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2010年2月17日水曜日

幸せになれる人

なんだか各駅停車が苦手だ。状況が許すならできる限り特急に乗りたい。それがダメなら急行。それもダメなら準急。それもダメなら快速。もちろん中央線なら特快だ。エレベーターでも次から次へと人が乗り込んでくると、各駅停車状態になってしまい残念な気分になる。

なんでかなあ・・・と考え続けて数年。ふと謎が解けた。ここまでの人生(これからもかもしれないけれど)が回り道ばかりだったからだと思う。各駅停車の人生というか、一足飛びの局面がほとんどないまま地味に生きてきた。だから、せめて移動手段くらいは派手にすっ飛ばしていきたいのだと思う。

移動手段と言えば、遠くに行くために昔は夜行列車があり、その後、新幹線ができた。十数年後にはリニアモーターカーが営業運転にこぎ着けるかもしれない。ただ、リニアモーターカーにまでなると走行区間のほとんどが地中なんだそうだ。できるだけ直線を多くするためには仕方のないことなんだろう。

東京駅を出て、車窓のない空間で数十分を過ごすとすぐに大阪。スピード的にはものすごいことだけど、車窓が見えないということは速度を視覚的に体感できないということか。途中の景色を楽しむことなく目的地に着いてしまうわけだ。それはそれで残念な気がする。

これを人生に置き換えるとどうなるんだろう。たとえばよくある夢。生活を回すためだけに必死に働くのではなく、生活するだけなら十分に余裕のある資金を持ちながら、充実のために社会の役に立つ事業を継続していく人生。豊かな人間関係を保ちながら、余暇をのびのびと送る人生。

これが人生の目標だったとして、一瞬で夢が叶ってしまったらどうするんだろう・・・と考えてみた。「各駅停車で苦労してこそ夢実現のありがたみが分かるものだ」なんて、つい、きれい事を言ってしまいたくなる自分がいる。・・・が、そんなことはない。夢が叶うスピードは早ければ早いほどいいと思っている。

しかし、夢が叶うスピードが自分自身の実力を越えてしまうと、きっと人生が破綻しちゃうだろうな・・・とも思う。正しい方向性を持たない「権力」「財力」「腕力」「知力」は凶器になる。宝くじで何億円当たると不幸になるという話も、実力以上の財力が転がり込んできた結果なのかもしれない。

私は人生肯定派だ。昔は違ったが、今は自分の人生をできる限り肯定して生きていたいと考えている。否定したところで幸せな気分になれないからだ。そういう意味で「各駅停車人生」は自分にとって歯がゆくもあるが、自分にとって最適なペースで進んでいるのではないかと考えることにしている。

きっと、今の自分が10億円をつかんだとしても、正しい使い道なんて分からないだろうと思う。いきなり社会を変えるくらいの権力を持ったとしても、脳みそが空転して何もできないか、不勉強によって世の中を乱すだけかもしれない。苦労を知らない2世議員もそんなところだろう。きっと地道に自分の器を大きく育てていくしかないのだ。

ただ、自分の器を育てるなんて書きつつも、私は社会のために戦おうなんてこれっぽっちも思っちゃいない。器が小さいと思われようが、少なくとも今の私が欲するスタイルではない。「社会起業家」だなんて気恥ずかしくて絶対に名乗りたくないし、そもそもそんなことをやりたいとも思わない。

私がやりたいこと。それは、せいぜい私が知っている人たちが、幸せな日々を実感できるように手伝いたいくらいのことだ。昔の自分は人生を後ろ向きにしか考えられなかった。自分の未来は暗いモノになると心から信じ込んでいた。あばら屋で寂しく孤独に死んでいくストーリーだけを頭に描いていた。

医者の診断を受けたことがないので何ともいえないが、もしかすると私は鬱病だったのかもしれない。安易に自分自身で判断してはいけないのかもしれないが、少なくとも今の自分は限りなくニュートラルな状態だと思う。いろんな心の嵐を乗り越えて今の私にたどり着いている。

幸せに舞い上がることもないが、身を削るような不幸に沈み込むこともない。もちろん感情を捨てたわけではないわけで、喜ぶことも悲しむことも人並みにある。ただ、昔に比べて感情の制御ができるようになったような気がする。悲しいことがあっても、どこかのタイミングで「はい、悲しいのはここまで!」と区切れる感じだ。

・・・と書くと聞こえはいいが、「どこかのタイミング」までひたすらウジウジすることだってある。ただ、「悲しみ」の感情をずっと持ち続けていて何かが好転することって基本的にない。むしろ自分の中で「悲しみスパイラル」の中にはまり込んでしまって脱出が難しくなるばかりだ。勇気を持って自分自身を蹴飛ばさないといけない。

一度、マイナスの淵に落ち込んでしまうと、そこから這い上がるために必要なエネルギーは並大抵ではない。自分自身で早めの対策が必要なのだ。大人になれば自分を助けてくれるのは自分しかいない。他の誰かが支えてくれるにしても、立ち直るために必要な本質的な要素は「自分自身」以外にない。

もう、繰り返したくないのだ。自分の不幸な未来を妄想するために無駄な時間を費やしたくないのだ。そうであるなら、深く落ち込む前に自分自身を立て直すノウハウは特に重要だ。深くはまりこんでしまった時に、どうやって回復していくのかという自分なりの技術も非常に大事だ。

私は特別に能力が高いわけではない。むしろ記憶力について言えばかなり低めだと思う。人の顔なんて三回くらい会わないと覚えられない。その上、長いこと悲観的主義で生きてきた。そんな私がどうにかITエンジニアとしてやってこられたのは、一言で言うと運がよかったんだろう。

そうは言っても、おそらく運以外の要素として、私自身が必要に迫られて編み出した「工夫」がきいた部分もあったんじゃないかなと思う。もしそうならば、たとえば一次的または二次的に鬱病を発症している人たちに、その「工夫」を伝えることができたらどうなるんだろうと考えた。

そして、私がたどってきた道筋や考え方を伝えることができたなら、少なくとも今の私が立っている場所くらいまでに導けるんじゃないかな・・・というところに行き着いた。今の私の立っている場所が「すごい」などと自慢するつもりはないが、少なくとも悲観的だった時期に比べれば間違いなく天国だ。

医療的なアプローチももちろん重要だが、ただ一点、医療的アプローチだけでは「精神疾患という自己定義」という罠にはまってしまう怖さも感じる。明らかに私が低調だった時期、もしも医者に「精神疾患」と判定されていたとしたら、今とは違う人生を歩んでいたかもしれない。「病気だからいろいろ無理」という人生に落ち着いていたかもしれない。

もちろん、別にすべての当事者がそうだとは思っていない。しかし医師だって人間だし、ましてや「目に見えない心」を診断するのだ。「正確に診断してくれ」と頼んだところで、それはたぶん無理な注文だろう。ただ、かつての私と同じ状態で「精神疾患」と診断された人がいるのだとすれば、そこに人生を変えていけるチャンスが十分にあると信じている。

私は精神疾患の知識については素人だ。むしろ素人でいいと思っている。玄人が「現在までに分かっているノウハウの範囲内で活動する」とするならば、私はそのノウハウの外側を攻めていきたい。病気だどうだ・・・という前に、単なる一人の人間として全力を尽くしたいのだ。

そして、これだけは断言できる。「もしかすると自分にもできるかもしれない!」とか「これから自分は変わっていけるかもしれない!」という実感、もしくは予感を体験すること。これこそが闇に閉ざされた世界に蒔くことができる希望の種だと思う。私は精神疾患の病名にあまりこだわらず、希望の種をばらまくことだけに専念するつもりだ。

「ま、自分だけ鼻息荒くしてがんばってもさ。やっぱりアレでしょ?」

・・・と、侮るなかれ。講義を始めてからまだ3ヶ月。目に見える変化が出てきた人も数名ほどちらほら。無表情だった受講生の顔に活気ある笑顔が見えるようになってきた。言葉にも少しずつ積極性が浮き上がってきた。何より「自分で何かを成し遂げよう」という意識が明らかに生まれてきた。

それだけじゃない。仲間で力を合わせて困難に立ち向かおうと組織的に動くようにもなってきた。たぶん、彼らは彼らなりの「幸せ」にたどり着くはずだ。幸せは歩いてこないが、自分から動き始めた人は確実に幸せに近づいているのだから。あきらめずに勇気を出して動いてさえいれば大丈夫だ。

せっかくだから、みんなで楽しく生きていこう!

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