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2012年9月18日火曜日

仕事は引き継ぎをしながら


「引き継ぎ業務」というと、仕事を辞める時に多く聞かれる言葉ですが、私はどんな職場に行っても、お世話になり始めた初日から「引き継ぎ業務」を開始します。念のために補足すると、当然ながら「引き継ぎを受ける」のではなく、あくまでも「引き継ぎをする」仕事を初日からするのです。

どういうことかというと、「引き継ぎ業務」に一番適している時期は「最初」と「最後」だからです。「最後」の理由は分かりやすいでしょう。様々なノウハウが身について、「○○を実現するためには□□をすればいい」ということが深く理解できているからですね。

では、「最初」から引き継ぎを始めるのは、なぜでしょうか?……結論から書くと、その環境に初めてやってきた人が「何を知りたいか?」、「何を知るべきか?」という部分について誰よりも把握しているからです。おそらく、「仕事を辞める時の自分」以上に熟知している状態です。

「『新人が知りたい質問』を考えなくても分かる時期」を放置しておく手はありません。なぜなら、「分からないこと」、「分かりたいこと」、「不思議に思うこと」を徹底的にリストアップしていきます。できれば、デジタルデータとして保存しながら蓄積していくといいでしょう。

そして、それらの項目が「解決」したタイミングで、その内容をアップデートしていくのです。すると、「分からないこと」→「分かったこと」という「引き継ぎ資料」が時間をかけて育っていくので、いろいろとバタバタしがちな「最後」の時期に焦って「引き継ぎ資料」を作らなくても済むのです。

ある程度、その職場に適応してきて、様々なノウハウが身についてきたとしたら、さらにいい方法があります。「引き継ぎ資料」の作成に比重をかける代わりに、「常に自分の仕事を他の人と分け合う」ということを意識すると、「引き継ぎ業務」はさらにラクになります。

組織内のポジションにもよるのですが、ある程度、自分の判断で人を動かせる状況であれば、積極的に自分の仕事を委譲していくのです。意外とこれを嫌がる人は多いんですけどね。「自分だけしかできない仕事を抱えておかないと、仕事をクビになるリスクが増えちゃうじゃないですか!」……って。

でも、次の理由で、私は「引き継ぎ業務」を初日から意識することは重要なのです。

・クビになる時にはクビになります
→「仕事がなくなるからクビになる」という可能性も事実としてありますが、組織がクビを言い渡す時には、「仕事をどれだけ抱えていようが、引き継ぎ業務を要求する」という終わりを迎えるものです。

・人が育つと休みやすくなれます
→自分の代わりにできる人が増えるということは、その分、仕事の呪縛から解放されるということです。「その日はどうしても自分がいなければ」という状況が減ります。

・たいした引き継ぎ時間が不要です
→引き継ぎをやっていないで、突然、最終日が近づいてくると、マニュアル作成やデータの整理など猛烈に忙しくなることはわりとあります。でも、普段から引き継ぎしておけばそういうプレッシャーと無縁でいられます。

・長期休暇後の自分のためになります
→年末年始や夏期休暇など、長期の休みを取得すると、いわゆる「休みぼけ」にかかってしまって、休暇前に自分がどうやって仕事をしていたのか忘れることがありますが、そんな時に役に立ちます。

私自身、何度か転職を体験していますが、転職のたびに苦痛だったのは「引き継ぎ作業」だったのです。特に、状況によっては、退職前というのはモチベーションが下がっていることもあるもので、そんな状況の中で引き継ぎ作業をすることは大きな苦痛を伴うこともあります。

そういうケースも踏まえて、モチベーションの高いうちに「引き継ぎ作業」を継続しておくことは、オススメだと思っています。あ、当然のことですが、間違っても「初日から引き継ぎ作業を頑張っています」なんて口に出してはいけませんよ(笑)。

2012年9月11日火曜日

正直でいるための「趣味」

前にも書いたんですが、私は「ボランティア」って言葉が苦手です。何よりも語感が好きじゃありません。「してあげています」という恩着せがましさと、「押しつけられた自己犠牲」という匂いを感じてしまうからです。そして無償の「奉仕」という行動……「奉って仕えて」しまうんですよ。なんだ、相手は神様か仏様か?……と。

私の単なる「言葉のこだわり」であることは重々承知しているのですが、私はあくまでも「無償」で行うことは「趣味」にしておきたいのです。「奉仕」でもなく「趣味」です。私は後になって「□□してあげたのに……」なんてことは言いたくないし、そんな気持ちにもなりたくないわけです。

私の癖なんだろうとは思うのですが「□□のために……」という気持ちから何かをしてしまうと、ほぼ無意識に「見返りを求める」マインドになってしまいます。私はこの「善意の裏に隠れた無意識の見返り欲求」がイヤなんです。だったら最初から「趣味」と割り切って挑んだ方がいくらかマシだと思えるんです。

「趣味」というのは「□□のため」というよりも前に「自分が□□をしたいから」という欲求からスタートします。つまり、そこに「恩着せがましさ」が入り込む余地はありません。また、「見返り」は「自分の欲求を実行した」時点で満たされているので、自分の中ではよほどすがすがしく、偽善的にならずにいられるのです。

さらにいえば「趣味と実益を兼ねる」という言葉があるように、誰かの役に立つことで、それが利益を生むことがあれば、遠慮なく対価を受け取ればいいんだと思っています。でも、これが「ボランティア」でスタートしていると「変節した」だの「結局はお金のために?」という背信的な気持ちになってしまいそうです。

また、自分自身が蓄えてきた「ノウハウに対する敬意も持っていたい」ということも「ボランティア」を嫌う理由のひとつです。自分が今まで蓄えてきた経験なりノウハウを「無料で提供する」ということは、「プロとしてのスキルにお金を払ってくれている方々」に対してとても失礼な気がするんです。

しかし、普段は対価をいただいているスキルを「自分のやりたいこと」に使うのであれば、そういう葛藤とも無縁でいられます。なぜなら、「自分のために使う」という行為は、「あの人には有料」←→「あの人には無料」という枠組みの外側にあるからです。ある程度、自分にウソをつかずに公平性を保ちたいんですよね。

人によっては「本気でやっている人助け」を「趣味」と言われることは不快感を感じるかもしれません。まぁ、確かにそうかもしれません。また、「趣味」ではなく「マジメ」にやってほしいと思うかもしれません。でもね、私の価値観で考えれば、本気度は「ボランティア<仕事<趣味(遊び)」という大小関係だったりします。

なぜなら「趣味(遊び)」こそ、本気でやる価値のある行動だと思うからです。「仕事」の場合、「この報酬額なら、この程度のコストで妥協するしかないな」という判断をしなければならないことがあります。いただく報酬よりもコスト(原価)の方が高くなってしまえば「赤字」になってしまうからです。生きるためには当たり前の判断です。

しかし、趣味であれば、ある程度は原価計算を度外視できる可能性が高くなります。そもそも、「無償奉仕」に「仕事」の価値観を持ち込んだ場合、明らかに「収入<原価」という関係になります。つまり、普通に考えると「仕事品質を求めるなら、タダでは提供できませんよ」ということになっちゃうわけです。

 ×「誰かのために何かをしてあげたい」→○「趣味で誰かに何かをしたい」

もっとも、作業に「マジメ」を求めるのであれば、そもそも「無償」ではなく「有償」でお願いしてくださいよ……という話になるんでしょうが。

2012年9月4日火曜日

「情報発信」だけの限界

最近はなんでもかんでもネットを利用して、積極的に情報発信しようという機運が高まっているけど、情報発信だけに偏ってはいけないんじゃないかな。特に、ベンチャーであったり、個人事業主の場合、「自分の存在を認識してもらわないといけない」わけだけど、それでも「情報発信だけ」じゃ厳しいよね……と最近思うんです。

どういうことかといえば、「中身が伴っていなければ言葉の無駄撃ち」に過ぎないっていうこと。たとえば、「○○であるべきだ」という主張があったとして、それを訴え続けることも重要ではあるものの、いつまでたっても「訴え続けるだけ」では、ちっとも前に進みやしないわけですね。

「主張は分かったけど、それで実際に試したの?」

ってこと。主張してばかりじゃなくて、早く実行しろよ、早く検証しろよ、そしてその結果を報告しろよ……ってことなんですよね。そうでなくてはタダの屁理屈になっちゃうわけです。そんなことをしていては、自分自身の時間ももったいないし、そんな状況で書いた文章を読まされる方も等しく時間がもったいないわけです。

ちょっと話がそれますが、昔、ハマらないように十分に注意しながら「自己啓発系セミナー」に足を運んだことがありました。いくつか種類の違うセミナーに参加してみたんですが、おもしろい現象が見られるんですよね。講演が終わって、交流会みたいな時間になると顔見知りの常連さん同士が挨拶してるんです。

「いや、またお会いしましたね」
「先日はどうも、○○さんも勉強熱心ですねえ」
「いえいえ、まだまだ。今度は□□先生が講演されるセミナーに参加するんです」
「へえ、□□先生ですか、また私も聞いてみたいですね」
「ええ、なんか、最近、モチベーションが上がるセミナーが多くて忙しいですよー」

セミナーに参加したてのころ、私はそういう人たちを見て、「意識の高い人たちはやっぱり違うんだなー」なんて平和的な勘違いをしていたわけですが、何種類かのセミナーでそういうシーンを見ている内にものすごい違和感が湧きだしてきたんです。

「なんで、この人たち、こんなにセミナーに参加ばっかりしていられるんだろ?」
……って。

いや、もちろん、モチベーションが高くなるのはいいことですよ。ですけど、高いモチベーションを仕事に活かすんじゃなくて、その高いモチベーションをセミナー参加に使っているわけです。つまり、「セミナーを受ける」ということ自体で満足しているようにも思えます。

知り合いで「自己啓発セミナーマニア」がいるわけですが、その人を知ってから数年。セミナーへの参加は相変わらずのようですが、未だに何もアクションを起こしていないようです。セミナーに参加すればするほど、自分の未熟さが見えてきて、さらに他のセミナーを受けないと……という気持ちになるんだそうな。

いくら講師が「この講演を聞いて満足していたらいけませんよ。大事なことはとにかく実行するということです!」と熱弁をふるっていても、「そうか、実行が大切なんだよな。よし、それじゃ、とにかく熱が冷めないうちに他のセミナーの参加申し込みをしよう!」と残念な方向に転がっちゃうようです。

ネット上での持論展開もこれと同じで、「実行」と「検証」を伴わずに、ただ主張しているじゃダメなんだと思います。自分自身にノルマを課して、たいした成果もないのに内容のない文章で空白を埋めることには意味がないと思うのです。情報発信に躍起になるのではなく、たまには『黙って成果を出す』ことが大事なのでしょう。

2012年8月21日火曜日

苦手を克服するという常識


基本的に「苦手なことを克服する」ということは大切なことです。しかし、私はそこに社会がこだわりすぎて不幸な局面を作り出しているように思えることが多くあります。精神障害者の就労移行支援事業の仕事に関わるうちに、私にはひとつの仮説が湧き上がってきました。

「苦手なことに時間と労力をかけて『マイナスからゼロに向かって努力する』のではなく『適性のあることに徹底的にフォーカス』した仕事環境があったとしたら、現状の世の中で活躍できない人たちが本気で戦えるのではないか」というものです。どれだけがんばっても、そこが他の人にとっての「スタートライン」というのは虚しいものです。

これは未だに舵切りが難しく正解が見えません。「適性にフォーカスする」ということは、本人と話しながら「なるべく」苦手な領域に踏み込まないようにナビゲーションする必要があるからです。しかし、このことは「本人の新たな可能性」の芽を摘んでしまうリスクもあります。また、「ストレスへの耐性」を弱めてしまうリスクもあります。

それでも、やってみる価値は十分にあると思うのです。もちろん、「適性強化」と「甘やかし」という線引きも明確でなければなりません。ここで私が考える線引きとは、

(1)「苦手なこと」は極力避けて「得意領域」の仕事をしてもらう
(2)「得意領域」の仕事の品質については一切の妥協を許さない

ということです。

つまり、自分がやりたくない仕事からは遠ざける代わりに、そこでの甘えは一切許さないというやり方です。世の中、「適材適所」という言葉を好んで使うわりに、なかなかそれができていないのは「平均点」や「総合点」のスコアを気にしているからだと思うんです。

私はこの「当たり前」を崩せないかと考えています。この世の中で生きづらい人たちを「一方的な価値観で改造する」のではなく、仕事環境側も「自ら歩み寄る」チャレンジが必要だと思うのです。平たく言えば、雇用側の「上から目線」をやめるということです。

私にとって、この考え方は「憐れみ」ではありません。「平均点が高いが全体的に平凡な人材」と、「平均点は低くバランスが悪いがエッジの効いた才能を持つ人材」の活躍領域って、自ずと違ってくるのではないんじゃないか……っていうことなんです。誤解を恐れずにいえば、企業在籍のオリンピック選手に似ています。

オリンピック選手といえども、企業に在籍している以上は仕事をしなければなりません。スポーツで生計を立ててしまうと「アマ」ではなく「プロ」という扱いになってしまうので、主たる生計は労働によって得ている必要があるためです。しかし、企業としては本気で「正規の労働力としての貢献」を期待しているわけではないでしょう。

もちろん、「労働力としてアテにならない」という意味ではありません。そうではなく、そもそも役割が違うのです。あえて極端な例でいえば、業務が切迫した時でも、オリンピック選手に徹夜作業をさせたりはしないでしょう。徹夜作業で体調を崩してしまっては、「企業イメージ向上要員としての貢献」の期待ができなくなってしまいます。

甘やかしに思えてしまうかもしれませんが、電話が苦手な人には無理に電話の仕事をしてもらわない。極端な人見知りの人には知らない人との関係が煩雑な仕事をしてもらわない。身体を使うと体力不足でへたりやすい人には力仕事はしてもらわない。でも、その代わりに一芸で勝負してもらえればいいと思うんです。

精神障害者の就労移行支援という観点では、どうしても「この程度ならできるだろう」、「この程度の仕事もできるんじゃないか?」、「あれができたんならこれもできるんじゃないか」と、ひたすら低めのハードルを多くこなさせてしまう傾向があるように思います。本人が望まないことでも「就職に有利ならなんでも」という形で。

単純に「できることを増やす」という意味においては、私もそれほど否定的でもありません。ただ、私の印象では、もっと一芸を切り開ければ「好きなこと」を仕事にできる可能性を持った人でも、「できること」の裾野に引っかかった就労先を紹介することが多いような気がしてならないのです。もちろん、それも人生の選択肢のひとつです。

ただ、「ここなら簡単に行けそうだから」という理由で、高い専門領域の可能性を切り捨てて、平凡かつ本人がそれほど強く望まない就職を勧めてしまっていいものかとも思うわけです。私自身が抱いている危惧としては、「誰でもできそうな領域で平凡なスキル」の人を多く送り込んでいたら、社会はこう思うかもしれません。

「やっぱり精神障害者って、平凡で、誰でもできる仕事しかないよなあ。」

……と。

そうならないためにも、ちゃんと才能のある人の芽を丁寧に育てていかないといけないし、そういう人に安易な就職先を勧めてはいけないような気がするんです。私は就労移行支援事業周辺の仕事をしていて、「支援員のスキル限界が職業選択の限界」であってはいけないと常々思います。

支援員自らが専門性のない分野に対して対応することは難しいと思います。だからこそ、専門性のあるスキルのある人が、もっと就労移行支援の現場に来た方がいいんです。そして、「上から目線」&「自分の限界」で語らない支援員が必要なんだと思います。

あえて自戒の意味も込めていえば、基本的に支援員って「上から目線」が多いと思います。自分よりも高い才能に敬意を払えない人が多い。「だって就職できてないんでしょ?……ってことは、私よりも能力が低いに違いない」って思ってしまうと、支援員よりも高い能力があったとしても、無駄な能力として切り捨てられるリスクはとても高いのです。

そんな現状をなんとかしたいと私は思っています。そして、もっと専門性のある人が精神障害者の就労移行支援の場に流出してくるといいとも思います。ITだけでなく、財務とか、企画とか、その他多くのプロフェッショナルが。日本の人口が減っているのだから、そういう才能の掘り出しは本気でやらないといけないように私は思います。

現実問題として、これはなかなかハードルが高い話です。就労移行支援事業の使命は少しでも早く就労できていない人が就労できるようにすることです。だから、就労移行支援事業所は社会の流れに沿った形での対応を余儀なくされます。まさか「社会に変革を起こす」という視点でものを語ることは難しいでしょう。

それでも、私はあきらめきれないのです。今の社会がこうであるならば、たとえ困難が予測されるにせよ、その先の未来にくる社会をイメージしないといけないような気がするんです。

2012年8月14日火曜日

Facebookで文章力アップ?


Facebookで、いろいろな文章を拝見していて、たまに「あーあ」と思うことがあります。最近は「ネット上で文章力を鍛えてビジネスに結びつかせましょう」という流れがあって、そういう人たちを応援するサイトでは、しきりに「文章力を鍛えるために毎日ブログやSNSを更新しましょう」と書かれていたりします。

……ええ?……マジですか!?

私自身、文章力に自信がある人間ではないので、いささか書きづらい内容ではあるんですけど、「毎日文章を書くということだけに力点を置いてしまっていいのかなあ」と思うことがあるんです。確かに毎日文章を書いていれば、必然的に文章作成の速度や構成力などがスキルアップする可能性が高いと思います。

ただ、最近、「日課を目標にしすぎているんじゃないかなあ?」としか思えない文章を読む機会が増えたような気がします。「とにかく毎日書く」というノルマ臭が漂う文章は、だいたい次のような印象があります。

・いつも同じような書き出し(定型的な文章なので引きつけられない)
・結論がなんなのか分からない(ひどい場合は尻切れトンボの文章)
・得られる「気づき」がなんにもない(単なる個人日記で終わっている)

ここまで書くと「自分はどうなんだよ」と自問自答してしまうわけで、他人のことを言えるのかよ……という葛藤もそれなりにあるわけですが、それでも、「とにかく毎日書けばいい」という考えでやっつけ文章を増産するのは、コスト的にもったいないと思うんです。それはなぜかというと、

(1)「ひとつの文章を磨き上げよう」という意欲をなくしてしまう。
  →結論は何か?伝えたいことはなんなのか?……という意識は大事そうです。
(2)「失敗しても次があるさ」という心理状態になってしまう。
  →残念ながら私の場合、ノルマ臭が漂う文章が数日続くと購読を解除します。

特に私は、Facebookで、テレビやラジオのパーソナリティもどきみたいな『前置き』のある文章が、なんとなく定型文っぽくて好きになれません。でも、「なんとなく嫌い」というだけでは思考放棄をするみたいでイヤなので、その原因をすこし考えてみたら、簡単に理由が分かりました。

Facebookを読むためのツールのほとんどは、書き出しから数行ほどをダイジェスト表示するようになっています。つまり、書き出しの部分がいつも似通っていると、ぱっと読めるダイジェスト部分は似たような文章になってしまいます。たとえば、次のような文例です。(あくまでも「やや極端な例文」なのでご了承ください)

【地元の天気情報から必ず入る人】
◆宮崎は今日も暑い日が続いています。午後からは激しい雨が降るようですが、こうも暑いと雨がありがたく感じますね。さて、今年も高校野球が…[続きを読む]

 ↑遠方の天気に興味がない上、近ければなおさら「見れば分かる」程度の情報。
 ↑ありきたりな内容では[続きを読む]をクリックしたいという欲求が生まれない。
 ↑そして、「高校野球」の話題に無関心な私は完全に興味を失ってしまいます(笑)。

【キャッチフレーズを入れずにいられない人】
◆おはようございます♪~『いつも元気』が合い言葉の私、○○くんが、今日も元気に山梨のど真ん中からメッセージをお送りします。さて、やっと…[続きを読む]

 ↑あくまでも個人的感想ではありますが、極めて「イタい」印象を受けます。
 ↑定型文を毎日少しずついじっているだけで本文には興味をそそられません。
 ↑というか、定型文で「元気元気」を連呼されても空々しい気分になります。
 ↑「植え付けられたポジティブシンキング」みたいな臭いが警戒心を抱かせます。

「文章を読んでいただく」ということは、少なからず読み手の「貴重な時間を奪う行為」です。もちろん、駄文であれば「最後まで読まない権利」を行使してもいいわけですが、正直、最後まで読まれない可能性のある文章を「無反省」に書き続けることに、「修行」としてどれほどの価値があるのか私には分かりません。

ただ、私が思うのは、
 「継続は力なり」
かもしれないが、
 「無反省な継続は力の無駄遣いなり」
じゃないのかねえ?……ということです。

実際のところ、Facebookでの文章に対する批判……みたいなものって、書くの、勇気いるんですよね。基本的に「友達」ということにもなっているんで。実際のところ、「完全に繋がりのない人」ではなくて、たぶん、遠く思えても、そこそこ近いところで繋がっている可能性が強い人たちですから。

でも、だからこそ、駄文を書いていたとしても、誰かから指摘されることは皆無だと思われます。もちろん、精神的距離が近い人になら、冗談交じりに本音を伝えてしまうのでいいんですが、中途半端に距離があったり、そもそもお目にかかったこともない「誰かの友達」だったりすると、まぁ、とにかく困ってしまうわけです。

もちろん、私が「読み手」として不適格である可能性もあり、さらにいえば、その執筆者と同じクラスタ(意識的集合体?)にいないという証拠ともいえるので、ここで「意識のズレを修正してやろう」などという不遜な気持ちは毛頭ありません。私の方が大きくズレまくっている可能性も大いにありますから。

でも、「自分の文章スタイルで、こういう風に思う人もいるんだな」程度で思っていただけると、何かのきっかけでお役に立てることがあるかもしれません。と、そんなワケで、この文章自体もネット空間に浮遊する根無し草ではありますが、どなたかの思考のきっかけになればいいなあと願っております。

2012年8月1日水曜日

生きがい

私は千葉の就労移行支援事業所でITコースの講師をしています。受講者の中には認知機能が大幅に低下していて、パソコンに触れること、コミュニケーションをとること、気持ちを表現すること……が難しくなっている人たちもいます。正直、「教えたって無理だろう」といわれたこともあります。

でも、私は続けてきました。気がついてみると、始めてから2年を過ぎています。そんな中で「私の実績ってどの程度なのだろう」と自問自答することも少なくはありません。うまくいくことばかりではありませんでした。冒険的かつ挑戦的な試みの末に、受講生の大半から総スカンの嵐を食ったこともあります。

私は『IT』を通じて、(1)どんな仕事であってもITを利用して効率的にラクになれるように。(2)就職先としてのITという選択肢を増やせるように。……という可能性を開きたいと考えていました。つまり、ITを目指さない場合でも、何かひとつ、人生を楽しく生きていけるものを発見してほしいと思っていました。

すべての人たちが(2)に進むわけではなく、(1)の段階で去って行く人も多くいます。「去って行く」というのは、就職が決まって去って行く人もいますし、「ITは無理なんだな」と感じて去って行く人もいます。冷たいと思われそうですが、私は基本的に「去る者を追わず」というポリシーを持っています。

なぜかというと、あくまでも「選択するのは本人であるべき」という信念を持っているからです。続けることも去って行くことも「自分の意志で決める」という価値観に重きを置いているからです。そうは言っても、やはりふとした時に思うことがあります。「私を信じて時間を費やした人を失望させたかもしれない」と。

最近、千葉の乗降駅で、たまたまかつての受講者に会うことがありました。彼はYさん。たしか、受講してくれていた当時はかなり具合が悪く、会話もとてもゆっくりで、ひとつずつ時間をかけるタイプの人でした。分かりやすく表現すれば、徹夜を二日続けて疲労困憊した時のコンディションと言えば伝わるでしょうか。

「ああ!松下先生!お久しぶりです!」

ところが、駅でばったり出会ったYさんは、当時の彼とは見分けがつかないくらいに認知機能がはっきりとしていました。いや、過去を知らなければどこにでもいる若者です。不調に苦しんだことのある人だとは思えないほどです。Yさんの活発な声を聞いたのは実は初めてでした。

私は、そこで、私自身が抱えていたモヤモヤに対する答えのひとつを聞いたような気がします。

「松下先生のおかげで今の自分があると思っています。」
「諦めそうになっていた自分たちに本気で情熱をかけてくれました。」
「松下先生に認めてもらえるほどITはできませんでしたが勇気をもらいました。」
「自分たちの可能性をあそこまで信じてくれたのは本当に嬉しかったです。」

かつてのYさんでは考えられないほど、矢継ぎ早に「当時の思い」を語ってくれました。家路を急ぐ人たちが行き交う暮れなずむ駅前、私は感謝の気持ちでいっぱいでした。当時のYさんは、コミュニケーションを取るだけでも大変な体調だったこともあり、私はYさんの気持ちを聞けないままだったのです。

正直なところ、私は長いこと不安を抱えていました。私の言葉は認知機能の低下で困っている人たちに、どこまで届いているのだろうか……。ただ、ツライだけのことをやっているのではないか……。ITに進まなかった人たちは「切り捨てられた」ように思っているのではないか……と。

私が彼らに投げかけた言葉の返事を一年後にやっと聞くことができました。まるでタイムカプセルを開けたような不思議な感覚です。「私の言葉は確実にしっかりと心に届いていたんだ!」と思うと嬉しくて仕方がありません。そして、Yさんからいただいた言葉は私の心に火をつけました。

「これからも『即戦力ITコース』で希望をなくした人に勇気を与え続けてください!」

……そうか。ITだけじゃなくて、そういうことも伝わっていたんだ。むしろ、IT以上に大事なことなのかもしれないなあ……と思いつつ、私自身、希望を捨てずにチャレンジしてよかったと思える、ある日の夕方でした。

2012年7月25日水曜日

子供から学ぶこと

私には1歳になる娘がいます。子供がいる人なら、ああそうだよね……と思うかもしれませんが、寝付く前に思いっきりグズることが多いです。特に、今まで遊んでいて、急にグズるようになってきたなと思うと、眠たくなって暴れたり泣いた挙げ句に寝てしまいます。「なんで静かに眠れないんだ?」と大人はつい思いがちですが、ちょっと考えてみました。

眠くなってくると……
(1) なんだか急に楽しくなくなってくる
(2) 体がだるくなったり頭が働かなくなる
(3) 意識が遠くなって周囲の声が聞こえなくなる

(1)と(2)は大人になっても実感できそうです。

最初の(1)は「モチベーション」の持続に関連します。本質的に人間は「強制されること」よりも「自分がやりたいこと」の方が能率的で疲れにくいものです。なぜなら「楽しい」という感覚がエネルギーになるからです。「三度の飯よりも○○が好き」というのもそういうことですね。それにも関わらず、ひどく疲れてくるとどんなに好きなことでも楽しくなくなってしまいます。つまりモチベーションを持続するためには休息が必要だということです。

次に(2)ですが、その人の身体に合わせた休息って大切だなってことです。だんだん成長してくるといろんな感覚が摩耗してきます。疲れてくるといろんな変調を感じるはずなのに、「がんばれそうだ!」なんて朝まで徹夜をしてしまい、挙げ句、「このまま一日いけそうだ!」なんて体験をすることが人生の中で何度かありますが、本質的にはスペックが著しく低下していることに間違いありません。スペック低下の違和感に気づくことは大切です。

最後の(3)については、大人になると意識しにくくなる感覚かもしれません。眠くなるとだんだん他の人の声が意識に届かなくなりますね。しごく当たり前のことです。でも、生まれてからあまりたっていない子供にとっては「眠る」ということは恐怖の対象ではないでしょうか。なぜなら「自分がいなくなってしまう不安」や「ひとりぼっちになってしまう不安」と戦わなくてはいけないからです。

成長するに従って、「しばらく眠ると目が覚める」という事実に慣れていくものですが、そういう経験が十分に蓄積されるまでは毎晩が不安との戦いです。疲れて急速に寝てしまえばいいんですが、中途半端に意識がある状態で徐々に眠りに落ちていく感覚は、とてつもなく怖いものでしょう。基本的に「眠りに落ちていくこと」と「死んでしまうこと」の恐怖は同一線上にあるような気がします。

しかし、ここにも大人が学ぶ点はいくつかあると思います。それは、「自分に与えられた時間は有限であること」なんです。生きていると、ついつい惰性で「明日があるさ」と思ってしまいます。ほとんどの場合は「明日」がやってくるでしょう。しかし、そう思っている人の中で数パーセントは毎日どこかで命を失っています。一度、眠ってしまったら、次に目覚める保証って「実はどこにもない」のです。

子供の頃に「眠るのが怖かった」ことを思い出してみましょう。または「余命宣告をされた自分」を想像してみましょう。ほとんどの人は眠ることが怖くなるんじゃないでしょうか。もちろん悟りを開いた人なら別ですが、やはり「自分がいなくなる」という感覚は大きな不安を伴うと思います。そこで、とても平凡な結論に行き着くのですが、「一日一日を悔いが残らないように生きていきましょう」ということなんです。

自分でも思います。「そんなことは改めて気づかなくても、最初から知っているレベルの話だ」って。でも、知っていても「毎日、人生を味わい尽くして生きていますか?」といわれるとそんなことはないんですよね。「まぁ、味わうほどの人生じゃない」と思ってしまっていたりしませんか。「毎日がイベント……なんて人生はどこに存在しない。日々は平凡なものだ」とか思ってしまっていませんか。

きっと、それは「知っている」けれど「できている」ことではないということです。本質的に命はお金で買えません。気が遠くなるほどのお金を持っていたスティーブ・ジョブスも世を去りました。仮に天寿を全うできるほどの健康な人でも、ある日突然に災害の犠牲になることだってあるんです。さまざまな瞬間で「悔いが残らない」生き方をしていきたいものです。