「休憩なら隣のお部屋でどうぞ。」
このあたりのさじ加減が難しいところなのだが、私はそういう方にはやんわりと退室をお願いしている。本当に難しい。本来であれば、モチベーションを高めることが私が行うべきミッションだ。自分の中では「職務放棄ではないか」と重く受け止めている面もある。しかし、実際問題としては退室をお願いしなければならない境界線がある。
私は「前に進みたいと願っている人」を絶対に応援したい。理解に時間がかかる人もいるし、実際のところ私もどちらかというと理解に時間のかかるタイプの人間だ。気合いと結果というものは、しばしば理想と乖離することがある。だからそこを責めても仕方がない。どれだけ時間がかかってもモチベーションさえあれば、なんとかなる。
しかし、最初からモチベーションがマイナスを向いている方は難しい。おそらく参加しても何もする意欲がないのだから眠いだけだろう。眠いことを我慢するということは、現実的に大切な場面も存在するが、それでも基本的に無駄な苦痛だと思う。貴重な人生の時間を無駄な苦痛に割くくらいなら退室いただいた方がいいだろうと思う。
福祉的な観点から、「座っているだけでいいから参加させてあげてほしい。そこから何かに気づくかもしれない。」と注意なり勧告されることも少なくない。私もそういうご意見については理解している。しかし、私はあえて厳しく対応したいと考えている。なぜなら「前に進みたい」と考えて参加してくださっている他の受講生の方に失礼にあたるからだ。
ただ、「腐ったみかん」と考えているのかというと、それも違う。そうではない。そういう場に入るタイミングがまだきていないだけなのだと思う。そしてそういう場に入る前の姿勢作りはとても大事だ。だから、そのうち個別でモチベーションの発掘をしたいと考えている。それが終わってから講義に参加していただければよいのだろう。
ITコースを受講してくださっている方に力がついてきていることを最近特に感じる。「何もできなかった」と語っている方が、今では動きのあるWebページを作れるようになってきている。そして自分たちで新しいことを始めようとしている。私はそういう流れに希望の光を見ている。モチベーションこそが自分の人生を自走するためのエネルギーだ。
今はモチベーションのエネルギーが不足している人もいる。しかし、いつかは自分が持つエネルギーに気づける日が来るといいと願う。人生の時間には必ず限りがある。だからすこしでもエネルギーを燃やして有意義な時間を送ってほしいと思うのだ。ブルーな日々よりもハッピーな日々を送った方がいいように思う。
2010年6月17日木曜日
難しいってホント?
難しそうな肩書きの方に会うことがあるが、そこで今やろうとしていることを話すと、やたらと難しそうな話が戻ってくることがある。「○○と連携しないと難しそうだ。」だとか「実際に運用してみると難しいでしょうね。」だとか。
難しいかと言われれば、そりゃ難しいと思う。今までの決まりきった日常生活どおり過ごすことに比べれば。変化を起こすってことは少なからず新しい局面に出会うことになるし、新しいことであれば新しい対処方法を考える必要がある。
先に戦略を立てて走っていくことの正しさも理解できる。前もってリスク要因を把握して対策を立てることも大事だ。そこは十分に分かっているし、そういう考え方を否定するつもりは全くない。しかし、やはり私個人としては、気持ちが先立つことがいちばん大事なんじゃないかと思う。
新しいことを始めるのには必ずリスクが伴う。もう少し正確に書くと、毎日生きているだけで何らかのリスクが伴うものだ。外に一歩出れば何らかの事故に巻き込まれる可能性がある。だからといって外出しないのか?・・・と問われれば、多くの人はNoと言うだろう。
私がハケンを辞めて講師になろうと思ったときも、多くのご心配をいただいたし、自分自身、多くのリスクを自覚した。講師として生活できるかどうかも分からないし、私を講師として必要とする人が必ずいるとも保証の限りではなかった。すべてやってみないと分からないという状態だ。
結果として、無謀にも私はハケンをすっぱりと辞め、精神の当事者向けの「即戦力ITコース」の講師の道を選んだ。以前に比べると収入は低下したものの、とりあえず生活はできている。そして私の講義を楽しみにしてくれる受講生の方々もいる。
受講生の方々のリアクションやクレームなど、さまざまな課題を乗り越えて、手前味噌ながら、今ではかなり身のある講義ができるようになってきたと確信している。これらはすべて「実際にやってみてわかったこと」だ。最初から予想できていたとしたら苦労はない。
と書いたものの、実際のところ苦労はあまりしていなかったりもするのだが。なぜなら目の前の課題を自然体で楽しめたからだ。むしろ、実際に現場に飛び込まずに「事前にリスクを予測してくれ」と言われたとしたら、おそらくそちらの方が苦労するだろうし、そんな無駄なことに時間を使いたくない。
なにしろ人間相手のことだ。どれだけ芸術的なカリキュラムを組もうが、受講生のハートに届かない内容なら無駄になる。ついでにいえばどんな人が受講生になるかどうかなんて、実際に始めてみないと誰にも分からない。
「まずは初めてみる」以上に強いものはないような気がする。だから構想の時点で「難しいですよね。」といわれると、ちょっと萎えてしまう。基本的にリスクは大前提だ。というよりも、何か新しいことを始める際のリスクというのは、リスクを恐れること自体ではないだろうか。
起きてもいない未来についてご託を並べるくらいなら、いっそ始めてしまった方がいいんじゃないかと思う。リスクを想定するよりもずっと現実的な答えが自動的にやってくる。その現実に対して精一杯の対応を重ねていけばいい。
私は過去、「頭で考えて実行になかなか移せない」タイプの人間だった。今でもそういう要素は少なからずある。だが、やはりリスクを自覚しても「飛び込んだ先に道が開けていた」という経験は得がたいものだ。私の行動様式はそこを境に変わったような気がする。
もしも心が本当にやりたいことだったら、考え込む前に行動を起こすことだ。それしかないと思う。心が硬直して動けなくなる前に行動することだと思う。
難しいかと言われれば、そりゃ難しいと思う。今までの決まりきった日常生活どおり過ごすことに比べれば。変化を起こすってことは少なからず新しい局面に出会うことになるし、新しいことであれば新しい対処方法を考える必要がある。
先に戦略を立てて走っていくことの正しさも理解できる。前もってリスク要因を把握して対策を立てることも大事だ。そこは十分に分かっているし、そういう考え方を否定するつもりは全くない。しかし、やはり私個人としては、気持ちが先立つことがいちばん大事なんじゃないかと思う。
新しいことを始めるのには必ずリスクが伴う。もう少し正確に書くと、毎日生きているだけで何らかのリスクが伴うものだ。外に一歩出れば何らかの事故に巻き込まれる可能性がある。だからといって外出しないのか?・・・と問われれば、多くの人はNoと言うだろう。
私がハケンを辞めて講師になろうと思ったときも、多くのご心配をいただいたし、自分自身、多くのリスクを自覚した。講師として生活できるかどうかも分からないし、私を講師として必要とする人が必ずいるとも保証の限りではなかった。すべてやってみないと分からないという状態だ。
結果として、無謀にも私はハケンをすっぱりと辞め、精神の当事者向けの「即戦力ITコース」の講師の道を選んだ。以前に比べると収入は低下したものの、とりあえず生活はできている。そして私の講義を楽しみにしてくれる受講生の方々もいる。
受講生の方々のリアクションやクレームなど、さまざまな課題を乗り越えて、手前味噌ながら、今ではかなり身のある講義ができるようになってきたと確信している。これらはすべて「実際にやってみてわかったこと」だ。最初から予想できていたとしたら苦労はない。
と書いたものの、実際のところ苦労はあまりしていなかったりもするのだが。なぜなら目の前の課題を自然体で楽しめたからだ。むしろ、実際に現場に飛び込まずに「事前にリスクを予測してくれ」と言われたとしたら、おそらくそちらの方が苦労するだろうし、そんな無駄なことに時間を使いたくない。
なにしろ人間相手のことだ。どれだけ芸術的なカリキュラムを組もうが、受講生のハートに届かない内容なら無駄になる。ついでにいえばどんな人が受講生になるかどうかなんて、実際に始めてみないと誰にも分からない。
「まずは初めてみる」以上に強いものはないような気がする。だから構想の時点で「難しいですよね。」といわれると、ちょっと萎えてしまう。基本的にリスクは大前提だ。というよりも、何か新しいことを始める際のリスクというのは、リスクを恐れること自体ではないだろうか。
起きてもいない未来についてご託を並べるくらいなら、いっそ始めてしまった方がいいんじゃないかと思う。リスクを想定するよりもずっと現実的な答えが自動的にやってくる。その現実に対して精一杯の対応を重ねていけばいい。
私は過去、「頭で考えて実行になかなか移せない」タイプの人間だった。今でもそういう要素は少なからずある。だが、やはりリスクを自覚しても「飛び込んだ先に道が開けていた」という経験は得がたいものだ。私の行動様式はそこを境に変わったような気がする。
もしも心が本当にやりたいことだったら、考え込む前に行動を起こすことだ。それしかないと思う。心が硬直して動けなくなる前に行動することだと思う。
2010年6月11日金曜日
先輩風と同族嫌悪
私はいわゆる「先輩風」というのが苦手だ。いつから苦手になったのか分からないが、とにかく現在のところすっかり苦手になっている。障碍者の就労支援などの飲み会に行ったりしても、たまにそういうタイプの方をお見受けする。
「オマエのダメなところをオレが教えてやるよ」「要するに今のオマエに足りないのは・・・」「今度オレが見本を見せてやるから、そこから何かを学べよ」・・・そんな説教を耳にしてしまうと、どうにも居心地が悪くなって逃げ出したくなるのだ。
できれば飲み会では説教を聞きたくないモノだ。面倒見がいいタイプと言えば、おそらく面倒見がいいタイプなんだろうと思う。だから適材適所というやつで、きっとそういう人が役に立つ領域はあるに違いないし、きっと感謝している人もいるんだろうと思う。
それなのになぜ、私は先輩風で説教をする人が苦手なのか。それはたぶん、私もそういうことが本質的に好きだからなんだろうと思う。自分の中で理性がなくなったら、いろんな人に説教して回るような気がする。いくらかしているかもしれないが、できればしたくない。
経験のある人の言葉は貴重だ。そして自分が体験したことを、未体験の人に伝えることもとても大事だ。しかし、無意識にとはいえ「上下関係」ができてしまうと、自分の判断を相手に押しつけてしまうことがあるのではないかと思う。
たとえば「オマエのダメなところをオレが教えてやるよ」という言葉には、「自分のやり方=正しい」ゆえに「自分のやり方以外=ダメ」という価値観の押しつけが含まれている。そして基本的に「上から目線」というのは本人にとって気持ちのいいものだ。実にイヤらしい話だが。
人はそれぞれ得意なことが違う。好きなことも違う。考え方も違う。しかし、そういう基本的かつ簡単なことをいとも簡単に忘れてしまいがちだ。私はその昔、自分の価値観を押しつけてしまった結果、有能な部下を失ってしまったことがある。その時の教訓は今も心にしみついている。
心地よい「上から目線」に慣れすぎてしまうと、それで誰かを縛り付けてしまっていることに気づかなくなってしまう。先輩として親切な気持ちから生まれた言動であっても、相手にとっては迷惑きわまりない圧力となっているかもしれない。
得意げに先輩風を吹かして説教をしている人を見ると、まるで過去の私をみているような気がしてしまう。なんともいえない気恥ずかしさで逃げ出したくなる。今さらガキ大将でもあるまいしと。そういう意味では同族嫌悪なのだ。
世の中はうまくできているような気がする。イヤなシーンに出会うからこそ思い出せることもある。きっと「人の振り見て我が振り直せ」ということなのだろう。そういう意味では私の役に立って頂いているわけだ。やはり感謝しなくてはいけない。
「オマエのダメなところをオレが教えてやるよ」「要するに今のオマエに足りないのは・・・」「今度オレが見本を見せてやるから、そこから何かを学べよ」・・・そんな説教を耳にしてしまうと、どうにも居心地が悪くなって逃げ出したくなるのだ。
できれば飲み会では説教を聞きたくないモノだ。面倒見がいいタイプと言えば、おそらく面倒見がいいタイプなんだろうと思う。だから適材適所というやつで、きっとそういう人が役に立つ領域はあるに違いないし、きっと感謝している人もいるんだろうと思う。
それなのになぜ、私は先輩風で説教をする人が苦手なのか。それはたぶん、私もそういうことが本質的に好きだからなんだろうと思う。自分の中で理性がなくなったら、いろんな人に説教して回るような気がする。いくらかしているかもしれないが、できればしたくない。
経験のある人の言葉は貴重だ。そして自分が体験したことを、未体験の人に伝えることもとても大事だ。しかし、無意識にとはいえ「上下関係」ができてしまうと、自分の判断を相手に押しつけてしまうことがあるのではないかと思う。
たとえば「オマエのダメなところをオレが教えてやるよ」という言葉には、「自分のやり方=正しい」ゆえに「自分のやり方以外=ダメ」という価値観の押しつけが含まれている。そして基本的に「上から目線」というのは本人にとって気持ちのいいものだ。実にイヤらしい話だが。
人はそれぞれ得意なことが違う。好きなことも違う。考え方も違う。しかし、そういう基本的かつ簡単なことをいとも簡単に忘れてしまいがちだ。私はその昔、自分の価値観を押しつけてしまった結果、有能な部下を失ってしまったことがある。その時の教訓は今も心にしみついている。
心地よい「上から目線」に慣れすぎてしまうと、それで誰かを縛り付けてしまっていることに気づかなくなってしまう。先輩として親切な気持ちから生まれた言動であっても、相手にとっては迷惑きわまりない圧力となっているかもしれない。
得意げに先輩風を吹かして説教をしている人を見ると、まるで過去の私をみているような気がしてしまう。なんともいえない気恥ずかしさで逃げ出したくなる。今さらガキ大将でもあるまいしと。そういう意味では同族嫌悪なのだ。
世の中はうまくできているような気がする。イヤなシーンに出会うからこそ思い出せることもある。きっと「人の振り見て我が振り直せ」ということなのだろう。そういう意味では私の役に立って頂いているわけだ。やはり感謝しなくてはいけない。
2010年5月25日火曜日
ハンディキャップを楽しむ
障碍者、健常者。この「健常者」という言葉がよく分からない。学校やら会社やらを見渡してみると、メガネとかコンタクトレンズを着用している人は多い。その中には視力0.04とか、ほとんど見えてないんじゃないかという人もいるくらいだ。それでも健常者というくくりで生活している人は多い。
他にも、外見から分からないことも多い。たとえば聴覚。おおむねのことが把握できれば、多少聞こえづらいな・・・ということがあっても、日常生活は十分にやっていける。他にも肝臓がよくない人もいれば、心臓に疾患を持っている人もいる。そして精神疾患などもそうだ。
新宿の交差点を忙しく行き交う人々は、一見、健常者ばかりに見える。なぜなら、外見からわかりやすい目印をつけた人があまりいないからだ。目印というのは、たとえば杖だったり、車いすだったり、盲導犬だとか。でも、目印のない人の中にも健常者ではない人も実は多い。ただ単に自分から言う必要がないから言わないだけだ。
それにしても、メガネやコンタクトレンズという矯正具を装着している「プチ視覚障碍者」は多いのに、社会的な区別を受けづらいのが不思議だ。いや、むしろ世の中に多いからこそ区別されづらいのか。
逆に仮にこの世界の9割以上が全盲の人々だったとしたら、社会は普通に点字文化になるのだろう。そしておそらく「視覚障碍」という言葉は存在しないはずだ。逆に目が見える少数派の人々は「霊能者」のように異端者扱いされていても不思議ではない。その世界では見えない人の方が当たり前なのだから。
つまり、「少数派=障碍者」という乱暴な結論もありえるのかもしれない。
厳密に調べたわけではないが「障碍者」を定義するとき、
・特定の身体機能における検査結果が標準領域外だった場合
・身体機能により日常生活または就業において支障をきたす場合
という条件があるように思う。
私自身について考えてみる。まず左目の視力が弱い。小学生の時、左目の視力を矯正させるために、右目にアイパッチというバンドエイドみたいなモノを貼り付けて生活をしていた。視力のいい右目だけを使わないようにという矯正訓練だったわけだが、これは純粋かつ残酷な子供だった同級生からイジメられる原因にもなった。
視力以外となると、たとえば若いときに比べて肝臓の数値がかなり高くなってしまっていること、さらに内臓脂肪が増大していて生活習慣病すら疑われること。
他にも、たいしたことのないシーンにおいても極度の緊張状態に追い込まれやすく、話をしているだけで息が詰まってきてしまい、うまく話せなくなってくることもある。さらに話が熱を帯びてくると、話の前後のつながりとかが不明になってしまい、最終的に何が言いたいのか忘れてしまったりもすることもある。
それ以外だと、人の顔を覚えることが極端に苦手だ。一度や二度くらい会っただけでは名前と顔が一致しない。街中で以前お会いしていた方に声をかけられても、誰だか思い出せないことの方が多い。必死にその場を取り繕いながら思い出そうとすることもたびたびあった。
ここまでざっと考えついただけでも「健常」ではない。ただ、だからといって「障碍」の領域で生活をしているわけでもない。なぜなら「日常生活または就業において」支障が出ないような工夫をしているからだ。これは社会人として、ITエンジニアとして生きるための工夫でもあった。
たとえば、名刺交換をした人の顔を覚えられないとき、あとでこっそりと名刺に似顔絵や顔の特徴を書いたりした。最近では事情を打ち明けて携帯カメラで写真を撮らせていただくこともある。実際、週に1~2回しか会えない「即戦力ITコース」の受講生の何人かにも写真を撮らせていただいた。
この顔写真と名前を一緒にして、1週間に何度かそれを眺めていれば、さすがに顔と名前は覚えてくるものだ。ちなみに顔写真を撮らなかった受講生の方は、やはり顔と名前がなかなか一致しなかった。だから、この記憶に関する工夫は私にとって絶大な効果があったことになる。
それ以外にも記憶力の弱さや、精神的な揺らぎをコントロールするために数多く工夫をして生きてきた。私にとって自分に一番合った改善手段を考えることは楽しいことだ。自分の欠点を工夫によって苦労を減らすことができるからだ。特に私はITを利用して自分の機能不足を補ってきた。
世の中にはいろいろな障碍がある。そんな中で私なりに認識している機能不足を「ハンディキャップ」と呼んでいいかどうか正直なところ分からない。しかし、私はその機能不足を補うためのアイデアを考えるたびにワクワクしている。なぜなら、まるで自分自身をバージョンアップして機能向上しているような気がするからだ。
障碍であるかどうかはともかくとして、自分の機能不足を補うアイデアは生きる知恵だ。それを考えることを楽しむ生き方ができれば、人生はもっと実りのある豊かなものになるんじゃないかと思う。機能不足を嘆いていても前には進まないのだから。
他にも、外見から分からないことも多い。たとえば聴覚。おおむねのことが把握できれば、多少聞こえづらいな・・・ということがあっても、日常生活は十分にやっていける。他にも肝臓がよくない人もいれば、心臓に疾患を持っている人もいる。そして精神疾患などもそうだ。
新宿の交差点を忙しく行き交う人々は、一見、健常者ばかりに見える。なぜなら、外見からわかりやすい目印をつけた人があまりいないからだ。目印というのは、たとえば杖だったり、車いすだったり、盲導犬だとか。でも、目印のない人の中にも健常者ではない人も実は多い。ただ単に自分から言う必要がないから言わないだけだ。
それにしても、メガネやコンタクトレンズという矯正具を装着している「プチ視覚障碍者」は多いのに、社会的な区別を受けづらいのが不思議だ。いや、むしろ世の中に多いからこそ区別されづらいのか。
逆に仮にこの世界の9割以上が全盲の人々だったとしたら、社会は普通に点字文化になるのだろう。そしておそらく「視覚障碍」という言葉は存在しないはずだ。逆に目が見える少数派の人々は「霊能者」のように異端者扱いされていても不思議ではない。その世界では見えない人の方が当たり前なのだから。
つまり、「少数派=障碍者」という乱暴な結論もありえるのかもしれない。
厳密に調べたわけではないが「障碍者」を定義するとき、
・特定の身体機能における検査結果が標準領域外だった場合
・身体機能により日常生活または就業において支障をきたす場合
という条件があるように思う。
私自身について考えてみる。まず左目の視力が弱い。小学生の時、左目の視力を矯正させるために、右目にアイパッチというバンドエイドみたいなモノを貼り付けて生活をしていた。視力のいい右目だけを使わないようにという矯正訓練だったわけだが、これは純粋かつ残酷な子供だった同級生からイジメられる原因にもなった。
視力以外となると、たとえば若いときに比べて肝臓の数値がかなり高くなってしまっていること、さらに内臓脂肪が増大していて生活習慣病すら疑われること。
他にも、たいしたことのないシーンにおいても極度の緊張状態に追い込まれやすく、話をしているだけで息が詰まってきてしまい、うまく話せなくなってくることもある。さらに話が熱を帯びてくると、話の前後のつながりとかが不明になってしまい、最終的に何が言いたいのか忘れてしまったりもすることもある。
それ以外だと、人の顔を覚えることが極端に苦手だ。一度や二度くらい会っただけでは名前と顔が一致しない。街中で以前お会いしていた方に声をかけられても、誰だか思い出せないことの方が多い。必死にその場を取り繕いながら思い出そうとすることもたびたびあった。
ここまでざっと考えついただけでも「健常」ではない。ただ、だからといって「障碍」の領域で生活をしているわけでもない。なぜなら「日常生活または就業において」支障が出ないような工夫をしているからだ。これは社会人として、ITエンジニアとして生きるための工夫でもあった。
たとえば、名刺交換をした人の顔を覚えられないとき、あとでこっそりと名刺に似顔絵や顔の特徴を書いたりした。最近では事情を打ち明けて携帯カメラで写真を撮らせていただくこともある。実際、週に1~2回しか会えない「即戦力ITコース」の受講生の何人かにも写真を撮らせていただいた。
この顔写真と名前を一緒にして、1週間に何度かそれを眺めていれば、さすがに顔と名前は覚えてくるものだ。ちなみに顔写真を撮らなかった受講生の方は、やはり顔と名前がなかなか一致しなかった。だから、この記憶に関する工夫は私にとって絶大な効果があったことになる。
それ以外にも記憶力の弱さや、精神的な揺らぎをコントロールするために数多く工夫をして生きてきた。私にとって自分に一番合った改善手段を考えることは楽しいことだ。自分の欠点を工夫によって苦労を減らすことができるからだ。特に私はITを利用して自分の機能不足を補ってきた。
世の中にはいろいろな障碍がある。そんな中で私なりに認識している機能不足を「ハンディキャップ」と呼んでいいかどうか正直なところ分からない。しかし、私はその機能不足を補うためのアイデアを考えるたびにワクワクしている。なぜなら、まるで自分自身をバージョンアップして機能向上しているような気がするからだ。
障碍であるかどうかはともかくとして、自分の機能不足を補うアイデアは生きる知恵だ。それを考えることを楽しむ生き方ができれば、人生はもっと実りのある豊かなものになるんじゃないかと思う。機能不足を嘆いていても前には進まないのだから。
2010年4月16日金曜日
動いて見えたこと
今さらの内容ではあるのだけど、2010年2月23日、個人事業主として開業届を提出した。あっけないほど簡単に受理された。どうやったら受理してもらえるのか・・・なんていろいろ考えたものだったけれど、とりあえずとんでもない内容でない限り受理されるものらしい。
「ハケンをやめて、やりたいことを始めるんだ!」と決心してから、実際に辞めるまでには勇気も必要だったし、それなりに時間もかかった。まぁ、そうはいってもこのブログを始めたのが2009年の1月。そういう意味では「有言不実行」にならずによかったなあ・・・と思う。
個人的にはいろいろと怖い思いをしながらも独立したわけで、本当にやっていけるのかどうかも分からなかった。実際のところ今でもどうだか分からない部分はある。ただ、自分の気のせいかもしれないが「絵に描いた餅」をリアルに語れるようになってきたなあと思う。
ひとつには、リスクをとって「やってみないと分からないこと」って、けっこうあるということなのだろう。実際にやったことのない話には「体験」がない。だから、それに対して語ろうとしても、どこかがウソになってしまう。
でも、今は違う。実際に行動してみて、その経験からいろんなことを語ることができる。今の経験を基にして「実際にやってみると○○という感じだ。だから、その延長上として○○になるんじゃないだろうか?」と考えることができる。
自分自身が体験している「リアル」の上に積み重ねた「イメージ」には重みが宿るのかもしれない。その重みのおかげで自信を持ってイメージを語ることができる。自信があるからこそ堂々としていられる。
2009の1月にハケン生活にピリオドを打つ決心をして16ヶ月。意外に時間がかかった印象はある。でも、そのときに比べて未来がだいぶ開けてきたような気がする。夢に協力してくれる人にもたくさん出会えた。
我ながら冒険的な生き方を選んでしまったものだと思う。ハケンの頃は、ハケン契約が継続する限りは出社すれば確実に収入が保証されていた。別に仕事を探さなくても、どこからか勝手に仕事が降ってくる職場だったので、あらゆる意味で楽だったといえたと思う。
でも、かなり早い時期にそれは飽きた。魅力も大して感じなかった。もちろんそこそこ安定した収入というのは嬉しかったのだけど、ハケンという時点で「まやかしの安定」ということも分かっていたし、何よりも生きている実感がなかった。
餌のように仕事を与えられ、餌のように給料をもらう。でもその餌がなぜ貰えるのか理由が分かりづらい生活は嬉しくなかった。もちろんそうは言っても生活はしなくてはならないので、それはそれで感謝しているけれど。
今は収入はともかくとしても(かなり状況は改善されてきた!)、自分がやりたいこと、目指すこと、頭に思い描いた夢を追いかける日々は充実している。何よりも生きている実感を感じられる点で大きな幸せだ。
生きていてよかった!
そんなふうに思える日々を送れることに感謝!
「ハケンをやめて、やりたいことを始めるんだ!」と決心してから、実際に辞めるまでには勇気も必要だったし、それなりに時間もかかった。まぁ、そうはいってもこのブログを始めたのが2009年の1月。そういう意味では「有言不実行」にならずによかったなあ・・・と思う。
個人的にはいろいろと怖い思いをしながらも独立したわけで、本当にやっていけるのかどうかも分からなかった。実際のところ今でもどうだか分からない部分はある。ただ、自分の気のせいかもしれないが「絵に描いた餅」をリアルに語れるようになってきたなあと思う。
ひとつには、リスクをとって「やってみないと分からないこと」って、けっこうあるということなのだろう。実際にやったことのない話には「体験」がない。だから、それに対して語ろうとしても、どこかがウソになってしまう。
でも、今は違う。実際に行動してみて、その経験からいろんなことを語ることができる。今の経験を基にして「実際にやってみると○○という感じだ。だから、その延長上として○○になるんじゃないだろうか?」と考えることができる。
自分自身が体験している「リアル」の上に積み重ねた「イメージ」には重みが宿るのかもしれない。その重みのおかげで自信を持ってイメージを語ることができる。自信があるからこそ堂々としていられる。
2009の1月にハケン生活にピリオドを打つ決心をして16ヶ月。意外に時間がかかった印象はある。でも、そのときに比べて未来がだいぶ開けてきたような気がする。夢に協力してくれる人にもたくさん出会えた。
我ながら冒険的な生き方を選んでしまったものだと思う。ハケンの頃は、ハケン契約が継続する限りは出社すれば確実に収入が保証されていた。別に仕事を探さなくても、どこからか勝手に仕事が降ってくる職場だったので、あらゆる意味で楽だったといえたと思う。
でも、かなり早い時期にそれは飽きた。魅力も大して感じなかった。もちろんそこそこ安定した収入というのは嬉しかったのだけど、ハケンという時点で「まやかしの安定」ということも分かっていたし、何よりも生きている実感がなかった。
餌のように仕事を与えられ、餌のように給料をもらう。でもその餌がなぜ貰えるのか理由が分かりづらい生活は嬉しくなかった。もちろんそうは言っても生活はしなくてはならないので、それはそれで感謝しているけれど。
今は収入はともかくとしても(かなり状況は改善されてきた!)、自分がやりたいこと、目指すこと、頭に思い描いた夢を追いかける日々は充実している。何よりも生きている実感を感じられる点で大きな幸せだ。
生きていてよかった!
そんなふうに思える日々を送れることに感謝!
2010年3月3日水曜日
実は優しくない
「精神障碍の当事者向けにITコースの講義をしています」とか言うと「優しいんですね」なんて言われる。でも、本当はけっして優しくない。基本的に「自分から何かを学ぼうと思ってなさそうな人」をすくい上げようとする気はない。だから、どれだけやる気がなさそうでも私は決して怒らない。怒っても無駄だし。
とはいえ、基本的にそんな受講生は私のコースに一人もいない。なぜなら講義に参加してくれているだけで「やる気あり」と私は考えているからだ。特に今の時期はずいぶんと冷え込んできている。講義のために外出するだけでも十分にすばらしいことだと思っている。
誰にだって「気分的に乗らない」ということはある。でも、そこを怒っちゃダメだ。そもそも私自身もけっして聖人君子ではないわけで、「気分的に乗らない」という状況をたくさん経験してきた。そして実はそういう時が一番ツライということも知っている。
「やったほうがいいに決まっている」と頭で思いながらも、気持ちがついてこないのって正直シンドイ。体力も気力も時間も無駄に消耗してしまう。でも、そういう時のために私がいるのだと思う。なぜなら私もそういう状況に陥る自分自身にずいぶん手を焼いてきたからだ。
だからこそ、私にしか私の講義はできないという自信がある。欠点だらけでコンプレックスの塊と言ってもいいくらいの私が、なんとかITエンジニアとして生き延びてこられたのだから。メンタルを維持したり誤魔化したりする技術というものはやはり必要だ。
メンタル面の維持のノウハウも含めて、私の「即戦力ITコース」ではとことんフォローしていく。ただし、講義に来なくなってしまった人を呼び戻す努力は一切しないことに決めている。そこが私の講義の厳しい面といえるだろう。
なぜならこちらも本気なのだ。申し訳ないのだが、本気で参加している受講生以外に使う無駄な時間はない。「来る者を拒まず、去る者を追わず」というポリシーは守っていきたい。だから、その一方で「一度は挫折しちゃったけど、もう一度がんばってみたい」という人も拒まない。
挫折なんて気にしなくていいのだから。挫折してもあきらめなければチャレンジの機会は何度でもある。私自身、挫折の多い人生を歩んできた。実際のところ、私という人間は「中途半端」で「いい加減」で「根性なし」と思えることをたくさんやってきた。
数多くの自己嫌悪を乗り越えたり、踏みつぶしたり、誤魔化したりして生きてきた側面もたくさんある。でも、そういう点を飲み込めるようになって、「うまいこと」生きていけることもあるんだと思う。いきなり100点を取ろうと考えちゃうから生きるのが辛くなっちゃう人もいるんだろうと思う。生きるためには「自分に甘く考える」スキルが必要だ。
でも、そういうのはある程度の「厳しさ」の中でないと身につけられない。必要だからこそ身につくのだ。厳しさの中で自分のココロを守るため非常手段としてのスキルだと思う。だから、厳しくもない状態なのにいつも「自分に甘く考える」のは単なる世間知らずの馬鹿者だ。
福祉的な就労支援って、どうしても必要以上に当事者を「いいこいいこ」してしまいやすい。でも、社会の厳しさに無防備で送り出してはいけないと私は思う。社会に出してから厳しさを初めて体験させるのは残酷だと思う。
とはいえ、基本的にそんな受講生は私のコースに一人もいない。なぜなら講義に参加してくれているだけで「やる気あり」と私は考えているからだ。特に今の時期はずいぶんと冷え込んできている。講義のために外出するだけでも十分にすばらしいことだと思っている。
誰にだって「気分的に乗らない」ということはある。でも、そこを怒っちゃダメだ。そもそも私自身もけっして聖人君子ではないわけで、「気分的に乗らない」という状況をたくさん経験してきた。そして実はそういう時が一番ツライということも知っている。
「やったほうがいいに決まっている」と頭で思いながらも、気持ちがついてこないのって正直シンドイ。体力も気力も時間も無駄に消耗してしまう。でも、そういう時のために私がいるのだと思う。なぜなら私もそういう状況に陥る自分自身にずいぶん手を焼いてきたからだ。
だからこそ、私にしか私の講義はできないという自信がある。欠点だらけでコンプレックスの塊と言ってもいいくらいの私が、なんとかITエンジニアとして生き延びてこられたのだから。メンタルを維持したり誤魔化したりする技術というものはやはり必要だ。
メンタル面の維持のノウハウも含めて、私の「即戦力ITコース」ではとことんフォローしていく。ただし、講義に来なくなってしまった人を呼び戻す努力は一切しないことに決めている。そこが私の講義の厳しい面といえるだろう。
なぜならこちらも本気なのだ。申し訳ないのだが、本気で参加している受講生以外に使う無駄な時間はない。「来る者を拒まず、去る者を追わず」というポリシーは守っていきたい。だから、その一方で「一度は挫折しちゃったけど、もう一度がんばってみたい」という人も拒まない。
挫折なんて気にしなくていいのだから。挫折してもあきらめなければチャレンジの機会は何度でもある。私自身、挫折の多い人生を歩んできた。実際のところ、私という人間は「中途半端」で「いい加減」で「根性なし」と思えることをたくさんやってきた。
数多くの自己嫌悪を乗り越えたり、踏みつぶしたり、誤魔化したりして生きてきた側面もたくさんある。でも、そういう点を飲み込めるようになって、「うまいこと」生きていけることもあるんだと思う。いきなり100点を取ろうと考えちゃうから生きるのが辛くなっちゃう人もいるんだろうと思う。生きるためには「自分に甘く考える」スキルが必要だ。
でも、そういうのはある程度の「厳しさ」の中でないと身につけられない。必要だからこそ身につくのだ。厳しさの中で自分のココロを守るため非常手段としてのスキルだと思う。だから、厳しくもない状態なのにいつも「自分に甘く考える」のは単なる世間知らずの馬鹿者だ。
福祉的な就労支援って、どうしても必要以上に当事者を「いいこいいこ」してしまいやすい。でも、社会の厳しさに無防備で送り出してはいけないと私は思う。社会に出してから厳しさを初めて体験させるのは残酷だと思う。
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