私には1歳になる娘がいます。子供がいる人なら、ああそうだよね……と思うかもしれませんが、寝付く前に思いっきりグズることが多いです。特に、今まで遊んでいて、急にグズるようになってきたなと思うと、眠たくなって暴れたり泣いた挙げ句に寝てしまいます。「なんで静かに眠れないんだ?」と大人はつい思いがちですが、ちょっと考えてみました。
眠くなってくると……
(1) なんだか急に楽しくなくなってくる
(2) 体がだるくなったり頭が働かなくなる
(3) 意識が遠くなって周囲の声が聞こえなくなる
(1)と(2)は大人になっても実感できそうです。
最初の(1)は「モチベーション」の持続に関連します。本質的に人間は「強制されること」よりも「自分がやりたいこと」の方が能率的で疲れにくいものです。なぜなら「楽しい」という感覚がエネルギーになるからです。「三度の飯よりも○○が好き」というのもそういうことですね。それにも関わらず、ひどく疲れてくるとどんなに好きなことでも楽しくなくなってしまいます。つまりモチベーションを持続するためには休息が必要だということです。
次に(2)ですが、その人の身体に合わせた休息って大切だなってことです。だんだん成長してくるといろんな感覚が摩耗してきます。疲れてくるといろんな変調を感じるはずなのに、「がんばれそうだ!」なんて朝まで徹夜をしてしまい、挙げ句、「このまま一日いけそうだ!」なんて体験をすることが人生の中で何度かありますが、本質的にはスペックが著しく低下していることに間違いありません。スペック低下の違和感に気づくことは大切です。
最後の(3)については、大人になると意識しにくくなる感覚かもしれません。眠くなるとだんだん他の人の声が意識に届かなくなりますね。しごく当たり前のことです。でも、生まれてからあまりたっていない子供にとっては「眠る」ということは恐怖の対象ではないでしょうか。なぜなら「自分がいなくなってしまう不安」や「ひとりぼっちになってしまう不安」と戦わなくてはいけないからです。
成長するに従って、「しばらく眠ると目が覚める」という事実に慣れていくものですが、そういう経験が十分に蓄積されるまでは毎晩が不安との戦いです。疲れて急速に寝てしまえばいいんですが、中途半端に意識がある状態で徐々に眠りに落ちていく感覚は、とてつもなく怖いものでしょう。基本的に「眠りに落ちていくこと」と「死んでしまうこと」の恐怖は同一線上にあるような気がします。
しかし、ここにも大人が学ぶ点はいくつかあると思います。それは、「自分に与えられた時間は有限であること」なんです。生きていると、ついつい惰性で「明日があるさ」と思ってしまいます。ほとんどの場合は「明日」がやってくるでしょう。しかし、そう思っている人の中で数パーセントは毎日どこかで命を失っています。一度、眠ってしまったら、次に目覚める保証って「実はどこにもない」のです。
子供の頃に「眠るのが怖かった」ことを思い出してみましょう。または「余命宣告をされた自分」を想像してみましょう。ほとんどの人は眠ることが怖くなるんじゃないでしょうか。もちろん悟りを開いた人なら別ですが、やはり「自分がいなくなる」という感覚は大きな不安を伴うと思います。そこで、とても平凡な結論に行き着くのですが、「一日一日を悔いが残らないように生きていきましょう」ということなんです。
自分でも思います。「そんなことは改めて気づかなくても、最初から知っているレベルの話だ」って。でも、知っていても「毎日、人生を味わい尽くして生きていますか?」といわれるとそんなことはないんですよね。「まぁ、味わうほどの人生じゃない」と思ってしまっていたりしませんか。「毎日がイベント……なんて人生はどこに存在しない。日々は平凡なものだ」とか思ってしまっていませんか。
きっと、それは「知っている」けれど「できている」ことではないということです。本質的に命はお金で買えません。気が遠くなるほどのお金を持っていたスティーブ・ジョブスも世を去りました。仮に天寿を全うできるほどの健康な人でも、ある日突然に災害の犠牲になることだってあるんです。さまざまな瞬間で「悔いが残らない」生き方をしていきたいものです。
+1
2012年7月11日水曜日
離職者を生みにくい環境
「仕事にはつまらないことがある」というのは正しくて、そしてその一方では間違っていると思います。人間にとって「意味があるのか分からない行為」というものは、比較的、つまらない仕事になりがちです。しかし、意味が見いだせれば面白い仕事にもなりえます。
そんな中で、メンバーを引っ張る人間は「仕事の楽しさ」を伝えることも重要な仕事のひとつなのではないかと、最近考えています。自分が行っている仕事がどのような位置づけにあって、どのように貢献できるのか……というナビゲーションは重要だと思うんですね。
もちろん、状況によって「なんでもいいからやってほしい」という事態もあるわけですが、それでもきちんとフォローをすることは、思いのほか重要なのかもしれません。こう書くと「それは過保護だろう」と思われるかもしれません。
確かに私が送ってきた社会人生活でも、そんな手厚いケアはありませんでしたから、おそらく現状の世の中において「過保護」なんですよね。それでも私は「仕事の楽しさを伝えること」を試してみる価値はあると思うんです。
もしかすると、こういう逸話を聞いたことがあると思います。ある石工職人の話です。
◆三人の石工職人が石を積んでいる仕事場にて……
仕事場を通りかかった旅人が、一体何をしているのか職人に尋ねました。「どうしてあなたは石を積んでいるのですか?」と。
1人目はこう答えました。
「石を積むと親方からご褒美がもらえるんです」
2人目はこう答えました。
「この石を積んで美しい壁を作っているんです」
3人目はこう答えました。
「ここに立派な大聖堂を建てているんです!」
多少オリジナルのストーリーとは違うかもしれませんが、この話はそれぞれの「仕事に対する視点」の違いを表現したものです。視点の広がりという意味では3人目の答えが望ましいことは書くまでもありませんね。
なぜって、「ご褒美<美しい壁<大聖堂」というケースを考える場合、大きい方が、小さい方の要素を全て包含しているからです。つまり「美しい壁を作る」ことには「ご褒美を得る」という理屈が含まれていて、「大聖堂を建てる」には、残りの二つが含まれています。
このように、「視野が広がる」ということは、そこまでのレベルのものをすべて内包しながら、さまざまな判断基準を持つことになるんです。
・ご褒美をたくさんもらうためには → 壁を素早く美しく作ること
・歴史に残る大聖堂を建てるためには → イメージに合う壁を作ること
つまり、仕事の最終形に意識が近づけば近づくほど、仕事の品質が高まる傾向があると私は考えています。逆に「単にお金だけ」だけが目的で、仕事に対する興味や美学がなければ、仕事自体に魅力がないわけですから、すぐに他の仕事に移ってしまうでしょう。
だから、より仕事の最終形を意識するような「3人目の石工」を育てた方がいいのですが、そのためには、メンバーを引っ張る人間が仕事の最終形を意識していないといけませんし、その最終形を伝える努力を怠ってはいけないわけです。
たとえば、そこの親方がちゃらんぽらんだったとしたら、次のようになるでしょう。
石工:
「一体、この仕事は最終的にどうなっていくんですか?」
親方:
「生意気なやつめ、お前にこの仕事を理解するには10年早い。お前は黙って石を積んでいいんだ。ご褒美をくれてやるから、お前のようなヤツは何も考えないでとっとと働け!」
あーあ、これで、前途有望だった石工は「3人目の石工」になるチャンスを失いました(笑)。このように、仕事先のリーダーの意識がそれ以上に成長する人材の可能性の芽を摘むことがあるわけです。残念ですが、けっこうそういうこと、多いですね。
もちろん、その一方では「経験を積まないとできないこと」があるのも事実で、そうなると、どうしても時間をかけなくてはならないこともあります。しかし、その場合はその場合で、「現在の状況」と「今後期待できる状況」を伝える価値はあるんだと私は思っています。
と、思っていながらも、「実際に経営者の経験も雇用をした経験もしたことのないヤツに、一体、何が分かるっていうんだ!」と言われてしまうとぐうの音も出ません。いやいや、悔しいから書いておきます。「ぐう!」(笑)。
私にとって「多くの経営者」がどう思っているかってのはあまり意味がないのです。むしろ、常識と思われているところを熟慮の上でひっくり返すことにこそ意義があると思っています。それが「経営者にとっての常識」であればあるほど「経営者にとっての盲点」である可能性は高いわけで。
私はこれからの数ヶ月でその答えを出していくつもりです。
そんな中で、メンバーを引っ張る人間は「仕事の楽しさ」を伝えることも重要な仕事のひとつなのではないかと、最近考えています。自分が行っている仕事がどのような位置づけにあって、どのように貢献できるのか……というナビゲーションは重要だと思うんですね。
もちろん、状況によって「なんでもいいからやってほしい」という事態もあるわけですが、それでもきちんとフォローをすることは、思いのほか重要なのかもしれません。こう書くと「それは過保護だろう」と思われるかもしれません。
確かに私が送ってきた社会人生活でも、そんな手厚いケアはありませんでしたから、おそらく現状の世の中において「過保護」なんですよね。それでも私は「仕事の楽しさを伝えること」を試してみる価値はあると思うんです。
もしかすると、こういう逸話を聞いたことがあると思います。ある石工職人の話です。
◆三人の石工職人が石を積んでいる仕事場にて……
仕事場を通りかかった旅人が、一体何をしているのか職人に尋ねました。「どうしてあなたは石を積んでいるのですか?」と。
1人目はこう答えました。
「石を積むと親方からご褒美がもらえるんです」
2人目はこう答えました。
「この石を積んで美しい壁を作っているんです」
3人目はこう答えました。
「ここに立派な大聖堂を建てているんです!」
多少オリジナルのストーリーとは違うかもしれませんが、この話はそれぞれの「仕事に対する視点」の違いを表現したものです。視点の広がりという意味では3人目の答えが望ましいことは書くまでもありませんね。
なぜって、「ご褒美<美しい壁<大聖堂」というケースを考える場合、大きい方が、小さい方の要素を全て包含しているからです。つまり「美しい壁を作る」ことには「ご褒美を得る」という理屈が含まれていて、「大聖堂を建てる」には、残りの二つが含まれています。
このように、「視野が広がる」ということは、そこまでのレベルのものをすべて内包しながら、さまざまな判断基準を持つことになるんです。
・ご褒美をたくさんもらうためには → 壁を素早く美しく作ること
・歴史に残る大聖堂を建てるためには → イメージに合う壁を作ること
つまり、仕事の最終形に意識が近づけば近づくほど、仕事の品質が高まる傾向があると私は考えています。逆に「単にお金だけ」だけが目的で、仕事に対する興味や美学がなければ、仕事自体に魅力がないわけですから、すぐに他の仕事に移ってしまうでしょう。
だから、より仕事の最終形を意識するような「3人目の石工」を育てた方がいいのですが、そのためには、メンバーを引っ張る人間が仕事の最終形を意識していないといけませんし、その最終形を伝える努力を怠ってはいけないわけです。
たとえば、そこの親方がちゃらんぽらんだったとしたら、次のようになるでしょう。
石工:
「一体、この仕事は最終的にどうなっていくんですか?」
親方:
「生意気なやつめ、お前にこの仕事を理解するには10年早い。お前は黙って石を積んでいいんだ。ご褒美をくれてやるから、お前のようなヤツは何も考えないでとっとと働け!」
あーあ、これで、前途有望だった石工は「3人目の石工」になるチャンスを失いました(笑)。このように、仕事先のリーダーの意識がそれ以上に成長する人材の可能性の芽を摘むことがあるわけです。残念ですが、けっこうそういうこと、多いですね。
もちろん、その一方では「経験を積まないとできないこと」があるのも事実で、そうなると、どうしても時間をかけなくてはならないこともあります。しかし、その場合はその場合で、「現在の状況」と「今後期待できる状況」を伝える価値はあるんだと私は思っています。
と、思っていながらも、「実際に経営者の経験も雇用をした経験もしたことのないヤツに、一体、何が分かるっていうんだ!」と言われてしまうとぐうの音も出ません。いやいや、悔しいから書いておきます。「ぐう!」(笑)。
私にとって「多くの経営者」がどう思っているかってのはあまり意味がないのです。むしろ、常識と思われているところを熟慮の上でひっくり返すことにこそ意義があると思っています。それが「経営者にとっての常識」であればあるほど「経営者にとっての盲点」である可能性は高いわけで。
私はこれからの数ヶ月でその答えを出していくつもりです。
2012年7月4日水曜日
いつか記念碑が置かれる日
7月から新天地での「新しい試み」が始まりました。でも、まだ、全容は誰にも分からないのです。なぜなら、これから関係者全員で「ステキな環境」を構築していくからなんです。基本的に「すべてはこれから」と書きつつも、私が理想とする経由地やゴールは頭の中にできあがっています。
じゃあ、ここに書こうよ……というところなのですが、書きません(笑)。なぜなら、私が考えていることが、
(1) 実際に試してみてニーズや効果がありそうなのか?
(2) その内容が仲間に認めてもらえることなのか?
を、「独善的」にならず、慎重かつ大胆に検証しながら進めていきたいからです。時に「革新的なこと」をやろうとすると、「独善的に突っ走る」という行動が必要です。これは間違いありません。しかし、なぜ、私があえて「慎重」を選べるのかといえば、今回の関係者全員が「フロンティア精神」の持ち主だからです。
今でこそ、私の中では安定してきた「即戦力ITコース」という講座も、最初のうちは危険運転の連続でした。私の決断によって受講生を一気に失ったこともありました。実験的な試みの失敗は、そのまま運営組織にご迷惑をかけることにもなりました。それでも、私を信じて講座を継続させてくれました。
そして、まだ道半ばではあるものの、その講座を通じて精神の当事者が「本気で戦える」可能性を心の底から確信するに至りました。そういうきっかけを与えてくれた仲間と新天地を開拓できるということは、逆に自分自身の行動をよく考える必要があると思えるのです。
具体的に今後のことは何も書いていませんが、今回のプロジェクトにおける私の行動指針は明らかにしておきたいと思います。
(1) 当事者に渇望されていながら誰もやらなかったことを試す。
(2) 当事者の限界をこちらから決めるようなことはしない。
(3) 「つらい」ではなく「楽しい」という感覚を呼び覚ましていく。
(4) 「自分で動く」ことの価値と喜びを体験していただく。
(5) 「訓練のための訓練」ではなく「リアルの体験」を重視する。
(6) これらすべてが雇用する企業にとって「価値」となる形にする。
こうやって書いている中でも頭の中で、いろんなアイデアが発泡酒の泡のように湧いてきます。そして、「それを現実化するまでの距離の近さ」を思うとわくわくします。「法定雇用率のためになんとなく雇用する人材」ではなく「本当に期待せざるを得ない人材」を輩出できる環境を目指したいと思います。
人間はね、飼い犬じゃないんだから。「命令を聞いて、餌をもらえて、生きてさえいればそれで幸せだろ?」なんてことはないんですよ。どんな人でも生まれた時に、いろんな人との違いを持つんだけど、それがたまたま「障害」と呼ばれる違いだったりすることがあるんですよね。
じゃ、その「障害」があるからといって「残りの人生全部をあきらめろ」なんていわれたら、生きている価値がないじゃないですか。下を向いて生き続けるには、残りの人生は長すぎます。でも、現実のところ、「社会から期待すらされていない当事者」ってすごく多いんですよ。残りの人生、社会からアテにされない……というのは、考えてみたらむちゃくちゃ苦痛ですよ。
でも、そういうのを変えていくには「理不尽だ!」と不満をぶちまけるだけじゃいかんと思うのです。実際にどれくらいの力があるのか、社会に見せつけていかなきゃならんのです。不満を言っている暇があるなら、その時間を使って「何か一つでもすごいこと」をやってみろ……と思うわけです。で、キツイコトいいますけど、「自力でやってみろ!」とか思うんです。
でも、ま、そういう「何か一つでもすごいこと」を試すステージすらないというのもまた現実。で、たまたま、こういう領域に踏み入れた私に「できること」がたくさん待っているような気がするんですね。なんで、私は「本気で戦える環境」を必死で構築したいと思っています。でも、甘いことはいいません。本気でやらない人には無理な環境にしたいとも思っています。
と、いうのは、あくまでも私の個人的な思いです(笑)。いろいろと検討を重ねた結果、どういう内容になるのかは未定な部分もありますが、願わくば、これからの日々が「『あの日』が変革が始まった日だった」と振りかえれるような歴史にしていきたいと思っています。
2012年6月27日水曜日
軽作業系は足りている
いろんな事情を抱えている人がいて、また住んでいる地域によっても違いがあることを理解した上で書きたいんですけど、比較的、軽作業とかの仕事って、支援したり仕事を開拓するための人材比率が高いような気がするんですよ。
たとえばね、「障害者が仕事するための作業所を運営しています。」って話を聞くと、知的障害の人たちが単調作業をして生活していくための施設だってことが多いんです。もちろん、これは私の知っている範囲で「たまたま」なのかもしれないけど。
この領域の話って、すごくよく聞くんですよねえ。有名どころではパン作り。他にも伝統工芸品作り、清掃業務、洗濯業務、洗浄業務、シュレッダー、バックヤードのピッキング。いや、今まで何度も書いているけど、これらの仕事がダメだとか言うつもりはないんですよ。
でも、細かいところでポリシーや手法の違いはあるものの、そういう系統の作業を支援する人はとっても多いような気がしています。まだまだそういうところに人材が必要だということも分かっているけど、私はその分野をあまり積極的にしたいなんて思いません。
なぜって、その分野の適性が私にはないから(苦笑)。単調作業は数分で眠くなっちゃう。それ以外にも「難しい顔で挑まないといけない会議」とか、実は精神的に大きな負担なんですよね。話題が頭に入らないのに眠気と戦う……って、一体なんの罰ゲームだと思うくらいです(笑)。
……と、そういう話も含めて、正直な気持ちを白状してみると、だいたい次の通りです。
・私が興味のもてないことに人生の時間を費やす意味を見いだせない。
・私が今まで蓄積してきたノウハウを活用しないことはもったいない。
・そもそも他の人がやらない領域にこそさまざまなチャンスが転がっている。
だから、「メンタル」+「ストレス対応」+「ITスキル」というハイブリッド技ができる領域を私は志向しています。力自慢の人たちがたくさんいるところに力自慢が入っても、そこでの価値は薄められるだけです。大多数が向かわないところに異端者が行くから価値が高まるんだと思います。
私は小さい頃から「人と同じことをやりたがる」ふりをしながら、「必ず人と違うことをしたい」という気持ちが強かったり、「気がついたら人と違っていた」という天然な結果が多くありましたが、まぁ、それも個性さ……ということで、今はけっこう助かっています。
そんなわけで、私は「積極的に頭を使わなくてもよさそうな領域」ではなくて、「とびっきり頭を使わなくちゃいけない領域」を全力で開拓していこうと思っています。それも「ラクをして」という要素は絶対に外せません。メンタルな人が快適に頭を使って幸せな生活が送れたらなと。
ホント、こういうことを考えているとワクワクします。もしかすると、今、私が携われている仕事というのは私にとって天職なのかもしれません。
2012年6月20日水曜日
職業選択の自由のために
メンタルでお悩みの障害者周辺の就職事情で、大きな課題は「実質的に職業選択の自由」が限られているということ。これには課題がふたつあると思っています。(「身体障害」だったりすると、比較的障害者手帳を持っていない人と同等のクオリティの職業に就きやすかったりします。)
(1) メンタルというだけで企業側が「軽作業」「事務作業」「清掃」に職域を絞ってしまう
(2) そもそも支援者に専門職(IT、経理、法務など)の経験者がおらず選択肢を知らない
私が考えている「職業選択の自由」に関する課題はこのふたつです。
まず、(1)から考えると、必要なスキルを持っていたとしても、オープン(障害手帳を持っているよ……ということを企業にカミングアウトすること)で就職を狙ってみても、求人票をみると「コピー機使えますか?」「シュレッダー使えますか?」というリクエストが多かったりします。なんとも残念な現実です。
ただ、その一方で、(2)の課題も残念だと思うんですよね。「選択肢をしらない」ということは、本来であれば「適性」があったかもしれないのに、知らないせいで「人生レベルの機会損失」をしている可能性があるということですね。この課題を何とかしたい……というのが、私が「即戦力ITコース」をやっている理由だったりします。
現実的に(1)の課題は重いものです。で、「がんばってみても『出口』がないのでは、どうしようもないではないか」といわれてしまうと、現時点においては確かにそうかもしれません。しかし、それでも(2)から始めなくてはいけないのです。なぜかといえば、(2)から解決しないと、(1)の課題にアプローチできないからです。
企業に「『軽作業』『事務作業』『清掃』以外の人材を雇ってください」とお願いしたところで、現実的にそれに該当する人材が少ない状況では、それまでなんですよね。また当事者が「社会環境が整ったら○○の仕事をしたい」と思っていても、おそらく受け身のままの姿勢では百年たたないと状況が整わないかもしれません。
しかし、たいていの人生は百年も生きられません。そしてまた、「生まれ変わって次の人生を体験できる」保証なんてどこにもありません。ほぼ、「そんなことは現実にない」と思っておいた方が一般的には無難でしょう。だから、今の人生を無駄にするなんてことはもったいないんです。幸せに生きる可能性に賭けた方がいいんです。
そうならば、社会を積極的に変えることに力を使った方がいいというのが私の考え方です。しかし、私が考える方向性は「障害者の権利擁護」とは全く関係のないものです。むしろ、本気で「職業選択の自由」を勝ち取るためには「障害者の権利擁護」からスタートすべきでないというのが私のスタンスです。
「被害者意識」から得られるモノは少ないことを知っておくべきだと個人的に思います。基本的に「被害者」が「かわいそう」という理由で企業は動いたりしません。障害者の雇用に熱心な企業でも、本質的には銭勘定で動いています。そうでなければ、企業が厳しい社会情勢の中で生き残るわけがないのです。
すると、企業を動かす本質的な力はなんなのか?……ありていに書けば「その企業にとっての利用価値が高いかどうか」に尽きます。これは障害者手帳の有無に関係なくそうでしょう。障害者を雇用すると国から様々な助成金が企業に支払われます。つまり雇用そのものについては障害者の方が企業にとって有利といえると思います。
あと、必要なもの。それは、「障害者手帳を持っていない人と渡り合える人材」という条件です。「障害者手帳を持っていない人と同等」で、「雇用コストが障害者手帳を持っていない人よりも低い」ということが事実として常識になれば企業の意識は間違いなく変わるでしょう。障害者手帳オーナーの方々、これを聞いて「無理だ」とあきらめますか?
私はこの可能性を大まじめに追いかけてみようと思っています。私は7月から今とは異なる新しい道を歩き始めることにしました。社会を変える可能性のある人たちと本気の冒険に出るんです。冒険の記録はブログに書いていきたいと思っています。ついてきてくれる勇気のある仲間が「勇者様」になれる日まで私は走り続けます!
(1) メンタルというだけで企業側が「軽作業」「事務作業」「清掃」に職域を絞ってしまう
(2) そもそも支援者に専門職(IT、経理、法務など)の経験者がおらず選択肢を知らない
私が考えている「職業選択の自由」に関する課題はこのふたつです。
まず、(1)から考えると、必要なスキルを持っていたとしても、オープン(障害手帳を持っているよ……ということを企業にカミングアウトすること)で就職を狙ってみても、求人票をみると「コピー機使えますか?」「シュレッダー使えますか?」というリクエストが多かったりします。なんとも残念な現実です。
ただ、その一方で、(2)の課題も残念だと思うんですよね。「選択肢をしらない」ということは、本来であれば「適性」があったかもしれないのに、知らないせいで「人生レベルの機会損失」をしている可能性があるということですね。この課題を何とかしたい……というのが、私が「即戦力ITコース」をやっている理由だったりします。
現実的に(1)の課題は重いものです。で、「がんばってみても『出口』がないのでは、どうしようもないではないか」といわれてしまうと、現時点においては確かにそうかもしれません。しかし、それでも(2)から始めなくてはいけないのです。なぜかといえば、(2)から解決しないと、(1)の課題にアプローチできないからです。
企業に「『軽作業』『事務作業』『清掃』以外の人材を雇ってください」とお願いしたところで、現実的にそれに該当する人材が少ない状況では、それまでなんですよね。また当事者が「社会環境が整ったら○○の仕事をしたい」と思っていても、おそらく受け身のままの姿勢では百年たたないと状況が整わないかもしれません。
しかし、たいていの人生は百年も生きられません。そしてまた、「生まれ変わって次の人生を体験できる」保証なんてどこにもありません。ほぼ、「そんなことは現実にない」と思っておいた方が一般的には無難でしょう。だから、今の人生を無駄にするなんてことはもったいないんです。幸せに生きる可能性に賭けた方がいいんです。
そうならば、社会を積極的に変えることに力を使った方がいいというのが私の考え方です。しかし、私が考える方向性は「障害者の権利擁護」とは全く関係のないものです。むしろ、本気で「職業選択の自由」を勝ち取るためには「障害者の権利擁護」からスタートすべきでないというのが私のスタンスです。
「被害者意識」から得られるモノは少ないことを知っておくべきだと個人的に思います。基本的に「被害者」が「かわいそう」という理由で企業は動いたりしません。障害者の雇用に熱心な企業でも、本質的には銭勘定で動いています。そうでなければ、企業が厳しい社会情勢の中で生き残るわけがないのです。
すると、企業を動かす本質的な力はなんなのか?……ありていに書けば「その企業にとっての利用価値が高いかどうか」に尽きます。これは障害者手帳の有無に関係なくそうでしょう。障害者を雇用すると国から様々な助成金が企業に支払われます。つまり雇用そのものについては障害者の方が企業にとって有利といえると思います。
あと、必要なもの。それは、「障害者手帳を持っていない人と渡り合える人材」という条件です。「障害者手帳を持っていない人と同等」で、「雇用コストが障害者手帳を持っていない人よりも低い」ということが事実として常識になれば企業の意識は間違いなく変わるでしょう。障害者手帳オーナーの方々、これを聞いて「無理だ」とあきらめますか?
私はこの可能性を大まじめに追いかけてみようと思っています。私は7月から今とは異なる新しい道を歩き始めることにしました。社会を変える可能性のある人たちと本気の冒険に出るんです。冒険の記録はブログに書いていきたいと思っています。ついてきてくれる勇気のある仲間が「勇者様」になれる日まで私は走り続けます!
2012年6月13日水曜日
「ボランティア=無償」を考える
このブログではほとんど枕詞になりつつありますが、私は就労移行支援の仕事をしています。でも、「慈悲」とか「ボランティア」という言葉にはあまり興味がありません。まず、「語感」が苦手です。もちろん「ボランティア」って大事なコトですよ。でも、苦手なんです。
なぜ、こんなに「ボランティア」という響きが嫌いなのかというと、どことなく「自分はいいヤツだ」とか「わざわざやってやってあげている」という言外の含みを感じるからです。はい、たぶん私のヤッカミなんだと思います。けっこう私は心が狭いですから。ヤッカミの理由は後ほど。
……と書くと、「じゃあ、お前はお金のためにしか動かないのか?」と聞かれるとそうでもありません。むしろ、お金のことを度外視してやったこともたくさんあります。ただ、それでも、私は「ボランティアをしました」とはいいたくないんです。
それをなんと呼ぶかといえば、あえていうなら「道楽」です。「ボランティアでゴミ拾いをしました」といわれると、「すばらしいですねえ」っていわないといけない気持ちになるけれど、「道楽でゴミ拾いをしました」なら、冗談まじりに「暇なんですか?」くらいで返せますからね。
つまり、「ボランティア」という言葉には「暗黙の賛辞の要求」がセットになっているような気がするんです。あえて「ボランティア」という言葉で自分の善行をアピールする必要なんてどこにもないんじゃないかと。善行はさりげなく、誰にも気づかれないのがたぶんかっこいいです。
それから、「ボランティア=無償」というイメージがつきまとうのも、私としては微妙な気分になるんです。最初から「無償」であることを暗黙の内に期待されてしまうと、ついつい「衣食足りて礼節を知る」という言葉を思い知らされるわけですよ。ホントにいやおうなしに。
だって、「無償」という旗印を堂々と掲げられてしまうと、私の価値観では「ボランティア=金持ちの道楽」という定義になってしまうんです。家族を食べさせていくだけでいっぱいいっぱいの自分が「道楽」どころではないだろうと。そんなことをしている暇があったら働け、自分。
たまに家庭の困窮も顧みず、ボランティアに身を投じる方の話を聞きます。そういう場合、その周囲の人たちも賛辞を送るのが普通です。でも、私の価値観では「アホか!もっと先にすべきことがあるだろう!」と思ってしまうのです。現実から逃げているようにしか見えません。
そもそも、ボランティアの価値を最上級に考えない方がいいと思います。たとえば、医療研究者がボランティアで、難病の子供達のために「千羽鶴」を折るようなことがあってはいけないと思うんです。そんな暇があったら「医療研究」に打ち込んでくれた方がいいわけで。
何度も書いておきますが「ボランティア」を否定しているわけではないです。できる余裕のある人はどんどんやるといいと思うんです。世の中との接点が少ない学生さんとか、老後の時間とお金があり余っている方々とか。私もそんな立場ならやってみてもいいと思います。
その上で私は宣言しておきたいと思います。私は「無償」を前提とする活動には、「私の夢」を果たすまでは一切参加しないつもりです。私の夢は、「障害手帳を持った人が全力で勝負できる環境を切り開くこと」と「家族に経済的な苦労をかけずにすむようになること」です。
私には描いた夢を現実に叶えるため、時間とお金が必要なのです。夢を現実化させるために家族との時間を少なくせざるを得ませんが、その貴重な時間を「お金にならないこと」には使えないのです。自分が心から目指していきたい夢そのものにもお金がかかるからです。
ずっと考えていましたが、私は「お金にならないボランティアなんて一切やらない」と宣言する勇気を得ました。普通に考えたら「なんて公共心に欠けた人だろう」と批判されても文句は言えません。それでも、選択と集中をしていくために「綺麗事」はやめることにしました。
しつこくなりますが、「ボランティア」が悪いというつもりはありません。でも、考えるべきだと思うのです。その「ボランティア」の先に「本当の自分の夢」があるのかどうか。あるのならいいんです。しかし、「かっこつけ」とか「断れなくて」だったとしたら、やらない方がいいと思うのです。
私は「ボランティア」の感覚ではなしえない、「私にしかできないであろうこと」に全力を傾けていこうと思います。公共心がないと思われるかもしれませんが、いつか、私の行動が「大きな回り道」をした後に、社会変革の一要因になれれば嬉しいと思います。
2012年5月30日水曜日
臨機応変が苦手
一部の発達障害オーナーの人は理解してくれやすいかもしれませんけど、私は「臨機応変」という言葉が苦手です。ハッキリ言えば嫌い。「臨機応変=判断は任せる」という意味だと思いますが、実際のところ「判断しがたい状況」って割とあると思うんですよね。
「臨機応変に対応してください」という言葉が期待している内容を叶えるためには、「依頼人にとってのベストな判断」が何であるのかを知らないといけないんですね。で、その期待を外した行動をとれば、「なんでそんな判断をしたんだ」と文句をつけられます。理不尽この上ない!
また、能力的なハードルもあります。たとえば、完全なメカオンチな人に「機械が異常動作をしたら臨機応変に対応してください」といったとしても、お願いされた人には判断のしようがないんですよ。つまり、「仕組みをしらない人」に「臨機応変」は通用しないんですよね。
そこまで極端でなくても、「臨機応変」には広範な前提知識が必要になることがあります。たとえば、揚げ物の鍋に引火して炎が上がったとき、何も知らなければ水をかけて消そうとする人がいると思います。もちろん、この行動は間違っていて非常に危険です。(逆に火が燃え広がります)
この二つの例はいずれも「臨機応変」を指示した側に大きな問題があります。ひとつには「臨機応変」な対応をする適性がない人に判断責任を委ねてしまっていることで、ふたつには「臨機応変」になるまでの危機管理のガイドラインがないことです。
なんでも「臨機応変」という「魔法の言葉」で安易に片付けてしまっちゃいけないんです。もちろん、全てのケースを列挙することは無理です。どれだけ時間をかけてもそういうマニュアルを作れないし、作れたとしても、読み切った上で全てを暗記することは無理ですよ。だから基礎力が必要なんです。
「臨機応変」とは「基礎的な知識を駆使して」「その状況でベストだと思われる行動」を考えなくてはならないという、極めて高度な仕事を要求しているということなんですね。「臨機応変」という言葉を多用することは、「その人の価値観を予測しろ」ということに他ならないわけで。やはり苦手です。
エスパーではない(そして他人の期待から外れたところに着地しやすい)私としては、「臨機応変」などという「魔法の言葉」よりも、ちゃんとした「ルールブック」が欲しいわけです。ルールブックが無理だとしても、私なりの「臨機応変」に文句をつけるんじゃねー!……と、訴えたいのであります(笑)。
「臨機応変」という言葉を使うとき、よーく心してください。その結果、何が起こっても、それは「臨機応変」といった人に責任があるんですよ。幼稚園の子に「たき火番」をさせて、大火事になったとしても、普通に考えたら子供に責任はないですよね。この場合、もちろん悪いのは大人の判断能力です。
ここまでは誰にでも分かるのに、「臨機応変」という言葉を使うときには忘れてしまうことが多いのは不思議なことです。ええ、本当に不思議です。私もたまにそうですから。「臨機応変」といわれて困った自分の気持ちを忘れず、なるべく「臨機応変」を誰かに押しつけないように気をつけたいと思います。
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